戌からの連絡を受けて会議室を訪れると、当の戌とルーキーが頭を突き合わせてなにかを覗き込んでいた。遠目には恋人同士に見えなくもないが、そんな仲ではないことは承知しているので、遠慮なく声をかける。
「子の枠に推薦があるそうだな」
二人が同時に振り向いた。そこにできた隙間から見えるタブレット端末のディスプレイに、顔写真とプロフィールのようなものが表示されている。この距離では文字の判読は難しいが、写真なら一見した単純な印象くらいは述べられる。
「女性なのか?」
そう訊くと、
「あんたには女に見えるのか」
ルーキーは意外そうな顔をした。オレからすれば、男に見えるという方が意外だ。質問に質問で返された形になるが、元の質問そのものに重要性はない。戌から差し出された端末を受け取り、
「どちらでも構わんさ。要は、君が紹介するという人物が有能であるかどうかだ」
話を先に進めることにした。手近な椅子に腰を下ろし、ディスプレイに目を走らせる。ざっとプロフィールを斜め読みしたが、性別については触れられていなかった。昨今はどこもそうだ。求められる知識や技能を発揮できさえすれば、男女の別は問われない。もちろん、地域差や伝統的な理由など、例外はあるが。
念能力についての記載もない。当然だ。把握されているものだけとはいえ、それが記載されているということは、ハンター協会員でありながら、ハンター協会を敵に回していることを意味する。十ヶ条がなければ、ライセンス剥奪レベルの重犯罪者というわけだ。対象者の能力を周知させる準備がなくては、有事の際に対応できない。
ハンターにとって念能力の詳細は、本来、重大かつ機密度の高い個人情報にあたるものだ。協会へ申請する義務もなければ、秘匿を強制する規定もないが、多くのハンターは問われれば、能力の一部くらいは気軽に開示する。ルーキーが推している彼の持つ能力が、果たして使えるものなのかどうか。
第二百八十七期合格者。賞金首ハンター。
失われた少数民族の唯一の生存者。緋の眼。
幻影旅団との確執。新興マフィア現No.2。
目に飛び込んできた情報を記憶しながら、もし彼が有益な人材であるならば、後で辰や午に掛け合ってみようと思った。我々は、確実に彼を釣れる好餌を持っている。暗黒大陸渡航にあたり、互いに連携し合って輸送船の乗客、乗員の背後関係を調査しているところに突如として現れた、世界七大美色のひとつ。仮に彼の能力が利用に値するものであったとして。同行に難色を示されても、その所有者が乗船することを仄めかせば、彼は必ずなびく。
ディスプレイの中から、大きな黒い瞳がこちらを見つめていた。生真面目で融通の利かなそうな面差し。大人びた少女にしか見えないのは、オレの目が節穴だからなのだろうか。亡国の姫君が、紆余曲折を経て裏社会に流れ着き、根を張った。そんな背景が頭に浮かぶ。
「彼の話を総合すると、情報班が適切ね」
戌の声が降ってきて、顔を上げた。やはり男なのか、と自分を納得させかけたとき、分散していた意識が収斂した。なんのことはない。戌の言う「彼の話」は、手許の顔写真の人物にまつわる事柄ではなく、ルーキーの語るところをまとめると、という意味だった。
「もう少し詳しい話を聞かないことには、なんとも言えんな。スカウトへは、君が?」
彼の獲得が決定すれば、近日中に誰かが出向かなくてはならない。
「無理よ。ビヨンドの聴取が進んでいないの」
「じゃあ、オレが…」
恐る恐るといった様子でルーキーがオレたちの会話に言葉を挟んだ瞬間、
「あなたはまだ座学が終わってない!」
牙を剥き出しにする勢いで戌が吠えた。
「しばらく医学書から解放されると思ったのに、大して変わりゃしねぇ。勉強しすぎて頭がおかしくなっちまう」
ぼやく声に泣きが入っている。心の中でルーキーに同情を送った。医大での学業を中断して十二支んに加入したルーキーは、戌の手ほどきでハンター協会の規約や歴史を頭に詰め込まれている最中である。戌は盛大な溜息をついて、こちらに向き直った。
「なんのためにあなたを呼んだと思ってるのよ。プロフィール見たでしょう? 相手はマフィアで、適性が情報班だって言ってるじゃない」
それで呼ばれたのか。オレの本業、ハンターとしての属性、今回の渡航における所属班。新加入者の人事が戌の独断によるものではないと、他のメンバーに対して明示するための片棒を担ぐ役割を振られたのだとばかり思っていた。
「だから、オレならあいつを…」
戌の厳しい牽制にも挫けず、果敢にエスコート役に就こうとするところを見ると、相当にご執心のようだ。では、君に行ってもらおう、などと言おうものなら、それこそイノシシのごとく、ここから駆け出して行きそうだった。
「しつこいっ!」
ケルベロスをも黙らせそうな形相で再びルーキーを怒鳴りつけた戌は、苛立ちを抑えきれないらしく、喉の奥で唸り声を上げる。
「あいつ、何回電話しても全然出てくんないんだぜぇ?」
ルーキーはルーキーで、壁に額を押しつけ、指先でぐるぐると小さな円を描いている。音信不通の恋人に想い焦がれていじけているかのようだ。実際に、その可能性もある。自分の身に置き換えれば、同性と関係を持つことは考えられないが、恋愛の形は様々だ。会長選挙での演説を聴いて、節操のない女好きだと思ったものだが、その節操のなさは女性限定ではないのかもしれない。
それにしても、だ。戌とルーキの意識がこちらに向いていないので、手持ち無沙汰にディスプレイ上の顔写真に二本の指を置き、ピンチアウトしてみる。本当に「彼」なのか、この人物は。
拡大してつぶさに見れば誤解も改まろうかと思ったのだが、見れば見るほど得心しにくくなる。好みはあれど、見た者すべてが「整っている」と判じるに違いない顔立ちには、いささかも骨太な部分がなかった。ただ、硬質な繊細さだけがある。限界まで拡大しても、白い肌のきめ細やかさに変化はなく、さりとて化粧が施されている感じもない。それらしく見せる化粧の方法があるとは聞いているが、目許や唇にはその部位に手を加えて自然に際立たせたような艶も陰影も見当たらなかった。
戌からの仄聞によると、ルーキーは試験中、ほとんどの時間を彼と共に行動していたという。そのルーキーが、あんたには女に見えるのか、と訊き返してくるのだから、オレの認識が間違っていたのだろう。確かに、多くの女性が持つ、庇護欲を誘う柔らかさも、挑発するような野性的な色香もない。揺るがぬ光を湛えた瞳に、色気に似た知性と気高さを感じるくらいか。
「ずいぶん熱心に見てるのね。そういう趣味なの?」
不意に戌の声が降ってきた。疾しいことなどなにもないのに、なぜか隠し事が露見した瞬間と同じ寒気に襲われる。
「いや、そういうわけでは」
そう答えたのが、言い訳がましくない口調として戌の耳に届いていたかどうか。戌の携帯電話が鳴って、話が途切れてしまった。単純に容貌の好みを問われたのかと思ったのだが、もしかすると、男も性的興味の対象範囲に入るのか、という意味だったのだろうか。だとすれば、今すぐ強く否定しなくてはならない。
間に合わなかった。戌は既に通話を始めていた。ちらりとオレに視線を戻した戌の唇が、一音ずつ区切るように動き、声を立てずに通話相手を告げる。
「V5」
唇を読み取ったオレが黙って頷くと、戌もまた頷き返し、携帯電話を耳に当てたまま会議室を出て行った。当然ながら、飾りではない方の耳である。厄介事を押しつけられなければいいが。
波乱に満ちた選挙の結果、会長に就任した子は、その場であっさりと辞意を表明した。自動的に、子により副会長に指名されていた戌が新会長となり、現在の運営に至っている。
戌は優れた頭脳の持ち主だ。しかし、協会内の一大派閥の頂点にいる子のように、喜々として悪知恵を働かせることができない。生来、腹黒さとは無縁なのだ。この組織に属していれば、腹黒さを要求される場面もある。恐ろしく頭が回るうえに、汚れ仕事に抵抗を示しもせず、むしろ満面の笑みで取り組む子に対し、戌は事案が進むほどに疲弊していくのが傍目にも判ってしまう。
似通った方向に頭を向けている群れを束ねつつ、はぐれかけた者を連れ戻し、浮動の者を根気よく理詰めで引き入れる手腕には長けているが、あからさまに逆を行こうとする者を懐柔したり、掌の上で転がしておくのは不得手だ。もちろん、浮動の者の中に、浮動のバカは含まない。
汚い手口を嫌い、正攻法をほんの少し捻っただけのほぼ真っ向勝負に頼るから、子のような相手にはいいように踊らされる羽目になる。議論中、対立意見を持つ者からの揶揄を受け流せず、正面から受け止めてしまうこともしばしば。立場上、反論が難しい相手ともなれば、皮肉のひとつも言えないまま、黙り込んでしまうことさえあった。
申し分なくクリーンではあるが、上に立つ者としては感情的かつ常識的に過ぎる。破天荒でありながら、絶妙な安定感でその座に君臨し続けた前会長や、流星会長であった子の、一部の協会員から憧憬に近い注目を集める派手な「暗躍」ぶりに比較して、会長としての戌が求心力に欠けるのはそのためだ。
全力でサポートに当たらねばならない我々十二支んも一枚岩とは言えず、戌は苦しい立場にあった。子の取り巻き、いわゆる「副会長派」と呼ばれる派閥を中心に挙がっている「現会長はどうにも頼りない」という声は、恐らく戌本人にも聞こえている。いちいち雑音に耳を傾けていては前に進めない。心中穏やかではないだろうが、今のところ戌はうまく平静を装えていると思う。
選挙は混迷の幕開けでしかなかった。前会長の子息の出頭、身近に迫った暗黒大陸、カキン帝国やV5との政治問題、それらに伴う子と亥の脱退。前会長が身罷った後に訪れた怒涛のような難問の数々を取り急ぎ整理し、まずは欠員の補充にあたることにした。脱退した二人はそれぞれ、いなくなって清々する男と、元からいなかったような男だが、曲がりなりにも星付きハンターだ。彼らを欠いたまま動くよりは、二人の力には及ばないまでも、即戦力になり得るメンバーの確保が必要であるという結論の下、ルーキーの新規加入が決まった。
選挙での健闘を見れば、概ね好感を以って周囲に受け入れられるだろうという希望的観測が働いての人事である。選挙序盤に設けられた質疑応答の際、投げかけた問いに対して不遜な態度で応じた亥に、ルーキーが念能力で一撃喰らわせ、会場の喝采を浴びたことも大きかった。
そんなルーキーからの推薦を生かした布陣が好手となって、暗黒大陸へ向かう我々に光をもたらすか否かは、まだ判らない。いくら眺めても、自信を持って男だと断じることのできない写真を閉じ、再度プロフィールの記述を追う。第二百八十七期の試験官を務めた者たちによる所見に目を通し始めたとき、
「あんたがあいつを呼びに行ってくれんのか?」
横からルーキーの顔がぬっと現れた。心なしか焦燥感の漂う表情をしている。図太い神経をしているように見えるが、時と場合によっては小心になってしまうこともあるようだ。人に頼みごとをしている立場の割に、口の利き方はいつも変わらないところが面白い。
「どうやら、そうなりそうだ」
ディスプレイから視線を剥がし、ルーキーに身体を向けた瞬間、両肩をがっしり掴まれた。
「あんたを男と見込んで頼みがある。あいつに会ったら、一回オレに電話を入れるように言ってくれ」
見込まれる要素は、男であるかどうかではないだろう。目的の人物に接触するのなら、オレではなくても見込みがあるに違いない。ルーキーの勢いに気圧されながらも、
「伝えるよ。結果は約束できんが」
と答えると、
「恩に着る。やっぱ、あんた、見込みがあるぜ」
両肩に置かれていた手が、今度はオレの右手を固く包んだ。そのまま激しく上下に振られ、右腕全体が波打つ。これほどに熱の入った握手は経験したことがない。なぜ、オレがルーキーに上からものを言われているのかを疑問に思うよりも、ルーキーをそうさせる彼がどんな人物なのか、単純な興味を持った。近くでその姿を目にし、直接言葉を交わしてみたい。
その後、彼に関するインタビューをルーキーに対して行い、各方面から情報を収集、精査したうえで、十二支んメンバーに可否を問うた結果、これといった反駁もなく、彼をこちらに引き入れることが決定した。先に戌が提言したとおりの理由で、オレが現地に赴く任を負う。
事前連絡は入れなかった。急襲し、短時間の交渉で即断を迫る。予断や余裕を与えて、躱されてはたまらない。時間は限られていた。加入の交換条件に使う情報には自信があるが、その価値が暗黒大陸への渡航と天秤が釣り合うものだと判断するのは、彼自身だ。
冷静で慎重、不正を好まない清廉な気質を持つ一方、己に課したある使命のためには手段を選ばず、周囲を顧みることなく非情に徹する側面もある。そんな彼の抱える使命の体積を大幅に軽減できるカードを手に、彼が取り仕切る組織の館舎に乗りつけた。
押し開けた扉の向こうで粗野な出迎えをしてくれた、構成員と思しき三人の男に用はない。オレが姿を見せた瞬間、真っ直ぐに飛んで来た視線の主を見る。黒いスーツの男が、部屋の奥のデスクに着いていた。どこかで見た顔ではあるが、思い出せない。
来客と知っても立ち上がりもしないその男に彼の在否を問えば、すげなく不在だと返されたうえに、退去を求められた。不在なら不在で構わなかった。戻ってくるのを待つまでだ。できれば、コーヒーの一杯でも出してもらえるとありがたい。
オレと黒スーツの間に入った構成員たちが吠えかかってくるのが煩わしい。邪魔をしないよう言葉を尽くしたところで、この手の輩の理解は得られないだろう。手っ取り早く”密室裁判”で動きを封じさせてもらった。つまりは、人質。自分でも、少々卑怯な遣り口だとは思う。彼らが念能力に対処する術を持たないと判っていて”密室裁判”を行使したのだから。
黒スーツは”凝”を使ったらしく、オレの意図を正確に汲み取った。彼は不在ではなく、地下にいると言う。彼を呼びに行くつもりか、デスクを立った黒スーツの辟易とした表情を見て思い出した。彼の周辺を洗う過程に、この男の写真があったはずだ。確か、会長選挙のときにも投票に訪れていた。底なしに陰気な印象を受けていたが、ずいぶんと人相が変わったものだ。事実上のトップが新しくなって、環境が改善されたのかもしれない。
雑談を兼ねて、この職が本業なのかと尋ねると、シノギは合法であり、納税も怠っていない、と鬱陶しそうに答えた。なるほど、優良マフィアだ。犯罪ハンターとして留意すべき点がないことに安心する。
「騒がしいな」
男ばかりで華のない空間が、静かな声に震えた。その響きをひどく場違いに感じたのは、それが変声期直前の少年が発したもののように聞こえたからだ。構成員たちを拘束していた念を解きつつ、声の方へ目を向ける。立っていたのは、網膜に刷り込まれるのではないかと思うほどに繰り返し閲覧した写真と同じ顔をした人物だった。写真と違うのは、それなりに修羅場を潜った者に沁みつく独特の凄味が加わっていることと、かの少数民族の衣装を身につけていないことくらいか。
最初に不在と聞かされ、戻るまで待つつもりで座っていたソファから腰を上げた。やはり黒のスーツを着込んだ彼に歩み寄り、名乗ったうえで来意を告げる。同時進行で差し出したオレの右手は、一瞥されることもなく黙殺された。彼の右手はポケットに突っ込まれたまま、微動だにしない。
失敬な行為ではあるが、不快感はない。ルーキーの言うとおりだ。偉そうで生意気。インタビューの際、ルーキーは彼のそんな短所を、愛おしさを隠すような不自然に憎々しげな口調で語った。それを思い出せば、彼の態度は妙に微笑ましくも感じられる。
カキン帝国にも暗黒大陸にも関心がない様子の彼は、当然の流れとして、我々に同行することを拒否した。心が傾くのを期待してルーキーの名前を出してもみたが、残念ながら、その名前が彼の表情を変えることはなかった。
拒否の理由は「忙しい」。それはそうだろう。確かに存在するのに、出処の知れない探し物に苦心し、奔走していることは調査済みだ。保留案件として解決を先延ばしにできる数量ではないことも。
観察は終わりだ。短期決戦を制するためのカードを開く。
「殺された仲間の…緋の眼を探しているそうだな」
敢えて気遣いを欠いた表現は、既に張り詰めていた場の空気をさらに緊迫させた。胸に渦巻いているであろう激情を宥めるように、彼は深々と息を吐き出す。彼の全身、特に俯けた顔の辺りから、膨大な質量のオーラが立ち昇った。静謐な怒りを感じる。ゆっくりと上げられた彼の白い顔の中に、鮮烈な緋色が咲いていた。黒スーツの男が、禁忌に触れた愚か者を蔑むような目をして、オレを振り返る。
静謐であるが故に、好奇心だけを膨らませた無知な部外者の接近を許さない、厳然とした怒り。その中心で強い輝きを放つ色彩に圧倒されると同時に、不謹慎を承知で納得する。彼の血脈が、残忍な欲望の前に狩り尽くされる運命を辿ったことに。
この眼は狂気を増幅させる。多くの人間が持つ、有り体でちっぽけな、それと気づくことすらできない狂気などではなく、それを自身の一部と認め、絶えず慈しみながら育て上げた者の狂気を、だ。この世にたった一対残された、生命に繋がっている緋の眼。その途方もない美しさに感嘆しつつも、そこに邪な、あるいは純粋な欲望を抱いていない自分に安堵した。
切り札を突きつけるなら、この冷え切った怒りが鎮まる前がいい。いつまでも見惚れているわけにはいかなかった。オレは、無知の域を出ない部外者かもしれないが、好奇心を満たそうとする来観者ではない。
唐突に現れた部外者を排除せんとする、彼の言葉が途切れるのを黙って待った。彼が語り続けている間は、彼の領域を侵してはならない。中低音域の弦楽器のような声を聞きながら、手持ちのカードを準備する。
気が立っているのは確かなのだろうが、彼が冷静さを失っているとは思わない。緋の眼を探していることを認めた彼は、
「だから、なんだ?」
そう斬り捨てた。警戒を強めているものの、その態度とは裏腹に、彼の関心は着実にこちらへ近づいてきている。もっと、こっちへ。次に切ったカードは、闇サイトに投稿された動画への言及。その存在を了知しているか、というオレからの確認に対し、彼は表情も変えず、
「もちろんだ」と答えた後で「それが、どうした」
