消しちゃってごめんなさい 同じやつです 捏造
しゃらしゃら、しゃらしゃら。
金属がこすれ合うような音で目を覚ました。なんの音だ? 身体を起こし部屋を見回す。音の出どころを探したけれど分からない。ボクの部屋でもなく、おそらくきみの部屋でもないだろう。すぐ隣にあるきみの部屋からはなんの音もしない。昔けがをして失明しかけたとき、視力を補うようにしてボクの聴力は研ぎ澄まされ、それは今も変わらない。たぶんこの音は脳の奥で鳴っている幻だ。朝起きたばかりのとき、どちらが夢でどちらが現実なのか分からなくなることがある。ボクの意識はたぶんまだ夢の中にいて、この不思議な音は夢の残骸だ。
しゃらしゃら、しゃらしゃら。
奇妙な浮遊感を持て余したままボクは洗面所で顔を洗う。意識にかかったもやは冷水によって洗い流され、現実に着地した。何よりも信じなきゃいけないのは現実感だ。本当に目がさめたのか、まだ夢の中なんじゃないか、本当はいまどこにいるのか、本当にボクは生きているのか、そんな途方もないことを考えすぎるのはけして利口じゃない。現実を疑いすぎて五感が透明になる前に、ボクはその不思議な音のことを忘れた。
朝、鏡を見る。瞼の上に残った水滴をてのひらでぬぐって、二三度まばたきをしてから自分の顔を見つめた。鏡を見るということは、今日もボクがボクであることを確認するための重要な儀式だ。鏡に映る表情のないボクは十七になっていた。
正式なライセンスを手にしてから、念の存在を知り、師範代に出会い、基本の四大行をマスターした。経験値を積み発のイメージを錬るため、今は師範代と三人で天空闘技場の二百階にいる。広すぎる個室を割り当てられ、そこにもう二か月もいるけれど落ち着かなかった。あんなにも憧れた外の世界は何もかもが目まぐるしく動き、否応なしに焦ってしまう。それに都会の喧噪のなかで、自分の存在はひどく矮小なものに思えた。きみと、ボクと、他人、他人、他人。ボクは世界の主人公なんかじゃなく、誰かの物語の脇役に過ぎない。だからいつか突然退場を強いられるのだろう。今日という現在は昨日と地続きだからボクは過去を認識して、そして愛することができる。でも明日も明後日もずっと続いていくと誰もが甘えている未来のことをボクは信じない。未来は、あらがいようのない死という形で襲いくる怪物だ。でもせめてボクには明日が必要だった。明日は四月四日で、一年に一度しか来ない大切な日だから。
壁に張り付いた時計が、まだ朝の六時を少し回ったばかりだとボクに教えた。窓の外からは虹色の朝焼けが差し込んでいる。寝直すには遅すぎるし、一日を始めるには少し早すぎる。でも目は覚めてしまったし散歩にでも行こうかと着替えて部屋を出た。早朝だというのに、すでに廊下はあたたかい。
ふときみの部屋の方を見ると、扉が完全に閉まった状態になくわずかに隙間がある。不用心だな。どこかに出かけているんだろうか? 女の子の部屋の気配をわざわざ読んだりするのは失礼だよな。扉越しにきみの名前を呼んだけれど返事はない。開けるよ、と一応声をかけて、ボクはきみの部屋に足を踏み入れる。それからすぐに「わっ」と情けない声をあげて背を向けることになった。きみは下着姿のまま、窓の外の朝焼けを眺めていた。ぼんやりした声のきみは嬉しそうにボクの名前を呼び、おはよう、だなんてごくふつうに朝の挨拶をした。
「ごめん、見るつもりじゃなかったんだ」
「え?」
「……服、着て」
何回か瞬きをすると真っ赤な視界は正常に戻った。きみがくすくす笑っているのが背中越しに分かって恥ずかしい。クローゼットを開ける乾いた音と、衣擦れの音。同じはずのきみの部屋はいい匂いがするなんて知りたくなかった。
長い長い沈黙のあとようやく口を開いたきみは、またボクの名前を呼んだ。いい? 大丈夫? と何度も確認してから慎重に振り向くと、今度はきっちりと服を着てくれていた。どうしてか秋の服を着てる。なんで? などと聞くのは野暮だろう、女の子は難しい。
