その日は異様に寒かった。
綱吉がぶるりと体を震わせながらなんとか布団を出て、時計を眺め、その時刻に愕然としたのが8時15分。
どんなに頑張っても30分のホームルームには間に合わないであろうことは明白だった。

「嘘だろぉ……」

なんで誰も起こしてくれなかったんだよ!という叫びと共に、彼は慌ただしく家を飛び出して行く。
そんな彼の後姿を、彼の母親だけが見送った。

「ツッ君ったら、何か約束でもあったのかしら?」

彼女は洗濯籠を抱えながら、不思議そうに首を傾げ、呟いた。

冬の話



息を切らし、綱吉はなんとか校門前まで辿り着いた。
彼は今更ながらはたと荷物を確認し、慌てて出てきたせいで今日の弁当を貰い忘れたことに気が付いた。
目の前には高くそびえているように見える校門。
一旦家に戻っても遅刻には変わりがないことには違いない。
だったら、家に一度戻ればいいだけ。
そうは思えど、今日だけは戻れない理由が綱吉にはあった。
今日の授業の一時限目は科学だ。当然、何かがない限り授業は科学室でやることになっている。
そしてなんと、その授業では綱吉の憧れでもある女の子、笹川京子が彼の隣の席だった。
たったそれだけのことだが、綱吉にとってはこの上ない幸福の時間になることは違いなかった。

(もうこうなったら、購買で買えばいいや……。)

今日もダメだなあ。そんな心の呟きと共にがっくりと項垂れて校門をくぐろうにも、門は固く閉ざされていた。 その上、どうやったって通してくれそうにない。綱吉は溜息を吐いて、とぼとぼと歩きだす。
意地悪な校舎の時計は、追い打ちとばかりに8時45分を指し示した。
綱吉はそっと校舎裏にまわって、随分と前に見つけていた抜け穴を利用して何とか校舎内に入った。
やっとの思いで入れた学校は、いやにシンとしていた。それに、やけに暗いような気もする。
いつもと違う学校に首を傾げた綱吉の肩の上に、音もなく忍び寄った誰かの手がぽんと乗せられた。

「……やあ。」
「…ギャー!?」

びくりと大袈裟に肩を竦め、その声に反応した主がトンファーで持って彼にしては軽い一撃を綱吉にお見舞いした。

「いたっ…!!」
「…煩いよ。」

痛いと涙目になる綱吉は、殴られた頭を摩りながらその声の主を見上げた。

「ヒバ、さん…」

終わった。何もかもが終わった。綱吉は自分の身の不幸を覚悟した。
が、その覚悟とは正反対にぽんぽんと頭に乗せられた大きな手のひら。

「どうしたの?また補習?」
「……ふえ?」

遅刻をした自分に対する処罰にしては、先ほどの一撃はあまりにも軽すぎる。
彼は恋人であろうと風紀を乱す者には容赦はしない人間だった筈だ。
綱吉が首を傾げると、目の前の彼、雲雀恭弥は何を悟ったのかくつくつと楽しそうに笑い始めた。

「まさか、遅刻だとでも思ってる?昨日、終業式だったでしょ。もしかして、忘れちゃったのかい?」
「……え?……ぁ、え……ああーーー!!!」

その叫び声のせいで、本日二度目の鉄鎚が綱吉の頭に落ちたのはもはや言うまでもなかった。







「……酷いですよ…」
「煩いと忠告はした筈だよ。」

雲雀に手を引かれながら、綱吉はさすさすと殴られた部分を摩っていた。
たった今外から来たばかりのせいか、鼻と頬を若干赤く染めた彼は不貞腐れたような顔をしている。

「もう、今日は最悪な日です。」
「…そう。」

綱吉が沈んだ声で答えるのに対し、雲雀はどことなく上機嫌そうにその一言だけを呟くように言った。
彼が朝からこんなに上機嫌なのも珍しい。
先程まで沈んでいた綱吉の気持ちは、単純なことにそんな彼の表情に吹き飛ばされたようだった。

「ヒバリさんは、何か良いことでもあったんですか?」

綱吉が手を握る彼を見上げて問うても、彼は口端をあげるだけでその問いに答えはしなかった。
上機嫌に握られた手と、鼻歌でも歌いだしそうな彼の姿。
そんな彼を見上げたまま綱吉はわけがわからないと首を傾げはしたが、それ以上問うことはしなかった。
綱吉の冷えた手を温めてくれる雲雀の手の温もりは、ゆっくりと綱吉の手に移っていく。
ちらりと綱吉が横目で盗み見た彼は、相変わらず上機嫌そうなまま。
不意に、雲雀の視線が綱吉に向けられた。
視線が合った瞬間、その鋭い瞳は細められ、また彼は上機嫌そうに口端をあげてみせる。

