風を切り裂く音が鳴り、その一瞬後にバシッという軽快な音が静まり返った修練場に響き渡る。交わる黒の眼光、音はエコーして徐々に消えてゆく。見守る幾人かの探索部隊も息を殺して物音一つ立てない。殺傷力のない木刀でリナリーの蹴りを止めていた神田は、その鋭い瞳をより一層細め、木刀をリナリーの脚から外し素早く斬りかかった。一太刀一太刀を華麗に舞うように避けながら、一瞬の隙を狙ってリナリーは高く舞い上がる。見上げた神田の頭頂部を狙って、まっすぐにリナリーの足が振り下ろされた。神田はぎりぎりまで引きつけてから右へ飛び退り、着地する時に出来る一瞬の隙にリナリーの肩めがけて太刀を滑らせる。リナリーは一瞬で体勢を整えてそれをいなすが神田は欠片も動揺など見せず、すぐに太刀の軌道を変えた。それと同時にリナリーも脚を振り上げる。黒と茶の軌道が一瞬だけ交わり、再び、風を切り裂く音。
軽くあがった土煙の中、神田の木刀はリナリーの首を、リナリーの脚は神田の首を捉えていた。不安定な体勢のなか、それでも彼らはその漆黒の瞳で相手を睨めつけたまま動かない。普段から不機嫌な表情を浮かべている神田はもとより、いつもニコニコと柔らかに笑うリナリーの表情からは普段の笑みなど欠片も見えず、鋭く光らせた瞳を真っ直ぐ神田のその瞳に向けている。ふたつの瞳に、ふたつの瞳がうつる。沈黙、緊迫、音のない世界、少し前まで科学班に居たリナリーから微かに感じられる、香ばしい珈琲の匂い。誰も動かないし誰も喋らない、まるで本当に時間が止まってしまったかのような。
どのくらいそうしていたのか、ふと廊下のほうで何かが落ちるような音がした。何か本のようなものが落ちる重々しい音だったが、その音で緊張を解いたふたりは大きく息を吐いてから脚と太刀を下ろした。先ほどまでの凛々しい表情とは打って変わり、リナリーはぱぁと笑顔を咲かせる。鍛練付き合ってくれてありがとう、と差し出した手を、神田は躊躇いもせず握った。ぎゅ、と強くふたりで感謝と労いの意を込めて握手すると、見ていた探索部隊の中から拍手が起こる。手を離した神田はそのまま木刀を肩に担ぎ、リナリーは探索部隊達に場所を空けてくれたことの礼を言って笑顔を見せた。すると神田の大きな手が、リナリーの頭に置かれる。
「お前も少しは強くなったな、びーびー泣いてばかりいたお前とは大違いだ。あの踵落としはさすがにやられるかと思った」
「か、神田が避けなかったら身体捻って避けるもん。神田だってすごくスピード上がったよね、かわすの大変だった」
「胡蝶とか言われてるテメェに言われてもな」
そういってリナリーから視線を外した神田の横顔に、素直じゃないんだから、と聞こえないような息交じりの声で言ってリナリーは苦笑した。そして額に浮かんだ汗を拭いて、少しだけ乱れた髪を直しながら今日の予定を頭の中で展開する。鍛練の次は、確か、
「おい、お前はこれからどうするんだ」
検索が終了した瞬間神田にそう話しかけられて、リナリーは少しだけ驚いて目を見開いた。いつも神田はこのままさっさと自室へ戻るか、外へ鍛練し直しにいくのに。
「研究室の兄さんの机掃除よ。兄さん、今日のこの時間は仮眠とると思うから、その隙に」
「そうか」
それだけ言うと神田はリナリーの腕を掴み、修練場の扉へすたすたと歩き出した。いきなりのことに対応しきれずリナリーは一瞬バランスを崩したが、すぐに体勢を整えて神田に引かれながら後姿を追いかける。リナリーの目の前で揺れる黒い髪。短くなってしまった自分の髪を考えて、思わず羨望の念に駆られてしまう。それでもきっと髪はすぐに伸びるし、髪が弄れないのは残念だけどその間だけは神田に髪を弄らせてもらおう。そんなことを悠長に考えていたが、ハッと一番大事なことに気付いた。
「ちょ、神田、どうしたの何処行くの?」
「決まってんじゃねえか、研究室行くんだろ」
神田が研究室に行く理由は、どこにもないのに。
