悲運な戦国武将をフォロー

現代の山形県の都市基盤は義光の政策の賜物です

「信長の野望 天翔記」では、その傑出した知略で敵武将の「暗殺」という必殺技(つーか反則)がバシバシ決まった義光先生。成功した後の『暗殺後の茶もまた格別…』という台詞も強烈で、初プレイから15年以上経つ現在も頭から離れません。

野村監督の「ワシは月見草や」のボヤキよろしく、伊達政宗の影に隠れて正当な評価を受けずに、謀略などのダークな一面ばかりが描かれる多い最上義光ですが、ここでは少しばっかりフォローをしたいと思います。

最上家は伊達家と同盟関係にありましたが、これは対等なものではなくほとんど属国化していました。そのため、義光から2代前の最上義定が嗣子がいないまま没したときには、傀儡化を狙った伊達家の介入を招き、出羽は大きく混乱しました。

この混乱の収拾のため一族の中野家からわずか1〜3歳で当主として迎えられたのが、義光の父である中野義守でした。義守は伊達派だった一族の最上義房らを味方につけ伊達稙宗に対抗し、なんとか家督を相続することができたのです。

さて、義守の嫡男である義光の話ですが、まずイメージを悪くしているのが、義守が義光ではなく次男の義時に家督を継がせるため、義光を廃嫡しようとしたところ。義光がクーデーターを起こして、父を追放・義時を自害に追い込んだという話です。

しかし、当時の資料に義時なる人物の記述がないため、現在では義時の存在そのものが疑われています。父子の確執があったのは確かですが、俗説にあるような個人的なものではなく、対伊達の外交政策などに違いによるものだと考えられており、義守隠居後には「父子で対立があったが、現在では和解した」という手紙が残っています。

また、調略を繰り返し領地を拡大させたとされていますが、最上家の国力を考えると大規模な戦を頻繁に行うほどの兵力もありませんので、戦わずに勝つ方法を探るしかなかったのです。調略は「卑怯」とみなされがちですが、農民が兵として駆り出されることもありませんし、戦時・戦後の略奪・放火・人身売買などの狼藉や破壊行為もなく、なによりも無意味な殺戮を避けることができます。

調略によって義光に寝返る敵が多かったということは、彼の寛大な性格が敵方にも広く知られていたと考えることもできます。義光に滅ぼされた寒河江家は、蘆名家を頼って落ちのびていきましたが、義光に降った旧臣らの嘆願を受けて再興を許されています。

内政面にもいても、米の増産、最上川の水運の向上、寺社・仏閣の建立、山形城下の整備、大規模な免税、「地子銭」の廃止、「米券法」制定など、現在の山形の都市基盤としてそのまま残っている数々の政策を打ち出しました。義光は農民に対して寛容であったため、干ばつや飢饉などがあっても一揆もほとんど起きなかったとされています。

また、文化人としても優れており、彼が作った連歌の数は、同時代では細川幽斎(細川藤孝)に次いで248句にのぼっています。後陽成天皇から発句を賜ったという記録もあります。

義光以降はお家騒動などの改易を経て大名として消滅することとなったため、最上家側の資料がほとんどありません。そのため、敵方である伊達氏の記録を引用する機会が多くなったため、義光のダークなイメージが定着していったのではないかと思います。