(ぅ、わ……どうし、よ。)

たったそれだけのことで、綱吉の心臓はとくとくと煩く鳴り始めた。
いくら持ち主が止まれ、納まれと念じても心臓は本人の意思を無視してその音を加速させていく。
実際に本当に念じただけで止まったら困るのは自分だと知りつつも、この音だけはどうにかしてほしいと綱吉はぎゅっと瞳を瞑った。

「何、してるの?」

ぎゅっと一度目を瞑ったせいで、ふらりと綱吉の上体がふらついたのを雲雀はそっと肩に手をまわすことで支えた。
くすくすとまた笑う、雲雀の低い声が綱吉の耳に入ってきた。

「いえ!な、なんでも、ないです!」
「風邪でも引いたの。」
「…ち、違います!」
「ふらふらしてるし、顔が赤いよ。」

するりと頬に伸ばされた指先は、冷たくなってしまっている。
きっと自分が冷やしてしまったのだと思うと、綱吉は少しだけ罪悪感に駆られた。
けれど今度はその冷たさが、頬には心地よい。
風を遮る壁があるため、外より寒くはないがそれでもやっぱり廊下は冷える。
そっと冷たい掌に頬を押しあてるようにすり寄って瞳を閉じると、雲雀は驚いたようにそんな綱吉を眺めた。
「…ふうん、珍しいね。」

するりと頬にあった掌を綱吉の首裏に移動させる。
びくりとその冷たさに竦んだ綱吉が、恨めしそうに一度雲雀を見上げた。
雲雀はやっぱりどこか楽しげに瞳を細めて綱吉を見詰めるだけで、先程の言葉以外は何も言わなかった。
そして再び歩き出した彼らの足音だけが、静かな廊下にまた響いて行く。
目的地はすぐそこにあった。音を立てて開かれた温かな部屋の入口。
中に入ってから、綱吉はやっとそこで息を吐いた。

「…うぅ、なんか今日寒いですよね。」

ふるりと体を震わせて、綱吉は己の体を抱きしめるようにして体を擦った。
外を眺めてみれば、今にも泣き出しそうな灰色の空が地上に暗い影を落としている。
温かそうな日の光は、残念ながら今日は見れなさそうだった。

「何か、温かいものでもいれてあげるよ。」

座ってて。と、一言だけ言ってから奥へと消えた彼の言葉の通り、綱吉は定位置となったソファに腰掛けた。革張りのソファは、ひんやりとしていて冷たかった。
両手を擦り合わせて、体が温まるのを待つしかないなと息を吐く。

(そういえば、ヒバリさん、今日も仕事なのかな…)

大変だなあ。と、綱吉は彼の姿を求めるかのように応接室の奥をじっと見つめた。
時々聞こえるカチャカチャとした音は、きっと彼が温かい飲み物を用意してくれている音なのだろう。
温かい部屋のお陰で、段々と体の表面は温かくなっていくのに、体の芯はどこか冷えたまま。
抜けない肌寒さに、綱吉はまた身震いした。
暇潰しと寒さ凌ぎに部屋を見回せば、雲雀の執務机には書類がどっさりと山積みにされていた。
その山の向こうには灰色の空が広がっている。どんよりと重く街に圧し掛かる雲は、どこまでも続いているように見えた。

「はい、出来たよ。」

ぼんやりとした思考を打ち消したのは、紛れもない雲の守護者たる彼、雲雀恭弥だった。
はっとしたように視線を目の前に戻せば、そこには湯気を立てた温かそうなカップが一つ。
雲雀はいつの間にか綱吉の横に腰掛け、自分のカップに口をつけている所だった。

「あ、ありがとうございます。」

わたわたとカップを両手で掴み、くいと何の気なしに口に運んだ。

「あ、綱吉」

何かに気付いたらしい雲雀が何かを言うよりもはやく、綱吉の唇がカップに触れる。
中の液体を口腔内に招き入れた瞬間、綱吉はそのあまりの熱さに思わず口に含んだものを吐き出しかけた。

「あつっ…!!」
「…あぁ、遅かったね。今日は寒いから、いつもより熱めのお湯で作ったんだけど…」

くつくつと笑う雲雀は、もしかしてわざと教えなかったんじゃ…と、いう気を綱吉に起こさせる。
火傷した所為で薄ら涙をその瞳に浮かべた綱吉は、冷まそうとしてか、ヒリヒリする舌先を出した。
少し赤くなった舌先は、雲雀の視線をそこに釘付けにさせるには十分な効力を持っていたらしい。

