永遠なんてない。
くゆらせた煙草の煙は、ひんやりとした夏の夜と混ざり合い消えていく。
遠くで降り始めた雨はようやくこの街に辿り着き、しっとりと夜を濡らした。窓の外で車のヘッドライトが光のラインを描いている。
「いい加減大人の真似なんかするな」
俺の手元にあるものを見て、旅支度を終えたクラピカは目つきを鋭くした。溜息をつき、仕方なく灰皿の上でタバコを揉み消す。窓を閉め視線を彼女に視線を戻すと、俺を見つめる瞳は親に見捨てられまいとする雛鳥になっていた。
「少しは寂しいと思ってくれているのか? そんなものは自惚れだろうか」
「……いや」
友も女も例外なくありとあらゆる形で俺の前から去っていった。喪失は常に俺に責任があったように思う。数々の悲しみに折り合いをつけて大人になってきたと思っていたのに、俺は今でも子どものままだ。そんな俺に、彼女を引き留める術は思い浮かばない。俺は浮遊した感情をかき集めて相手に伝える前に、いつもすべてを無くしてしまう。何もかも伝わればいいのに、そう思いながらクラピカの強張った肩を引き寄せた。今だけは、俺の煙草の匂いがする。
クラピカもまさに今、俺の前から去ろうとしている。
彼女が少しも俺のことを愛していなかったとしても、俺は俺の人生の中のほんのわずかな間、誰よりも刹那的で、誰よりも美しいこの人のことを愛した。
俺の記憶に住む彼女は、いつだって夜の中にいた。
※
「やあ、いい夜だな」
迎えに来てくれ、とだけの実に事務的な電話を受け取った三十分後、車を飛ばしクラピカが「ここだ」と指定したホテルに到着した。しかし彼女はどこにもおらず、ロビーにも地下のバーカウンタにもいない。もちろん彼女の宿泊記録なんかも存在しない。番号をダイヤルして文句の一つでも言ってやろうとした矢先、あの金髪が路地裏に座り込んでいるのが見えた。
「おい」
声をかけると彼女はひどく酔っている様子で、とろんとした視線を俺に向けた。髪からぽたぽたと雫が滴り落ちているから、酔っ払って川にでも落ちたのかと思ったが服は乾いたままだ。
「部下に仕事任せて自分は飲んだくれやがって」
「アルコールには鎮痛作用もある。知らないのか?」
「わけわかんねえこと抜かしてんじゃねえ。何してたんだよ」
すると彼女は、ビリヤード、と言ってから、溜息をつく俺を余所におかしそうに笑いだした。
「わかったよ、もういい。帰るぞ」
「運んでくれ」
「ふざけんな」
肩を貸そうとしたがクラピカは頑として立ち上がろうとしない。駄々をこねているようにすら見えた。昼間の彼女とは大違いだ。髪からの雫が俺の肩を濡らす。ジャケットを脱ぎ、彼女の頭にかぶせてやる。それがずり落ちないように慎重に抱き上げて車に戻った。
クラピカを助手席に乗せていると、香水の匂いをさせた太った女が寄ってきた。網タイツからはみ出る贅肉や、顔に塗りたくられた白粉が汗で垂れている様を見て吐瀉物を連想する。目が合うと勝手に商売の説明を始めたので、「悪いが買ってやれないよ」と追い払った。
マフィアの情婦になりたがる女は多い。旦那が死んだあと、自分が実権を握って成り上がりたいからだ。しかしそれにはそれ相応の知性や商才を持ち合わせていることが絶対条件で、娼婦だとか娼婦じゃないとか関係なしに今の女には無理そうだなとなんとなく思った。
運転席に乗り込みエンジンをかけた。クラピカはすでにおとなしくなって、窓ガラスに頭を預けている。いつのまにか俺のジャケットは彼女のひざの上で畳まれていた。
普段ボスとただの部下が親しく雑談することもないけれど、発進させた車の中に二人きりで暫く沈黙が続けば気まずくもなる。俺はカーラジオをかけた。流れるジャズのサックスが耳に心地よい。やがてその音色にはやわらかい雨音が加わった。ジャズは夜の音楽だ。とりわけ雨の夜によく似合う。
ふいにクラピカの方から口を開いた。
