ぱたんと音を立てて、玄関の扉が閉まった。
鍵を掛けて、一つ伸びをする。
誰もいなくなった家はがらんとしていて、少しだけ広くなったように感じた。
いつもは騒がしい家に、今日から少しの間だけだけど一人きりだ。

俺は滅多にない一人の時間に、のんびりと羽を休めることにした。
だって、こんなこと一年に一回もあるかないかの日なのだから。

Kiss me...




静かな家に、一人。今日は母さんが旅行に行くだなんだで、皆を連れて行った。
俺は一人、留守番を買って出たのだ。
きっと向こうにいっても騒がしいに違いない。なんとなく、一人になりたい気分だったのもある。
心配する母親を余所に、俺は半ば追い出す形でみんなを家から出した。
そうしないといつまで経っても出ていく気配がないのだから、困ったものだ。
中学二年にもなったというのに、あれは大丈夫かこれは大丈夫かとしきりに心配する。そんな必要なんてないというのに。
それはなんとなくくすぐったいような気持ちではあるんだけど、どちらかといえば気恥しさのが勝ってしまう。
食事だってお腹が空けばちゃんと食べるし、もう洗濯機だって使える。
もう何も知らない子供とは違う。そうは思うのだが、それはただの背伸びに過ぎないのだということも自分が一番よくわかっている。

テレビをつけて、ぼんやりと眺めた。いつも騒がしいこの家が、しんと鳴りを潜めているのは不思議だった。 寂しいということもないが、何か物足りないような、そんな気分。
ごろりとベッドに横たわり、外を眺めれば既に日は沈み始めている。
母さん達が出て行ったのは、俺が学校から帰ってきてからだったから、恐らく夕方頃くらいだろう。
静かな家の時間は、こんなにも遅い。あの居候達がくる前は一体何をしていたんだろうと、今は遠い昔の平凡な日々を思い出そうとしたが、上手くいかなかった。
唸りながら時間を見た俺はふと思い立って、シャワーを浴びようとベッドから起き上がる。
ぽつぽつと考えながら、風呂の支度をして風呂場へと向かう。いつもは俺が一番だと先に入る黒服の赤ん坊もいない。
おまけに5歳児の、風呂にいれろとうるさいもじゃもじゃ頭のうざいやつも今はいない。
一人で入る風呂場は妙に広く感じられた。風呂をいれていないせいか、タイルの冷たさも相まって少し肌寒い。
さっとシャワーを浴びて、体と髪を洗い、浴室を出た。その瞬間の衝撃を、俺は多分、生涯忘れない。

「ふぎゃあ!!」
「……煩いよ。」

彼が、並盛最強のヒバリさんがそこに、いた。何故かご丁寧にトンファーまで懐から取り出しかけている。
俺の言葉に、今まさに噛み殺そうとでも思い立ったのか、黒い金属のそれがギラリと光った。

「ひいい!?な、なんでここにいるんですか!ってか、どこから!?」
「…どこって、窓から。」
「せめて玄関からあがってくださいよ…!」
「ふうん、僕に意見するわけ?」

言いながらも慌てて持っていたタオルで腰を覆った。俺の耳がチャキッと、物騒な音を拾う。
出来れば向けたくない視線を彼へと向けると、トンファーがその姿を見せていた。
俺はまたもやヒイイと叫びつつも、彼の機嫌がいつも以上に酷く悪いことに首を傾げた。

「ひ、ヒバリさん、なんでそんなに機嫌が悪いんですか…!」
「君が悪い。昨日、明日の放課後応接室に来いと言ったよね。君の頭はそんなことも覚えていられないのかい。」
「…あ…!」

その言葉に、ようやく合点がいった。そうだ、確かに昨日言われたのだった。
朝から旅行に行くだなんだでドタバタしてしまっていたせいで、すっかり頭から抜け落ちていたのだ。
トンファーが顎に添えられた。あぁ、これはもう噛み殺されても文句はいえないなと、覚悟を決めて奥歯を噛み締めた。
どうして約束を忘れてしまったのか、今朝の自分を恨んだ。何もこんな時に、そんな大事な約束を忘れることはないだろう!