「もう、本当に今日は最悪です…」

おまけに楽しみにしていた授業は当然ながら、ない。だから京子とも会えない。
今更ながらそれを思い出した綱吉は、先ほどよりも更に沈んだ声でそう呟いた。
横目でそんな綱吉を見た雲雀は、その姿に少しばかし驚いたような顔をして動きを止めた。
くすんと鼻を鳴らすその赤い頬、舌先を触る細い指先、涙目になった大きな瞳。
更に上目遣いでそんな風に話し掛けられていたものだから、思わずくらりと眩暈すら覚えた。

「そう?」
「そうですよ、冬休みなのに学校に来ちゃったし。火傷するし、寒いし!」

京子ちゃんにだって逢えないし!そう言いかけた綱吉は、慌てて口を噤んだ。
そんなことを言おうものなら、綱吉はこの場で突然不機嫌になった雲雀の手によって咬み殺されていただろう。だから、やっぱりそれは賢明な判断だったに違いない。
綱吉のむすっと不貞腐れた唇と、恨めしげに見上げられた瞳に雲雀はくつりとまた笑った。

「それは、災難だったね。」
「ホントですよ、もう。あ、でもこの紅茶はとっても美味しいです。ありがとうございます。」

はっと、慌てて弁明する彼の姿にまた雲雀は笑う。
両手で暖を取るようにカップを包み、その温かさに幸せそうに瞳を細める彼はとても「今日は最悪だ」と、思っているようには見えない。
雲雀も彼の横で紅茶を飲み、隣の彼を暫し観察した。
ふうふうと息を吹きかけて、恐る恐るといった風に紅茶を飲む彼はまさしく小動物。
さしずめリス辺りだろうかと考えて、そのあまりにもぴったりすぎる考えに彼に気付かれないように微笑んだ。
紅茶に薄らと映る自分の緩んだ顔は、普段なら顰め面ものだが、彼の前なら仕方ないと雲雀は理由付ける。

「僕は今日は、運が良いみたいだよ。」
「そうみたいですね。何があったんです?」

紅茶を机の上に置きながら、綱吉は雲雀へと視線を投げた。問いはせずとも今日、彼の機嫌の良い理由がずっと気になっていたらしい。
綱吉ははやくとばかりに瞳を輝かせ、雲雀を見上げる。

「うん。君が、いたから。」
「……へ?」

雲雀のカップが机の上に置かれ、ずいと顔が度アップになったかと思えば、そんな言葉。
一瞬何を言われたのか理解できず、綱吉はなんともいえない間抜けな声を出した。
雲雀の口端が、そんな綱吉の姿にまたにやりと持ちあがる。
綱吉はといえば、どんな表情をしていいのかわからないのか、あたふたとソファの上で後退りをした。

「あ、の…えっと、うわ!?」

だが、ソファがそんなに長い筈もない。
じりじりと逃げようとした綱吉の肩に手を置いた雲雀が、ここぞとばかりにソファの上にその体を押し倒した。とさりと柔らかいソファの上に、綱吉の身が横たえられる。

「今日はね、朝から気分は最悪だったよ。群れる奴らは目の前に現れるし、つまらない仕事ばかりだし。」

何人か咬み殺したけど、気分は晴れなかったんだと彼はその甘い声で言う。
ふるりと震えながら、綱吉はその運悪く咬み殺された人達に心の中で両手を合わせた。

(お、俺は運が良かった!!)

間近にある雲雀の口元が、ゆうるりと弧を描く。
さらりと流れ落ちてくる黒髪が、今にも綱吉の目に入りそうな程、近い。
黒曜石の瞳に映る自分の顔を見て、綱吉はなんだか酷く恥ずかしくなって、顔を背けた。
その一瞬の隙を雲雀が逃す筈もなく、彼は楽しそうに綱吉の頬へと唇を寄せる。

「今更なのにね。何を照れているの?」
「今更…ッて!慣れるわけないじゃない、ですか、こんなの!!」
「そう。じゃあ、慣れるまでやろうか?」
「…結構です!!」

ぐいと肩を押し返す綱吉の力は弱い。
雲雀はその手を絡め取り、彼の頭上で一纏めに抑え込んでしまった。

「ホント、今日は最悪な日です!!」

自棄になったように綱吉がまたその言葉を言った。
雲雀の動きがその言葉に止まり、また先程の笑みとは違う不敵なそれを浮かべる。
しまった。と、綱吉が思ったとしても、それはもう後の祭り。

「そう。じゃあ、最高の日だったと思えるように、精一杯やろうね」
「ひひひ、ヒバ、ヒバリ、さん!!さっきの嘘です、俺の本心は真逆なんです!!本当は…!!」
「ワオ、今日はそういうプレイがいいの?」
「ちが…!そんなわけないじゃないですか、ちょっ、やめっ、人の話聞いてくださ…!」
「やめろってことは、やめるなってことだよね。いいよ、一杯、咬み殺してあげる。」

