蜂蜜彼氏





「君が好きだ」


 僕はその言葉に、思わずお茶を飲もうとしていた手を止めた。
 今、ココさんはなんと言った?
 僕は静かに、お茶からココさんへと視線を戻し、そして、息を呑んだ。いつの間にかココさんの顔からは笑みが消え、その目にはどきりとする程に真剣な色が浮かんでいる。
「……え?」
 僕は思わず首を傾げ、ココさんを見つめた。突然変わった部屋の雰囲気に、僕は戸惑うしかなかった。だってさっきまで、和やかなお茶の時間だった筈なのだ。
「小松君」
 それが、いつの間にか全く違う空間へと塗り替えられている。
 ココさんはどこか緊張したような面持ちで僕を見つめていた。僕もごくりと口に溜まった唾液を飲み込む。頭が混乱しているのか、この状況をまともに判断出来ていない。
 変な緊張感が二人の間を漂っていた。その変な空気は、これが冗談でないことを、暗に僕に示している。
「僕は、君が、好きだ」
 今度こそはっきりと聞こえた言葉に、僕は目を見開くことしか出来なかった。僕には、それがまるで告白のように聞こえたからだ。
 そこまで考えて、僕は首を振る。
 いや、いや、そんな、まさか。
 僕の一瞬止まった思考回路は、その心の中の声を皮切りに動き出す。ココさんは僕の目の前で静かに一度視線を伏せると、そのままふいと視線を逸らしてしまった。
 僕の頭の中は、今度こそ疑問符でいっぱいになる。その「好き」とは、一体どういう意味なのか。恋人に対するそれと一緒なのだろうか?
 いやいや、落ち着け、僕。そんなこと、まさかあるわけないだろう。ココさん程の人が、こんな僕に、そんな思いを抱くなどと。
 だけど、それならば、先程の言葉は、一体?
「……小松君?」
 どうかした? ココさんが伺うような視線を僕に投げる。ココさんのその目に、僕ははたと意識をココさんに戻した。
 首を傾げているココさんはもう、いつものココさんのように思えた。それを見た僕は、やはりさっきのは自分の考え過ぎだったのだと確信する。
 うん、やっぱりきっと、僕の勘違いに違いない。



* * * *


「君はただのハントのつもりだったかもしれないけど、僕はデートのつもりだったよ?」
 この人は! 僕はぐっと言葉を呑みこんで、水を煽るように飲み干した。空になったグラスを持つ手にそっと、僕の手よりも遥かに大きな手が触れる。
 びくりと体が竦んでしまったけれど、ココさんはそれでも、僕の腕から手を離そうとはしなかった。
「こ、ココさ……っ」
「小松君、僕らは今、恋人なんだよ」
 僕はその言葉に、はっとしてココさんを見上げた。真剣な目がそこにあった。その瞳の奥に宿る何かに、僕はごくりと息を呑む。
「例え、仮初のものだとしても、今は、恋人だ」
 ココさんは少し寂しそうに、そんなことを囁くように口にした。まるで、独り言のように。
「ココさん……」
 先程とはがらりと変わってしまった辺りの雰囲気に、僕は動けなくなってしまう。熱っぽく潤んだ眼差しが、焚火の明かりに照らされていた。
「君だけだよ」
 こんな気持ちになるのも、こんな思いを抱くのも。
 額が重なり合う。間近に目を覗き込まれて、その瞳に吸い込まれてしまいそうな錯覚を抱いた。
 唇が触れてしまいそうな程近い距離で紡がれる、甘い言葉。
 ココさんの匂いが鼻孔をくすぐる。安心するような匂いだった筈なのに、それがいつの間にか心を掻き立てられるような匂いになっていたのは、一体いつからだったろう。
「……ココ、さん」
 思わず声が掠れてしまった。この心臓の音が、ココさんにも伝わってしまうのではないかと思うと、気が気ではなかった。
「ふふ、顔が真っ赤だ。可愛い」
「……そんなこと言うの、ココさん、だけ、です」
「それは良かった。君の可愛い顔は、僕だけが知ってればいいからね」
 暖簾に腕押し。糠に釘。本当にそんな感じだった。僕は眉間に皺を寄せてココさんを見つめる。
「あんまり僕を煽らない方がいいよ?」
 男は狼って言うじゃない。そうココさんに囁かれて、僕はぎょっとする。ココさんは柔らかな笑みを浮かべたまま、座っているだけだ。
「この前だってそうだ。彼氏を家に泊めるってことが、どういうことに繋がるのか、よく考えた方がいい」
 僕は体を震わせた。次から次へと腰の奥を痺れさせるような低い声に、いい加減耐性みたいなものが出来ても良いと思うのだけれど、一向にそれが出来る気配はない。それ所か、余計に悪化しているような気がする。