同じように斬り捨てる。無関心を装い切れずに、また一歩こちらへ踏み出しながら。
駆け引きはここまででいい。充分に引きつけたはずだ。優位に立って主導権を握ることが目的なのではない。彼の持つ、総合的な能力が欲しい。彼が感情を遮るために築いた壁を効果的に崩すなら、今だ。出し惜しみは無用だった。小さく一呼吸つき、切り札を表に返す。
「我々は、緋の眼の持ち主を特定した」
瞬間、彼の表情が動いた。逃がさない。演出じみた口調は逆効果だ。胡散臭く聞こえる。淡々と特定に至った経緯を伝えたうえで、彼の言葉を反復して条件の提示に利用する。「部外者」のままでは知り得ないことがある。だから、答えは「慎重」に。
言葉遊びによる意趣返しは、煽動として必要だった。敢えて同じ言葉を取り入れ、立場を逆転させることで、話に乗ってくることを期待していた。暗黒大陸そのものは、彼にとってまったくメリットのない案件。こちらに引き入れるために、別件を使って焚きつけるという計画の行く末を、より手堅いものにしたかった。
こちらへ来て、共に暗黒大陸へ向かえば、二ヶ月間の船内生活が必至となる。だがそこで、彼は別件に大きく絡む副産物を得ることができるのだ。そう匂わせてから、改めて問う。
「それでも、前向きに考えてくれるかな?」
彼は即答を避け、我々が特定した人物が船に同乗することに間違いはない、という言質を取ろうとした。オレからなにか言う気はない。迷うな。オレが持ち込んだ話以上の情報は、どこからも出ないと請け負おう。
怒りの温度が緩んだらしく、瞳の色は既に落ち着いている。もう敵視はされていないようだ。ひりつくような沈黙の中、言質は望めないと判断したのか、彼はずっとオレに向けていた視線を外した。恐らく、彼の答えは決まっている。回答を口にする前に自分の中で情報を並べ直し、意志の補強をしたいのだろう。
思案中の彼はどこを見るでもなく、外部から意識を遮断したような顔をしていた。支柱や芯を失ったような顔にも見える。その肩を軽く押しただけで、崩れ落ちてしまいそうだ。こんな表情がさまになる男も珍しい。
彼が見せたひどく頼りげない様子は、それほど長くは続かなかった。再びオレを見据えた彼の目には、強い光が戻っていた。弓に直交して引かれた弦の奏でる音に似た声が、はっきりとメンバー入りを表明した。返す弓が、緋の眼の所有者を明かすよう求める。
断る理由はない。用意していた写真を手渡した。カキン帝国の第四王子。公務中、報道カメラに収められた画像のコピーだ。所有者の身分が想定外だったのだろうか。写真に目を落とした彼の顔が、また心許なく翳る。
「外すか?」
彼を案じてか、険しい顔でオレたちのやり取りを眺めていた黒スーツが、澱みかけた空気に風を送った。本心では、この場を離れたくないに違いない。その心中を汲んだようには思えなかったが、
「構わない。いてくれ」
と答えた彼の言葉に、険しかった顔つきが微かに和らぐ。ならば、と後押しするつもりで彼に同調した途端、黒スーツは忌々しげに口許を歪めた。この場に残るのは自身の任意だと言っているのに、突然思い立ったかのように、コーヒーを淹れる素振りを見せて立ち去ってしまった。ここを訪れた当初、不在だという彼を待つ間に、とコーヒーを所望したときには、水すら出てくる気配もなかったのだが。
まるで、反抗期から脱却できない若造のような態度だ。歓迎されていないことくらいは判っている。それにしても、解せない流れだった。
彼が写真を見つめたまま近場の椅子に近づき、空いている手でそれを引き寄せて、応接テーブルの前に座る。少し待ってはみたが、オレが客だという意織はないようだ。なかなか着席を勧めてこないので、テーブルを挟んだ位置にあるソファへ勝手に掛けることにした。
席を勧めない代わりに、無断で座る場所を確保する客への頓着もないらしい。オレが腰を下ろし、姿勢を整えると、彼はすぐに口を開いた。
「あの男からなにを聞いて来た」
余計な雑談はなし、か。ルーキーが彼を語るときのそれに比べ、ルーキーのことを口にする彼の声は、ひどく冷淡に聞こえた。彼らは本当に、厳しいハンター試験や、幻影旅団との取引を共に切り抜けた間柄なのか。彼の質問には答えないまま、別の質問を投げかける。
「…選挙。君は、すべて欠席票だったな。結果は知っているか?」
「いや」
質問を流されたことに気分を害したふうもなく、短い答えが返ってきた。実際は黒スーツから結果の報告を受けているのかもしれないが、そこは大した問題ではない。
「彼は二者択一の最終投票、一歩手前まで残ったよ。その人望が捨て難くて、欠員二名の枠のひとつを埋めてもらった。その彼がもうひとつの枠に君を推したというわけだ。彼からは君の不利益になるような話は聞いていない」
充分なものではないが、一応は彼の質問に答えた。彼の方でも、そこを深く追及する気はないようだ。小さく嘆息した後に出てきたのは、軽い嫌味だった。
「選挙の直後に欠員が二人とは、ずいぶん結束力に欠ける組織だな」
「脱退したのは、どうしようもないバカと、なかなか尻尾を見せない、限りなく真っ黒なクロなんだ」
「…なるほど」
おどけたつもりの説明に納得されてしまった。ほとんど事実だから致し方ないことではある。子や亥はともかく、十二支んそのものの名誉に懸けて、プラスの印象となる事柄を補足しておこうかと考え始めたとき、深みのある柔らかな香りが漂ってきた。あのどうしようもないバカが彼の同期の父親である、という話は、また後でいい。
小さな街の、小さな裏組織だ。出されるコーヒーがインスタントであっても、不服そうな反応は見せまい。心の隅でそう決意していたのだが。この豊かな香りはインスタントには真似のできないものだった。
自分の所属元を必死に擁護するのも虚しく思え、話の内容をさりげなく暗黒大陸渡航における十二支んの役割に関するものへと転換する。ほどなく、左の前腕にトレイを無造作に乗せた黒スーツが戻ってきた。トレイの上に鎮座する二脚のソーサー付きカップから、仄かな湯気が立ち昇っている。
薄い陶器のカップとソーサーが、放り出されるように目の前に置かれ、その衝撃で陶器同士が細かくぶつかり合う音を立てた。暗褐色の水面が大きく波打っている。こぼれそうでこぼれないのは、黒スーツの特技か、ただの偶然か。
来訪時に座っていた席からして、この黒スーツは彼の側近の筆頭だ。立場上、客をもてなし慣れていないのだろう。そのうえ、濃やかな仕事が不得意なのかもしれない。
堅苦しく聞こえないよう簡素な言葉で給仕への労をねぎらった後で、なんとはなしに黒スーツの動きを眺めてると、オレへの供し方に反省する点でもあったか、存外に丁寧な所作で彼の前にコーヒーを配している。砂糖の積まれた小皿とピッチャー。入っているのはハチミツかなにかだろうか。彼は相当な甘党らしい。女性並みか、それ以上だ。などと言っては女性への偏見と捉えられてしまいそうだが、その思考には彼の容貌が多分に影響しているような気がする。
せっかくだ。いただこう。ソーサーを手にし、彼との会話が途切れたところでカップを満たす液体の香りをゆっくりと吸い込む。焙煎、やや深め。これに複数の甘味料を添える黒スーツのセンスは、なかなかのものだ。感心しながらカップに口をつけた。
ミルの音はしなかったから挽き立てではないにしても、それなりの品質の豆を使って丁寧に淹れた味がする。口腔に広がったコクは、喉を通り過ぎても濃厚さを失わなかった。
「美味いな」
思わず呟くと、こちらに横顔を見せている黒スーツの目の辺りが一瞬、ぴくりと小さく動いた。無反応を装ってはいるが、まんざらでもないことが窺える。褒めても素直に乗ってこないあたりに、また反抗期の若造を感じた。
空になったトレイを片手で雑に抱え、彼の座る椅子の後ろに回った黒スーツは、尊大な姿勢で背後のテーブルに軽く腰を預ける。オレを見下ろす柳葉のような目が、あからさまな威圧を宿していた。騎士というには高潔に届かず、執事というには勤厚に欠けるその佇まいに、首領を補佐する側近とは質の違うものがある。雛を護る親鳥。彼の年齢を考えれば、あながち外れてもいないように思える。いや、小規模な組織とはいえマフィアのトップの代理を務める男を「雛」とするのは、さすがに不適切か。それにしても、だ。オレは雛鳥を喰らいに来たわけではない。親鳥の対応は、もう少し友好的なものであってもいいはずだ。
思いがけず振る舞われた良質なコーヒーを味わいつつ、暗黒大陸での班割や、個人情報としての念能力の取り扱いについて、認識の摺り合わせを進めていく。ブラックもいいが、そろそろこいつにご登板願おう。そこに注ぎ入れるだけでカップの中に魔法がかかる。夢のようなまろやかさ。ミルク。オレのコーヒーブレイクの相棒。
厳選に厳選を重ね、乳脂肪分の高い乳を出す品種を自然放牧で飼育している酪農家から取り寄せた、この至高の逸品を是非、目の前の彼にも勧めたい。無農薬の牧草の他、乳牛用の飼料として最適化された複数の穀類を食んで育ち、仔を産み、陽が昇る前に丁寧に搾乳された、極上の…。
まただ。彼が自身の能力にかけているらしい”制約と誓約”についての話をしていたオレは、純白の相棒に思いを馳せるのを中断した。彼は無自覚なのだろうが、会話の合間、頻繁にテーブルに置かれた写真へと視線や意識が流れる。彼の受け答えからして、オレの話が正しく理解されているのは間違いない。しかし、あまりにも反応が薄く、どこか上の空だった。今回の一件に関連した、オレにはまだ見えない、なにか別のことを考えている。そんな顔に見えた。
まあ、いい。自信を持って勧めることのできるミルクは、他にもいくつかある。コーヒーに口をつけるどころか、まだカップに触れてすらいない彼に相棒を紹介するのを断念し、明日の迎えで協会に移ってもらう旨、同意を求めた。写真を手渡してから何度目になるだろう。疲れ切った哲学者のような面持ちで長い溜息を吐いた彼は、それを承諾すると、またもや平面上の第四王子に目を落とす。そこから数秒、特別な感情はなにひとつ窺えないその視線が不意に写真を離れ、背後の黒スーツを振り仰いだ。
「…お帰りだ」
唐突に告げられた幕切れに当惑する。なんとか顔には出さずにいられたが、彼の視線につられて見上げた黒スーツの表情の変化に、小さな驚きを覚えた。まるで病弱な子供の発熱を危ぶむように眉を寄せたかと思うと、もの言いたげに開いた唇を、刹那の逡巡の後で強く引き結ぶ。そうして彼になにか伝えることを諦めた黒スーツは、彼から目を逸らしてオレに顔を向けた。オレと目を合わせた瞬間、目線を外へ通じる扉へと飛ばし、細いあごを小さくそちらへしゃくる。子供に熱病を媒介した宿主を屋外へ追いやるような仕草だった。
目的は果たした。彼はもう、我々十二支んの一員だ。話しておきたいことはまだあったが、明日、協会へ向かう車の中ででも事足りる。ここは彼の意向に従って辞去しよう。
ソファから立ち上がるために上体を前傾させると、自分の役目は終わったとばかりに、黒スーツが場を離れた。また奥へ引っ込んでしまうのかと思いきや、黒スーツは扉へと向かい、その前に立ち止まってプッシュプルハンドルに手をかける。最初から最後まで、疎ましげな態度は変わらなかったが、建前だけでも見送りくらいはしようと思われる客ではあったらしい。
「邪魔したな」
絶妙なタイミングで開いた扉を抜ける間際に、そう声をかける。予想はしていたが、視界の端に映ったのは、不愉快そうに口許を歪めた黒スーツの横顔だった。扉が閉まれば、そこで今日の仕事は終了だ。ホテルの部屋に戻った後は、ルームサービスでチーズの盛り合わせでも楽しんでみようか。発酵や熟成というブースターを得て進化したミルク。原料を同じくしながら、ブースターの有無や種類、手法によって、さまざまな発展を遂げた珠玉の切片が一堂に会する、魅惑のプレート。
だが。扉は、すぐには閉まらなかった。なんの用事か、渋面の黒スーツがこちらに向かってくる。その後ろで、ようやく扉が閉ざされた。
「あいつは、好きでメンバーになったわけじゃない」
オレが振り返るのも待たず、黒スーツは斬りつけるようにして言葉を放つ。生来、口数の少ない男なのであろうことは、彼が地下から姿を現すまでの間の語り口から容易に想像がついた。それが、首領を室内に残したまま、わざわざオレを追いかけて来るのだから、よほどの話だ。ここは真摯に向き合うべきだろう。
つまるところ、黒スーツの用件は牽制だった。むだのない簡潔な言葉のひとつひとつを、偃月刀を振るうかのごとくオレに打ち降ろす。あいつ、あいつ、あいつ。繰り返される主語の全ては、彼を指していた。ここを離れた後の、彼の身の安全への懸念。彼が使命を遂げるにあたり、障害となりうる事柄への危惧。雛を護る親鳥という印象は、あながち見当違いでもなかったようだ。一見して、何事にも関心のないタイプなのだと思っていた。この烈々たる父性は、彼に対してのみ顕現されるものなのだろうか。
彼らの言葉のやり取りは、たった一言、二言を聞いただけだが、年齢差や組織内の地位への拘わりなく、対等に話していた。互いに独立し、不要な依存をしない関係。黒スーツを動かしているのは、父性ではないかもしれない。ふと浮かんだ疑問を、正面からぶつけてみたい衝動に駆られた。
「彼は君の恋人なのか?」
喉許まで出かかった問いを、なんとか押し留めて呑み込む。偏見はないに等しい。だが、身近に例がない。黒スーツがそれを認めたときに冷静な反応をする準備はできるが、否定されたときの気まずさをカバーする用意はできそうになかった。
歩きながら話しているうちに、敷地の外に出ていた。気の早いドライバーが車を降り、オレのために後部座席のドアを開けようとしている。タイムアップだ。黒スーツも察したらしい。
「あいつはウチの大事なNo.2だ」
背後からの声には、肚を決めたような重さがあった。なにを言い出すのかと身構えるも、
「本来の目的以外のことで無茶はさせないでくれ」
続いた言葉に、つい振り返ってしまう。黒スーツの口からそんな言葉が出るとは。プロハンターの世界に身を置く者の台詞ではない。事情はどうあれ、任務を負った以上、起りうる不測の事態を常に念頭に置いて動く。当然のことだ。ハンターの世界はそういうものだ、と指摘すると、黒スーツは今にも舌打ちしそうな顔になって、オレから目を逸らした。近くには話の流れを知らないドライバーしかいないというのに、抑えた声で、
「知っていても敢えて言うんだよ」
そう返して来た。もちろん、彼の事情は考慮する。元より、それを条件に臨んだ交渉だった。渡航中の行動については、彼自身が要望するところであるならば、多少の融通は利かせるつもりでいる。だが、この件において、黒スーツは当事者の傍にいるだけの外野にすぎない。「心配性なんだな」と笑うと、目を背けたまま「悪いか」と開き直った。
やはり、彼の存在がそうさせるのだろうか。情に薄く、ヒューマニズムに欠けていそうなこの男に、こんな青臭いセリフを吐かせるほどの存在。そういえば、ルーキーも彼のことになると、別人格が目覚めたかのような変貌を呈していた。
彼のハンターライセンス取得目的が幻影旅団への報復と緋の眼の回収であろうことは、こちらで集めた情報からも、ルーキーへのインタビューからも推測できた。現に彼は、幻影旅団のメンバー二名を葬り、団長と目される男の念能力を封じている。恐らくは”制約と誓約”の力を利用したのだろう。目的に対して、自分の適性を最大限に伸ばし”制約と誓約”を使ってさらに能力を特化させた。
彼の同期である亥の息子や、ゾルディック家の息子の他を圧倒する成長ぶりに隠れて目立たないが、念能力を身につけ、明確な狙いを持って精度を上げるまでの達成期間の短さは異例だと言える。細かいところは聞かなかったが、彼の”制約と誓約”は一撃必中であるらしい。短日月でこれほど効率重視の”制約と誓約”を実現させるには、生命を賭すほどの覚悟が必要だ。
淡然として計画的な性格だということは複数の方面から耳に入っていたし、こうして実際に会えば、そのとおりでもあった。ただし、彼が何者をも許さず、幾重もの防壁で堅守する核心にさえ触れなければ、だったが。
張り巡らされた防壁にも、それぞれ門戸がある。ルーキーをはじめとする彼の同期はなんらかの方法で門戸を開き、彼の核心に近づくことを許されたのだろう。いや、ルーキーや亥の息子の無鉄砲さを見聞きする限り、門戸を開いたというよりは、双方が気づかないうちにいくつかの外壁を乗り越えてしまっていたという方が正しいのかもしれない。
初めから核心に手を伸ばしたオレが交渉を成立させることができたのは、手土産の価値もさることながら、敢えてリスクの大きさに目を瞑った彼の決意によるところが大きい。オレは、彼の譲歩に甘えたのだ。オレが黒スーツから感じる反撥のようなものの一因は、そこにもあるに違いない。ルーキーたちとは質が違うが、目の前にいるこの黒スーツもまた、傍に立っても構わない、と彼が受容した者の一人だった。
優れた問題解決能力を備えていても、自身の血の誇りを護ろうとした瞬間にたちまち自制を失う。彼が傷つき、苦しみながらも、破滅することなくここまで歩んで来られたのは、その身辺から目的の本質以外の要素を取り除く仲間がいたからこそだ。
「君といい、あのルーキーといい、彼はサポーターに恵まれている」
空世辞ではなく、正直な所感を口にすると、黒スーツは訝しげに片眉を上げてオレを見た。ルーキーと並べられるのが不満なのだろうか。それとも彼に対して過保護であると言われたように受け止めたか。彼は、黒スーツが思うほど脆くはないはずだ。それに、我々はルーキーの推薦だけに頼って彼をメンバーに引き込むことを決めたわけではない。
「自分が支えている男を信じることだな」
それを最後に話を切り上げた。ドアハンドルに手をかけたまま、開けるタイミングを計っているドライバーが気がかりだったこともある。
「すまない。待たせてしまったな」
車に乗り込み、後部座席のドアを閉めて運転席に戻ったドライバーに詫びた。エンジンをかけながら、ドライバーは穏やかな表情で首を横に振る。
「間に合うといいんですが」
