奇跡の欠片 サンプル
その喧嘩は、今思えば本当に些細なことだった。
ホテルグルメで働いていた僕は、あるお客さんの対応に少し困っていた。いわゆるストーカーだ。最初は純粋に僕の料理を好きだと言ってくれていたし、僕も彼と会話するのはとても嬉しかったし、とても光栄なことのように思えていた。
けれど、何度もその人と会話をしていくうちに、何かが捻じれていってしまった。いつしか行為はエスカレートし、ホテルに日参するだけでは済まなくなり、手紙やプレゼント、待ち伏せと、それは段々と日に日に過激さを増していった。
支配人やスタッフ達からはその人のホテルへの出入りを禁止するべきだという声もあがったけど、僕にはどうしても悪い人には思えなくて、もう少しだけ、待って貰うことにした。
あの時、僕がココさんに相談をしていたら、また違った結果があったのかもしれない。だけど、あの時の僕はココさんに余計な心配を掛けたくなくて、特にそのことを相談しなかった。
「どうして僕に相談しなかったんだ!」
「だ、だってココさんに余計な心配をさせたくなかったから」
ホテルグルメの営業が終わり、僕は今、スタッフ専用の休憩室でココさんと向き合っていた。
ココさんの剣幕は、いつになく険しい。どうやらココさんは、その一連の流れを全て、支配人の口から聞いたらしかった。
支配人が、僕とココさんがお付き合いしているということに薄々感づいていることは僕も知っていた。問われてもはぐらかしてはいたけれど、どうやらそれがよくなかった。
支配人は僕が、今回のことを全てココさんに相談していると、そう思い込んでいたようだった。
「心配だってするよ、だって僕は君の恋人だろう?」
「そうですけど、でも、別に特に害があるわけでは……」
僕の言葉に、ココさんがぴくりと眉根を寄せた。その顔に浮かぶ表情は、いつになく厳しい。
「害が出てからじゃ遅いだろう?!」
「そ、そうですけどっ! でも、手紙とかプレゼントがくるくらいですし」
ココさんは大きな溜息を吐いて、首を振って見せた。いつにない威圧感のようなものを感じて、僕は唇を噛んだ。
「……君はいつもそうだ。グルメカジノの時だってそうだった。君は自身に向けられる色目に対して、あまりにも鈍感過ぎる」
ココさんは本当に困ったという表情で、憂鬱そうに視線を伏せた。その顔に、言葉に、僕は困惑する。
「……色目って……僕は男ですよ」
「それが何? 僕は何度も君に言っているよ。もっと警戒心を持ってくれって」
確かに、それは言われていた。でもそれは、センチュリースープを作った料理人が僕で、そのレシピを知っているのも僕だからという、そういう理由ではなかったのか。
僕の思考を読み取ったのだろう。ココさんがまた溜息を零した。
「お願いだから、もっと人を疑うことを覚えてよ。君なんか、簡単に組み伏せられてしまう。下手をしたら……」
ココさんがそこで言葉を噤む。その言葉の先に気付いた僕は、目を剥いた。ココさんの言葉は、僕にはあまりにも突飛なもののように思えてならなかった。
「そんなこと言うの、ココさんだけです! いくらココさんでも、それはちょっと横暴過ぎると思いますっ!」
「……そうかな。君にはそれだけの才能があるし、魅力がある。喉から手が出るくらい、君を欲しがる人間は山といる筈だ」
だからだよ。と、ココさんは言う。仮に、百歩譲って僕がそんな人間だったとしても、だ。でも、だからって……。
「だからって、お客さんをそんな風に疑うなんて……僕には出来ませんっ!」
ココさんは何かを言い掛け、そして言葉を飲み込むように一度口を閉ざした。それからすぐに僕の肩を掴むと、ココさんはぐっと屈みこみ、僕と視線を合わせてくる。
「君のその純粋な気持ちはとても好ましいと思うけど、今回ばかりは賛同出来ない。ライブベアラーの露骨な色目にさえも気付けない君が、これからもそんな甘い考えで過ごそうというのなら、それはあまりにも危険過ぎる」
「ライブベアラーさんはとても良い人ですよ! なんでそんな、僕の周りの人たちを悪く言うんですか? ココさんらしくないです!」
ココさんは僕の言葉に、どこか苛立ったような雰囲気を纏った。
「ほら、それだよ」
ココさんは僕の目を見つめたまま、眉間に深い縦皺を寄せた。ココさんの言葉と表情を、僕も同じような険しい顔で睨み上げる。
「ライブベアラーは確かに君の料理に対する真摯な姿勢を見て、更生したかもしれない。だけど、君に言い寄る人間が全て、そう簡単に上手くいくとは限らない。僕が懸念しているのはそこだよ」
「いつも思いますけど、ココさんは僕のことに関して、ちょっと過保護過ぎです! 僕は」
