出先から戻ったときには、携帯電話のバッテリーゲージが赤くなっていた。日付けを跨ぐような仕事ではなかったはずなのに、すっかり長引いてしまった。表向き、本業としているシノギは下の者に任せているが、たまに俺が顔を出さなくてはならないときがある。
 脱いだジャケットをベッドに放り投げ、結び目に指を突っ込んでネクタイを緩めた。寝る前に、表向きではない方の仕事を進めるつもりだった。行き詰った現状を少しでも動かしたい。
 シャツのボタンを外しながらデスクに移動しようとしたとき、充電アダプタを差し込んで間もない携帯が鳴った。どこのどいつだ、こんな時間に。
 相手別に着信音を変えるような几帳面なことはしていない。対応するのも億劫だったが、これを放置した結果、組織に大事が降りかかる可能性を思えば、受けざるを得なかった。
 着替えを中断してベッドを回り込み、携帯を置いたナイトテーブルに辿り着く直前、着信音は途絶えた。今、鳴ったばかりだろうが。なんの嫌がらせだ。
 ディスプレイを見る。…ヤツか。たった二回鳴らしただけで切り上げるとはせっかちなことだ。
 ケーブルに繋いだまま、携帯を掴み取る。時刻が気にはなったが、かけてきたのはヤツの方だ。文句はあるまい。誤操作による着信だというのなら、それさえ確認できれば問題なかった。
 コールバック。
 単調な呼出音が始まり、俺は無意識にその回数を数える。今しがた向こうからの回線が切れたばかり。ヤツの携帯は当人のすぐそばにあるはずだった。
 なのに、呼出音は十回を越えようとしている。おかしい。誤操作で架電したとしても、その相手からのコールバックを無視するだろうか。そもそも、ヤツと誤操作という組み合わせがしっくりこない。
 どこかで盛大に念能力を使ってぶっ倒れたか。まさか。
 新人四人が採用されてすぐに持ち上がった、コミュニティ全体を揺るがす惨事の最中、ヤツは独断で幻影旅団を追って一時的に所在不明になったことがある。後から、一緒に行動していたらしいヤツの同期が言葉を濁しながら語ったことを想像を交えて整理するに、ヤツは旅団のメンバーを二人葬り、その頭を自分の能力の支配下において渡り合った末、二日間も寝込んだらしい。今でこそ場数を踏んで安定しているが、当時は身につけた能力の強さに対して、体力が充分に追いついていなかったのだろう。剛腕なのか脆弱なのか、しばらく考え込んだものだ。
 それはさておき、折り返した電話に出ない香主を放っておく参謀など、存在する価値はない。とりあえずは事務所だ。次いで、同じ館内にあるヤツの部屋を訪ねてみよう。脱いだばかりのジャケットを肩に引っ掛け、俺は部屋を出た。

 事務所はハズレだった。解錠して隈なく中を見て回ったが、人の気配すらない。居住スペースへ続くドアを抜け、ヤツの部屋のある二階へと向かった。事務所と居住スペースを隔てるドアには、鍵をかけていない。この場所から地下に潜れば、いかなるときも立ち入りを禁じられた、ヤツの「聖域」だ。事務所に出入りする者は、その先が香主の私的空間だと知っていようがいまいが、なぜかドアを開けようとはしなかった。
 ここでなければ、どこにいる。ヤツが立ち寄りそうなところを頭の中で選別しかけて、足を止めた。ヤツの部屋、二階の突き当たりのドアが、小さく開いていた。灯りはない。わずかな隙間から洩れる、苦しげな、か細い呻き声。
 女の、しかも細心の注意が必要な世代の女の部屋だ。いきなりドアを開け放つわけにはいくまい。
 少し様子を見てから声をかけるか。そう考えて、閉まり切っていないドアをそっと推すと、蹲るような姿勢でベッドに横臥する、ヤツの背中があった。白いドレスシャツが、暗がりの中にぼんやりと浮かんで見える。
 眠っているのなら、しっかりとドアを閉め直して帰るだけのことだ。着信は誤操作。コールバックに応えなかったのは、睡眠を妨げないために設定したマナーモードが原因。たった今、聞こえた声だって、ただの寝言の範疇だと片付けられる。
 だが、目を凝らすまでもなく。ヤツの肩や腕が微かに蠢いていた。時折、背中が小さくうねる。
 熱でも出して震えているのかと思った。今度こそ声をかけようとして、無断侵入のこの状況に束の間、迷う。
 と、唐突にヤツが痛みに耐え切れなくなったように肩に首を埋めたかと思うと、鋭い声を上げて背中を仰け反らせた。
「どうした!? なにか薬を…!」
 言葉を発してしまってから気付く。病気や体調不良などではない。これは。
 しなやかに反り返った身体はほんの数秒、動きを止めた。直後に訪れる脱力。そこから続く、浅く激しい呼吸。
 血液が急激に一点に集中するのを感じる。とんでもないところに飛び込んでしまった。黙って立ち去ることも、言い訳がましく詫びることもできない。
 乱れた息を整えもせず、上半身だけを仰向けに転がしたヤツが、顔をこちらに向けた。暗がりの中で紅く輝く瞳が、呆然と突っ立ったままの俺を見据える。
 綺麗な顔だ、と改めて思う。女とは知らずに、胸の内で幾分の揶揄を以って小美女と呼ばわっていたあの頃より大人びて、ときによっては恐ろしくなるほどの色気を覗かせることがある。今がまさにそのときだった。
 ヤツの唇が、ゆっくりと開いた。俺の名を呼んで、
「来てくれ」
 そう命じる。
 音を立てて、喉が上下した。応じてはいけないと判っているのに、足は一歩ずつ、部屋の中へと俺を運んで行く。
 そうしてヤツの間合いに入った途端、胸座に伸びてきた手にネクタイの根元を掴まれた。首ごと引き寄せられ、羽織っていたジャケットが片袖をベッドの端に残して床に落ちる。目の前には、一対の紅い宝石があった。
「犯せ」
 耳許で囁かれた言葉に思考が固まる。
「手加減するな」
 抵抗する間もなく続いた声は、助かる見込みはないと悟った重傷者の「殺してくれ」という懇願に似て、胸の内側から収縮するような痛みを俺にもたらした。心が軋む。
 けっして長い時間ではないが、ずっとヤツを近くで見てきた。自分が誰かの代用品だと理解するのに、時間は必要なかった。俺は嵌められたのだ。履歴を残すためだけの短い着信に、黙殺されたコールバック。それなりに近しい他人に、中を確認しなくてはならないと思わせる程度に隙間を作ったドアも、タイミングを計ったように見せつけられた、その瞬間も全て。全ては、俺が相手では素直に口にできない、遠回しのシグナルだった。
 そんなことをしなくてもいいんだ、と言ってやりたかった。一言、普通に要求しさえすれば、なんだってやってやる。触れずに傍にいろと言うのなら一晩中でも。穢されたい気分なら、気の済むまで感情抜きに動き続けたっていい。足の間に跪き、下僕のようにひたすら奉仕することも厭わない。
 ヤツは自分を傷つけることでしか、安らぎを得られない。少なくとも、そういう思い込みから逃れられずにいる。精神的な安定にしろ、肉体的な依存にしろ、それを確実に与えることができるのは、俺ではない、他の誰かだ。けれど。
 たとえ気休めの安らぎであっても、そのためにヤツが使うのが俺であるという事実に自負を持っていたかった。俺は、なにも考えずにヤツの望みを叶えてやればいい。
 投げ出された身体に触れるのをためらう臆病さを隠すために、紳士のように振る舞うこともできた。だが、それでは、恐らくそう軽くはない覚悟で俺を誘き出した、ヤツのプライドを潰してしまう。覚悟を決めるのは俺の方だった。ヤツに求められた役割を、ただ演じ通せ。
 喉許でネクタイを握るヤツの手を振り払い、その腕を掴み直す。掴んだ腕を捻るようにして、仰向けの身体を強引に裏返した。シャツが捲れ上がり、シームレスの黒い下着に包まれた尻が露わになる。
 趣味じゃない。こんなふうに女を抱くのは、全く以って趣味じゃない。その女がヤツならば、なおさら。
 なにも、考えない。腰のくびれを抱え込んで、乱暴に持ち上げた。胸座を掴まれた位置から動いていない俺は、自分に都合のいいように、抱えた腰をベッドの縁に引き寄せる。背後から回した手を内腿に入れて足を開かせると、その間に割り込み、飢えた獣がそうするように、ヤツの身体にのしかかった。
 シャツの襟首を鷲掴みにして力任せに引っ張る。いくつものボタンが弾け飛ぶ音がした。袖に通ったままの腕が背中側に回り、図らずもヤツを後ろ手に拘束する形になる。
 なだらかな坂を作る背中に、下着はない。ふと目を移すと、坂の麓にある肩越し、シーツに頬を押しつけたヤツが俺を仰ぎ見ていた。表情はうまく消せているだろうか。間違っても、不安や緊張は覗かせるな。ありもしない軽蔑を感じさせるくらいでいい。
 緋の眼の視線を受け止めたまま、シャツにくるまれて不自由になった両手首を、片手でヤツの腰の上に押さえ込み、空いている手で意図的にバックルの金属音を立てながら、自分のベルトを外す。それからヤツの下着の腰を掴み、繊細さの欠片もない所作で腿の半ばまで引き下ろした。ボタンを開け、ファスナーを降ろし、取り出した性器に手を添えて、先端でヤツの入り口を探る。
 探り当てたその場所は、乾いていた。嘘だろう。俺の目の前でしていたじゃないか。
 ただでさえ、前戯もなく後ろから挿入れることに強い抵抗がある。人並みに女と関わってきたが、これまで一度だってそんな真似をしたことはない。濡れてもいないなんて論外だ。ヤツの身体をこんなに雑に扱っている段階で、俺は相当に無理をしている。逃げ出したかった。
 腕を使えないまま前傾姿勢を強いられているのが辛くなったのだろう。ヤツが肩を調整するように身じろいだ。それに連動して背中から腰が波打つ。同時に、わずかに性器の皮膚が引き攣れるような感覚が訪れ、あっという間に根元までヤツに呑み込まれた。
「ひぅ…っ」
 小動物の啼くような声と、突然の締め上げに、今までの躊躇が一瞬で消し飛ぶ。ヤツの中は、こちらが狼狽えるほどに熱く濡れていた。
 さっき見たものが演技だったとは思えない。そういえば、手首をまとめて押さえるときに掠めたヤツの指も濡れてはいなかった。指を突っ込んで掻き回していたわけではないということだ。せいぜい、下着の上から包皮越しに刺激していた程度なのだろう。手の込んだ誘導を謀ってまで切望していたくせに、俺が罠にかかるまでの間、こんなにも密やかな慰め方で乗り切ろうとしていたのか。不釣り合いな行動に、また胸が痛む。
 尻を高く上げているせいで、普通に立っているときよりも細くなっているであろうくびれを挟むようにして両手で強く掴んだ。抜ける寸前まで身体を引いてから、弾力のある白いふくらみに勢いよく腰を叩きつける。湿った掌を打ち鳴らすときと同じ音が響き、先端がヤツの奥に当たった。
「く…ぅぁあああっ!」
 俺を配下に裏の一組織を束ねる女が、硬直した身体を痙攣させて、堰を切ったように声を上げた。
 かつて、ことあるごとにこの身体を玩弄して、ヤツを欲求の均衡を崩した头子の気持ちが判ったような気がした。追い詰めたくなるのだ。

 マフィアの娘を護衛するために新規採用された四人のうち、三人までもが女だなどと誰が思う。
 俺を含む、採用試験に携わらなかったメンバーがヤツらの紹介を受けたのは、オークションも迫ったある夜だった。
 どこからどこまでがヒゲでモミアゲなのか判然としない、体毛の濃さをひけらかすかのような身なりの男。
 高く結いあげた髪の天辺から靴の先、あらゆるところから噎せ返るような毒気と色気の入り混じった空気を立ち昇らせている女。
 異形といってもいい容姿の短躯の新人は、性別を計りかねているときに「女だってよ」と、同僚に耳打ちされてひとまず納得した。
 それから、ヤツ。”縁の下の11人”の動きを見切って採用試験の流れを決定づけたと聞いた。
 リーダーを除けば最古参になる犬使いの同僚は、新人の男の能力に燃やされかけたうえ、その後の隙をついた女の口づけの術中に嵌り、精神的に瀕死の恥を晒すはめになったらしい。新人たちの腕が立つのか、俺たち古株の腕が鈍っているのか。笑うに笑えない話だった。
 そんなわけで、どう見ても男、あからさまに女、女だという情報を得たので女、という判断を下した後に残った、護衛対象の娘の年齢と大差なさそうなヤツは、女みたいな顔をした少年として俺の意識に定着した。冷め切ってほとんど変化のない表情と、遊びのない話し方からは、少女の片鱗すら見えなかったのだ。男が着ても、女が着ても、身体の線が判らない服。これだけ端正な顔しているのが少女であるならば、もっと女を強調したくなるものだろう。そういう年齢のはずだ。
