CP前提なしです モブレないけどそれっぽいのがある
全部書き直してたら時間かかった
ベッドに打ち捨てられている死体のような人間は私だった。ベッドの上の私を、もう一人の私がどこか遠くから眺めている。感情のない怪物が、動けない私の上に跨った。骨ばった大きな手が下着を引き裂き、生温い舌は時間をかけて全身を舐めた。べちゃべちゃという不愉快な音に顔を背けると首を掴まれる。私に一切の抵抗は許されておらず、暴力に身を委ねて時折声を漏らすだけだ。舌は陰部に達し、粘膜を舐め上げる。圧倒的な暴力が私を壊していくところを想像していると、昂ぶった性感はオーガズムとなり身体を震わせた。
…………。
指を引き抜くと、アメーバのように分裂していた二人の私はまた元通り一つの形になった。呼吸を整え、オーガズムの余韻に浸る。私は毎晩、怪物に陵辱されるところを想像して自慰をする。自慰は私の感情の爆発を防ぐ。怪物はいい。怪物には感情の入る余地がないからいい。何も感じないなんて、死んでいるのと同じだ。
起き上がるとシーツに染みが出来ていた。淫乱。染みはそう言って私を罵倒している。
急いでシャワーを浴び、新しいスーツに着替えた。二十一時のアポイントまであまり時間がない。
「車を出してくれ」
ノートパソコンを開き淡々と事務処理をしていた彼に声をかける。彼は胡乱なものを見る目で私を一瞥し、パソコンを閉じて立ち上がった。なんでオレが、とでも言いたげだったが彼は一度だって私に口答えをしたことがない。
「場所は」
尋ねるふうでもなく言う彼に地図を渡すと「ふうん」と呟き、来いよ、と目で言った。彼は私に敬語を使わず、なんの許可もなく目の前で煙草を吸う。彼はけして私に媚びることをしない。少しも私に取り入ろうとか、気に入られようとか思っていないのだ。彼といると自分が透明になったかのような錯覚に陥る。その感覚が、私は嫌いではない。
目的地であるホテルに到着し、シートベルトを外した。無表情の彼に私は言う。
「きみも一緒に来てくれ」
「オレが? 行ってどうすんの」
「何もする必要はない。何も言わなくていい。ただ私の隣に立っていてくれ。出来れば表情も崩さないでほしい」
「ふうん。いいけど」
彼もシートベルトを外し、リモから下りた。彼がいた方が少しは説得力が出るだろう。私一人ではそれが足りない。
来てくれと言われたのは、ホテルの最上階にあるスイートルームだ。ベルを鳴らすと、「アポイント」はすぐに鍵を開け、私を招き入れようとした。しかし私が一人ではないことに気付き、男の表情が固まる。今日は一人じゃないんだね、一人で来てって言ったのに、男は神経質そうに髪を撫でつけた。
「先日の件について話したい」
その人がいる前では話したくないな、と男は言い、彼の方をちらりと見た。男が怯えているのが手に取るように分かる。
「では手短に結論から言おう。きみと交際することは不可能だ。彼が私の恋人だから」
私が言うと男は目を丸くして、その表情は次第に困惑、怒り、狼狽、怯えの混ざった複雑な表情へと変化していった。一方で隣の彼は少しも動揺を見せなかった。口を開かない、表情も変わらない。私の命令にいっそ忠実すぎるほど従っている。私は言葉を続けた。
「それに本来の取引はもう成立している筈だ。もう私に連絡してこないでくれ」
あ、ああ分かったよ、しつこい男にはなりたくないからね、男は苛々とした様子で髪を触っている。
「では失礼する」
ドアを閉め、やけに長く感じる廊下を歩いた。お前は誰とでも寝るんだな! と男が叫んだのを、私と彼は背中で聞いた。
帰りの車中、私たちはお互いに無言だった。しかし事務所に到着すると、「なんだよあれ」と彼は突然声を荒げた。ジャケットを脱ぎ、それをソファに投げ捨てる。
「どういうつもりだよ、なんなんだよさっきのやり取りは」
激しく感情を乱した彼を見るのは初めてだ。
「先ほどの男か? 自身はただの塾講師だが親類に成金がいるのだろう、会員制秘密クラブの常連だ。他の人体収集家と強いコネクションを持っている」
「そんなこと聞いてねえ、何勝手に人を使ってんだよ」
「言ったらきみは来てくれなかっただろう。あまりにしつこく交際を迫るので、多少威圧しておく必要があった。すまない」
「てめえの色恋沙汰くらいてめえで解決しろよ。オレは都合のいい人形じゃねえんだよ。まったく美人局でもするのかと思ってヒヤヒヤしたぜ。バカ正直に生きてると思ってたけど、お前でも嘘つくんだな」
「嘘?」
「オレはお前の彼氏でもなんでもねえだろ」
たった今自分は人を騙してきたのだという実感が、今更染み込んできた。自分がアメーバになる予感がする。あの場を切り抜けるには騙すしか方法がなかったのだと言う自分、その自分を卑怯者と罵る自分。精神が細胞分裂する感覚に耐え切れず、脳が活動を停止した。
ぼうっと俯いていると、彼は私に顔を近づけた。
「なあ、お前って本当に誰とでも寝るの?」
「貴様、何を……」
「オレにも抱かせろよ」
ふざけるな! 思いきり頬を張ってやるつもりで腕を振りかぶった。が、あっさり掴まれ私はソファに倒される。
「やっぱお前は女だな」
せせら笑う冷淡な一重まぶたを見てこの男は本物のサディストかもしれないと感じた。瞳に写る私には恐怖がある。自分も他人も騙して生きていることの罪深さ、それに対する恐怖だ。
そうだ、私は女だ、嘘をつくのが嫌いだ、苦しむのが嫌いだ、しかし、当然の報いだ。
身体が痛まないよう力を抜いた。目を閉じて身体と心を遠ざける。心は海の底に沈み、身体はどこにあるのか分からない。これからどんな辱めを受けようが、私の知るところではなくなるのだ。
「あのさ」
彼の声ではっと我に返る。彼は私から身体を離して、いつもの退屈そうな表情に戻っていた。
「罪悪感で生きるのやめたら?」
「どういう意味だ」
「別に」
「何もしないのか?」
「されたいならするよ。でもそうじゃないだろ」
オレはレイプ魔じゃねえ、お前が調子に乗ってるからビビらせたかっただけだよ、と彼は言った。私の服は少しも乱されていなかった。
「悪かったよ。減俸でもクビでもなんでもすればいい」
「そんなことはしない。きみは有能な部下だ。ただ、私の我儘に付き合ってくれないか」
「何だよ」
「私の恋人になってほしい」
「……は?」
「私には、先ほどの男が何故あそこまでして私との交際を望んだのか理解できなかった。恋人とはなんだ? 素晴らしいものなのか。きみが教えてほしい。私を愛する必要はない、ただ演技してくれればいいんだ。迷惑だろうか、きみに既に恋人がいるなら、」
お前って結構純粋なんだな、という彼の呟きが私の声に重なった。そして、あいつはただ手に入らないものを、と言いかけて口をつぐむ。なんだ? と聞き返したが、彼は私を無視した。