「覚悟はいいかい。」
「……は、はい」

びくりと震え、ぎゅっと目を閉じた。訪れる衝撃を想像し、体が震える。
けれども、訪れた衝撃は酷く甘く、優しいものだった。
小さな音がして、額に柔らかな感触。

「……ッ、ヒバリ、さん?」
「しょうがない子だね。」

くすりと笑う彼に、初めてからかわれたのだと気づく。あんなに殺気みたいなものまで出しておいて、全く酷い。
安堵に力が抜けた俺は、へなへなとその場にへたりこんだ。

「し、心臓に、悪い…」

ぽつりと呟いた言葉を耳ざとく聞きつけたヒバリさんが、意地悪げに笑った。
やがて何かに気付いたように、彼は瞳を細めながら言葉を紡ぐ。

「ねえ、もしかして僕は誘われているのかな?」
「ふえ?」

彼が舐めまわすような視線で、俺の姿を眺めていることに気付いた。
見降ろした自分の体は、タオルを腰に巻いただけの格好。別段男同士なら構わないだろうとは思うが、彼の視線には危険な色が多々含まれていた。
慌てて部屋着を着て、風呂に入った所為とはまた別の理由で頬が赤くなったのが自分でもわかった。
意地悪げな笑みをまだ顔に浮かべている彼をなんとか自室へと向かわせて、とりあえず飲み物を持って自分の部屋へと向かった。
先に部屋に行ってもらっていた彼は当然のようにベッドに腰掛け、窓辺からぽっかりと夜空に昇っている月を眺めていた。
部屋の電気もつけずにそれを眺めている彼の姿は、本当に様になっていて思わず見惚れてしまう。

「これ、飲み物です。」
「あぁ、うん。」

ことりと机に置くと、彼はそれを一瞥してまた外へと視線を投げた。

「今日は、すみませんでした。」

彼の目の前に腰を下ろし、電気はつけないままその言葉だけを口にする。
月明かりだけでも、充分室内は明るい。どことなく、物寂しげな雰囲気が部屋に漂った。

「それは、まだ許してないよ。」
「…えぇ!?だって、からかっただけじゃ!?」
「僕を待たせておいて、何もしないわけ。噛み殺されたいの?」

彼の鋭い視線が俺に突き刺さる。その瞳の色には、どこか楽しげな色。
いい玩具が見つかったとか、そんな感じの瞳だった。
決まって彼が、こういう瞳をするときは俺にとってあまりよくない条件が提示される時のものだ。

「…キスして。」
「……ッ!!」

静かに言い放った彼の言葉は、絶大な威力を誇っていた。
自分から、彼に、キスをする。
頭の中でその言葉を呟いて、その意味を理解すると同時に頬の熱が急上昇した。
耳の後ろに心臓があるかのように、ドキドキと鼓動が聞こえる。
部屋の電気をつけなくてよかったと、今更ながらに自分の行動を褒めた。
ヒバリさんは挑発するように、威圧するように、俺のことをじっと眺めている。
鋭い眼光を放つそれは、俺の身動ぎなど容易く止めてしまう。当然ながら俺に拒否権はないのだろう。

「出来るよね?」

それは問いかけではなく、命令だった。
まるで小さい子に問いかけるようなそれでも、その声音は絶対的なものだった。
今までの長くはないが、短くもない付き合いの中で俺が学んだことの一つだ。
甘い声音は、優しい響きではあるのだけれども、逆らうことを良しとしない。

「……は、い…」

まるで、操られてしまうかのように、彼の思惑通りにことが進む。
熱に浮かされたかのような俺の体の熱は、相変わらず制御が不能なままだ。
うわ言のように返事を返し、俺は震えそうになる足を一歩ずつ、少しずつ彼へと向けた。
ベッドの上に座る彼は口端をあげて、目を眇めていた。
ぺろりと舌舐めずりする様は肉食動物のそれを思い起こさせて、瞳は餓えた獣のようにギラギラとした光を放っている。
触発されたように、俺の呼気が荒くなる。ゆっくりと腕を伸ばし、彼の首へと回す。ベッドが二人分の体重を受けて、ギシリと抗議の音を立てた。
月明かりの所為で明る過ぎる部屋の中では、彼の顔ははっきりとよく見える。同時に俺の顔もよく見えるのだろうかと考えれば、更に体の熱があがったような気がした。

「はやくしてよ。」

顔が近い。彼の黒髪が、沈黙に耐えかねてさらりと流れたのが目の端に映った。
ドクドクと血が体を駆け巡るのを感じながら、俺は彼に顔を近づける。
触れ合わせた彼の唇は、俺のそれよりも幾分か体温が低い。ぞくりと背筋を伝わった何かには、気付かないフリをした。

