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ひきこもり探偵光彦
「それでね光彦…ちょっと聞いてるの?」
「……」
「返事は?光彦?」
「……聞いてるよ。聞いてますよ月子(つきこ)姉さん」
「またニンジン残してる…カレーが染みてておいしいんだからね」
光彦にとっては試練の時間だった。
今年で22になる姉は、相手をしなければいつまででもしゃべり続けるだろう。
血の繋がりだけでよくもこんなに頑張れるものだ、光彦は思う。
施錠されたドア越しに見る姉は、成人式を迎える前の姿。3年という歳月は、長かったようにも思えるし、短かった気がしないでもない。ただ、意味はなかった。
3年。
もう3年もたつのだ。光彦がこの部屋に閉じこもることになってから。
「今は起きる時間?寝る時間?」
「ん……、しばらく起きたら、また眠くなるかな……」
この3年、眠りだけが唯一の味方だった。
テレビもパソコンもない。布団と、読み飽きた文庫本だけの部屋。疲れてなどいないのに、忘れるように眠りを探す。おかげで時計通りに生活することは不可能になった。うっそりと起きだし、不意に眠る。もっともこの部屋に時計はないのだが。
「じゃぁもう少しお話してもいい?もうすぐしたら仕事に行くから……」
「うん、その前にトイレ…」
この部屋で唯一誇れることは、ユニットバスが最初からくっついていることだろう。締め切った雨戸の変わりに、水の冷たさが季節を教えてくれる。換気扇は常に回っていた。
はたしてこの家に金が余ってなかったら、自分はひきこもることになんてならなかっただろうか。いつもと同じことを光彦は考える。そうだといって、他の誰かのせいにする気はないが。
「なにかいるものない?なんでもいってくれていいのよ」
「いいよ別に…仕事がんばってね」
「うん。ご飯ここに置いておくね。ダシは水で薄めてね。…あ、あと今日の新聞も」
「うん、ありがとう」
光彦は姉の気配が消えるのをじっと待ってから、今はもう天寿をまっとうした飼い猫の出入り口から、外の世界に手を伸ばす。
そういえば一つだけ、光彦にも趣味といえるものがあった。
新聞の犯罪記事のスクラップ。特に無職の人間が家族を殺すたびに、彼は自らを静かに戒めた。
○
「でね光彦……ちゃんと聞いてる光彦?」
「うん、聞いてるよ」
「今日はね、小泉君ちのおばさんに会ったのよ、覚えてる?光彦が小学校の頃仲が良かった…」
「きょーちゃんだろ?」
「そうきょーちゃん!中学は私立にいっちゃったけど……それでね…その」
「ん?」
「おばさんね……悩んでるらしいの…あの、…なんてか……きょーちゃんが部屋からでてこないって」
「へー」
「その…ね」
「うん」
「暴力とかもふるうって…おばさんがね」
「……」
「何とかできないかなぁ…ねぇ光彦」
「ん?もしかしてボクに相談してるの?」
「他に誰がいるのよ!…ひきこもりのプロフェッショナルとしてその…してほしいこととかされたくないこととか……」
「うーん…」
光彦は少し後悔した。
迂闊なことに、今日は日曜日だったのだ。
月子姉の調子がいつもと変わらないものだから、やあれ仕事にいったのだとホクホク食事に手を伸ばしたら、ダッシュして廊下を突っ走ってきた彼女に危うく顔を見られるところだった。
よもや大好物であるところの特製手作りやきそばパンをエサにするとは、敵もあなどれぬものである。
反面、今一歩で獲物を逃した姉の口惜しさたるやいかばかりか。そうして光彦は、朝から彼女の欲求不満に応えることを余儀なくされたのである。
「ほっといてほしいかなあ…」
「え?」
「飽きるまでそっとしておいて欲しいんだよ、並みの神経なら変わらざるを得なくなる日がくる。身体が腐るし」
「そうなの?」
「でも人恋しくなる時もあるからなあ…そういう時は優しくしてほしいかも。タイミングを見計らってあげるといいよ、ああでも、伺うような素振りは伝わるからね、腫れ物扱いはやめてあげたほうがいいかな」
「そうなんだ」
「あくまでボクの場合はね。カップめんにだって種類があるんだ、人間はなおさら、お湯を入れたら3分でおいしいなんていかないよ。自分で何とかするヤツもいれば、本当に腐ってしまうヤツもいるさ」
「む、難しいのね……」
「簡単に済まそうとしたらダメだよそりゃ、一人の人間の頭がおかしくなってるんだから」
光彦は熱いコーヒーで食事を締めた。うまかった。おかわりすら欲しいと思ったが、正直そんなあつかましいマネはできない。
「でも……」
「ん?」
「光彦なら…なんとかできるでしょ?」
「……」
「光彦はできる子だものね」
「……」
「光彦は……」
「……」
「光彦はね……私のことも、鬱陶しいって思う?」
「ううん、月子姉さんは大好きだよ」
「ホント…?」
「うん」
「……うれしい」
どうしたものかと、光彦は思った。