「過保護なくらいでいいんだ!」
ココさんの珍しく荒げられた声が、室内に響いた。びくりと体を震わせた僕に、ココさんはハッとしたように顔をあげると、唇を噛んで視線を逸らした。
「……ごめん」
僕は首を振った。ココさんの手が、僕の肩から外れる。
僕の思考はそこまで辿り着いた所で、一旦考えることをやめた。唇に違和感を覚えて舐めれば、血の味がした。
あの時、どうして無理矢理にでも彼についていかなかったのかと、一週間経っても拭うことの出来ない後悔が僕の胸を占めていた。
僕はベッドに横たわる小さな体を見ながら、小松君の手をそっと握っていた時のことを思い出す。その手は以前と変わらず、温かかった。
僕は小松君に触れた手を見下ろした。
あの日、小松君がアレを飲まされてから、あんまり時間は経っていなかっただろうし、解毒もなんとか上手くいった。それなのに、彼はその後、二日経っても目を覚まさなかった。
真っ白な部屋に、真っ白なベッド。漂う匂いは薬品の臭い。そこに眠る人の姿を、僕は見ていられなかった。あの部屋にあそこまで似合わない人はいないと、僕は今でもそう感じている。
「……小松君」
名前を呼んだ。呼んでも呼んでも、数え切れないくらいに君の名を呼んだ。何度も何度も君の名前を呼んで、そして答えるように君が目を覚ました時には、奇跡のようにさえ感じていた、のに。
『……あの、』
目を覚ました小松君は、どこかよそよそしかった。その姿に、胸騒ぎを覚えた。出来ればそれが、ただの勘違いであって欲しかった。
『ごめんなさい。あなたは……?』
小松君の言葉に、僕の思考は、そこで止まった。
殆ど本能的と言っていいだろう。それくらい、僕にとっては衝撃的な言葉だった。これは何か悪い冗談に違いないと、そう言いたかった。
だけど見上げてくる君の瞳に、いつもの優しい色は見つけられなかった。それが紛れもない真実だと、その目が僕に告げていた。
『僕、どうしちゃったんでしょう?』
悪い夢なら、覚めて欲しかった。
どうやら記憶が混乱しているのか、僕のことも、こうなった原因についても、目覚めた君は忘れてしまっていた。
僕は掻い摘んで君に事情を説明する。黙り込んでしまった君に僕が出来たことといえば、声を掛けることしかなかった。
『体は痛む所はないかい? 頭痛や、眩暈、吐き気は?』
『あ……えと、はい。どこも痛くない、です。特に体調も普通で』
その言葉に、とりあえず命に別状はなさそうだと僕はほっと胸を撫で下ろす。
『そう。なら、良かった』
『あの……』
言い淀む小松君は、どうしたらいいのか考えあぐねているようだった。僕は小松君の目を覗き込み、安心させるように頷いて見せた。
「医者を呼んでくるね」
じっと僕を見つめていた小松君は、やがて戸惑いをその目に浮かべながらも、小さく頷いてくれた。
『……はい、お願いします』
小松君の他人行儀なその言い方も、声も、目も、態度も、全てが僕を、知らない人だと告げていた。その事実に、なんとも言えない苦い感情が胸を満たしていく。
『あの、ご迷惑をお掛けしてすいません……えっと?』
『全く、僕のこと、わからない?』
僕の言葉に、小松君は言い淀み、それから首を静かに縦に振った。小松君は申し訳なさそうに、僕を見つめる。
僕は一度強く視線を伏せると、君に向き直って口を開いた。
『……僕の名前はココ。君の……友人だよ』
『え!? そうなんですか!? す、すいません、えーっと、ココ、さん?』
僕は頷く。その品のない驚き方はまさしく小松君に違いなかったけれど、僕の知っている小松君のように、君が僕の名前を呼ぶことはなかった。
僕は暗い廊下の長椅子に座ったまま、そこまで思い出して深く溜息を吐いた。
あれから、既に三日が経過していた。僕はぼんやりと、非常灯の明かりを眺めた。
今日、小松君の検査結果が出た。わかっていたことではあったけれど、小松君は記憶をすっぽりと失くしてしまっていた。僕だけじゃない。トリコやサニー、ゼブラすら覚えていなかった。
小松君の記憶は、丁度トリコと出会う前まで記憶が戻ってしまっているようだった。昔、トリコが憧れだと語っていた通り、小松君はトリコのことは知っていた。だけどそれは、あくまでテレビなどで見たトリコの情報しか知らなかった。
つまり、今の小松君は僕らのこと所か、トリコとコンビになったことさえ覚えていないし、出逢った食材も、それを調理した記憶さえも、なくなっていた。
そして、その記憶が戻る見込みは殆どない。医者の見解は、それで決着がついたようだ。
硬いブーツが廊下を歩いてくる音が、やけに辺りに響く。暗闇から現れたような影が、僕から少し離れた所でぴたりと止まったのが見えた。それからじっと僕を見つめていたらしい影は、やがて物音一つしない病院の静寂を、静かに破った。