「早起きだね」
突っ立ったままのボクの腕を引き、部屋に招き入れた。
「きみこそ」
「オレは夜中に起きちゃったからそのまま朝だよ」
「……眠れなかった?」
瞼は少しだけ赤くなっている。
「いや、そういうわけじゃないよ」
目を見て話さないのはこれ以上なにも聞いてほしくないからだ。だからボクが何かを言う前に、きみはボクの唇を塞ぐ。いつもより唇が熱い。なんとなく、初めてキスをした十三の頃を思い出していた。木陰に座って唇を触れ合わせたあのとき、ボクはいまこの瞬間さえあればそれでよかった。きみと触れているあいだは過去も未来もいらない。それなのに未来は現在になり過去になり、いつの間にかきみはキスをするとき顎を持ち上げなくちゃいけなくなっていた。
それから、きみが自分からするキスは「寂しい」って意味もあることをボクは知ってる。いま寂しがっているきみの腕を掴んで、このままベッドに沈めたい。きみは無防備すぎるから、ボクのことを異性として認識しているのか不安になる。ボクは女の子のきみに、こんなにもどきどきしているのに。ボクたちの民族衣装は身体の線をすっかり隠してしまうから分かりづらいけれど、もうすぐ十七になるきみはもう女の子の身体になっていた。下着がかろうじて隠していた胸のふくらみや突き出た尻、くびれたウエスト、真っ白な脚、それらは男の劣情を煽るには充分すぎる程だ。ちゃんと分かっていないきみに、ボクがちゃんと男で、きみがちゃんと女の子なんだって分からせたい。
でもボクはなにもできない。優しさに似ているだけの臆病な心がきみになにもさせようとしなかった。なんとなく手を繋いで、なんとなく抱き締め合って、なんとなくキスをしているけど、ボクたちの関係が一体何なのか言葉にして確かめ合ったことなんか一度もない。恋人なのか幼馴染なのか、そういった既製品の言葉に甘えることは許されていない。
長いキスの後きみは、朝ごはんにしよう、とボクの肩に顔を押し付けた。これは、自分の表情を見られたくないときのきみのクセだ。
ルームサービスが到着して、テーブルに朝食を並べた。しかしきみの食事は少しも進まなかった。きみの握ったフォークが皿に当たってかちかち音を立てている。何を言ってもどうせ否定するんだろうけど、気分が悪いことは火を見るよりも明らかだ。師範代の部屋に行き、念の修行を始める八時までにまだ時間は少しだけある。ただの疲れでもきみが苦しいのは嫌だけど、もし何かの病気だったらもっと大変だから、食事を下げてもらったら医者を呼ぼう。
ふいに、ねえねえ、ときみはにこにこしながらボクの顔を覗き込んだ。
ボクと二人きりのとき、きみは公用語を使わない。故郷の言葉で話すきみはちょっとだけ甘えたような、幼い雰囲気になるのが可愛くて好きだ。なに? すると君はいたずらっ子のように首を傾げる。
「お前さ、いつも自分のこと、ボク、って言うよな」
「……え、そうだっけ? 全然気にしたことなかった」
「そーなの? じゃあオレと喧嘩してるときとか意地張ってる時だけボクじゃなくてオレになるのも知らない? お前のそれ可愛くて好きなんだ!」
「カワイイ……って男に使う言葉?」
おとこ、って部分を強調する。
「でも顔赤くなってるよ!」
だめだ。何を言ってもからかわれてしまう。心を無にするつもりで、切り分けられたグレープフルーツを口に運んだ。ボクの反応が薄いのを見て、きみの顔から笑顔が消える。
「最近元気ないけどなんで?」
「え? 元気だよ」
「うそだ。分かるよ」
「纏が乱れてる?」
「そうじゃないよ、そんなの無くたってちゃんとお前のこと分かる」
元気がないのはきみの方じゃないか。なのにきみは、風邪ひいてる? なんて言ってボクの額に当てた。触れた手はびっくりするほど熱い。
「なんで、こんなに冷たいの?」
目をまんまるにしてボクを見つめたきみは次の瞬間、椅子から崩れ落ちた。
体温計は三十七度九分。