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「ラビ、鬱陶しいです」
球速150キロを余裕で超えそうなほどの台詞を、アレンは容赦なくラビに放った。がたんごとんと揺れる汽車、窓の外に流れる長閑な風景。彼らは少しばかり遅めの昼食をとっていた。今は14時17分、彼らは今任務を終えてホームへ帰る途中。ちなみにアレンの隣には残り5個の、ラビの隣には2個の弁当が重なっている。そして逆隣りにはアレン4個ラビ2個の弁当のゴミ。そして膝に一つずつ、食べかけのそれ。元々大食いな彼らは任務終了直後ということもあり疲弊しているからそんな量になっているわけだが、それでもふたりとも細い。一体何処にそんな量が入るのかという疑問は彼らを知る人全てが持っている。
額に軽く青筋を浮かべたアレンの前に座るラビは、先ほどから貧乏揺すりに近い不審な動きを繰り返していた。その微妙な動きがアレンを苛立たせたらしい。ラビは弁当から顔を上げる。
「何がさ?」
「その貧乏揺すりみたいなの。僕の前で変な風に動かないでください鬱陶しい」
「あ、そんなのしてた? ごめんさ、無意識」
そういって謝るラビは、心なしかにこにこしている。なんだか回りに花が飛んでいるような気がしないでもない。何か嬉しいことでもあったのだろうか、任務開始からずっと隣にいたのに心当たりは何もない。綺麗なお姉さんに会ったわけでもないし。そういえばラビの箸の進みも悪い、いつもなら弁当5個くらいすぐに平らげてしまうのに。でもちゃんと箸は動いているから食欲がないというわけではないのだろう。何か嬉しいことがあって、それで頭の中がいっぱいというわけか。
「何かあったんですか、むかつくくらい幸せそうです」
「オレが幸せだとむかつくんか。えー、まぁちょっとなー、いろいろー。出る前にちょっとリナリーと連絡とっててさー」
「……ふーん………へーえ…………ほーう……………」
「アレンさん妬きもち? リナリーと喋れたオレが羨ましい? それともオレがリナリーと話してたことが悔しい?」
「死んでください。とりあえず後者はありえないとだけ言っておきます」
ぴしゃりとラビの言葉を跳ね除けたアレンに、ラビはつれないさーと言って笑った。アレンはいつもラビに対してこんな調子で、ラビも同様だ。それでもアレンはラビを兄貴分として慕っているし、ラビもそれをわかっている。
アレンはパスタを流し込み、6つ目の弁当の封を開いた。ちなみに中身は10個全て別。アレンはいただきますと礼をしてからまたすごい勢いで食べ始めた。そんなアレンを見ながら、ラビが口を開く。
「ユウが昨日、任務から帰ってきたんだって」
ぴたり、とアレンの動きが止まった。ラビは相変わらずにこにこと笑っている。
「つまりは、久々に揃うんじゃねーの? って話」
「そうですね……最後に揃ったのっていつでしたっけ?」
「随分前だな、方舟から帰ってきて通常任務が始まってからは一度もないさ」
「本当に久々ですね」
思わず頬が緩むのを自分で感じた。どんなにこの日を待ち侘びたことだろう、難しいとわかっていても毎日今日こそは今日こそはと祈って、叶わなかった願い。それが今日、叶うかもしれないのだ。躍り高鳴る鼓動と窓の外の穏やかな風景があまりにもマッチしない。
「アレン嬉しそー、やっぱユウが帰ってきて嬉しいんだろ?」
「……やっぱり死んでください」
「酷ー。そしてアレン隙あり!」
「あっ僕の苺っ!! 見ててくださいよラビ……!?」
そして任務帰りは、ラビがアレンの食べ物の恨みは恐ろしいと今更ながらに再確認する汽車旅となった。
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とんとん、と床や机に散らばった資料を整える音が、ばたばたと慌しい研究室の喧騒にすらりと溶け込んでゆく。リナリーも神田も何も話さない。だがとくに沈黙が気まずいことはないから話題がなければそのままだ。疲れたときに、とリナリーが淹れてきたふたつのコーヒーはどちらも手付かずのまま。