「きみはどう思う、先ほどの女性について」
「魅力的かって? 趣味じゃないね」
彼女は、茶化す俺を睨みつけた。
「怒るなよ。特に何も思ってねえよ。ああいうのの管理は俺たちの仕事じゃないだろ」
「質問を変えよう。好きでもない人間に進んで抱かれる女をきみはどう思う」
「……仕事自体を安い行為だとは思わないよ。目標があるんだろ。なら、誰にも馬鹿に出来やしないさ」
「軽蔑しないのか?」
「別に。お前はしてるの?」
「いや。……そうか。窓、少し開けてくれ」
窓の隙間から入り込んだ夏の匂いと雨の匂いとが車の中に満ちた。クラピカは肘をつき、窓の外を眺めている。窓に張り付いた雫は、夜のあかりを写し取り瞬いては消える。雨のひとしずくの中にある濡れた街は流星だ。
事務所に戻ると、よほど疲れていたのかクラピカはソファですぐに寝入ってしまった、かと思われた。
ほんの数分間眠りに落ちていたはずのクラピカは起き上がり、ソファに腰かけた俺の目の前で服を脱ぎ始めた。ぎょっとして、何やってんだよ、素っ頓狂な声が出る。
「抱いてほしい」
「は? まだ酔ってんのか」
「逆だ。醒めたんだよ。おかしくなりそうだ」
彼女は跪いて、俺のベルトに手をかけた。この潔癖そうな女はどこで教わってきたのか、俺自身を口に含んでゆっくり頭を前後させた。やめろ、彼女の口内ですでに立ち上がりかけているのを感じて彼女の口淫をやめさせた。
「嫌か?」
クラピカは手の甲で唇を拭う。そういう問題じゃねえ。
しかし、俺に圧し掛かるようにしてなめらかな肌を擦り寄せられ俺は、クソ、と悪態をついた。俺だって男だ。ほとんど裸に近い女が目の前にいたうえ、その女に誘惑されていてなお理性的でいられるほど強靭な精神を持ち合わせてはいない。やや乱暴に彼女の下着を取り払う。胸は貧相だが綺麗だった。服を着ているときは少年のように見えていたが身体は驚くほどきれいで、彼女が十八の少女だったことを思い出した。
やわらかい身体をまさぐると両手で顔を持ち上げられくちづけられた。舌を吸い合いながら女陰に指を這わせる。すると彼女の唇から声が漏れた。彼女はすぐに充分すぎるほど濡れた。
腰を掴み下から挿入すると彼女の呼吸が一瞬止まり、短い叫び声があがった。それは快楽の喘ぎというより痛がっているようにしか見えず、そのうえ驚くほど狭くてまさか処女なんじゃと思ったが、処女がこんなふうに男を誘ったりするだろうか。俺の肩に手を置かれた手は肩甲骨のあたりに回され、ぎゅっと身体が密着した。荒い息が耳にかかる。
ごめんもう無理、一応声をかけたが聞いていたのかは分からない。すんでのところで引き抜いた自身から精液が放たれ、それらはすべて彼女の腹にかかり、ソファに垂れ落ちた。クソ、なんなんだよ。再び悪態をついたが彼女はすでに眠りに落ちていた。
俺は仕方なく身体を拭いてやり、何も起きなかったみたいに服を着せた。濡らしたタオルに血がつかなかったことに安堵する。
睡眠を妨げる自己嫌悪や虚脱感に襲われ、事務所にあるミニバーに向かった。この組はボスを除き酒好きが多いから、いつでも自由に使っていいことになっている。一人でグラスを端から端まで磨き上げた。こういう単純な作業はそれだけで心を穏やかにする。それが終わるとジントニックにライムを絞り、自室に戻った。
雨音を聞きながらジントニックを少しずつ舐め、朝まで過ごした。
※
それ以降クラピカはたびたび深夜に出かけ、決まって飲んでいて、彼女の髪はいつも濡れていた。俺を迎えに呼び、それから俺の部屋に来る。クラピカがでかけた夜は何もせず彼女からの電話を待つのが習慣になった。
行為の度、俺にいくつかの事柄を質問した。
戦争と平和を読んだことがあるか。
無い。長すぎる。
一日に一番憂鬱になる時間帯は。
夕方の五時。
好きなワインの銘柄は。
オーパス・ワン。
なぜ?