「微熱だ。風邪かな? 咳もくしゃみも無いみたいだけど」
「……さっきうつしちゃったかな」
「さっきって?」
「わからないならいい!」
「う、うん……お医者さん呼んでくるから、少し待ってて」
きみはボクの服の裾を掴んだ。寝てれば治る、だから行かなくていい、の一点張りだ。
「ボクが部屋出て行ったら、寂しい?」
「うん。さみしい」
冗談のつもりだったのに……。きみは毛布から片手を出して、部屋の内線を指差す。
「わかったよ、確認してみるよ。ボクはここにいるから」
苦笑すると、きみはにっこり笑って、安心したのかすぐに寝入ってしまった。
フロントに繋ぐと、すぐに医師を手配してもらえることになった。少し待って、ドアがノックされる。早いな、もうお医者さんが来たみたいだ、ボクが迎えに出るとそこに立っていたのは医師じゃなくて、ボクたちの念の師範代だった。師範代は、ただの小さな女の子にしか見えないのに、確かな迫力を持って「遅刻」とボクを睨んだ。
「このあたしを待たせるなんていい度胸だわね。いま何時か分かってる?」
「え、えっと」
急いで壁掛け時計を見ると、もうとっくに八時を過ぎていた。ごめんなさい! と頭を下げる。絶対殴られるなあ、怖いなあ、と考えていたけれど、師範代は先ほどとはうって変わって機嫌の良さそうな声で、もういいわさ、と言った。顔を上げると、奇妙な笑顔を浮かべている。
「ここってアンタの部屋じゃないわよね。あのコの部屋でしょ?」
「そうです」
「なんでアンタが朝からここにいんのよぉ。なんで出迎えてくれちゃってんの彼氏ぃ」
ついに進展あったの? 奥手そうな顔してやるときはやるのねえ、はああ青春だわさ、とか、この人はなにを一人で盛り上がっているのかな。彼女が倒れたのでちょっと様子を見ていただけです、と事実を言うと、師範代は眉間に皺を寄せて、やっぱりボクの頭を叩いた。
師範代は、きみが眠っているベッドの横に立って、疲労ね、と呟いた。
「分かるんですか?」
「このコの場合は大きな要因よ。いつもがんばりすぎてるもの……ねえ、このコちゃんと寝てるの?」
「遅くても夜中の二時には寝てます。ただ今日は夜中に目が覚めてそれから眠っていないと言っていました」
「ふーん……でも変だわさ。このコ、寝てる間の方がオーラが多い、というより爆発的に増えてるの。今もそう。まるで夢の中で戦ってるみたいだわさ。しかも、そのオーラを見えないようにしてるのよ。それも完璧に……まだ隠なんて教えてないのに」
「イン?」
「基礎をマスターしたらちゃんと教えるわ。あんたたち二人とも賢くて覚えがいいんだからこのまま努力しなさいよね。とにかく今日はこのコを預かることにするわさ。こんなふうにオーラ出しっ放しじゃ身体がもたないわよ。医者にも見せるし、前より健康になって返すから安心なさい、心配性の彼氏さん」
「彼氏さん」
「というわけで今日の修行はなし。あんたも特別に休みにしてやるわ。このコがこんな状態で、あんたも心がよそにある状態で色々詰め込もうとしても効率悪いだけだものね。それに今日は修行なんかよりやりたいことがあるんじゃないの?」
師範代はワンピースのポケットから、紙袋を取り出してボクに手渡した。
「これ、金具。イヤリングがよかったんでしょ? 石だけあってもアクセサリーにはならないからね」
「……わざわざ買ってきてくださったんですか?」
「そーよ。あんたらがいつまで経っても進展しないからこっちはイライライライライライラしっぱなしなのよ!」
明日このコの誕生日なんだから、ちゃんと勝負してきなさいよ! そう言うとボクの背中をぐいぐい押して部屋から追い出した。
「いきなりなんですか!?」
「乙女のベッドルームにヤローが長居するんじゃねぇわさ!」
勢い良く扉を閉められてしまった。さっきまでボクがここにいることを面白がってたくせに……。すごすごと自室に戻り、机の引き出しにしまってあった箱から石を取り出した。透明にも薄紫にも虹色にも見えるこの石には名前がない。これはボクが作った。