「まあ、いいよ別に。ボスの気が紛れるなら一緒に恋人ごっこして遊ぼうぜ」
「ごっこ?」
「そうだよ、ごっこ遊び。飽きたらすぐにやめられるからその方が後腐れなくていい」
その通りだと私はぼんやり考えた。
「あとさ彼氏ってやつは、自分の女をああいう男のところへ行かせない権利があるんだけど、いいよな」
いいのだろうか。躊躇いが浮かんだことに強烈な恥を覚え、私はなんでもないふうを装い頷いた。すると彼が微笑んだように見えたが、見間違いだったかもしれない。
「……先ほどの件、本当にすまなかった。失礼する」
私は彼に背を向け、逃げるようにして自室に戻った。すぐに服を脱いでバスルームに入る。全身をかきむしりたくなった。あの冷徹な目で見られたときから、私の下着は濡れていたのだから。ソファに倒され、あのまま貫かれていたかったと思う私は狂っている。
下腹部の火照りを鎮めるためにシャワーを頭から被りながら自慰をした。彼の少しも優しくないセックスを思い浮かべ、身体を震わせた。
※
自分から話を持ちかけておきながら、私は彼と何をしたらいいのか全く分からなかった。私は恋愛など小説か映画の中でしか知らない。印刷された恋人、印刷された甘い時間、印刷された生活。私は誰かを愛することに関して、おそろしいほど無知だった。
夜、仕事が終わってから彼の部屋をノックした。彼は出てこない。しばらく待ってからもう一度ノックしたが、反応は同じだった。もう寝てしまったのだろうか。引き返そうとすると、不機嫌そうな顔の彼が廊下に立っていた。「何してんの」と彼は言う。
「一緒に眠りたい」
お前自分が何言ってんのか分かってんの、と驚いた様子で私に問う。
「分かっている。恋人とはそういうものではないのか」
「……入れよ」
やたらとガチャガチャ音をさせ鍵を開けた。表情に視線をやると唇を噛んでいる。
初めて足を踏み入れる彼の部屋は、ひどく生活感がなかった。本棚もデスクも、なにもかもがきちんと整頓されている。まるで誰も住んでいないみたいだ。そう感じたが、私の部屋も似たようなものであることを思いだした。
「どこへ行っていた?」私は彼の背中に尋ねた。
「別にどこでもいいだろ。廊下を散歩してたんだよ。お前には関係ねえ」
オレ今疲れてるから、と言う彼は私の目を見ない。何かを隠しているが、彼がどこへ行こうと私に関係ないことは正しいと思ったので黙った。
ベッドに寝そべる彼の姿を見ながら私はスーツを脱いだ。下着姿になり、彼の隣に横たわる。
「脱げとは言ってねえんだけど」
「シャワーなら浴びてきた」
「人の話を聞けよ。あんま男の部屋で無防備になるんじゃねーよ。次に来たらやるからな」
だからもう来んな、と私に背を向けて、彼はさっさと寝てしまった。
彼の背中に顔を寄せると甘い香りがした。普段香水をつけない彼が、今日に限って良い匂いをさせ、どこへ行っていたのか知りたかった。胸の中に靄が溜まる。華奢だと思っていた彼の背中は想像より大きい。彼の背中にいつも身体を寄せているのは誰なのか、彼が本当に隣にいてほしい女性は誰なのかを考え私は何故か悔しくなった。
次の晩も彼の部屋をノックすると、彼は何も言わず私の腕を掴み部屋に引き入れた。私をドアに押し付け深くくちづけた。その場で彼は私の服を乱し、乱暴に私を愛撫した。既にぐちゃぐちゃになったショーツをずらすと彼は跪いた。彼の舌が陰部を這う。彼は少しも音を立てず極めて上品に陰部を舐めた。太ももにだらしなく垂れ落ちた愛液も丁寧に舐め取る。痺れるような快楽が陰部から脳へ駆け上がった。今私は彼の舌に支配されているのだと感じると膣が痙攣し、また愛液を滴らせた。それを全て舐め取ってから、彼は口を離した。
「エロすぎ」
愛液や唾液で赤く濡れた口元を拭い、彼は立ち上がる。なぜそう思う?私は普通とは違うのだろうか、オーガズムを迎えたばかりの整わない呼吸では、なぜ、としか言葉にならなかった。
「舐められて一分でイく女っていないだろ」
お前楽でいいな、と彼はせせら笑う。私が彼に征服されたことを強く意識させるような笑い方だった。その事実に下腹部が熱くなる。彼は私をいとも簡単に操ったのに、私は私自身をコントロールすることができない。無表情の彼にベッドに組み敷かれると、愛液が尻の方へ伝った。
彼の腕の中で、私は何故か身体と精神を分裂させることができなかった。二つの自己を結合させたまま直に快楽を与えられ、彼のものが入ってきたとき私はアメーバとは別のどろどろした生き物になった。彼の与えてくれる暴力的快楽で私の理性はめちゃくちゃになる。今カラーコンタクトをしていないことなど、心底どうでもいい瑣末なことに思えた。
私はオーガズムを迎える度に腰を引いたが、逃がさないとばかりに彼の腕が絡みつき、一番奥を刺激され続けた。いやらしい水音を楽しんでいる彼とひとつになったまま私はとろけてしまい、意識を手放した。
再び意識が浮上したとき、彼は上半身裸のまま煙草を吸っていた。あの熱さの中にいた身体が急速に冷やされる。無意識のうちに「寒い」と口に出していた。
「そんな格好で寝てるからだよ」
私が目を覚ましたことに気付いた彼は、煙草を指の間に挟んだまま言った。
「きみのせいじゃないか」
「脱がせたのはオレだけど、着なかったのはお前だ」
彼の言葉はいつも正しい。その正しさが私の生き方を糾弾しているような気さえした。
「聞いてもいいか」
「なに」
「先程のことがあまり思い出せないのだが、私はその、変になってはいなかっただろうか」
「変って?」
「意識が曖昧になってしまって……変なことをしたり妙なことを口走ったりしていなかったか」
「ああ、もうイかせて死んじゃうって何回も言っててすげえエロかった」
「そ、それは本当か……?」
「冗談だよ」
彼を睨みつけたが、おかしそうにくつくつ笑うのをやめなかった。その笑いがおさまった頃、シャワー浴びてくる、と彼は灰皿で煙草を揉み消した。
「一緒に入る?」
「そうするのが普通なのか? ……しかしバスルームは明るいではないか、私には少々躊躇いがある。なんというか、恥ずかしい」
「……。冗談だって言ってんだろ、真に受けてんじゃねえよバカ」
ぴしゃりとドアを閉められた。私はバカではない! ドアに向かって怒鳴ると、うるせえ、と声が帰ってきた。
シャワーの音だけになってしまった部屋で衣服を拾い集めていると、なあ、とエコーのかかった声が私を呼んだ。順番間違えた、と彼は言う。今度どっか出かけようぜ。
「どこに?」
さあね、お前が選んでいいよ、お前なにか好きなものないの、
「好きなもの?」
わからなかった。正確に言えば、恋人同士がどこへ出掛けるべきか分からない。きみに任せる、とドアに向かって言った。シャワーの音が止む。
「じゃあオレ観たい映画あるから付き合って」
