緑濃い下生えを褥に眠りこける彼の手足は、面白いほどばらばらの方向に投げ出されている。そのひどい寝相は腕白な子供のようで、思わず笑みが洩れた。起こしてしまうことに一抹の申し訳なさを感じるが、致し方ない。緩んだ唇を引き締め、大口を開けた彼の顔へとゆっくり手を伸ばす。
 こうなるまでに、私も努力はしたのだ。これは、最後の手段。
 手近にあったので使うことにした小石と木の実は、少々大きいような気もするが、目的を果たすまでの時間は短い方がいい。ひとつづつ、それらを慎重に埋め込んだ。この段階で気付いてもよさそうなものなのに、彼は相も変わらず夢の中だ。
 熟睡ぶりに呆れつつも、丁番が外れているのではないかと思えるほどに開いた口を、あごを押し上げて閉じさせる。すぐに口許がもごもごと動き出すが、あごを押さえる掌底の力を弱める気はない。だんだんと膨張するように、彼の顔が赤くなっていく。あと一息、か。
 次の瞬間、ふたつの鼻腔から間欠泉さながらの勢いで小石と木の実が噴き出された。意外と遠くに飛んでいくのだな、と興味深かさを以って、放物線を描くそれらを見送る。
 一拍おいて跳ね起きた彼は、よほど苦しかったのだろう。荒い呼吸をしながら素早く首を巡らせ、私の顔に目を留めた途端、
「てんめぇっ、なにしやがるっ!?」
 噴出した異物と同じ勢いで怒声を発した。
「なにをしても起きないからだ」
 まさか、こんなに騒々しい目覚め方をするとも思わなかった、と心の中で付け加える。
「殺す気かぁっ! しかも鼻の穴にどんぐりだぁ!?」
 いつの間にか見つけて拾い上げていたらしい。先ほどの木の実を親指と人差し指でしっかりと摘み、私の眼前に突き出す。鼻に入っていたものは木の実だけではない、と教えてやりたかったがやめた。今は一分一秒が惜しい。
「所用で少しの間、ここを離れたい。ひとりで残る者が眠っていては危険だろう」
「んなこたぁ、判ってるっての! 他にまともな起こし方はねぇのかって言いてぇんだよっ!」
 大変な剣幕でそう言うが、なにも判っていない。彼が判っているのはひとりきりで眠っていた場合のリスクのことだけだ。こんな言い合いに時間を費やしている暇があったら、事態の悪化を食い止めに走りたい。抑えていた苛立ちが、その思いを代弁するように破裂した。
 いつでも動けるように傍らに置いていた布鞄を乱暴に掴み取る。その風圧に、たまたま近くを通りかかったらしい蝶が中空でよろめいた。
「だったら!」
 立ち上がりざま、思いがけず出てしまった自分の声が相当に険しいことに気付き、冷静さを取り戻す。続けようとしていた言葉を飲み込んだ。
 だったら、どんな起こし方をすれば、まともな起き方をしたというのか。我知らず、強く手を握り締めていた。
 すっかり起き上がり、胡坐の膝に肘を置いた姿勢で私を見上げる彼が二度寝をすることはないだろう。
「…三十分ほどで戻る」
 吐き捨てるような口調になっていることを自覚しながら、踵を返して歩き始めた。
「おい」
 振り返る義理はない。
「どこ行くんだよ? 話は終わってねぇ」
 しつこく食い下がられるのはごめんだ。立ち止まり、顔だけを後ろに向けた。一言返せば充分だ。
「キミには関係ない」
 彼がまだなにやら言葉を沸騰させているのを背中で跳ね返し、私はなるべく重心を動かさないようにして足を進める。全力で駆け出したいのは山々だが、そんなことをすれば手に負えない惨状を見るに決まっている。


 鬱蒼とした木々の間に潜みながら、注意深く足を運ぶ。誰かに出会えば高い確率で戦わざるを得なくなる環境下だ。今は誰にも遭遇したくない。試験の開始から散々動き回り、頭の中に出来上がった地図では、このまま一キロメートル強進んだ先に、ちょっとした川があるはずだった。
 夜明け前から続く痛みが重い。不安に駆られ、身体を後ろに捻って上衣の中を覗く。気付いた当初よりも、汚れが広がっていた。彼の眠りを破るために消費した時間の代償がこれだ。起きたそばから怒鳴りつけられる謂われはない。
 最初は近づいて名前を呼んだ。反応は、短い鼾がひとつ。
 少し声を大きくして、もう一度呼んだ。やはり鼾が返ってきただけだった。
 今度は肩に手をかけて、身体を揺すった。
「すまない。起きてくれないか」
 他人を眠りから引きずり出すにあたり、決して礼を欠いた言い回しではない。それでも彼は、煩わしげに唸ったばかりか、寝返りを打って背中を向けた。
 挙句、
「急ぎの用があるんだ、起きてくれ」
 繰り返し肩を揺らした私の何度目かの手を、それまで以上の唸り声とともに撥ね退けたのだった。