今年のきみの誕生日はなんとなく特別にしなきゃいけないと思い、まず宝石を作ろうと決めた。変化系と具現化系を混合して鉱物の原子配列をちょっとずつ変えてやれば世界にたった一つのものができるはずだ。理論上。
しかし、その石をどうやって使えばいいのか分からない。「女の子」はどんなアクセサリーをプレゼントされたら嬉しいのか、三か月前修行の合間に師範代に相談した。すると、
「贈り物に何がふさわしいかっていうのは二人の間柄に依存するものだけど、あんたは別に指輪でもいいんじゃない?」なんて無責任なことを師範代は言った。
「指輪はちょっと困るんじゃないでしょうか、彼女が」
「困ってんのはあんたでしょ」
「う」
「あのコのことになると途端に優柔不断になるのねえ。でもあのコ、あんたから貰えるならなんでも喜ぶタイプのコじゃないの? 何あげたって悪い気分になるってことはないわさ。気持ちよ、気持ち」
「うーん、それじゃあイヤリングとか」
「いいと思うわよ。あのコきれいな顔だし」
「あ。ボクもそう思います」
「惚気てんじゃねえわさ」
「すみません……」
師範代にひやかされたり茶々入れられたりしながらきみへのプレゼントを作り始めた。原子の配列を変えるという作業は念を覚えたてのボクにとって重労働だった。きみにバレないように師範代にアドバイスをもらいに行くのは一苦労だ。鉱物は予想以上に繊細で、いくつも素材をだめにしてしまったが、なんとか間に合ってよかった。三か月かけて少しずつ色を変えて、形を整えて、一見透明だが角度によっては虹色に光る不思議な石ができた。
金具を組み合わせ、最後の微調整が終わった。あとはラッピングだけだ。喜んでくれるといい。一息いれたときノックの音がした。続いてきみの声がボクの名前を呼ぶ。時計は十四時。夢中で気付かなかったけれどそういえば食事をとっていない。ボクはイヤリングを箱に入れ、引き出しにしまってからきみを出迎えた。
「もういいの? 具合悪くない?」
「ああ、師匠のおかげですぐ元気になったよ。念は本当に凄いな」
きみは公用語を使った。
「ほんとに?」
顔色はいいけど、なんだか表情が暗い気がした。たくさん泣いたあとに無理やり笑顔を作っているような、はり詰めた感じ。
「大丈夫だよ。心配いらない。今から出かけてくる」
「え、どこ行くの?」
「ちょっと買い出しだ。師匠が付き合えと言うのでな。仕方なく行くのだよ」
やれやれ、とため息をつくきみの後ろには作務衣を着た男性が立っている。弟子の義務だろ!とか、弟子をこき使うのは教えること教えてからだ! とか、喧嘩みたいなことをしてる。誰だろう、あの人。師匠って? あやしい人じゃないことは分かったけれど、それでもボクの記憶にその人はいない。
「どうかしたか?」
「あ、いや、ううん。なんでも」
引き止めようか迷っているうちにきみはボクに背を向けた。きみの背中を見送るのは苦手だ。もう二度と会えない、そんな気分にさせられる。永遠の別れなんて無かったはずなのに、それを追体験させられているかのようだ。言語のせいかもしれない。公用語は好きになれなかった。あれは他人行儀だ、本当に。
夕方になったが、きみはまだ戻ってこない。きみと一緒にいないと食事すら面倒で仕方なかった。適当に試合を見に行ったり読書したり纏と練を繰り返して暇を潰したけど退屈は退屈だ。
こんなにつまらないのって久振りだな。一人で旅に出たきみが半年経って村に戻ってきてからは本当にずっと一緒だったから。お互い一人だった半年分を埋め合うみたいにしてそばにいた。
きみのことが好きなんだって分かって、初めてキスをした。子どもの頃の記憶ばかり鮮明だ。十三歳だったあの頃のこと。ふと違和感を覚える。変だ。ボクはそれから何をしてた? 旅立ったきみを見送って、それから? きみが帰ってくるまで何をしてた?
