レオクラでクラピカちゃん0721
今週号があまりに恋する乙女の表情だったのでカッとなって書いた



  『移り香』


 協会本部近くに仮宿を構え、一夜を過ごした。
 いつの間にかまどろみの中にいたらしく、僅かな衣擦れの音で目を覚ます。室内の薄暗さと明かり取りから差し込む鈍い光のコントラストでおおよその時刻を把握した。気怠い身体を起こし、羽織るものを探すが見つからない。
 頭上から分厚いタオル生地が降ってきた。何をする、と声を上げる前にそれの正体が備え付けのバスローブであることに思い当たり、袖を通す。見上げると既に形を整えた彼が立っていた。
「よぉ」
「ああ」
 互いに愛想のない挨拶を交わし、それきり黙った。
 私を見下ろす彼は何か言いたそうな渋面をしていたが、素知らぬ振りをする。彼が朝早くに立たねばならないことは知っていた。変に情を残すべきではない、だから私は何も言わない。もしも私が同じ立場なら、彼が寝ている間にさっさと立ち去ったかもしれない。仮にも初めて結ばれた男女の情緒とはかけ離れているのかもしれないが、別れ際は苦手だ。どんな顔を見せればいいのかわからない。
 昨夜は身も心も彼に委ねた。君の望むとおりにして欲しいと言った。平時ではとてもできない、面映ゆさが先立つからだ。
 仏頂面の私とは裏腹に、彼は百面相を展開している。葛藤しているらしい様は、思考がころころと変わる度に表情も変わる。わかりやすい、まるで裏というものがない。いくらでも手玉に取れそうな気がする。が、存外難物だ。

 ――例えて言うなら、目を逸らし逃げて逃げて逃げ続けていたものに遂に捕まった。彼が必要だと思った。ひとときでいい、私のものになって欲しい。もっと往生際悪く認めなければいいものを、私は愚かで、小狡くて、したたかで、弱い。
 お前はアホか、と彼は言った。オレがお前に惚れてることくらい、とっくに知っているくせに、と。
 そうだ、そんなことは昔から知っている、知っているから困っていたのだよ。

 ようやく表情を一つに絞った彼は重い口を開いた。
「おい、クラピカ」
「……なんだ」
「こいつを預かっておいてくれねえか」
 何を、と聞くより早く押し付けられた。白いカッターシャツ。彼愛用の、祖国のブランドもの。伊達男のように身だしなみに気を遣い、その鞄の中には薬や医学書、勉強道具の他にネクタイや替えのシャツが入っていることを知っている。
 真新しく洗濯されたそれは糊が利いていて、ほのかに彼の香水の匂いがした。
「オレだってしょっちゅうこっちに来るしよ、まあなんだ、急に泊まりとか……あるだろうし」
 言い訳がましく頭を掻いて目線を逸らした。要するに、逢瀬の約束を取り付けたいらしい。彼らしからぬ迂遠さを不審に思ったが、そうさせているのは私だと思い至る。
「ああ。構わない」
「ホントかぁ?」
 くどい。確かに音信不通にしていた私を疑わしく思う心情は理解できるが、偽証は私の意に反する。
 私が怒気を発すると、逆に彼は安堵の溜息をついた。阿吽の呼吸で、来る、とわかった。
「んじゃメア」
「断る」
「……くっそ、このガキャ」
 最後まで発声させずに要望を突っぱねると、顔を引き攣らせた彼は鼻先で笑い、ぐしゃりと私の髪を撫でた。じゃあな、とだけ言って踵を返す。見てはいないが、きっと、とても優しい顔をしていたと思う。そういう声色だった。
 弾かれたように顔を上げ、去っていく背中を見つめた。心がざわつく。行かないでくれと縋り付きたくなる。馬鹿な。
 そうした行為に何の意味がある。自らの空虚さを紛らわすためだけに徒に時を費やす暇などない。彼にも、私にも。
 別れの言葉ひとつ言えずへたり込む私は幼子同然だった。せめて、こちらを顧みることなく早く行って欲しい。祈るような気持ちで一挙一動を見守っていると、ドアノブに手を掛けたところで彼が振り向いた。
 未練がましさを見抜かれたようで、胸が高鳴る。
「あーー……。……なんかあったら、すぐ言え」
 何の話かと一瞬考えて、思い当たる。その目には、若干のやましさが含まれていた。気にやむ必要はないというのに。言い出したのは私、それを望んだのも私だ。まったくどこまでも、君というひとは。
「わかった。万に一つもその可能性はないが……君にまず相談すると約束しよう」
「一言余計なんだよオメーは」
 怒ったような呆れたような調子で彼は悪態をついた。ああそうだ、こうした距離感が一番心地がいい。
 懐かしさに思わず口元が綻んだ。何笑ってんだ、と冗談めかして睨みつけられるが、何でもないと取り繕う。
 ベッドから降りて玄関ポーチまで素足で歩く。正面から彼を見上げ、見据える。彼が腰を落とし、顔が近付いた。少し考えて、その首に両手を回す。大きな身体は私にとって止まり木そのものだと思った。
 彼は私の腰を力強く引き寄せた。互いの身体を押し付け合いながらも、礼儀のように触れるだけのキスだった。
「……じゃあ、また」
「ああ。またな」
 短い別れの言葉を交わし、身を翻した彼が振り向くことはもうなかった。厚い扉がゆっくりと閉まり、オートロックの無機質な音が私の耳に残った。
 