 起こそうとして失敗する度に、苛立ちが募っていった。最後の手段を取る前には、一応、小さな罪悪感が苛立ちに勝りもしたのだ。こんなときでなければ、もっと穏やかに対処できたに違いない。
 あんな緊迫した状況の後で、よくもこれほど深く眠れるものだと感心すると同時に、無理からぬことだとも思えていたのだから。
 昨夜、尋常ならざる気配を察し、夜営地の移動を始めた私たちの前に現れたのは、妙ななりをしたあの奇術師だった。今の私たちの力量では、勝つことはおろか、掠り傷ひとつ負わせられない相手だということは、一次試験、ヌメーレ湿原の霧の中で経験している。
 日中、同盟を結んだ彼と行動している以上、あのときのように分散して逃げ、自分が落ち延びる公算を高める手は、選択肢としてあり得ない。奇術師の要求は二点分のプレート。こちらで妥協できるのは、私の標的と組んで彼のプレートを奪う作戦に加担した男のプレートのみ。私にも彼にも一点分にしかならないが、なにかの折に使えるかもしれないと思って確保しておいたものが、結果、ここで役に立った。
 所持するプレート全てを奪われたうえに共倒れ、という最悪の結末が脳裏にちらつく中、件のプレートだけを交渉の手札とした。その条件が通らなければ戦うことも辞さなかったとはいえ、無傷で奇術師との邂逅をやり過ごした後の安堵感は大きかった。
 難を逃れてようやく新たに夜営を張り、二時間を目安に交代で仮眠をとることにしたものの、先行を譲られて目を閉じた数十分ほどだけで眠気は去ってしまった。奇術師と直接交渉した私の神経は、ひどく擦り減っているはずなのに昂って落ち着かず、後行で仮眠に入った彼とは交替しないまま朝焼けを眺めることとなった。
 大した眠気が訪れなかった代わりに、歓迎できないものがやってきていた。腹のずっと下の方に大きな石でも詰め込まれたかのような鈍痛。わずかながら、腰にも凝ったような痛みがあった。よりにもよってこんなときに始まるとは。舌打ちついでに吸い込んだ息を盛大に吐き出した。
 前回はいつだったろうか。周期があることくらいは知っているが、自分の身体が正確にそれを刻んでいるかといえば、首を横に振るしかない。ひと月以上なにもないこともあるし、半月ばかり経っただけだというのに慌てふためくこともある。自分の年齢を考えると、周期が安定しないからといってすぐ異常に結びつくわけでもないだろう。そもそも、年齢の割にこの面倒との付き合いはそれほど長くもないのだ。
 洗顔すらままならない無人島での試験期間はちょうど一週間。三日目が明けたばかりの今からでは、滞在中に面倒事から解放される見込みはない。諦め半分で上衣の後ろをめくると、案の定、尻の辺りに白い生地を汚す染みができていた。
 確かに、処置を急ぎたい私は、仮眠の目安である二時間を大幅に超えてなお高鼾をかき続ける彼を起こすため、少々過剰な手法を取った。だが、そこに至るまでのむだにも近い苦労も知らずに憤慨する彼に、非がないなどとは言わせない。
 
 
  翅の縁だけに鮮やかな彩りを持った、純白の蝶。先ほどから、やけにその姿が視界に入る。夜営地を離れる直前に見かけたものと同じ種類だ。いつだったか、退屈しのぎにページを繰った図鑑で見た覚えのある蝶だったが、生態も名前も思い出せない。今は羽化の時期か、繁殖期か。この森は幼虫の食樹か食草の生育地なのかもしれない。
 森を抜け、灌木をまばらに抱えた草地を過ぎると、また植生が変わる。目の前に広がる葦原は、その向こうに川があることを示していた。
 肩の高さほどもある、細く固い草を掻き分けて進むうちに、足許がぬかるんでくる。水分の多い泥を避けながらさらに草の中を進むと、いつの間にか足許は湿った砂地となり、やがて石ばかりの河原に出た。
 足場を気にしている間に上流に向かっていたらしい。描いていた地図よりも川幅は狭かった。見渡すと、ここからやや川下、流れのほぼ中央に、あつらえ向きの岩が認められた。荷物を置くのにちょうどいい。岩に程近い岸辺は、丈の高い草が水際まで密生していて、楽には進入できそうになかった。この場所から川に入って行くのが賢明だ。
 周囲に人の気配はないが、例外が存在する。四次試験の間、受験者一人ひとりについていると思しき試験官だ。最後に残った難問である。これをどう打破すべきか。森の切れ目まで、つかず離れずの距離を保っていた気配は、葦原に入る頃にはかなり薄れていた。おそらく、この河原全体を把握できる近場の高台にでも腰を落ち着けているのだろう。何人たりとも付近にいない環境を望めないのであれば、試験官の察しのよさと良識、配慮に賭けるしかあるまい。
 靴を脱ぐ。そのあとで、目星をつけた高台を含む辺り一帯を、眉間が痛くなるほど強い意志を込めた視線で見回した。
 