十四のときボクは何をしていた? 十五は? 十六は? ちゃんとあるはずの記憶が小説の挿絵みたいにしか思えない。
……昨日のボクは、何をしていた?
? ? ? ノックの音でボクは跳ね起きた。どうやら机に突っ伏して寝ていたらしい。時計は十九時三十分。ドアの向こうできみの声がする。ボクを呼んでる。急いで立ち上がりドアを開け、ただいま、と言いかけたきみを抱きすくめた。
「わあ! どうしたの?」
「おかえり」
「ただいま! ね、どうしたの?」
歌うような響きの懐かしい言葉、きみの声、柔らかい髪の匂い、ボクより小さいきみの身体、きみはちゃんとここにいるし、ボクもここにいる。きみはボクの腕のなかでくすぐったそうにもぞもぞ動いた。
「なんだよー、お前だってオレがいないとさみしいんじゃん!」
「そうだよ」
「や……やだな。買い物してきただけなのに……なぁご飯食べよう。お腹ペコペコなんだ」
「うん」
大丈夫。ちゃんと生きてる。全部夢だ。
夕食はすべてのお皿が空になった。ごちそうさまー、と言って、きみは小さく溜息をついた。
「なんかさー、手作りのものが食べたいよなぁ。ここのご飯美味しいけどなんか飽きちゃった」
「確かにね。キッチンあれば何か作ってもいいんだけど。でもやっぱり家の味がなつかしいよね。そろそろ帰る?」
「帰る……?」
「このあいだ村に手紙出したっきりだしさ、一回帰ろうか」
「帰るって、どこへ? だって私は」
「え?」
きみの表情は真面目で、冗談を言っているふうには見えない。が、ふと我に返ったように目をしばたたかせて、照れ笑いに似た何かを顔に貼り付けた。
「あれ、あはは、なにいってんだろオレ……ごめん、なんでもない。でもいま修行中だよ、まだ帰れないよ。師匠を置いてはいけないなぁ、あんなやつだし」
きみの言う師匠って誰のことなのか聞いたらいけない気がする。聞いたらこの世界ごと崩れてしまうような悪い予感。
「それもそうだね」
曖昧に相槌を打つ。
それからきみの口数は極端に減った。明日はきみの誕生日なんだからそんなに暗い表情でいてほしくはなかったけど、きみが自分から閉じこもった時ボクにできることは殆ど何もない。しかしきみはボクに黙ってそばにいてほしがってるみたいで、少しも離れようとしなかった。比喩じゃなく、ほんとにぴったりくっついてる。頭を撫でたり髪をすいてあげたり、手を握ると喜んだ。きみはキスしたくなるほっぺただけど、へんな気持ちになりそうだしやめておいた。
やがて〇時になった。きみの誕生日の夜、今夜は満月だ。
「お誕生日おめでとう」きみにイヤリングの入った小さな箱を差し出す。
「へへ、ありがとう……もう四月だったんだね。開けていい?」
ボクは頷いて、丁寧に包装紙をはがすきみの指先を眺めた。
「わあ! すっごい綺麗だね! イヤリング? 嬉しい、ありがと……でもこんなに綺麗なのオレに似合うかな」
「当たり前じゃないか」
「そうなの?」
きょとんとしている。きみみたいな子が、自分を可愛いって知らないのかと思うとびっくりする。きみみたいな子だからかもしれないけど。
「オレこういうの付けたことない……これどうやってつけるんだ?」
「ここのネジをゆるめて、耳たぶに挟むんだ」
やって、ときみは髪を耳にかけて横を向いた。
「挟んだら、またネジを締めるんだ。痛くない?」
大丈夫、と言うきみの頬が赤くてなんだかどぎまぎしてしまう。
「はい、出来た」
「似合うかな」
「すごく綺麗だよ」