 時間の経過とともに、それなりに打ち解け、馴染んでいく新人たちの中で、ヤツの態度だけはさほど変わらなかった。不用意に軽口でも叩こうものなら、相手が年上だろうが、先輩だろうが、短く鋭い言葉でそれ以上の接近を拒絶する。他人との距離に神経質なのだ。ヤツの比ではないが、俺の性格にも似た部分があるから、漠然と理解はできる。と言っては、ヤツに否定されるだろうか。
 小美女。美しいが、生意気で可愛げのない「お嬢さん」。自分の中でそんな異名をつけて、少々意地の悪い目でヤツを見ていたのは、この少年がそう遠くないいつか、俺たち古株を飛び越えてその地位を高めていくという予感があったからなのかもしれない。当時の小さな嫉妬など、今ではすっかり消えてしまった。
 実際にヤツは、功名に走って生命を落としたリーダーの代理を務め上げ、護衛団の半数以上が殉職した件のオークション期間を生き延びた。不始末を起こして処分された同僚一名に対する補充として採用した新人たちの生存率が古株よりも高いというのも皮肉なものだ。
 头子の娘のために、出品時のおよそ三十倍もの価格で競り落とした少数民族の眼球は、同僚の生命とともに消え失せた。現品が存在しないまま、支払いの履行期限が迫りつつあった。旧ファミリーの崩壊の始まりだった。
 その頃になって、ヤツの様子がおかしいことに気付いた。正確には、様子のおかしい状態がいつまでも改善されないことに。仕事に隙はなかった。だが、勤務交代で下がった後や、ブリーフィング前の待ち時間など、多少気を抜いても支障のないときの精気のなさは病的だった。目の下にクマを張りつけて床の一点を見つめていたり、めったにない雑談の合間に意識が飛んだように黙り込んだり。
 思えば、顔合わせで紹介された当初から、ずいぶんと疲れた顔をしていた。头子の娘の面倒をみるのは、心身ともに激務だ。体調を気遣って、仕事に差し支えない程度に養生するように進言したこともあったが、多分に漏れず、ばっさりと切り捨てられた。
 普段から他人の事情には干渉しないようにしている俺さえもが口を出したのだから、ヤツの同期たちの心配は尚のことだったろう。小さいのと毛深いのが頻繁に声をかけていたが、それぞれへの対応に天と地ほどの差があったのは、正直、傍から見ていても面白かった。

 原因が判った、ように思えた事態に遭遇したのは、偶然だった。視点を変えれば、未必の故意なのだろう。
 契約不履行を回避するための工作、念能力を使えなくなった娘のケア、なによりも、錯乱状態にある头子の諫止。護衛団の人数が激減したことで、山積みの仕事の標高は上がるばかりだった。屋敷の保安に割く手間を必要最低限に絞った結果、深夜の巡回は形骸化していたから、それはタイミングの悪さに他ならない。
 夜中にふと目が覚めて眠れなくなったついでだと、散歩がてらに館内を見回ったのがまずかった。
 煌々と照明の点いた头子の部屋のドアは、ご丁寧にストッパーまでかけて全開にしてあった。头子が最高潮に荒れていた時期だ。自暴自棄になって早まられてはたまらない。廊下の壁を背中で擦りながら部屋に近づき、ゆっくりと首を伸ばした。中の様子を知らないまま踏み込んで、早まろうとしている背中を推してしまうのは避けたかった。
 人の気配はあるが、まだなにも見えない。横に一歩進み、また首を伸ばす。部屋の中央より奥、头子のデスクのすぐ近くに人の姿を認めた瞬間、俺は”隠”を発動させた。その場から動くことができない。あれは、誰なんだ。
 顔のほとんどを赤暗色をした幅の広い布のようなもので覆われ、異様な体勢で拘束された全裸の女が、デスク脇に設えられた革張りの椅子に座らされている。その背後に見える、男のものと思われる腕と足。女は椅子に座っているわけではなかった。椅子に座った男の上に、乗せられていた。
 女の視界を奪って後頭部を一周し、口枷となって首の後ろへと回った布は、そこから二手に分かれて肩の前に下がり、大きく開かれた膝を吊り上げ、両膝の傍に各々の肘を括って終わる。頼りなげに揺れる前腕が、膝頭から生えているかのように見えた。
 肘を膝の内側に固定したのは、足を閉じさせないための重り代わりだろう。強制的に剥き出しとなった女の性器には褐色の肉塊が捻じ込まれ、巨大な甲虫の幼生さながら、その白い身体を無遠慮に貪っている。背後の男に突き上げられる度、上を向いたささやかな乳房が弾む。
 なにが行われているのかは把握した。全く興奮しない、とはさすがに言わない。だが、目の前の光景には嫌悪感が先に立った。それよりも、だ。
 女に隠れて見えないが、後ろにいるのは間違いなく头子だ。感覚的に判る。敢えて言えば、仕えているうちに慣れて、認知できることが当然の、いわばオーラのようなもの。しかし、女は。
 いつからか耳に捉えていた、布を噛まされた唇の間から零れる、くぐもった痛々しい喘ぎに聞き覚えはなかった。大幅に簡素化したとはいえ、容易に侵入を許すほど甘い監視体制は敷いていない。異形の新人の持つ鋭敏な聴覚が、それを逃すはずがないのだ。
 娘への配慮のつもりか、头子が女を屋敷に招くことはなかった。ましてや自室で行為に耽るなど。現実味を帯びてきた巨額の負債に窮追されて血迷ったか。だとしても、一体どうやって連れ込んだ。
 声に心当たりはないのに、头子に太腿を抱えられて激しく揺さぶられるその女を、どうも初めて見る気がしない。頭に渦巻く数々の疑問が、俺を覗き趣味の下衆野郎にしていた。いい加減、部屋に戻るべきだ。女が誰であれ、今、目にしている場景は、俺の立場で踏み込める領域のものではない。見る限り、女が头子に危害を加える可能性はないも同然のように思えた。これを勝手な判断だとして目くじらを立てそうなリーダーは、もういない。あの新人も、進退窮まりつつある头子の乱心によるお遊びと割り切って、敢えて耳を塞いでいるのだろう。
 くだらない。部屋に戻って眠ろう。踵を返しかけたとき、头子の声が俺の知った名をはっきりと音にした。
「ずいぶん頑張るじゃないか。こんな格好でイカされるのはそんなに悔しいか?」
 されるがまま、突かれた反射で喘いでいるだけの女を嘲る言葉が、その名の後を追いかけてくる。
 小美女、なのか。あれが。
 治まりかけていた疑問の渦が、混乱を新たに動き始めた。
 毎日顔を合わせているのだから、見覚えがあるのも道理。外部からの侵入ではないのだから、あの新人が反応しないのも道理。声に心当たりがないのは当然だ。その手の声を聴く相手は限定される。
 わざわざ「小美女」などと呼んでいたのはなんだったんだ。女みたいな顔。初対面の印象そのまま、普通に女じゃないか。
 気付けば、再び覗き趣味の下衆野郎に戻っていた。どこをどう取っても、昨日や今日始まった関係ではないのは明白だった。なぜ、头子と小美女がこんなことになっている。
「誰かに見られるかもしれんな」
 俺以上の下衆の指が、自分の娘と年齢の変わらない部下の、白く薄い乳房の頂点を摘み上げて捻る。短い悲鳴のような声とともに、左右対称に括られた小美女の手足が跳ね、指先が歪な空気を握るように曲がった。
「これが好きなんだろう? ほら、さっさとイけ」
 头子が擦り合わせる指に力が入る。鼻から抜ける呻き声。小さく跳ねる手足。掌の中で形を変える、歪な空気。
 好きで头子の相手をしているようには見えない。だが、助けに入るという選択肢は端から浮かばなかった。念能力のない头子が、小美女を腕力で捩じ伏せるのは不可能だ。長身の小美女をその膝の上に座らせ、屈辱的な姿に縛り上げることができたのは、本人が抵抗しなかったからなのだ。
 小美女が抵抗しない、或いはできない理由が必ずある。考えにくいが、これが小美女から持ちかけた関係だったとしたら。背景を斟酌せず、軽率な正義感で動けば、なにかの代償としてこの行為を甘受しているだけかもしれない小美女の立場を危うくする。
 まだ成熟しきっていない身体への責め苦は続いている。執拗に同じ箇所を捏ね回し、声を殺して懸命に耐える小美女の絶頂を引き出そうとしていた指は、やがて狙いを変えた。苛立った舌打ちをひとつした头子が、強く摘まんだ指を閉じたまま、勢いよく手を振り抜く。また悲鳴のような、ほんの一瞬の鋭い声が上がる。小美女の喉が反り、肩を狭めた身体が強張った。
「どうせ最後は無様にイカされるんだ。いい加減、引き際を覚えろ」
 そう言い放ち、今度は片手の親指と中指の腹を使って、痛めつけたばかりの両の乳首を圧し潰すように弄ぶ。残った手が、头子を咥え込んだ性器に伸びた。どうするつもりかは、簡単に予想できる。
「相変わらず、よく締まる」
 下卑た笑いを含んだ头子の声と、叫ぶというには程遠い、抑え込まれた小美女の叫び声を聞いた。予想どおり、乳首と陰核を同時に責められたのだろう。首を左右に激しく振って、その感覚に抗おうとする少女の裸体を、わずかな時間、視界に捉え、俺はようやく廊下を引き返した。
 部屋に逃げ帰った俺が最初にしたことといえば、浴室に駆け込み、張り詰めた性器の滾りを自分の手で解放してやることだった。
 混乱しているのに、射精への欲求に素直に従って性器を扱く自分がおかしい。歯を食いしばりながら、握った性器を激しく擦り上げる。头子の部屋で繰り広げられていた光景が、頭の中を目まぐるしく駆け回っていた。
 不快を催す場面ばかりだった。裏の地位と権力を持つ、老人の域も近い男が、女を身動きの取れない状態にして一方的に嬲る、悪趣味な交わり。相手は、自分にかしずく、若く有能な部下。それも、下手をすれば孫ほどに年齢の離れた少女。相思の間柄ならば構わない。年齢の差など互いの自由だ。だが、あの部屋に充満していたものは、仕事上の主従を盾にした濃厚な凌辱の色でしかなかった。
 虐待と言ってもいい行為に強い義憤を抱いているのは確かなのに、このザマだ。偶然ではあっても、半ば自発的に不愉快なはずの行為に見入り、結局こんなふうに、やがて訪れる瞬間に向かって集中している。
 頭の中で、不自由な身体をくねらせる小美女が絶頂を迎えさせられるのと同時に、腰の奥から湧き上がった熱い震えが爆ぜた。
 浴室の壁にぶちまけた途端、己の滑稽さに引き攣った笑いが止まらなくなった。女だった。顔の造り以外、どこにも女を感じさせなかった、あの小美女が。開かれた肢体を拘束され、何度も何度も下から突かれ、声を抑えながら喘いでいた。
 無抵抗にひたすら犯されるその姿を覗き見て、なにも出来ずに帰って来た。軽率な正義感が小美女の立場を危うくする? 本気でそう思ったのか? 心配したのは自分の立場ではないと言い切れるか? 判らない。
 ひとしきり笑って、息が上がった。浴室の床に、ねばつく手に、不定期に水滴が落ちる。笑いながら、自分が泣いていることに気付いた。
 そうして思い至った事実がある。葉先から落ちた露が、凪いだ水面に触れた瞬間のように、胸に波紋が走った。
 俺の意識下で、小美女は特別な何者かだった。その性に関係なく、誰のものであってもならない存在だった。今こうして手を汚したまま、体裁もなく涙しているのは、不可侵かつ孤高の偶像が、生身の少女として個人の下衆な欲の捌け口に貶められるのを目の当たりにしたからなのだ。
 眠れる気がしない。それでも、仕事に支障をきたすことを思えば睡眠を取らないわけにはいかなかった。のろのろとした動きでシャワーを浴び、身体の水気もろくに拭かず、ベッドに潜り込んだ。

 翌朝の小美女は、いつもと変わらない疲れ切った顔を俯けて壁に凭れていた。床の遠いところを見つめる、半透明の薄い膜を張ったように曇った目。本当に、いつもと変わらない。昨夜のような倒錯的な行為は、この表情が普通になってしまうほどに繰り返されていたのだろうか。青い服の下に息づく、蹂躙され尽くした若い肉体を思い出す。あれを男と認識してきた昨日までの自分の頭を、後ろから力の限り引っぱたいてやりたい。
 あんな扱いを受けていたのだ。きっと、手荒に縛り上げられた痕跡が肌に残っているに違いないが、あの服ではなにも見えない。下半身に微かな疼きを覚えた俺は、どうということもない退屈な映画のワンシーンを頭に浮かべ、疼きを追いやった。