構わない、と答えた。
私はその夜から彼の部屋で眠るようになったが、彼が身体を求めてくることは稀だった。彼は私を抱くよりも、手のひらで私の髪を梳くことを気に入っている。それをしているとき、彼の表情が和らいでいるからだ。素肌に触れられることもあったが、大抵は私の頭を撫でながら寝てしまう。そして私も、彼の寝顔を眺めながらいつの間にか眠っている。
彼の腕の中にいる時間が好きだ。無感情に見える彼の瞳にやさしさの混じる瞬間が好きだ。彼のことを殆ど何も知らないが、彼もどこかで傷を受けてきたのだろう。傷つかずに生きてきた人間の瞳には矛盾がない。おだやかさと冷たさが同居したりしない。そんな彼のまなざしには既視感があった。ごく近しい人間で、誰か彼と似た目をしている者がいる。大切な人々の顔を順番に思い出す努力をしたが、分からなかった。当然だ、その人間はバスルームの鏡の中に住んでいたのだから。彼のまなざしは、私だった。
※
約束の朝、彼の部屋に行くと、なんということだ、彼は一般人に擬態していた。いつも通りスーツを着ている私はいたたまれない気持ちになり言葉を見失う。黙っている私に、彼は大きな紙袋を手渡した。
「これに着替えて」
彼はバスルームを指差した。頷き、それに従うことにした。
紙袋の中にはワンピースとカーディガン、ストッキング、ウエッジソールの靴があった。一番下にあった小さな箱を開けると、それは透明なリップジェルだった。服を脱ぎ、用意してくれたものに着替える。それから彼の部屋に置きっ放しにしていたスキンクリームを塗り、髪を梳かし、最後にリップジェルを使った。唇が濡れて薄紅に光っている。鏡に映る自分と目を合わせたり逸らしたりしていると、まだかよ、と声がした。
「女の支度ってなんでそんなにかかるの?」
「待ってくれ、もう終わった」
バスルームから出て、彼の前に立った。彼は私を凝視したが、何も言わなかった。そんなにじろじろ見るなら何か言ってくれたっていいじゃないか。いたたまれなくなり、仕方なく私が沈黙を破ることになった。
「似合っているとは思えない」
「……え、なんで?」
「ひどく不恰好だ。服に着られている」
「お前って自分の見た目知らないわけ? ちゃんと似合ってるよ。行くぞ」
彼が車を出し、向かった先は大型の商業施設だった。ブティックやレストランやカフェや書店等々が一緒になっている。その中に映画館があると彼は言った。駐車場で、高級車から出てくるのが一般人だったら余計に不自然なのではないか、と私は考えていたが彼に手を握られたので野暮なことは全て忘れてしまった。エレベータに乗り、一階で降りた。上映開始まで少し時間が空いているらしい。お前さあ、と彼は私の手を引きながら言う。
「下着、ああいうのしかないの? 機能性重視みたいなさ。なんかもっと色っぽいのないの」
「脱いだら同じではないか」
「なんっも分かってねえな。買ってやるからそこで選んでこいよ。オレそのへんでコーヒー飲んでるから」
ちょうど目の前にあるランジェリーショップを彼は指差し、財布の中から札を数枚取り出して私に手渡した。じゃあな、とどこかへ行こうとする彼の手を掴む。
「待ってくれ。きみの好みが分からない。一緒に選んではくれないのか?」
「男の入るとこじゃねえだろ。じゃあ後でな」
彼は手をひらひら振り、私を一人にした。おそるおそるランジェリーショップに足を踏み入れると、店員と思しき女性がすぐ私に声をかけた。その女性はおそろしいほど多弁で私をうんざりさせた。
いらっしゃいませ何かお求めですか今はこれが売れ線なんですよお客様キレイ系だからこれとかこれとかこれとか似会いそうですねていうかさっきの彼氏さんですか男性に人気なのはこれとかこれとかこれなんですけどご試着なさいますか?
頭が痛い。しかし、彼女に胸囲を測ってもらえたおかげで私は適切なサイズを把握することができた。
「少々注文があるのだが」
なんですかぁ、と彼女は間延びした声を出し、首を傾げた。
「その……大きく見えるものがいい」
そう言って、谷間強調、と書かれたポップを指差した。
※
彼はカフェテラスにいた。コーヒーに三杯も砂糖を入れている彼の目の前に座る。いち、にい、さん。無意識に口に出していたらしく「悪いかよ」と彼は私を睨んだ。
「甘党なのだな」
同じものを注文すると、すぐにコーヒーは運ばれてきた。
「お前も三杯入れてんじゃねえか」
「私も甘党なんだ。猫舌でもある。きみもそうか?」
ふん、と鼻を鳴らしてから彼は音を立てずカップに口をつけた。私のせいでぬるくなってしまったコーヒーが喉を滑り落ち、彼の喉仏が上下する。私は視線を落とし、カップに口をつけた。カップが空になった頃、「そろそろ時間」とだけ言ってまた私の手を取った。
彼が劇場で前売り券をチケットに交換している間、私は売店にあった万華鏡を覗き込んでいた。筒を回すと模様が変わる。特に興味があったわけではなく、そこにあったから見ていただけだった。しかし彼は後ろから「欲しいの」と私に声をかけた。いや、と首を振り、万華鏡を手放す。手放したそれを彼も同じように覗き込んだ。すると彼は、「いいな、これ。何色にもなれる」と呟いた。小さな男の子のように夢中になっている。そんな彼のうなじを眺めていると、上映開始のアナウンスが鳴った。彼は万華鏡を置き、私にチケットを手渡した。
劇場内にはほとんど人がいない。彼が見たいと言ったものは、昔の映画のリバイバル上映だった。それは男爵家の凋落を描いた、バックグラウンドにワグナーの流れる美しい映画だった。しばらくは頽廃的かつ官能的な物語に酔いしれていたが、二時間半の退廃美は彼のせいで拷問に変わった。
劇場の暗闇の中で、彼は一度私にキスをした。舌が入ってきて、こんな場所で破廉恥な、などという気持ちは消えてしまう。ひとしきり唇を弄ばれると、彼の視線はスクリーンに戻った。それだけだった。
彼の手が私の胸をまさぐり太ももをなぞりワンピースをたくし上げ、ストッキングを破き下着の中に手を入れて指だけで私を絶頂させてくれたらいいのに。
しばらく太ももをゆっくりこすり合わせていたが、私は席を立ち、化粧室に向かった。個室で下着を下ろし陰部を拭う。膨らんでいた陰核をペーパーが刺激し、息が漏れる。熱い。自分の指を彼の指だと思い込んで火照りを鎮めることにした。私は今壁に押し付けられ、後ろから無遠慮な指に犯されているのだ。嫌だと抵抗しても聞き入れて貰えない。声を出すな、と彼は私の乳首を捻じりながら命令する。私は五分と経たないうちに達した。
乱れた服を正し、念入りに手を洗う。なにもなかったふりをして席に戻ると、彼は小声で私に言った。
「どこ行ってたの」
「化粧室だが」
「化粧室ねぇ……そのカーディガン」
「なんだ?」
「ボタン掛け違えてるよ」