 気付け。今から始まる行為の意味するところを違うことなく理解して、然るべき判断を下せ。
 
 伝わるか否かは定かでないが、できることはこれくらいしかない。覚悟を決めた。腰に両手の親指を差し込み、下衣と下着を押し下げた。脚から抜き取って片手に抱え、脱いだ靴を手にする。極めて個人的な空間ででも、これほど慎みのない恰好をした記憶はない。
 なぜ、手つかずの無人島で一週間もかかる試験が行われるときなのか。なぜ、四六時中こちらを窺っている試験官は会話を交わせる範囲にいないのか。なぜ、単独行動をやめて、彼と動き始めてからなのか。どうということもない事象が、何層にも重なる不運のように思えて仕方ない。
 改めて、試験官がいると読んだ方向を見やる。身につけているものが大幅に減ったせいか、強硬な表情を作ることが虚勢と同等のような気がしてくる。そうなると、実際にはそこにいないかもしれない試験官に送る視線に、祈るような気持ちが多分に混じった。

 …頼むから、しばらく監視の目を外してくれ。

 これで現状が伝わればいいのだが。先方の理解を確認する術はない。こんなときに、試験官は存在しないものと割り切って肌を晒せるほど、私は老成していなかった。
 祈りを終えて目先を転じると、葦原に埋もれていたときには姿を見せなかったあの蝶がいた。縄張り争いでもしているのか、地面すれすれのところを二頭が絡まるように舞っている。
 今しがたの私と彼のようだ。そんなことを思いながら、せせらぎに足を踏み入れる。まだ気温が上がりきっていないからか、水は冷たい。川底に無数に転がる、角の取れた石の感触が素足に心地よかった。
 不意に、殺す気か、と息巻いた彼の顔が浮かび、私は腹立ち紛れに川面を蹴り上げた。なかなか目を覚まさない彼の鼻を摘み、しっかり起きるまで何往復もの平手打ちを食らわせてもよかったのだ。だが、それでは角が立つ。だからこそ、笑って済ませるしかないような、幼稚な方法を選んだというのに。陽光を受けてきらめく水飛沫が、派手な音を立てて川に戻っていく。
 緩やかな流れに逆らいながら、岩まで辿り着いた。気になっていた水深は、膝に少し足りない程度。普通に立っているだけなら上衣が濡れることはない。だが、背中を屈めて汚れた衣類を洗わねばらならないとなると、話は変わってくる。
 岩の上の、比較的平らなところに布鞄と靴、汚れた衣類を置いてから、前後に身頃の割れた上衣の左裾を両方持ち上げ、太もものかなり上の方で互いを結ぶ。右側の裾も同様だ。脚と呼べる部分は全て露出してしまっているが、誰が見ているわけでもない。…おそらく、ではあるが。
 
 
  さっそく汚れの検分に入る。下衣の染みから予想はしていたが下着の方は、見るに堪えない状態になっていた。汚れは簡単に落ちそうにもない。とりあえず、水流に漬け置いておくのが妥当だろう。片方の足首に通し、川に沈める。生地を染める赤に周囲の水の色がわずかに変わり、溶けるように流れ去った。
 その間に、被害の小さい下衣の始末に取りかかる。こちらは手こずることはなさそうだ。汚れた部分だけを水に浸し、生地を揉み合わせているうちに本来の色が戻ってきたが、ある程度まで汚れが落ちるとそれ以上白くはならなかった。もっとも、川の水だけで完全に汚れを取り除けるとは思っていない。乾けばそれほど目立たなくなるだろうから、後日洗い直せばいい。
 濡れた箇所をしっかりと搾り、皺を伸ばして岩の上に広げた。あまり気分のいいものではないが、これはそのまま使うつもりでいる。だいたい、始めからこの試験中、頻繁に着替えができる見込みなど計算していないのだ。穿いているうちに、いずれ水分が飛び、気にならなくなる。見上げた空は快晴だ。天候が味方なのは嬉しい。
 空の青さに現実逃避しかけて留まった。これを片付けなければ。小さく嘆息し、足首に引っ掛けておいた下着を水から引き揚げる。川に晒している間に汚れの表層が流されて、その色は薄くなっていた。付着してから少々時間が経っている割に、外気に触れなかったのが幸いした。この手の汚れは乾く前に手を打つに限る。再び川の水に潜らせ、生地をつかんだ両手を下衣のときよりも強く擦り合わせると、目に見えて汚れが落ちていった。
 下衣ほどではないが、ここまで落ちれば妥協の範囲内と言える。差し急ぎ、収拾はついた。目尻や頬が泣くか笑うか決めかねたように、複雑な引き攣り方をする。ずっと力の入っていた肩が楽になった。要は、気が抜けたのだ。
 岩に寄りかかり、両腕を高く掲げて、凝り固まった肩や腰を伸ばした。土笛を甲高く転がすような鳴き声を響かせて、大きな翼を持った鳥が空に円を描いている。鳥影が太陽に重なり、一瞬遮られてまた戻った光が目に沁みた。受験者だけでも二十を越える人数がいるはずなのに、こうしているとたったひとりでこの島に取り残されたような錯覚に捉われる。