ホテルに帰る前に立ち寄りたい場所があるのだと、事前に伝えてあった。この街に入るずいぶん手前で、三角屋根の牛舎を見かけたのだ。絵に描いたような配置のサイロや飼料タンクにも目を惹かれた。牛舎の柵の奥には、黒地に白のまだら模様が美しい乳牛たちが整列していた。彼女たちは乳牛の中の乳牛。種としてのクイーン・オブ・クイーンズだ。あの牛舎の外観からして、個別販売にも対応している可能性が高い。
車が動く直前、ドライバーが軽くクラクションを鳴らした。察するに、黒スーツはまだその場に立っているらしい。終始、不機嫌さを取り繕いもしなかった黒スーツへの挨拶は、ただ片手を挙げるだけにしておいた。
翌日、同じ場所に到着したのは、陽の温かさが残る午後だった。本人とは、昨日の内に約束を取り交わしている。昨日は相手に猶予を与えないために不意打ちをかけたが、今日は常識的な礼儀に則って、門柱に埋め込まれたインターホンを使うことにした。シンプルながら重厚な外筐の下部にあるボタンを押してしばらく待つも、応答はない。彼本人も黒スーツも、どちらかといえば神経質そうで、時間にルーズな印象はないのだが。間を空けずに再び押すのは、自分に心のゆとりが不足しているように思えて憚られる。
昨日は問うに問えなかった、あの二人の関係が脳裏をよぎった。なぜか、扉の向こう側で抱擁する二つの影が惜別の時間を過ごしている様子が像を結び、彼らへの罪悪感に見舞われる。勝手な想像の産物とはいえ、その様は妙に生々しく、オレは浮かんでしまった影の排除に時間を費やすことになった。インターホンのスピーカーは、まだ沈黙を続けている。
もしや、今回の話を反故にされたのでは、という根拠のない疑いが湧いた頃になって、ようやく反応があった。スピーカーからではない。門柱の奥、屋敷の扉が開いたのだ。
現われたのは、彼ただ独りだった。さすがに構成員総出の荘重な見送りになるとは思っていなかったが、黒スーツの姿すら見当たらないのは予想外だ。昨日、暗黒大陸行きが決定したことで、彼らの間に感情的なズレが生じてしまったのだろうか。オレの埒外の話であるとはいえ、仮にそうなのだとしたら、気の毒なことをした。
確固たる歩みで門柱付近までやって来た彼に、
「独りか?」
つい、見れば判ることを訊いてしまう。小さなスーツケースだけを手にした彼は、なにも応えず敷地を出て、オレを追い越していく。と、透明な壁にぶつかったように彼の足が止まった。彼の真正面には、右手を胸に当てたドライバーが慇懃に頭を下げていた。表情に目立つ変化はないものの、通常の範囲よりも厚めの待遇に彼が少々戸惑っているのが判り、思わず笑い出しそうになる。彼を女性と見間違えるのは、オレだけではなかった。自分の感覚が異常なわけではないと知り、なんとなく安心する。
彼は知る由もないが、これはこのドライバーの癖ようなものだった。女性が乗車する際には、年齢や容姿の区別なく必ずこの姿勢を取る。感嘆すべきはその徹底ぶりだ。生物学的に男であっても、女性として扱われることを望み、女性然とした振る舞いで暮らす者には、その思いを裏切らない対応をするという。もちろん、外見の美醜によって態度が変わることはない。らしい。オレ自身は、そういった場面に遭遇したことがないが、協会内ではよく知られた話である。
もっとも、本人の中では癖などではなく、主義、流儀の一環なのかもしれない。実際、こんなことをしなくても、インストルメントパネルにはドアの開閉スイッチが設置されている。
ドライバーはまず、客人であり「女性」である彼を後部座席に案内した。彼から受け取っていたスーツケースをトランクに格納した後で、今度はオレのためにドアを開ける。
「オレも最初は女性だと思ったよ」
乗車するとき、そう耳打ちしようかとも思ったが、職務への真摯な姿勢に水を指すのは無粋の極みだと改めた。オレだってルーキーに言われなければ、いや、言われた後もしばらくは違和感なく男と認識することができなかったのだ。正直、今でも彼が女性ではないのが不思議で仕方ない。
ドアの閉まる音を聞きながら、シートに背中を預けた後で気づいた。身体の左側がやけに広い。見れば、隣の彼は半身でドアに寄りかかるように座っている。まるで後部座席の中央に見えない誰がいるかのようだった。
わざわざ気にすることでもないのだろうが、この不自然な空間がどうにも落ち着かず、オレは尻の位置をわずかに左へ滑らせる。客人が故意にオレから距離を取っているように見えてしまうのは不本意だ。そのくらいの見栄は、自分に許してやりたい。幸い、と言っていいものか、彼はオレの見栄には関心がないらしく、ドアに凭れたまま、視線を動かしすらしなかった。
車が走り出す。結局、彼を見送る者はなく、オレは凝り固まってもいない首をゆっくりと回した。要らぬ世話と承知で、背後を窺い見る。雛鳥の巣立ちを見守るがごとく、枝葉の陰から親鳥が顔を覗かせているのではないかと思ったのだ。だが、やはり。黒スーツの姿は、どこにもなかった。
大丈夫だろうか。首を回したついでに、彼の横顔に目をやる。きっと彼に自覚はない。独りの彼は、岩崖に咲く花に似ていた。海から吹き上げる強風に煽られ、今にも散ってしまいそうなその花は、近くにいる者の不安をひどく駆り立てる。これほどまでに造作の整った若者が女性であったなら、それ以前に、特殊な眼球を持つ少数民族の生まれではなかったら、彼を取り巻く環境はもっと穏やかなものになっていたかもしれない。
出発した途端、今後の運びに関する質問を次々に繰り出してくるような男ではないことは、昨日の対話で承知済みだ。協会に到着するまでに話しておくべきことは多々あれど、時間が足りなくなるというほどではない。まずは雑談。きっかけにすべき台詞は用意してある。
「なにか飲むか」
車内に搭載されたフリッジの扉を開け、ミルク缶を模したプラスチックボトルを取り出した。中に詰められているのは、出荷されて間もないミルク。昨夕に搾乳され、加熱殺菌とパッキングを終えて、今朝店頭に並べられたばかりの真っ白な味覚的芸術。
前日訪ねた牛舎は、思ったとおり個別販売に対応していた。観光農場ではないものの、日中は一般の見学を受け付けており、自社製品の飲食、販売ブースも設けていると聞いて、夕刻の店じまい間際ではあったが、ミルクをはじめ、数々の乳製品を堪能させてもらった。もちろん、自家用として冷蔵仕様で発送することも忘れていない。それにしても、密かに期待していた搾乳場や加工場の見学が衛生管理上、ガラス越しにしか叶わなかったのは残念だった。
販売ブースで取り分け輝いていたのが、今、彼に勧めんとしているボトルだ。稼働中の搾乳場で、生産直後の生乳をすぐに味わうことが可能であるか問うたところ、定められた工程を経なければ製品として成り立たず、この時間に搾乳されたものは翌朝いちばんに商品となって出荷されると教えられた。一も二もなくミルク缶ボトルでの取り置きを数本頼み、前払いのうえ、必ず翌日昼までに引き取りに来ると約束したのだ。
ミルク缶。その素晴らしいフォルムが、飲みきりサイズに。材質が異なっていても、見た目が愛らしいことに変わりはない。ストローだってついている。彼の興味を惹くこと間違いなし。昨日はオレの最高の相棒を紹介しそびれた。雑談の導入にはもってこいのアイテムではないか。
選択肢がいくつかあるような言い方をしてしまったが、フリッジの中身は件のミルク数本の他、オレ自身が楽しみにしている無糖のミルクコーヒーが一本きりだった。消費期限の関係とやらで、大量購入のおまけにつけてもらったものだ。前日の段階で割引価格と配送無料のサービスを受けていたので、一応の遠慮として、差し出された三本のうち一本だけを頂戴した。こちらは同じミルク缶ボトルでもサイズが大きく、五倍以上の容量がある。彼がどうしても、と言うのなら、小さなミルク缶ボトル一本分くらいの試飲は考えてもいい。
とにかく、こいつで車内の雰囲気を和ませてから本題といこう。ミルク缶ボトルを持つ手をさりげなく彼の方へ伸ばし、その視界に割り込ませる。そして、力強く、もう一言。
「味は保証する」
完璧だ。心の中でぐっと拳を握り締めた瞬間、彼が、
「結構だ」
視線をこちらに向けることなく応え、オレは危うく、素のままに動揺の声を洩らしかけた。同意としての「結構」ではないのは明白だった。驚きのあまり瞠目してしまった顔は見られていないはずだが「え?」だの「は?」だの言うのが彼の耳に届いては、格好がつかない。
「アレルギーか?」
真っ先に浮かんだその疑問は、苦し紛れに絞り出した皮肉に聞こえるような気がして口にできなかった。一瞬にして砕けた平常心を必死に掻き集め、
「…そうか」
そう返す。まったく視線のブレない彼に、オレの動きを把握させたい。意味のない咳払いをしてから、わざとらしさが滲まない程度に明瞭な声で、
「飲みたくなったら適当にやってくれ」
と告げ、やや大げさな振る舞いでミルク缶ボトルをフリッジに戻す。扉の開閉は、音が立つように少し乱雑に行った。わざとらしさが滲まない程度の、やや大げさな振る舞い。慣れるまで時間がかかりそうな才知ある若鳥に、それとなく餌の在処を知らせる手段としては、悪くないと思えた。
道中、間を持て余し続ける予感を拭いきれない。普段であれば、意思の疎通を図ろうとしない相手とは、こちらからも積極的に関わらないことにしているのだが、彼はこれから共に危険度の高い任務に臨む「仲間」になる男だ。コミュニケーション不足は命取りになり兼ねない。彼が懸命に行方を探し求める死者の情報で、強引に釣り上げるような、賢しらな手を使ったのだ。メンバー入りの要請に快諾を得た、などという脳天気な勘違いはしていない。それでも、協会に着くまでに、少しでも信頼関係を構築しておきたかった。
ミルクを通して親交を深める計画はあっさりと頓挫した。ここから話が広がり、会話も弾むことが多いのに、なぜ失敗したのかが判らない。閉ざされた空間の静寂が気詰まりで、また咳払いをしてみる。雑談が無理なら、本題から離れるが無縁でもないところから入るしかない。
「電話を入れて欲しい相手がいるんだが」
切り出し方が唐突だったせいか、ようやく彼がオレの顔を見た。胡散臭いものを見るような表情をしているのが遺憾ではあったが、これで我々は、今日はじめて目を合わせたことになる。
「君に会ったら電話をよこすよう伝えてくれ、と頼まれた。何度かけても出ない、と嘆いていたよ」
ここまで言ったところで、誰のことを指しているのか察したようだ。
「あいにくだが…」
「用もなくかけていたわけではないんだ」
煩わしげな彼の声を遮った。無関係の人間の介入を快く思わないのは理解できる。だが、知らせなくては。ルーキーがなんのために繰り返し電話をしていたのかを。亥の息子に起こった出来事を。これは、ほとんど一方的で熱烈な握手の後、ルーキーとオレとの間で交わされた話だ。彼に詳細を伝えるよう、ルーキーに頼まれたわけではない。伝言の結果は約束できない、とは言ったものの、よくよく話を聞けば、ルーキーに電話を繋いでやりたくなる。
オレが十二支んのメンバーとして知り得た情報と、ルーキーが自身の持つ人脈づてに仕入れた情報を織り交ぜ、蟻討伐の終盤に亥の息子が陥った状況と、その劇的ともいえる再起についての大筋を語る間、彼はただ黙っていた。質問を挟むこともなく、相槌さえ打たなかった。
時折、オレの話がしっかり届いているのか不安になりもしたが、昨日、彼と差し向かいで話したときも似たような様子だったのを思い出し、最後まで言葉を止めずに語りきった。熱心に耳を傾ける姿に感心していたら、実は聞き流しているのを悟らせまいとするポーズだった、というオチを見るよりずっといい。
「無理にとは言わんが、電話してやってくれないか。話の内容を聞かれたくないなら、適当に車を停める。外に出るのは君でもいいし、我々でも構わない」
敢えて彼の反応は見なかったが、ゆっくりと吸い込んだ息を静かに吐き出す気配が感じられた。溜息ではない。自分の頭の中を整理し、気持ちを切り替えるための深呼吸。それから、彼はジャケットの内ポケットから携帯電話を取り出した。片手でフリップを開くと、なめらかな操作でルーキーのものであろう番号を呼び出し、耳許に添える。ドライバーに停車を求める間もなかった。聞かれて困る話はないらしい。
よほど待ち侘びていたのだろう。初めから回線が繋がっていたのではないかと思うほどの早さで彼の名を呼ぶルーキーの大声が飛び出すのと、彼が顔を背けるようにして携帯電話を持つ手を遠ざけたのは、ほぼ同時だった。次いで、長きに渡る音信不通を詰っているのが洩れ聞こえてくる。盗み聴きをする気はないが、こうもルーキーの声が大きくてはどうしようもない。
ルーキーにメールアドレスを要求され、すぐに断る、というやり取りを何度か繰り返した後、彼は亥の息子に話題を移した。瀕死という言葉が生温く思えるほどの重篤状態から、一瞬にして以前の姿を取り戻したという亥の息子は、知己のハンターたちに伴われて選挙会場に姿を現すや否や、階段通路の最上段から、ステージ付近にいたルーキーに向かってダイブした。今頃は故郷の島で元気に過ごしているはずだ、とオレからは伝えてある。
あのとき会場で感じた、空間が膨張し、歪んだかのような、なにか大きな力の波。きっとあの尋常ならざる波動の源が、亥の息子を生還に導いたのだろう。
「今からでも私にできることはあるか?」
彼が見せた亥の息子への協力姿勢を、ルーキーが自分のサポートに転嫁しようとしている。知らん奴ばっかで、すげぇ居心地悪ぃんだ、と。そうだったのか。それは申し訳なかった。臆しない男だと思っていたが、遅れてやって来る恋人だけを頼りに、顔見知りのいないパーティに参加した少女並みの怯みようだ。同情する。うちのメンバーは、確かに濃い。
承知した、と簡潔に応えて通話を切った彼は、ふたつに折り畳んだ携帯電話を、冷ややかさの混じる呆れ顔で眺めている。彼の知るルーキーは、面識のない人間に囲まれたくらいで悲嘆に暮れたりはしないのだろう。オレにも、そんなふうに見えていた。
丸聞こえに等しい会話からは、ルーキーが彼を高く買っていることが伺えた。それを伝えると、
「どうかな」
彼はわずかに首を傾げた。自分への評価に疑問を持っているようだった。どうやら、彼の念能力は暗黒大陸攻略には不向きなものらしい。謙遜なのか、事実なのかは、彼の能力を知らないオレには判らない。念能力だけを当てにしているのではないのだ、と言おうとしたとき、
「王子の件は感謝している」
意外な言葉が聞こえた。礼が出るとは思ってもいなかった。
「できる限りの協力はするつもりだが…」
「判ってる」
言い淀んだその先を引き取る。
「船上では君の都合を優先させていい。だが、くれぐれも慎重に行動してもらいたい」
政治的な問題が絡んでくるのだ。ハンター協会は無敵の組織ではない。世界を動かす者の意向ひとつで、あの前会長ですら、蟻の侵攻を人知れず終息させるための捨て駒扱いになる。今回の事案は、歴史的なイベントに国王の息子という、細心の注意を要する組み合わせだ。しかも、王子の周辺には色濃い疑惑の靄が漂っている。下手を打つわけにはいかない。前会長亡き今、修復不能なミスが出れば、ハンター協会の威信は容易く地に墜ちる。
「踏み込みすぎるなと言ってもむだだろうが、なるべく刺激せず穏便な道を選んでくれ」
彼がここにいる直接的な理由を作ったのは、オレだ。しかし、彼の立場を知りおいても尚、慎重な行動を期すように含めなくてはならなかった。それほどに、微妙な案件なのだ。
目線をこちらに向けて応じた彼の下瞼に、青黒いクマが張りついていることに気づいた。荒んだ目をしている。まだ先の長い年齢だ。こんな目のまま生きていくのだろうか。
「人の皮を纏う獣なら、未知の生物よりも遥かに扱いは心得ている」
緋の眼を行方を追い続ける中で、彼は人の心の底に澱み凝る汚穢を繰り返し見てきたに違いない。血縁の全てを凄惨に奪われた経験のないオレが、なにを言っても響きはしないだろう。沈黙を選ぶ。
陽はすっかり姿を隠し、藍色の西の空の裾に鮮やかなオレンジ色の帯を残すのみとなっていた。フロントガラスの向こうに、灯り始めたテールライトが隙間だらけの列を成していく。
「王子を、どうする」
沈黙を破ったのは、それらが対になった緋の眼に見えたから、ではない。静かすぎる走行音だけが続く時間に飽きたのと、車内に満ちつつある宵闇に沈んで消えてしまいそうな彼の眼差しのせいだ。会話が途切れてからは、意思の感じられない目をどこでもない一点に定めたまま、身動きもしない。既に黒いスーツは周囲に同化してしまった。疲れきった横顔と、男にしては華奢な指をした手が、シャツの白さに飾られて浮かび上がっている。
先ほど同様、目線をこちらに向けて応じた彼だったが、今度は言葉を発しなかった。どうする、の意図を掴み兼ねているのかもしれない。
「眼を取り戻した後の話だ」
そう付け加えると、ひどくつまらない質問を聞いた、と言わんばかりに、彼は窓の外を見やる。
「仲間が戻ればそれでいい。大方の要求は私が折れるさ」
外へ向けて呟かれた独り言が、ガラスに跳ね返されてオレに届いた。そんな答え方だった。こうして暗黒大陸行きを承諾したように、か。などとオレが続ければ、きっと当てつけがましく聞こえてしまう。
仲間と同じように眼球を抉り出す。或いは、苦痛を与えながら時間をかけて殺す、でもいい。月並ながらも、物騒な返答を予想されていることを見越したような態度。平穏な答えでがっかりしたか。オレから顔を背けた彼の肩の辺りが、さらなる追及を拒んでいる気がした。
そこで納得して退き下がるべきなのだろうが、オレは、彼の幻影旅団への憎悪の深さを、ルーキーから聞いて知っている。死角なしとも思えるほど周到に策を巡らせて念能力を培ってきたにも関わらず、団員を束ねる男を無力化したところで彼が矛を収めたのは、既定路線である「孤独な闘い」という大前提が、根底から崩れたからに他ならない。人質交換は、彼にとって不測の事態だった。
それがなければ、あいつはメンバーの誰かが緋の眼の行方を吐くまで蜘蛛の脚をへし折り続けてたと思うぜ。
もちろん、あいつが殺られなけりゃ、の話だけどな。
つーか、俺、もっと感謝されてもよくねぇか?
