パイロくんについての情報は少ないので想像ですが。
ヨークシン編最後、看病シーンあたりです。エロは緩いです。
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目の前を歩く黒髪が、
 やさしい春の日差しに輝いて、あかるく色づき、
 ああ、とても幸せだ。
 口元がほころんで、楽しげな声が漏れる。
 振り返ろうとする愛しい顔に、そっと手を伸ばす──

 ふと視線を上にやると、見慣れた彼のサングラスが目にとまった。
「あ……」
「──っ! ちょっと待ってろ。体温計るぜ」
 鞄を引き寄せる彼を横目に、重い頭を揺さぶりながら上体を起こす。廃屋、だろうか。ひび割れた壁に掛けられた、馴染みの子供のリュックサックが視界に入った途端、二人の子供と入れ替わりに去っていく逆十字が脳裏に蘇り、私は突発的な目眩に手のひらで顔を覆った。
「おい、大丈夫か」
 肩にあたたかなものが触れる。私は無意識にそれに垂れかかった。ゆっくりと体が抱きすくめられるのを感じ、ようやく、それが彼の腕だということに気付く。彼の広い胸に頭を預け、手のひらをその鎖骨に添えた。
「無理しやがって」
 苦しげな声だった。私に向かって言っているのか? どうして? 俄かに混乱する。まだ意識が朦朧としているのか。暗い視界がぐるりと回り、私はきつくきつく瞼を押し下げる。
暗い世界がふわりと揺れた。
誰か、なつかしいひとの黒髪。
胸をなにかが突き抜けた。痛い。にじむ水性塗料のように広がる恐怖。息が詰まってむせこんだ。
「苦しいのか」
 背中をやさしく叩くリズムに、かすかな焦燥感を覚える。ハッと顔を上げると短い黒髪がびくりと揺れ、その顔は、その顔が、妙な靄に隠されて、幾重にも重なる。
「まだ寝てた方が」
「行くな!」
 耳元で響いたその声が自分のものだと気付くのに、数秒かかった。その間にも生ぬるい液体が頬を伝い、顎にたまり、落ちてゆく。
「大丈夫、俺はちゃんと横にいるから」
「行くな……」
 しぼりだしたような声だった。どうしてだろう。なにも苦しくないのに。失う前に手放したいと、そう願ったのは私だろう?
 狂ったように大きな背にしがみつく手を感じながら、紅い視界に沈んでゆく。彼の姿を遮断すると、唇にやわらかいものが触れて、ああ、どうしようもなく焦れったい。
  *           *            *
思い返してみると、その黒髪が前を行く記憶など皆無に等しい。たいていは彼が私の後を追い──というよりも、私が率先して彼の前に立っていた。彼の小さい体は、先を歩かせるにはどこか頼りなく、目の前で唐突に消えてしまいそうなか細さを持っていた。
──消えないよ。ずっと一緒に決まってるじゃないか。
そう笑って言ったのは、いつのことだったろう?
──君はそんな理由で、いっつも手加減してるの?
そうだ、あれは春の日──二刀流の手合わせをしていたときだ。だだっ広い草原で、二人きりで。
──そういうわけじゃない。お前の腕はなかなかのものだよ。手加減していたのは単純に怪我をさせないためだけど……じゃあ、今日くらいは本気で試してみるか?
──本当に? 嬉しい。手を抜かれると、自分の力量もよく掴めないんだもん。
微笑みながら剣を構える彼の眼に力が籠る。短い掛け声とともに向かって来る一突きを身をひねってかわし、刀を軽くひねらせる。彼は軽々とそれを飛び越え、一度後ろへ引くと、体勢を整えた。
数分後、ぴたりと静止した彼の喉元から剣先をゆっくり離すと、私達はどちらからともなく座り込み、大きく息を吐いた。
──お前の悪い癖だぞ。接近と後退のタイミングが掴めていないんだ。
──うーん。ありがとう。
彼は首を傾げると、ふわりと微笑んだ。草原には春特有の淡い花びらが散らばっていた。突然、より一層強い風が吹き、花びらが一斉に舞い上がった。彼の柔らかな髪にも、一枚、また一枚と美しい模様が降りる。さっと摘みあげてやると、彼も同様にこちらへ手を伸ばし、私の頬から月色のめしべを攫っていった。
 ──ここでの暮らしを続けても、外に行っても、ずっと一緒だよ、きっと。
 そう呟き、彼は私の手を握った。そのあたたかな感触に安心し、こくりと頷くと、彼の優しい声が耳元にこぼれた。
──二人で強く生きていこうね。
その声に確固とした意志を感じ、私はもう一度頷いた。なにかが胸に溢れた。ふと気がつくと、私も静かに胸の内を紡ぎだしていた。
──なににも負けないように、強くならなくちゃいけない。
──うん。二人とも、ね。

…………なのに、どうして。

*           *            *
 大きくてあたたかい手が、優しく裸の背を撫ぜてくれる。
 荒い息を吐きながら、私は束の間、激しい自己嫌悪に陥った。
 なぜ今、あの子のことを考えている?
 二つの黒髪を重ねて──心地良い体温に甘えて──
 彼は今、私だけを見つめてくれているのに、私は、私は。
 叫び出そうとする、その唇がきつく塞がれる。ぐちゃぐちゃに掻き回されながら、ああだめだ、と強く思う。

 失う前に、手放さなくてはならない。
 君と離れたら、もう、たったひとりで。