 ひとときの安逸は、風にそよぐ音とは違う、不自然な草のざわめきに打ち切られた。一瞬にして腕に鳥肌が立つ。動物であれば問題ない。魔獣が相手でも、知能レベルによっては動ける。だが、今のこの姿で遭遇するのがプレート狙いの輩だとしたら。たとえ同性でも対峙したくない。
 音の聞こえた方向に意識を集めながら、姿勢を低くしてゆっくりと岩の陰に回った。岩そのものは、さほど大きくない。全身を隠すためには川にしゃがみ込まなくてはならないが、それはできる限り避けたかった。外衣の裾を結んでをたくし上げ、濡らさないように注意を払った意味がなくなる。上に置いた荷物をざっとまとめ、向こうから見えにくくなるよう、手前に引き寄せた。願わくは、こちらの存在に気付かないまま通り過ぎて欲しい。
 また草が騒ぐ。明らかに近づいて来ていた。どこだ。葦原の比較的水際なのは確かだが、ここから草の揺れが見えるほどの距離ではない。緊張が高まる。プレートを求めて島内を放浪している誰かだと仮定して、それは昨夜の奇術師のように交渉で話をつけられる相手だろうか。有効な手札は既に使ってしまっている。今は相手の所望するプレート番号を訊き、その保持者の情報を流すくらいしか材料がない。
 全ての受験者の番号が頭に入っているわけではないから、条件が合わなければ交渉にすらならず、試験も三日目ともなると、なりふり構わず一点分のプレートを手に入れようとする者も少なくないはずだ。どちらにしても、分が悪い。いつまた音を立てるかも知れない葦原を警戒しながら、危機回避の試算を何通りも組み立てる。私の標的がプレートを奪い返しに来たという可能性もよぎりはしたが、全く危険性を感じないので即座に試算対象から外した。
 突如、私のほとんど真横に位置する草が激しく揺れたかと思うと、その合間に人が立ちあがった。知っている顔。
「近づくな!」
 身構えるより早く、声が出る。波打つ草の海に、彼の胸から上だけが浮いていた。視線が交わる。驚きのあまり私は動くことを忘れ、おそらくは叱責に近い私の声の鋭さに、彼は表情を強張らせた。私にとって、あの草丈は肩の高さだった。そんなどうでもいいことを考えてから気付いた。葦原からやって来る者の目を引かないよう岩の陰で身を縮めていたものの、すぐ横という予想外の角度から現れた彼の視覚は遮蔽できていない。そのうえ、洗いあげたばかりのものを握った片手からは、大胆に生地が覗いている。
 
  何気ないふうを装って隠し切れなかった布地を掌中に押し込んだが、彼が私を見る目は訝しげだ。俯けば、狼狽を覚られる。彼の顔から目を逸らさず、じりじりと岩の後ろへ回った。今更ごまかしても遅いと判っていても、剥き出しの脚を人目に晒しておくことに耐えられなかった。脚だけならまだしも、今は下着さえつけていないのだ。
 岩を挟んで睨み合うようになってしまっている私たちの間を、もう見慣れた蝶が横切る。視界の隅に映るその優雅な動きに軽く意識が向いたとき、彼が大きな音を立てて草を分け、岸辺に全身を現した。片手で器用に靴と鞄を持ち、ズボンの裾を脛まで捲り上げている。
「…誰にやられた!?」
 その勢いと怒りの滲んだ声に思わず後退ると、踵が藻にぬめる石に乗った。バランスを崩しかけて、辛うじて踏み留まる。反射的に自分の足許を見たついでに、意味の判らなかった彼の言動の流れが理解できた。あらぬ誤解にこちらが慌てる。露出した脚の内側に伝う、一条の血。貞操の心配をするにしても、もう少し言葉を選ぶ余裕はないのか。それを見られたと知った瞬間に、私の思考回路は正常を失っていたのだと思う。
「来なくていい! 誰ともなにもなかった!」
 二歩、三歩と川に入ってくる彼を止めるために口走ったはいいが、誤解が解けた感触がない。
「止血できてなかったねぇじゃねぇか! いいから見せてみろっ」
 止血? 経験はなくとも年齢相応の知識はあるつもりだった。しかし、そういうときに止血が必要とは初耳だ。そもそも、見せてみろと言われて見せられるところではない。私も恐慌状態だが、彼も相当なものだ。
「怪我でもないのに見せられるか!」
 プレートを求める連中がどこに潜んでいるか判らないというのに、声量の調整も忘れて言い返すと、壁にでもぶつかったように彼が足を止めた。続いて、奇妙な空気が辺りを包んだ。
「え?」
 と、首を突き出した彼のあごが落ちる。なんだ、その反応は。
「え?」
 こちらも首を傾けて彼を凝視した。ここまでのやり取りを頭の中で反芻する。なにがどこでおかしくなった?