なんでだろうな。
一番好きな映画は。
タクシードライバー。
神を信じるか。
信じたことはない。
どれも俺の本質に触れるとは到底思えないものばかりだが、誰かとコミュニケーションをとるというのは心地いい。
一方で彼女はほとんど何も語らなかった。しかし、自分の瞳の本当の色、どんな目的で組に入ったのか、神を信じていないということ、その三つを聞き、暗闇を嫌っていることを知った。
「テーブルランプは消さないでくれ」
彼女の服を乱しながら、まさにそれに手を伸ばした俺をクラピカは制したので少し驚いた。明るい場所ですることを嫌いそうに見えるからだ。
何度も寝て、ようやくそういった気づかいが出来るようになるほど彼女は貪欲で、俺には余裕がなかった。
「なんで? 怖いのか」
「そうかもしれない。……人は失明したとき真っ暗になるか、真っ白になるかのどちらかなんだそうだ。私にはどちらも恐ろしく思える。少しずつ孤独になっていくのと同じだ。だから消さないで欲しい。本当はまぶたを下ろすのも嫌いなんだ」
分かるような気がした。自分が眠っているとき、世界と隔絶される感覚は孤独だ。自分がいたっていなくたって世界は正常に回る。途方もない無力感に耐え切れないから、こうやって身を寄せ合おうとする。
「なんだかドーナツが食べたくなる灯りだな。ドーナツ屋ってこういう色してないか」
「行ったことはないが、そうなんだろうな。きみは甘いものが好きなのか」
「好きだよ」
俺が言うと、クラピカの表情は少し和らいで、冷たいてのひらが俺の鎖骨のあたりをなぞった。その晩は一回だけセックスをして眠った。
※
この間と同じような雨の夜、車を出してくれ、とクラピカは言った。またどこかへ出かけていくのだろうが、俺が着いていくのは初めてだ。俺も行くのか? すると彼女は頷いた。雨の夜は気が滅入ってしまうから。彼女は俯いた。
クラピカの行き先はどこかの金持ちの邸宅だった。一時間ほど飛ばし、ご立派な門扉の横に車をつける。
「ここで待っていればいいの?」
「それは退屈ではないのか」
「別に」
「……ここにいてほしい。できればでいい」
「ああ。煙草、いいよな」
「構わない」
傘を渡して彼女を見送る。雨のせいで彼女の姿はすぐに見えなくなった。彼女が何をしに行ったのか、なんとなく分かる。戻ってくる彼女の濡れ髪からはいつも石鹸の匂いがするから。それを知らないふりしてやることも、思いやりのひとつだ。
一人きりの車の中で俺はカーラジオを音楽番組に合わせた。今夜は昔の曲ばかり流れた。
ラジオの向こうにいる甘い声が孤独を歌っている。ひとりきりは寂しい、家に帰れたらどんなにいいだろう、僕の名前はミスターロンリー、そう歌いながら泣いていた。
それからきっかり三時間後に戻ってきたクラピカは何も言わず助手席に乗り込んで、俺の煙草を奪い取り一本抜いてから返した。それからボックスのパッケージを指差し、なぜkなんだ、と呟いた。
「何が? 銘柄のスペル?」
「ああ」
「キープ・オンリー・ワン・ラブの略だかららしいけど」
俺の言葉には大して興味もなさそうで、不味いな、と煙を吐き出した。
「だろうね」
「きみは好きで吸っているんじゃないのか」
「さあ、どうだか。好きだとか嫌いだとかって曖昧だよな。昔はもっと単純だったのに。こんなもん吸いたがるやつなんてむしゃくしゃしてるか、大人になりたいか、単に暇かのどれかだと俺は思うよ」
「きみはどれなんだ?」
「ただの子どもだよ。成長をやめたんだ。大人になりたいなんて思わない」
最後の一本を抜き取り、火をつける。
「私もそうだ。大人への憧憬なんて儚いものだった」
空になったボックスを指で潰し、窓から捨てるのをクラピカは咎めなかった。後できみの部屋に行く、それだけ言って彼女はまた煙草に口をつけた。