「もっと。まだ、足りない。」
「……ッ!」

唇に、先ほど感じた彼の温度よりも熱い吐息が掛る。
楽しげに細められている瞳に、またぞくりと何かが背を伝う。腰に手が添えられていて、逃げようにももはやそれも叶わない。
俺の首に彼の、低い体温がそろりと触れた。触るか触らないかのそれに、俺の体がびくりと反応する。

「熱があるね。」
「……だれの、せい!」
「僕との約束を破ったのは、誰?」

ぐっと詰まると、彼は口元の笑みを深くした。俺にはそれが、悪魔の笑みにしか見えなかったけど。

「俺、です。」
「…そう、君。わかってるんじゃない。じゃあ、どうすればいいかわかるでしょ?」

甘い声で、彼は罠を張り巡らせる。俺がその声に弱いと知りながら、その声で俺を陥れようと罠の中へと誘い掛ける。
俺はそれに気づきながらも、彼から逃れることも出来ずに罠の中へと、落ちていく。
もう一度彼の唇に己のそれを重ね合わせて、躊躇いがちに舌を伸ばした。
恐らく意識しながら舌を差し伸べたのは初めてだった彼の口腔内は、その見た目からは想像もできないくらい熱かった。戸惑いがちに絡めると、彼の舌が応えるように優しく動く。
けれど、彼は珍しく自分から動く気はないらしく、俺のされるがまま、気紛れに絡めるだけだった。そういうことは、本当は嫌いな筈なのにも関わらず、だ。
かといえば、彼は別に機嫌が悪いわけでもないらしい。寧ろ、逆のようだ。楽しげに細められている瞳に見つめられて、恥ずかしさのあまりに瞳を伏せる。
静かな部屋に、粘着質な音が響く。それがいやに耳に響いて、俺の聴覚を刺激した。

「……はっ、ヒバリさん、もういいです…ぅンッ…!」
「まさか。これだけで僕が満足すると思ってるの?」

唇を離し、唾液まみれの唇を拭おうとした手が宙を掴み、もう許しを乞おうとした唇はまた塞がれてしまった。
ヒバリさんの手が俺の頭を引きよせて、今度は彼の舌が俺の口腔内にぬるりと侵入してくる。
俺がするよりも情熱的で巧みなそれは、彼の口腔内の温度と同じくらいにおよそ似つかわしくない激しいキスだった。

「ふっ…うぁ…」

そのまま彼の膝の上で力尽きてその上にへたりこんだ俺を、ヒバリさんは咎めることはしなかった。 ただ、ぐっと頭の裏にあった節ばった手に力が籠った。もうこれ以上深くなることはないと思っていたキスが、角度を変えて更に深くなる。
彼のシャツを握る手にさえ力が入らなくなった頃、それはようやく離された。

「これくらい出来るようになって貰わないとね。」

ニヤリ。そんな表現がぴったりの、綺麗な顔で彼が意地悪く笑う。息が整わなかった俺には、それは無理だと伝えることは困難だった。
ぐったりと彼の肩に額を乗せて、体重を全て預けた。ヒバリさんは、それに対して文句はないようだった。
俺の呼吸が落ち着くまで、背中を優しく擦ってくれる彼の手は優しい。髪を撫でつけるもう片方の手も、その視線さえも。
やがて、背中を撫でていた手の平がするりとベストを押しのけ、シャツの隙間から俺の素肌に触れる。
その冷たい体温に、びくりと体が竦む。

「ひゃう!!ちょっ、ヒバリさん!?」
「……もういいでしょ?」

何が、とは聞けなかった。
そのままどさりとヒバリさんの座っていたベッドに押し倒される。
慌てて胸を押し返しても、先ほどの名残も手伝って上手く力が入らない。

「やっ、ヒバ…ッ!!」
「…黙って。」

いつもより低くなった、艶やかな声に体の熱があがっていく。
こうなってしまってはもう、流されるより他はない。

「ヒバリさん」

俺は彼の名を呟いて、キスを強請る。
くすりと機嫌良さそうに笑った彼の顔が、近づく。

やがて触れた唇は、どちらも熱かった。





あとがき

ヒバリさんのお仕置きはこの後もきっと継続です(ぇ

2008/09/04 Up