「あー…」
 なにか言おうとして言葉をまとめきれずにいる彼は、もう私を見ていなかった。私を見ないように視線を泳がせている、というのが正しいかもしれない。何度も口籠った後で、念を押すように、
「怪我じゃ、ないのな?」
 そう訊いた。察するに、彼の中ではもう全てが繋がっているに違いない。耳まで赤くして、頑なに私から目を背け続ける。
 答えなくては、いけないだろうか。躊躇う間の手持無沙汰に、やたらと脚にまとわりついてくる蝶を手で払う。どういうわけか、数が増えていた。沈黙を引き延ばすのは時間のむだだ。意を決して口を開いた。
「怪我、では…ない」
 居たたまれない思いで、問われたことを繰り返すように認める。完全なる墓穴。彼に知られたくないがために、なにも説明しないままここまで来たが、とんだ笑い話だ。いや、笑えない。全く笑えない。
 また沈黙が訪れる。彼が私を見ないのと同様に、私も彼を見ることができなくなっていた。なにが悲しくて、こんな現場を押さえられた末、彼に月の障りの告白をしなくてはならないのだ。
 再びの沈黙は、互いの事実確認がなされたことによってさらに重いものになっていた。何度追い払っても脚に舞い戻ってくる蝶たちに辟易しながら、淀んだ時間を持て余す。
 彼との付き合いはまだ短いが、多少鈍くはあっても無粋な人間ではないことは判っている。わざわざ濁したところを無理に聞き出すような真似などしない。整然と、しかし核心だけは曖昧にして、しばらく単独で夜営地を離れたいのだと告げれば、きっと結果は変わっていた。
 待て、違う。と、私は今朝がたの徒労を思い出す。私は彼が納得できるよう、きちんと伝える気でいた。彼がすぐに起きさえすれば、然るべき手順を踏んで何事もなく用を済ませることができた。やはり、彼が悪い。
 
 
  自分の中で結論が出てしまうと、もう黙っていられなかった。せっかく衣服の汚れを洗い終えたというのに、いつまでこんな恥も外聞もない姿で川の中に立たせておく気だ。すっかり忘れていたが、鈍痛はまだ消えていなかったし、身体も冷え始めていた。
「五分!」
 蝶を払うために揺らしていた手を大きく開き、彼に向かって真っすぐに伸ばす。突然声を上げるとは思っていなかったのだろう。意味もなく鼻や頭を掻いて気まずい沈黙をつぶしていた彼は、弾かれたように肩を上げ、目を丸くして私に焦点を合わせる。
「は?」
「五分だ」
 ぽかんと口を開けている彼に、もう一度宣言する。
「事情が判ったのなら、少し外してくれ。草の陰にでも入って、五分は動くな。五分経ったら下流に移動。岸伝いに進めば河原に出る」
 高圧的な私の口調になにか文句を返そうとしたらしい彼だったが、その手の言葉が出るには至らず、
「判った」
 と、視線を落とした。今はなにか言える立場ではないと思ったのか、衝突を避けようとしただけなのかは判らない。代わりに、私に背中を向けた直後、
「それ以上時間がかかりそうなら声でもかけてくれ」
 軽く手を挙げて、なかなか殊勝なことを口にした。一息に彼への指示を出して弾みがついていた私は、重ねて追い打ちをかける。
「絶対にこっちを見るな」
「見ねぇよ!」
 一瞬、振り向きかけた顔が中途半端な角度で止まったかと思うと、コマ送りのようなぎくしゃくとした動きで元の向きに戻った。本当は私をすぐ見下ろせる場所まで迫り、正面から不服を投げつけたいのだろうが「見ない」と言い切った手前、実行に移せない。そんな心の動きが手に取るように判る。彼が振り向けないのをいいことに、声を殺して笑った。口の悪さはいただけないが、とても実直な男だ。
 彼の背中が葦原の奥へ進んでいくのを横目で確認してから、改めて自分の脚を見る。私の目には、どう見ても不浄の不始末にしか映らないが、彼には手負いの流血に見えたらしい。話を合わせた方がよかったのだろうか。だが、あの様子では、どんなに大した怪我ではないと突っ撥ねても傷の状態を診ようとしただろう。それはだめだ。
 どちらにしても、避けられなかったことなのかもしれない。汚れた腿を洗い流しながら、終わったことだと諦めた。時折、濡れた手の先を振り、まだ周囲を飛び交っている蝶に向けて、墜落させない程度に水滴を飛ばす。美しくはあるが、あまりにしつこくつきまとわれると不気味でもある。
 ずっと握りっぱなしにしていた下着を、布鞄の中の使用済み衣類用の袋に放り込み、その袋のさらに奥から小物袋を取り出した。中を検めて安心する。必要な物とはいえ、仕方なく携帯しているという意識が強いので、補充を忘れたまま肝心なときに入手に奔走したことが、一度のみならずあった。大丈夫、数に不足はない。
