『この蝶は花よりも』


指先に息をふきかけ、かたい面にそうっと這わせる。
少しずつ温まり、ちゅ、と指が紅に沈む。
薬指は紅差し指。
あの人が買ってくれた鏡を前に淡く紅をひく
。 化粧は身だしなみのひとつ程度にしか思わなかった自分が
いまは別の目的でおのれを彩る。
仕えるべき主君を遠く離れ、信仰も棄てた。
それでいてこの満たされた気持ちはどういうことか。
野営する今晩は、鎧具足をはずして髪だけ梳き、
化粧を直してあの人の天幕へと。


「疲れたから甘いものが欲しい」
はじめは単なる言葉どおりの意味だった。
遠出するときの知恵として持ち歩く氷砂糖をみんなで頬張った。
だれかがハチミツを煮詰めたものを手に入れるときもあった。
彼女と同じ味がした。
紅の保湿剤でハチミツが入っていることを後から彼女に教わった。
はじめのうちは無我夢中でそんなことにも気づかなかったけれど、
いまや勿体無くて全部味わうことにしている。
「今晩は、お疲れの隊長どの。甘いものをお持ちしましたよ」
まじめな彼女が歌うようにからかうように自分の胸を震わせる。
いつ奇襲があるとも知れない夜は魔導士のローブを纏い、
靴と鎧だけは外し、剣を手にして眠る。
迎え入れた彼女も同様にローブとサンダルだけは身に着けている。
抱きすくめると感じるコルセットのない柔らかな肢体、シャンタージュの残り香。
否、彼女自身の肌から立ち上る薫香とシャンタージュの残り香が絡み合う、
世にふたつとないかぐわしい空気が天幕を満たす。
ハチミツの味。
肌を合わせられない夜、これはこれでいいものだ、とひとりごちる。


安全が確保できるような宿に泊まれる日ならいつも、
化粧は落とすかわりにシャンタージュを付け直す。
いつもあの人が満たされる前に自分が溶けきってしまう。
少しでも長くあの人と触れ合っていたいのに。
せめてもの間に合わせで少しでも昼の疲れを消しておきたいから。
「新年には皆で紅を贈り合ったの」
すっかり紅を吸い取られてしまったのち、
あの方と共にあった日々のことを請われて語りだす。
「お互いに一番似合う色を探して、私からラヴィアンに、
 ラヴィアンはアリシアに、アリシアがあなたの妹に」
信仰を棄てた私にはもう戻らない日々、
だけどこれで構わない、私はこれでいい。
昼はあの人の抱く理想が、
夜はこうしてあの人の体温がそう教えてくれる。
「オヴェリア様から貴女にって順繰りに?」
何だか拗ねたような声。少し妬いてくれているの?


腕の中で彼女がまどろんでいる。
紅を落としてもなおくちびるは紅く、甘い。
使い古した天幕にいい香りが漂う。
一番似合う色の口紅なんて、贈られる側が協力してくれない限りわからない。
口紅がどれもこれも赤とピンクとオレンジにしか見えない男の目より、
好いた女がつけたものを落とすときの感覚のほうがよっぽど正直だ。
彼女のくちびるの左端に残っていた紅が勿体無くてまた吸い取る。
彼女がうっすら目を開く。
「ごめん、起こしちゃったね」 構わない、と彼女が微笑んでくれる。
剣を握っているのに存外に華奢な両手で頬に触れてくる。
名門貴族の部屋住み三男坊の地位など今腕の中にいる艶やかな蝶に比べれば。
薬指は紅差し指。
ここに通す指輪をいずれ彼女に贈ろう。