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本能寺の変から55年過ぎても信長墓所へ参拝した律儀な武将

細川忠興といえば、幼くして信長から素質を見出され、父・幽斎とともに各地で戦功をあげた武将です。明智光秀の娘・玉(ガラシャ)を妻としたことでも有名ですね。

しかし、文武両道の父・幽斎に比べると、武功以外の面ではあまり評価されていないようです。その原因の一つとなっているのが「戦国一短気な男」と言われた気性の激しさと冷徹さです。

例えば、関ヶ原の合戦の際、西軍の人質となることを拒んだ妻・ガラシャは無念の死を遂げましたが、長男・忠隆の嫁・千代(前田利家の娘)は無事に脱出し、実家の前だけに帰りました。後日、これを知った忠興は激怒し、「義母を見捨てて実家に帰るとは許さん!」と忠隆に離縁を迫ったのです。

もちろん忠隆は妻・千代を庇います。そもそも彼女が義母を置いて逃げたのはガラシャの指示だったという説もあるくらいです。しかし、忠興の怒りは収まらず、それどころか千代を庇う忠隆も同罪とばかりに、長男である彼を廃嫡にして、江戸で人質となっていた三男・忠利に家督を継がせることにしたのです。結局、忠隆は千代と京都で隠居生活を強いられたのです。

また、次男の興秋はあまりに厳しい父に嫌気が差したのか、江戸に人質として送られる途中、勝手に出家してしまいます。しかも、大阪の陣では父がいる家康方ではなく、秀頼方の大阪城に入城して戦ったのです。

戦後、家康は父の武功に免じて興秋を不問としますが、そんな息子を忠興は許さず、切腹を命じたのです。さらに、実弟である興元は忠興の処遇に反発して出奔してしまいました。

また、庭で剪定中の庭師が廊下を通ったガラシャに色目を使ったという罪(枝を間違って切り落としたという説もあり)で、その場で忠興自身の手で切り殺されたりというエピソードもあります。

こんな非情で冷徹な忠興ですが、信長から父と共に丹後一国を拝領した際に、「丹後は親父ではなく、倅(忠興)に遣る」と言われて、感激のあまりに落涙しながらお礼返上をしたといわれています。

この時の感激がよほど大きかったのでしょうか、本能寺の変の後は丹後に信長の菩提樹を建立し、その後も豊前・肥後と領地が替わるたびに菩提樹も移して追福し、毎月忌日には精進を欠かさなかったと言います。

しかも、忠興が残した手紙によると彼が75歳となっていた1637年の夏の炎天下に、京都の宿所から大徳寺(信長の墓所)まで参って焼香したという一文があります。本能寺から55年も経過しても、信長の恩を忘れない彼の誠実な人柄が伝わってきます。

また文事の方でも決して父にひけをとっているわけではありません。茶の湯は利休の奥義を極め「利休七哲」の一人に数えられています。また、蹴鞠も飛鳥井家の奥意を授かり、絵画の腕前も「狩野探幽も及ばない」という最高レベルの賛辞を受けているのです。

丹後拝領のときと同じく、利休には強い恩義を感じていたのでしょうか、利休が切腹に追い込まれた時、交友関係にあった武将の多くが連座を恐れて彼に近づかないなか、忠興は古田織部とともに利休を堂々と見送りに行っています。2人の姿を見つけた利休は感激し、厚情に感謝する礼状をしたためたほどです。

忠興は家庭人としては失格だったかもしれませんが、こういった情に厚い部分はもっと評価されてもいいのではないでしょうか?