* * * *


 ならば、僕の気持ちは、一体どちらなのだろう。
 僕はただ、ココさんといつまでも楽しく、こうやって過ごすことが出来るのだと、そう信じて、疑ってすらいなかった。
「小松君?」
 ココさんがキッチンを覗き込む。僕はびくりと肩を竦ませると、顔をあげてココさんの顔を見た。
「……大丈夫? どうかしたの?」
 優しい言葉に、ぐっと涙が込み上げそうになった。僕はそれを一拍置いて堪えると、なんとか顔に笑みを張り付けて、ココさんに笑い掛けた。
「大丈夫です! なんか忘れ物があるような気がしちゃって」
「そう? 早くしないと、折角のご飯が冷めてしまうよ」
 そうですよね! と、僕はぱたぱたとココさんの後を追い掛ける。広い背中が、近いのに、やけに遠くに感じた。
 僕がココさんの向かいの席に座ると、僕らは二人で出来上がった料理を前に、手を合わせた。
「いただきます」
 そうして食事をしながら、僕らはなんてことのない、他愛のない会話をする。いつものことではあったけれど、先程意識してしまった僕らの終わりを思えば、そのひとつひとつが僕にとって今、痛いくらいに大切で、幸せで、失くしたくないものだということが、尚更よくわかってしまった。
「……小松君、どうしたの?」
「ふぁっ?!」
 ココさんが少し、聞き難そうに声をあげた。思ってもみない問い掛けに、僕は思わず手にしていた箸を落としてしまいそうになった。
「な、何がです、か?」
「なんだか元気がないみたいだから」
 ココさんの指先が、つつと伸びてくる。僕は無意識に、がたんと椅子ごと後ろに下がってしまった。
「小松君?」
 僕は、なんと言えばいいのかわからなくなっていた。
 僕は今まで、自分の気持ちを深く考えないようにしてきた。それは僕がずるくて、卑怯な人間だったからだ。ココさんと、離れたくなかったから。
「……ココ、さん」
 じわりと涙が浮かびそうになった。そんなこと、どうして言えるだろう。ココさんに嫌われるのは、辛い。けれど、これを伝えたらきっと、ココさんは僕に幻滅するだろう。
「……辛い?」
 ココさんが少し悲しそうに手を引っ込めた。僕はその優しい声音に、ついにぽろりと涙を零してしまった。



* * * *


「終わりにしよう」
 ココさんの口から飛び出したその言葉に、僕は目を見開いた。そんな僕とは裏腹に、ココさんはにこやかに、いつも通りの笑みをそこに浮かべる。
「今までこんな僕に付き合ってくれて、ありがとう。少しの間だったけれど、良い思い出が出来た」
 君は嫌だったかもしれないけれど。
 僕はその言葉に、首を横に振る。ココさんの目に、悲しそうな色が浮かんでいた。
「い、嫌じゃ、なかったです!」
 僕は何も考えず、ただ思ったことを口にした。離れてしまったココさんの手を掴み、僕は必死にココさんを見つめる。ココさんの目が、僅かに驚いたように見開かれた。
「嫌じゃなかったです、けど! でも! ココさん、こういうのは本当に好きな人じゃなきゃ、駄目です」
 本当に好きな人?
 ココさんが眉間に皺を寄せて、僕を見下ろした。僕が頷くと、ココさんはどこか呆れたように、小さく溜息を吐いた。
「本当に好きな人、ね。僕の君に対しての想いは、それに値しないって、君はそう思うのかい?」
 ココさんの傷付いたような、怒っているような、そんな声音に、僕はびくりと体を震わせた。
「だ、だって……!」
 僕が何か言葉を紡ぐよりも早く、ココさんの手が僕の肩に掛かる。びくりと体を竦ませると、ココさんは真剣な表情で僕を覗き込んだ。
「生憎、僕は好きでもない人を心配して食事を持っていくような人間じゃないし、トリコみたいに見知らぬ誰かと危険なハントに行く程、お人好しでもない。ましてや男に告白して、抱き締めて、キスする趣味もない」
 切れ長の瞳が、真っ直ぐに僕を見つめた。僕はその視線に、またぶるりと体を震わせる。
「わかるかい? 全部、君だけなんだよ」
 そう言われて、体の中に何かが沁み渡って行くような気がしたけれど、僕は首を振ってその感覚を振り払った。
 違う、違う。だって、ココさんは……。
「こ、ココさんは、友情と愛情を勘違いしてるんです!」
 ココさんに詰め寄られて、僕はついに、胸の奥にずっと秘めていたその想いを吐露した。
 言ってしまった。もう発した言葉は戻らない。
 ココさんの目が、僕の言葉にすっと細められた。
「勘違い? 君はずっと、今までそう思ってきたの?」
「だってご飯を食べたり、お茶したいって! そんなの、友情のそれと変わらないじゃないですか!」