電話無視とかねぇわ、ホント。
インタビューの際のルーキーの談だ。後半の部分はともかく、その見立てにさほど狂いはないだろう。恐らくは最小限のダメージで旅団殲滅を狙っていたはずの彼だ。あまつさえ多数の緋の眼を所有し、闇とはいえ、動画サイトでそれを誇示するような人物と対峙して、冷静でいられるのか。
協会の人間として政治絡みの保身に走っていると捉えられても構わないし、オレ個人の好奇心に拠るものだと思われても構わない。世界的な知名度は低くとも、相手は一国の王子なのだ。最悪の状況について訊いておきたかった。
「もしも、抵抗されたら?」
しつこい詮索だと判っている。反応に期待はしていなかったが、彼は微かにオレの方へ顔を振り向けた。その中で、目だけが存外な鋭さのある動きでオレを射る。瞳の奥に力を据えて、彼の視線を受け止めた。互いの出方を推し測るような時間が流れ、やがて彼の唇を開かせる。
「死んでも渡さない」
硬い空気を揺らす声を、やはり男のものとは思えないまま聞いた。女性の声だと断定することもできずにいるうちに、言葉は紡がれていく。
「と、私に言った奴が二人いたが、どちらも死ぬことなく心変わりしたよ。王子もそうなるだろう」
暗い光の宿る目付きに相反して、彼の口調は随分と穏やかだった。ゆえに、妙に確信的な、予言めいた言い回しが引っかかった。まるで、所有者に会いさえすれば必ず取り返せると決まっているかのようだ。それが彼の能力だとしたら。
死ぬことなく、と彼は言った。無血解決を確実なものとする方法がそこにあるのか。対象者の生命を奪うには至らないが、致命的な痛手を負わせることになるのか。視覚で得る印象と聴覚で得た回答が、どこか噛み合わない。底知れぬ不安を煽られる。本当に、穏やかに片付くのだろうか。仮面じみた、波のない表情からは、なにも読み取れなかった。
確かに視線がぶつかっているのに、意識は別のところにあるように感じられて、オレは注意深く彼の目を探る。すぐに中断した。胸の内側に生まれたざらつきに気づかないふりをして、
「だといいがな」
と、だけ返し、顔を前方へ戻した。
緋の眼という餌で、彼の獲得に成功したと思っていた。今は、はっきり言える。要らぬ策略だった。心理的に操るような手段に依らなくとも、彼は仲間の奪還を果たせる道があれば、割に合わないリスクを負ってでもそちらへ進む覚悟でいたのだ。直球を投げ込んで協力を請い、対価として情報を開示すべきだった。などという後悔は、今更しても意味がない。
彼の暗い瞳を覆っていたのは、虚無だった。それも、作られた虚無。気を許せない相手の干渉を遮断するための障壁だと理解した。昨日の今日だ。友好的とは言い難い出会い方しているのだから無理からぬことではあるが、信用されてはいないのだと悟った。
敵意は昨日のうちに消えている。警戒もそれほど強くはない。だが、充分な距離を保たなくてはいけない、と自らを戒めているのが伝わってくる。ここでむだに気力を消耗してくれるな。暗黒大陸の件にしろ、緋の眼の件にしろ、まだスタートラインにも立っていない。そこまで神経を尖らせなくてもいいのだと判らせたかった。
この先は、昼夜問わず渋滞の多い区間が続く。彼に必要なのは休息だ。オレは肩と腰の位置をずらして、座席に浅く掛け直した。
「眠りたかったら眠っていてくれ。到着が深夜になる可能性もある。向こうでまともに休む時間を取れるかどうか、保証できないんでな」
胸の前で腕を組み、目を閉じる。別に眠くはないが、先にオレが睡眠を取る体勢になることで、彼も休みやすくなるに違いない。あんなにクマのひどい顔で引き合わせては、彼との再会を待ちわびているであろうルーキーを狼狽えさせてしまう。
行き交うヘッドライトや、等間隔に設置された道路照明灯の明るさを瞼の薄い皮膚越しに受けながら、しばし寛ぐ。時折、細く目を開けて彼の様子を盗み見るが、こちらの思惑に乗りそうな気配はなかった。会話が途絶えて、だいぶ経つ。客人からの要望がなければ、カーオーディオやモニターには仕事をさせないから、彼が車に乗り込んで以降、スピーカーはずっと黙りこくったままだ。
こんな環境下では、眠る以外にできることもなさそうだが、彼はなにをするでもなく、漫然と窓の外を眺めているようだった。ガラスに映る顔は確認できないものの、その首の角度と、全く揺らぎのない上体からして、彼が睡眠状態にないと知れる。もう少し時間がかかるか。オレは再び、目を閉じた。
突然、がくりと大きく頭を落としたのは、不覚にもオレの方だった。手離しかけていた意識を取り戻す。危ない。彼を休ませるのが目的だったのに、こちらが熟睡するところだった。見られていただろうか。顔の位置は動かさず、隣の彼へと目を滑らせる。
驚くべきことに、彼はオレのすぐ横で眠っていた。ずっと同じ姿勢で座っていたのだ。凝り固まった身体をほぐそうと、微睡みの中で無意識に身じろぎしているうちに、ここまで移動してしまったのかもしれない。こんなに間を詰められていることに気づきもせず、眠りこけていたとは。オレにも、それなりの休息が必要だったらしい。
彼がわずかに首を左側に傾けているため、髪のかかった頬や首筋が暗がりに浮き上がって見える。先刻、オレが瞼越しに感じていた明るさと同じ光が窓から差し込む度、白い肌を照らした。
歳はルーキーの二つほど下のはずだ。確か、まだ二十にはなっていないと聞いた。その年齢の男の肌の質感として、これは標準的なものなのだろうか。うちの女性陣と比較しても遜色ないどころか、彼女たちの時間を数年遡らせて尚、同等かそれ以上に思えた。
静かで暗い車内がもたらす無聊で、思考能力が低下している。そうでなければ、隣で眠る若い男のスーツの襟から覗く肌を視界に留め続け、頭の中で同僚の女性たちと引き比べている現状の説明がつかなかった。戌はともかく、普段から度合いの差はあれ、露出過多の傾向の強い面々だ。常々、その露出になんの意味があるのかと訊いてみたいと思っているのだが、不要な誤解を招きそうなので実行はしていない。さらなる誤解を招きかねないので明言しておく。仕事を離れば、街ゆく魅力的な女性の動向をさりげなく目で追うくらいのことは、普通にする。
その程度の関心しか持ち合わせていないのに、窓の外を過ぎる多様な光源に映える彼の肌の白さから視線を外すことができないのは、他に見るべきものがないからだと結論づけた。夜間のフィールドワークで偶然見つけた、夜光性の植物を観察する感覚。それと同じだ。
車の進行速度が落ちている。交通量が増え、道の流れが滞り始めているらしい。この調子だと、到着はまだ先になりそうだ。客人は眠った。ミルクを嗜みながらニュースでも見て過ごそうか。音量を落とせば、睡眠の妨げにはなるまい。ディスプレイの発光が気がかりだが、そこは勘弁してもらおう。現時点では客人として迎えているが、彼は既にこちら側の人間だ。眠っているときにモニターを使うくらいは許容範囲の内、ということにした。
シートポケットからコントローラーを取り出そうとしたとき、車の速度がまた緩やかに落ちていくのが判った。前方にきつめのカーブ。運転に不慣れなのか、先行する車がカーブ直前のなんともいえないタイミングでブレーキを踏み、急激に車間が縮まる。
運転をする者のほとんどがそうであるように、このドライバーもむだなブレーキをかけたがらない。だが、自然な減速に頼ったままでは接触は免れまい。と思ったところで、インストルメントパネルのブリンカーが点滅し、車は隣の車線に滑り込んだ。それなりに密度の高い通行量の中から、そう多くはない空隙を狙い、後続に余裕を持って流れに溶ける。明敏な判断と爽快感さえ覚えるステアリング捌きは、後ろから見ていても気持ちがいい。もう一度、次は上空から眺めてみたいと思うほどに。
カーブに入ると、身体が遠心力に振られた。同時に、左の腕に軽い衝撃を受ける。予想はしていたが、すぐ後に左肩にも似たような衝撃が来た。見るまでもないのに敢えて肩へ目を動すと、案の定、彼の頭が乗っている。カーブを抜けても、その位置は変わらなかった。
ドライバーにこの窮状を訴えるため、首を伸ばしてリアビューに映り込んでみる。ドライバーが気付き、ミラー越しにコンタクトを取ることに成功した。オレは自分の肩をちらりと見た後で、またリアビューに目を戻す。眉尻を下げて困惑顔を作れば伝わるはずだ。一応、少々声を張って言葉も使う。
「…どうしたものかな」
今のカーブで、こんなことになってしまったんだ。と言外に匂わせる。事実、そのとおりなのだ。事態をドライバーと共有し、理解と納得を得ておきたかった。オレの肩を枕代わりにしているのは、男だ。ただし、女性と見紛うような顔をしている。しかも、ドライバーは彼を女性だと思っている。トランスジェンダーだと認識している可能性もあるが、それでも扱いとしては「女性」だった。
判るだろう? こんなことになってしまっているが、一点の疚しさもない。疚しくない、という主張そのものが、疚しさを感じていることの裏返しであるような気もするが、ここは目を瞑る。ミラーを通しての主張は、しっかりとドライバーに受け止められた。
「お疲れなのですね」
遊び疲れた良家の子女を微笑ましく見守る口調だった。リアビューに映る目も、優しく細められている。ドライバーは、オレが危惧しているような疑惑を抱いてはいなかった。昨今、味わったことのない種類の安堵に、ただ脱力する。
ドライバーは再び運転に専念し、オレはまた、肩に乗った金色の頭を見る。今の会話が目を覚ますきっかけになり、彼が身体を離してくれはしないかとも期待していたのだが、願いは届かなかったらしい。
時間つぶしにニュースでも見ようとしていたのが、ずいぶん前のことのようだ。もう、コントローラーに手を伸ばそうとも思わなかった。彼を起こしてまで退かすつもりはないが、女性と言われても違和感のない男にずっと肩を貸しているのも落ち着かない。…どうしたものか。
それにしても、無防備な眠りだ。走行中の車の中で、後部座席にいるオレがドライバーと会話を成立させるには、通常以上の声量が必要で、彼はそのオレに身体の側面を密着させ、頭を肩に預けた状態だったのだ。大きな声を出されれば、耳からだけではなく、触れ合った面が感知する振動もある。眠りにつく前の、警戒心の隠し場所を暗に示すような、あの作為に満ちた不信感はどこへ行った。
ドライバーが背後の様子にいかがわしい印象を抱いてはいないらしいと判っていても、離れてもらうに越したことはない。せめて、身体ひとつ分だけでも。だいたい、最初はオレから大きく距離を取り、ドアに凭れて座っていたのではなかったか。
ひっそりと注意喚起を促す際にいちばん効果的なのは、やはり咳払いだろう。満を持して勧めたものの、敢えなく断られたミルク缶ボトルをフリッジに戻すときにも、この手を使った。目に見える反応はなかったが、オレの意図は通じたと信じている。
軽く息を吸い込み、まずは一回。
…無反応。
もっと息を吸い込んで、大きめにもう一回。
彼の頭が軽く跳ねた。起きたか。いや、違う。咳払いで上下したオレの肩に連動しただけだ。ということは。
咳払いは必要ない。ゆっくりと左肩を後ろに回してみる。
彼の頭も一緒に持ち上がり、肩が降りるとともに、元に戻った。なにも変わらない。
試しに前にも回してみる。効果なし、だ。
もしや、空寝か。実際は起きていて、オレが対応に苦心する様を笑っているのではないかとさえ思えてくる。
つまらない憶測だ。そんなことをして、彼になんの得がある。得どころか、意味すらない。
最後に、だめ押しの咳払いを連発してみたが、
「アメちゃん、お出ししましょうか」
こんな声がかかる始末だった。ドライバーの背中が助手席側に傾いた。伸ばした片手でグローブボックスを探っているようだ。
「いや、いいんだ」
断りの意を返すと、微かに喉が痛んだ。もらっておいた方がよかったか。
「そうですか」
身体の傾きを直し、両手でステアリングを握り直したドライバーの呟きは、心なしか残念そうに聞こえた。オレも残念だ。返事をしてしまってから、思っていたより喉が傷んでいることに気づいた。今から、やっぱりもらおう、とは言いづらい。溜息が出る。
洩れ出した失意が作用したかのように、突如、車内の音響と色彩が一変した。縦横上下を囲むコンクリートが、風を切る音とロードノイズを騒々しく跳ね返す。窓から投げかけられるのは、先ほど夕空の裾に見たものとは質の違う、明度の低いオレンジ色の光。壁面の両脇、高い位置に、昔ながらのナトリウムランプが延々と破線を描いていた。天井に設えられた、飛行船のエンジンを長く伸ばしたような円筒状の送風機は、内部のプロペラを回転させて換気に励んでいる。
この地下トンネルは、市街中心部の渋滞緩和のため、立体的に張り巡らされた交通網のひとつだ。ここの混み具合で到着時刻が変わってくる。群れなす車列は流れているものの、快調とはいえず、いずれ緩慢な進行になると予想できた。
この先、前回と逆の湾曲を持った大きなカーブはあっただろうか。そこを一定以上の速度で通過できれば、肩も軽くなるかもしれないのだが。三たび、彼の頭を見やる。窓の外の単調な景色よりはマシかと思われたが、彫像並みに動きのないその姿を収めた光景は、互角を張る単調さだった。
金色の髪も、白い肌も、鈍く褪せたオレンジの灯りに溺れて、やけに不健康な色合いになっている。彩度に乏しい車内にあっても、前髪の向こうに長い睫毛と小さく尖った鼻先が確認できた。これが男だというのだから恐れ入る。
自分の中に、男の寝顔を眺めて楽しむ向きはない。従って、それほど見入ってはいなかったはずなのだ。彼への関心は、窓から見えるトンネル内の景色への興味と大差ない程度のものだった。
それが起こるべき機会を、オレは何度も作っていた。なぜ、そのときではなく、今なのか。彼の睫毛が小さく震えるのを目にした次の瞬間、オレは彼とがっちり見つめ合うハメになってしまった。
睫毛の震えの後、肩の上で彼の首が重心を変えたのを感じ、目を覚ます兆しだと嗅ぎ取ったまではよかったが、そこから彼ではない、どこか別のところへ目を転じるヒマまではなかった。肩に乗せた頭を上げもせず、顔の正面をこちらに向けた彼の、迷いのない視線がオレに突き刺さっている。
瞼を上げると同時に、自分が寄りかかっていたものの目に焦点を合わせる。予め、そう決めていたのではないかと思わせるような視線だった。全く予期していなかったものだから、オレの視線も無遠慮なまま、彼の顔に注がれている。今となっては、目を逸らすのも気まずい。手遅れだ。せいぜい、心中のたじろぎを気力で抑え込み、彼にそれを見破らせない大人の余裕を装うくらいしか策がない。
この場にふさわしい言葉はどれだ。目が覚めたか。疲れていたようだな。まだ休んでいて構わない。なんでもいい。大人らしい言葉で先制し、自身の動揺を鎮め、平静を取り戻したかった。繋がった視線を断ち切るきっかけにもなる。
「少しは眠れたか」
そう言おうとした第一声が、むだな咳払いに傷んだ喉に張りついて引っ掛かった。ドライバーの厚意を受けなかったことが悔やまれる。声を通すために、むだではない咳払いをしかけたとき、彼の唇が開いた。
「なにを見ている」
小さいが、はっきりとした声が耳を打ち、肩から音の波が伝わる。思わず、目を瞠った。彼が先んじて言葉を発し、オレの出鼻を挫いたから、だけではない。彼の頭は、まだオレの肩にある。その姿勢で訊くことか。唖然として彼の顔を凝視する。まさか、真顔で冗談を言っているわけではあるまい。大きな瞳には、静かに答えを急かすような力が湛えられていた。
「あ、いや、なにをというわけではないんだが」
口を衝いた答えは、あまりにも間抜けたものだった。大人の余裕が聞いて呆れる。挙句、なんとか押し出した声は掠れていた。経緯を知らない者が見れば、オレが彼に圧倒されているように映るに違いなかった。起きたのなら、いい加減に離れたらどうだ。大人の威厳を以ってそう言ってもいいのだろうが、それではあまりに大人げない。
運転席が気にかかる。彼が目を覚ましたことに、ドライバーが気づかないよう祈った。正しくは、既に目を覚ましている彼が、未だオレの肩に寄り添い、さらにはその状態で会話までしていることに。ドライバーは厚い信用に足る人物だが、窮地に追い込まれたオレ個人の立場を守る者ではない。信用に繋がっているのは、組織と職務への忠実さだ。
これは、彼が眠っていたから許される、不可抗力に近い接触だった。何度でも言うが、疚しくなどない。しかし、切り取られたこの場面を目にした第三者には、充分に疚しい間柄を想起させることができる。幹部層に属するオレが、協会専用車での移動中に若い娘と身体を寄せ合っていたという話が出回れば、公私混同の謗りを受けても言い逃れできない。若い娘ではなく若い娘に見える男だった、となると、なお厳しくなる。切り取られた画が事実であるか否かは、第三者にとってはどうでもいい話なのだ。
彼の目は、まだオレを捕らえている。先ほどから、どうにも具合が悪い。人間関係の構築に慎重で、容易には胸襟を開かない。そう見積もって臨んだ昨日の会談では、読みどおりの間合いの取り方をしていた彼だが、今はその思考を図れずにいる。少し前に、王子の扱いや緋の眼に言及したときにはなかった要素だ。
ルーキーの推薦を受け、浅からぬ情報を収集した結果を鑑みて獲得に踏み切った人材だというのに、強い不安が湧く。微妙にズレた世界に飛ばされ、そこに棲む彼の虚像に相対している気分だった。
瞬きついでに彼の目から無理やり視線を剥がし、リアビューの隅、ドライバーに悟られないに位置に移す。トンネル内の暗い照明では細部まで映りはしないとも思えたが、念のため、顔を俯けて視線の出処を帽子の陰ぎりぎりに隠した。リアビューでは、オレの顔ほぼ半分と頭をオレの肩に置いた彼の髪がわずかに見えるだけのはずだ。
後部座席の様子の変化を知っているのならば、遠からずオレたちに目を留めるだろう。もちろん、窃視するためではない。純然たる後方確認に付随して視界に入ってしまうからだ。ただし、怪しげな雰囲気を察知したときに、一片の注意も向けずに無反応を貫くのは難しい。
背後で交わされた会話が、ドライバーの耳に届いている可能性は低いと判じた。彼の声は、車内に充満するさまざまなノイズを考慮したうえで、オレにだけ聞こえるように調節されたものだ。感覚的に、そう理解できた。つまりは、彼もドライバーに気取られないよう意識していたということになる。存在しない疚しさへの憂慮は、こういった部分にも起因している。
しばらくリアビューの中でドライバーの目の動きを追ってみたが、取り越し苦労に終わった。視線がオレたちの上を通り過ぎることはあっても、そこで止まることはなかった。
「…男というのはみんなそうなのか?」
耳許で、また声がした。潜められているのに輪郭の濃い声。脈絡の掴めない言葉。引き戻された視線に、彼の視線が絡みつく。絡みつく、という表現が浮かんだ途端、頭の奥で警鐘が鳴り出した。至近距離での上目遣いに、心拍数が上がり始めている自分が恐ろしい。
君こそなにを言っている。最初に問われた際に、そう返して封じておくべきだった。男が男の肩に頭をもたせかけて言う台詞か。と、笑って捌いておいてもよかった。
「そう、とは?」
意味の判らない質問に対し、やはり掠れ気味の声で辛うじて言葉を出しながら、薬物か度を越したアルコールの影響を考える。いや、そんな情報は全く上がって来なかった。むしろ、その手のものを忌避する気質だという判断を下す材料ばかりだった。
オレを見上げる黒い瞳の表面で、光の干渉を受けた薄い油膜のように雑多な色彩が揺らめいている。優越、軽蔑、誘惑、煽動、淫蕩。策略めいたものを感じ、軽い恐怖を覚えた。これらは恐らく、彼が瞼を開いたときから伏在していた。もしかすると、彼の頭がオレの肩に落ちたときには、既に。兆候を見落としていたオレが迂闊だったとしか言いようがない。
