甘い香りが鼻につく。
どこから漂ってくるかもわからないその花の名前。
その匂いは、ひっそりと僕らに秋がやってきたことを告げる香り。
「…ここまで香ってきてる。凄いですね、キンモクセイって。」
がらりと大きく開けた応接室の窓からひょこりと顔を出した草食動物が、感心したようにそう言った。
ふわりとした髪を風に揺らし、嬉しそうに階下を眺めているその光景を見て、穏やかな気持ちになる。
そんな気分に最初こそ苛立ちさえ覚えたが、最近では段々と気持ちがいいものなのだと自覚するようになった。
これが君の所為で起こった感情ならば、僕はきっともう引き返せない所まで来ているんだろう。
初恋
「あの木ですよ、ヒバリさん!」
何が楽しいのか、嬉しそうに彼が言う。そんなの、この部屋の主である僕が知らない筈はないのにね。
今にも落ちるんじゃないかとさえ思ってしまうくらい身を乗り出す彼の襟首を掴み、引き戻す。
蛙の潰れたような声が聞こえたが、そんなことは知ったことではない。
ぴしゃりと窓を閉めて、彼を引き連れてソファに座らせた。
「いたっ…!!どうしたんですか、ヒバリさん?」
「僕は寒いんだ。」
凄んで見れば、彼はびくりと怯えてひたすらに謝罪の言葉を口にする。
にたりと意地悪く笑い、彼の横に腰を降ろす。先程とは打って変わってびくびくと震える彼に、笑う。
「す、すみませんっ!本当に俺って気が利かないですね!!出直します、もうしません、だからッ!!」
「煩い。咬み殺すよ。」
ひいぃぃと、叫び声が聞こえる。すぐ近くで叫ばれたから、僕は眉間に皺を寄せた。
より一層怯えた草食動物が、涙目になりながらソファの上で後ずさりする。
じりじりと追いつめて、肩を掴んで力任せに押し倒す。
「ギャッ!?」
「いつも思うけど、もう少し色気ってものを意識したら?そんなんじゃやる気もおきないよ。」
「ちょっ?!やるって…そんなの、お、おきなくていいです!」
僕の肩を掴んで、半ば混乱したように僕の体をはがそうとする。
もうちょっと苛めたら、きっと君は泣くんだろうね。
くすくすと笑うと、草食動物はきょとんとした顔の後に、音がするくらいに顔を赤く染めた。
ころころ変わる表情。それも、嫌いじゃない。
「からかったんですか!?」
「さあ、どうだろうね。責任取ってくれる?」
「責任!?なんの、ですか?!」
「僕の体温奪ったじゃない、君。」
そんなの貴方だって…!と、反論しかけた草食動物には首筋にトンファーを宛てることで黙らせた。
「何か文句でも?」
「めめめ、滅相もございません!!俺が全部悪いです、だから物騒なそれ仕舞って下さい!!」
「うん、良い子。」
僕は笑って、彼の額に口付ける。
ぎゅっと瞳を閉じる彼の瞼が震えている。もう何度もしたというのに、未だに慣れない彼に僕は笑みを深くした。
ちっとも冷えていない体から、僕の指先に伝わる熱が気持ちいい。
丁度よいくらいに温かいそれが、じんわりと僕の体を包みこんでいく。
「つめ、たっ!」
「君の所為だよ。」
「だって、下で金木犀の香り、が…!」
首筋にぺたりと掌を宛てると、びくりと反応する体。
大分体温が移ってきたと思ったのに、彼に言わせればまだ冷たいらしい。
確かに、この草食動物は子供体温のようだから、仕方無いのかもね。
「香りが、何?」
「…秋だなって思ったから、ヒバリさんにも感じて欲しくって。」
渋る彼を促すように言うと、照れたようにそんなことを言う。
僕はその言葉に溜息をつくと、ぎゅっと彼を抱きしめた。
体重が掛かっているだろう彼は、文句を言うことはなかった。…言ったら殴ってやったけど。
「ヒバリさん、ヒバリさん。」
「何」
耳をくすぐる、彼の甘い声が僕の名前を嬉しそうに呼ぶ。
背に回された手が、ぎゅっと僕の学ランを掴んだ。ふわりと香るのは金木犀の香りではなく、お日さまの匂い。
「金木犀の花言葉って、変わらぬ魅力って言うらしいです。」
「そう。」
「花も小さくて、可愛らしいんですよ。」
「知ってる。」
「匂いも凄く強くて、包みこまれてしまいそうで。俺、近くにいったら咽ちゃいましたよ。」
はははと呑気に笑うこの草食動物が草花に詳しいとも思えないから、誰かに連れて行かれたのかもしれない。
忠犬か、野球馬鹿か。それとも他の誰かか。僕は彼にそんなことを吹き込みそうな人間を頭に思い浮かべてみたけど、あまりにも多すぎて皆目見当もつかなかった。
「誰から聞いたの。」
「え?んと、獄寺君です。」
何を思い出したのか、少し頬を赤く染めている草食動物に、僕は苛立ちを隠さないまま体を離した。
離れた所から、温もりが消えていく。
草食動物はといえば、きょとんとしたように首を傾げて体を起こした。
「貴方みたいな花があるんですって言われて、連れてってくれたんですよ。色々調べてくれていたみたいで」
「もういいよ。」
あの忠犬だったかと、僕は溜息をついた。