 俺が部屋に入った気配を察したか、小美女の顔がこちらに向いたので、挨拶代わりに軽く手を挙げてみる。青白い顔の表情は変わらなかったが、わずかに動いた瞳が応えた。視線を交わした者だけが、それと判る返礼だった。昨夜、あの場に第三者がいたことに気付いている様子はなく、俺は小さな安堵を覚える。話しかければ、瞬時に仕事用の光をその目に宿して、必要なことだけを言葉にして返すのだろう。本人に直接問うようなバカはしない。絶対に知っている奴に訊くまでだ。
 程なく、残りの二人が個々に現れた。やはり歴然とした対応の差が見える挨拶のやり取りは、何度見ても面白い。
 広い裏社会の中で存在価値を失いかけている組織のトップに、大した活動予定があるはずもなく、畢竟、ブリーフィングは形ばかりのものとなる。香主たる小美女は、動産、不動産の区別なく、捌けるものを捌いてカネにするための外回りに一日の大半を使うらしい。ルーティーンジョブとして、头子と娘の世話を三人で分担することになるが、采配は現場任せだ。課役が決まった段階でその内容を香主に伝達。なにか問題が起こったときには、その旨を香主に伝達。手に負えないようなら指示を仰ぐ。簡潔であることが最良だった。この人数で業務を回すのだ。必要にして最低限、これ以上は割に合わない。
 ブリーフィングを終え、用は済んだとばかりに足早に部屋を出る小美女の背中を見送ってから、問うべき相手に向けて視線を下ろした。
 予期するものでもあったのか、相手もこちらを見上げている。並み外れた聴覚を能力とする、異形の女。最初にその姿を見て、女と聞いたときは、取るべき反応に窮し、まともな相槌すら打てなかったが、見慣れれば愛嬌のある容貌に思えるし、なんといっても声が美しい。そして、明哲な女だった。場合によっては小美女以上に。小美女の無機質な冷静さは、見ていて危ういときがある。対して、この女の落ち着きには、緊迫した空気を和らげる、なにか不思議な温かさがあった。
 目を合わせたまま、互いの出方を推し計るように続く沈黙。どうやら自分から口を開く気はないらしい。俺たちの間に流れる空気を読んだらしい毛深いのが、
「割り振りは、そっちで勝手に、決めてくれ。んじゃ、お先に」
 と、わざとらしくも聞こえる間延びした挨拶を残し、これもまたわざとらしい口笛を鳴らしながら部屋を去った。それを横目で確認してから、再び小さいのに視線を戻す。
「あいつは、大丈夫なのか」
 そう切り出した俺を見上げたまま、小さいのは小首を傾げた。「あいつ」が、毛深いのを指すのかと訝っているわけではないだろう。話の先を促されている。判っていたが、こちらも具体化した表現で話を運ぶつもりはない。
「知ってることがあるだろう」
 水を向ければ、
「見たんでしょう?」
 俺と同様、主語を曖昧にして返してくる。知っているくせに、よく言う。
「たまたまだ」
 というのも知っているはずだ。話の主題についての共通認識は出来上がっている、と踏んで言葉をつなげた。
「いいのか?」
 仲間として、それを看過できるのか。头子の蛮行を止めることなく自室へ舞い戻った自分を棚に上げて、なにを言っている。澱んだ間を少し置いて、
「よくはないけど、その話になると閉じた心音になってしまうの」
 小さいのは俺から視線を逸らし、そう言った。
「あの音、辛くて聞いてられない」
 心音から感情を読み取っての印象なのだろう。看過してなどしていなかった。その口ぶりから、当人に煙たがられるのを承知で、一度ならず介入したのだと知れる。漠然と胸の内にあった、誰からも手を差し伸べられることなく、静かに底なしの沼に沈んでいく小美女の画が消えた。俺にはできなかったことを遂げた者がいたことに、救われた気分になる。
「いつからなんだ」
 この質問には、目を伏せて答えなかった。代わりに、
「目的があるみたい。完遂するために、手段を選ぶ余裕もないくらいの」
 浮かない表情で溜息をつく。
「足拡げて変態ジジイに安売りするのが最後の手段かよ」
 思わず、舌打ち混じりに苛立ちを吐き捨てた。
「嫌な言い方するのね」
 非難めいた視線を俺に向けた小さいのが、次の瞬間、軽く瞠目して唇を山なりに結ぶ。
「あなた、あの人のこと…好き」
 再び開いた口から出てきた言葉は、それが質問であるかのように小さく語尾が上がって聞こえた。くそ、読みやがった。歯噛みしつつも、俺は応える言葉を探してしまう。
「…っていうのとはまた違うのかしら」
 独り言のように続けられて、また舌打ちが出る。
「厄介な能力だな」
「そうね。聞きたくない音を聴かなくちゃいけないときもあるし、聞かなくてもいい音を聞いてしまうときもある」
 そっちの意味じゃない、と言いかけて、話の核心に触れかけているのだと気付く。
「誤解しないで欲しいんだけど」
 と前置きして、小さいのはさらに続けた。
「いつも聞き耳を立ててるわけじゃないのよ。昨夜はあなたの足音が気になったから聴いただけ。普段は意識的に聴かないようにしてるわ」
「なんでも聞こえてるんじゃないのか」
「聞こえてるけど、聴かない。特定の音だけを聴くことができるんだもの、逆もできるわよ。なんて言ったらいいのかしら。…ミュートではなくて、ボリュームを絞る感じ。で、違和感のある音が入ったとき、そこにチューニングしてボリュームを上げるの」
 なるほど、判りやすい。確かに全ての音を拾っていては神経が保たないだろう。願わくは、昨夜、自室に戻った後の俺の様子についてはミュートであって欲しい。
「あの人、私の能力知ってるから、なるべく声を出さないようにしてるみたい。もちろん、あまり意味がないことも判ってるんでしょうけど」
 これまで、どんな思いで小美女の啼かされる声を聞いてきたのだろうか。头子との異常な関係を強く案じながらも、分水嶺を越えることができずに煩悶している。なにが目的だか知らないが、誇りを削ぐようにして難路を切り拓こうとする者を単純な道徳的観点で阻むのは、罪咎に等しい自己満足なのかもしれない。
「少し、意外だったわ」
 小さいのが、初めて明るい微笑みを見せた。
「あなたのあんな心音、聴いたことなかったから」
 などと言われても、どういう意味なのか理解できない。それが顔に出たのだろう。陶器の鈴を鳴らすような声は、途切れなかった。
「あの人の置かれた環境に怒りを表し、あの人自身にも怒りを感じている。…あなたみたいな人の方がいいのかも。きっと、私じゃ近すぎるのね」
「なんの話だ」
 やはり理解できず、口を挟む。
「あなた、あの人を守れる?」
 嫌な予感がした。
 同期に直接進言したはいいが、ボスとの関係に変化はない。なんとかしようと、次に打つ手を考えあぐねているときに、成り行きで現場を覗き見た間抜けがひとり、心中憤っている。同期に特別な感情を持っているらしいそいつは、迂闊なことにボスを「変態ジジイ」とまで言い切った。利用しない手はないだろう。
「ボスに楯突け、と?」
 冗談じゃない。忠誠心などないに等しいが、生きていくにはカネが必要だ。ファミリーが消滅するのも時間の問題だろうが、今さら別の稼ぎ先を探すなど、考えただけで心が萎える。話がおかしな方向に転がらないように警戒しながら訊いた瞬間、
「まさか」
 柔らかな笑い声に否定された。
「ただ、そばにいてあげて。あの人を独りにしないで」
 間接的に小美女に口説かれているような錯覚に陥りそうになる。
「俺がお前以上の適任者だとは思えないが」
 むしろ、いちばん適正に欠ける人材だろう、と言う前に、小さいのは笑顔をふと翳らせた。
「私も彼もいずれここを出る。あの人と違って、収入を得られなくなる場所に残る理由がないの。個人的に探してる物もあるしね」
「まるで俺がいつまでもここにいるような言い草だな」
 俺だって沈没船と心中する気はない。正面から面倒事に向き合うのを先延ばしにしているだけだ。
「違うの? 根を下ろした場所に静かに立って、根ごと引き抜かれそうになったり、枯らされそうになったときに、初めて自分から動く。自分を維持するために必要なだけの水分を吸い上げる、植物のような心音。私にはずっとそう聞こえてたけど?」
 面白いことを言う。小さいのがそう言うからには、そのとおりなのだろう。とはいえ、目の前で自身を分析されるのはどうにも据わりが悪い。強引に話題を変えた。
「あいつは、なにをしようとしている?」
 小美女の目的について、ほとんどなにも知らないようなことを言っていたが、そんなはずはあるまい。ある程度知っているからこそ、俺に話を振ってきた。
「私からは言わない。あの人に話す気があれば、そのうち聞けると思うわ。私が話しても問題ないことといえば…あの人は、そのためだけにここに来た、ってことくらいかしら」
 やはり、か。小美女の背景を把握しているくせに、情報を堰き止めたまま丸投げとは。
「あの人ね、なんでも独りでやろうとするの。仲間なんていらない、独りで充分だ、なんて顔してね。独りでどんどん危険なところへ進んでいくから、みんなあの人を放っとけなくて、気付けば全身で支えてる。そんな献身は、あの人にとっては偶然そこに落ちてたものと同じで、使えると思えば誰かの生命がかかっていても、当然のように利用するのよ。そうして騒ぎが収まった頃に、自分がどんなに勝手なことをしていたか気付くんだから」
 突然、話の方向が一転した。憤っているようにも、慈しんでいるようにも聞こえる独白。相槌を打つ間もなく聞いているうちに、それはヨークシン・シティで一時離脱していたときに起こった出来事なのだろうと見当がついた。みんな、というのがどのくらいの人数を指すのかは計れないが、あの高踏的な小美女にそんな仲間がいたことに驚く。
「見境がなくなると平気でみんなを利用するくせに、冷静になると後悔して苦しむ。しばらく落ち込んだ後で出す結論は、たぶん、同じことを繰り返さないように仲間を自分から遠ざける、なのよ。結構ひどい人でしょ」
 それはまた面倒な性格だ。多少、小さいの個人のフィルターによる偏見があるような気もするが。あの街のどこかで、小美女は仲間を振り回しながらなんらかの死線上を駆け抜けた。生命を賭け金に地獄を渡るには、まだ若い。一体なにを背負ってこんな傍流組織に潜り込んだのだろうか。
「どんなにあの人のことを気にかけていても、あなたはきっと、それを態度に出さずにいられる人。だから…」
 ようやく着地点が見えてきた。黙って聞いていたが、ひとつだけ言っておきたいことがある。
「気付いてるか?」
「え?」
 ここで話の腰を折られるとは思っていなかったらしく、小さいのはきょとんとした顔で俺を見た。
「お前、さっきからやんわりと俺にキツいこと言ってるぞ」
 俺だけではなく、小美女にもキツいことを言っていたが、当人はそれを聞かされたところで意にも介さないに違いない。
「そうかしら」
 本気でそう思っているようだ。人差し指の先を下唇の中央に当て、自分が紡ぎ出した言葉を反芻するように目線を高いところへ上げている。と、不意に素早い瞬きを二回、
「あ、来るわ」
 その声に部屋の外へ意識を向けた。なんの気配も感じなかったが、しばらくすると俺にも誰かが近づいてくるのが判った。やがて姿を見せたのは、小美女だった。部屋の前を通り過ぎようとして、立ち止まる。まだいたのか、とでも言いたげな顔をしていた。
 ブリーフィングのときとは違い、細身のダークスーツを身につけている。すっかり腑抜けと化した头子に代わって裏社会各方面へ出向くときや、今日のように資産整理の交渉に赴くとき、小美女はこんな装いをするようになった。昨日まで違和感なく見ていたその出で立ちに、胸がざわめく。様になってはいるが、女の着る服ではない。見知って日の浅い者に、この姿はどう見えているのだろう。
「どちらのボスもまだ起きてないわよ。今日は彼と二人でお姫様のお世話に回るわね」
 朗らかな声で、小さいのが小美女に告げた。必然的に、毛深いのが头子の担当となるわけだ。察しのいい人間は話が早くていい。明日からは自制するが、今日だけは头子の近くに寄りたくなかった。
「判った。後を頼む」
 ジャケットの襟を整えながら気のない口調で応え、小美女は再び足を進めて俺たちの視界から消えた。つかの間、緊迫していた空気が和らぎ、俺はゆっくりと息を吐き出す。そこを狙ったように、小さいのから声がかかった。