 シャワーを浴び、汗を流す。
 バスローブを羽織ってパウダールームを出ると、視界に乱れたベッドが映った。情事の痕跡を人目に晒すことに抵抗があったが、当分の間ここを拠点にする以上、一切のキーピングサービスを撥ね付けることはできない。気にするほどのことでもないのだとわかってはいるが、性分だ。
 脱ぎ散らかした(正確には彼によって脱ぎ散らかされた)下着を拾い上げた。これもリネン類と共に洗濯に出してしまうか。ああ、面倒だ。新たな生活を起ち上げなければならない煩雑さに少し憂鬱になる。
 ベッドの端に腰を掛ける。先程受け取った白いシャツ、これはクローゼットの中に入れておかねば。折り畳まれたそれを広げると、彼の香水の香りがふわりと広がった。正確には移り香だろう。鞄の中で一緒くたにしているせいで、服にも香りが付いたと推察される。
 彼は一見、粗野な男に見える。中身もまあ……単純ではあるのだが、懐が大きくて情に厚い。意外と思慮深く、私の事情に安易に踏み込んではこない。傍目には拒絶と思われるだろう私の一年弱の対応に、恨み言は一切なかった。その上で「わかるけどよ」と心を寄せてくる。まったくもって、天性の人たらしではないだろうか。好む香水が理知的で微かに甘い傾向にあるのは、わかるような気がしなくもない。

 瞬時に、昨夜の情景が頭の中で甦った。この香りを纏った男に、一晩中抱かれていたのだ。
 ……少々、乱暴だった。激しく突かれて、思わず腰が逃げたところを押さえつけられ、私が最奥で感じていると知るや否や執拗にそこを擦った。痛みはないに等しかったが、刺激が強すぎてどうにかなりそうだった。
 だがそれは私が煽ったせいでもある。避妊具を取り出した彼を制し、あるがままの性行為を強請った。最初は拒絶した彼も、私の頑なな意志と、女性周期を再三確認すると、やがて折れた。実際には薬を常用しているから周期がどうであれ関係はないのだが、彼には言っていない。余計な心配をかけたくなかった。
 ゆっくりゆっくりと、彼の陰茎が私の体内を蹂躙していき、初めは内部を探るような優しい動きだったものの、焦らされているようで声が出た。そこから箍が外れたように腰を大きく動かして……ああ。吐息が熱を持ち始める。

 ベッドに転がり、シャツを抱きしめた。鈍痛のような疼きが腰の奥にある。今おそらく、私の眼は緋に染まっている。
 襟元を嗅いだ。彼自身の体臭と、香水の移り香が混然となり、より記憶は鮮明になる。股ぐらが熱く、濡れているのを感じた。