私ははっとしてすぐに直した。さっきまでちゃんとしてたのにな。彼は笑いを含んだ声で囁いた。見抜かれている。顔が熱くなった。
先ほど私にくちづけたのは、発情した私をトイレでオナニーさせるための策略だったのだ。私はこの男がサディストであることをけして忘れてはならない。
劇場を出るとき、彼は私に小さな箱を手渡した。開けてみると中には小さな万華鏡が入っており、それはネックレスになっていた。
※
自室でシャワーを浴びて、いつものようにイヤリングを身に付けようとしたが、やめた。それは彼に対する裏切りのような気がしたからだ。ピアスをケースにしまい、彼の贈ってくれたネックレスを胸につけてから彼の部屋へ行った。
買ったばかりの下着で彼の前に立つと、「いいね」と表情も変えずに言い、私をベッドに組み敷いてブラジャーをあっという間に解いた。
彼の噛み付くような愛撫はまるで食べられてしまうみたいで気持ちが良い。
「あっ……」
耳たぶに、首筋に、乳房に歯を立てられて私は声が抑えられなかった。ショーツを抜き取り、陰部に指を這わせた彼は冷笑した。
「お前、これで濡れるんだな。マゾなんじゃないの」
違う、と言いたくても呼吸が乱れているせいで言葉にならない。彼の指がいきなり二本入ってきて膣壁を擦った。彼が膣内で指を折り曲げると突然、快楽を伴う尿意のようなものが私を襲った。「ひっ!」私は半ば叫んでしまい、その刺激から逃れようと腰を浮かせる。
「ここ?」
彼はその部分を執拗に責める。何が「ここ」なのか分からず、やだやだと子どものようにかぶりを降った。嫌だと言っているのに彼はやめる気配すらない。同じ部分をいじめられ続け、遂に限界を迎えた私の頭は真っ白になる。身体は何度か勝手に痙攣した後、弛緩した。
「すげえな」
彼は指を抜いた。太ももの下が冷たい。もどかしい尿意から解放されたというのはつまり、そういうことなのだろう。あまりの情けなさに自分を呪い、彼を呪う。彼を蹴り飛ばして逃げようとすると、私の足を掴み彼は笑った。
「おい、お前勘違いしてるだろ。安心しろよ、お前が思ってるのとは違う。今まで潮吹いたことないの」
「シオ……?」
「ないんだ」
妙に嬉しそうな彼の指が陰核を摘まみ、またオーガズムが近付く。刺々しくなっていた感情はとろけて消えた。早く入れてほしい、と膣口がひくついている。しかし彼のことだから、挿入のないまま何度でも絶頂させられてしまう予感がした。
そんな拷問を受ける前に私は彼を押し倒してフェラチオをし、完全に勃起するとそれに跨った。はあ、と安堵のため息をつく暇もなく下から突き上げられ、頭がおかしくなってしまう。もはや喘ぎ声を我慢しようとも思えなかった。
いやらしい声が部屋の外に漏れているのではないか、もしかしたらドアの隙間から誰かに見られているのではないか、誰かに淫らな動画を撮られネットにばら撒かれてしまうのではないか、私がオナニー狂いでセックス狂いの淫乱女であることが全世界に知られ、道端でいきなり集団レイプされてしまうのではないか、フェラチオを強要されながら前も後ろも同時に犯されてしまうのではないか、そう思うと快楽が何倍にも膨れ上がった。
「もっと」
「え?」
「もっと……」
彼は返事をする代わりに私の胸を掴んだ。
「んあっ」
上体を起こした彼は、繋がったまま私を寝かせ太ももを持ち上げた。体勢が整うとすぐにピストンが始まった。彼の首の後ろに手を回してくちづけをねだる。
「やべ、出そう」
熱病に冒された私の脳はもはや殆ど機能していないに等しい。だして、だして、私は何度も言った。きみを直接感じたいたくさん出してほしい孕ませてほしい、しかしセックスのとき彼は私の言うことを聞かない。彼は無情にもペニスを抜き取り私の太ももに射精した。私は悲しくなって、太ももにかかった精液を指ですくって舐めた。どろりとした液体を味わうと子宮が疼く。それを飲み込んだとき、膣が痙攣したのが分かった。
※
嵐のような自己嫌悪に苛まれ枕に顔を埋めている。今はシャワーを浴びる気力すらもない。自分がここまで快楽に脆弱だとは思わなかった。あんなに乱れ、恥ずかしげもなく声を出すような人間だったとは。彼は私の苦悩などどこ吹く風で煙草を吸っている。彼の煙草の甘い香りが恨めしい。
ふいに、テーブルの上の携帯が震えた。右腕だけを動かして携帯を取り画面を見る。着信は、連絡するなと言ったはずの男からだった。思わず舌打ちしてしまいそうになるのを堪え、その番号を着信拒否に設定して再びテーブルに放った。
「誰?」
「……この間の」
「ふうん」
ふうん、か。彼はまるで私に興味がない。以前はそれが心地よかった筈なのに、今ではひどく私を自虐的な気持ちにさせる。
「きみは何も言わないな」
「何について?」
「私がしてきたことだ」
「何か言ってほしかったの」
私は黙った。言ってほしかったのだろうか。自分を道具にするのはやめろ、と。彼には私のスケジュール管理やアポイントの受け付けなど秘書まがいのこともさせていたから、私が夜、どこに、何の目的で、どんな人間のところへ行くのか、彼は把握している。彼はもう私が何者なのか知っているし、入れたことはないが、地下に何があるかも知っている。組に入った目的も薄々勘付いているはずだ。彼はため息をついた。
「何も言わないからって何も知らなかったわけじゃないし、何も思わなかったわけじゃないよ」
彼が煙を吸い込むと煙草がばちばちと音を立てる。花火みたいで綺麗だ。
「きみは何を思った?」
「答えたくないんだけどそれに答えろっていうのはボスの命令?」
「いや……いい。なんでもない。それで充分だ」
彼が私に少しは興味があったというだけで。私は身体を起こしてベッドから降りた。
「シャワー浴びるの? 先に寝てていい?」
「歯は磨け。きみは喫煙した」
「母親かよ……」
バスルームのドアノブに手をかけたが、私はだるそうにしている彼の方に向き直った。今日は楽しかった。そう彼に伝えると彼は眉根を寄せ、私の正気を疑った。私は指で胸元のネックレスに触れる。
「きみからの贈り物は大切にする。ありがとう」
彼はますます不機嫌そうな表情になった。彼の態度に思わず笑みが零れてしまう。彼は意外と照れ屋なのかもしれない。頭から湯を浴びながら私は考えた。
※
仕事の合間を縫って、私たちは並んで外出する。あるときは美術館、あるときは図書館だった。行き先を決めるのは彼だけれど、私の好みに合わせていることは明白だった。彼は楽しいのだろうか。私は彼に接待されたいわけではないのだ。たとえ演技であっても恋人として接してほしい。なにもしなかった夜に抱き合って眠る直前、きみの行きたい場所はないのか、と私は彼に尋ねた。きみ自身が行きたいと思う場所だ、と念を押す。すると彼は「朝の海」と言った。
