秋枯れの恋 サンプル
「……ココさん、僕と別れて下さい」
それは、唐突に始まった。
ホテルグルメで食事をした帰り、話があると言われて立ち寄った公園でのことだ。背後で立ち止まった小松君からいきなり言われた言葉に、僕は振り返った。
「小松君?」
「僕と、別れて下さい」
はっきりと、小松君がその言葉を口にする。冗談にするにしてはたちが悪い。そもそも、小松君はその手の冗談は言わない人だ。その目も、電磁波も、ある種の覚悟のようなものを滲ませているように僕には見えた。
「どういうこと?」
小松君と今日の約束をした時に、電話口から聞こえてきた声は確かにどこか切羽詰っていた。そんな小松君の様子が気になりつつも話に了承したのは、つい三日前のことだ。
「何か、あったの?」
小松君は首を横に振った。俯いてしまったせいで、僕からはその表情がよく見えなくなってしまう。僕らの間に落ちた沈黙を笑うように、冷たい風が通り抜けていった。
僕は眉間に皺を寄せて、小松君から目は逸らさないままにこの数ヶ月を振り返る。
小松君が時たまぼんやりと考え事をしていることは、最近ままあることだった。それが料理関連の事ではないことも、気付いていた。たまに僕を見るその目が、一瞬ではあったけれど悲しげに歪んだのも何度も見ていた。
あの時に、声を掛ければよかったのだろうか。
僕は言葉を失くしたように黙ったまま俯く小松君の姿を見つめる。あまり言いたくないことを無理に言わせてしまうのも嫌で、僕は小松君が自分から言い出してくれるのを待っていた。解決策が見つかるかはわからないけれど、僕の出来うる限りの精一杯の力で小松君を助けられたらと、そんなことを思っていた。
「小松君、理由を言ってくれ」
もしも彼が、ずっとこのことで頭を悩ませていたのなら、それはなんて皮肉な話なのだろうかと僕は拳を握り締める。だけど、別れて下さい。と、ただその一言だけ言われて理由もわからずに頷くなんてことは、僕には出来ない。
だって僕は、小松君のことが好きだから。
「……何も言わず、別れて貰うことは出来ませんか」
押し殺したような声音で告げられた言葉に、僕は眉間に皺を寄せる。小松君にしては珍しく、濁すようなその言葉が気になった。
「出来ない。僕が納得するような理由でなければ、その言葉に頷くなんてこと、出来るわけがない」
僕がそうやって首を振れば、小松君が顔をあげた。その顔は、今まで僕が見たことのない表情を浮かべていた。今にも泣き出しそうで、怒り出しそうにも見える、そんな表情。
「小松君」
「もう、」
僕の見たことのない表情で、僕の聞いたことのない声で、君が僕に静かに告げる。
それらが紡ぎ出した言葉は、僕にとって信じられないくらいに重く、暗い。そして何より、残酷な言葉だった。
「もう、あなたに、付き合いきれません」
何もかもうんざりなんです。そう言って、小松君はまた俯いた。その言葉を理解するのに数秒を要した。言葉の理解は出来ても、それが自分に向けられたものだとは到底思えなかった。
「どういう、ことなの?」
声が震える。その言葉は、あんまりにも現実味がなさすぎた。悪い夢なら覚めてくれと、祈らずにはいられない程に。
「僕、何かした?」
小松君は僕の言葉に首を振った。俯いたまま、何かを押し殺すような低い声が僕の耳に届く。
「僕が悪いんです。やっぱり、男の人と付き合うなんて……僕には無理な話でした」
小松君の手が白くなる程に握られていた。俯いたままの小松君の表情は、僕がいくら良い目を持っていたとしても、見えない位置にある。それが酷く、もどかしい。
「それに、美食屋と一般人じゃ、価値観だってなんだって、違いすぎると思うんです」
「それは……」
価値観。それは確かに人によって違うものだ。だけど、僕らはいつだってそれを互いに理解しながら歩み寄ってきたのではなかったか。男同士という壁さえも越えて、二人で。
小松君は僕の言い掛けた言葉の先を遮るように、俯いたまま首を横に振った。
「わかって下さい。僕は、あなたのことをそういう意味で好きだったわけではないんです」
ごめんなさい。それから、さようなら。と、言い捨てるように言って走り去っていく小さな背中を、僕は追いかけることが出来なかった。どんどんと小さくなっていく背中を、僕はただ見送る。
追いかけなければ。そうは思うのに、情けないことに僕の足は竦んでしまって動かない。神経が僕の意識の範囲外となってしまったようだった。