ところで今日はなにやら外が騒がしい。子ども会主催の祭か何か、そういえばもう、そんな季節かと締め切った窓を見る。
子供達は、決して自分がおちぶれるなどとは考えまい。未来が、ほんの僅かなひずみから閉ざされてしまうなどとは考えまい。
それが正しいと信じた道が、まるで報われぬことがあるなどと、誰が彼等に教えてやることができるのだ。
「光彦……光彦?」
「んー?」
「きょーちゃんはあなたのお友達でしょ?」
「んー…」
「お願い光彦……」
「……」
「光彦…」
「……」
「……」
「……」
世にいう沈黙であった。
この時の光彦は善人であったし、たぐいまれなる悪党でもあっただろう。正直、なにもかもどうでもいいとか考えていた。関係なかった。
勝手にやったらいい。どいつもこいつも死んじまえチクチョウ。
戦争でも始まったらいいのだ。自分は寝るから、終わったら起こしてくれ。
同時に
世界がずっと平和であったらいいとも思う。終わりなどこないで欲しいとも思う。
生まれてすぐ死ぬ子供達に申し訳がない。一生懸命生きている大人たちに申し訳がない。例えば自分の臓器なんかでよかったら、腑分けして必要とする人々に配ってまわりたい。そうしたい。自分なんかより、もっと生きる価値のある、生きるべき人たちに……
そんなことを次から次から
なるほど外が騒がしいからいけないのだ。刺激は常に、一定であろうとする自分を殺そうとする。
いらない。すぐにでも卵になりたい。ただ、温められるだけの。
「光彦?」
「んー?」
「……ダメ?」
「んー…」
「なんとかできるんでしょ?」
「……」
「できないの?」
「できるよ」
やっぱり!と、素っ頓狂な声が上がった。
やれ光彦はすごい子だものね、やれ光彦にわからないことはないものね。
光彦は迷う。
今の自分の精神は正常でない。果たしてその判断が正しいかどうか。
いや、正常かどうかでいうなれば、この3年間正常だった時など一時もない。
なればこそどうするべきか、正直どっちでもかわらないのではないか……もうめんどくさい。
ただ一つ確実なのは、自分のお腹が小麦粉を求めていることだった。パンをもうちょっとだけ食べて寝たかった。
「光彦?」
「んー?」
「ここにお姉ちゃん特製手作りカレーパンがあるわ」
「……ほほぅ」
「でもね、これはお姉ちゃんが自分で食べたくて焼いたものなのよ」
「うんうん」
「ただ、もしも光彦がきょーちゃんときょーちゃんのおばさんを助けてあげてくれるなら……」
「うん」
「これを半分こしようと思うのよ」
○
それから数日。
事態がどう進展したか、光彦には知る術がなかった。
普段通りなにもない。姉も、光彦に助力を求めたことなどなかったかのように、いつも通りごはんを置いて、いつも通り仕事に行く。
光彦が渡した封筒は使われなかったのだろうか。それならそれで、それも良かったのかもしれない。
光彦はいつものように姉の置いていった新聞に眼を通す。一面にはこんな記事が載っていた
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「ひきこもりで悩んでいる」と称して
○○日、午前○時○○分頃。○○区の医師、小泉××容疑者(52)から「3年前に息子を殺した、まだ部屋にある」との110番があった。駆けつけた○○署の職員が死亡している三男、京太郎さんを発見。××容疑者と、居合わせたその妻△△容疑者(48)、共に容疑を認めたため、殺人容疑で逮捕した。
京太郎さんは死後3年は経過していると見られている。
調べによると、××、△△両容疑者は、京太郎さんが高校を卒業してすぐ自室に監禁。日常的に殴る蹴るなどの暴行を加え、死なせてしまったという。
両容疑者は京太郎さんが死亡してからもすぐに届け出ることをせず、防腐処理などを施して犯行の隠蔽をはかったほか、周囲には自らアザを作って、「息子に暴力をふるわれて困っている」「働きもせず部屋にいる」などと称していたという。
近所の主婦(66)は、「まったく気づかなかった、話を聞いて驚いた」と話している。
小泉容疑者宅は、一番近い隣家まで数十Mの距離があった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
光彦はいつもと変わりなくその記事をスクラップした。
姉はいつもより早く帰ってきた。
○
「どうしてわかったの?」
「なにが?」
「とぼけないで。全部わかっていたんでしょう?」
「うん」
その日の夜は静かだった。
電球も切れ、雨戸も締め切ったこの部屋で、光彦が夜だとわかるのは、夜は夜なりの暗さと冷たさがあるからだ。
姉はいう
「私、あなたにいわれた通りおばさんに封筒を渡したわ」
「うん」
「そうしたらこんなことになった。…もうなにがなんだか……」
「うん」
「どうして?」
「ん?」
「どうしてわかったの…きょーちゃんのこと……」
「んー」
「光彦…!」
「わかったんじゃなくてさ、わかってたんだよ、さっきもいったけど」