「海? きみは海が好きなのか」
「そうかもな。今って何時」
「二時を回ったところだ」
「そう。できれば今から出掛けたい。最近行ってなかったから。お前が疲れてなければだけど」
「構わない。連れて行ってくれ」
そう言うと、彼は少し嬉しそうにした。
車を出した彼は、助手席に座った私に言った。
「後ろで寝ててもいいぜ。時間かかるから」
「大丈夫だ」
私は逆行する景色を眺めているふりをして、窓ガラスに映る彼の横顔を見つめていた。運転をしているときの真面目な表情が好きだと思った。
三時間ほど経ち、私がうとうとしていると彼は「着いたよ」と言った。瞼を持ち上げ、窓の外を見ると虹色にきらめく海が広がっていた。夜明けだ。
車を降り、潮風を浴びた。誰もいない。静かだ。囁くような波の音と、海鳥の鳴き声だけだ。夏の匂いのする海風が彼の黒髪を揺らし、朝の光は毛先を赤く透き通らせていた。
「よく来るのか」
「ああ。朝焼け見て、煙草吸って、帰るだけなんだけどな」
砂浜を歩きながら、彼は珍しく饒舌になっていた。彼の声と、穏やかな波の音が混ざり合う。
オレの生まれ故郷からは海が見えない。
だから、海を見てると生まれ変わった気分になる、弱かった頃のオレとはもう違うんだって、
オレはさ、お前みたいにご立派な理由があるわけじゃなくて、殴られたり蹴られたりするのが嫌だったから強くなろうって決めたんだよ、ここにくるともう昔のオレじゃないんだって思って少しは前向きな気持ちになれる、昔のオレとは全然違うものを見てるんだからな、
昔のオレなんて全然好きじゃない、別の自分になるって結構いいもんだぜ。
言い終えると、彼は煙草を取り出して火をつけた。煙を吐き出す彼に私は言う。
「なぜ私を連れてきた? この場所で、ひとりになりたかったのではないのか」
「ふたりになりたいときだってあるよ」
肩に触れられ顔が近付いたのでくちづけられるのかと思い目を閉じたが、何もなかった。目を開けると彼はどこか遠くの方を見ていた。彼が見ているのは赤に染まり始めた海の果てだ。
「……帰るか」
「嫌だ」
「なんで?」
「わからない、帰りたくない」
「そう。……お前には一日くらい何もしない日があったっていいよ」
近くのホテルに部屋をとった。
「窓を開けてくれ。波の音が聞きたい」
ホテルの窓から潮風が入り込む。その日はセックスをする必要がなかった。
※
その日を境に彼のセックスは変わった。私を責め立てたり、無闇に焦らしたりすることをやめた。ゆっくり時間をかけて愛撫をし、丁寧に私を抱く。彼はやさしかった。とても満ち足りている、それなのに、私の心には悲しみが募った。彼は、なぜこんなにも私を絶頂に導くのが上手いのか。
きみは今まで何人と寝た? 何回セックスをした? どんなふうに女を抱いてきた? 初めて誰かと寝たのはいつだ?
私は処女に戻りたい、雇い主が奪っていった私の処女を取り返してくるからきみも童貞に戻ってくれ、それからまた私を抱いて私の初めての人になってほしい、そう喚きたいのをじっと堪えている。
彼のことを考えているとき私の心は穏やかさを失い、後悔と強い嫉妬が私を地獄に追いやる。もう気付いているのに、けして愛しているなどとは言ってはいけない。これは遊びなのだ。
セックスの終わった後だけが幸せな時間だった。抱き合ってまどろみに身を委ねている時間だけ。気だるそうな彼を胸に抱いて髪を撫でて、つむじにキスをする。私のされるがままになっている彼はかわいい。ゆっくり上下する胸に頬を寄せている彼の寝顔を眺めていると愛おしさがこみ上げる。苦しみも悲しみも涙もなく、ただ穏やかさだけがぼんやり漂うここは海の底だ。
※
それは唐突だった。
彼に「どうかした」と聞かれるまで自分ですら気付かなかった。私の身体から性感が消え失せている、ということに。
彼は私の首すじにキスをしながら乳房に触れていた。……何も感じない。私は私のままでここにいるのに、彼に触れられているのに、私の身体は少しも反応を示さない、少しも濡れない。
私は呆然とした。そんなはずがないのだ。渇いているなんてありえない。私は少しでも多くを感じるために自慰をやめ、失禁に似たあれが出来るよう水分を多く摂取するようにした。それなのに彼に触れられても何も感じないなんてことがあってはならないのだ。
「……疲れているのかもしれない」
「そう。今日はいいや、来いよ」
彼は私を強く抱き締めてくれたが不安は消えなかった。一過性のものだと思いたかった。しかし私の不感症は次の日もその次の日も続いた。
自慰を試みても彼のまなざしが浮かんでくるせいで悲しくなり集中できない。彼も何度か私を抱こうとしたが、ただ戸惑っている私に興醒めして途中でやめてしまう。
私がこんなふうだから彼が私を求める回数は徐々に減少し、そして完全に無くなった。肌にも触れてくれない。
せめて彼の背中に身を寄せようとしたが拒絶された。なぜ、と聞いても、女のお前にはわからないと言って彼はまた私に背を向ける。ベッドから抜け出してソファで眠ったのに、朝になるとベッドに戻されており、まだ眠っている彼に抱きしめられている。私には彼の考えていることが何一つわからなくなった。
何も感じなくていいから求められたかった。もう私を人間として見なくていい、性処理人形として扱ってくれて構わない。やりたいなどという下品な言葉で私を求めてほしい。そうしないと私がここにいる理由がなくなって私の価値が消えてしまう。それをしない彼の優しさは残酷だ。
セックスが完全に無くなってから数日後の晩、彼は私の腕を強く引いて抱き締めた。その強引さや唐突さに、いまなら濡れるかもしれない、彼に身体を差し出せるかもしれない、そう感じた。彼は私を見つめ、言った。
「お前、綺麗だな。なんでこんなことしてんの」
思いもよらない言葉に私の思考は混乱する。なぜそんなことを言う。
「……きみの言いたいことがよく分からない」
「もうごっこ遊びはやめにしようぜ。お前綺麗なんだからさ、相手なんて山ほどいるだろ、誰か好きなやつ見つけてそいつに幸せにしてもらえよ、なんでこんなことしてんだよ」
私を抱いていた腕がほどける。彼は手のひらで私の髪を撫でた。
「お前ほどの女は何処にもいないよ。お前を守りたくならない男なんかいないよ。だからもう終わりだ」
「つまりそれは、出て行け……ということか?」
そうだよ、と彼は頷いた。シャツの下の肌がざわつく。彼はもう私に飽きてしまった。正しい愛し方を知らず、身体も開けない。こんな女はいらない。
「そうだな、潮時だ」
……私は何を言っているんだろう?
「私にも分からないんだ、何故こんなことを始めたのか」
口が勝手に言葉を発している。やめろと叫びたかったができなかった。私は一体何が分からないというんだ?