「あのね」
 今度はなんだ。小さいのを見下ろすと、存外に真剣な顔をしている。
「あの人が行き先を言わずに出て行くときは、絶対に詮索しないで」
「そんなことあったか」
 ヨークシン・シティでの空白以降の記憶を辿ってみるが、思い出せない。日々のブリーフィングでは、大まかにではあるが、必ず一日の予定を口頭で伝えていたはずだ。
「気にしてなかったのならいいわ。これからもそうしてもらえる?」
 いろいろ訊き出すつもりでいたのに、さらなる謎が落とされ、判らないことばかりが増えていく。ここまで来ると、もはや禅問答だ。さすがに、自分の処理能力を越えた。寝不足のせいかもしれない。
「行き先を嗅ぎ回って正体を掴んだら、貝殻残していなくなっちまうのかよ? あいつは白水素女かなにかなのか」
「え? パイシュイ…シュェイ…なに?」
 自分が使える言語にはない発音があったのだろう。小さいのは、聞き逃した音を追うかのように眉を顰めた。
「なんでもない。一度、部屋に戻る」
 大きく肩で吸い込んだ息を鬱屈した溜息に変えてから邪険にそう返し、部屋の出口へ向かう。自分がこんなに大人気ない態度を取る男だとは思わなかった。随分と苛ついている。知らなくてもよかったことを知ってしまった。毒を喰らわば、などと思ったのだろうか。その背後にあるものをさらに知ろうとし、結局叶わなかったことが気に入らない。
 たぶん俺は、多くを知らないまま小美女を支えることを恐れている。だが、それ以上に。知りたいと願いながら、知るのを恐れている。小美女の口から語られなければ、多くを知ることはできない。
 小さいのは、俺が部屋から出ても引き留めなかった。むだな深追いをしない。引き留めてもどうにもならないと判っているのだ。こういう女、実のところ嫌いではない。あの性格からして、娘が起きた物音を捉えた後で、きっと部屋の前まで俺を呼びに来る。少し甘えさせてもらおう。
 両手をポケットに突っ込み、階段を強く踏みつけるようにして一段飛ばしに上がって行く。実際に目撃したのは昨夜の一件だけだというのに、头子に組み敷かれ、顔を歪ませる全裸の小美女の虚像が浮かんで、頭から離れない。
 最後の一段を上り切ったとき、虚像の合間に記憶の欠片がふとよぎった。繋いだ電話の向こう、头子の乱れた呼吸の陰から微かに聞こえた、言葉をなさない低い女の声。もしかすると、昨夜の一件だけではなかったのかもしれない。
 断片的に湧き上がる記憶が意味を持ち始めたことに竦然としながら自室に入り、額に銃弾を喰らった雑魚のようにベッドへ身体を投じる。雑に浴びたシャワーの後、全身に纏った水気を適当に拭っただけで雪崩れ込んだベッドが、昨夜からの湿気を背中に伝えた。天井を眺めながら、記憶の欠片を掻き集める。

 小美女が事実上、头子と同等の力を持つようになる前のことだ。オークションで生まれた巨額の負債に関する問い合わせに差し込む恫喝の色が濃くなり始めた頃だったろうか。時折、外線内線問わず、電話の取り次ぎを禁じられることがあった。元々電話が鳴る回数は多くない。头子宛ての用件の大概は、头子の携帯が直接受ける。屋敷の代表番号で受けたものは、掛けてきた相手が格下であるなら適当にあしらい、こちらが格下であるなら、嘘でも丁重に头子の不在を詫びて、折り返し連絡することを約束してやればいい。头子に伝言を済ませてしまえば、こちらは電話の内容についての責任から離れることができる。
 そのとき俺が受けたのは、オークション運営部からの電話だった。不在を詫びる芝居を打つより早く、不穏に慇懃な口調で头子がこの電話に応じなかった際のデメリットを並べ始めた。延々と続きそうな脅しを遮って回線を断つこともできたが、それは悪手だと判断した。この電話を受けられる場所に头子がいる。相手がそう承知しているような気がしたからだ。繋がなければ、取り返しのつかないことになる、という直感があった。
 取り次いだ瞬間、怒鳴りつけられたが、電話の相手を明かして脅しの一部を伝えると、头子はすぐに折れた。さっさと厄介事を押しつけて受話器を置くことが最優先だったのだと思う。头子の他に誰か女がいるらしいとは気付いたが、特に気に留めもしなかった。
 要するに、どうでもよかったのだ。そのときは。娘の機嫌を損ねないよう、屋敷には女を連れ込まない、と头子が自戒していることさえも。俺の職業意識などそんなものだ。
 もっとも、受話口に当てた耳が拾っていた女の押し殺した喘ぎと、小美女とを結びつけることはできなかっただろう。どんなに美しい顔をしていようが、男が头子の相手をさせられているなどとは、まず思わない。
 俺が小美女の事情に触れたのは、きっとあれが最初だった。初めから女だと判っていれば、なにか変わっていただろうか。昨夜見た不義の交わりと、今朝小さいのからもたらされた意味深な言葉の数々が、もっと早い時期に俺の前に出揃っていれば。
 オークション運営部からの電話を头子に回し、理不尽に怒鳴り散らされた直後、気晴らしに自主的な休憩を取った。持ち場に戻る、その帰り。小美女がこちらに向かって来るのが見えた。どうも雰囲気が違うと思ったら、遠目にも判るほど服が着崩れている。とはいっても、実際は大した崩れではなかった。いつも乱れなく服を整えているせいで、肩の線がずれていたり、留めてあるべきところが中途半端になっているのが目立つ、というだけのことだ。まるで、慌てて着替えを済ませて出て来たかのような、身なりを整える余裕を失っているような、小美女らしからぬ姿だった。
 床を睨むように顔を下に向け、猛然といってもいいほどの勢いで歩みを進めてくる。思わず道を空けたが、黙って通しはしなかった。やめておけばいいものを、気晴らしが充分ではなかった俺は、意味もなく余計な言葉をかけたのだ。自分の中の倦んだ気分を切り替えるつもりで叩いた、ただの軽口だった。
「男に会うなら鏡を見てから行けよ」
 俺と並ぶ数歩手前、小美女は足を止めて、俯けていた顔を上げた。妙に熱っぽく見える顔の中で、目だけが荒れた昏い海のようだった。その目をまともに受けた瞬間、柄にもなく小美女の外見に関する揶揄を口にしたことを悔いた。
 止めた足が再び踏み出され、感情を抑え込むようにきつく引き結ばれていた唇が開く。重く掠れた声がたった一言。
「私に構うな」
 そうして小美女は、俺の横を擦り抜けて行った。
 なんなんだ、あいつは。勝気な女が本格的に不貞腐れたような表情しやがって。取り残された俺は、失言による自己嫌悪に沈むより、口には出さず、その場で毒づく方を選んだ。言いようのない気まずさを紛らわせるための、捨て台詞のようなものだ。あのわずかな時間に小美女から不健全な色気を感じ取ってしまった。電話越しに漏れ聞こえた女の声のせいで、自分の感受性がどこか狂っていたのだろう。男が、しかもガキが、狙いもせずにあんな淫靡な面構えになるはずがない。
 気晴らしに外の空気を吸って戻って来た俺と入れ替わりで出て行った小美女は、その日、深夜になるまで帰って来なかった。あれがそうだったのだろうか。小さいのが言うところの「絶対に詮索しないで」。確かに、行き先など告げなかった。行き先を確認できる状況でもなかったが。
 少人数で仕事を回しているため、かつて最低でも十日に一度はあった非番は、二週に一度あればマシだと言える頻度になっていた。小美女と俺のどちらかが非番のときにも、触れてはいけない外出は起こりえる。小さいのに勧告されるまで、小美女はもちろん、同僚の誰の外出先にも関心を持ったことはなかった。
 釘を刺されてしまっては、もう小さいのを問いただすこともできない。無関心なままでいさせて欲しかった。気にしてなかったのなら、これからも、だと? だったら、あんなことを俺に吹き込むな。
 と、俺の心の声を聞き咎めるかのように、部屋の外から遠慮がちにドアが叩かれた。
「お姫様のお目覚めよ」
 予想どおり、だ。

 以来、ヤツが口を閉ざしたまま出掛けるときは、なにも訊かずに送り出すのがある種の礼儀となっている。それとなくヤツの動きを注視するうちに、相手が头子だけではないことが判ってきた。
 たまの非番に、あるいは携帯の着信を受けた後、硬い面持ちで屋敷を出て行く。行き先や相手については、誰が訊いても曖昧な反応で煩そうにやり過ごした。詮索するな、と言っていた小さいのが、俺のいるところで敢えてヤツにその質問をぶつけたことがある。俺に実例を見せるためだ。 別の機会、事情を知ってか知らずか、毛深いのが同じことを能天気に訊いたときに至っては、見事なまでの完全無視。俺自身は結果の知れた実験を踏襲する気にもならなかった。
 どこでなにをしているのか、屋敷に戻れば外出前の不機嫌さは消えている。かといって機嫌がいいわけでもない。そのくせ、出て行く前よりもかすかに生気を取り戻したような顔色をしていた。
 親密にしている男が外にいるのだと思っていた。年齢の割に、全く浮ついた様子がないのは、いかにもヤツらしい感情の統制の賜物なのだと。ヤツの言動から、主導権を握られたまま、身体だけ続いているらしい男の存在が透けて見えるようになるまでは。
 ヤツの男関係に口出しするのは俺の仕事ではない。ヤツがここに来る前からの関係なのだ。俺はただの部外者に過ぎない。精々こうして罠にかかり、その男や头子のダミーとしてヤツを鎮めてやるのが、俺の領分ぎりぎりの水際だった。いや、たぶん膝くらいまでは浸かってしまっている。
 俺を嵌める直前に一度、だけかどうかは知らないが、とりあえずは自分の手で導いたせいか、既に条件は整っていたのだろう。勢いをつけて後ろから突く度に、繋がった部分からはっきりとそういう反応が伝わってきた。ヤツの身体が強い快楽を得ているのは間違いない。だが、当の本人が全くその感覚を楽しんでいなかった。まるでなにかの罰を甘受するかのように、絶頂を迎えてもなお流されまいと、ただ耐えている。
 身体が求めるものに対して、ヤツの自制心が強過ぎるのだ。誰もが持っている原始的な欲求を、望まぬ相手に不自然に歪められ、それをうまく解消することができずに苦しんでいるように見えた。
 こういう頑なな部分を突き崩したいがために头子は、もしかすると件の男も、ヤツの身体に執着しているのかもしれない。なにしろ、淡白だという自覚のある俺さえもが、なんとか自分の与える快楽でヤツを屈服させられないものかと考えを巡らせているくらいなのだから。
 腰の上でドレスシャツが絡みついている腕を片手で掴んで、ヤツの上体を引き起こしてから、手近に迫った背中を胸で受け止めた。ずっとベッドの縁に膝を置いていたヤツは膝下を支える場所がないために、重心が後ろに傾けば、ベッド脇に立つオレに寄りかかるしかない。
 薄い肩越しに自分の前腕をヤツの鎖骨辺りに回し、手に触れた乳房を握る。あの夜の記憶から予測していたよりも質量があることにちょっとした感慨を覚えた。あの頃のヤツはまだ、成熟途上だったのだ。今は何歳だったか。この国の法律がどう、という意味ではなく、自分のしていることは犯罪なのではないかと不安になる。一応、合意、のはずだ。けれども、拭いきれない不健全さに、心の表面が小さく削り取られていくようだった。
 斜め下からヤツの尻に腰を叩きつける度に、ヤツの髪の先が俺の頬をくすぐった。金色の髪の波間に、形のいい耳殻が覗いている。腕を掴んでいた手を離し、ヤツの頭を抱え込むことにした。柔らかな髪を舌で掻き分け、耳殻の裏に這わせると、腕の中で細い身体が跳ねる。性器にいっそうの圧がかかった。
 素直に俺に任せようという気はないらしい。耳への刺激が耐え難いのか、ヤツはさまざまな方向へ首を振った。残念だが、それを許してやるほど俺も物分りはよくない。だいたい、ここに俺を引き擦り込んだのはお前の方だろう。小さな頭を抱える腕に力を込めて動きを封じ、耳の内部へ舌を差し入れた。これで大人しくなるかと思ったが、意外なことにヤツは俺の力以上の抵抗を見せた。
「んっ、や…っめ…」
 俺の腕ごと頭を大きく横に揺らす。頬に触れていた髪が一瞬で遠去かってすぐ、目の前にヤツの怒ったような、それでいて泣き出しそうな顔が迫った。綻んだ唇に俺の唇が重なりそうな距離。俺がたまたま舌先で自分の口角を舐めているような状態でいたために、ヤツの唇の間に俺の舌が入りかけた。
