「リナリー」 名前を呼べば彼女は笑顔で振り返る。そしてなぁに、とその小さな淡い唇が紡いだ。今すぐに抱きしめたい衝動に駆られながらもそんな自分を必死で抑えこみ、同じように笑顔を見せる。するとリナリーも嬉しそうに笑うのだ。自分の笑顔が彼女の笑顔の一部になっていると思うと胸が弾み、頬が紅潮する。 そんな胸の高鳴りと動揺を悟られないように笑顔を貼りつけたまま、ラビはリナリーの手を引いて自分の隣に並ばせた。そして手に持った本の一ページを開き、リナリーの視線の高さまで持っていく。リナリーはきょとんとした表情で、ラビが指差したところを辿った。 『恋のよろこびは恋することだ。我々は相手に抱かせた恋ごころよりも、いま自分が抱いている恋ごころによって幸せなのだ。』 そこにはそう、記されていた。 「………ラ・ロシュフーコーが書いた詩さ」 まるで英語が読めないかのようにゆっくりそこを辿っていたリナリーは、ラビの言葉に顔を上げた。その黒曜石の瞳はしばらくラビの翠緑の瞳を見つめていたが、ふわ、とまるで小さな花がゆっくりと時間をかけて花びらを広げるようにして、柔らかな笑みを浮かべる。 「……素敵な、詩だね」 貼り付けた笑顔が、べりりと音を立てて剥がれ落ちた。それでもリナリーは笑みを浮かべたまま、楽しげにまたその詩を辿りなおす。隣で恐ろしい敵に出会った兎のように固まっているラビの表情になど気付かぬまま。 そのときから、オレは、その笑顔を手に入れるために必死になっているオレの存在に気付いた。 ぱこっ、という軽快な音と同時に頭に軽い痛みが走った。その痛みのおかげでラビはようやく現実世界に戻ってくる。本から目を外して痛みの元を探すために顔を上げると、そこにはバインダーを持ったリナリーが少し怒ったような表情で立っていた。げ、とラビは内心焦る。怒っている、彼女が、怒っている。 「そんな姿勢で本なんか読まないの。ただでさえラビは隻眼なんだから、片目でも悪くしたら困るでしょ!」 談話室のソファーの上で腹這いになって本を読んでいたラビは、そう言われ慌てて姿勢を正した。リナリーは2つ年下だが幼いうちから大人だらけの教団にいたせいか、その年齢よりも精神はラビよりも大人だ。ラビもラビと同い年の神田も彼女には頭が上がらない。リナリーよりも年下であるアレンなど尚更だ。 ラビは本を膝の上に置いた後、未だ不機嫌そうな表情のリナリーに顔を向ける。 「心配してくれて、ありがとさ」 笑顔でそういうとリナリーのその表情は一瞬で崩れ、優しげな笑みに変わる。年下でも姉のような存在であるリナリー、だけどその中身は16歳の少女なのだ。母のような優しさと、少女らしい無邪気さを持ち合わせた、それはまるで羽化する寸前の蛹のような。 リナリーはラビの隣に腰を下ろし、腕に抱いたバインダーを目の前のテーブルの上に置いた。そして柔らかな笑みを再びラビに向ける。 「……その本には、詩は載っているの?」 そう問われ、ラビもリナリーに笑みを返した。 幼いあの時以来、ラビはあのリナリーの笑みを手中に入れるために詩を探すことを、無意識のうちに行っていた。見つければ真っ先にリナリーの元へ駆け、そしてその笑顔を手に入れる。それが日課とまでは行かなくても、習慣に近くなっていた。成長してもリナリーはラビが探し出してくれる詩が好きだったし、ラビはリナリーのその笑顔が動力源の一つだった。 ラビは本をぱらぱらとめくるが、すぐにパタンと閉じる。 「うーん、残念。これには載ってないんさ」 「そっか……」 本当に残念そうな表情を浮かべたリナリーを見て、ラビはちくりを胸が痛んだ。また部屋に戻って詩漁りをしようとこっそり心の中で決意する。 そんなラビの心境は知らずに、リナリーはぱっと切り替えて笑顔を浮かべた。 「ラビ、今日は何の日か覚えてるよね?」 「え、えー……? ………リナリーのさっきの一撃のせいで忘れたさ」 「ばかっ」 適当に誤魔化そうとしたら今度はその小さな手のひらで頭を軽くたたかれた。痛みは無くくすぐったい程度だが、敢えて痛がってみる。嗚呼、また機嫌を損ねてしまったかもしれない。そう思いながら隣を窺えば、予想に反してリナリーは未だ笑顔を浮かべていた。リナリーはそっとラビの頬に手を添え、こつん、と額に自らの額を重ねた。閉じた瞼、長い睫、艶やかな黒髪、透き通るように白い肌。遠いと思っていたそれが今では少し動けば触れ合ってしまいそうなほど近くにあって、心拍数が上がり肌が火照る。彼女が触れている頬の熱が伝わってしまわないかという焦燥感に襲われる。そしてその薄桃色の唇が、言葉を紡ぎ始めた。 「生まれてきてくれて、ありがとう」 「………ぇ………」 「今日は8月10日。ラビの誕生日でしょ?」 「…ぁ、」 そうか、とラビがそのことに気付くとリナリーはようやく額を離す。 「ほんとに忘れてたの?」 「すっかり……ブックマン失格さね、オレ」 「本当よ。私だけが嬉しくて、なんだか馬鹿みたいじゃない」 「…………嬉しい?」 信じられない言葉が聞こえて、ラビはその言葉を繰り返した。リナリーはきょとんとした表情で、当たり前でしょ、と口を開く。 「私だけじゃないよ、みんな思ってる。ラビが生まれてきてくれて、存在してくれて、この教団にいてくれて………って。私だってラビと出会えて嬉しいもの」 リナリーにとっては何気ない一言だったのだろう。それでもラビの中にはゆっくりゆっくりと流れる水のように全身を広がっていって、言葉にすることの出来ない想いで満たされる。幸福とも歓喜とも表せない、敢えて言うなら、切なさを伴う安堵感。 「………リナリー、また、詩を教えてあげる」 「え、でもそれには載ってないって…」 「オレが記録してる詩さ」 そういうとラビは軽く息を吸い、優しい言葉を紡ぎだす。 『目の前に彼女がいる、彼女が言葉を紡ぐ、笑みを見せてくれる、其処は幸せの空間。 目の前に彼女がいる、彼女が、私がこの世にいることを喜んでくれる、其処は幸せの空間。』 リナリーはしばらくきょとんとしていたが、幼い頃と全く同じ、花が咲き誇る瞬間のような笑顔を浮かべる。 「……素敵な詩ね。誰が書いたの?」 「…それはな、」 “ L ” の 詠 い 人 (「Lで始まる女性を愛した、Lで始まる男の詩さ」)
(07.08.25) |