 個装を解き、円柱状に固まった綿を親指と中指を使って軽く持つ。片脚を上げて、岩の窪みにつま先をかけた。そろそろ慣れてもいい頃なのに、これを使うときはなんとも落ち着かない、嫌な気分になる。今回は特に、だ。あの様子からして、覗き見などという愚行に走りはしないだろうが、異性が近くにいると思うと、どうにも心穏やかになれない。
 深く静かに息を吐く。円柱の尻、紐のついた側を人差し指で支え、先端を性器にあてがう。踏ん切りがつかなかったので、また息を吸って少しずつ吐き出す。余計な力を抜くためにそうしているはずなのに、呼吸に合わせてゆっくりと押し込んでいくと、尻や腿の筋肉が収縮して震えた。
 指が身体の中に入る。あまり力は加えず、これ以上は進まないという位置に達したところで指を引き抜いた。血に濡れたその指を川の中で洗ってから掌に水を掬い、やはり血が付着しているはずの箇所を清めた。三度大きな息をつくと、ようやく人心地ついた。処置を終えるまでに、こんなにも時間がかかったのは初めてだ。
 彼に待機を任じた時間は五分。のんびりしてはいられない。不要なものを片付け、布鞄を肩、ろくに干せなかった下衣を腕にかけてから、靴を取る。彼にも伝えた、すぐ下流の河原へ戻ろうと足を踏み出したとき、違和感が頭に生じた。なにかを忘れているような引っかかりも気になるが、時間も気になる。歩きながら考えればいい。
 原因に思い当たったのは、膝下だった水深がふくらはぎの半ばほどに下がった頃だった。危ない。長い間そうしていたので、本気で忘れていた。もう二度と見せるものか。空いている片手を使って、結んだ裾を解いた。上衣の生地が腿を滑り落ちる。
 
  そこからは、走るようにして河原へ向かった。岸に上がりながら布鞄の底を探り、未使用の下着を入れている袋から新しいものを取り出す。彼が五分を数える葦原とは逆方向に離れた草の中に身体を半分埋め、靴を河原に放ってから、急いで下着と下衣をつけた。距離を取った側の葦原が揺れている。彼は姿勢を低くして移動しているようだったが、たまに黒い頭が草の上に見え隠れした。
 着替えはなんとか間に合った。河原に転がる靴を拾い、少々汚れた足裏を水際で洗う。足首を振って水を切り、片方の靴に足を通したところで彼が現れた。大慌てで身づくろいをしたと思われるのは癪だ。私は努めて悠々とした動きでもう一方の靴を履き、若干待たされたかのような顔を作って彼を迎える。まだ濡れている下衣が肌に触れるのが不快だが、顔には出すまい。
「えー…そのぉ…あー…」
 なにか言わなければ場を好転させられないとでも思っているのだろう。一理なくもないが、そうやって言い淀んでいる時間は自分のみならず、相手をも羞恥の渦中に陥れると知るべきだ。彼の言葉を待たなくてはならない私は、どんな顔をして立っていればいい。底なしの鈍感め。
「なんつーか…あのぉ…だからオレは全然…」
 この調子では、血迷ってなにを言い出すか判ったものではない。ふたり揃って冷静を欠いているととんでもない展開になることは、既に学習した。埒が明かないので、先んじてこちらから逃げ道を膳立てする。
「場所を変えよう。朝から誰にも会ってないが、ここは人目につきやすい」
 言った途端、彼はあからさまに安心した顔になった。…単細胞。
「だな! オレのカワイイ標的も待ってることだし」
 鼻の下が伸びている。一瞬、回し蹴りを見舞ってやろうかと思った。先ほどまでの動揺ぶりが嘘のようだ。逃れようもない形で「女」を証明してしまった私を目の前にして言うことか。あんな憂き目に遭わせておいて、その軽さはなんだ。私が負った精神面の瑕疵を思えば、その手の言動はおのずと慎まれるものではないか。
 三次試験のときも感じたが、彼は大抵の女に弱い。運よく標的を見つけたとしても、うまく丸め込まれ、プレートを奪えずじまいになってしまいそうだ。敢えて噛みつく気にもなれず、私は今朝まで夜営を張っていた森とは逆の方角を指差した。
「向こうにはまだ細かく捜索していない区域がある。行ってみよう」
 彼の返事を待たずに歩き始める。同時に、強烈な眩暈が襲ってきた。景色が白く光って歪み、捻じれる。とっさに両手を膝につき、頭が落ちていくのを食い止めた。
「おい、どうした!?」
 崩れかけた身体が、少し軽くなる。彼の掌が、肩を後ろから挟むようにして私を支えていた。なんでもない、と振り払いたいのに動けない。実際、大したことではないのだ。ちょっとした貧血、身体の冷え、それに睡眠不足。加えて、この試験が始まってからの極度に栄養の不足した食生活。たまたま重なっただけだ。このまま頭を低くしていればすぐに治まる。
 果たして、視界が徐々に色を取り戻してきた。と、そこにさっと黒いものが割り込んでくる。その正体を確認するより早く腕を取られ、身体が押し上げられて浮いた。声を上げる暇もなかった。
