朝が嫌いだ。眠りから醒めて白い天井を眺めているときの計り知れない孤独。朝焼けも鳥の鳴き声も、いまはもう美しいとは思えない。ひとりきりだという強烈な感覚は、長すぎる一日が始まる合図だ。あまりにもひとりだから、本当に私はここにいるのかすらよくわからなくなっていた。

 昨夜は牧師と寝た。ホテルの部屋の床で、シャワールームで性急に蹂躙されていた瞬間、世界に神なんていなかった。無理やり性器をねじ込まれても、心を引き裂かれるような痛みを感じない。あんなことをしたあとでも私はきちんと眠れるようになった。ベッドは使われず、すぐに出て行ってもらえたのは幸運だった。汚らしい男の痕跡が残っているのは気持ちが悪い。
 起き上がり、ピルケースから取り出したジアゼパムを舌の裏に挟む。それから枕元の携帯電話に手を伸ばした。電源を入れると、着信が一件あった。きみからだ。いつもどおり、二十秒の留守電も残されている。それを見てたまらない気持ちになった。きみが私のことを思い出してくれていた数十秒間、私は名前もよく知らない男と体を汚していたのだから。私は留守電を聞かず、それを消すこともせず携帯を閉じた。きみのこえは少しずつ蓄積されて、もうすぐメモリがいっぱいになり、少しずつ消えていく。折り返さない私にきっときみは怒っているだろうな。ホテルのチェックアウトは十二時だから、あと四時間は思い出にしがみついていても許されるだろう。事務所に戻るのはそれからでいい。
 念入りにシャワーを浴びて、バスローブを羽織った。髪を乾かし終えたころ朝食のルームサービスが届いたけれど手をつける気になれない。私は鞄に仕舞っていたオーデコロンを取り出してベッドに座り、枕に少し振った。瓶はサイドテーブルに置いて、枕に顔を埋める。それから目を閉じた。私は香水を使わない。これは最後にきみと会ったとき、きみがつけていたものと同じものだ。こうしているときみが隣にいてくれるみたいだ。すぐに下腹部が熱くなる。バスローブの隙間から手を差し入れ、指で陰部に触れる。もう濡れていた。……いやらしい。指を動かして快楽に耽る。陰部はとろけてぐちゅちゅと音がした。ああいう夜の痕跡を消さないと何もかもが耐えられなくなる。呼吸が荒くなり絶頂が近づいたとき、唐突に携帯が震え、びくんと身体が震えた。携帯は知らないうちに枕の下に入り込んでいたらしい。急いで切ろうと携帯を手に取ると、きみの名前が表示されていて涙が出そうになる。まるでずっと見られていたみたいで激しい羞恥に襲われる。そのうえ私は、あろうことか通話ボタンを押してしまった。慌てていたせいだ。もしもし、ときみの声がして私は絶望する。それはもう電話などではなく四角い形をした怪物だ。触れることすらできず慄いていると、きみはやさしい声で私の名前を呼んだ。どうした、聞こえてるのか。怪物だったそれは元の姿に戻り、ほとんど吸い寄せられるようにして耳に当てた。

「何だ」
「なんだよ、返事くらいしろや」
「今しただろう。何か用か」
「用……って言われると無いんだけどよ。お前しょっちゅう音信不通になるからこっちは心配になんだよ。お前いま何処にいる? お前がいた組が無くなったって聞いたけど、今なにしてるんだ」

 今か? 今はきみのこえを聞き、きみの匂いに包まれて、自分を慰めているよ。私は携帯を耳に当てたまま、また指を動かしていた。こんなふしだらな女だと知ったらきみはどう思うだろうか。答えられない、私は言った。嘘じゃない。

「わけありか」
「まあそんなところだな」

 おかしくて笑ってしまいそうだよ。

「用がないなら、何か話せ」
「は? 何かって?」
「何でもいい。声が聞きたい」

 きみが黙ってしまったので、嫌なら構わない、と通話を切ろうとしたとき、きみは呆れたような声で、お前なあ、と言った。

「私はおかしいことを言ったか?」
「いや、あのさ」
「早く話してくれ。ほんとうに、何でもいいんだ」
「……わかったよ」

 大学のこと、今学んでいること、難しくて敵わないがとりあえず試験をパスしていること、この間通りかかったレストランがよさそうだったこと、故郷ではもう春で花が咲き始めていること、煙草をやめたこと、参考書を適当に積み上げていたら崩れて片付けるのに苦労したこと、最近料理の腕が上がったこと。きみのしてくれる様々な話が、きみのかたちを目の前に作る。暖かくて懐かしくてやさしくて安心するのに、胸が苦しい。シーツを噛んで吐息を殺し、絶頂した。声は漏らしていないつもりだったが、きみの言葉は途切れた。

「……泣いてるのか?」

 電話越しのきみが言う。

「なぜそう思う?」
「ずっとそんな声じゃねえか」

 そうだ、私は苦しくて泣いてばかりいるから抱き締めに来てほしい、そう言ったら多分きみは来てくれるんだろう、でも私は泣いてなんかいない。

 苦しくなんかない。痛くなんかない。寂しくも、つらくも、悲しくも、汚れていく自分がいやになったりもしない。やさしいこえなんか聞きたくない。抱き締めてほしくなんかない。くちづけてほしくなんかない。大丈夫だって言ってほしくなんかない。安心させてほしくなんかない。ひとりじゃない実感なんかほしくない。きみのやさしい気持ちに涙を零したりなどしない。きみと普通の人間同士で出会い、きみと共に過ごす平凡で穏やかな毎日も、私は少しだって望んでいない。そんなものは全部全部全部全部私を弱くするだけだからいらない。

「もういい」

 何か言いたげなきみのこえを遮る。

「すまなかったな」
「なにがだよ」
「もういいんだ、なんでもないんだ。時間をとらせたな。切ってくれ」
「全然わかんねえけど、また電話していいんだよな?」
「ああ」
「ちゃんと出ろよ。あとたまにはお前からもかけてこい」
「……」
「ま、いいや。それじゃあ、またな」

 通話は途切れた。また、って、いつだ? 変わらない毎日がずっと続いていく奇跡を、きみは信じているのか。
 ツー、ツー、という電子音がひとつなる度にきみが遠ざかっていく。さっきまですぐそばにいたきみはもういない。私と通話していないあいだ、きみは私を忘れるだろう。忘れられた私は消える。私は、どこにもいない。ひとりだったときよりずっと強い孤独が胸を締め付ける。

 携帯の電源を落とし、床に放った。また枕に顔を埋め、ひとりきりで嗚咽した。涙は出ない。
……しあわせになりたい。