 掠めるように接触した瞬間。反射的に、なのだろう。ヤツはほんの僅か、顔を背けて俺を避けた。代わりに舌の先が捉えたのは、ヤツの耳朶の付け根だった。
 なるほど、それはダメか。
 むりやり奪ってやるくらいの強引さなら持ち合わせているが、ここで発揮したくはなかった。何事もなかったように、俺はその薄い皮膚を軽くついばみ、同じ動作を繰り返しながら、ヤツの首すじを唇で辿る。拒まれたところで、別に傷つきはしない。それが許される相手と、そうではない相手がいて、俺は後者であるというだけことだ。誰でもいいわけではないのだと思えば、むしろ奇妙な安心感さえあった。
 傷つきはしないが、好戦的な気分にはなってしまう。ヤツの頭を抱えるのをやめて、その手をゆっくりと降ろしていった。指先で伝うように、ヤツのこめかみから、なめらかな頬へ。そこから少し横に逸れて、唇に触れる。張りのある下唇の輪郭を中指の爪の背でなぞっていると、ヤツが目だけで俺を見下ろすのが判った。肩の丸みに舌を沿わせていた俺も、視線だけをヤツに合わせる。
 紅い双眸を見つめたまま、唇の端まで爪を走らせ、口の中に潜り込ませるように指を進入させた。ヤツの唇が開く。指を受け入れるつもりなのかと思った瞬間、噛みつかれた。吐息がかかるほどの近さで睨み合う。上下の歯に挟まれた指が、けっこうな痛みを伝えてくる。が、本気ではない。少しずつ力を加えてくるのを無視し、指の角度を変え、ヤツの歯を支点に関節を曲げてこじ開けた。指先で舌を軽く押し下げながら、指をもう一本増やす。増やした指で上の歯列の裏をなぞると、ヤツにしては可愛げのある、鼻にかかった声が洩れた。
 温かく濡れた舌が指に優しくまとわりつく。舌を絡めるのはダメで、指で掻き回されるのはありなのか。いったい誰への操立てだ。今知ったわけでもないが、自分勝手にもほどがある。嫉妬に似た思いに駆られて、少しだけ自分の立場を忘れた。掌の内側にある乳房の中央で硬くなっている突起を指の間に挟み、何度かきつめに扱いてやる。
「んぅ…っ!」
 途端にヤツの呼吸が止まり、性器がじわりと熱くなった。身体の奥から溢れてくるのが判る。ここがひどく弱いらしく、头子から執拗な責めを受けていた。あの夜の光景は、今でも鮮明に脳裏に浮かべることができる。
「んんんんっ!」
 息を吐き出すついでに上がった声は、俺の指に邪魔されて不明瞭な呻きになった。背中のシャツの中で自由の利かない両手が暴れ、俺の鳩尾を叩く。乱暴に脱がせればヤツの望みに応えられるんじゃないかと考えただけで、こんなふうに拘束するつもりはなかった。头子のような変態趣味はないが、男一般としての征服欲はある。現金なものだ。ネクタイを掴まれて、ヤツのベッドに引き擦り込まれたときには怖気づいていたくせに、この現状にすっかり昂っている。

 それでも、やはり本来の好みではない。乳房から手を離してヤツの手首を探り、カフのボタンを外した。壊れものの包装でも解くように、腕を包む白い生地を剥がしていく。ヤツの口に突っ込んだ方の手を使ってもよかったが、舌が指を離してくれそうになかった。貪られているのではなく、懐いて間もない仔猫に遊ばれている感覚。もう少し、遊ばれていたい。
 ヤツの舌と戯れながら、ブラケットの下の方で中途半端に残っているボタンを外す。と、腕からシャツを抜き取ると同時に、俺の指はヤツの舌に強く押し出された。飽きられたのかと思ったが、違うようだ。後ろに立つ俺に体重を預けてはいても、足場にするには安定性に欠けるベッドの縁で膝立ちの姿勢を保つのは負担だったらしい。身体を前に倒し、自由を得た腕をベッドに立てている。
 恋人でもない俺に権利があるとも思えず、ヤツのベッドに上がるのを避けていたのだが、結果的に無理をさせてしまった。シャツを手離し、両手でヤツの腰を掴んだ。意思を込めて自分の方へ引き寄せてから、腿を数回タップして促す。意図はすぐに伝わり、ヤツは片足ずつゆっくりと、しなやかな獣のような動きでベッドを降りる。俺は俺で、長らくヤツの足に留まっていた下着を、その動きに合わせて取り除いた。繋がったまま、互いが澱みなく一連の動作を済ませた後で思う。相性はそう悪くないのかもしれない。
 ヤツが床に降りて、腰の高さが変わった。上り詰める一方だった俺も、今の小休止で少し持ち直している。手にしていた下着をベッドに放り、改めて腰を掴んだ。手首だけを動かして、もっと腰を上げるように誘導すると、ヤツは爪先立ちになってそれに応える。白く丸い尻が下腹に密着し、性器がさらに深いところへと埋もれていった。
 手加減するな。ヤツは確かにそう言った。余力はまだある。ヤツの腿の裏に手を入れ、片足をすくい上げた。もっと奥へ。どうせ引き返せやしない。
 求めたわけでもないのに、ヤツは膝を外に向け、爪先を立ててベッドに足を置いた。あまりに自然で、ヤツの本能的な動きにも見えた。どっちだろうが、関係ない話だ。俺が気にすることではない。けれど。喉まで出かかった詰問を飲み下す。

 誰がお前に教え込んだ。
 この体位で受け入れるときにはそうしろ、などと。

 やめておけ。俺に知られていることを、ヤツは知らない。改めてヤツを見下ろす。いきなり後ろから突っ込むような真似はしたくないというだけで、こうして這いつくばった女を後ろから眺めれば、当然、視覚的に刺激される。しかも、相手はこの女だ。一秒たりとも俺のものだったことなどなく、それを望んだこともないが、ヤツをこんなふうにした誰かから取り返したいと思った。
 左手でヤツの右肘を取って背中側へ捻る。がら空きになった脇から乳房のふくらみが覗いた。手を伸ばし、その柔らかなものを包む。指先で乳首を探り当てると、ヤツの尻が震えて、また俺を締め上げた。本当にここが弱いらしい。
 僅かに触れるくらいに留めた指を左右に滑らせて、小さな芽を断続的に弾く。緩んだ唇から溢れる荒れた息に、絞り出すような喘ぎ声が混じる。このまま続けたら、失神してしまうのではないかと思うほど、ヤツの全身に力が入っていた。
 普通に欲求の処理を命じられただけなら、ここまでだ。ヤツが筋力が限界を迎えてくずおれたところで、俺は身体を離して部屋に戻る。実際、そうすべきなのだろう。利用されるのは構わない。好きなだけ利用すればいい。むしろ、それこそが自分の存在意義だと心得ている。だが、便宜上の肩書きや、前身組織での所属期間を取り払えば、俺たちは対等だ。
 その俺を使うために、策を弄する必要はあったのか。見くびるな。あんな誘い方をしておいて、この程度で済むと思うなよ。
 弱点を嬲るのをやめて、ヤツの右腕を右手に持ち替えた。今度は肘ではなく、手首を握る。蠢く内壁に擦られるの感じながら身を乗り出し、ヤツが自分の支えにしている左腕を空いたばかりの手で強く払った。がくんと肘が折れ、バランスを失った上体がベッドに崩れる。
 片足を上げ、立ったまま後ろから咥え込まされているヤツは、ベッドに左腕をつき、俺に握られた右の手首で半身を吊られるような格好になっていた。細い手首。普段はポケットに手を入れることで人目につかないようにしている鎖はない。 
 女にこんな無茶な姿勢を取らせるのは初めてだった。体重を支える側の肩にも、吊られている側の肩にも相当な負担がかかっているはずだが、苦ではないだろうか。ライセンスホルダーであるヤツが、このくらいで傷むわけがないのは判っている。しかし、いくら強靭な肉体を持っていても、女は女だ。腰を送る度に、ヤツの肩が軋む音が聞こえるような気がしてしまう。
 まるでポルノフィルムの真似ごとをしているようだ。フィクションとして見る分には興奮しなくもないが、現実のものとなると、やはり嫌悪感が勝った。
 俺には出来ない。短い逡巡の後、投げ捨てるようにヤツの手首を手離した。敢えて乱雑な所作にでもしなければ、体裁が悪すぎる。臆したと思われるのは心外だ。かといって、余計な気を回したと感づかれるのも癪だった。
 結局、両手でヤツの腰を挟み、ひたすら奥に打ちつけるという、極めて堅実な責め方に落ち着く。自分に嗜虐志向がないことに安堵しつつ、この期に及んで分別の境を踏み外し切れないことに、わずかな不甲斐なさを感じてもいた。
 先端に軟らかな骨のようなものが当たったのは、その矢先だった。不意の衝撃を受けて、寒気に似た緊張が背筋を走る。同時にヤツが大きな声を上げて背中を反らせた。焦る。まずいところに当ててしまったようだ。
 経験則として、だが、ここを嫌がる女は多い。痛いらしい。急に反応が変わったことに気をよくして調子に乗った末に、泣かれたことも、詰られたこともある。女の身体を覚え、その味に慣れた頃の、懐かしい不手際。俺もガキだったが、相手もガキだった。今抱いている身体と、さほど違わない。
 しらけた間ができないように動き続けながら、突く角度をずらしていく。性器の奥にある別の器官の入り口が当たるくらいだ。そろそろ潮時だろう。もう一度ヤツが極みに達するのを見届けて、終わりにしよう。こっちもいい加減、保たせるのがきつい。
 芯のある突起を避けるために細かい調整を繰り返すが、なかなか逃れられない。まともに当たったときの、先端を甘噛みされるような感覚に、絶え間なく締めつけられているこちらの方が追い込まれそうになる。
 また当たった。ヤツが高く啼き、俺はそこではない場所を突くための微調整を余儀なくされる。と、突かれるまま揺れていたヤツの頭が俺を振り仰いだ。紅い瞳が潤んでいる。喘ぎながら、苦しげに眉を寄せるヤツが口にした、
「焦…らすな…」
 という言葉に、誰もそんなことしてないだろう、と返す直前、いつまでも逃げられなかったのは、ヤツが腰を合わせてきていたからなのだと、ようやく気付いた。信じ難い思いで、ヤツの顔を見る。手に入りかけている絶頂をもどかしく待ち望む表情をしていた。この年齢で、そこに欲しがるか。高まる欲望をなんとか宥めようと、懸命に俺の動きを追っていたのかもしれない。
 予想外の事実にぶつかって、動くのを忘れていた。
「は、や…く…っ」
 掠れた声で、我に返る。ヤツの尻が大きな円を描いて、俺を根元から急かした。
 誰かの代替に求められた行為だ。理解できない趣向をトレースすることはできないが、着地点を見つけたからには、そいつから格段に落ちるような快楽では終わらせられない。
「ああ…悪かったな」
 あたかも快楽の与奪を握っているのは自分であるかのような優越感を滲ませて、簡単に詫びる。せっかくこちらに都合のいい誤解をしてくれたのだ。わざわざ訂正することもない。むやみに突いて痛がらせたくなかったというだけで、焦らすことなど考えてもいなかった。だいたい、普段から愛嬌の欠片もなく、余分な感情を排した態度で組織を仕切っているヤツが、こんな強欲な身体をした女だなんて想像できるか。綺麗な顔をしているものの、傍目には女であるかどうかも判らないようなヤツが、だ。
 職務上の立場の逆用によって、あるいは長く続いているらしい関係の中で生まれたなんらかの条件として、屈折した肉欲に貪られ、容赦ない快楽を幾度となく叩き込まれた若い身体。気遣いに意味がないのなら、遠慮は却って邪魔になる。反応には個人差があるし、それほど経験が多いわけではないが、公約数的な扱い方くらいは知っている。
 慎重に腰を沈め、先端で軽く小突くようにしながらヤツの奥壁を辿っていく。もう少しでそこを捉えられそうだ、というときだった。ヤツの背中が揺らめき、腰がくねった。
「ふ…っぅあっ!」
 悦びを隠しもしない声と、先端を舐めるように触れた異質な突起の感触に、思わず苦笑いが出る。待っていられなかった、ということなのだろう。それなりに可愛いところを見てしまった。きっとヤツには、本気で好きな男に剥き出しの欲望をぶつけるだけの奔放さはない。自分を弄ぶ男に快楽を請うような卑屈さはもっとない。俺の置かれている特殊な立ち位置は、そう悪くないかもしれないと思えた。見るからにプライドの高いヤツが、あからさまにではなくともねだるような言動を取れる程度には信頼されている。こうして寝た後も、当たり障りのない男として。