「調子悪いなら、悪いって言え。なんのための同盟だ」
 彼の声は、その背中を通して自分の胸に伝わった。こんなふうに誰かに体重を預けるのは、ほんの子供のとき以来だ。もう、目線が高くなっていることを無邪気に喜べる年齢でもなければ、異性に胸を押しつけ、尻を抱えられることに抵抗のない年齢でもない。なによりも、急に女扱いされたような気がして腹が立った。私には、持って生まれた性に甘えず生きてきたという矜持があるのだ。
「降ろせ。自分で歩ける!」
 背中から降りるべく、彼の肩に腕を突っ張り、身体を捻るが、腰から下を離すことができない。
「重くなるから動くな! 人目につくから場所を変えるって言ったのはお前だろうが」
「だから自分で歩けると…!」
 言葉の途中で彼が歩き出し、私は慌てて厚い肩を掴んだ。降りたくて降りるのと、振り落とされるのでは大きな差がある。
「顔、庇っとけ」
 言われた直後、がくんと身体が下がり、眼前に枯れ色の細い草の壁が迫った。
 
 
  巨木が多く、見通しの悪い森に入ってしばらく進んだところで、ようやく彼は足を止めた。水平方向には見通しが悪いが、枝葉の少ない木ばかりなので陽射しは遮られない。正午に近いと思われる太陽の位置のおかげで、森の中は思いのほか明るい。
 彼の背中から降ろされるまで、ほとんど切れ目なく悪態の応酬が続いていたことを考えると、女扱いされたというのは私の思い違いだったのかもしれない。彼を動かしたのは、医師を目指す者としての判断と、同盟相手への責任だったのだろう。たとえ組んだ相手が私ではなくても、きっと同じことをしていた。
 あまつさえ平坦な地形の少ないところを人ひとり背負って歩き回り、耳許で毒づき続ける私に手抜きなしで抗戦していた彼の疲労は軽くはなく、荷を降ろす動きの流れでそのまま木の根の浮き出た土に尻をついた。反らせた背中を後ろ手で支え、盛大に息を吐いて空を仰いでいる。
「疲れさせてしまったな。面倒をかけた」
 延々と「もう降ろせ」といった趣旨のことを言葉を変えて繰り返していた私も、ここまで来ると素直にそう言うしかない。
「助けられてばっかじゃカッコつかねぇからな」
 相互扶助の精神は大切だが、わざわざバランスを取る必要はないのだ。と、返したかったが、大きく肩を上下させながら答える彼を背後から見下ろしていると、そんな不遜なことまでは言えなかった。隣に座るのも面映ゆく、私はその場で背中を向けて腰を下ろす。
 葦原から川辺に抜け出して来た彼の靴は、甲の部分まで泥に汚れていた。試験の最中にありながら、暇を見つけては磨いていた靴。窒息寸前の起こされ方をして激怒していた彼が、そうまでして私を追って来たことが意外だった。
 ずいぶん無理をさせた手前、気まずくて訊けないことも、顔を見なければ訊ける。半時間ほどで戻ると告げたにもかかわらず、夜営地を放棄してまで私を探し出した経緯を問うと、彼は時折考え込みながら、私が去った後の行動を大雑把に語った。
 曰く、目覚めたときの息苦しさと、その原因の不可解さに前後関係が見る余裕がなかったらしい。ひとりになってしばらく経ってから、仮眠を交代した後、自分だけが長く眠っていたことに気付いたそうだ。私の不機嫌の理由も判らないまま残されて、ここで戻るのを待つべきか、追って説明を求めるべきか迷った末に、後者を選んだ。私が消えた方向だけは判っていて、そちらに向かえばいずれ川にぶつかることも予想できた。
「川に到達する前に進路を変えるとは思わなかったのか?」
 と、質問を挟むと、少し黙った後に、
「そういや、そうだな」
 考えの浅さを今頃知ったような答えが返ってくる。
「最終的に合流できたんだからいいじゃねぇか」
 合流もなにも、動かずに待っていてくれれば、私は赤恥をかかずに夜営地に戻れた。などと言ってしまっては、また険悪な空気になる。先を促した。
 彼の辿った経路を確認するに、かなり初期の時点で私が採ったものとは大きくずれていたようだ。彼が川に行き当たったのは、私がいたところよりもだいぶ上流だった。ぬかるむ葦原の岸を回避して一度河原まで出た私に対し、彼はぬかるみをものともせず、葦原に潜み、草を掻き分けながら、ときどき岸に顔を出す、という方法を使ったらしい。
 途中、ぬかるみでさえなくなった場所があり、さすがにそこは靴に水が入るのを嫌って進んだそうで、通り過ぎてしまってから本末転倒であることに気付いた彼は、足回りを整えたうえで、ぬかるみの中を引き返しつつ私を探した。私が草の揺れる音を掴み切れずに、真横から出てきた彼に無様な姿を晒してしまったのはこのためだ。