※
人間は昔八本の手足があって、それを神に引き裂かれた。だから、自らの片割れを探してこんなふうに抱き合うんだそうだ。
クラピカはシーツを掴んでいることの方が多いけれど、たまに背中にまわされる腕をいつの間にかうれしく思うようになった。その腕が離れ、自身を引き抜くとき少しの名残惜しさがある。彼女はそんなこと思ってはいないだろうから、ベッド脇に置いている俺の煙草とライターにすぐ手を伸ばし、火を点ける。
「自分のことを何もかも奪われた被害者だと思っていたが、そういうのは連鎖するんだ」
「それみたいに?」
さっきまで俺のものだった煙草を指さして言ったがクラピカはそれを無視した。俺も彼女と同じように火を点け、煙を肺まで吸い込んだ。
「わたしも誰かから奪って、搾取して、弄んで生きている。誰かから奪うだけで、誰に何も与えられなかった。愛は惜しみなく奪うんだ。人間でいるのが嫌になるな」
「エゴと向き合おうとしているだけましだ。罪は浅い」
煙草を挟んでいるのとは逆の手で、アーメン、と胸の前で十字を切って見せた。
「何も欲しがらない人間なんていないよ」
「そうだろうか」
煙草は余計なことを喋りたくないときに便利だ。俺が吸うのを見て、クラピカも必ず俺から貰い煙草をする。セックスの後、俺と彼女は同じ匂いがしている。しかし唇は煙草に塞がれていてキスができない。オレンジのか細い光は灰になっていつか落ちる。
静かだ。今日は沈黙が心地良い。今、世界は夜の海のように言葉をなくしてただそこにある。
沈黙を破るのはいつもクラピカの方だった。
「やりたくないことをやりたくないと思うのは、卑怯だな」
そんなことない、そう言う俺の言葉にクラピカが傷つくのがわかった。
「本当はもう終わりならいいのにと思っている。しかし、何もしないのは罪だ」
クラピカはいつも幸せに怯えている。
※
久しぶりに何もない夜だった。
あの雨の日以来クラピカは深夜どこかへ行くのをやめた。理由がなくなったのかもしれない。
急ぎの仕事もないので、クラピカは俺をミニバーに誘った。
クラピカと俺以外の人間は全て出払っている。あいつらはストリップでも見に行ったんだろうな、そう思いながらボスのオーダーを俺は待っている。
一本吸ってから彼女は呟いた。
「きみの得意なものが飲みたい」
「別にないよ」
「じゃあきみの好きなものがいい」
手早くスコーピオンを作って、グラスをクラピカに手渡した。
「お前は飲まないのか?」
「ああ」
グラスに口をつけたかと思うと、すぐにくちづけられて熱い舌からスコーピオンを流し込まれる。口の中に柑橘の香りが広がった。
「一人じゃつまらない」
クラピカは俺を見つめた。涼やかなアルコールに濡らされた唇が艶かしく光っている。カウンタ越しに一つのグラスを口移しで分け合い、オレンジのカクテルがぽたぽた垂れてシャツを濡らすのも構わなかった。空になったグラスを置こうとしたが床に落ちて転がった。グラスの中の氷が音を立てる。それに構わず身体を寄せようとしてくるクラピカを俺はかわいいと思った。俺の部屋に、そう言おうとしたけれど彼女はそれを拒んだ。
スツールから立ち上がらせると、クラピカはまたすぐに俺の唇を求めた。
服を乱し合いながら彼女を壁に押し付ける、俺は細い首筋に歯を立てる、彼女が甘い声をあげ、もう濡れているんだ、と俺の耳元で囁く、俺は彼女の太ももを持ち上げて挿入する、絶頂を迎えるまで、ほとんど唇を離さなかった。
脱力してしまったクラピカを抱き上げて俺の部屋に運ぶ。ベッドに沈め、指を絡ませた。そのとき初めて、クラピカが微笑むのを俺は見た。
「なんだか、まるで」
何か言おうとした様子だったが、その言葉に続きはなかった。
これが日常になればいいのにと願った。俺は変化など求めない。時間は永遠に続く現在だ。このままずっと同じ毎日が続いていったらいい。