 行為の最中、彼の姿は扇情的だった。眉根を寄せて、吐息は荒く、吠えるようでもあった。大人の男をかわいいなと思ったのは初めてだ。お腹の中が彼のもので満たされて、熱くて、頭の中で何かが弾けそうだった。
 何度も何度も名前を呼ばれ、「好きだ」と繰り返し囁かれた。「ずっと好きだった」とも。「私もだよ、レオリオ」そう言えたらどんなによかっただろう。言えるわけがない。彼の掛値なしの純心に応える資格など私にありはしない。
「……私を軽蔑したか?」
 私が閨の中で何を覚え、実践してきたか、わからない男ではないだろう。交渉術のひとつであり、目的のための手段だ。そのことを恥じる必要性はないと思っていた。だが、今は。惨めさがじわりと内面に沁みを作る。
「……意味がわかんねぇし、オレは今ここで死んでもいいかって思ってる」
 いたく満足げな惚けた声が返ってきた。馬鹿。医者になる夢はどうした、女を抱いたくらいで死んでどうする、これが初体験でもあるまいに。まったくお前はすぐ女で身を滅ぼすタイプだな、いい意味でも悪い意味でも変わってない。
 嘘でも嬉しかった。そのあとはキスを求めた。飽きるほど舌を絡ませ合ったり、乳房を医学的にマッサージされたり、彼が私の非常に敏感なところを指で擦って気をやっているうちに、「もう一回いいか?」と求められた。頷いて了承した。そのときはまさか、三回目があるなどとはゆめゆめ思っていなかった。

 反芻して、指を陰唇に這わす。しとどに濡れたそこはあっけなく指を受け入れた。当たり前だが、彼の指のほうが太くて長い。物足りなさを感じながら、彼の指と思って中を探る。動かし方をまねてみる。
 どろりとしたものを指に感じた。私の体液かと思ったが、違う。膣内の奥深くにあった、彼の残滓が下りてきてしまったのだ。指に絡めて、彼と私の体液を混ぜ合わせる。あられもない粘りのある水音が、私の羞恥をかき立てた。
「レオリオ……ッ」
 今ここにはいない、彼の名を呼ぶ。彼を想って、彼の指だと夢想して、自己を慰める。
 もしも、私の里が無事で私がハンターとなり、大好きだったあの子のために医者を探して。そうして巡り合えたのが彼だったとしたら。もし、そんな未来が存在し得たのなら、私は彼の胸に真っ直ぐに飛び込めたのだろうか。
 あっという間に昂ぶって、あ、あ、あ、と声が漏れ出る。シャツを顔に埋め、足りないものを他の五感で埋めるかのごとく私はそれを唇で食み、噛んだ。くぐもった声で喘ぎ、一点をがむしゃらに弄る。脚が勝手に震え、全身が痙攣した。
「――ッ、――!!」
 声にならない声をあげ、恍惚の波が引くまで私は心の中で彼の名を呼び続けた。



 もう一度シャワーを浴びて、今度は服を身に付けた。
 私は一体何をしているのか、何を、という自己嫌悪に苛まれる。
 一度、かつての仲間に「あなたね、好きな人とのソレとアレじゃあ全然違うからね! 一度あの彼に抱いてもらいなさいな」と半泣きのお説教をもらったことがあるが、こういうことなのか。恐ろしいな。
 シワだらけにしてしまったシャツを広げる。唾液で汚れたのはクリーニングでいいとして、噛み痕は若干生地が傷んだだけで穴が開いたわけではない。よかった。いや、決してよくはない。
 謝ったら許してくれるだろうが、何をしてこうなったかは絶対に言えない。
 どうしたものかと途方に暮れていると、サイドボードから振動を感じた。着信。相手はミザイストム。寝惚けていたような緩い頭が、冷水を浴びたように瞬時に切り替わる。短いやり取りを経て、10分で出ることを約束した。
 立ちあがりスーツに腕を通し鏡の前でチェックする。異常はない。髪を撫でつけ、唇を固く結ぶ。
 備え付けのランドリーボックスに彼のシャツを放り込むと、私はカードキーを手に部屋を後にした。

 (了)