 私の姿を確認し、止めるのも聞かず水際に来た彼の視線を引きつけたのは、ふたりの間を横切ったあの蝶で、そのまた先に見えたのが、腿に流れる血だったという。最初に近付くことを止められたのは、負傷しているのを知られたくないからに違いない。そう思った彼が真っ先に疑ったのが、腹部や脚の上部に受けた刺創、もしくは切創からの出血だった。確かに、その辺りには重要な血管が集中しており、傷の深さや処置のまずさによっては大事に至る。ここで大きな誤解が生まれた。
 あとはもう、彼の口から改めて聞くことはなにもない。
 事態をこじらせる決定的な勘違いをしたのは、むしろ私の方だったのかもしれない。どう考えても、ハンターを志し、幾多の難関を乗り越えてここにいる連中が、試験官の目もある中で不埒な行いに及ぶはずがないのだ。
 長い溜息が、頭の後ろで聞こえた。
「…悪かったな。余計なことしちまった」
 存在しない誰かに呟き聞かせるような声が続く。言いたいことを相手の顔を見て言えないのは、彼も同じらしい。今、収束させなければ、修復不能なひびを後々まで残してしまう気がした。かといって、しおらしい態度に出られるほど自分の中で消化できてもいなかった。小さな針を刺すくらいのことはしてもいいだろう。
「詫びるなら寝起きの悪さを詫びてもらおう。レオリオさん」
 彼がぐっと詰まる気配があった。きっと苦々しい表情で、嵐の過ぎた後の船上を思い出している。
 投げた球が返ってくるのに、そう時間はかからなかった。
「さん、はやめろ。詫びはきちんとする。爆睡してすまなかった」
 答える声には、やはり苦々しさが透けている。それでも、本心から不愉快に思っているようには聞こえず、彼もまたいつまでも尾を引くような禍根を残すまいと努めていることが感じられた。
 言葉を使うのは少し躊躇われた。私は小さく上体を前に倒し、軽く勢いをつけて背中を倒す。彼の背中がそれを受け止めて揺れた。ぶつかった反動を利用して、姿勢を元に戻す。これで、あの件は終わりだ。
 心の中でひとりごちたとき、重いけれども柔らかな衝撃が背中に来た。同意を示す、彼からの合図。本当に、これで終わりだ。自分の頬がゆっくりと緩んでいくのが判る。背中に留まったままの衝撃に寄りかかるようにして、そろそろと押し返すと、互いの力が釣り合った。
「眠れよ」
 背中から彼の声がする。
「あと四日もあるんだ。今日、無理したっていいことねぇぜ?」
 その四日間で彼の標的を見つけ出してプレートを奪い、手持ちのプレート全てを試験終了まで死守しなければならない。むだにできる時間などありはしない。瞬時に浮かんだ考えを口にする前に、彼が続けた。
「いざってときに、お前が使い物にならねぇと困るんだよ」
 それが本音ではあるまい。それくらい言わなければ、私が休もうとしないことを知っている。せっかく結んだ同盟だ。下手な遠慮で調和を崩すのは野暮というものだろう。
「そう…だな」
 彼の背中に体重をかけたまま目を閉じた。樹上のわずかな葉の間から洩れる光が、まぶたの薄い皮膚の上に落ちる。
「なにかあったら迷わず起こしてくれ」
 長く眠るつもりはない。彼の背中に緊張が走れば、すぐに目が覚める。背中を寝具代わりにされて、文句のひとつでも出るかと思ったが、彼はなにも言わなかった。
 今朝までの私が彼の目にどう映っていたのかは知らない。先ほどの「事故」で彼がなにを思い、それを境にどう変わっていくのかも判らなかった。なにも変わらなくていい。私は、私でしかない。
 身体に微細な穴でも開けられたかのように、静かに力が抜けていく。体調の変化もあるのだろう。それなりに疲れていたのだと、自身に教えられた。
 しばらくの静寂を経て、眠りに落ちる寸前、
「ありがとな」
 彼の声が、遠く聞こえた。なにに対する礼なのか判らず、訊き返そうとしたが、もうそちらに意識が回らない。耳だけで睡魔に抗う。
「昨夜、切り抜けることができたのはお前のおかげだ」
 構わず繋げたところをみると、返事があろうがなかろうが、彼には関係ないようだった。却って、聞こえていない方が都合がよさそうな空気すらある。黙って聞いておくことにした。彼のためだけの交渉ではなかったのだから、礼を言われるようなことではない。
「どうでもいいけど、お前さぁ…」
 まだなにかあるらしい。まるで私が眠っているのを確認するかのような間が訪れた。言いたいことがあるなら早く言え。睡魔に敗れるのも時間の問題だ。
「…けっこういい脚してんのな」
 彼と背中合わせでよかった。意識が半分飛んでいるにもかかわらず、顔が熱くなる。人が聞いていないと思って、なんてことを言うのだ。立ち上がって一撃食らわせてやりたかったが、睡魔はその気力をも奪うほどの強敵だった。もういい。眠ってしまおう。
 今夜、仮眠を交代するときに手間取らせたら、木の実や小石程度では絶対に済ませない。