操作系の念能力者の関与はどうだろう。だとしたら、何者だ。あの黒スーツか。陰鬱とした男の顔がよぎる。あれだけ彼の暗黒大陸行きを難色を示し、今日は見送りにさえ出なかった。だが、どんな効果を狙って、なんのために。嫉妬が原因ではあり得ない。苦しむのは黒スーツ自身だ。それ以前に、陰鬱な顔をしていても、陰湿な性格をした男ではないと、オレは知っている。若干の陰険さは否めないが。
「私に言わせようとしているのなら、大した趣味だ」
柔らかな吐息を伴った、突き放すような短い笑い声にくすぐられ、駆け巡る思索は死んだ。起きてはならない問題が起きる予感に、寒気がした。保身を優先し、自分だけで終結させようとしていたが、ドライバーの目を掻い潜って解決を目指そうとするのは、とんでもない失策だったと悟る。彼を正気に戻すのが先決だ。今からでもいい。誤解を恐れず、ドライバーに状況を報せ、停車の指示を出す。オレが今座っている席を離れれば、肩の頭は勝手に居場所を見つけるだろう。
上り車線最後のパーキングエリアは、十数キロメートル先だったと記憶している。トンネルを出たら、パーキングエリアに入れてくれ。そう言うつもりで、運転席へと身を乗り出しかけたオレの腕を、そっと押し留めた手があった。彼の、左手。
右手はオレの腿の上に置かれていた。その手が動く。細い指を淫靡に蠢かせながら、滑るように腿を這い上がり、
「どの男も、ここは雄弁だな」
ついには服の上から性器を包んだ。瞬間、勃っていることに気づかされる。なんだ、この感覚は。おかしい。眠気はない。尿意もない。性的な欲求があるはずもなかった。寝起きでもないのに、気づかなかったなんてことがあるだろうか。肩にしなだれかかった子供同然の年齢の男に、ここまで好き勝手させているなんてことも、また。
さすがに目に余る。場合によっては"密室裁判"の発動も止むなし、か。
「おい…」
勧告だけはしておこうと上げた声は、にべもなく聞き流された。
「獣の扱いは心得ている。そう言わなかったか」
柔らかな圧力がかかる。緩められ、また静かに握られた。零れそうになる呻き声を堪える。誤解を恐れない、などという気概で乗りきれるラインは、とうに超えてしまっていた。こうなっては、不自然なところが多々あろうとも、絶対にドライバーに気づかれてはならない。
「獣? オレが?」
水分が飛んでしまったような喉から、声を絞り出した。払い除ければいいものを、オレはこのしなやかに動く指をまだ排除できずにいる。
「家畜の間違いだ、と言うのなら訂正する」
どちらも失礼だろう。と思ったが、黒と白のまだら模様をしたこのスーツを着て、それを口にするのは憚られた。オレは、十二支んの良心と謳われる男。こんな挑発に乗るような俗物ではない。
「大人をからかうのは感心しないな」
大丈夫、オレはもう冷静だ。改めて彼に向けた声は、低く落ち着いている。先ほどまでは掠れ声に助けられていたが、今は自分の意思でドライバーには届かない声量で話せる。しかし、冷静さは長続きしなかった。
「操作パネルはキミの方が近いようだ」
彼の囁き声が、まったく繋がりのないところへ話を飛ばす。囁き返すのが精一杯だった。
「どういう意味だ」
「私は見られても構わないが」
性器を離れた指がファスナーにかかり、彼の言わんとしていることを理解した。再び運転席へ身を乗り出すオレを、彼は止めなかった。
「すまんが、閉めてさせてくれ。機密に関わる話だ」
さも、進行中の任務の局面が急転したかのような口ぶりで告げる。容喙を防ぐための、白々しいパフォーマンスだ。判っている。そんな下世話な真似をするドライバーではない。これは、オレが繰り返した判断ミスの末に生まれた袋小路なのだ。どの段階で助けを請うのが正解だったのだろうか。ドライバーを欺いて締め出す罪悪感を潰すようにして、アームレストに埋め込まれた操作パネルにあるボタンのひとつを押した。
「承知しました」
ドライバーの返答に小さなモーター音が重なり、運転席と後部座席とを隔てるパーティションがせり上がる。切り離されつつある前方の空間では、用を成さなくなるリアビューに代わって、バックモニターが起動していた。
小さな密室が出来上がるのを待ちながら、自分への言い訳を並べてみる。彼の指に屈して、ドライバーの目から逃れたわけではない。どちらかといえば、彼のためだ。他人の前で叱責されて気分を悪くしない者はいまい。この狎褻な態度についての叱責とくれば、なおのことだろう。…虚しい。理由も判らないまま、少女のような美しい男に煽られ、毅然とした対応もできずに、ただ翻弄される姿を目撃されたくなかっただけじゃないか。
モーター音が消える。パーティションが上がり切ったようだ。誰かに精神を侵蝕されているのか、彼の本質が暴走しているのかは判らないが、いい大人がこのまま流され続けてもいられない。正攻法で働きかけることにする。
早いところ決着をつけて、いつもの自分に戻ろう。ゆっくりと深い息を取り、丹田に力を入れた。今なら喉も言うことを聞いてくれそうだ。パーティションを抜けない程度の声を、腹から出す。
「そこまでにしておいた方がいい。お互い、不愉快な思いをすることはないだろう」
返事はない。どうやら気づきを与えることができたらしい。増長を指摘され、返す言葉もないのだろう。そこはかとない達成感が湧く。初めから、正面切って諭すべきだった。後は、オレから身体を離してくれさえすれば、それでいい。
身体を離してくれ、さえ…すれば。
下腹部の違和感に視線を落とし、息を呑んだ。肩にあったはずの彼の頭が、オレの胸許にまで降りている。その頭の陰になって見えないが、みなぎった性器が外気に晒されているのは判った。いつの間に、なにが起こって、こうなっているのか。
細い髪の先が、性器に触れていた。ひどく喉が渇く。つい生唾を飲んでしまい、喉が大きな音を立てた。今しがた、彼を諌めた声の重さにはそぐわない音だった。それでも、拒否し続けなくては取り返しのつかないことになる。
「悪いな。そういう趣味はないんだ」
意味は通じるはずだ。男を相手にするなど、今日、彼の手に触れられるまで、可能性の欠片すら浮かばなかった。たとえ、彼が女性であったとしても、走行中の車内、ましてや仕事での移動の最中に不埒な行いに耽るわけもない。
交換条件の結果とはいえ、彼は目的を同じくする仲間だ。これからの関係にひびが入らないよう、穏当な言葉を選んだつもりだったが、功を奏したとは言い難い。屹立した性器を露出させられた状態で生唾を飲み下しているような男のセリフは、説得力、信憑性、共に疑問符なしでは成立しそうになかった。
「そうか? 私は…」
やはり、疑問符を付けた彼が、首を捻ってオレを仰ぎ見た。前髪の隙間から、オレの様子を探るような瞳が覗き、すぐに消える。再び彼の顔が俯くと、剥き出しの先端に、温かな液体が落ちた。腰の内側を素早く撫でられたような快感、失われていく温かさから一拍遅れて、それが彼の口から滴ったものだと認知する。
「…これが嫌いな男に会ったことがない」
彼の指が性器を握り込み、唾液に濡れた先端を、親指の腹で緩やかに捏ね回した。
やめろ。言うべき一言が出ない。聞いたばかりの彼の言葉に妙な引っ掛かりを覚えながらも、先端に受ける感覚を味わいそうになっていた。耳の奥が異議を唱える。なにが引っ掛かっている。頭がうまく働いていない。
「むしろ、無理にでもさせようとする方が多いくらいだ」
なんと言った? 無能な思考回路が、ようやく先ほどからの引っ掛かりの正体を突き止めた。ぼんやりと見えてはいたが、直視すまいと目を逸らしてきた影だ。彼を欲望の対象にする男がいる。彼の言葉を反芻するに、その人数は少なくはなさそうだ。そうやって今の地位を手に入れ、緋の眼を取り戻してきたのだとしたら、この行為の意味が見えてくる。
"凝"を使うまでもない。操作系の念能力者の影響、という線は消えた。彼は自らの意思で、オレを籠絡しようとしているらしい。おそらくは、王子の情報をもたらしたオレに、借りを作りたくないのだ。王子の件は感謝している、とは言ったものの、その言葉だけでは釣り合わないと考えたのかもしれない。そうでなければ、彼の都合に絡んだ、リスクの大きい取引を持ちかけるためか。負債の天秤を自分の方に傾けたくないのだろう。どちらにせよ、オレは受け取れない。もちろん、彼が女性であったとしても、だ。
ルーキーの、黒スーツの顔が浮かぶ。二人とも、やけに彼にこだわっていた。
彼との再会に高揚感を隠しきれない男と、彼の旅立ちに喪失感を押し隠す男。
彼が裏社会に足を踏み入れる前の仲間と、彼を裏社会で支え続けてきた部下。
二人が、彼と関係を持ったことがあるかどうかは知らない。だが、二人とも特別な存在だと思っているのだ。彼のことを。その彼に、こんなことをさせてはいけない。王子の情報を借りだと感じるのなら、暗黒大陸での成果で返してもらおう。
親指で先端の切れ目を撫でるのと並行して、残りの四本の指が性器を握り、根元を中心点にした細い円錐の軌道を辿り続けていた。重機のジョイスティックのような扱いに、器用なものだ、などと感心している場合ではない。一往復ごとに手首をしならせながら、密着した掌が細かい振り幅で緩慢に上下し、指先たちが性器の側面を不規則に優しく叩く。
足りない。この不道徳から脱しようと足掻く一方、心の片隅で、そんなふうに思っている自分がいる。これが自分で正規のパートナーだと認めた相手なら、もっと強く、もしくは、もっと早く、くらいの要求はしているかもしれない。
物理的かつ直截的な拒絶を避けていた。なにが起きてもおかしくない暗黒大陸で、個々の連携は命綱だ。同じ情報班として任務に就く彼との間に遺恨を残しては、今後の任務に支障が出る恐れがある。
しかし、不道徳な事態は悪化の一途を辿るばかりで、好転の兆しもない。このままでは、現地での連携どころか、オレの中の重要ななにかが損なわれてしまう。和を守るためとはいえ、これ以上、防戦を強いられるわけにはいかなかった。
彼の手首を取り、その場所から引き剥がす。力に頼って自身に不要な痛みを与えては、本末転倒というものだ。申し訳ないが、ここは彼の掌の根元の両脇を指で締め上げ、手離さざるを得ない状態に持っていくとしよう。
そう計算して伸ばした手が届く、ほんのわずか前。蝶が飛び立つように、彼の手はオレから離れた。そうだ、それでいい。と思ったのも束の間、その手が、すぐ近くに迫っていたオレの手を撥ねつける。直後、自由を得たはずの性器が、湿った熱に包まれた。
理解が追いつかないうちに、快感が込み上げ、
「…っぅ!」
肺のあたりから呻き声が押し出された。服の上から握られたときには堪えたが、今度は耐え切れなかった。奥歯を強く噛み合わせ、また押し出されそうになる声を抑える。パーティションの存在に感謝せずにはいられない。
我知らず、背筋、首筋が伸びていた。その姿勢のまま、視線をまっすぐ下げれば、快楽の中心に彼の頭があった。既に理解はできている。オレの性器は、根元まで彼の唇の向こうに呑み込まれ、先端は喉の奥で定期的に絶妙な締めつけを受けていた。
初めての感覚だった。口での愛撫が、という意味ではない。特定の女性と交際し、同じ夜を過ごすことが増えてくれば、まあ、そういうことも多々ある。相手が男であることについては論外なので、今は敢えて触れない。要するに、こんなにも深く咥え込み、喉全体を締めて扱くような手法を行使された経験が、オレにはなかった、という話だ。
オレの経験の多寡の問題ではなく、これは職業的な技巧なのだと思う。口腔はおろか、咽頭までもがオレの性器で塞がれているのだから、苦しくないはずがない。自分で言うのもなんだが、過去には規格の不適合でパートナーとの終焉を迎えたこともある身だ。それを、いとも簡単そうに。回数をこなして、慣れているとしか考えられない。
できれば念能力など使わずに収束させたかったが、そうも言っていられなくなった。彼の暴走を止めねばならない。昨日、成り行きで黒スーツの前で披露してみせた"密室裁判"は、彼が地下から現れると同時に解除した。手の内は知られていないはずだ。"密室裁判"。現況においては、なんと皮肉なネーミングであることか。
まずは"警告"の言葉を彼の耳に入れ、カードを視認させるために、顔を上げさせなくてはならない。"拘束"にまで発展することなく済むことを祈りながら、口を開いた。うっかり喘いでしまわないよう、砕心して発音する。
「け…いこく…」
異変には、すぐ気づいた。カードが出現しない。違う。念の方向が定まらない。まるで、磁場の狂った土地で振れ続けるコンパスの針だ。できて当たり前のことができないことに、愕然とする。
当の彼は、こうなることを予見していたのか、単純に聞こえていないのか、素知らぬ様子で舌と喉を動かし続けている。情感は全くなく、だからといって、ことさら冷めた態度を強調してくるわけでもない。なんの思惑もなく、ただ本能に従っているだけにも見えた。乳児期の吸啜反射を備えたまま、この年齢に達してしまったかのような嚥下力の強さに、性器が引き抜かれてしまいそうだ。
先ほどの異変の感触から、今も念の統制が利かないのは判っていたが、むだを承知で試してみる。
「警告…だ」
果たして、カードを掴む形を作った指の間にはなにも現れなかった。それでも、繰り返す。
「警告する」
相手の見た目がどうであれ、自分の性器が男の口の中にあることが受け入れ難い。このうえ、彼の喉の奥に射精してしまうなどという失態はなんとしてでも避けたかった。保たせるだけで気息奄々だ。もはや、カードの有無などに構ってはいられない。彼だけにしか聞こえないよう、声を抑えて叫ぶ。
「やめるんだ! このままではオレの生乳が特濃になってしまう!!」
我が耳を疑う。下品な。なんだ、今のは。オレが言ったのか。それに加え、なぜか彼の動きが、ぴたりと停まっていた。"拘束"は、まだ発動させていない。いや、そもそも、まともに念を操れていないのだ。"警告"の段階から能力として不完全だった。
急に訪れた小休止に気が逸れた刹那、再び性器に圧力がかかった。口蓋と舌に挟まれ、喉で締められる。そこだけ力を入れていないらしい舌は柔らかく広がり、左右に振れながら、オレを追い詰めた。こんな理不尽な環境で射精してたまるものか。強く吸われるようにして、ゆっくりと扱き上げられたオレは、声を殺して耐え切ることに全神経を注ぐ。
性器は根元から徐々に締めつけを解かれ、空気に触れて冷えた。やがて、唇の内側が先端のくびれを捕らえるに至ると、彼は唇だけでその返しの部分を甘噛みし始めた。尖らせた舌が、かすかに触れる程度の力加減で切れ込みの淵を周回する。腰と腿の細かな震えが止まらない。きっとオレの首筋には、幾本もの血管が浮かび上がっているに違いなかった。
ひとしきり先端だけを弄び、いい加減、飽きてきたのか、オレがなかなか射精しないと見て諦めたか、ようやく屈辱の時間が終わる気配がした。上から舌全体で粘膜をやんわりと押さえ、張り出したところを締めた唇の裏で包んだ状態で吸い上げる。最後は切れ込みに触れていた舌の先が、先走ったものを拭って上下の唇の間に収まり、軽い口づけの後のような淡白さで性器の頂点から離れた。
助かった、というのが正直な気持ちだった。我ながら、よく耐えたと思う。それにしても、念の制御が利かない原因が判らないのが気がかりだ。"警告"抜きでカードを可視化させるくらいなら、問題なくできるだろうか。右手を開いて見やり、そこにオーラを集めようとしたとき、顔を起こした彼に視界を遮られた。
「…無粋だな」
同じく、開いた右手を内側に向けた彼は、オレを苛み続けた唇を中指の先でそっとなぞる。使いこなせなくなったかもしれない能力を確認するのは無粋だ、という意味に聞こえた。ルーキーとの通話の後で、彼は自身の能力を「大陸攻略に役立つとは思えない」と評していた。それが、他者の念能力を制御する能力ならば、頷ける。先刻の念の不具合は、彼に仕組まれたものだったのだ。対念能力者でなければ存分に発揮することのできない能力は、確かに未知の生物相手に効果大とは言えまい。
そんな自分の推論に納得しかけたとき、添えられた中指の先を中心に、彼の唇の両端が艶然と持ち上がった。車は前にも増して低速進行となり、未だトンネル内に留まっている。くすんだオレンジ色の世界で見る、美しくも露悪的な笑みに、心臓のあたりが小さく竦んだ。
「家畜は家畜らしく、搾り出されておけばいいものを」
微笑の形をした唇から放たれた驕慢な言葉に、その竦んだ心臓を握られた気がした。一瞬にして、無粋なのは、快楽に逆らい、生理的欲求を捻じ伏せたオレの堅忍である、という意味に塗り替えられる。
認めたくはないのだが。オレは彼に怯えていた。彼のハンターとしての資質や、まだ見ぬ実力に、ではなく、理性の欠落した行為を理性的に推し進めてくる様相に。
オレが彼に性的な関心を持っていないことは、当人も判っているはずだ。そのオレに躊躇もなく行為を仕掛け、拒否にも抵抗にも動じず、企図したことを完遂しようとした。
プロフィール写真から抱いた「裏社会に流れ着いた亡国の姫君」という印象は、もう跡形もない。血腥い惨事の末、天涯孤独の不幸に叩き落とされたやんごとなき無垢な子供は、あらゆる意味での身の危険に晒されながらも、大きく歪むこともなく、清廉さを残したまま、陽の当たらない世界へ落ち延び、それまでに得た見聞と天性の才覚で生きる場所を確立した。
そんなもの、オレが勝手に作り上げた幻想だ。彼の真相は、彼の中にしかない。オレは、本業であまた直面する汚れきった人生の事例を、写真上の生真面目で融通の利かなそうな面差しに重ねたくなかったのだろう。自我に目覚めて以降、いささかの汚れもない人間など、どこにもいない。
思考の乱れが、耳から入ってくる衣擦れの音への警戒を怠った。シートの背もたれや座面が弾むように揺れたのを感じ、隣の彼に目をやって初めて衣擦れの音源に気づく。
彼が自分の腹の前で両手を動かすのが見えた。緩めたスーツの腰周りに両の親指を差し込んで背中を反らし、尻を浮かせると、トンネル内の照明に染まった素肌が露出した。驚きのあまり、声すら出ない。まともに見ることもできなかった、ということにもしたかったが、実際は視点が固定されてしまっていた。
膝近くまで服を降ろした彼が、シートに座り直す。なめらかな動きで足から抜き取り、シートの上へ投げ捨てるようにして、脱いだものを手離した。靴はすでにない。薄手の黒いソックスが、彼の膝の上までを覆っている。太腿の中ほどに、皮革製と思しきソックスガーター。男の足とは思えない、艶めかしい曲線が、オレの目を打った。
オレに寄り添うように、彼が身体を傾ける。と、オレから遠い方の足が持ち上がり、座っているオレを跨いだ。上からボタンを二つ外したシャツの胸が眼前を横切り、瞬く間もなく離れたときには、シートに膝をついた彼に見下ろされていた。一方の手で、オレの肩越しにヘッドレストを掴み、余った片手の指先をセンターピラーについて、後ろに体重をかけた体勢。それだけではまだ天井の高さに難があるのか、小さく首を横に倒している。
驚きはあるが、表層には出ていないだろう。なにをしているんだ、と咎める気力も湧かない。男の口の中で性器を蹂躙されたことと、念の不具合がメンタルに及ぼす影響は甚大だった。感情を表すための回路がすっかり麻痺したオレは、車内の天井付近にある端正な顔を、ただ見上げる。
見つめ合う無言の数秒に、不意に石が投じられた。彼の身体がわずかに動いた拍子に、まだ固さを保っている性器に冷たい肌が触れたのだ。触れたのは彼の内腿、その付け根にかなり近い部分だと思い当たった途端、恐慌状態に陥った。一歩間違えば、互いの性器が触れていたのではないか。