 場所さえ押さえれば、その先は早い。今度は俺がヤツを逃がさないように、その肩に手をかけて引き寄せた。突起の基底部に先端を合わせ、ゆっくりと押し込む。徐々に体重をかけていくと、忙しない呼吸音の間に艶めいた呻きが混じった。
 快楽に抗おうと意地を張る素振りが消えた今、勢いに任せて押しまくる遣り口を使い続ける気はしない。ただ、繋がったその身体を、ヤツが望む以上に満たしてやりたかった。
 湖沼に生う浮き葉のように隙間なく身体を添わせ、振り幅は取らず、緩やかに腰を揺らす。互いの肌が、粘膜が、融けて癒着してしまいそうだ。ヤツの中の、ずっと奥に捉えた一点を先端で押さえたまま、圧迫する力の度合いを加減する。丁寧に、濃やかに、注意深く。けれども、力は抜かない。ヤツの啼き声が激しくなり、性器への締めつけが急に和らいだ。根元の方にだけ、絞られるような感覚がある。
 絶叫にも近い、小さいのが耳にしたら脳震盪でも起こしそうな声の間を縫って、意味のある言葉が聞こえてきた。自分の口許が緩むのが判る。たとえそれが本音であったとしても、ヤツの言葉を額面どおりに受け取ろうとは思わない。
「ぁ…っも…う、いい…」
 途切れ途切れで俺に伝わっていないと読んだか、同じ言葉を繰り返す。もちろん、ちゃんと聞こえている。
「なんだ?」
 訊き返すのは、もう一度はっきりと聴きたいからだ。言えよ。ひときわ重い動きで奥に打ち込み、その状態で細かな振動を送ってやる。片手をヤツの腹に回し、掌全体でへその下あたりに力を加えた。中が収縮して、空洞を泳がされていた性器を包む。
「もう、いっ…い…!」
 それはそうだろう。ヤツの内壁は激しくうねって蠕動している。腰の痙攣が薄闇の中でも見て取れるほどだ。今や、ベッドに膝立てていた足はすべての関節を真っ直ぐ固定されたかのように突っ張り、やはり小刻みに震えていた。その足を支える爪先が、反り返っては竦んでシーツの皺を増やす。
 今までは、こうなりかけたらやめていた。こんな反応、先が怖いだけだ。壊れてしまったらどうする。ヤツ並みにタフだといえる女を、俺は抱いたことがない。
 ベッドに上体を伏せて啼くだけになっていたヤツが、前腕を使って身を起こそうとしている。俺はヤツの肩を掴む手を離し、ほとんど定位置になっている腰のくびれに戻す。肩は自由になったが、足同様、震える腕では、肘を伸ばして上体をさらに持ち上げるまでの力は出せないようだ。そこから片腕がゆらりと挙がり、背後の俺に向かって伸びてくる。
「も…ぉっいいっ!」
 俺を振り返る目に怒気を含ませているわりには、懇願するような声だった。どうやら俺を退けようとしているらしい白い腕が届きかけたところを、胸を反らして躱す。しばらく空回りした後で、ヤツは当たり前のことを思い出したように、自分の腰を掴む俺の手に矛先を変えた。この手を外したって、どうにかなるものでもないだろうに。
 ヤツに触れられる寸前、その華奢な指を手の甲で強く弾く。次いで、挑むような眼差しを擁する、髪の乱れた小さな頭を鷲掴みにし、力任せにシーツに押しつけた。
「我慢しろ。俺がまだだ」
 喉に物が詰まったような呻きとともに、立て直した上体が再び崩れる。自分の中で曖昧に引かれた、女への禁止事項のボーダーを何度か越えていた。今日の俺が振るえる、最後の暴挙。
 我慢するのはこっちも同じだ。これが普通に女を抱いている状況だったら、とっくに射精してシャワーでも浴びている。
 男の生理が半分、与えられた役割への責任が半分。ヤツの身体にかかる負担から目を逸らし、ただ一心に責め立てた。上から頭を押さえ込まれ、不規則に尻を跳ね上げながら啼く声が、快楽によるものなのか、苦痛によるものなのか、考える余裕もない。
 腰回りの筋肉がざわつき始め、腿のあたりへと広がっていく。とはいえ、このまま射精すわけにはいかないだろう。今さら避妊具という雰囲気でもないし、そもそも手持ちはここにない。通じるはずの電話が通じないからヤツを探しに来ただけのことなのだ。そんなものを準備して香主の部屋を訪ねる参謀がどこにいる。
 ヤツの中に射精すなど論外。背中にぶちまけるのも、ベッドを汚すのもあり得ない。堪えに堪えて、射精さずに済ませるような自虐的な真似もしたくない。だが、少ない選択肢の中からいちばん無難なものを拾うとなると。
 こんなときに、ベッドから落ちかけているジャケットが視界に入ってしまった。ヤツにネクタイを掴まれ、散歩中のバカ犬のように引っ張られた際、肩から落ちたものだ。…没法子。
 陰嚢が迫り上がってくるのを感じながら、ベッドの隅に辛うじて残っているジャケットの袖を手繰り寄せた。もう無理だ。最後に思い切り腰を叩き込む。ヤツが高く鋭い声で啼くのを聞いてから、急いで性器を引き抜いた。少し身体を捻り、性器を握ってその角度をむりやり抑え、背中の裏地を上に向けたジャケットへと放つ。
 背筋を駆ける快感に、身体中が粟立った。全てがどうでもよくなる瞬間が来るまでのわずかな時間を、ヤツの中で待つことができたとしたら、少しは満ち足りた気分になれただろうか。
 などと思っているうちに、恍惚は跡形もなく消え失せた。暗くてよく見えないが、ジャケットの生地はゆっくりと水分を吸ってその色を変えているに違いない。織り目を抜けられずに留まる、クラゲの死骸じみた残滓までもが脳裏に浮かび、痛恨の思いに似た感情を連れてくる。ああ、くそ。このジャケット、数日前にドライクリーンから戻ったばかりじゃなかったか。
 立ったまま射精したせいか、膝が笑いかけていた。ベッドに座り込んでしまいたいという欲求をなんとか乗り切り、平然を装って着崩れた服を直す。ヤツはといえば、全身で呼吸をしながら、いつの間にかベッドの上で身体を丸めていた。膝をたたみ、胸に抱えるようにしているヤツの尻から太腿にかけての肉の合間で、ぐっしょりと濡れた性器が、カーテンの隙間から洩れる薄灯りに光ってひくついているのが目につき、慌てて視線を転じる。
 少ない家具の他には、なにもない部屋だった。ヤツの心の中を反映しているようで、やるせなくなる。ヤツがなんのために前身組織に固執し、头子の欲に玩弄されてなお雌伏の時期を耐えていたのかを知っている今でさえ、年齢にそぐわない虚無感の漂う姿を見るにつけ、その目的以外に生きる意味を求めていないのではないかと思えて寒心する。この年頃の女が持つ華やぎをヤツに望むのは酷だろうか。
 明日、というと語弊があるが、夜が明け、陽が高く昇る頃には表向きの別件で来客がある。進めるつもりでいた仕事には変更なく取り組む予定だが、仮眠くらいは確保しておきたい。部屋に戻れば水洗い必至のジャケットを拾い、無造作に汚れを内側へ丸め込んだ。
 あれだけ身体の奥を突き揺さぶり、啼かせ続けたのだ。ヤツもそれなりに疲れて、既に眠っているかもしれない。部屋を出る前に、裸の身体にキルトでも掛けてやろうと近づいたとき、思いがけず、ヤツと目が合った。場の空気が固まる。意外にも、先に動揺を見せたのはヤツの方だった。後れを取ったおかげで、俺は表情を変えることなくヤツを見据えることができた。
 なにか言いたげに唇を半開きにしたヤツは、最初に俺に命令したときとは大違いの、ずいぶんとしおれた顔をしている。まるで叱られるのを待つ子供だ。自分を抱くために、俺が素を殺してその役割に徹しようと苦慮していたことをヤツは承知していた、というわけだ。
 やはりなにか言いたいらしく、身体を起こして息を吸い込んだヤツが言葉を発しようとするのを、
「いいんだ」
 見えない煙を払うように手をひらつかせて制した。詫びられるのはごめんだ。言い訳めいたことも聞きたくなかった。自慰行為を見せつけられて、そのまま誘いに乗ったことは否定しない。けれども、間違いなく、ヤツを抱きたいと思ったから乗ったのだ。ヤツに命じられたから、というのは成り行き上の僥倖に過ぎない。ヤツではない女に同じことをされても、同じ結果にはならないと断言できる。
 この部屋にいると、つまらないことを口走ってしまいそうだ。言うべきことだけ言い置いて出て行けばいい。
「…こんな面倒な真似は二度としないでくれ」
 そうしてヤツに背中を向け、ドアノブに手をかけようとしたところで、げんなりした。ドアが全開だった。ベッドの上のヤツを見たときに、急病かなにかだと思って部屋に飛び込んだはいいが、ドアの始末に気を回す余裕もなく事に及んでしまった。ヤツの他に、ここに住まう者はない。覗きの心配はないにしても、俺はあの夜の头子と似たり寄ったりの行為を働いたことになりはしないか。
 狼狽をごまかしたかったのかもしれない。胸に留めておくつもりだった言葉が勝手に口を衝いて出る。
「自分のポストの重要性は判ってるな? 新たに相手を見つけようなんて考えは起こすなよ」
 隠居同然の头子に代わって崩壊寸前の新興勢力を立て直した若き香主は、名も顔もある程度この業界に売れている。性差の曖昧ななりをするのはヤツの自由だ。しかし、端麗な顔をした男だと疑いもなく周知されているに違いないヤツが、身体を飢えを満たすために男を求めている、などという風聞が流れてみろ。男だと思われたままであっても、女であると知れても、この若さでの男漁りはヤツの足場を揺るがす大きな瑕疵になりうる。この稼業は、足元を見られたら負けだ。ヤツ個人の問題で片付けば問題ないが、ここは開き直りを武器にできるほど体力のある組織ではない。
 もっともらしくも聞こえるが、実際はただの言いがかりだった。言った俺自身がよく判っている。自分がついさっきまでしていたことを棚に上げて、どの口が言うのか。罪悪感のようなものに阻まれ、完全にヤツを振り向くことができない。
 中途半端に首を捻ったまま背後に意識を集中する。返事はおろか、反応らしいものはなにもなかった。俺に言われるまでもない、か。それとも、図星だったか。沈黙に息苦しさを感じて口を開くと、抑えていた言葉がまた勝手に溢れた。
「用があるなら俺の部屋に来い。そうじゃなければ、普通に呼べ」
 自分に辟易する。薄々気づいてはいたが、俺にこんな癖があったは。ヤツと関わっているときに妙な間ができると、余計なことを喋ってしまう。帰ろう。いかにも迷惑を被った、という風情に見えるよう努力しながら、聞こえよがしに溜息を吐き、
「もう寝ろ」
 ドアを抜けて、後ろ手にしっかりと閉めた。ラッチが音を立てるのを聞き届けてから、今度は安堵の溜息を吐く。
 二度とするな。もう寝ろ。それだけで済ませるはずが、案の定つまらないことを口走った。せっかくのご指名だったが、大した役者じゃなかったな。ヤツに人選の余地がないのを差し引いても、俺には少々荷が重すぎた。
 階段を下り、応接室へ出る。ヤツを探しにここへ来たとき、ガラス天板のセンターテーブルにヒュミドールと喫煙具ケースが置かれているのは知っていた。明日、ここに迎える客は愛煙家だ。太い客なので、一応のもてなしとして下の者が準備しておいたものだろう。
 全身にまとわりついた倦怠を引き擦って部屋に戻る気にもなれなくて、手持ちぶさたに蓋を開けてみる。シガリロの横に、紙巻きの煙草が同居していた。
 敢えて軽量のシガリロなのは、葉巻を愛好する客に長居をさせないため。シガリロでも紙巻きでも、こうして加湿しておくと風味が増す。シガーは出さないが、手間はをかけているのだ、とさりげなく主張して、厚遇を演出する狙いもある。というのは、ヒュミドールの管理を任せている中堅構成員の弁だ。葉巻に興味を持ったことはない。
 煙草も吸わない。だが、ガキの頃に粋がって、バカの一つ覚えのように煙を吐き出していた時期はある。値段だけはそれなりの来客用の紙巻きは、あの頃の俺がむだに灰や煙にしていたものと同じ銘柄だった。
 普段はそれほど気に留めない木箱だが、ちょっとした感傷に背中を推されて紙巻きを一本、手に取った。ヒュミドールと同じ意匠の施された一回り大きな木箱には、灰皿の他、シガーカッターとガスライターが並んで収まっている。
 ヤツが嫌な顔をするな、と頭の中で独りごち、湿気で重く柔らかい感触のある煙草を唇に挟んで火を点けた。汚れたジャケットをソファにの隅に放ってから、ライターを戻し、後ろに倒れ込むように座面に腰を落とす。反動で浮いた足を組みながら、広げた両腕を背もたれの上に乗せ、頭を預けた。