「でも珍しいね、どうして手伝ってくれる気になんかなったの?」
手を止めないままリナリーが神田に顔を向ければ、神田もちらりとリナリーの方を見る。だがすぐにその視線は手元に移され、さぁな、と曖昧な答えが返ってきた。リナリーは不機嫌そうにぷくりと頬を膨らませたが深くは追求せず、また手元に目線を落す。だがすぐにそういえば、とふと思い出して、今度は神田のほうを見ず資料を整理しながらまた口を開いた。
「そうそう、今日あたりラビとアレンくんが帰ってくるみたいなの」
ぴくり、と神田が僅かに身動きしたのを視界の隅のほうで感じ取り、リナリーは思わず満足げな笑みを浮かべた。知らないはずはない、というよりも知らなくともきっと彼は感じ取っていたのだ。だってあの彼が、こうして掃除を手伝ってくれている。連絡の電話は研究室のコムイにかかってくるはずだから、連絡が来るそのときを狙っているのだろう。そうじゃなければ面倒くさがりの彼がこんなことしたりしない、もしくはリナリーとラビが電話しているのをうっかり聞いてしまったか。どちらにしろラビとアレンが帰ってくることが楽しみなのだ、普段愛情をぶつけることなんて絶対にしない彼だが10年を超える付き合いのリナリーにはわかる。
「……またうるさくなるのか……」
「いいじゃない、賑やかで。それに揃うの、久々でしょ?」
「知るか」
「素直じゃないんだから」
ぽつりと呟けば神田の耳にはしっかり入っていたらしく(神田に聞こえるように言ったのだから当然なのだが)神田は顔を真っ赤にして反論の言葉を並べる。どうせ本心じゃないその言葉を軽く聞き流しながら整理をしていたら、突然コムイの机にある電話が鳴り響いた。すぐ近くにいたリナリーは思わずびくりと肩を震わせたが、すぐに落ち着いて受話器に手を伸ばす。さっきまで騒いでいた神田も無言で、騒がしい研究室の中でもよく聞こえる音を立てる電話を見つめていた。もしかしたら、もしかしたら。
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「もしもし?」
「あれ、その声はコムイじゃなくてリナリーさ?」
「ラビ! 今何処にいるの?」
「ん、実はもう地下水路の入り口」
「じゃあもうすぐで着くのね。アレンくんは? 迷子になってたりしないよね?」
「大丈夫大丈夫、ちゃんと隣にいるさ。ユウまた任務にいってたりしないよな?」
「うん、隣で資料の整理してくれてる」「ちょっお前余計なことを……!」
「あはは、今微かにユウの声聞こえたさー。じゃぁ続きは帰ったあとにでも」
「そうね、久々に揃うんだもの! はしゃいで船から落ちたりしないで?」
「アレンに伝えとくさぁー。んじゃ、ホームで」
「うん、またね」
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「電話に出たの、リナリーだったんですか?」
電話を使わせてくれた探索部隊に礼を言いながら電話を返せば、アレンは少し不機嫌そうな表情でそうラビに尋ねた。ラビが優越感に浸った表情でそれを肯定すれば、少しでも代わってくれれば良かったのにと口を尖らせる。
「まあまあ、すぐ会えるんだしさ」
「……それもそうですね」
それでもやや不機嫌そうに、アレンは頷いた。そんな弟分に思わず苦笑しながら、ラビは自分達の帰還を楽しみに待ってくれているであろう神田とリナリーのことを思った。というよりは寧ろ、思わずにはいられなかったのだ。やっと、会える。2人とか3人だって一緒にいることができれば楽しい。話題は尽きないしそれに沈黙だって心地良い。それでも、それでも。
