その曲を思い出したのは、彼がいなくなってから数日経ってからのことだった。
それまで不思議なことに、思い出しもしなかった。よく、彼が好きだと言っていたのにも関わらず、だ。
きっかけは本当に些細で、なんてことはない理由だった。
一枚のクラシック音楽のCDが、たまたま僕の部屋で見つかった。
開いたケースの中にあったのは、CDと四つ折りにされた一枚の薄っぺらい紙。
折り畳まれたそれを開いてみると、それは楽譜だった。
いつからそこにあったのか。
僕自身すらそこにあると知らなかったそのCDを見つけたのは、ただの偶然かな。
生ける君のためのパヴァーヌ
日の当たる部屋に、黒く、艶やかに光るグランドピアノがあった。
少し離れた所にあるソファは、今はもう使う人は殆どいないのだろう。ただ、寂しげにそこに佇んでいた。
思えばよく君は疲れると、赤ん坊から逃れてはここのソファに寝転がって、休んでいたような気がする。
久しく来ていなかった部屋とふと思い出したそれに瞳を細めると、その部屋の中に誰かがいた。
一瞬綱吉かと思えど、それは見間違いで、彼の自称右腕であったあの忠犬がそこにいた。
「何してるの、獄寺隼人」
体を竦ませて、彼はピアノから一歩身を引いた。
振り向いて僕だとわかると、明らかに嫌悪の混じった表情をして見せる。
「てめっ、ヒバリ…! 何の用だ」
「別に君に用はない。そのピアノに、少し用事があってね」
「ピアノに…?」
獄寺隼人は怪訝そうにピアノを見詰め、それから僕に視線を戻した。
「このピアノは」
「あぁ、そうだ。君、これは弾ける?」
何かを言いかけた彼の言葉を遮り、僕は懐から薄っぺらい紙を差し出した。
悪態を付きながら僕から紙を奪いとった彼の瞳が紙面をなぞり、僅かに見開かれた。
眉根を寄せた彼はその紙から視線を剥がすと、僕へと視線を戻した。
「これを、どこで?」
「どこでだっていいだろう」
「10代目がお持ちになっていたやつだろうが、これは…っ!」
声を荒げた男に、面倒臭い奴に渡してしまったと少し後悔した。
咬み殺してやってもよかったけど、これからピアノを弾ける人間を探すのも面倒だ。
「弾けるの? 弾けないの?」
「弾いてやらなくもねえ。だが、これがどこにあったのかだけ教えろ、それが条件だ」
僕は思わずため息を吐いた。綱吉絡みでなければ、とうに咬み殺してやっている所だ。
そもそもこんな取引は、十年前では到底考えられたものではない。
きっと十年前の僕なら、どんな理由であれ条件を持ち出してきた時点で咬み殺していた筈だ。
そう、十年前なら。
確かに僕らは、この十年とちょっとで大人になったんだろう。
けれども、その十年とちょっとの間に起こった出来事は、あまりにも大きすぎた気がした。
「…僕の部屋」
「あんだと? なんでこれがてめーの…」
「それ以上答える必要、ある?」
そう言えば、忠犬は殺意すら篭った瞳で僕を睨みつけてくる。
僕はその笑みに不敵に笑い返すと、彼は自室よりもこちらの部屋にいることが多かったからね。と、含めて言ってやった。
悔しそうに唇を噛み締めた彼はそれっきり視線を外し、楽譜に視線を落とした。
やがて溜息をつくと、彼はその譜面を譜面台にセットし始める。
どうやら、約束はちゃんと守れるようだね。
そのまま行こうものなら、ぐちゃぐちゃに咬み殺してやった所だ。
「今回だけだからな…」
唸るようにそれだけを告げると、彼は一度目を閉じた。
僕はそれに答えるでもなく、一番近くにあったソファまで歩くと、そこに腰を降ろした。
それと同時に、少し離れた所にあるグランドピアノから静かな旋律が流れ始める。
ゆっくりと、ゆっくりと、まるで急ぎ去ろうとする時間を宥めるように。
『綺麗な音色ですね』
ふと、彼の声がその旋律に乗って聞こえてくる。
『俺、好きだなあ、この曲。なんていうんだろう?』
瞳を輝かせ、ステージの真ん中でピアノを演奏する人を見ながら、綱吉が小さく呟いた。
『…亡き王女のためのパヴァーヌ』
『え?』
『ここにも書いてあるよ、ほら』
そう言って差し出したパンフレットを見て、綱吉は苦笑を浮かべていた。
スポットライトがステージの真ん中を照らし出す。
黒く艶やかなピアノが、その照明を受けて輝いていた。
『なんだか、悲しい題名ですね』
パンフレットから視線をあげた君の瞳には、切ない色が浮かんでいた。
『望んでも望んでも、叶わないものを思っているような』
そんな風に聞こえるのだと、この曲を聴きながら君は切なげに瞳を閉じた。
彼はあの時、自分を重ね合わせていたのだろうか。
自分の死期を悟って、自分の未来を憂いて?