「付き合わせてすまなかったな。きみとの時間は楽しかった。私にも満ち足りた日々があったことを、きみのおかげで思い出したよ」
何故私は笑顔を作ったりする、何故きみは私を見ない、何故私はいつも全てを伝えられないんだ、ちゃんと分かっているよ、分かっているのに何故言えないんだ、私はきみのそばにいたい、ただそれだけじゃないか、
頼むから私は彼に背を向けたりしないでくれ。ドアノブに手をかけるな。出て行こうとするな。彼が引き止めるのを期待したりするな。お願いだから本当のことを言わせてくれ……
かちゃん。
ドアは閉まった。世界にたった一人になってしまったあの日から、私は一度だって泣いたことがない。それなのに瞼の奥が焼け付くほど熱くて目を閉じた。
いつもそうだ。私は失うことのおそろしさを少しも学ぼうとせず、ただひたすらに誰かを求めている。
伽藍堂になってしまった私の心を埋めてくれる誰かを、大切な人とずっと一緒にいたいという願いを叶えてくれる誰かを、何処にもいない誰かを愛し、そして愛されることを求め続けては自分に失望して泣くことすら出来ずうずくまる。
冷たい廊下の静けさの中で、世界が終わっていくのを感じ取った。
かつて私の隣にいた少年の名前を呼んだ。私はどうしたらいい?
※
朝目覚めて、私は起き上がることができなかった。回転する天井を眺め、自分が貧血状態にあることを理解した。
引出しに手を伸ばし、鉄剤とアスピリンを奥歯で噛み砕く。それから天井の回転が治まるまで私はじっと目を閉じて、未練がましく身につけている胸元のネックレスを触っていた。
近頃頻繁に目眩の発作に襲われる。そういうときネックレスに触れると症状が和らぐ。ネックレスに触れながら彼の匂いを思い出そうとする行為はたまらなく虚しい。私が彼をこんなにも恋しく思っていることを彼は知らない、知ってほしくもない。
何分か経って、ゆっくり瞼を開ける。もう回転は治まっていた。立ち上がり、開けっ放しの引き出しから三十センチ四方の大きなピルケースを取り出した。細かく区切られている一つ一つに入っているサプリメントをミネラルウォーターで一種類ずつ飲み下した。
サプリメントを口に運び水を飲みサプリメントを口に運び水を飲みサプリメントを口に運び水を飲みサプリメントを口に運び水を飲んだ。
一人の自室で生活するようになってから、私は急速に食事が好きではなくなった。食事という形で素直に自らの命を肯定できる人間は、普段何を考えて生きているのか甚だ疑問に思う。サプリメントを飲む作業を終えて私はシャワーを浴び、新しいスーツに着替えて部屋を出た。全て作業だ。食事をする作業。シャワーを浴びる作業。服を着替える作業。呼吸をする作業。
生きる作業。
デスクに向かっていると、彼に声をかけられた。
「お前最近具合悪いんじゃないの。真っ青だけど」
「だから?」
「だからじゃねえ。ちゃんと食ってんのかよ」
「私に構うな。仕事に支障はないのだから私にとやかく口出しするのはやめてくれ」
「お前がぶっ倒れてもオレは助けないからな」
「必要ない」
「あっそ。ボスはきちんと体調管理が出来てて偉いな」
彼は行ってしまった。
短い会話で中断していた仕事を再開しようとすると、ポケットの中で携帯が震えた。相手は非通知だ。大体想像はつくが念のため通話ボタンを押し、誰だ、と私は言う。電話の向こうにいるのはやはり、例の「アポイント」の男だった。
「……連絡するなと言ったはずだが」
この間のことは済まなかった、きみとは良い友人でいたいから仲直りをしよう、
「用がないのなら切る」
待って切らないで、きみが欲しがっているものを手に入れたんだ、だから会いにきてくれないか? 緋の眼だよ、
カラーコンタクトの下の瞳が、かっと熱くなるのが分かった。
私は鎖を取り出し、ハンズフリーに切り替えて携帯をテーブルに置いた。
「すまない、声が遠い。もう一度言ってくれないか」
緋の眼を手に入れた、と男は繰り返した。鎖は揺れない。やはり本人が近くにいないとこの鎖は役に立たない。しかし男の口ぶりから、私を誘き寄せるために嘘をついているわけではなさそうだ。本当に緋の眼を持っている可能性がある。
シャワーを浴びる必要性の有無について考え、結局私はバスルームに向かった。念入りに身体を洗うのは抱かれたいからじゃない。武装だ。好きでもない男に組み敷かれたって、私はこうなることを知っていたのだと、慣れているから何とも思わないのだと、シャンプーの香りで意思表示する。私は強い。何をされたって耐えられる。
身体を拭き、鏡を見た。瞳に映る恥をカラーコンタクトで覆い隠す。二三度瞬きをすると、もう瞳には何も映らなくなった。
出かけようとしたとき、彼の姿を見た。彼は灰皿の上で煙草をもみ消そうとしている。なかなか消えず苛立っている様子だった。彼が私の視線に気付くと同時に目を逸らし、彼の横を通り過ぎた。
「おい、どこ行くんだ」
私はそれを無視する。歯を食いしばり、早足で事務所を出てタクシーを拾った。どちらまで? とドライバーの男が私に尋ねた。バックミラーごしに私を見ている。
「……海に行きたい」
海ですか? どちらの?
「え? いや……すまない。少し、待ってくれないか」
私はどうかしている。ネクタイを解き、ボタンを三つ外して、深呼吸する。頭の中で、かちりと音がした。ドライバーに微笑んで見せた。ドライバーは咳払いをして視線を外す。
雇い主は私の処女を奪ったが、私に女の使い方を教えてくれた。
……お前は最高級の女だ。その顔と白く滑らかな肌に勝てる女はいない。まさか初物だとは思わなかったが、オレがこれから全て教えてやる。処女がニンフォマニアになる様をよく見ておけ。お前自身のことだ。
雇い主はそう言い、また私を引き裂いた。引き裂かれてから私は二人になった。ニンフォマニアの方の私がドライバーを誘惑しようとしている。
「……不感症のくせに」
そう言ってやると「彼女」は黙り込んだ。え、なんです? 怪訝な面持ちのドライバーに、私はホテルの住所を正確に伝えた。到着してからは「彼女」の仕事だ。この車は海には行ってくれない。絶望的な気持ちになり私は目を閉じた。
今日のきみは機嫌がいいね、と男は言った。ソファに並んで座り、男の用意したラ・ターシュを口に含んだふりをした。膝を男の方へ向け、美味しいな、と「彼女」は笑う。男は私の膝を撫でた。シネ。しかし「彼女」は笑顔を崩さず、男にしなだれかかる。男は私のシャツの中を覗き見て、ワイングラスを置き、シャツの上から胸を揉んだ。おぞましい感覚だ。器用な「彼女」は男が喜ぶよう、あ、と喘いでみせた。シャツの下に滑り込もうとした手を私はそっと静止させ、例の品を早く見せてほしい、と耳元で囁く。男はだらしのない表情で、どうしようかなぁなどと言った。「彼女」は悩ましげに眉根を寄せ、あれを欲しがるヴィデオ女優よろしく「お願い」と囁いた。茶番もいいところだ。吐き気がするので早く終わらせたい。
