ずるずる、と神田はいつものメニューである蕎麦を啜った。食堂の一番奥の一番端の一番目立たないところに座って。いつもはここまで移動するのも面倒なため適当に座るのだが、今日は敢えて隅を選んだ。その理由は単純、今日は6月6日。神田自身の誕生日だからだ。 数少ないエクソシストのプロフィールは殆んどの団員に知られている。とはいえ冷酷な神田は探索部隊にも怖がられているため誕生日に祝いの言葉をかけようとする者はまずいない。だがそれでも何人かの変わり者はそんな神田自身を怖がることもなく、純粋な態度で神田と接してくるのだ。いつも喧嘩腰で話しかけてくるアレン、唯一下の名前で呼ぶラビ、科学班の面々、そして一番付き合いが長いリナリー。アレンはともかくとして、他のメンバーは祝いの言葉でもかけようと神田を探しているだろう。神田はそういう馴れ合いがどうも苦手だった。祝いの言葉が嬉しくないわけではないのだが、そのお礼の言葉を言うのがどうしても駄目だったのだ。冷酷とは言えど、感情が無いわけではない。お礼の言葉を言うなんて絶対できないことの一つだが、やっぱり言わないでいると何か罪悪感に似たものが胸の中にわだかまりとして残るわけで、嬉しいはずなのになんとなく嫌な気分が残る。それが嫌だったのだ。 だが現実とは無慈悲なもの。神田の目の前に、影が落ちた。 「かーんーだ」 名前を呼ばれて反射的に顔を上げてしまい、神田は後悔した。これこそ危惧していた出来事。目の前に立っていたのは神田と似た漆黒の髪を高い位置でツインテールに結い上げ、にこにこと眩しいほどの笑顔を浮かべているリナリー。神田はリナリーにも聞こえるように舌打ちをした。だがリナリーはそれにも動じず、神田の隣の席につく。 「おはようっ」 「……なんだよ、こんな端まで」 「だって神田を探していたんだもの。忘れてるわけじゃないでしょ? 誕生日」 そして笑顔を浮かべたまま、腕出して、と唐突に言われ神田は一瞬たじろぐが、そろそろと袖をまくりリナリーの方へ突き出した。手首に在る数珠がぶつかりあってカチンと軽快な音を鳴らす。リナリーは背中に回していた手をパッと前に出し、その輪のようなものを華奢な指で広げて神田の手を通した。再びかちん、と数珠が音を立てる。手首を見れば2つの数珠が大人しくそこに在った。もともとつけていた黒の数珠とリナリーからもらった乳白色の数珠が優しいコントラストを成している。透明に近い乳白色のそれは、中に微かな蒼色を宿していた。透明に近い分リナリーから貰ったそれは窓から差し込む朝陽の光を通し、鮮やかな虹の七色を神田の白い手首に映し出す。神田は思わずリナリーの顔を見た。 「ね、お誕生日おめでとう、神田」 笑顔でそういわれてもやはり返事を返すことなど出来なくて、神田の口は一瞬開くが閉じてしまう。だが神田の性格を教団の誰よりも知っているリナリーは何も言わず、先ほど自分が神田にプレゼントした乳白色の数珠を人差し指でつついた。 「これね、ムーンストーンって言うの。日本語でいうと月長石。それでね、ムーンストーンには伝達作用があるんだって。いわゆる“虫の知らせ”ってやつで、大切な人の異変に気付かせてくれるの」 「……………」 思わず視線を手首に走らせる。するとリナリーは楽しそうな笑い声を上げた。 「あはは、やっぱり気になる? やっぱり仲間の異変に気付かせてくれるってのは気になる?」 「ばっ……んなわけねぇだろっ!」 「素直じゃないの」 顔を真っ赤にして神田が否定しても、リナリーはただ笑みを浮かべてそれだけを言った。 嗚呼やはり自分はこの少女には敵わないのだと、いつも思う。2つも年下なのに何故かいつもからかわれてばかりいて、入団の時から上手に回ったことなんて無かったように思う。自尊心が高い神田はそれがどうしても悔しかったのだが、それでもこの少女は穏やかに笑うのだ。その笑顔は平和な光を帯びていて、ここが戦場であることを忘れそうになる、躍起になってる自分が馬鹿みたいに思える。それと同時に、その笑顔を見ると暖かい何かで包まれるような感覚に駆られるのだ。全てのわだかまりを溶かすような、まるで優しい手に全身を包まれているような。 そのとき隣に座るリナリーが、テーブルに肘をついて両手を絡み合わせ、その上にあごを乗せた。表情を窺えば漆黒の瞳は優しさに満ちていて、恍惚に酔ったような表情だ。その瞳は神田の手首に在る数珠を見つめている。 「もうひとつ、ムーンストーンには素敵なおまじないがあるの」 「まじない…?」 「そ。恋する相手の気持ちがわからない時にムーンストーンを浸した水を口に含んで、好きな人に愛されてるかどうか質問をするの。そしてYesだったら記憶が残るけど、Noだったら恋心も占った記憶さえも全て消えてしまうんだって。だから傷つかない恋占いが出来るの」 傷つかない恋占い。 神田はそういう迷信的なものは全く信じない。このまじないも嘘で、やったとしても何の効果もなく記憶が残っていて喜ぶ滑稽な者達の姿が目に浮かぶようだ。 そうか、と口の中だけで呟く。するとリナリーがまた口を開いた。 「私はそういうの信じてないけど、でももし本当でもやらないと思うの」 「………何故だ?」 「だって私はその人を愛せたこと自体を誇りに思ってるんだもの。その人が私を好きでなかったとしても、ただ私がその人を愛せたってだけで嬉しいの。あの人は私にたくさんの素敵な嬉しい思い出をくれたの、私があの人を愛してなかったらこんなにたくさんの思い出はなかったもの。そんな記憶が消えるのは逆に辛いじゃない」 リナリーはそういうと再び神田に向かって笑いかけた。神田は双眸を見開いてリナリーを見ていたが、頬を朱に染めてぼそりと呟く。 「………その気持ちは、わかる」 ぱちぱちと、リナリーは驚いたように瞬きをした。そしてぱっと花開いたような笑顔を浮かべ、そっと神田に肩を寄せる。神田もその肩を受け入れ、自信もリナリーの肩にほんの少しだけ体重をかけた。 「…私の好きなその人はね、すごく綺麗な漆黒の髪を持ってるの」 「…俺もだ」 「瞳も同じ、澄み渡る夜空の色」 「ああ、」 「その鋭い眼光が示すように、冷たい人で」 「………」 「でもすごく優しくて、私にたくさんの思い出をくれた」 「……俺が、すきな奴もだ」 「私、その人を好きになれて本当に幸せだと思ってる」 「…………ああ、」 人目にふれない場所、秘密の会話。聞いているのは神田の左手首に在る、黒の数珠と乳白色の数珠だけ。 淡く優しい蒼を宿す、 (会話のほんとの意味は、本人達にもわからない) (もしかしたら知らないふりをしているだけかもしれないけれど)
(07.08.08) |