きみはなにも言わず、じっとボクを見つめている。きみはものすごくかわいい女の子なんだってことを思い出して心臓が速くなる。
「あ、でも寝る前には外さないと。自分でできる? ボク、そろそろ部屋に戻るから」
恥ずかしいくらいに早口でそう言ってボクは立ち上がろうとした。けれどきみはボクの服の裾を掴む。それからとんでもないことを言った。
「今日は一緒に寝て」
きみの言葉を反芻しながらボクの頬はみるみる熱くなる。それがどういう意味なのかきみはきっと分かってない。
「あのさ……ボク、あんまり意識されてないみたいだけど普通の男なんだ。きみは女の子だよね」
「うん」
「男って好きな女の子に何するかわかんないんだよ。きみはすごく頭がいいけど、どっか抜けてるんだ。男がどういう生き物なのか、きみはちゃんと分かってないよ」
「……オレ、子どもじゃない。だからもう何も言いたくない。わかってないのはそっちだ」
声が震えてる。本当は怖くてたまらないくせに、逃げてるのがボクの方だって無理やりわからせようとする。
「その通りだね」
だから、ボクに好きにされてもなにも言わないでくれ。
肩を掴んで噛み付くように無理やりキスをした。きみは苦しげに喘いだけど、きみを思いやる余裕のないボクをひっぱたいて責めたりしない。きみを抱き上げて勢いのままベッドに沈めた。ボクの脳を麻痺させ凶暴な生き物に変えようとする焦燥感をなだめることもせず服に手を掛ける。が、細い身体が怯えているのが分かって脳が冷える。
「……ごめん。やっぱり、」
身体を離そうとすると、きみは首を振った。やめないでいい。ボクのシャツを指先で摘まんで、行かないで、と目を潤ませている。そんなふうにするから、ボクはもうなにもわからなくなった。
※
夜が怖い。
何もかもが終わってうつらうつらし始めたとき、きみは呟いた。破瓜の痛みに耐えたきみの頬に涙のあとがある。それを謝ったりしたら怒られるに決まっているからボクはきみの頬を撫でながら、どうして? と返事をした。
「ずっと前から、怖い夢ばっかり見てるんだ」
……どんな?
「誰もいない夢だよ。お前も、大切だったみんなも、全員いないんだ。私しかいない夢の中で私はひとりぼっちだった。ずっとひとりで、なにもかも許せなくて、ひたすらなにかと戦いつづけなきゃいけなかった。心がばらばらになりそうだったよ、私は誰と戦っていたんだろうな、思い出せないや。もしかしたら私が戦っていたのは自分自身で、許せなかったのも私自身だったのかもしれない。その夢はすごく感触がリアルで、こっちが本当のことなのかもしれないって思ったよ、すごく怖かった、さみしかった。……それから夜が怖いんだ。まぶたを閉じるのが怖い、眠って目が醒めたら今までのことは、お前がここにいることは全部夢だったんだって思い知らされるのかもしれない、それが怖くてたまらないんだ。いま現実だと思っていることが本当は嘘なのかもしれない、朝起きたとき、ちゃんと今日と同じ自分のいる明日が来てくれるか分からない。だから、すごく不安なんだ」
ボクは繋いだてのひらに力を込めた。
「……でもこうして手を握っててくれるならきっと、眠るのも怖くないはずなのに。変なんだ。おかしいよね。今見ているのは、私の目の前にいるお前はただの夢じゃないかって、思うんだよ」
きみは自嘲気味に笑って、涙を零した。