これだよ、と緋の眼を私の目の前に置いた。自分の瞳にオーラを集めた。しかし、何も見えない。立ち上る悲しみが見えない。私が今まで見てきた緋の眼には全てそれがあった。「彼女」は眠りにつき、私の主導権を私が握った。男の腕を払いのける。
「……これは贋作だ。よく出来ているが、本物じゃない」
私が言うと男は目に見えて狼狽した。そんなはずはない、なぜそんなことがわかるんだ、これに五十億払った、
「担がれたのだろう。ご愁傷様だったな」
たったの五十億で好きにされる予定だった自分自身について考えたが、あまりにも馬鹿らしくてため息が出そうだった。帰らせてもらう、と私が言うと男は逆上し、私をベッドに組み敷こうとしたが私は男の顔面を思い切り殴ってその場を後にする……はずだった。
突然視界がぐるぐると回って、私は少しも抵抗できなかった。貧血だ。情けない、どうしてこんなときに。もう面倒だ。このまま名前もよく覚えていない男に抱かれてもいい。どうせすぐ何も感じなくなるのだから。なにも持ち帰ることができないのに、なにが五十億。今夜の私は無料だ。
私の身体に薄い膜が張られる。心と身体が、私と「彼女」が分離していく。私はもう人間じゃない。ただのアメーバだ。
私は弄ばれるためだけの身体をぼうっと眺めた。荒い呼吸をする男は「彼女」の胸元をはだけさせている。
これ、きれいだね、
何だ? 似合ってるよ、そう言って男が触れているのは、胸元のネックレスだった。視界の隅が赤くなる。
「……触るな」
漏れ出した赤みは、やがて全てを覆った。これは怒りだ。男の腕を、折れ曲がるほど強く掴む。
……穢された、と感じた。身体じゃない。心をだ。この男は汚い手で軽々しく触り、きれいだ、などとのたまう。あの汚らしいもので私を貫いたときよりもずっと、私の深い部分をこの男は穢した。私は叫んだ。
貴様はどこまで私を愚弄すれば気が済むんだ貴様は手に入らないものが欲しいだけだ誰でもいいんだそこに愛なんてない幸せなんてない私は誰かの慰み者になるために生まれてきたわけではない私は一生誰のものにもならないなれない消え
…………。
血の匂いがした。視界はもう正常に戻っている。ぼんやり視線だけを動かすと、先程まで私に跨っていた男が床に倒れていた。そしてベッドにいたはずの私は壁際に座り込んでいる。右手に生温い感触を覚え視線をやると、べったりと血が付着しているのが分かった。
私は目眩の発作が起きないよう慎重に立ち上がり、男に近づいて首元に触れた。大丈夫だ、死んでいるわけではない。壁に寄りかからせた。洗面所の蛇口を捻る。汚れた手を念入りに洗い、頭から水をかぶった。カラーコンタクトを外して捨て、救急車を呼ぶようフロントに内線をかけてから私は部屋を後にした。
吐いてしまいそうだった。血の匂いにも、知らない男の肌にも、自分の諦めや暴力性にも、胸を締め付ける寄る辺なさにも。
停まっていたタクシーに乗ろうとすると、見慣れたリモが滑り込んでくるのが見え、さっと血の気が引く。その場から動けず、黒く艶めく車をただ眺めていると、彼が降りてきて私の腕を掴んだ。
「お前なあ、俺にストーカーみたいなことさせてんじゃねえよ」
「……何故分かった?」
「髪の匂いだよ」
苛々と彼は言う。やはりシャワーなど浴びなければ良かった。
「ていうか、なに? もう終わったの? ずいぶん早いんだな、あいつ」
彼の嘲るような笑みに恐怖を覚え、腕を振り払った。何もしていない、と言う私の声は震えていた。
「何もしていない……本当だ、私は、私は違う、違うんだ」
鼓動がどんどん速くなり呼吸が上手く出来ない。
「……おい、どうした」
「何もしていない、私はきみを裏切るようなことはしていない、嘘じゃない、私は嘘つきじゃない、本当だ、何もしていないよ、私は、私は」
「分かったから落ち着け」
感情がミキサーにかけられて言葉をうまく選び取れない。また視界が赤くなる。喉の奥がひゅう、と鳴る。私は過換気を起こしていた。
私は弁解なんてしなくていい、もうそんな筋合いは無いのだし私はどうしようもない嘘つきだ、手当たり次第男とヤりまくって何度もイかされたとでも言えば彼は私を殴ってくれるだろうか、罰されたい、罰されるべきだ、たった一人死に損なった身で安らぎを求めた私を罰してほしい。
彼は私を殴らず、倒れそうになった私を抱きとめた。
「ごめん、オレが悪かった」
大丈夫だから、すぐに治まるよ、大丈夫、何度もそう言って私の背中をさすった。
呼吸は徐々に元に戻った。正常な呼吸を取り戻した私は疲れ果てていた。全身の力が抜け、立ち上がることすら不可能になった私を抱き上げ、リモの後部座席に座らせた。
シートに背中を預け、慎重に呼吸をした。注意深く吸い、そして吐き出すことを繰り返した。彼は私の目元に触れ、眼球を覗き込む。
「やっぱ貧血だな。毛細血管が真っ白だ」
「……分かるのか」
「医者じゃなくてもそのくらいの知識はあるよ」
鉄欠乏貧血じゃないの? 最近全然食ってないだろ、だから顔色も最悪になるしふらつくし過呼吸も起きるんだよ、と早口でまくし立て、咎めるような目で私を見下ろした。しかし瞬きの後すぐ彼のまなざしは柔らかくなり、食欲あるか、と尋ねる声はやさしかった。少し、と答えると彼は冷蔵庫からゼリーとプリン、野菜ジュースを取り出し私に手渡した。
「取り敢えずだけど、食べて」
「すまない」
久しぶりに使われた味覚が自らの機能を理解するまで時間がかかった。久しぶりの食事だ。そう呟くと「こんなん食事じゃねえ」と言って彼は私の隣に座る。
「朝になったらなんか作ってやるから、これからはまともに食えよ」
「きみは料理が出来るのか」
「悪い?」
「意外だっただけだよ。とてもそうは見えない」
「あっそ。お前も意外と元気そうで安心した」
ふふ、と笑いが漏れた。強烈な安堵と眠気に襲われる。眠ってもいいか彼に尋ねると彼は頷き、席を立った。彼に支えられて横になった私は目を閉じた。おやすみ、と声が聞こえた気がした。夢は見なかった。
ふと目が覚めた。私はシートではなく、きちんとしたベッドに寝かされていた。ここは彼の部屋だ。時計を確認すると一時を回っている。何十時間も眠り続けていたような気がしたが、どうやら二時間ほどだったらしい。
彼のことは探すまでもなかった。彼は私の手を握ったまま眠っている。寝返りを打って彼の方に身体を向けると、彼は目を覚ました。
「……起きたの」
「ああ」
「まだ寝てろよ……具合悪いんだろ」
「もうなんともない。目眩もなくなった」
「ふうん」
彼は手を繋ぎ直し、右手の指先で私の前髪や、頬や、耳や、首筋に触れた。首筋に触れられたとき私の肩がびくりと震えたので、彼は少し驚いたが、すぐ眠たそうな瞳に戻った。指先が、ネックレスの鎖をいじる。
「つけてたんだな」
「きみが外せと言うなら外す」
「言わないよ」