ギャーというなんとも色気のない悲鳴は、雲雀の唇によって塞がれた。
くぐもったような声が温かい室内に小さく響く。
するりと服の下に入ってきた手。
今ではもう綱吉の体温よりも低くなった手に、彼はびくりと肩を竦ませた。
観念したかのように力を抜いた獲物を前に、捕食者はぺろりと舌舐めずりをした。

「…いい子だね。」
「ん、ぁ……ヒバ、リ…さ…ッ!」

まるで草食動物を言葉通り咬み殺すかのように、雲雀は綱吉の喉元に歯を立てた。
ちくりとした痛みに、綱吉の体がまた跳ねる。
咬み痕を満足そうに眺めた雲雀は、また嬉しそうに綱吉の額にそっと、優しいキスを落とした。
腕を掴み、抱き起こしてやれば少し潤んだ瞳が間近で困惑したように揺れる。縋るようなその瞳に、雲雀はくつりとまた笑った。
綱吉の薄らと涙を浮かべた大きな瞳には、そんな雲雀の姿が映っていた。
至近距離に未だ慣れないらしい彼は、照れたようにそっぽを向く。また笑みを浮かべた雲雀は、本格的に獲物を食らうためにその手を伸ばした。

「……っ、綱吉?」

手を伸ばした先、彼はするりと雲雀の腕の中を抜け出して、窓辺へと駈け寄った。
手を離したのがいけなかったかと、雲雀は内心舌打ちをしてみせた。

「ヒバリさん!見て下さい!」

振り向いた綱吉が、嬉しそうに窓の外を眺めていた。
彼のあまりにも嬉しそうなその顔に、文句の一つも言えなくなった雲雀は黙って彼の後ろに立った。

「…通りで寒いわけですよねえ!雪ですよ、雪!」

はしゃいでいる綱吉は、先ほどの行為のことなどもう忘れさってしまっているかのようだった。
これからという所で獲物に逃げられた捕食者は面白くなさそうに、綱吉の気付かぬ所でむっとして見せた。
呑気な草食動物は窓の外を眺め、空からの贈り物を微笑みながらじっと見詰めているばかり。
背後から音もなく忍び寄った雲雀が、後から綱吉を羽交い絞めにする。

「ヒバ……?」
「君は僕よりも、雪のがいいわけだ。」

鼻を綱吉の首筋に押し当てて、彼の香りを目いっぱい吸い込んだ。
今日は見れないであろう日向のような香り。腕の中に大空を閉じ籠めた雲雀は、満足そうに鼻で笑う。

「あの?」
「妬けるね。僕は、それほど心は広くないよ。」

鼻を押し当てていた首筋に、今度は唇をそっと押しあてる。
その行為に、先程の余韻を残していた体がぴくりと反応した。

「あの、ヒバリ、さん?」
「いいよ、雪を見ながらというのも一興だし。」
「……あ、あ、あの…?」

雲雀の腕の中でくるりと体を反転し、彼の顔を見上げた綱吉はその時、後悔した。
綱吉が振り返ることは予測済みだったのか、意地悪気な笑みを浮かべた雲雀の端正な顔がすぐ間近にまで迫っていた。
その瞳は、草食動物に隙あらば食らいつこうとしている獣そのもの。
綱吉はもう逃げられはしないのだとその表情を見て、悟った。

「ヒバリ、さ…!!」
「…そろそろ、煩いよ。」

シャッと、カーテンが引かれる音と共に、その布の中に埋もれながら黙れとばかりにキスをされた。
ひんやりと冷たい窓から伝わる冷気と、熱いくらいの彼の体温。口腔内に感じる彼のそれに、綱吉は答えるように一生懸命己の舌を絡ませる。
するりと衣服の中に侵入してきた手は、冷たかった。ぴくんと反応した綱吉に、雲雀は目元を少しだけ和らげる。

「…こ、ここで?」

キスの合間に困惑したような声が、雲雀の耳に届く。
ふっと口端をあげた捕食者は、また咬みつくように口付けることで、それに答えた。








それからいつの間にか、冬休みで誰もいない筈の学校から叫び声や呻き声が聞こえたり、雪の降る日には誰もいない筈の部屋のカーテンが独りでに揺れる…など、色んな噂が流れ始めた。
噂は広まり、いつしかそれが並中の七不思議の怪談の一つとして数えられることになるのは、それから数日後の話だった。
綱吉はそんな話を聞かされたり、耳にしたりする度に、覚えのあるそれに思わず頬を染めたりすることになるのだが、それはまた別のお話。





あとがき

怪談話、冬のとある二人の話…と。
こうして並中伝説は作られていくに違いない(笑)
獄寺辺りが新しい話を持ってきて、綱吉に得意げに話すんです、きっと。
そんな話もいつか書いてみたいです(笑)

2008/12/14 Up