ふと隣を窺えばアレンも穏やかな笑顔を浮かべていて、自分と同じことを考えているんだとすぐにわかる。ラビも思わず笑みを漏らしたが、すぐにはっと気付いた。そういえば彼とはずっと任務とオフのタイミングが合わなかったし、少しの間だけ合っても同志がいなかったからさすがに踏み込めなくてあれをしていなかった。でも今は、隣にいる白い少年がいるではないか。
「アレン」
「え?」
「久々だしさー、いつものやろうさ、いつもの」
最初はきょとんとしていたが、途中で気付いたのかアレンも先ほどの穏やかな笑みとは少し違う可笑しそうな笑みを浮かべる。
「賛成です! それじゃ早速計画立てましょ計画。まず本当に最初の最初、不意を打てるのが良いです」
「……言いだしっぺオレだけどなんかオレより輝いてんなーアレン……」
まぁ腹黒いと評判の彼がここまでやる気だと、本当に面白いものが見られるかもしれないけれど。ラビはまた苦笑して、アレンと共に作戦会議に入った。
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「アレンくーん! ラビー!」
心底嬉しげなリナリーの声が、地下水路に木霊する。隣にいる神田は興味なさそうに顔を伏せているが、その目はうっすらと開いて遠くを見ていた。それがリナリーにばれてないとでも思っているのだろうか、それでもリナリーは気付かない振りをしてラビとアレンを乗せた小船に思い切り手を振る。ラビとアレンもリナリーの名前を遠くから何度も呼ぶが、その中にはひとつだけ「ば神田ー」という名前が織り交ざっていた。神田はそれに素早く反応して、鋭い瞳をますます吊り上げ怒鳴った。アレンとラビは怖がる様子もなく、ただ船の中から笑うだけ。舟を漕ぐ探索部隊も笑いながら、船を岸へ近づけていく。もうすぐで、触れ合える距離に、なる。リナリーが指を組みあわせてその様子を見ていたら、本当にすぐ岸というところでアレンが一声叫ぶ。
「リナリーちょっと右へ退いてくださいっ!」
「え、ええ?」
「せーの!」
リナリーが反射的に右へ飛び退り、アレンとラビが地下水路の水に手を浸すのはほぼ同時だった。そしてアレンとラビはそのまま手を振り上げ、神田に向かって大きく水を掛ける。避けられなかった神田はまともに水を被り、一気にびしょ濡れ姿となる。
岸に降りたアレンとラビは短時間で立てたあまりにも単純な作戦が成功したことに歓び、腹を抱えて笑い出す。リナリーも必死で笑いを堪え、被害を被った神田は額にひくひくと青筋を見せてゆっくりと六幻を抜く。
「テメェら、覚悟は出来てるんだろうな……」
「やー何のことでしょうか神田さん」
「水も滴る良い男さ、ユウー。ますます綺麗になってオレ惚れるかも」
「無に還れッッッ!!」
アレンとラビは笑いながら地下水路の階段を上って教団の中へ逃げて行き、神田は水に濡れたまま六幻片手にアレンとラビを追いかける。リナリーはアレンとラビについていた探索部隊の人にふたりに代わってお礼を言ってから階段を上り始めた。そして追いかけっこをはじめたアレンとラビの背中に向かって叫ぶ。
「アレンくん、ラビ、おかえりなさい!」
届くかはわからなかったが、それでもどこか嬉しそうな声で微かに「ただいまー!」と返ってきた。当たり前の出来事に嬉しくなりながらも、リナリーは苦笑する。どたんばたんと派手な音が耳に届いてくる、うーんしょうがないこれは私の出番かな。
ターゲット、バカ3人組。任務、捉えて満面の笑顔で説教してあげよう。泣き顔の方が良いかはその時の気分で決めようか。ふぅと息をついてから、リナリーは駆け出した。
やっと4人が揃ったよ、これから誰かに任務が与えられるまでの短い期間、何をして過ごそうか。
教団全部使っての鬼ごっこやかくれんぼ、トランプとか内緒話も楽しそう。
でもこの4人が揃っていれば、それだけで。
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(08.01.23)
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