俺はクラピカのことを愛し始めていた。
※
俺の感情とは裏腹に、クラピカは地下に篭りがちになった。事務所の地下には、ボスだけが入ることの出来る部屋がどうやらあるようだが、俺はその部屋が何のためにあるのか知らされていない。
クラピカは眉間にシワを寄せて朝からどこかに出かけて行き、戻ってきたかと思えばすぐ地下に篭る。
携帯で彼女に連絡をすればレスポンスはあるが、直接会話はしない。今は人とのコミュニケーションを拒んでいるようだった。情緒不安定で、周囲にとげとげしい言動をとりながら自分が一番傷ついているのが見ていて痛々しかった。
彼女とあまり顔を合わせない間、俺の煙草はクールからマールボロになった。
そろそろ仕事を切り上げようかという頃、地下から階段を上ってくる足音がした。扉が開き、彼女はそのまま俺の横を通り過ぎて行くものだと思っていたから、「すまないな」と声をかけられて少し驚いた。
「何もかもきみに任せ切りだ……疲れていないか」
「疲れてるのはお前だろ」
痩せたような気がする。何も言おうとしない彼女に、自室の鍵を手渡した。
「なんだ?」
「俺の部屋の鍵。一時間したら行くけど、別に寝ててもいい。何か飲む?」
長い沈黙の後、
「……なにもいらない」
背を向け、鍵をぎゅっと握りしめて出て行った。
※
彼女は俺の部屋で眠るようになった。
ただいま、と言い、おかえり、と言い、同じものを食べ、同じ煙草を吸い、同じ酒を飲む。そういった生活の中でクラピカを愛しいと思う時間が長くなる。一番初めの夜よりずっと淫らになった彼女と毎晩貪るようにして求め合った。服を着たまま一晩中抱き合っていた夜もあった。クラピカはどんな愛撫よりもただ唇を重ねていることを好んだ。
俺は彼女のことを何も知らない。相手が誰であろうと他者を理解した気になるのは傲慢だ。それでも俺は彼女の孤独に寄り添っていたかった。
「もっと知りたい。きみのことを」
そう微笑んでもすぐに表情を強張らせる彼女に、愛しているんだという言葉は絶対に口にしてはならない。安息を求めながら安息に傷つけられてしまう。
けして近づかないでほしい。でも離れて行かないでほしい。不器用な彼女は、そんな目でいつも俺を見ていた。
※
「きみには見ていてほしい」
行為の後、彼女は言った。何を? 俺が言うと、シャツだけ羽織った彼女は俺のノートパソコンを勝手を起動した。
立ち上げたブラウザに流れるようにURLを入力し表示されたウェブページは、たしか人体収集家のコミュニティサイトだ。世界中にいるユーザーはそのサイトに動画や写真をアップロードして自分のコレクションを自慢しあう。彼女の情報源のひとつがそれだった。
IDとパスワードを入力してログインし、彼女が再生を始めたのはその中の動画の一つだった。
動画は短かったが、見ているだけで吐き気を催した。敢えてのことなのだろうが無音。大きな棚に彼女の求めているものが大量に並べられ、口に出すのもおぞましい状態のものまであった。
今ので全部なのか? 声を絞り出す。彼女は頷いた。
「部屋の装飾品を調べたり、他の人体収集家を洗い直したりしても全く繋がりが分からない。音からの解析もできない。アップロードしたユーザーもダミーアカウントだった」
これは誰なんだ、と項垂れる。
俺も調べてみていいか、その類の言葉を口に出す前に彼女の手がノートパソコンを閉じる。すぐに素肌のぬくもりを感じた。
「抱いてくれ」
抱いてくれ、という言葉の意味を反芻して、なんとなく、嫌だ、と感じた。
彼女はどうにもならない感情の捌け口を探している。酒もあまり飲まず煙草も殆ど吸わない、ギャンブルなんて全くやらない、だから彼女は即物的なぬくもりを求めている。与えてくれるのなら誰でもいいんだろう。
