「あっ………止まってラビ!」
「ぇぁ、う!?」

いきなり必死な声でそう言われ、リナリーより一歩前を歩いていたラビは間の抜けた声で返事ともつかない返事をして急停止した。
ラビとリナリーは任務中だった。ようやく5日かかった任務も終え(結局イノセンスは発見できなかったのだが)汽車に乗って教団へ帰ろうとしていた。そして小さな駅の改札をくぐり、誰もいないホームに下りて汽車を待とう―――としたときの出来事。足を動かすことができないためぎこちない仕草で後ろを振り返ると、しっかりリナリーは後ろからラビの腕まで掴んでいて、視線はラビの足元に注がれていた。その視線を辿ると、そこにいたのは弱弱しい雛鳥。生きているのか死んでいるのかもわからないくらいぐったりとしている。上を見上げれば、駅のとても高い天井に小さな巣が作られていた。そこから落ちたのだろう。
ラビは間違っても雛鳥に傷をつけたりしないよう足をずらし、座り込んで雛鳥を観察した。リナリーも同じように座り込み、心配そうな表情でラビと雛鳥を交互に見つめる。ラビが槌でそうっと触れると、怯えるように、そして警戒するように雛鳥はパタパタと羽を動かした。だがまだ小さい羽で飛べるはずはなく、逆にその姿はひどく痛々しいものに見える。それでも、きちんと生きている。

「巣の形が歪だったか……それか生存競争に負けたのかもな」
「……せいぞん、きょうそう………」

まるでその単語を知らないみたいに、リナリーはラビの言葉を繰り返した。その瞳はぐったりとしている雛鳥に釘付けになっている。

「可哀想………」
「あ、リナリー、触っちゃ駄目さ」

そっと雛鳥に向かって差し出されたリナリーの手を、ラビはパシッと軽く掴んで止めた。リナリーは驚いたように目を見開いてラビを見つめる。ラビはそんなリナリーに気付くと、にこ、と笑顔を浮かべてそっと手を離した。それ以上リナリーの手は雛鳥に伸ばされることはなく、その手はだらりと地面に触れる。

「人間の匂いがつくと巣に戻れてもまた落とされる。でも、もし生存競争に負けたんだったらそんなの関係なくすぐに落とされちゃうだろうけど……」
「親鳥は心配しないの?」
「心配する余裕もないさ、生き残ってる雛を育てるのに精一杯だろうし。オレもそんなに詳しくないけど、落とされた雛は親にも忘れられて死んでいくんじゃねェかな」
「そ、そんなの、」

ラビが淡々とした口調でそう言えば、リナリーは口を押さえてラビの肩に軽く顔を埋めた。そっと背中に手を回せば、その背中は少しだけカタカタと震えている。聞こえてきた声も何かを堪えるようなもので、涙を堪えるための行動だろうとラビはとっさに悟った。


「哀しすぎる、よ……」


兄弟に落とされ、親にも忘れられ、誰の記憶にも残らないまま無残に死んでいくなんて。この世から消えても悲しむ者なんていないまま。その死が、その生が、その存在がこの世界にあったことすら、誰も知らぬまま。この美しい世界から消えていくなんて。

残酷な自然の摂理にひどい絶望を感じながら、リナリーはラビに縋りついて涙を堪える。不器用な手でその華奢な背中を抱きしめ、ラビは再び雛鳥に目を向けた。相変わらずぐったりとしている。だが微かに胸が上下しているのが、見える。ラビはリナリーの顔を上げさせ、安心させるように笑顔を浮かべた。リナリーの目尻にはうっすらと涙が浮かんでいる。
ラビが立ち上がるとリナリーもつられるように立ち上がった。ラビはくるくると指先で器用に槌を回すと、イノセンスを発動させる二文字の言葉を呟いた。

「伸」

すると柄の部分がぐいっと伸び、高い天井に触れるほど長くなる。ちょうど雛鳥が落ちたと思われる巣から1メートルほど離れたあたりに。リナリーは目を見開いてきょとんとして、ラビの方を何も言わずに見つめた。ラビは雛鳥を指差して、また、笑う。