全身を震えが駆け抜けた。ありえない。弾かれたように視線を降下させる。スーツの下を脱ぎ去ったのは見た。たとえ下着越しであっても許容できることではないが、穿いていない可能性もあることに気づいて、眩暈に襲われる。必死に目を凝らすものの、車内が暗いうえに、彼のシャツの裾が邪魔で確認できない。判ったのは、こんな状況にありながら、オレ自身が全く萎えていないという、信じ難い現実だった。下になにも着けていないかもしれない男が、接触ぎりぎりの位置でオレに跨がっているのに。
彼の容貌のせいだろうか。視覚情報から彼を女性だと誤認しているらしい、脳の識別力の低さを呪う。ともすれば、並の女性以上の美しさを持った男の媚態に対する耐性がない。
ふと思った。彼の方はどうなっている。欲望の対象はどこにある。どちらにも問題なく対応できるのか。その疑問が産んだ焦燥に再び視線を上げると、彼の目は変わらずオレに据えられていた。両端の上がった唇が、さらに弧を深める。そこから、先ほどオレの心臓を竦ませた言葉の酷薄さから一転した、慈悲さえ感じられる声が降ってきた。
「受け身になるのは初めてか?」
片方ずつ時間をかけて、彼が膝を外側に向けて起こす。シャツの裾が割れ、開いた脚の中心にあるものが露わになろうとしていた。こちらに向かって突き出された彼の腰が、オレの性器の真上で静止する。
まずい。オレのハンター人生最大の事故発生の危機だ。自分のこめかみに脂汗が浮いているのが判る。生命の危機を感じたことは幾度かあるが、貞操の危機を感じるのは初めてだった。それも、相手は男だ。
できれば、間近に迫るその場所を見たくはなかった。下着の有無を確かめるのとは話が違う。どんな状態になっていようと、それはそれ以外のなにものでもない。だが、なにも見ないままでいることも恐ろしかった。
不本意ではあるが、角度を広げていくシャツの裾の合わせに注視する。なぜ今、ここで、それを見定めねばならないような目に遭っているのか。遠い島国の公衆浴場でだって、もっと遠慮のある距離感を尊重するものだろう。
異常な空間に閉じ込めらた緊張に身を強張らせながら、ほとんど使い物になっていない頭の隅で考える。これから目の当りにすることとなる器官の先端がどの方向を指していれば、精神的な深手を負わずに済むのだろうか。自らの手で退路を塞いだ挙句、逃げ場もなく煩悶しているのだから世話がない。
隠しもしない剥き出しの欲情を見てしまうのが最悪の極みであると承知しているが、なんの変化もないというのも、オレにはまるで魅力がないと断じられた気がして自信を失ってしまいそうだ。オレの誤解で「彼」だと思い込んでいただけで、実は見た目どおり女性だった、という顛末であれば、どんなに救われることか知れない。相手が女性ならば、心に手ひどい傷を与えることなく拒む技量くらいは持っているつもりだ。少なくとも、男に迫られて混乱をきたした脳を落ち着かせることはできる。
ほんの一瞬、見ることができればいい。自分が何者と交わりかけているのかが判らないのが怖いのだ。そのためだけに、大きく割れたシャツの奥を確認しようと意識を集中させるが、どういうわけか、あと少しというところで焦点がぼやけ、幻惑されてしまう。"密室裁判"と同じで、何度やってもむだだった。埒が明かない。
他になにか方法はないかと懸命に画策する。知恵を捏ね繰り回した結果、シャツに包まれた別の部分に気休めを見出す手立てを得た。なにも、それそのものを見て判断する必要はない。シャツの裾ではなく、もっと上に、オレにはない隆起を探す。強い期待はないが、一縷の望みではあった。
明るさも色彩も不充分なせいで、彼の姿は影に均され、起伏の差が判りにくい。ジャケットのボタンは全て外されていたが、襟や身頃が影に加担してしまっているという有様だ。諦めきれず、彼がオレの両足を跨ぎ越したとき、視界いっぱいに近づいたシャツの胸許を脳裏に呼び起こす。だが、残念なことに。なにも浮かんではこなかった。記憶に留まるほどの膨らみがなかったのだから、やはり、そういうことなのだろう。
先端にまた彼の肌が触れ、胸許に気を取られすぎていたことを自覚した。今度はどこが接触したのかと慄く。反射的に腰が跳ね上がってしまい、その勢いで先端が丸ごと他人の内部の体温に包まれた。
なんてことだ。身体の末端から血の気が失われていく。そこだけが異様に熱い。
時を同じくして、吐息混じりの鼻にかかった声が頭上から聞こえてきた。これまで、どちらのものともつかなかった彼の声に、初めて女性的な響きを感じ、ぞくりとする。声につられて目を上げると、かすかに寄せた眉の下で淫靡でありながら、冷徹な光を宿した瞳が待ち受けていた。ずっとオレを見ていたらしい。薄く開いた口許には、まだ笑みがあった。複合的な衝撃に失神してしまいそうだった。
一度ならず、彼に「家畜」と呼ばわれたことを思い出す。魔獣の爪の下に敷かれた家畜。生きるためではなく、退屈しのぎのために、魔獣はその爪で獲物の尊厳を引き裂こうとしている。なぜ、この行為をなんらかの取引の代償だなどと考えたのだろう。今日、彼と顔を合わせてから向こう、オレが優位に立っていたことなどなかった。上からものを見る日常に慣れきっていたのは認めざるをえないが、身を以て知らされるのなら、別の形であって欲しかった。
彼の熱が性器を侵犯していく。完全に、とまではいかないが、いつからか身体の自由が利かなくなっていた。神話の中に棲む三姉妹の末娘と対峙しているかのようだ。あるいは、抗う術を自ら放棄したのだと、自分で気づいていないだけなのか。なされるがまま、彼の中に取り込まれつつあった。
彼の中? 現実に引き戻される。いったい、オレは彼のどこに導かれている。性器に絡みつく粘膜の隧道は、これまでに集積された彼についての情報、どれと照らし合わせても、本来の機能を逸脱した箇所だという結論にしか達しない。確かに、その結論を裏付ける強い圧迫感がある。しかし、経験したことがないほどの窮屈さでもない、という実感もあった。
かつて、規格の不適合が問題になった相手は、特に小柄なわけでもない、体格的には普通の成人女性たちだった。多感な時期を迎える頃には、見た者から驚嘆の声が上がったり、絶句されたりということもあったので、自分の規格については幾分、平均を超えているらしい、程度の認識を持っていた。
やがて、仲間内の誰からともなく、いかがわしい雑誌などが持ち込まれて回し読みされる時代に入ると、それらの媒体の中で、合成か作り物ではないかと疑いたくなるような代物を、少なからず目にするようになる。その時代特有の悪ふざけで、周囲と比較させられるハメになる度、優越感よりも羞恥や困惑の渦中に置かれていたオレは、その常軌を逸したレベルの存在に安堵したものだ。
当時の羞恥や困惑など大したものではなかったと知るのは、いかがわしい媒体から拾った使えそうな知識や、仲間内の先駆者の情報を駆使して、いわゆる「実践」に臨んだときだった。
これから始まることに興味と期待を持っていたはずの相手は、事態が進むにつれ、痛みを訴え、怯えた。苦痛に顔を歪めながらも笑顔を作り、なんとかオレを受け入れようとはしていた。もちろん、オレも痛みを和らげ、不安を取り除こうと、できる限りの努力はした。若い恋の大半がそうであるように、根拠もなく二人で歩む未来を信じていたせいか、行為を成就させることに固執したのがよくなかったのだろう。
試行錯誤に終止符を打ったのは、ようやく三分の一ほど入ったところで、覆い被さるオレの双肩を押し返した、相手の両足だった。
「ごめん、やっぱり無理…」
突っ張るようにしてオレの上半身を食い止める足の予想外の力と、その間から見える歪んだ笑顔から溢れる涙にも驚いたが、身体を離してから気づいたシーツの鮮血にはもっと驚かされた。予め、オレが初めてではないと聞かされていたのだ。破瓜ではない。出血の原因は、相手の性器の入り口にできた裂傷だった。そのときの気まずさたるや、である。
互いの仕様が、平均域から少しだけ逆の方向に脱していたのだと思う。それが直接の理由ではないが、一因ではあったのは間違いない。二人の関係は長くは続かなかった。
相手が変われば、反応も変わる。だが、どんなに気を遣っても、大抵は相手に負担を強いることになった。自分を抑えて慎重に挿れ進んだはいいが、すぐに最深部に到達してしまう場合がほとんどだ。そのうち、自身を七、八割ほど収めたあたりが大体の限度だと覚った。迂闊にも、昂りに流されて本気で動いてしまい、不興を買ったり、調整のために奥を探っているうちに、相手の反応に気づかないまま体力を奪い尽くし、自己嫌悪に陥ったり、ということも珍しくなかった。
回を重ねるごとに身体が順応してくるのか、不適合を乗り越えて長く続いた相手もいる。行為を知ってから、それに没頭できるようになるまで、随分と時間がかかった。どちらも無理することなく満たされたときには、彼女こそが運命の相手だと確信したのだが、今では遠い思い出となってしまっている。
いや、別に過去の苦悩を語りたかったわけではない。つまりは、そんなところに入るはずがないのだ、という話だ。自分で目安としている七、八割は、もう彼の中に呑まれている。至極重要な場面で女性に敬遠されることの多かったオレを易々と埋めていくこの場所がそんなところだと納得し、甘受したくはなかった。一縷の望みを捨てるのはまだ早い。
もっとも、男と寝たことなどないオレには、感覚的な対比ができない。ここまで埋もれていれば、先端が奥に当たっていてもよさそうなものだが、それすらも判らなかった。確認するために腰を動かすような愚の至りも犯したくない。
徐行と言っていい速度で、車は目的地への距離を地道に稼ぐ。確かに流れは悪いが、このトンネルはこんなに長かっただろうか。後部座席の窓にはプライバシー保護のための偏光加工が施されているものの、光の加減や角度によっては中の大雑把な様子を知るくらいは造作ない。今、条件を満たした者が協会専用車の内部に意識を向けたとしたら、さぞ悪趣味な見世物に遭遇することになるだろう。オレはともかく、彼の姿勢はごまかしようもなかった。目撃者から広まった伝聞が然るべきところまで届くさまを想像しかけて、頓挫した。
両腿に彼が座ったのだ。体重はかけられてはいないが、問題はそこではない。オレは彼の中に、完全に埋没していた。大袈裟ではなく、目の前が暗くなる。人生の終末を迎えた気分だ。
一縷の望みに縋り、その証左を求める。普通なら、先端が押し返されていてもおかしくなかった。それなのに、判らない。この先があるのか、ここが最奥なのか。そもそも、この場所はどこなんだ。湧き出る疑問が一周して、元の疑問に戻る。柔らかな肉壁は、脈拍のような律動でオレを締め続けていた。
裂傷、擦過傷、不正出血、下腹部の鈍痛。往々にして行為の後には、いずれかの症状を訴えられてきた。この圧迫感だ。彼とて例外ではあるまい。例外以前に、場所が違う可能性が大きかった。無傷で済む気はしない。そう思って、その表情を窺う。
細いあごを上げた彼の目は眠たげに細められ、視線はオレから外れていた。こちらには全く注意が向けられていない。仄かな喜悦が浮かぶ顔は、ただ美しかった。酔っているような、受け入れた感覚を味わっているようなしどけなさに、つい目を奪われる。
ふと、その蠱惑的な顔のすぐ下に、一縷の望みに繋がる要因があることを思い出した。無防備に晒された喉許。両耳の下から鎖骨の中心に向かって走る筋が作る逆三角形の中に、性差の象徴を探す。
昨日、彼がオレの前に現れたとき、やや小柄だが、手足の長い男だと思った。なにを着ても服に負けない、得な体型をしている、とも。こうして見ると、小さな顔を支えている首も長い。
目当てのものは、見つからなかった。自分が判断材料として掲げた着目点なのに、どうにも決め手に欠けるのは、それの目立たない男も、目視で判るほどに張り出した女性も、特に少なくはないと知っているからだ。確かに喉仏は見当たらない。だが、それを理由に女性だと思い込んでは危険だろう。奥深くオレを招じ入れ、根元に尻を密着させている相手が、生物学上の組み合わせとして正しいかどうか見極めるつもりが、ますます判らなくなっていく。
長く見つめすぎたらしい。彼に気づかれた。表情はそのままに、瞳だけが動いてオレを捕らえる。淫に耽る顔を他人に見られるのは、相応の羞恥が伴うものだと思っていたが、彼は違うようだった。オレから目を背けることなく、綻んだ唇で歪んだ三日月のような微笑みを作る。小さく舌先を出し、上唇をゆっくりと舐めた後で、
「…悪くないな」
彼はオレに向けて、そう呟いた。
悪くない。彼の言葉が頭の中で繰り返される。修羅場を潜っていようとも、ハンターとしての経歴はまだ浅く、年齢も若い。そんな相手から、あんな表情で、こんな評価を下されるとは。しかも、ほぼ一方的に身体を繋がれた状態で。どんな経験を積めば、こういった場面で目上の人間に対してこれほど不遜な態度に出られるのか。憤慨するより先に、呆気に取られる。
同時に、オレを苦もなく呑み込んだ挙句、それが不適合ではないという意味の感想を告げられたことに、ちょっとした感慨を覚えてもいた。これまで交際してきた女性たちの誰かに彼と同等のスペックが備わっていたら、オレの人生は少し変わっていたかもしれない。
悪くない。一瞬だけ湧いた思いを、すぐに打ち消した。好奇や怯えの眼差しを受けず、無用の痛みを与える懸念もなく、互いを尊重しながら純粋に行為を楽しめるパートナー。肉体的に重要な条件の一部をクリアしているのが彼だということが、本当に残念だ。仮に彼が女性であっても、この経緯は不適切を極める。身体が合えばいいというものではない。
腿の上で、彼の尻が動いた。性器が擦り上げられ、背筋に悪寒が走る。上がった呻き声は自分のものだった。不意を突かれて、声量の調節が利かなかった。慌てて耳を澄ませ、そのついでに窓の外へ目を配る。パーティションの向こうにいるドライバーからの反応は、とりあえずのところ、なにもない。隣に並ぶ車は、運転席だけが塞がっていた。渋滞に飽いた様子で、握ったステアリングを指先で小刻みに叩いている。こちらの惨状には気づいていないようだが、窓の加工がなければ、どうなるか判ったものではない。
当然、車線ごとに進行速度が違うのだから、いずれは別の車輌が並ぶことになる。いつ露見するかと気が気でないが、気にしていてもどうにもならないという、諦めの境地にも足を踏み入れかけていた。動き出した彼に今さら逆らっても、大局的な事実は変わらない。今、彼を撥ねつけようが、彼の気が済むまで耐えようが、同じことだ。オレの性器は彼の中にある。
開いた両足の中心をオレに押しつけ、巻き上げるような動きを加えながら、彼は前後に腰を揺らす。上体の位置はほとんど変わらず、腰だけがしなやかにうねっていた。女性であると確信できていれば、このうえなく煽情的な光景だった。
生理的な嫌悪感が、快楽に負けて始めている。今なら、はっきりするだろうか。恐々とした思いで、繋がれた場所に視線を落とす。周囲が明るければ、眩しくさえ見えるに違いない白い太腿を取り巻くソックスガーターが視界の両隅に入った。ここまではいい。厄介なのは、さらに下へ視線を進めたところからだ。
案の定である。肝要なところに差しかかると再び目が霞み、幻惑されて対象を見失う。対抗するための念もろくに使えず、自衛のために身体を動かすことさえ、ままならない。せめて情報だけでもと一点に目をやれば、このとおりだ。なにもかもがオレにとって不都合なうえに、その因果関係が一向に掴めない。
見た目にはそそられるが、刺激としては今ひとつ物足りない交わり方で、時間だけが過ぎていく。機械のように単純な前後運動なら、どうということもないのだが、忘れた頃に強い圧力が性器全体にかかり、掬い上げるような腰遣いで根元から絞られる。焦らされているのかもれなかった。
それが頻繁に組み込まれる動きではないことは、不幸中の幸いと言えた。男の口の中に射精したくないのと同様、いや、それ以上に、男の腹の中で果てたくはない。その一心で不当な快楽に耐えているというのに、どこをどう曲解したのか、
「不服そうだな」
そう言って、彼は動きを止めた。物足りなさが失態を遠ざける安心に繋がっていたのだが、その気配が漂っていたらしく、彼には不服と映ったようだ。莞爾とした中に軽微な皮肉の混じった、宥めすかすような笑みが浮かんでいる。惰弱な獣の欲望を見透かすような笑み、と言い換えてもいいのだろう。惰弱な獣であることを否定したところで、彼が納得するとは思えないし、オレに抱いているであろう侮蔑的な感情は、きっと変わらない。
唐突に、開き直りたくなった。大人として、自制を重ねてきたつもりだ。十二支んの良心としての矜持もある。だが、あるべき自分にこだわるあまり、彼の放埒を許し、普段は考えもしない保身に気を回さなくてはならないほどに余裕を奪われたままでは、遺憾に過ぎる。相手の性的嗜好がどこにあろうと、その気になれば誰もが自分に転ぶなどと驕っているのなら、潰してやろうかという反発心が頭をもたげていた。
感情の伴わない行為を仕掛けたことはないし、仕掛けようとも思わない。不毛だ。オレを相手に、その不毛を平然とやってのける彼の傲慢を挫く、ささやかな報復くらいは自分に認めてやりたかった。
少しの狼狽を誘う程度のことでいい。ついでに、解けずにいる重要かつ、最大の疑問を晴らすとしよう。ここまで事態がこじれているのだから、オレが攻勢に転じたとて、残る事実に大した変化はない。ただ、本意に反して能動性を揮わざるをえないのが痛かった。
「…不服、ではあるな」
オレが答えを返したのを聞いて、彼は両端の上がった唇の弧を浅くした。それも僅かの間のことだった。一転、面白がるような目になった彼は、家畜が次の行動を起こすのを待っている。毒を孕んだ甘美な微笑みが、オレを見下ろした。なにがあっても自分の優位は揺らがないと確信している顔。あまり舐めてもらっては困る。今後にわだかまりを残すべきではないとの見解から忍受していただけだ。外部に向けて、誤解なく説明するのが難しい淫行状態になってしまったのも…とは言うまい。けっして不可抗力ではなかった。どこかで食い止めることができたはずだった。
肚を決めて言葉を発した時点で、自由の利かなかった身体は軽くなっていた。原因は判らない。彼の能力によってオレの自由が失われていたのだとしたら、罠である可能性もあった。従って、いつまで動けるかも判らない。躊躇が滲む動きに見えるよう心がけ、右手を彼の胸許へと伸ばした。逡巡する指先がシャツの生地に触れる寸前、
「触るな」
低く鋭い声が、オレの手を制した。
「君はその権利を持たない」
言葉を続けた彼からは、笑顔が消えている。目の光が冷たい。なんと非情な。心中、感嘆した。半端な下心でこの状況まで持ち込んだ者が受ければ、しばらくは立ち直れない太刀筋だ。
彼が「彼」であるか否かを認め損なったのは残念だが、仕方ない。行き場を失った手を彷徨わせ、今度は彼の腰を柔らかく抱えた。意外なことに、これは拒絶されなかった。いけるか。もう一方の手を同じように腰に回し、おもねるような顔を作って、冷たい光に視線を合わせる。「それで?」とでも言いたげに眉を持ち上げることで、彼は先を促した。その余裕は、見せてはいけない油断だ。
間髪を入れず、彼の腰を抱く腕に力を込め、自分の腰を浮かせながら思い切り引き寄せる。深く繋がっていた器官が、より奥にめり込んだ。予期していなかった展開だったらしい。突き上げられた衝撃に、女性めいた短い喘ぎが洩れた。衝撃の瞬間そのままの表情が凍る。悦びに歪んでいるようにも見えるのは錯覚だろう。
無理もない。過去の不始末の猛省以降、相手を壊してしまいそうで、不適合を乗り越えたパートナーにさえ存分に腰を打ちつけたことなど一度もないのだ。女性がどんな反応をするのかは判らなかったし、男に至っては言わずもがな、である。だが、彼に関しては、その容貌に視覚がごまかされて「女性であれば」という微々たる期待を手離せずにいるので、大変な暴力を働いてしまったような罪悪感が湧く。