俺はそれでも構わなかったが、今のはあまりにもあからさまだ。
溜息を堪え、くちづけながらベッドに倒したが反応がない。さっきまであんなに乱れたのに、愛撫を始めてもなんだか人形を相手にしているみたいで張り合いがなかった。捌け口としての俺と無反応の彼女、まるで人形同士のセックスだ。
手を止めると彼女は俺の気分を察したようで「もういい」と俺を押しのけて一度脱がせた服を着始めた。散らばった服を拾い、きっちりネクタイまで締めた。
「なにしてんだよ」
「出かけてくる」
「どこに行く気だ」
手を掴んでそれを引き止める。彼女は俺の顔すら見ずに、金属のように「関係ない」と言い放った。彼女の口調に苛立つ。
「そうかよ。お前がなにしようと勝手だけど自分で自分を痛めつけるのだけはやめろ」
クラピカは顔をかっと赤くして俺の手を振り払い、早口でまくしたてた。
「貴様に何が分かる。私の行動に口を出すな。どこに行く気だ、だと? 貴様の代わりを探しにいくんだ。私がどんな人間なのかとっくに知っていたくせに。そうだな、貴様は私が他の男に抱かれているところを想像して自慰でもしたらどうだ? 録音してきてやろうか。ビデオにしても構わない。私がほかの男とどんなふうに乱れるのか知りたくないか?貴様の比じゃない」
「クラピカ」
「お前に抱かれてやったのだって、恋人みたいに振舞ってやったのだって全部計算したに決まっている。お前が少しは使える人間だから、だからそばにおいておきたかった、それだけだ。お前なんか、きみのことなんか」
「泣くなよ」
「私が今泣いているように見えるか?」
クラピカの瞳は濡れていなかったが、それだけのことだ。彼女は唇を噛んだ。
「……きみに当たり散らすのは筋違いだな……すまなかった」
「俺は怒ったりしてないよ。誰も敵じゃねえ。だからそんなふうに怯えたり傷ついたりするな」
「やはり、きみはやさしいな。だからもうやめていい。私に構ったりしないでくれ。本当はわかっているんだ。ちゃんと分かっているよ。私はきみにひどいことをしている」
これからお前が何を言おうとしているのかもう分かってしまった。
お願いだからそれ以上なにも言わないでくれ。聞きたくない。黙ってくれ。俺は何も知りたくなんてないんだ、と居るはずのない神に祈っていた。
「私にはもう誰かを愛するなんてできるはずがなかったのに」
頼むから何一つ俺に理解をさせないでくれ。
俺が彼女に愛されていないだなんて、俺の感情が一方的だなんて、とっくに分かっている。彼女が見つめているのは俺じゃない。過去だ。
愛が須く相互的なものであるべきだとは思わない。しかし自らの無力や無価値を、愛する人間から突き付けられてショックを受けない人間はいない。
「私がどんなに醜い人間なのか分かっただろう? 私はただ慰められたくてきみのやさしい気持ちを利用していただけだ。私はそうやって他人を蔑ろにするような人間なんだよ。私は何もかも許したりできないのだから私だって誰にも許されたくない」
俺は黙っていた。
「……なぜ私を罵倒しない?」
「分からないのか?」
分からない、彼女は言った。
いま傷ついているのは俺じゃなくお前だからだ。お前は躊躇いもなく人を利用できるような人間じゃないからだ。お前が大事だからだ。
俺はやさしくなんかない。お前を傷付けたくないのは、ただお前を愛しているからだ。お前が過去に対して何もかも差し出しているのと同じなんだと、何故気付いてくれない。
伝えたい感情はいくらでもあるはずなのに、彼女が傷付かずに済む言葉がどこにもない。どんな言葉も安っぽい慰めだ。俺は言葉というものの不完全さを憎んだ。
「もう何も見なくていいよ」