「巣が歪だったりで落ちたんなら、戻しても落とされることは無いさ。チャンスは1回で時間は3秒まで。それ以上触ってたら人間の匂いがついちまう。可能性の程はわかんねェけど、やってみようぜ、リナリー。オレの槌とリナリーのダークブーツだからできることさ!」

その言葉を聞いたリナリーは笑顔を取り戻し、明るく頷いた。
リナリーは一度深呼吸をし、イノセンスを発動させる。目を閉じて、巣までの高さと距離、踏み台となる槌の柄の場所、踏み切り場所を頭の中で計算。そしてその漆黒の瞳が開かれると、リナリーは一瞬で雛鳥を手に乗せて地を蹴った。そしてすぐに槌の柄の中心辺りに足をかけ、すぐに方向転換する。一瞬後に再び柄を蹴ったリナリーはその巣に向かって、その靴に宿るイノセンスの特徴そのままに胡蝶のように天空を舞った。そしてその巣の中に、雛鳥をそっと傷つけないように戻す。

第二の任務、コンプリートだ。

華麗に着地したリナリーは、とても清清しい笑みを浮かべていた。そしてリナリーはイノセンスを元のサイズに戻したラビの下へと駆け寄る。

「ラビ、本当にありがとう」
「これくらいどうってことないさ。それに最終的にやったのはリナリーだし」
「でもラビが言ってくれなかったら、私いつまでもうじうじしてたと思うから」

ね、と笑いかけられて、ラビも笑顔を返した。リナリーは巣を見上げ、さっきよりも少しだけ、だが確かに大きくなった鳥の鳴き声を聞きながら目を細める。

「あの子が、あの子の兄弟が、無事巣立ちを迎えられるといいね……」
「………ああ」
「だって哀しすぎるもの。誰の記憶にも残らないまま死んでいくなんて」


ラビは黙ってリナリーの言葉を心の中で繰り返していた。


哀しすぎる。
誰の記憶にも残らないまま死んでいくなんて。

誰もその存在を知らないまま、その存在が消滅することを悲しむ者がいないまま、死んでいくなんて。



果たしてそれは自分にとってありえないことだろうか。



それは否だろう。
自分はブックマン後継者。様々なログを巡り、様々な名前を持つ。今の49番目の名前である『ラビ』の存在を知る者はたくさんいる。だが50番目の名前の存在を、100番目の名前の存在を、彼らが知ることは無いだろう。教団にいる彼らの記憶にあるのは『ラビ』というエクソシスト。現に48番目の名前である『ディック』であった頃のことは、彼らはまったく知らないのだ。
『ブックマン』という名を受け継いだ時、真に自分は孤独となる。孤独じゃなくなるのはまた新たな後継者ができた時だ。それまでは孤独で、何者にも肩入れすることなく生きていく。ブックマンは戦争の裏歴史を記録する者。今はエクソシストとして戦争に参加しているが、今まではただの傍観者だった。傍観していても戦争に巻き込まれる可能性は十分にある。そしてその時にいたログが無人のログだったら、自分は誰もその存在を知らぬまま、生きていたという証をどこにも残さぬまま消えていくことになるのだ。


「……リナリー」
「なぁに?」
「もし何年も何十年も経ってオレがラビじゃなくなっても、オレはリナリーの記憶の中にいると思う?」


なんとなく聞いてみれば、リナリーはきょとんとしたような表情になる。だがぱっと花開いたような明るい笑顔を見せて、何も迷うそぶりも見せずに言った。


「当たり前でしょ。ラビがラビじゃなくなっても、ラビはラビだもの」
「………えーと、オレがオレじゃなくなってもオレはオレって……ワケわかんなくなってきたさ」
「あはは、とにもかくにもラビがラビなことに変わりはないでしょってこと!」


華のような輝かしい笑顔に救われたような気分になる。何の根拠もないのに、胸に安堵の温かさが広がる。きっと彼女はオレの存在を覚えていてくれるだろうという根拠のない確信。そしてきっとオレも、彼女のことを忘れることはないだろう。オレを救い出してくれた彼女のことを。






僕が巣から落ちても、君は僕の事を忘れないでいてくれますか。この生が、この存在が、この世界にあったことを覚えていてくれますか。名前が変わっても、僕は君の中にいられますか。
50番目の名前になっても、100番目の名前になっても、どうか君の中に僕が、僕の中に君がいますように。





















(07.06.23)