「え……?」
光彦は、この部屋に決定的に不足しているのはティッシュだと決めつけていた。
なるほど石鹸だけは支給してもらっているけれど、ウォシュレットに慣れきった肛門にはトイレットペーパーも必要ない。
光彦はもう少し自由に泣きたかった。
拭ってくれるものが欲しかった。
「高校を卒業した時にね、一回会ってるんだ」
「きょーちゃん…と?」
「うん。ボクがひきこもるちょっと前だね。アイツ受験に失敗してた。今のボクよりひどい顔でさ、最近壁の染みがゴキブリに見えるとかいって笑ってた」
「……」
「久しぶりに外にでたって。もう家で来年の準備してるって。ただなんかちょっとだけあったかくなってきて、目的も何もないけどなんも考えずに外にでたって……」
光彦はまくしたてる。これだけしゃべるのは久しぶりだった。何度も舌がもつれた。あごが痛かった。
「アイツいってた、帰ったら親父に殴られるって。どうしてかって聞いた。自分ができそこないだからって。できそこないの癖に勉強もせずにブラブラしてるからだって。2人の兄はいい大学いっていい仕事に就いてるのに、自分だけがつまずいたって、あいつさ、実際にひきこもってた時期があるんだって。母親に物を投げつけたっていってた。だから自分は見切りをつけられたって。裏切ったのは自分なんだって。一回だけだよ?ああそりゃぁ二回三回、ボクが聞いてないだけかもしれない。でもアイツ死ぬほど後悔してたのに、だから死ぬほどがんばったのに。アイツの親父はアイツの前で兄さん達の話ばかりするんだ。あいつらはまだ帰ってこないのか、なんでお前だけこの家にいるんだ。正面からいうならまだいいさ、でもアイツがいないところで真剣に話してるんだってさ。自分達の息子がなんでバカなのか、自分達は悪いことしてないのにってさ。」
光彦は正直、京太郎の顔をもうはっきりと覚えてはいないのだ。光彦はとかく人の目を見て話すことが苦手だから、ある意味では記憶に残らないのは仕方がない。そんな人間に友人扱いされてアイツは怒るだろうか。だがアイツが断わるなら、光彦は押しかけて、土下座してでも友達にしてくれと頼むつもりでいた。
京太郎はいいヤツだったのだ。
「アイツは自分が悪い自分が悪いばっかりいうんだ。だから背負うんだって、親の信頼を取り返すんだっていうんだ。信頼を棄てる親なんているのかよ。でもあいつはいうんだ。オレがしっかりすればいいだけの話だって。人間なんだぜ?やりすぎりゃ限界越えるし、アイツが限界越えてることなんてボクでもわかった。自分でもわかってたはずさ、だからボクにあの封筒を渡したんだ。自分が死んだりしたら、両親にこの手紙を渡して欲しいって……自分は今、手紙を隠して置けるようなスペースも与えられてないからって…短いからボクの目の前でさらさら書いてたよ。アイツの爪、中指のところが曲がってるんだ。ずーとシャーペン握ってるから……」
「その……手紙には、なんて書いてあったの?」
「迷惑かけてごめんなさい。育ててくれてありがとうございましたってさ……」
光彦は京太郎を止められなかったか。
止めるとはなんのことだ。
今のお前は頭がおかしくなっているのだといってやればよかったのか。
あの時のアイツより正しいものなど、この世のどこにあるのだ。
アイツは自分の意思で戦ったのだ。自分の意思で、そうなることを選んだのだ。
「だから新聞記事にだけは眼を通してたよ。正直、もう手遅れだとは思ってた。アイツが勝ったなら、きっと笑いながら手紙のことは忘れてくれといいにきただろうから……」
沈黙が過ぎた。
光彦は疲れていた。
疲れて眠りたかった。また全てを忘れたかった。
「光彦……」
「ん?」
「それでも……それでもアナタは、きょーちゃんを止めてあげるべきだったと思うわ」
「うん……」
「厳しいことをいうけれど、結果としてはきょーちゃんにとっても、きょーちゃんの両親にとっても、一番悪い方向に転がってしまったもの」
「そうだね…」
「あなたならできたはずよ光彦。彼を止めることも、彼を救うことも、彼の両親だって……」
光彦は疲れていた。ただもう眠りたかった。
だから
普段では決していわないようなセリフでさえ、口にだしてつぶやいてみたりしたのだ。
心が折れそうな気がしていた。猫用の扉を開ければ、彼女は優しく微笑むだろう。頭を撫でてくれるかもしれない。だが屈するわけにはいかなかった。それは光彦の、最後に残された抵抗だったから。
「うんそうだね。ボクもできたと思うよ姉さん。月子姉さん。アナタがボクをこの部屋に閉じ込めさえしなければ、ボクには彼等を救う手段がいくらでもあった。……だからここからだしてよ、姉さん…月子姉さん……お姉ちゃん…!!」
「あなたはなにをいっているの光彦?アナタは私のもの。他の誰にも渡さないわ」
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