* * * *


「ん、あ……ッ」
 熱い吐息が唇から零れ落ちた。体中、もうココさんが口をつけていない所なんてないのではと思う程に、僕の体にはココさんのつけた痕がいっぱい残されている。
「や、ココさ……ッ」
 僕の制止の声に気付いているのかいないのか、ココさんはまだ足りないとばかりに、うつ伏せになった僕の肩甲骨あたりに口付ける。
 顔だけで振り向くと、それに気が付いたココさんと吸い寄せられるように目が合った。
「……っ、あ」
 にやり。
 そんな効果音が似合いそうな顔だった。ココさんはべろりと舌を出すと、僕の皮膚を舐め上げる。
 熱い舌に、僕は思わず体を震わせた。ぞわぞわと皮膚から神経を通って、頭の奥がじんじんと痺れていく。
「……っ、く、ん!」
 僕は枕を握り締めて、そこに顔を埋めた。自分の浅ましい声が漏れるのを少しでも抑えようと、僕は枕を噛み締める。
「小松君」
 ココさんの声が酷く間近で聞こえて、僕はぴくりと体を震わせる。ココさんは僕の耳を弄りながら、少し掠れたような声で僕の耳に囁く。
「声、聞きたい」
 初めて聞くココさんの声だった。それはどこか艶っぽく、どきりとさせるような声だ。そんな声にどぎまぎしつつも頷きそうになる自身を制し、僕は首を振る。
「駄目、です」
「どうして?」
 耳の後ろに口付けたまま、喋らないで欲しい。その低く艶やかな声は、僕の腰に重く響くのだ。
「こんな、声……ッ」
「可愛いよ?」
 僕はまた首を振った。ココさんはそんな僕の心情をよそに、どこか楽しそうに低く笑う。
「まあ、声を堪えている君も可愛いけどね」
「また、そんな……っ」
「ほんとだよ?」
 ココさんの手が、僕の体を撫でた。触れるか触れないかの際どい触れ方のせいなのか、なんとも言えない感覚が腰にじわじわと溜まっていく。
「……ふふ、でも、良いね、コレ。なんだかイケナイことをしているみたいだ」
「ん……ッ!」
 なんてことを言うんだ、この人は!
 そうは思えど、枕から顔をあげることは出来なかった。今の自分の顔は、頬と言わず耳も首筋も真っ赤になっているに違いないからだ。
「ねえ、恥ずかしがることはないんだよ?」
 だから、声を聞かせて。
 ココさんはそう言いたいのだろうけれど、出来ないものは出来ない。はしたなく喘いでいる自分の姿を想像するだけで、恥ずかしくて堪らないのに。
「……小松君」
 少し懇願するような声で、ココさんが耳裏に吸いついた。そのまま首筋に甘く噛みつかれ、労わるように舐められる。ココさんの柔らかい唇の感触がくすぐったい。
「ん、んぅ……ッ」
 ふ、と唇の隙間から吐息が漏れた。ココさんの指先が肌をなぞり、シーツと僕の体の隙間に入り込んでくる。
 ココさんの指先は腹から胸へと這い上がり、そこに膨らみがあるわけでもないのに、ココさんは何が楽しいのか、僕の胸を揉むように動かした。



蜂蜜彼氏
押せ押せココさん、たじたじ?小松君です
ココさんがひたすら甘ったるい言葉で小松君を誘惑します。

2014.08.16 夏コミC86にて発行