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アケミ
「ねぇミキヒサ、キジがいる」
「へー、アレがキジか」
「えー? なにそれちょっとー」
「鳥とか植物はよくわからないんだよ……」
私とアケミの出会いは1年前に遡る。
彼女は水辺の柵に体重をかけながら鴨の群れをスケッチしていて、私はそれに見惚れていた。
あの日の天気も、丁度今日のように晴れていたはずだ。
にもかかわらずパラパラと雨が降っていて、樹木の葉を抜けた雫が、柔らかい土に吸われていった。
「お昼どうする? 買ってく? 食べてく?」
アケミは美しかった。
顔の潰れた平均的なテレビタレントのような美しさではない。
人間の生命力、躍動感を、彼女は内に秘めていた。
ただ振り返る。それだけの動作で、周囲の人間は彼女の存在感に圧倒された。
それは丁度、都心にとり残されたこの森林公園のよう。
人間がどれだけ浅知恵を凝らそうと、彼女が元から持つ美しさを否定することはできない。
彼女の美の保証人は、神そのものだった。
「どうしたの? ボーっとして」
「い、いや別に。…見惚れてただけだよ」
「なーに突然? 惚れ直した?」
こんな状態が長くは続かないのはわかっている。
それが正しくないことも。
私とアケミの関係は不倫だった。
当然のように、妻はアケミの存在を知らない。
気性の激しい妻のことだ、知れば烈火のごとく怒りだすのは目に見えている。
ありとあらゆる手段を使って私とアケミの仲を妨害するはずだ。そしてそれをされた時のアケミの反応も、私には理解できる。
アケミは聡明な女だ。僅かでも火種の気配を感じとれば、自ら身を引いて、二度と私の前に姿を現すことはなくなるだろう。彼女にはそれをする、強い意思もある。
正直な話、私はもう妻を失うことより、アケミを失うことの方が恐ろしかった。アケミの存在が抜け落ちた人生など、なんの価値があるのか。
決して知られてはならなかった。
卑怯だといわれようと、罵られようと。
私にはアケミしかいないのだ。
「またボーっとしてる」
「あ…ご、ごめん」
「もう知らない。先帰ってるから」
「ま、まってくれよアケミ!!」
その瞬間、私は人生最大の過ちを犯したことを悟った。
般若のごとき妻が、ゆっくりと振り返る。
「はぁ? ちょっとミキヒサ、誰よその女?」
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