こいつはひと月に一度くらいの頻度で、連絡もなしに突然現れる。勝手に俺の部屋に上がりこむのはいつものことだ。しかし今日は、再会を喜び合うことも、食事に出かけることもないまま、一言も口を聞かず、服を脱いでシャワールームに入っていった。
 こちらの連絡に応じなかったことに対して言いたいことがたくさんあったのに、こいつの纏う、どこか痛々しいような空気が何も言わせない。

 水音が止んで、シャワールームから奴が出てくる。服を着ようともせず、バスタオルで雫を拭っただけの裸体を俺の前に晒した。俺たちは恋人同士なんかじゃないのに、抱いてくれないのか、と呟いたこいつの手を引いてベッドに組み敷いたのは、俺が男でこいつが女だからだ。殆ど脂肪のついていない身体は横になると肋骨が浮き出る。まだ一度も触れたことのない唇を避けて、首筋に歯を立てた。

 ベッドの上で、俺たちはただの男と女になる。寝食を忘れ、何時間も身体を絡ませ合って、汗や唾液や愛液や精液でシーツをぐちゃぐちゃにしても、感情も言葉もないセックスは自慰と同じだ。こいつは瞳を真っ赤にして乱れるくせに、終わった後はどこかよそよそしい。好きも嫌いもない。俺の名前を呼ぶこともない。シャワーを浴びて、すぐに寝入ってしまう。一度、寝言で誰かの名前を呼ぶ声を聞いた。俺の名前なんて、一度も呼んだことがなかったくせに。サイドテーブルに置いていたウイスキーを煽った。

 こいつがしているのは自傷行為だ。自分が傷つくために、セックスをしているように俺には思える。好きでもない男に抱かれて、自分の価値を貶めている。その対象に俺を選んだことについては憤りを覚えざるを得ないが、俺はこいつを拒めない。いまも未来も自分のことも何もかも愛さないこいつの自傷行為に付き合い続けているのは、俺がこいつを好きだからだ。人並みに独占欲だってある。俺が拒めば、他の男と同じことをするかもしれない。それが嫌だった。何よりも錯覚したかった。俺は俺の好きな女と愛し合っていると。少しも心に触れられないから、せめて身体で誤魔化していたかった。
 背を向けて寝息を立てている白い背中を眺めた。重すぎる過去をたった一人で背負っている身体はこんなにも小さい。


 アルコールが回ってうつらうつらし始めた頃、起きてるか、と小さな声がした。寝てはいねぇな、あくびを噛み殺す。

「頼みがあるんだが」
「……何だ」
「キスを、してくれないだろうか」

 こいつの頬は赤い。細い腕を掴んで引き寄せ、唇を重ねた。初めて触れるこいつの唇はぴったりと閉じていて、肩が震えている。一度顔を離した。

「あのさ」
「な、なんっ、なんだ?」
「なんで息止めてんだよ」
「そういうものではないのか?」

 まさかキスするのが初めてなのか。
 鼻で息すればいいから、あとそんな歯食いしばんなよ、俺が言うと、こいつは顔を上下に振った。改めて唇を重ね、縮こまっていた舌を絡め取る。吐息が熱い。
 唇が離れたあと、酒臭い、とこいつは呟いた。せっかくいい雰囲気だったのに、寝酒なんかすると眠りが浅くなるのだよ、とかがみがみ説教をし始めた。はいはいはい、と適当にあしらっていると、こいつはミネラルウォーターのペットボトルを俺に差し出し、酔い冷ましに飲んだらどうだ、と命令した。ミネラルウォーターを半分飲みほし、それをサイドテーブルに置く。

「……お前、香水変えたのか?」

 別に変えてねえよ、という言葉をすんでのところで飲み込んだ。奴の方を向くと、シーツを掴んで俺の顔をじっと見ている。こいつの言いたいことが分からないほど馬鹿じゃない。だが、こいつにそんなこと責められる筋合いはねえ、というのも本音だった。

「俺のベッドから知らない香水の匂いがしたからってお前には関係ない……か?」

 こいつには俺の頭の中をのぞく能力でもあるのか。黙っていると、こいつは俺を責めるでもなく、その通りだ、と呟いた。それがたまらなく寂しい、とでもいうような表情をする。卑怯だ。俺のことなんか好きじゃないくせに、俺がお前だけを見ていないと不満なのか。俺を頼ろうとしないくせに、心だって少しも開かないくせに、過去だけを愛しているから今目の前にいる俺のことなんて眼中にないくせに、都合よく俺を繋ぎとめておこうとする。口には出さないけれど、こいつに対する苛立ちが急に湧き上がってくるのが分かった。

 お前なんか嫌いだ。全部一人で抱え込むところが好きじゃねえ、何考えてんのか分からねえところが好きじゃねえ、勝手にひとりぼっちになろうとするところが好きじゃねえ、誰にも頼ろうとしないところが好きじゃねえ、全部嫌いだ、それなのに、全部が愛おしい。守ってやらなきゃいけない。何よりも嫌いなのは、不甲斐ない俺自身だ。唇を噛み、黙ったまま天井を眺めていると、こいつは急に饒舌になって、俺に向かって話を始めた。

「お前のことを、特別だと思いたくなかったんだ」
「……どういう意味だそれ」
「愛情が怖いんだ。失ったときの苦しみに、私はもう耐えられそうもないよ。でも、せめて身体だけでもつなぎとめておきたかった。私は、卑怯な人間だな。お前には随分悪いことをしたと思っている。すまなかった。お前とちゃんと向き合いたかったのに、こんなやり方しかできなかったことが悔しいよ」

 こいつの声は震えている。こいつの話は分かるようで分からない。喪失の苦しみなら俺にでもわかる。しかし、なんで別れの挨拶じみたことを言うのか。もう二度とあえない。そういったくちぶりにおれにはおもえた。
 やにわに、天井がぐるぐるとまわりはじめたことに気づく。なんだ、これ。アルコールにかんしては強いほうだと思っているし、こんなふうになるなんて考えられない。

「効いてきたか? 即効性の睡眠薬だよ。薬を盛られたことに気付かないなんてきみもまだまだだな」

 こいつは、ふふ、とおかしげに笑う。ふざけんな、何のために。しかし、いしきがぼんやりして言葉にならない。

「私は、思い出が欲しかったんだ。もう、きみには会うことができないからな。きみにはちゃんと説明しておかなければならないと思ったけれど、しらふの状態じゃ絶対に私を引き留めておくだろう。それは困るのだよ」

 こいつはゆかにちらばった服をいちまいいちまい拾い上げ、それをみにつけながらおれにはなした。

「きみは、私の右手に鎖がないことに気付いていたか? あれはもう、出そうとしても出せないんだ。盗まれてしまったからね。それでも私は戦わなければならない。もしかしたらこれで最後になるかもしれないんだ」

 それは、お前が死ぬかもしれないってことか。

「今日きみに会いに来たのは、後悔したくなかったからだよ。後悔しないように、思い出がほしかった。私は、きみが好きなんだ」

 知らなかっただろう、とおまえはわらう。今にも意識をてばなしそうなおれに、いままでしていたとんでもない勘違いを悔いるじかんなどのこされていなかった。せめてもう一度、抱き締めさせてほしい。俺もお前が好きだと言いたい。

 クラピカは微笑んだ。

「……さよな






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