鳩尾に力いっぱい拳を叩き込まれ、一時的に呼吸が停まったときに似た、それでも美しく凍った顔の中で、やがて、見開かれた目の際が、唇が、微かに痙攣し始めた。なるほど、使いどころはどこにもないにせよ、そこそこの凶器になり得る。今までどおり、プライベートでは自重が必要だ。
息を吹き返しかけた彼には悪いが、これで終わりではない。言葉を選んでも、態度に匂わせても、閑却され続けた。不和を生まないための配慮を敢えて軽んじるならば、こちらが受けた害を少し返還されてみるといい。
彼が不意打ちから気を持ち直す前に、腕の中の腰に再び強く突き立てた。先ほど学習したので、一応の加減はする。
元より、感情の伴わない不毛な行為とは無縁で構わないクチだ。男たるもの当然興味は持っているが、そこは夢想に遊ぶだけで充分だった。実際、突く度に零れ落ちてくる彼の控えめで苦しげな喘ぎを、これは間違いなく女性の声だ、と少しの自己暗示をかけながら聞いていても、大きな興奮は訪れなかった。男を相手に最後まで遂げるつもりもないから、ちょうどいい。本人も意識の底で調整しているのだろう。抑えた嬌声がドライバーの耳に届くことはなさそうだ。
あまり長引かせると、自分の方が危ない。窓の外も気になる。このくらいにしておくか。と思ったとき、突然、彼の腰を抱える腕に抵抗を覚えた。
自分が仄かな苛立ちを感じたのが判った。自分のペースで取り入れていた快楽を止められたからだ。そんなふうに、頭の別の部分で分析する。快楽を求めるのが目的ではないのだが、主導権を握ったはずの自分がお預けを食らう形になったのが気に入らないのだと。
抵抗の原因を見上げた。左右対称に膝を屈折させて開いた両足、オレの頭の向こうでヘッドレストを掴んでいるであろう右腕、センターピラーに指先をつけた左腕。伸びやかな四肢のそれぞれに力を入れ、その腰を引き込もうとするオレの腕に対して拮抗を図った彼は、眇めた目許に辛苦の名残を引きずりながらも、不遜な笑みを取り戻していた。
「むだに車体を揺らすのは得策ではないと思うが」
彼の指摘が、苛立ちを霧散させた。じわじわと不安に入れ替わる。留意すべきを、彼の上げる声のみに終わらせたのは不覚だった。ドライバーが気づかないわけがない。機密に関わる話だと偽ってパーティションを上げた。そんな戯れ言、もはや信じる方がどうかしている。ドライバーの背後の密室で潜行しているのは、あまりにお粗末な「機密」だ。向こう側からなんの干渉もないのは、まだ訝しんでいる段階にあるか、承知のうえで沈黙を守っているだけかのどちらかなのだろう。
形勢が逆転したのは、ものの数十秒。主導権は完全に彼に奪還されていた。
「判ったら、大人しくしていることだ」
獰猛さを秘めた静かな声で囁くと、彼はオレに抗って浮かせていた腰をゆっくりと沈めた。性器の半ばあたりから根元までが、再び温かな粘膜に絡め取られる。待ってくれ。その口で、車を揺らすべきではない、といった趣旨の発言をしてはいなかったか。問えば、ドライバーの注意を引くほどの勢いで妙な声もが出てしまう気がして、歯を食いしばった。
これまで同様、先端が彼の器官の奥底に触れることはない。自身が囚われた場所を、未だ明確に把捉できていなかった。これが本来の役割ではないという疑いしかないにもかかわらず、オレは萎えることなく彼の中で続行可能な状態を保ち続けている。
呑み込んだときと同じ緩やかさで、彼が腰を上げる。また呑み込まれ、引き抜かれる。どんな筋肉の使い方をしているのか、内壁が絶妙な圧力でオレを締め上げてくる。
もしかすると。今日に至るまで男と性的な接触がなかったがために無自覚だっただけで、オレはどちらもいける男なのだろうか。いや。オレに限って、そんなはずはない。その嗜好に理解を示して尊重することと、自分の内に潜在していたその嗜好の発露を受け入れることは、別物だ。潜在していたのだと思うだけで、気分が下がる。
対象は女性でしかありえない。今、こんなことになってしまっているのは、物理的な刺激が作用した結果であり、彼の持つ資性に色欲を掻き立てられたものではないのだ。
オレは言える。言い切れる。断じて、男相手に欲情などしない。
懊悩焦慮を断ち切り、彼の腰に回したままになっていた腕を解いた。念能力を使わずとも、オレの上から「退席」させることは可能だ。改めて、両側から掴み直す。収まりどころの決まった両手の間隔は、予想よりも狭かった。男しては腰周りが細い。まるで女性のようだ、と感じはしたが、そこから考えを深めるのはやめた。それが原因で後手を踏むのは、もう沢山だった。
彼が座るべき席は、ずっと空いている。元の座席に戻ってもらうため、彼の身体を持ち上げようとしたとき、
「大人しくしていろと言わなかったか?」
またしても彼の声に妨げられた。言葉ほどの威圧感はなく、むしろ子供に言い聞かせる口調。意外に思って、外れていた視線を彼の顔に戻す。目に入ったのは、口調とは裏腹の、支配者然とした表情だった。口許は笑っているが、瞳が容赦のなさを隠している。
背くことを許さないその瞳を見つめるうちに、頭の芯が朦朧としてきた。長時間に渡って血流が性器に集中しすぎているせいだろうか。そんな話、巷説レベルでも聞いたことがないが。
見慣れたオレンジ色の闇が、風の中の焚火のように明るさを変幻させる。彼の能力の織り成す幻覚なのか、オレが迎えた精神疲労の臨界点なのかは判らない。急激に視界が眩み、意識が鈍った。きっとオレは、自分でも記憶がはっきりしない間に、彼の内部に精を放つことになる。猛烈な眠気と戦うに近い感覚を味わいながら、ルーキーや黒スーツへの言い訳を考えていた。
それは、落ちる間際だったのだと思う。目に映る全てのものの境目が曖昧になる中、辛うじて彼の顔があると知れる場所に仄暗い緋が点った。鈍った意識の狭間で、昨日、彼が抑え込んだ怒りを滲ませるように見せた緋色の瞳を思い起こしている。
緋色の灯りは、海の底から迫り来る大きなうねりの如く力を増し、壮絶なまでの鮮やかさを伴って輝いた。本能が告げる。直視するのは危険だ。自覚のないまま眠っていた、取るに足りない小さな狂気を、無理やりに呼び覚まされてしまいそうになる。それでも、目を離せなかった。
オレの反応を楽しむように、彼は時間をかけて腰を沈め直し、どことも知れない器官の内径を満たす。それからは、同じことの繰り返しだ。緩慢で微弱な上下の摩擦に炙られる。
行為を始めたばかりなら、それでいい。だが、ささやか報復のつもりで、一度は自分のペースで彼の身体を動かして欲求が膨らんだ後である。生理が求めるものに理性でかけた歯止めなど、吐息ひとつで簡単に消し飛んでしまう。いっそ爆ぜてしまえば終わりにできるのに、自分が動けば今度こそドライバーの知るところとなる。
入念な下調べをしたうえで、彼の招致を決めた。うまく話をつけた、とは思わないが、彼は概ね納得していたはずだった。オレはまともな状態で、彼を連れてハンター協会まで辿り着くことができるのだろうか。もし、オレがここで致命的な問題を負い、それをそれと認識できないまま、協会へ持ち込む結果を生んだとしたら。どうなってしまうのだろうか。十二支んは。暗黒大陸進出は。
ただでさえ、意識が危うくなっている。澱んだ頭に今後への懸念が浮かぶだけ浮かぶが、その先を思い描く気力はなかった。のろのろとトンネルを進む協会専用車の閉ざされた後部座席で、明確な理由の見えない翻弄に晒され、到着の予定時刻すらも計れない。
眼前に並ぶ双子の紅い星がここでの記憶の最後になろうかというとき、小さな密室に天啓めいたものが響いた。
「家畜は家畜らしく、だ」
厳かさえ漂う声は、残響を伴って耳の奥へ、さらには脳へと浸透していく。遠退いていた意識が引き戻され、自己の外殻の中にぴたりと収まった。従来の自分をわずかに留めたうえで、生まれ変わったような気がする。
天啓に打たれた、とまでは言わない。オレにとっての天啓は、十二支ん発足時に「丑」を拝命した瞬間だ。前会長への敬愛を体現するために、外見を整えた。
生命を捧げれば全てが終わる肉牛より、日々滋味豊かな栄養を提供する乳牛でありたかった。生命を投げ出すのは、パフォーマンスの質を維持できなくなってからでいい。野生種や農耕牛の地味な毛色より、一目で「丑」と判る無彩色の芸術的なまだら模様。例外の二人には無意味なものに見えるであろう改変は、唯一無二のカリスマに心酔する自分を示す手段だった。
だから。慈悲深い眼差しの陰からオレを睥睨する彼の口から発せられたのは、天啓ではなく、天啓めいたものに過ぎない。にもかかわらず、心を揺さぶられた。カキン帝国が暗黒大陸進出を宣言した映像の中で紹介された、前会長の息子の姿、その演説に触れた瞬間に匹敵するほどの強震だった。
家畜は、家畜らしく。天啓めいたものはオレの中で増幅し、核心に刷り込まれる。沁み込んでいく。家畜は、家畜らしく。彼の動きが、徐々に早くなる。家畜は、家畜らしく。
束の間の回想をすり抜けて旋転する言葉は、炭酸水の入ったグラスの内側に張りつく微細な気泡のように、不規則な間隔で意識の水面に浮き上がる。いくつもの泡沫が水面で弾ける。弾けた泡沫は、従来の意識の残滓を駆逐して、新たな意識に成り代わる。
そしてオレは、ひとつの真理に到達した。
これは搾乳だ。張り詰めた乳房の先を丹念に扱き、新鮮な生乳を得る作業だ。
新たな意識を認知した刹那、葛藤や煩悶が、堆積していた快楽と一体化した。蠕動する肉襞の抽送は速度を上げ、息をつく暇もないほどの波を連れて来る。摩擦の振り幅の大きさに反して、緋色の双眸の位置はほとんど変わらなかった。
意思を捨て、半眼半心で視界全体を眺めているうちに気づく。車体の揺れを極力抑えるため、彼は肘と膝の屈曲を利用していた。オレが反攻を試みる前の、巻き上げるように腰を前後に揺らす、舟を漕ぐのにも似た彼の動きもまた、振動を最小限に止めるためだったのだと思い至る。マウントを獲って、車の内部との接面を減らすことのできた者の利だ。
家畜は家畜らしく、大人しく搾り出されていればいい。それが乳牛の本懐というものだろう。顧みると、オレが用意していたミルク缶ボトルに彼が手を付けなかったことにも納得がいく。彼が欲していたのは、一日の生産量の限られたこだわりのミルク以上に稀少な、生のままのミルクなのだ。均質化や殺菌の工程も加えないミルクを、オレなら供給できる。だからこそ、彼はオレをその喉の奥へと迎え入れたに違いない。
今のこの状態は、ミルクを嗜み、喫する一般的なスタイルとは大きく異る。だが、オレを試すような、期待に満ちた表情で器用に腰をくねらせる彼を見れば、それに応えないわけにはいかない。彼に、全てを預ける。
彼の腰から手を離し、目を閉じて全身の力を抜いた。たったこれだけで、ドライバーの存在も、外からの視線への警戒も、隔絶された世界のものになる。自分の身体を他人に丸ごと任せてしまうことが、こんなにも心地よいとは知らなかった。
暗い波間を漂うが如き浮遊感の中で、性器の感覚だけが鋭敏だった。押し上げられ、高まっていく。もうすぐだ。質の高いミルクを、彼に直接届けるときが近づいている。制御を効かせながらも段々と荒くなる彼の呼吸と、熱い粘膜に扱かれて圧しひしがれる性器に神経を集中させた。
性器の芯を、じんわりと液体が抜けていく。溢乳、だろうか。あるいは、先走る乳清。そこで、小さな違和が生じた。尿道にポリープでもできかのように、流れが阻害されているのが判る。
予感があった。こんなにも昂揚しているのに、オレは射精すことができない。やがて、下腹や睾丸が痛みを訴え始めた。予感を裏付けるには充分な痛みだった。新たな意識の下、捨て去ったはずの意思が、
「待ってくれ」
一度は手にした主導権を彼に剥奪されたときには心の声として抑えた言葉を、はっきりと口に出させる。オレのミルクは既に特濃だ。ミルクの導管に障害が発生したのではなく、ミルクそのものに変化が起きていると考えた方がいい。
多少の伸縮性があるとはいえ、流動性の低い液体が射精時の圧で通り抜ける負担に、尿道が耐えられるとは思えなかった。そもそも、無事に通過するかどうか。その惨状を想像するだけでも萎えそうなものだが、当の性器にはオレの恐怖が伝わっていないようだった。
同じく、彼にも伝わってはいなかった。聞こえているに違いないのに、彼は期待に満ちた表情を変えもせず、腰を振り立て続ける。あろうことか、速度と勢いを上げてさえいた。
オレの顔には、苦悶と焦燥が判りやすく浮かんでいるはずだ。まさか、快楽を溜め込み、射精の瞬間の絶頂感に備えていると勘違いされているのではないか。予感は、痛みの裏付けを得て、確信に変わっていた。流動性が低いどころか、液体ですらないかもしれない。これは、乳牛の仕事の範囲を大幅に超えている。
「待ってくれ、ダメだ。今はまずい」
さすがに平静ではいられず、情けなくも慌てた口調になる。併せて、彼の腰を挟む形で添えていた両手で押しやるようにしてその動きを止めようとしたが、叶わなった。信じ難いことに、一瞬でオレが力負けしたのだ。そのとき吊り上がった彼の唇に表れた嗜虐的な笑みは、明らかに敗者の悪あがきを楽しんでいた。
ここは協会専用車の中であり、オレは任務の一環で彼と乗車している身だ。力負けを被ったからといって、性器に抱えた時限爆弾のタイムリミットをただ待ってはいられない。時と場合が、最悪中の最悪なのだ。挙句、正犯ともいうべき彼が、事後に被害者面でオレを公的に糾弾しないとも限らなかった。代わり映えのしない言葉を繰り返し彼に投げつけながら、必死に腕を突っ張った。
だが、彼はそれをものともせず、暴走した機械のようにオレの上で激しく腰を躍らせる。もう車の揺れも気にする素振りもない。オレを捕らえて離さない真紅の瞳は極限まで見開かれ、裂けんばかりに口角の切れ上がった唇と相まって、正気を疑う形相と化していた。これでもまだ美しさが損なわれていないところが恐ろしい。
痛みが強くなってきた。性器の根元に乳脂肪分が蝟集し始めている感覚がある。一考の猶予もない。車が揺れようが、それでドライバーに知られようが、周囲の車輌から注目を浴びようが、乳牛としての機能はおろか、男として、ひいては人間としての機能が正常に働かなくなる方が、長期的に深刻な瑕瑾となるに決まっている。名誉ある瑕瑾ならばまだしも、とんだ名折れだが、背に腹は代えられない。
どうすれば、彼はオレの全面降伏の意を認めてくれるだろうか。問題はそこに尽きる。今に至るまで、思いつくことは全て実行した。そして、全てが撥ね返された。
こうしている間にも、希少なミルクを求める彼の追い込みはより一層、厳しくなる。射精したいのに、射精せない。圧は高まる一方だ。今回を境に搾乳不能となれば、オレは乳牛の本懐を断たれ、乳廃牛と化す。乳廃牛とは、即ち肉牛。肉質は硬く、故に安価で取引される。誇りある乳牛人生を、そんな終焉で結ぶのか。忸怩たる思いが、腹の底から湧き上がった。
「オレはもう特濃を通り越して生クリームだ! 君がこれ以上撹拌すれば、クロテッドクリームになってしまう! バターなど論外! 乳牛失格だ!」
密室に響き渡った声に驚愕する。確かにオレの声だった。自分の放った言葉が、自分の意思を伴っていない。オレに寄生して潜伏していたなにかが精神を乗っ取り、オレを傀儡にして喋らせたのではないか。本気でそう思った。でなければ、下劣なうえに意味不明な言葉を並べて彼の前に突き出すような真似などできはしない。
少し前にも、おかしなことを口走った気がする。彼が喉の奥で、執拗にオレを締め上げたときだ。そのときは、わずかな疑義が頭を掠めただけだったが、ここまで壊滅的な威力があるとなると見過ごせない。
不意に、オレを苛んでいた強烈な摩擦が消えた。怪訝に思って彼の姿を視界に収め直すと、微動だにしなくなった肢体の上から白けた真顔がオレを見つめていた。
誤解だ。オレは、こんな良識と品性に欠けた発言をする男ではない。頼む、そんな目で見ないでくれ。
「違うんだ! 今のはオレじゃない! あ、いや、言ったのは確かにオレなんだと思うんだが、オレ自身はそんなことを言うつもりは全くなかった。だから、その、オレにもよく判らないんだ。オレはただ、新鮮で上質なミルクを…」
躍起になって弁明した傍から、また怪しげな言葉が放たれたとき、ヘッドレストを掴んでいた彼の手が離れ、オレの頬を撫でた。突然触れられたことに驚いて、言葉が止まる。そのままオレの口許に流れた冷たい手の人差し指が「を」の形に開いた唇を塞ぐようにそっと押し当てられた。
煌々とした緋を擁した両の目が細くなり、唇が緩んでいく。冷めた表情が艶やかな笑みに変わるのを、オレは間抜けた顔で眺めていた。彼に包まれた性器は未だ衰える気配もないが、下腹部や睾丸の痛みは遠退きつつあった。乳脂肪分が分解されているのだろうか。と思った矢先、彼の声が耳に滑り込んできた。
「気にすることはない。存分に私の中に注ぐといい」
脈打つ粘膜の壁に締めつけられる。快楽に全身が震える。思わず目を閉じた。彼の身体が上下に揺れるのを感じる。性器の先から乳清が滲み出るのが判り、腰が強張った。揺れが早くなる。同じ速度で彼の吐息の音が聞こえる。微かに甘い喘ぎがそこに混じり始める。
なにも考えずに射精してしまいたい。たとえ、解き放たれるミルクが液状ではなくても。その瞬間に得る快感は、間違いなく過去に類のない鮮烈なものになる。だが、しかし。だが、しかし。だが、しかし。
なんとか欲望を拒もうと、残り少ない理性に総動員をかける直前だった。悲鳴にも似た、高く鋭い声とともに、彼の器官の入り口が性器の付け根に叩きつけられるようにして密着した。内部が激しく痙攣して、オレを貪っている。それだけでは飽き足りないのか、絶えず切なく苦しげな声を上げながら、力が入って張り詰めた尻をこちらの息が詰まるほどに押しつけてくる。
オレを搾乳することによって、彼は絶頂を迎えたのだと理解したのと同時に、熱く重たいものが性器の中央を根元から拡げて迫り上がってきた。これは射精してしまって大丈夫な状態のミルクなのか。危ぶむ間もなく、閉じた瞼の裏に閃光が走り、世界がまばゆい白に染まった。
不意に、片足の膝が跳ねた。一瞬、階段を踏み外したのかと思ったが、ここはトンネル内を走行する車の中だったと認識を正す。極度の緊張を長く強いられた末に得た強烈な快楽に、束の間、意識が沈んでいたらしい。
オレンジ色の闇も、白くまばゆい光も消え失せていた。腿の上に乗っていたはずの彼がいない。視線だけを滑らせると、彼と思しき人物が少し距離をおいて隣に座っているのが見えた。服に乱れはないようだ。ついでに目に入った窓の外の流れは順調で、トンネルは既に抜けたものらしい。
いつの間に下げたのか、パーティションが開いている。時折ミラーへ目を走らせるドライバーには、表面上、後部座席を気にする様子はなく、だからといって意味深な訳知り顔をしている、ということもなかった。
自分を取り巻く状況について、そこまでの情報を処理した後に即刻確認したのは、衣服に不審な濡れがないかどうかだった。腿の辺りに無造作に置いていた手をさり気なく這わせる。すっかり落ち着いた性器は、片付けた記憶もないのに通常あるべきところに収まっていた。事故は起こしていない、と下着の中から声なき報告を受けて安心する。無論、そんな粗相をするような年齢でもないのだが。
もうひとつ。気が進まなくても確認すべきことがある。鼻から少しずつ息を吸い込んで、あの匂いの存在を探る。オレは何事もなく済んだようだが、彼の方は。あれだけの絶頂ぶりだ。最悪、オレのスーツの胸に、彼のものが染み込んでいるかもしれない。
予想に反して、オレの嗅覚はなにも感知しなかった。よく知っているあの匂いも、もちろん、女性と濃密な時間を過ごした後の生々しい匂いも。自分になにが起こったのか、うまく整理することができない。ただ、とんでもない間違いを犯したということだけは判る。