あの日の君の言葉を何度も何度も思い返してみたけれど、あれが君の本心からの言葉だとは、どうしても思えなかった。
もしもあの時、僕が君の手を離していなければ。もっと違った未来があったのだろうか? そう後悔してみても、もう遅い。
だってもう、君はここにいない。
君のいない街を、僕は君を探して歩き回る。この前みたいにふとした時に会えないだろうかと、そんな可能性を3%に賭けてみたけれど、やっぱり僕が君と出会うことはなかった。
辺りは既に暗闇に包まれている。感じる風がいやに冷たく感じられて、僕はぶるりと体を震わせた。
つい最近も座った気がするベンチに座り、僕は溜息を吐く。どっと疲れが押し寄せてきたように、体がだるい。体力的にではなく、恐らく精神的に疲れてしまったのだろう。
僕はその疲れを少しでも和らげようと、手首を瞼の上に乗せて、背凭れに深く体を預けた。
そこでふわりと香る匂いに、僅かに瞳を開く。視界の端にあった街灯がじりじりと音を立てて、その後すぐにぱっと明りを灯した。数日前に消えたまま、その役割を果たしていなかった筈のそれが、いつの間にか復旧していた。
僕は匂いの元を探るように自分の体を嗅ぐ。手首に鼻を近付けた所で濃くなった匂いに、僕は動きを止める。それは手首に巻いた布から漂ってきているようだった。
「……これか」
街灯の明かりが僅かに届くベンチの上で、僕は納得したように声をあげた。その匂いの原因をじっと見つめながら、僕はそっとそこに再び鼻を押し当てる。
手首に巻いた布から微かに甘い香りがしている。今朝、女王梨の果汁を垂らしてしまった部分だ。
少しでも早く小松君を探さなければと、巻き替える時間すらも惜しんでそのまま家を出てきてしまったせいだろう。
やはり拭いとっただけでは無理があったかと、僕は苦笑しながらその香りを嗅ぎ込んだ。
――……良い香りです。
不意にそんな声が聞こえた。瞼を閉じれば、微笑んでいる小松君がそこに浮かぶ。寸分違わず、まだその姿も、声も、匂いも、くっきりと思い出すことが出来る。
君が僕に教えてくれたこと。それは数え上げれば切りがない。瞳を開いて街灯の仄かな明かりを視界の端に感じながら、僕は一つずつ、一つずつ、それらを確認するように思い出していった。
触れた唇の温もりも、抱きしめた時に感じた愛しさも、求められる心地よさも、ちくりと胸を痛める切なささえも。
それは全部、全部君が僕に教えてくれたことだった。
君がいなければいらないとすら思っていた感情だ。だから、君が僕をいらないというのであれば、いっそもう全てを投げ捨ててしまおうかとすら考えた。だけど、僕にはそれが出来なかった。出来る筈もなかった。
僕は、やっぱり君が好きだから。
こんな時になって、僕は改めて思い出していた。まだ僕らが恋人ですらなかったあの頃。君が好きで、好きで、どうしようもなく好きで仕方がなかったあの頃のことを。
君に恋い焦がれてやまなかったあの時に知った苦しみも、君が好きだと返してくれた時の胸が躍るような喜びも、恋人になってから知った君の甘い顔も、変な癖も、面白い表情も、何もかも全てが、まだ、こんなにも、愛しい。
ハッと、笑みが漏れた。わかってはいたことだったけれど、君がいないという事実は僕の胸をじわじわと、自身の毒のように浸食していく。再び手首を瞼に乗せれば、すぐに暗闇が僕を包み込んでいった。
ねえ、お願いだから、もう一度好きになってよ。
瞼の裏に浮かぶ小松君は笑みを浮かべたまま、段々と遠く消えていく。その姿に僕は、心の中で必死に声を掛けていた。
小松君、小松君。ねえ、小松君。
僕はやっぱり、君が好きだよ。君が、好きなんだ。
多分、これからもきっと、ずっとずっとそれは変わらない。いくら年を重ねていったとしても、この降り積もっていくような気持ちは、大きくなることはあれど小さくなったり、消えてしまったりすることはないだろう。こんな僕でも、それだけは自信を持って言える。
だから、お願い。
君がもしも、本当に僕のことをもうなんとも思っていないのなら、もう一度。
もう一度、僕を好きになって。
僕に恋をして、僕とキスをして、その体を抱きしめさせて。
じわりと目尻が熱を持つ。まるで慰めるかのように、女王梨の甘く柔らかな香りが、ふわりと辺りに漂っていた。
秋枯れの恋
ココさんが小松君のために頑張る話!
の、つもりがそうでもなくなりました。通常運転(笑)
2012.11.23発行予定