 着火時に深めに吸った煙を天井へ向けて吹き上げ、微かに白さの残るその行き先を意味もなく視線で追う。久しぶりの煙にむせて咳き込むのではないかと思っていたが、肺は意外にすんなりとそれを受け入れた。なるほど、加湿した方が美味い。…なんてな。比較対象となる未加湿の煙草の味など、もう思い出せない。その気になればこの先何本でもいけてしまいそうで、早々に吸うのをやめた。咥えただけの煙草の火先から、真っ白な細い煙が垂直に立ち昇る。
 たった二回のコールで切れた電話がもたらした結末が、これか。あの状況下だったからかどうかは知りようもないが、俺の知る中では最高の身体だった。去り際に俺が不用意に口走ったつまらない言葉。ヤツがそれを目的に俺の部屋を訪れることはないだろう。俺を部屋に呼ぶことも、だ。她不是我的情人。あれは、浅い眠りの中で見た夢のようなもの。およそ現実味がないくせに、やけに生々しい夢。あんな夢を繰り返し見るのは苦しい。
 忘れろ。ヤツは誰かの代わりを求め、俺は拙いながらも誰かの代わりを演じただけだ。なにも始まりはしない。笑ってしまうほどに、互いの感情の交錯が排除された情事だった。
 薄紙に包まれた刻み葉が目の前で灰になっていくのを眺める。ヤツが最後になにも言わずに出て行ったのはいつだったろうか。危うい熱を孕んだ憂鬱の影が俺の前を素通りして行くのを、そういえば、ここしばらく見送っていない。
 魔獣やヒトまでをも喰らって化け物へと進化した、外来種の蟻による未曾有のバイオハザードがプロハンターたちの耳目を集め始めた頃、どんな手口を使ったものか、ヤツは少数民族の眼球の在処の情報を掴んで来た。人体蒐集家である、头子の娘の歓心を買うためではない。それはもう、既知の事実となっていた。
 現存しているのは三十六対、とされる一説を信じるならば、けっして少なくない情報量。輪郭だけは聞かされていたヤツの目的と、にわかには信じ難かったヤツの素性が、そのときはっきりと俺に焦点を結ばせ、今後進むべき方向を明確にした。
 ヤツを、独りにしない。小さいのに託されてしまった。だから、もう投げ出せないのだ。ただ、そばにいてやるというだけのこと。大した労じゃない。ヤツを支えているのは、俺だ。そう態度に出すことなく嘯いて、自己満足に溺れるくらい、別にいいだろう。俺の本音になど、ヤツは興味を示さない。
 慌ただしくなった日常がヤツを外の男から遠ざけたのか、男がヤツに時間を割けなくなったのか、最近は行き先不明の外出はなくなった。実働に動くヤツと、情報の精査を担う俺とは、別行動を取ることが多いが、仕事上では必ず居所が判るようになっている。オフタイムであることが当然といえる、こんな時間帯に関しては、もちろん範疇外だ。
 告知済みの外出のついでにどこかの誰かと、といった、可能性を疑えばきりがないことは、初めから疑わない。戻ってきたヤツの表情に、退廃した仄暗い艶が見当たらないところから察するに、よからぬ道草は食ってはいないように思えた。
 巧妙に仕組まれた誘惑は、きっとその揺り返しだった。依存性の高い薬物と同じ、禁断症状。
今頃ヤツは、どうしているだろう。募る欲求を解消するためだけに、一時の気の迷いで、ただの仕事仲間にその腕を伸ばした。暗い部屋の中、浅慮が招いた消えない事実を抱いて、瞼も閉じずにじっと横たわったままでいるかもしれない。
 紳士のように振る舞うこともできたのだ。ヤツに首ごと引き寄せられ、美しく燃える紅い瞳を前に固まった思考の隅には、冷静にヤツの説得にかかる自分も存在していた。
 少し正気を失ったヤツの意識を呼び戻すきっかけになるのなら、言い回しはなんだっていい。

 お前、今普通じゃないだろ。
 そういうときにどうでもいい男と寝ると、後悔するぞ。

 安っぽい戯曲から引っ張ってきたような、使い古された台詞を垂れ、さも寛大な男であるように偽って、ヤツを思い留まらせようとしていた。同時に、触れたいという激しい欲望に駆られていながら、突然のことに後込みしている無様な自分を庇いたいという思いがあったことも否定できない。
 俺のような毒にも薬にもならない男なら、まだマシだ。二度目はないから、もう終わってもいる。だが、せめて。衝動を抑えられないときは、お前を貶めるような男とは寝ないでくれ。
 考えても詮ないことをとめどなく頭に巡らせているうちに、視界の底でなにかが小さく動いた。霊廟の香炉に献じた立香のようになっていた煙草の長い灰が、自らの重みで傾いたところだった。まずい、落ちる。 
 半分近く灰に変わった煙草をそろそろと二本の指で迎えにいき、垂直を保ったまま唇から挟み上げた。下の者を思えば、来客のために磨かれた灰皿を汚すのは気が引ける。またそろそろとソファから背中を剥がし、灰の傾斜を深める煙草の下で一方の掌を皿にした。煙草を挟む指を軽く動かすと、落下した灰が掌に一瞬の小さな熱を咲かせて消えた。
 掌の灰を飛ばさず崩さずの力で握り、まだ火の残る短い煙草を片手にパントリーへ向かう。水を張って壁際に置かれた吸い殻用のペールにそれらを放り込んで、灰のついた手をはたいた。今から仕事をして、どのくらいの仮眠が取れるだろうか。貴重な時間を煙にしてしまった。
 ソファに戻ってジャケットを拾い、汚れが内側になっているのを確認してから肩に担いだ。消灯し、事務所のドアを外から施錠する。朝、ヤツと顔を合わせても恬淡とした姿勢を崩さない。と、心に決めた。きっとヤツも、そのつもりでいるはずだ。
 ヤツに煽られて、シャツのボタンを引き千切ってしまったことだけは詫びておくべきだろうか。迷うところではある。

 二度目はない。あれほど強く自分に言い聞かせ、ヤツの側でも、錯乱の内の過ちとして処理されたものと思っていたのだが。結局、俺たちは一切の感情も共有しないまま、幾度か身体を合わせることになる。
 そして、あの男がやって来た。乳牛野郎。
 ノックのひとつもなく事務所の扉を開き、待機していた血の気の多い連中には目もくれず、ヤツの所在を尋ねた。即座に不在を告げて追い返そうとすれば居座りを決め込み、それが当然の待遇であるかのようにコーヒーを所望した挙句「ミルクはオレが自分で入れる」とは、笑わせる。
 仕立てはいいが、ふざけた仮装にしか見えないスーツに身を包んだ乳牛野郎は、生まれてからただの一度も他人に屈したことなどなさそうな自信に満ち溢れた態度で、臨戦態勢に入った連中に警告を発し、それでも治まらないと見るや念能力を行使した。
 勘弁してくれ。連中は持たざる者だ。”凝”で捉える限り、連中に怪我を負わせるような能力ではない。しかし、念能力を持たない身内を巻き込むのは俺の流儀に反する。
 こちらが折れなければ事態は動かないのだろう。乳牛野郎はハンター協会の人間を名乗ってここを訪れている。先日行われた会長選挙へ投票に行くまで、その存在すら知らなかったが、前会長の補佐を務める十二支んの一員でもあった。これもまたなかなかにふざけた名称だ。
 ヤツが頭上の騒ぎに気付いていないとは思えない。この場は早々に白旗を挙げて、ヤツに丸投げした方が賢明だと判じ、時間稼ぎに我が香主の取り扱いについて説明することにする。どさくさに紛れてこの稼業に難癖をつけ始めた乳牛野郎に対し、静かに反論しているうちに、香主のお出ましとなった。
 地下から戻ったヤツに意識を向けると同時に、乳牛野郎は能力を解除した。二人が探り合うように言葉を交わすのを後ろに聞きながら、解放された連中に小遣いを渡して人払いを図る。これで適当に遊んでから、持ち場に直行するといい。柄は悪いが、優秀な用心棒たち。連中が見ている世界に、念は存在しない。
 背後では、乳牛野郎がヤツの神経を素手で鷲掴みするかのごとく、単刀直入な質問を投げていた。殺された仲間の…緋の眼。そこまで聞いて、頭を抱えたくなった。絶望的な言葉選びのセンスだ。わざとやってるのか、この鈍牛は。刺激するなと忠告しただろうが。
 密度の濃いオーラが一瞬にして膨れ上がるのを背中に感知した。振り返れば、正真正銘、血の通った緋の眼を目の当たりにした乳牛野郎が息を呑んでいる。綺麗だろ? 何度かその美しさを間近に見ている俺は、微かな毒心を含んだ優越感を持つ。
 前会長に近い位置にいただけあって、乳牛野郎もいつまでも瞠目してはいなかった。きっと、思わぬタイミングで毛を逆立てた猫に面食らった程度の印象なのだろう。様子見でちらつかせた餌には食いつかないと悟ったか、さらに魅力的な別の餌の存在を明かした。ヤツが使った「部外者」や「慎重」という言葉を逆手に取って。考え得るあらゆる角度からアプローチしてなお、割り出すことのできなかった、緋の眼の所有数を誇る動画の投稿者、つまりは保有者の特定。
 俺の不首尾だ。半年もの間、なにをしていた。発想を逆転するに至らなかった。画像から辿り着くのは不可能、という乳牛野郎の言葉など、慰めにもならない。イカサマを見破れずに有り金を使い果たしてしまったような、空疎な眩暈に襲われる。
 「部外者」を脱するための条件を聞き終え、保有者との接触が確実であるとの言質を引き出そうと発したヤツの問いに、乳牛野郎は無言の答えを返した。ヤツが揺らいでいるのが判る。視点の定まらない瞳で何事か考えているヤツの横顔が、ひどく無防備に見えた。なにをおいても緋の眼の奪還を優先させてきたヤツだ。結論は決まっている。
 ヤツが下した決断を、眩暈の中で聞いた。どこぞの国の王子の写真が、乳牛野郎の手からヤツの手へ渡る。その様子が、俺の視界をスロー再生の映像のように流れていった。
 俺が、ヤツのそばにいるのだと思っていた。頭に血が上ったとき、抑えに回る者がいなければ、ヤツはなにをしでかすか判らない。小さいのの代わりに、仕方なく俺が。それが、どういうわけだ。この、置き去りにされるような寄る辺なさは。
 視覚が狂うほどに動揺している。最低でも数か月。事の運びによっては見通しが立たないほどの期間。ヤツはここを離れ、巨大な輸送船の中で乳牛野郎と行動を共にし、暗黒大陸へと向かう。アポイントメントも取らず、不躾に踏み込んで来た初対面の男と。
「外すか?」
 やっとの思いで口を開くと、
「構わない。いてくれ」
 写真に落とした無感情な視線の先を変えることなく、ヤツは端的に答えた。それに乗じるように、乳牛野郎が続ける。
「密談をしに来たわけじゃない。任せるよ」
 お前には訊いてない。音が出る寸前だった舌打ちを殺し、
「そういえば、コーヒーだったな」
 と、いう台詞に差し替えて、パントリーへと逃げた。
 投稿された動画の中の緋の眼は一対や二対ではなかった。そして、どう検証しても細工の見当たらない、確かに実存するものでもあった。判ったのはそこまでで、なにひとつ新しい事実を掴めないまま、作業は長期に渡って停滞していた。情勢が大きく動く。乳牛野郎の手土産は、ヤツの悲願を果たすための第一歩だ。条件付きとはいえ、受け取ってなにが悪い。朗報じゃないか。なぜ、こんなにも心が乱れる。
 豆を挽くところから始めるほどには、こだわっていないが、来客用のコーヒーは相手の質によってランク分けしている。湯を沸かしがてら少し考えて、ストックの中ではいちばん高級な粉に手を伸ばした。ちょっとした願掛けのようなものだ。乳牛野郎の持ちかけてきた話が、不足なくヤツの利に繋がるといい。それは本心だった。
 意思を示すことさえできずに、モノとして勾引かされていった仲間たちの居所がようやく判ったのだ。早く迎えに行ってやれ。一片のわだかまりもない顔をして、磊落に送り出してやる。器具を揃えながら、そう思い込む努力をする。
 沸騰した湯を、サーバーとふたつのカップに入れる。サーバーから上がる湯気に当たるようにドリッパーを乗せた。しばらく時間を置いてから、サーバーの湯をケトルに戻し、再び沸騰させる。その間にドリッパーにフィルターをセット。計量した粉を投入。沸騰した湯は、温度を下げるためにポットに移し替える。
 手間は惜しまない。これは、願掛けだから。バックアップは請け負った。仲間を保護して、さっさと戻って来い。手を動かしているうちに、波立った心が落ち着いていく。茶藝に臨むときと同じだ。
 均した粉に少しずつポットの湯を落として蒸らし、膨張させる。広がる芳香を胸に吸い込んで、自分の感情が安定していることを確認した。量を加減しながら、複数回に分けて、螺旋を描くように湯を注ぐ。澄んだ深い琥珀色がサーバーの水位を上げ続ける。注いだ湯の全てがフィルターを通過する前に、中央が窪んだ粉の上に細かな泡を湛えたドリッパーを外した。雑味は要らない。