「……こっちがほんとのことだろ? あんなの、全部夢なんだよね? 今日は四月四日で、私の誕生日だよね? 生まれてきてよかったって思っていい日だよね? 今は九月なんかじゃないよね? 昨日の私もここにいたよね? 誰も傷つけてないし私が傷ついたりもしてないよね? 安心したい、怖いのはいやだ、ずっとそばにいてよ、一人はもうやだよ! 眠りたくない! 本当のことなんか見たくない! ずっとずっと一緒にいたい! こんなに幸せなのに、なんで嘘なの、どうして夢なの、取り上げるくらいなら幸せなんかいらないのに! ひどいよ、ねえ消えないでお願い、これでさよならかもしれないなんて嫌だ……」
「泣かないで。大丈夫だよ。ボクがついてるから、何も怖いことなんかないよ」
「下手なウソつくな」
「嘘じゃないよ。本当だよ。大丈夫。怖くなんかない」
「……ほんと?」
頷いたりしてごめんね。不安そうなきみの頭を撫でたりしてごめんね。ほんとは、ボクにも分からない……いや、きっとこれは夢なんだともう分かり始めている。ボクがきみの見ている夢の登場人物だとしたら全部に説明がつく。これは現実なんかじゃない。
でもね、きみが安心してくれるならボクは何千回何万回でもきみの大嫌いな嘘をついて世界一の嘘つきになって、そうしてきみに嫌われたっていいんだよ。
大丈夫だよ、怖いことなんてないよ、大丈夫だよ。そう何度も繰り返し、もう片方の腕できみの身体を引き寄せた。きみは檸檬のいい匂いがした。汗がひいてちょっとだけ冷たい。イヤリングの揺れる耳たぶに触れる。虹色の石がきらめいた。耳の奥でまた、しゃらしゃら、しゃらしゃらと不思議な音がし始めている。
ボクの記憶も存在も今生きていることさえ全部嘘だっていい、すべてが数分前に貼り付けられたコラージュだって構わない。絶対に嘘じゃないんだ、今この瞬間にきみが愛おしくてたまらないと感じていることだけは。
激しい混乱の波が去り、落ち着いたきみは小さな声で、ありがとう、と言った。何に対するありがとうなのか、ボクはちゃんと分かってる。指で涙を拭ってあげるときみは微笑んだ。ボクはきみの笑ってるところが一番好きだ。大丈夫。きみはどこへ行ったってちゃんと生きていける。ひとりじゃないよ。みんな、おひさまみたいなきみのことが大好きなんだ。でもボクは、きえていく夜の向こう側で泣くのを必死に我慢している強がりなきみの肩を、もう抱きしめてあげられない。
手の甲で涙を拭ったきみはすごくねむたそうにしている。もうすぐ夜明けだ。
最後にもう一回だけ唇に触れたかったけど、そんなのお別れの挨拶みたいで悲しい。キスは悲しいものじゃない。キスはどこまでもやさしい。
ボクの腕の中で、おやすみ、と呟いてきみは目を閉じる。おやすみ。きみの手を握ったままボクも目を閉じる。きみが眠ったら、きっとボクも眠る。もう来ないかもしれない明日のことを考えた。二人だけの幸せな未来はあまりにもたいせつすぎて名前をつけることができない。
眩しい朝。
リネンの清潔な香り、やさしい風の声、焼きたてのパンの香ばしい匂い、風に揺れる花、どこかで聞こえるピアノの音、いままさに飛び立とうとする鳥の生命力、終わりのない空、道端に溶け残った冬のなごり、玻璃瓶の中で反射する虹、色とりどりの砂糖菓子、きみと手を繋いで歩くレンガの道、ボクに微笑みかけてくれるきみのきらきらひかる長いまつげ、てのひらのぬくもり、穏やかに過ぎていく時間。
ここに立って、ここに生きて、胸がつぶれそうなほど幸せだと感じる瞬間。
いらなかったはずの明日は、なにもかもが愛おしくて、儚い。