これから、彼をどう扱えばいいのか。協会に到着すれば、すぐにではなくとも、程なくメンバーに彼を紹介する機会が設けられる。そこにルーキーの不在はあり得ない。いったい、どんな顔をしてその場に立てばいい。途方に暮れた。溜息と知れないように、長く深い息をゆっくり吐く。暗黒大陸渡航ににあたって、彼がオレと同じ情報班に属するのは既定事項だ。必然的に、彼と過ごすことが多くなる。
ずっ、と小さな音が聞こえた。水と空気を同時に吸い上げたような、その音の方へ顔を向ける。オレの動きが視界に入ったのか、彼がちらりとこちらに目をくれた。その唇の間に、ミルク缶ボトルのてっぺんに突き立てられた細いストローが挟まれている。薬指と小指を除いた三本の指で、底を支えるように保持された半透明のボトルは、空っぽだった。今の音が最後のひと啜りだったと見える。ボトルの首の部分の内側には、ノンホモジナイズドの証、クリームラインが見事に残っていた。
服の乱れもなくオレの隣に座っているだけでも不可解なのに、ミルクを一本飲み切っているとは。渡した覚えはない。一度勧めて断られたのを受けて、フリッジに戻したはずだ。不可解な思いが顔に出ていたのだろう。それに答えるように、
「飲みたくなったら適当にやってくれ、と聞いた」
と言ってから、視線を前に移した。だから、そんな顔をされる筋合いはない、とでも付け足しそうな口調だった。オレの上に乗っていたときとの温度差に戸惑ったりはしない。
「…取りにくかった」
ようやく完全に醒めた頭で、やや拗ねたようにも聞こえる彼の小さな呟きを拾っていた。意味も判る。彼のいる位置からでは、フリッジを開けるところまでしかできないのだ。この車の中心線上に搭載された前扉開閉タイプのフリッジは左開きのため、彼が開けると扉が障害となって、内部を見るには上から大きく覗き込まなくてはならない。しかし、そうすると隣にいるオレの身体が邪魔になる。
それでもボトルを取ろうと、彼はオレに身体を寄せたのだと思う。ちょうど、車がカーブに差しかかったあのとき。
「それはすまなかった」
詫びた声は喉に絡んで、言葉の出だしが掠れた。言い終えてから咳払いをすれば、
「アメちゃん、お出ししましょうか」
ドライバーが少しだけ後ろへ身体を捻ってオレを見る。同じセリフを、前にも確かに聞いた。
「…もらっておこうか」
断って後悔した記憶もある。ドライバーの表情が心なしか残念そうになった記憶も踏まえ、今度はそう答えると、グローブボックスの中から個装の飴がふたつ取り出された。どうやら彼の分らしい。礼を言って受け取ったひとつを彼に渡しながら、個装パッケージを眺め、危うく咳き込みかけた。「のど飴 特濃ミルク&ハード」だと? いや、違う。夜間の車内で目が滑った。「ハード」ではなく「ハーブ」。幻覚に引き擦られすぎだ。
個装を破って中身を口に入れた。濃厚なミルクの柔らかい味わいの奥に、さわやかなハーブの風味が感じられる。彼の方は、今は飴の気分ではないのか、同じく個装を眺めてから、ジャケットの胸ポケットに落とし込んでいた。当たり前だが「特濃ミルク」に反応したり「ハーブ」に目を滑らせている気配はない。自発的にではないものの、性的な幻覚を彼に見ていたことを恥じる。その足許にひれ伏して許しを請いたい気分だった。夢ではなく、幻覚。この移動は任務の一環だ。オレが任務中に居眠りなどするわけがない。
実際にはできないことをする代わりに、ごく普通の会話を試みる。実際に知りたいことでもある。
「感想を訊いても?」
三本の指で支え持った空のボトルを目の高さにかざし、中を透かし見るように幾度か手首をひねる彼は、無表情に黙っている。無視を決め込むつもりらしい。お気に召さなかったというわけか。胸の内でそう苦笑したとき、
「悪くないな」
独り言めいた答えが返ってきた。胸の内に留めていた苦笑が広がって、自分の唇の端を緩ませていく。この手の表現で及第点以上であると伝えるタイプは少なからずいる。黒スーツあたりも大方こんな感じだろう。つまり、素直じゃない。そこから、ただただ扱いが面倒なだけの者と、わずかな情報を大きな成果に繋げる聡明な者とに枝分かれする。彼が後者であるとの評は確かだと思う。だからこそ、危険度の高い任務への期待を持って引き入れた。それだけに、前者の要素が少ないことを祈るばかりだ。ふと、感傷が差し込む。そういえば、前会長は扱いの面倒さに聡明さがすっぽり隠れてしまう人だった。
彼はまだ空ボトルを矯めつ眇めつしている。なにがそんなに気になるのだろうと、彼の視線を辿って判った。よくぞ気にしてくれた、と膝を打ちたくなるの我慢して、極めて冷静に聞こえるように切り出した。
「クリームラインだ。タンパク質が破壊されないように、低温で殺菌処理をしてある。均一化もしていないから乳脂肪分が分離して上澄みとして…」
「知っている。ノンホモジナイズドの証、だろう」
表面的は冷静に見せかけつつも揚々と説明しようとしていたのを、的確に要約された言葉で遮られ、自己顕示欲の消化不良が起きる。
「それに」
そんなことには気づきもせず、さらに続けようとした彼は、なぜか言い淀むように声を止めた。一瞬だけ視線をこちらに向け、また戻す。不安になった。なにが言いたい。現実ではなかったらしい彼に翻弄されながら、この口が勝手に垂れ流した放言の数々がよみがえる。まさか、実際に漏れ出ていたのか。
「…眠りながらいろいろ説明していた」
その場で頭を抱えたくなった。断じて眠ってなどいない、と言い張りたいのを抑える。それはともかく、なにを思ったか、自分の性器の奥に潜む違和感を乳製品に例えて羅列した覚えがある。どれだけの言葉が夢現の境を越えてしまったのだろうか。彼にはどこまで聞こえていたのだろう。と、窺い見た彼の表情に、視線が固定された。
笑っている。朗らかではないが、冷ややかでもない笑顔。堪えているつもりの笑いが、抑えきれずに溢れてしまったような。初めて目にする、年齢相応の表情だった。こんな顔もするのか。彼がオレとの間に築いている壁に、小さな抜け穴を見つけた気がした。
彼の笑みからは、他にも聞こえていたことがあるらしいと読み取れたが、そこは追及しまい。オレの恥に繋がる内容であるのは間違いなく、敢えて聞き出せば、それはオレの弱みとして互いの共通認識となってしまう。妙なアドバンテージは顕在させない方がいい。
「ところで、このクリームラインなんだが」
オレと話しているときには外していた目線を、また様々な角度から空のボトル注いでいる。そんなに珍しいか。多少の知識はあるようだが、現物を見るのは初めてらしい。ミルクに関しては一家言を持つと自負しているオレだ。なんでも訊いてくれ。
続く言葉を待ったが、なかなか出てこない。無表情ながら、ボトルを見つめるその瞳に、わずかばかりの執心を感じて唐突に合点する。彼は、食べてみたいのだ。そして、品位を失わずに味わう方法を模索しているのだ。おそらくは、オレやドライバーという人目があるから。
クリームラインは、ミルク缶ボトルの肩よりもやや低い場所にできている。付属のストローは蛇腹で屈曲するタイプのものではないから、それを使って掻き出すことはできない。オレにとっては気にするようなことではなくとも、当人が気になるなら仕方がない。それでも一応、言ってみよう。口の中でひと回り小さくなった飴を舌で転がした。
「別にいいだろう。自分の指と舌だ。オレならそうするし、提供した立場としては余すところなく味わってもらった方が嬉しい」
単純な方法だ。それ以外にどんな方法がある。上品とは言い難い。衛生的にも少々難がある。だから、彼も躊躇していたのだろう。オレは全く気にしないが。図星を指されたような顔でオレを見た彼は、
「そうか」
と、小さく独りごちて俯き、ストローの刺さったアルミ箔の蓋を丁寧に指先で剥がし始めた。考えを読まれたことに照れて表情を隠したようにも見えて、また口許が緩む。けっして可愛げがないわけではない。過去が自分にそれを許さないのだと、自分に人生を楽しむ資格はないのだと、彼自身が己に掣肘を加えているうちに、本来の姿が塗り潰されてしまったのかもしれない。
剥がし終わったアルミ蓋とストローを持て余しているようだったので、手を伸ばして引き受ける。車の揺れに弱い客人のため、常にシートポケットに備えてある、防水加工された紙製の協会ロゴ入りディスポーザブルバッグに放り込んでおけば、後でドライバーが処分しておいてくれる。
その隙を狙ったのかどうかは判らないが、オレがその作業をしている間に、彼は上体を窓側に捻っていた。合わせ鏡の要領で、彼の後頭部や肩、背中がオレのすぐ横の窓に映る。実像をまじまじと見つめる代わりに、横目で窓の鏡像の動きを何気なく追った。
先ほどのやり取りの後だ。彼の後ろ姿を見ているだけでも、なにをしているのかは容易に察しがつく。細かい相違はあれども、だいたい想像どおりの行動をしているに違いない。
親の目を盗んで、残り少ないピーナッツスプレッドを懸命にこそげ取る子供のように、ボトルの中に人差し指を突っ込み。
両の手首をそれぞれ違う方向に捻りながら、ボトルの内周を指で拭い。
充分なクリームが集まったところで、指をボトルから引き抜く。
そこから。
ゆっくりと。
薄く開いた唇の間から覗く舌の先に。
窓に浮かぶ少し輪郭のぼやけた彼の鏡像を見ながらの想像は、幻覚の中でオレの性器を蹂躙し尽くした舌と、醒める直前に唇に触れた細い指を思い出させる。妙な現実感を伴った、それでもあり得ない幻覚だった。協会専用車のボディは確かに大型だが、座席に膝をついて身体を立てられるほどの高さはない。よほど小柄でなければ、ミニバンででも膝から上を垂直にはできないはずだ。だいたい、オレを根元まで呑み込むような…いや、それはもういい。
オレの意識のどこがどう作用して幻覚を作り上げたのか、今以って判らない。最も気にかかるのは、オレを翻弄したあの身体が、いったいどちらの性を持っていたのか、ということなのだが、そんな疑問はこれまでに見たいくつもの夢のように、いずれ記憶の底に埋もれていくのだろう。もっとも、今回は夢ではなく、幻覚であるわけだけれども。
などと、ぼんやり考えつつも、薄い輪郭の後ろ姿の正面を想像を止められずにいた。彼は舌に乗せたクリームを上口蓋に押しつけ、ゆっくりと広げ潰す。やがて、口腔内に行き渡る滋味に打ち震え、その素晴らしさに静かに感じ入る。
そう想像力を逞しくするまでもなく、彼が心動かされているのが伝わってきた。予想を上回る美味に出会うと、なぜだか味覚を感知した直後、目を見開いて大きく息を吸い込み、しばし静止する者が多い。鉄板ともいうべきその反応を、彼の背中が体現している。いたずらを隠すように少し丸められた背筋が、息を吸い込むことによって、わずかの間まっすぐに伸びた。
オレが盗み見ていることを、彼は知らない。そろそろ感想を訊いてみようか。訊けば、見られていたとも知らず、素っ気ないうえに少々捻れた答えが返ってくるに違いない。予想はできるが、やはり本人の口から本人の言葉を聞きたかった。
「悪くないだろう?」
頃合いを見計らって声をかけると、彼は徐ろに正面へ向き直った。ミルク缶ボトルを包み込むように持った両手を腿の上に置いて俯く。まさか、お気に召さなかったというわけではあるまい。あんな背中を見せておいて。
「…確かにクロテッドクリームに似ているな」
声が出るまでの沈黙は、笑いを噛み殺すために必要な時間だったらしい。言葉の出だしが揺れていた。なぜ笑う、とは訊かない。覚えている。オレが言ったのだ。そして、彼は確実にそれを聞いたからこそ笑い、それが通常の会話で出たものではないからこそ、笑いを噛み殺したのだ。
均質化していないミルクの上澄みがクロテッドクリーム様の味わいだとは一言も言っていないが、幻覚の中で自分がなにをそれに例えたのかを思えば、触れないまま話を終わらせるのが得策だ。
感想として大いに物足りないのは我慢しよう。彼が背中で示した反応は、一定レベル以上の評価を見せてくれた。
「コーヒーや紅茶にも合うはずだ。君の事務所からはそう遠くない。一度、取り寄せてみるといい」
手放しの称揚を以って話に乗ってくる、とは思っていなかったが、
「ああ、覚えておくよ」
あっさりとした一言に少なからず鼻白んだ。先ほどの美味への興奮はもう消えてしまったのか。受容でも拒否でもない曖昧な答えは、数時間前に発ってきた場所へ帰ることを微塵も疑っていないようなさりげなさ、あるいは、二度と戻れないという漠然とした予感を抱いての素っ気なさ、どちらともを感じ取れる口調だった。
「見えてきたな」
その無感動な口調のまま、彼が呟く。フロントガラスの向こう、街路樹に塞き止められた住宅地越しに、夏草のごとく高さを競うビル群がそれぞれの頭を覗かせていた。中でも一際高く聳えるビルの最頂部で、自分の日常にすっかり溶け込んだロゴマークがライトアップされて浮ぶ。
目的地が見えたことで、興奮が冷めてしまったのかもしれない。そのハンター協会も最初の経由地に過ぎなかった。その後には彼個人の使命と、十二支んメンバーとしての任務が立ちはだかっている。
一族に関する件を除けば、多少のことでは動じない男だと認識しているが、年齢的にはまだ子供と言っても差し支えない。いくら彼でも、この先のことを考えれば緊張くらいはするのだろう。
到着するまで、若干の余裕がある。新参の若者の緊張を解すのも年長者の役目だ。フリッジに手を伸ばし、ミルク缶ボトルの親玉サイズを取り出した。消費期限間近との理由で譲り受けたサービス品だが、オレの中では期待の一品だった。
「ミルクコーヒーはどうだ? 丸ごと一本というわけにはいかんが、その空きボトルに入るくらいなら…」
彼の両手に収まる小さなミルク缶ボトルをあごで指してから、その硬い表情が喜びを隠しきれずに和らぐのを待った。
「…今からか?」
オレを見返した彼の硬い顔に、なんとも言えない表情がじんわりと広がっていく。なぜだ。今すぐ新たな味わいを得ることに、なんの不満がある。
未開封のミルクコーヒーをフリッジに戻しはしたものの、納得いかないまま、頭の中で幾度も首を捻っているうちに、車は林立するビルの根元を走るに至っていた。次の角を曲がれば、ハンター協会を正面に臨む通りに入る。これだけの時間があれば、決して失望はしないと断言できる味わいを彼に伝えられるはずだったのだが。
オレの小さな煩悶も知らず、彼は空のミルク缶ボトルをジャケットの内ポケットにしまい込んでいる。ディスポーザブルバッグへ直行させないところをみると、どうやら容器の形状は気に入っているらしい。その点は、勧めた側としても好ましい限りだ。
車が敷地内に入ろうかというとき、ファサードの柱の陰に長躯の人影を認めた。ちらりと見えた横顔の鼻梁に眼鏡のようなものが乗っていたことで、人影の正体がおおよそ知れる。
隠れているつもりなのか、単に「知らん奴ばっかで、すげぇ居心地悪ぃ」場所だから目立たないようにしているだけなのか判然としないが、だいぶ前からそこに立っているらしく、頻繁に体重をかける足を代えていた。お忍び先に到着した姫君を出迎える任を負った隠密。そう例えるには落ち着きが足りない、か。
彼のすぐ横の窓から見える光景だ。気づいてもよさそうなものなのに、姫君であるところの彼は窓の外には目もくれなかった。気づいてはいるが、敢えて目を向けないだけなのかもしれない。
車寄せで静かに停止すると、ドライバーはすぐに席を離れ、彼のためにドアを開けた。むだのない動きで車を降りる彼に、長時間の乗車の疲れを労る言葉をかけているのが聞こえる。ふと、トランクの中に彼のスーツケースがあるのを思い出した。まだ開いているドアに向けて、
「荷物は彼がロビーまで運んでくれるが、問題があるようなら…」
一応、声を飛ばすと、
「大丈夫だ。大したものは入れてない。彼に頼む」
「恐れいります」
外の二人の声が戻り、ドアが閉まった。出発時と同様、右手を胸に、恭しく彼の前に頭を垂れていたドライバーの姿が視界から消え、数秒の間を置いて、今度はこちらのドアが開く。
「お待たせ致しました」
「気を悪くはしていないかな。どうにも愛想のない男でね」
雑談がてら、自覚など全くないであろう彼に代わって、若いがゆえ殊更に際立つその無愛想を詫びた。と、ドライバーがわずかに目を瞠り、小さく首を傾げた。
「男…?」
訝しげに呟かれて気づく。そうだった。先ほど、このドライバーが女性及び、女性に準ずる者だけに向ける敬意の礼を見たばかりではないか。瞬時に、ドライバーの認識を壊してはいけないと判断した。今後、ドライバーと彼が顔を合わせる機会はほとんどない。誤認を正すことにどんな意味がある。いつかドライバー本人が気づくか、彼がドライバーの礼の意味を知ったときに、当事者が対応を決めればいいことだ。
ドライバーの疑義の声など聞こえなかった、という素振りで車を降りた。
「荷物を頼む」
「かしこまりました」
ドライバーもそれ以上はなにも言わずにドアを閉め、運転席に戻った。車が走り去る音を背後に、彼を伴ってエントランスへと向かう。いくらか進んだところで、突然、彼の名が大声で呼ばわれた。
ビル街の夜気を震わせる残響の中、ルーキが「どこからともなく」現れる。まるで、彼が到着したときに偶然ここに居合わせた、とでも言いたげな、大仰な登場だった。オレの前を歩く彼がどんな顔でその登場を迎えたのかを確認する術もなく、不自然さを感じさせずに足を速める彼と自分の距離が広がっていくさまを眺めていた。
歩みを止めて、星の少ない夜空を見上げる。首を戻したときには、すでに彼と並んだルーキーが腰をかがめて口許に掌を添え、相手の耳に何事か囁いている光景があるばかりだった。
あたかも恋人同士のように寄り添って歩く二人を距離を詰めずに追いながら、彼らは若いのだな、と改めて思う。異性との組み合わせでなければ正常ではない、などという凝り固まった考えは持っていない。それでも、ひとつの生き物にも見える彼らの後ろ姿を見続けるのは、なんとも気恥ずかしかった。
あの幻覚と無縁ではないだろう。意識して忘れられるものでもないが、早く記憶の底に埋めなくてはならない幻覚。彼と共に任務にあたる以上に、ルーキーと接するときに支障が出てしまいそうだ。
異なる班に属することが確定している二人は、輸送船に乗り込んだそのときから、連絡を取り合うことを制限される。暗黒大陸に上陸した後は、さらにコンタクトを取るのが困難になるかもしれない。その間、彼と過ごすことが多くなるのは、間違いなくオレだ。なにがあっても、この「姫君」をルーキーの元に連れ帰ろう。
ふと浮かんだそんな考えを、慌てて打ち消した。十二支んに加入する彼が、自分で自分を守れないようなハンターであるわけがない。その程度の力量では話にならないのだ。しかし。誰かを気にかけている隙に自分の生命が失われかねない未知の任務から、一人のメンバーも欠けることなく帰還することができるのだろうか。
先を行く二人にセンサーが反応したことで開いたエントランスドアのずっと奥から、こちらへやってくる戌の姿が見えた。彼らの会話が部分的に聞こえていたのか、ロビーで合流するなり、戌は現状の説明とメンバー紹介を行うと宣した。
車の中で予告しておいてはいたが、本当にまともに休む時間すら確保できずに会議に突入とは。露骨にうんざりとした表情になったルーキーとは対象的に、彼はそれが当然だとでも言うような顔で、歩き始めた戌の後ろについた。
その会議の最中に発揮される彼の優れた洞察力と、後に知る能力は、協会の中核、ひいては十二支ん内部に巣食う深刻な問題に、鋭い刃先を入れることになる。
* 終了
ミザクラを読みたいと言ってくださった方の発言を受けて書いたのになぜかクラミザ
風呂敷広げといて最大の禁じ手、夢オチ
申し訳ないかぎり
連作になってしまっている関係上、誰とでも積極的に致す仕様にできなかった
毎度の亀進行にお付き合いいただきありがとうございました