呼び止められたことに気が付いたのは二度目だった。
振り向くと、ターバンを巻き付けたような帽子をかぶった少年がこちらを見上げていた。理由が分からず、自らを人差し指で指して確認する。少年は軽く肯いた。
「で、どーなんだ?」
「は?」
何の事を聞かれているのか分からず、聞き返す。少年は右手の拳を、顔の前まで持ち上げ、親指を立てた。
「アイツだよ、あいつ」
そう言って前を行く二人の背中にその指先を向ける。調べものをするためにコンピューター・ルームへと向かう二人の後ろ姿は、仲の良い兄弟のようにも見えた。
「えーっと、ゴンか?」
「ちげーよ」
「クラピカ?」
レオリオが言うと、少年は当たり前だというふうに頷いた。しかし、こちら側に心当たりが見つからない。
「…何が?」
「だから、あっちだよ、アッチ」
「あっち?」
「…ヤったんだろ?」
「はあ?!」
少年が掌で小さな防音壁をつくり、さらに小声で告げたその言葉に、レオリオは大声で対抗した。周囲の人間は驚きと煩わしさが綯い交ぜになった表情でこちらを振り向き、何十メートル先にいた二人も不思議そうに振り返っていた。大丈夫だという合図を手と顔で送ると、二人は再び目的の場所へと歩き出す。隣の少年に向き直ると、彼は反省の色も見せずニヤニヤとこちらを伺っていた。
「仲いいねえ」
「…つーか!お前アイツが女って知ってんのか?!」
「はあ?見ればわかるだろ」
そう言った少年の顔は、こちらの発言が恥ずかしくなるほどに冷静だった。自分のように長く共に行動してきた者ならば気付くだろうが、まさかほとんど接点のなかった者にまで気付かれているとは思いも寄らなかった。
「俺が気付いたのは三次試験の後だけどな。それまでほとんど近くで見なかったからわからなかったけど、三次試験の後くらいからみょーに色っぽい感じが出てたからさ。お前ら四次試験、一緒にいたんだろ?ヤりたいほうだ、」
レオリオは喋るうちに声が大きくなっていく少年の口を両手で塞いだ。誤解にせよ、こんなことを大声で言われてはたまらない。ここはハンター協会が所有する建物で、関係者でひしめいている。
「んなわけねーだろーが!試験中だぜ?…だいたいあいつ色気あるかあ?見た目も性格も男みたいだしよ…」
レオリオが早口でそこまで言うと、少年はやれやれ、といったポーズで応対した。その顔に浮かぶ笑みには、子どものわがままを聞いてやっているような、慈悲に近い含みがある。否定しようとたくさん言葉を使えば使うほど、墓穴を掘っているような気分になった。やましいことは何もないというのに。
「ま、これ以上の詮索は止めとくぜ。しっかし、ほんとお前らみたいな単純バカはあーいう女に弱いよな」
「お前ら?」
「ああ、ハンゾーな。あいつ、メンチとクラピカで二回ずつヌいたって」
「…マジかよ」
レオリオは頭を垂れ、左手で支えた。
同じ男として、気持ちはわからなくもない。いや、大いにわかる。このむさくるしいハンター試験の禁欲的な生活の中で、夜の嗜みのオカズになるようなものはごく僅かしかない。心のうちで誰を蹂躙しようと本人の自由だと信じたいが、それをわざわざ人に触れ回らなくてもいいだろう。同期の知らなくてもいい趣味を知ってしまったことに対する、罪悪感と呆れが同時にこみあげた。
「…ヒソカも気に入ってるみたいだしな」
少年はぽつりと言った。自らが異を唱えた最終試験を思い出しているのか、その声のトーンは今までよりも暗い。その様子を見て、やはりそうなのかとレオリオは思った。自分の思い込みならいいと思っていたことだ。ヒソカが限りなく彼女に近づいたとき、あと1センチでも顔が近づけば、彼女の迷惑も考えずに飛び出してしまいそうだった、あのときの焦燥が蘇る。彼女に訊きたいことがあったのだ、と思い出した。と同時に、腹の底からむかむかしてきた。
少年はすぐに明るい口調に戻る。ヒソカと言う男は、あまり関わりたくない人物であるから、考えるのも避けたいのだろうと理解できた。少年はぺらぺらと続けて喋った挙句に「俺はあそこまで気の強い女はちょっとな」と言い残して、颯爽と彼の物語の中へと歩いて行った。
残されたレオリオは立ち尽くしたまま、会話の内容を思い返す。巻き戻した映像が二倍速で再生され、頭上を通り過ぎていく。
「あ、」
声に出し、そのままずるずるとしゃがみ込んだ。
(やましいこと、してるじゃねえか…。)
三次試験中の、風呂での戯れを思い出した。彼女の意外に豊満な体、その艶のある声の響き、正気でない彼女にした度を超えた悪戯、云々。誘惑に抗えず、後先考えずに飛び込んでしまった自分に比べれば、お気に入りの女性を瞼に浮かべるくらいかわいいものではないか。現に今も、懺悔すべきことなのに、それらの鮮明な映像を、脳が、(下半身が?)綺麗に再生していくのを、止めることさえ出来ない。
三次試験の後からみょーに色っぽい、と言った少年の声がそれらの反響に交じる。彼女はあのことを夢だと思っているはずだ。まさかな、と心中で呟く。高鳴る鼓動を抑えるように、言い聞かせる。
髪をぐしゃぐしゃと掻き、頭の中のピンクな映像を追い払う。けれどいつまで経っても、『レオリオ』と呼ばれたあの時の熱っぽい響きだけは、なかなか消えなかった。