「父さん、変な所ない?」

父親である幸隆は問いかけの声に顔を上げた。鏡を見詰めながら前髪を直す息子が視界に入って、自然と幸隆は口角を上げた。いつもならば、出かける前に長時間もそこにいないタカ丸が今日は珍しくそこにいる。

その理由を幸隆は察していた。
。今のタカ丸の思考を占めている人物は彼女しかいない。
出会ってから半年も経っていないにも拘らず、息子は彼女に夢中なようだ。日本に戻ってきて即効で色目を使う女性たちに言い寄られた後に彼女と出会ったのだから、それも頷けなくもない。
それが一時的な恋で終わるのか、本気の恋になるのか。それは幸隆には分からないが、実の息子の幸せを密かに祈ることくらいは出来よう。

話が逸れるところだった。息子はまだ鏡の前にいる。
運動に適したジャージ姿の時点で髪など気にしても意味などないとは思ったが、それは言わないでおこう。

「時間は大丈夫なのか?」

代わりに壁に掛かっている時計に視線を向けながら、言葉を発した。その声に反応して漸くタカ丸の視線が鏡から外れた。

「うわっ! やばい、時間過ぎてる!」

慌てて傍に置いていた鞄を手にして「怒られる〜!!」と叫びながら外へ駆けていった。
いつもより煩くガランガランと鳴るドアベルを耳にしながら幸隆は、今日はタカ丸の好きなものでも作ろうかなどと考えていた。



君と僕との感情差




「遅い」
「ううっ、ごめん」

案の定、彼女は不機嫌そうに腕を組んで僕を出迎えた。待ち合わせの時間から既に30分は経過していた。幾分か涼しくはなったとはいえ、30分も炎天下で待たせていたのだから怒られるのも当然だ。

(いつもだったらこんな風に遅刻なんてしないのに……)

一重に相手が彼女だからだろうか。いつもよりも良く見られたいという欲が出てしまったのが仇になってしまった。これじゃあ好感度もだだ下がりだ。
はぁと彼女が大きくため息を吐いた。それに内心でビクリとしてしまう。

「……はい」

彼女が片手を出してきた。その手には缶が握られていた。

「え?」
「お茶」

一言そう告げて、無理やり僕の手にそれを握らせた。突然の行動に僕はきょとんとした表情で彼女を見た。すると彼女は、微苦笑を浮かべた。

「走ってきたんでしょう? 汗だくだよ。だから、これあげる」

そう告げた彼女に対して、僕の表情が緩んだ。普段は冷たいけれども本質は凄く優しいのが彼女なのだ。しかも、無意識にやってるっぽいところがまた僕の心を擽る。

僕はプルタブを起こして缶に口をつけた。冷たい液体が僕の喉を通っていった。

「ありがとう」

僕がそう告げると、彼女は笑みを浮かべて片手を差し出してきた。
その意味が分からず軽く首を傾げる。

「半分頂戴?」
「……え!?」

その言葉に僕は目を瞠った。

「でも、僕にくれるって言ったよね?」
「もともと、私が飲むために買ってきたものだし、少しくらい貰ってもいいよね?」

正論だ。確かに正論だが、渡すわけには行かない。だって、これは先ほど僕が口をつけたものだ。それを彼女が飲むということはつまり、間接キスをするということだ。いや、嬉しくないわけじゃないし、過去に何度も彼女と間接キスは経験済みである。今更恥ずかしがることでもない。分かっているけど、彼女への恋心を意識してからは、そういう行為に躊躇いが生じるようになってしまったのだ。戸惑いが僕の思考を占めた。
それに、彼女は僕のことを意識していないから平気でそういうことが言えるのだと思うと、凄く悔しかった。

悶々と悩んだ末に僕は、その缶を頭上に高く掲げた。僕の行動に彼女が怪訝そうな表情を浮かべた。

「す、凄く、喉が渇いてるから」

なんとも無理やりな言い訳だと思った。へらりと笑みを浮かべたけれども、情けない笑みになっているかもしれない。
すると、彼女の口許が弧を描いた。

「なんちゃってー」
「え?」

陽気な声に僕はきょとんとした表情を返した。すると、彼女は鞄に手を突っ込み手を抜いた。

「じゃじゃーん、実は、ちゃんともう一本買ってあるんだなー」

彼女の手に握られていたのは僕の手に握られている缶と同じものだった。

「……からかった?」

プルタブを起こした彼女がニヒルな笑み浮かべた。その言葉に僕はムッと眉間に皺を寄せた。アレだけどうしようかと悩んでいた様子を傍で見られたのだから面白くはない。
けれども、今僕が不機嫌になっては、今日の予定も水の泡になってしまう。だから、僕は笑みを浮かべた。

「タカ丸?」
「うん、何?」
「大丈夫? もしかして、暑さにやられた?」
「ううん、そんなことないよ!」

心配そうに覗き込んできた彼女に僕は慌てて首を横に振った。
僕の少しの変化に気付いてくれる彼女に現金な僕の心は直ぐに軽くなった。

「じゃあ、これ飲み終わったら練習しよっか」
「うん!」

僕は笑みを浮かべて返事をした。





二人三脚とは、互いの肩を組んで走るものだ。分かっていたつもりだったんだけど、今回は流石に僕の考えが甘かったと知った。

(やわらかいなぁ)

彼女の肩に触れた手から伝わってくる感触を素直に述べた。身長も僕より低いし肩だって細い。密着することで彼女の髪の香りも良くわかった。女の子なんだとしみじみと思う。それと同時に鼓動が落ち着かなくなっていくのが分かる。

「タカ丸聞いてる?」
「うぇ!? う、うん、聞いてる!」

突然覗き込まれて慌てて返答したら変な声が出た。その声に、彼女の眉間に皺が寄ったのもはっきりと見て取れた。

「それじゃあ、最初はどっちの足から出すか言ってみて?」

(うっ、しまった、聞いてなかった)

僕の困った表情に彼女が呆れのため息を漏らした。

「タカ丸」
「は、はい」
「髪が気になるのは分かる。でも、今は髪のことは忘れて練習に集中してね?」
「……え、あ、うん、分かった!」

彼女の発言に一瞬何のことかと思ったが、髪のことが気になっているせいで注意力が散漫しているのだと勘違いしていることに気付いた。だから、咄嗟に話をあわせて頷いた。すると、彼女は微苦笑を浮かべた後、表情を真剣なものに変えた。

「目指せビリから二番目なんだから、頑張ろうよ!」
「あはは、低い目標だね」
「さあ、目標が決まったんだから、練習しよう! 最初は内側の足からだからね!」

そう言って、彼女の視線は前方に向けられた。


(本当は、君の髪だけが気になってたわけじゃないんだよ。僕は、君の全てが気になってるから、だから――僕のことも見て欲しい)

その台詞は喉の奥に飲み込んで、僕は彼女の肩に腕を回した。
110623
ヒロインがツンデレっぽい。