それなら、なんて馬鹿馬鹿しいのだろう。
『知ってるかい』
『何をですか?』
薄闇の中、スポットライトくらいしか明かりがない静かなホールの中で密やかに話を進める。
その時のことを思い出し、僕はくつりと笑みを漏らした。
そう、この曲に君が君自身を重ね合わせていたのなら、納得してあげてもいいかもしれない。
君は僕の話を聞いて、苦笑していたっけ。それからというもの、CDを購入すると、時間があれば毎日一度は聞いていた。
黄色い鳥が胸ポケットから飛び出し、部屋の中をゆっくりと旋回する。
口ずさんでいるのは、今流れているのと同じ曲だった。
そう、この子が覚える位には、僕の部屋で聞いていたということなのだろう。
やがて鳥は満足したのか、僕の差し出した指先にゆっくりと降りてきた。
首を傾げ、辺りを見回し、その様はなんだか忙しない。
「彼は、今はいないんだよ」
そう言って撫でると、鳥は理解出来ないというように首を更に傾げた。
彼はいない。そう、今は。
遠い記憶に想いを馳せて、僕は瞳を閉じた。瞼の向こうに、まだ君はいる。
その向こうにいた彼が消えた時、静かに奏でられていたピアノの音が静かに途切れて行った。
何かを惜しむように、静かにそれは余韻となって、僕の胸に残る。
つかつかと足音が聞こえる。ついで、目の前に差し出されたのは彼の楽譜。
「とりあえず、返しておいてやる」
黙って受け取ると、僕は肩を竦めて見せてた。
「言っとくが、てめーのために弾いたんじゃねえ。十代目の……――」
そこまで口にしかけて、彼は何かを振り切るように頭を振ると舌打ちして僕の横を通り過ぎた。
彼も未だに、現実を受け入れられないで苦しんでいる人間の一人なんだろう。
「あぁ、一つ教えてあげるよ」
「ああ?」
立ち去ろうとした彼を見ることもなく、僕はぽつりと呟きながら手にした楽譜を丁寧に折り畳む。
「これ、別に哀悼のための曲じゃないと僕は思っているから」
「何、言ってやがる」
「知らないのかい、この曲が誕生した理由には二つの説がある。一つは王女のための哀歌、もう一つは宮殿で王女が踊るようなパヴァーヌ」
僕は淡々と言葉を紡ぐと、ソファから腰をあげた。
肩に乗っていた黄色い鳥が飛び上がる。鳥が口ずさむ懐かしい校歌。
僕のお気に入りであると同時に、どうやら鳥のお気に入りでもあるらしかった。
「題名はフランス語だと言葉遊びになっている」
「……だから、なんだってんだ」
「彼は死んでいない」
彼の横をすり抜ける時に、くつりと笑って言ってやった。
そう、彼は死んでなどいない。ただ消えているだけ。
「この曲のタイトルの意味と同じくらいに、わかりきっていることだけどね」
最も、君が哀歌にしたいならそれもそれで構わないのだけれどね。
ふんと笑って、僕は扉を開いた。薄暗い廊下を進んでいくと、後ろで壁を叩くような大きな音が聞こえた。
「逝ける王女のためのパヴァーヌなんて、冗談じゃないよ」
薄っぺらい紙をポケットに仕舞い、僕は溜息をついた。
全く、どいつもこいつも辛気臭い顔ばかりして群れているのだから、たまったものじゃない。
そのうちひょっこり、あれは戻ってくるに違いないのに。他の誰でもない、僕の元へ。
鳥が先程の音を紡ぎ出す。不格好とも言えるその歌は、まさしく彼にこそぴったりだろう。
「そう、生ける君のためのパヴァーヌ。戻ってきたら、一緒に踊ってみるのも面白いかもしれないね」
クツリとその時を思い、笑った。
あたふたする君の顔が思い浮かぶ。大丈夫、リードはちゃんとしてあげる。
だから早く、帰ってくるんだね。
ふと窓から見上げた空は、憎たらしい位に青かった。
あとがき
綱吉不在の小説でした。
別に暗くも切なくもない、ただ思い続ける一途なヒバリさんが書きたかっただけなんですが。
最初獄寺氏の役は全く別のオリキャラで、本来の話もそのオリキャラがピアノを聴きに来ていた綱吉を
語る。とかいう話だったんですけどね。
なんとかオリキャラ使わずにいけないかなと悩んだ挙句に、あ、獄寺氏がいるではないか!と白羽の矢
が(笑)
曲自体は亡き王女のためのパヴァーヌと検索すればようつべやら頬笑み動画やらで聞けると思います。
弾く方によってやはり曲の印象が変わってきますが、皆様の思い思いのアーティストさんで聞いて楽し
んで頂ければ嬉しいです。
2009/10/26 Up