「よお、大丈夫か、お前」
「んぁ、あ、ああ!」
そんな所、誰にも触られた記憶はないのに、体はそれを知っていた。歓喜に震える体は、貪欲にココさんの指をずぷずぷと飲み込んでいく。それが自分でもわかる。そして僕は、その刺激に体をしならせて、あまりの快感に達してしまう。
「ぁ、ああ、あ……ッ、」
解放感、とでもいうのだろうか。頭が真っ白で何も考えられない。そんな僕の耳に、ごく、と音が聞こえてきた。ぼんやりした頭でなんとかその音のする方向を見れば、ココさんの喉が何かを嚥下し、喉仏が上下している。ぺろりとその舌が、僕の先端を舐めた。
「ひぅっ」
ココさんは手の甲で口を拭うと、にこりとこの雰囲気には似つかわしくない、とても晴れやかな笑みで僕に笑い掛ける。
「ご馳走様」
その言葉と、今までの流れから、僕はココさんが何を飲み込んだのかを嫌でも理解することになった。お陰さまでバケツ一杯の水を引っ掛けられたかのように、一気に現実に引き戻される。
「嘘……! あんなの、きたな、い、のに……!」
「汚くなんかないよ?」
本当にそう思っているのか、なんでもないことのようにココさんは笑ってそう言う。だけど、僕にはとてもそんな風には思えなかった。だって男のアレなんか、絶対に美味しいわけがない。
「君は綺麗だよ」
いつだって、綺麗だよ。そう言ったココさんの顔に、ほんの僅かに浮かぶ切なさに僕は気付いた。その目に見つめられると、どきどきすると同時に僕も、少しだけ切なくなる。
「ココさ……」
「君のその心に、優しさに、救われたのはきっと僕だけじゃない。記憶があってもなくても、君は、君だ」
ココさんの唇が僕の瞼に落とされる。その唇が触れた箇所が、酷く熱く感じられた。
触れ合う素肌が心地良い。僕はそっとココさんの体に触れて、その胸板に頭を寄せてみる。ココさんの大きな手が、僕の背中に添えられた。
「ココさん」
ココさんの目は僕の呼び声に呼応するかのように、優しい色を湛えている。その目に見つめられると嬉しくて、ちょっとだけ恥ずかしい。だけどそれ以上に胸に広がるこの想いは、大事にしたいと思うものだ。
「大好きです、ココさん」
「僕もだよ、小松君」
額を重ね合わせて、僕らは頬笑み合う。ココさんの唇が額に触れて、そのまま起き上がったココさんは僕の体を解放した。
「あとはもうお休み。疲れたろう?」
「え? あの、でも……」
ん? と、ココさんが僕を見下ろす。僕はゆっくりと体を起こして、ココさんの下半身へと目を向けた。
「……それ」
ぼっと顔が紅くなってしまうのも仕方ない。もしかして僕に反応していないのかと思ったココさんの下半身に目を向けてしまった僕は、気まずさに視線を逸らした。僕の心配を余所に、ココさんのそこはしっかりと反応していた。
はは、とココさんが微かに声を立てて笑う。ちょっと照れ臭そうに、ココさんはそこを隠すように僕に背を向ける。
「僕はいいよ。ちょっとお風呂場は借りるけど」
「……っ、どうして、ですか? 僕のことは、抱けませんか?」
「……また君はそんなことを言う」
ココさんは顔だけで振り返り、ちょっと困ったように眉間に皺を寄せて、苦笑を浮かべた。
「怖いでしょ?」
びくり、と僕は体をびくつかせた。ココさんは口端を緩めると、僕に気遣うように首を振る。
「いいんだよ、ゆっくりで」
待つのは慣れてる。そう言って顔を背けたココさんの目に浮かんだうら悲しい色に、僕が違うのだと言葉にするよりも早く、ベッドから立ち上がろうとしたココさんの体に飛びつくように抱きついた。
「……っ、こ、小松君っ?!」
「ち、違うんですっ!」
ぎゅっと腰にしがみつき、僕はココさんが離れないようにと力一杯に抱きつく。半ば中腰になっていたココさんは、僕に引き戻されるようにベッドに座り直した。それから必死な僕を宥めるように、ココさんの手は僕の背中を撫でていく。
「小松君、別に繋がることだけが全てじゃないよ?」
「嫌、です! 記憶のあった僕に出来たことなら、今の僕にだって出来る筈です!」
ココさんの腰にしがみついたまま、僕は心に秘めていたことを告げた。ココさんにあんな顔をさせたまま、一人にはさせたくなかった。
「確かに今の僕にはこれが初めてだし、ココさんに触れられると気持ち良くて頭がおかしくなりそうで……」
僕はココさんにしがみつく手にぎゅっと力を込めた。
奇跡の欠片
小松君が記憶喪失になるお話
ココと自身の関係に悩む小松君と、小松君のことを想うココさん。
最後は勿論ハッピーエンド!
2013.7.28発行予定