ネクタイを引き抜いて、彼女に目隠しをした。腕を掴み、細い身体をベッドに放り投げた。視界を奪われて怯えているはずの彼女を、できる限り乱暴に犯した。乳首を捻じりあげ、噛み付くような愛撫をしても彼女は濡れ、甘い声をあげ、俺が挿入するとすぐに絶頂した。絶頂を迎えたばかりで身体が弛緩しているのも無視して四つん這いにさせ、後ろから責め立てた。やさしさも思いやりもない。こんな抱き方はしたくなかった。
けれど俺にはうまく抱き締めてやることができない。孤独に触れられない。どんな傷も癒せない。彼女の望む愛を汲んでやれない。
俺には、クラピカを痛めつけて、他の痛みを誤魔化してやることしかできない。
すべてが終わってから、「こんな暗闇に、たった一人で耐えていたのか」と、か細い声で彼女は呟いた。
「冷たくて、さみしくて、あまりにも一人だ」
「なんの話?」
思い出だ、クラピカは言った。これは過去だ、大事にできるのは過去ばかりだ、と。
思い出。俺にけして失いたくない思い出などあっただろうか。たとえ自分が苦しむ結果になったとしても忘れたくない思い出などありはしない。自らを苦しめ続けて罰し続けて何になるのだろう。
人生を楽しまないのは罪だね、と誰かの言葉がふいに蘇ったが、誰の言葉だったか分からない。それが喪失だ。喪失とはきっと、忘れ去ることだ。
「お前は何も失ってなんかいないよ」
その夜クラピカは煙草を吸わなかった。
朝起きたとき彼女は既に俺の隣りにはいなかった。シーツも冷えていた。
渡したはずのスペアキーがテーブルの上に置かれていることに気付き、彼女のぬくもりがもうどこにもないことを知る。
クラピカと寝たのはこれが最後になった。
そして、決定的な出来事が起きた。
あの動画の、残りの緋の眼の持ち主が分かって、クラピカは俺の腕から出て行く。
※
強く抱き締めてクラピカの感触を確かめている。どうせ忘れてしまうのに永遠に覚えていたい。彼女が俺の腕の中にいてくれた一瞬を。
「行くな、とは言ってくれないのか?」
「お前がそれで聞くようなやつなら何度でも言うさ」
きみは物分かりがいい、そう言って彼女は少し笑った。
「きみが追いかけてきてくれたなら、どんなにいいかと思う。きみと一緒に……しかし、きみにはきみの人生がある。私には私の……それだけのことだ。きみは悪くないのに、私は何も返せなかったな」
なにもいらないよ。
お前がいてくれるだけでよかった。そこにいてくれるだけで満たされていた。全て欲しかった、でも、なにもいらなかった。
「私は、私のてのひらをずっと掴んだままけして離さない手を探していたんだ。やさしくて強い……私の神さまだった。でも、もうどこにもいない。死んだんだ。私が殺した」
その言葉の意味を知ることは永久にない。クラピカはもう俺のところへは帰ってこないのだから。
縋るものの無くなった世界で彼女はたった一人で必死に生きようとしていた。
それでも、人は孤独で悲しい生き物だから、誰かを愛し、誰かに縋り、この腕で抱きしめ、朝も昼も夜も寄り添っていてほしいと祈るように叫び、自分がけしてひとりじゃないことを知り、そうやって今生きていることを確かめずにはいられない。
俺はもうすぐクラピカのことを失う。クラピカの感触も匂いも体温も忘れていく。俺は彼女の恋人でも王子でも騎士でも神でもない。何にもなれなかった。俺は、人生の中のほんの一瞬、彼女とすれ違っただけの他人だ。
いつか懐かしむだけになるだろう。
ただ愛した。たったそれだけの、頼りなくて輪郭のないものを。
「もう暫くこうしていてもいいか……」
俺が言うと背中に手が回された。
「きみを、愛していたよ、ほんとうだ」
声にほんの少しの涙が混ざった。永遠というまぼろしが過去に変わる。
何百回目なのか分からないくちづけは コアントローだ。焼けつくように甘いのに、後には何も残らない。ぬくもりは夜にとけて、消えた。