苛立ちを隠しもしていない僕の態度が気になったのだろう、草食動物は眉根を寄せて僕のことを物言いたげにじっと見ている。
「ヒバリさんみたいだなって。」
背を向けた僕に、彼がぽつりと呟いた。その声は、いつもの彼とは違ってどことなく寂しげで、悲しげで。
振りむかない僕に、彼はお構いなしに言葉を続ける。
「俺は貴方を見つけられない。でも、貴方は俺のことを見つけられる。」
「綱吉?」
「俺はヒバリさんが好きなんです。どこまでも変わらない、そこがヒバリさんの魅力なんだろうなって。」
話を聞いていて、思ったんですよ。綱吉は、小さい声でそう囁くように口にした。
そして、背中がふわりと温かくなった。
「ヒバリさんの体が冷えてしまったのは、俺の責任なんですよね?」
「今日はいやに積極的じゃない。」
顔を見ないまま言うと、ぎゅっと前にまわされた手に力が籠った。
緊張しているのか、その手は力を入れ過ぎている所為で白くなっていた。
触れてみると、綱吉の手は僕の体温よりも低くなっている。背中にあたる心臓音が、ばくばくと鼓動を奏でているのがわかった。
伝染するのだろうか、これは。
自然と僕の心臓も、どくどくと煩いくらいに音を立て始める。
「雨や風が吹けば、花は落ちて、跡形もなく匂いはいつの間にかなくなってる。まるで貴方のようじゃないですか?」
「何、不安なわけ?」
一瞬の間。
僕の服を掴んでいる手が更にぎゅっとしがみついてくる。
顔を背中にくっつけているせいで、次に聞こえた綱吉の声は押し殺しているような声になっていた。
「…そうかもしれません。」
「馬鹿じゃない。ねえ、金木犀の他の花言葉を知らないの。」
腕を離させて振り向けば、首を傾げた彼がそこにいる。
「花言葉って、一つじゃないんですか。」
「そういうわけじゃない。大抵何個もあるものだよ。」
へえと感心したように言う彼だから、やっぱり知らないみたいだ。
僕は綱吉の額を指先で弾いて、溜息をつく。こんな草食動物のせいで、一々感情を抑えられなくなる自分が馬鹿みたいだ。
怒ったり、嬉しくなったり。本当に君を知ってからというもの、僕は忙しくて敵わない。
「で、他の花言葉ってなんなんですか?」
「初恋」
「へえ」
やっぱり興味がないのだろう彼は、それだけを口にする。
「僕から君に送ってあげてもいいよ、その言葉。」
あの忠犬も、もしかしたらその意味を知っていたのかもしれないね。
でも、それは駄目。この子はもう僕のなんだもの。
「え、ふぇ?うえぇえぇぇぇ?!」
「ちょっと、奇声あげないでくれる。」
「す、すみません。でも、え?え?ヒバリさん、もしかして?えええええ!?」
そのあまりの態度に、僕も段々怒りのボルテージが抑えきれなくなってきた。
「咬み殺していい?」
「ごっ、ごめんなさいッ!ひ、ヒバリさんって、もうとっくに終わっているの、かと。」
「悪い?君も同じでしょ。」
「ヒバリさんは悪くないですし、俺もといえば俺もですけど!!」
「何、不満なわけ?それとも、僕に問題でもある?」
「嬉しいです嬉しいです!!と〜〜っても嬉しいです!!ヒバリさんに問題があるわけがないです!」
むにりと彼の柔らかい頬を抓ると、びくりと体が震えた。なんでそう投げやりに言うかな、この子は。
ぎゅっと苛立ちまぎれに力を込めて抓ると、痛いと訴えて目に涙を浮かべる。本当に、こんなののどこに惚れたんだか。
「どうでもいいけど。」
「いひゃいです」
「痛くしてるんだよ。…あぁ、そうだ。確か、真実ってのもあるんだよ。」
「ふえ?」
潤んだ瞳に溜まった涙を、べろりと舌で掬う。しょっぱいけれど、どこか甘い。
甘い砂糖菓子のような君こそ、きっと金木犀がよく似合う。
誰もが惹かれてやまない君だから、ね。
「ねえ、綱吉。」
ぱっと手を離すと、抓られた箇所を摩る草食動物。
視線だけで何と問うてくる彼を引きよせて、その耳に唇を寄せる。
とっておきの、甘い甘い声で、彼の耳へと囁いた。
「この気持ちだって、真実だと思わない?」
そう言って、より一層深く抱きこんだ。
視界の端に映る耳が、赤く赤く、段々と色づいていく。
「ヒバリさんって、たまにそうやって爆弾落としますよね。」
首を傾げた僕に、草食動物は肩を震わせて笑う。
綱吉がぎゅっとしがみついてきたせいで、顔は見れなかったけど。
「でも、そうだったら、嬉しい…です。」
その声音からして、僕の胸に顔を埋めている綱吉は、一目で幸福とわかるような顔をしているに違いない。
体も胸の中も、それを思い浮かべただけで温かくなる。どうやら僕も、余程の重症らしい。
「そうするんだよ、これからね。」
顔をあげさせて、ゆっくりと顔を近づけていく。
重なった唇も、やっぱり温かいものだった。
あとがき
秋らしく、キンモクセイを題材に。
甘〜くしてみました。
雲雀さんの何気ない一言に、綱吉はいつも顔を真っ赤にしているに違いない(笑
2008/11/10 Up