「……」
なぜ? 私は外せと言ってほしかった。この感情が二度と生き返ったりしないよう、滅茶苦茶に壊して止めを刺してほしかった。言ってくれないのなら、繋いだ手をこのままずっと離さないでいてほしいと願っている。彼のたった一言にかき乱される心は病気だ。
私は彼と繋がっている手のひらを解いた。
「そろそろ部屋に戻るよ。邪魔したな」
起き上がろうとすると、彼に腕を掴まれ当惑した。彼は私の目を真っ直ぐ見ていた。まなざしが私を射抜く。
「戻らなくていい。ここにいろ」
彼の言葉には、なぜ、と思わされてばかりだ。もう遊びの時間は終わった筈だ。しかし、ここにいていいと言う彼の言葉が嬉しくて動くことが出来ない。
「ここにいてくれ」
そう言い直した彼に抱き寄せられた。何故、何故。きみは一度私を捨てたじゃないか。きみのそばにいたいと願った私を放り投げて捨てた。からっぽの夜に置き去りにしたくせに、何故今になってやさしくする。彼は私の頭を撫でながら囁いた。
「ずっとお前に言いたかったんだけど、言えなかったことがある」
顔を彼の胸元に押し付けている私の目は見開かれ、心臓が大きく鳴った。鼓動はいたずらに早くなる。次に紡がれるであろう言葉を想った。途方もない罪悪感と、それに伴う多幸感。瞳が次第に赤らんでくるのが分かり、ぎゅっと目を閉じた。
そして彼は言った。
「オレさお前みたいに、横になるとあばら出る女って、好きじゃないんだよな。寧ろ嫌い」
「……なん、」
だ……それは……。
好きだとか愛してるだとかそういう類の言葉を期待した私が馬鹿みたいだ。まるで道化じゃないか。勝手に期待して勝手に裏切られた気になっている。
「別に、指摘されるほどではない」
「骨が当たると痛いんだよ」
私の髪をすく彼の指はいつもやさしい。
「痩せてるせいか知らないけど全然胸ないし、成長する気配もないし」
「余計なお世話だ。それに全く無いわけではない。下着を購入する際にCだと言われた」
「もっとましな嘘つけば? あとエロ女のくせに処女っぽいのが治らなくて意味不明」
「エ、エロ……失敬な!」
「事実だろ。全然素直じゃない性格も面倒だし、何かと危なっかしくて手がかかるし、そういうとこ嫌い。今も骨が当たって超痛いし嫌い」
「なら離してくれ」
「やだね。お前のことは嫌いだけどそれは無理」
「なんなんだきみは」
呆れたふりをしながら、彼の胸に顔を押し付け、緩んだ表情を見られないようにした。
言葉よりずっと信じられるのは、眠っている間ずっと手を繋いでいてくれた彼のことだ。彼のやさしさは私に嘘をつかない。彼が正直でいてくれるから、私も正直でいられる。本当は「彼女」なんていない。すべて私だ。私は繊細で力強い手のひらにもう一度触れられる日をずっと夢見ていた。
「一番嫌いなのは」と彼はまた口を開いた。
「夜な夜な出かけて帰ってきたときの、泣くの我慢してるみたいな顔だよ。だから俺のそばに置いとけばそんな顔見なくて済むようになるかと思ってたんだよ。でもお前と一緒にいたら今度は自分が嫌になった」
「何故?」
「俺はすぐわがままになって全部欲しがるから」
一度言葉を切り、ため息をついた。
「綺麗な女と付き合うってどういうことか分かる? 嫉妬との戦いだよ。オレ結構ドライな方だと思ってたのに、お前が視線を送った男全員に嫉妬してる。
だからいつかお前が他の男のところに行って、オレの気が狂う前に先手を打ちたくなった。ガキみたいだと思うか?でも綺麗な女は普通の男をマジにさせるけど、ガキにもさせるんだよ。オレが物凄い美男子だったらそんな真似しなかったかもしれないけどな。
それなのにお前はオレがわざと冷たくしても全然いなくならないし、寝てるときは後ろから抱き付いてくるし、別れてからは急に不健康になるし、安物のアクセサリーなんかをいつまでも大事にしてるし、なんでだよ、なんでオレなんだよ、最初に遊びだっつってんのになんでそんないじらしいんだよ。オレのためにそんなに自分を削り取らなくたってお前にはちゃんと価値があるってどうして分からないんだ? 捨てられた猫みたいな目しやがって、オレを勘違いさせんな。マジでお前嫌い」
腕の力が少し緩んだ。私と視線を合わせた彼は「は? なんで笑ってんの?」と眉根を寄せた。
「きみにそこまで嫌われていたとは思わなかった」
「お前をそこまで嫌ってたけど?」
自由になった手のひらで彼の前髪を撫でた。飾り気のない清潔な黒髪は私の指先をするりと抜けていく。
「道理できみは、ただの一度も愛していると言ってくれなかったわけだ」
黒髪を弄びながら私は言う。お前もだろ、と彼は口を尖らせた。
「そうだな……きみと私はよく似ているよ。お互い不器用だな」
私はそんな不器用な彼のことを求めてやまない。不器用で、ぶっきらぼうで、無口なのに口が悪くて、憂鬱そうな瞳が艶っぽくて、時に鯔背で、一番近い場所で私を支え、私の感情に寄り添う。
ほんの少し彼を見つめ、微笑んだまま目を閉じると、くちづけられるまでに一秒もかからなかった。
彼の唇はいつも甘い蜜の味がする。彼の好きな甘い煙草の味だ。甘ったるい丁子の花蕾の匂い、その花の香りを口移ししてもらえる愛おしい時間。くちづけの合間に彼は「抱いていいか」と私に尋ねた。きみは許可なんて取らなくていい。腕を彼の首の後ろに絡ませた。
私は今から彼とセックスをする。肌を触れ合わせ、慈しみ合うような愛撫の後、明日の朝さえ必要なくなる一瞬が訪れる。
彼の指先が私の不安を少しずつほどき、身体を火照らせた。耳元で彼の名を囁く。すると彼は、はじめて名前呼んだな、と照れ臭そうに笑った。
「きみは、私が急にいなくなったら悲しんでくれるか」
「やっぱ急にいなくなる予定があるわけ?」
「そういう意味じゃない。ただの例え話だ」
「……どっかでちゃんと生きてるならいいよ。いつでも連絡していいんだよな」
「勿論だ。きみはまた私を海へ連れて行ってくれるだろうか。私はあの場所が好きになってしまった」
彼のまなざしは僅かに下を向いた。しかしそれも一瞬のことで、また見つめ返される。ぎこちなく微笑む彼のまなざしは今までで一番穏やかだった。
「ああ。オレも好きだよ。好きで好きでどうしようもない。もう分からないくらいずっと前から」
彼の頬に両手を添えて、甘やかな唇にくちづけた。彼と呼吸が重なる。私は今ここに生きて、彼のことを愛している。
これからずっと、海が静かだったらいい。朝焼けが綺麗だったらいい。彼が笑顔だったらいい。私が彼の隣にいられたらいい。いつか彼の胸で涙を流すことができたらいい。この世に産み落とされた不安と限りない幸せの中で、激しく激しく泣いたあの日のように。
遠くで波の音がしている。透き通った波が私の過去を包み込み、私の全てを許していった。私はきっと何色にもなれる。
彼が私の名前を呼んだ。彼の声は海だ。終わらない海の青。私はその向こう側にある永遠を見つめている。