 ヤツのためにパンでミルクを温め、ピッチャーに移す。自分で入れると言ったのだから、乳牛野郎の分は用意してやることもないだろう。小ぶりのココットにシュガーキューブを積み、トングを添える。張っていた湯を捨ててから、サーバーに抽出したばかりの液体でカップを満たし、カフェスプーンと共にソーサーへ。それらを並べたピューターのトレイを手に、パントリーを後にした。ハンターを引退した後は、ライセンスを売り払ったカネを元手に、ひっそりとドリンクストールでも経営してみるか。
 立ち話をしていたはずの二人は、いつの間にかセンターテーブルを挟み、それぞれソファと椅子に掛けていた。話し込んでいる様子は殺伐としたものではないが、和やかでもない。歓迎はしていなくとも、一応のところ客は客だ。とりあえず乳牛野郎の前にコーヒーを置く。カップの中身をこぼさないまでも、わりと雑な動きで供し、来訪を疎んでいることを黙示した。
 当然感づいているだろうに、乳牛野郎は軽く片手を掲げながら、
「悪いな」
 礼とも呼べない礼を鷹揚な口調で告げる。業腹な牛だ。聞こえない素振りで、ヤツの前にコーヒー、砂糖、ミルクの三点セットを配した。乳牛野郎の位置からは、立ち上がらなければ砂糖にもミルクにも届かない。関心がないのか、なにも判っていないだけなのか、ヤツは俺を窘めもしなければ、目の前にあるものを乳牛野郎に勧めもしなかった。
 乳牛野郎にとっても必要なものではなかったのかもしれない。表情に変化はなく、自然体でヤツの質問に答えながらソーサーを手に取り、そこからカップを持ち上げた。格下ハンターの小さな悪意にいちいち反応するほど狭量ではない、というパフォーマンスの可能性もあるが。
 鼻先にカップの縁を近づけた乳牛野郎は、ふむ、鼻を鳴らして頷いてから、口許へと運ぶ。一口飲んで、
「美味い」
 そう呟いた。当たり前だ。誰が淹れたと思ってる。それを美味いと言って飲んだからには、ヤツとその同胞たちを無事にここへ帰して寄こせよ。
 空になったトレイを小脇に抱え、ヤツの執事のよろしく、その椅子の横合い、やや後ろに立った。先刻まで下の連中がカードを広げていた羅紗張りのゲームテーブルに、軽く腰を乗せるようにして寄りかかり、トレイを抱えたまま腕を組む。併せて足も組む。首を軽く傾げた状態で心持ちあごを上げ、ソファの乳牛野郎を見下ろした。
 執事に例えたのは撤回する。ここまで風体を崩しておいて、執事などと言っては、本職たちの不興を買う。
「メンバーはそれぞれの専門分野を元にチーム分けされる。君はオレと一緒に情報班に所属してもらう予定だ」
「具体的にはなにを?」
「さあな。情報班に君を推したのは、あのルーキーだ。詳しくは聞いてないが、君の戦闘能力には制約がかかってるそうだな」
 黙って話を耳で拾いながら、ずいぶんと口の軽い仲間がいるものだと鼻白む。俺なら、ヤツの能力を簡単に明かしはしない。それが、深い信頼を寄せるに値する相手であったとしても、だ。どうやらヤツの仲間であったらしい、先の選挙で演壇に立っていた男に漠然とした軽蔑を覚えるのは、嫉妬によるものだろうか。ヤツは自分の能力の情報がその男から洩れたと知っても、特に顔色を変えなかった。斜め後ろから見る限りは。
「…そうだったかもな」
 ほとんど肯定と受け取れる言葉を返して、テーブルに置いた写真に視線を落とす。先ほどからずっとそうだ。カップに手を伸ばすこともなく、少し話しては、すぐ写真に意識を向けてしまう。
「彼は君の戦闘能力も評価しているが、それ以上に情報の処理や分析、判断速度に一目置いている。制約の内容を知らない我々としても、別の都合がある君としても、情報班というのは適切な配置だと思うが」
 得体の知れない数々の厄災が棲む大陸への渡航は、全ての仲間を奪回する、という至上命題を己に課したヤツの前に開かれた唯一の道だった。そんなヤツを、リスクの大きい戦闘要員に使われてたまるか。他の方法が存在するならば、こんな不利な話、俺が蹴っている。
 ヤツを取り巻く重い空気をよそに、乳牛野郎はカップを傾けつつ、次々と話を進める。乳牛野郎が言葉を切る度、内容を咀嚼するように軽く頷くヤツの仕草が、酒の雰囲気に流されていることに気づかぬまま籠絡されていく小娘を思わせて心配になる。ヤツはただ、吟味と熟考を繰り返しているだけだ。判っているが、ここからは窺い知ることのできない、ヤツの写真を見つめる瞳の暗さが気になって仕方ない。
 やがて、ヤツは俯き気味だった顔を上げた。
「個々の持つ情報を集約し、状況に応じて必要であれば念能力を開示する。行使することに問題はなくても、私が秘匿を望む能力や発動条件については、水面下で完結させる権利がある。この解釈に間違いはないか」
「回転が早くて手間が省けるよ」 
 笑顔のつもりか、口の両端をわずかに持ち上げて、乳牛野郎はソーサーにカップを置き、テーブルへ戻した。なにげなくその動きを追って、目を見張る。カップの底に残ったコーヒーは、琥珀色ではなく乳褐色をしていた。ピッチャーは最初に置いた場所から動いていない。いつの間にミルクを入れた。それ以前に、どこから出した。
「説明したとおり、暗黒大陸行きは長旅になる。メンバーたちとの顔合わせも兼ねて、協会まで来てもらいたい。我々の方で車を用意する。明日のこの時間までに準備を済ませておいてくれ」
「承知した。さらに細かい部分は明日、車の中で聞く」
 長く細い息を吐いてから承諾の意を示したヤツは、数秒の沈黙の後、俺を振り返った。
「…お帰りだ」
 沈鬱な声に胸を衝かれるが、俺はなにも言わずにテーブルを離れた。散らばったカードの上にトレイを置き、乳牛野郎に目配せする。聞こえたろ、とっとと帰れ。
 乳牛野郎が席を立つより早く、扉の前へ移動する。そこから部屋を見渡すと、ヤツは膝に肘を置いた姿勢でじっと虚空を見つめていた。ずっと前からその姿勢でいたかのような、来訪者の余韻すらも感じさせない居住まいだった。
 乳牛野郎が悠々たる足取りでこちらに向かってくる。速やかにお引き取りいただくため、自動ドア並みのレスポンスで扉を開けた。
「邪魔したな」
 俺の横を抜けざま、そう言った乳牛野郎に、
「まったくだ」
 と返す声を、閉じた唇の裏で止める。そのまま派手な音を立てて扉を閉めてやりたいところだが、俺はふざけた柄のスーツの背中を追って外へ出た。その気配で振り返った乳牛野郎の目が完全にこちらを捉える前に、横っ面に最初の釘を打ち込む。
「あいつは、好きでメンバーになったわけじゃない。それしか策がないからだ」
「もちろん承知しているさ」
 取り合いもせず歩み去るという反応も想定していたが、乳牛野郎は足を止めて俺に向き直った。思っていたよりは誠実な牛だ。長話をする気はない。歩きながらでも充分事足りる。一歩踏み出して、乳牛野郎を門柱の方へと誘導した。
「あいつをあんたに紹介した奴、信用できるのか?」
 壇上に立ったその男の演説を思い出す。一言でいえば、支離滅裂。選挙の趣旨から大きく外れたうえに、不適切な表現を含んでいたが、仲間を真っ先に助けたい、という熱が有権者たちの心を揺さぶったのか、当人が会長の座を望んでいる様子もないのに、最終候補にまで残った。
「同期だそうだ。試験中はほとんど一緒に行動してたらしい。ヨークシンの騒ぎ以来、没交渉だったそうだがな」
 プロハンター試験。そうか、そういう線もあるのか。どう見てもヤツと気が合うようには思えない男だったので、どこで知り合うに至ったのか疑問だったが、それなら頷けなくもない。プロハンター試験では当然ながら、内容によって極限状態に陥ることも多いと聞く。俺自身も受験中、強固に見えた絆が呆気なく崩れ去る場面を何度か目にしている。ならば、逆も然りだ。乳牛野郎の口ぶりからすると、ヨークシンでヤツが振り回した仲間の中には、その男もいたのだろう。信用はできる、というわけか。
 門柱に辿り着いてしまった。敷地を出てすぐのところに、ショートタイプのリムジンが停まっている。運転席のドアが開き、ショーファーが姿を現した。これが今日の乳牛野郎の足であり、恐らくは明日ヤツを迎えに来る車であるらしい。ショーファーが乳牛野郎を促すように、後部座席のアウターハンドルに手をかける。釘を打ち込む機会が終わろうとしていた。
「あいつはウチの大事なNo.2だ」
 俺を追い越してリムジンの方へ進み出た乳牛野郎の、やはりふざけた帽子を狙って言葉をぶつける。動きを止めはしたものの、今度は振り返らなかった。
「本来の目的以外のことで無茶はさせないでくれ」
 乳牛野郎の首が少しだけ後ろに捻られる。その口が開いた。
「実質的なNo.2は君なんだろう? 確約はし兼ねるな。そういう世界だということは、君も知ってるはずだ」
「知っていても敢えて言うんだよ」
「心配性なんだな」
 目を伏せ、口許を緩めた乳牛野郎は、聞き分けのない子供を相手にしているような声音で言葉を返してきた。自分でもなんとなくガキじみた対応であることに気付いてはいたので、そのまま反抗的なガキのように、
「悪いか」
 と、打ち返す。今さら取り繕っても仕方ない。
「君といい、あのルーキーといい、彼はサポーターに恵まれている」
 皮肉を言われるものだと確信して構えていたところに、変化球を投げ込まれて戸惑う。本当にただのガキに成り下がった気分だ。
「ルーキーの推薦を鵜呑みにしてスカウトしに来るほど、我々は無謀じゃない。自分が支えている男を信じることだな」
 ここを訪れたときと同じ、自身に満ち溢れた態度で言い残し、乳牛野郎は再びリムジンへと歩を進めた。ショーファーが後部座席のドアを開き、牛が自発的に格納されるのを目認してから、静かにドアを閉める。
 エンジンが始動する音とともに、マフラーから淡い陽炎が立ち昇った。挨拶代わりか、控えめな短いクラクション。リアウィンドウの向こうで、乳牛野郎が顔を前に向けたまま、軽く手を挙げていた。
 あの鈍牛が事務所に居座りを決めたときから言ってやりたかった。もういいだう。自分にしか聞こえない程度の、ごく小さな声で呟く。
 ヤツは女だ、蠢材奶牛。
 小さくなっていくリムジンに見切りをつけ、事務所に戻ろうと踵を返した先に、当のヤツが立っていた。そこにいることに驚くと同時に、独り言がヤツの耳に入ってはいないかと内心焦るが、杞憂のようだった。俺の肩越し、遠去かるリムジンを眺める顔には、なんの感慨も浮かんでいなかった。
 気を取り直すために軽く息を吐いてから、 
「行くんだな」
 足を踏み出し、ヤツと肩を並べる。
「ああ」
 訊く前から判り切っているはずの短い答えに、溜息が洩れそうになった。絶対に言葉にできない本音を、模擬的に口の中で転がしてみる。行かないでくれ、か。それとも、俺も一緒に、か。どっちもどっちだ。ガキや女じゃあるまいし。
 引き留めることも、追いすがることもできない。磊落に送り出そうと心を固めたことさえも忘れてしまいそうだ。なにか言うべきなのだろうが、適当な言葉を見つけられないまま、妙な間ができる。
「この後、時間は?」
 間を埋めようとして出てきた言葉がこれだ。自分でも、なにを言おうとしているのか判らない。というよりも、言った結果がどうなるのか判らないことを、なぜか言おうとしている。時間などない、とでも返してくれれば話はそこで終わるのだが、そんな消極的な期待も虚しく、沈黙だけが広がっていく。爪先の方向が間逆になる位置関係で肩を並べているのだ。耳許で訊いたも同然なのだから、聞こえてはいるはずだ。横目で確認すると、ヤツの視線はまだ、リムジンが走り去った方角に向けられていた。
 こんなときにまで、つまらないことを口走るハメになるのか。明日を最後に、しばらくヤツの近くにいることすらできなくなるというのに。くそ。構うものか、言ってやる。
「メシ、一緒にどうだ?」
 不意打ちだったらしい。ヤツは一瞬、前触れもなく目の前で指を鳴らされたような表情になった。ゆっくりとした動きで、俺を見上げてくる。目が合わないように、雲の少ない空を仰いだ。夕暮れが近い。視界の隅でヤツの様子を観察しながら、オレは別段、期待もしていない風を装って答えを待つ。