物静かな空間に響く、音量の小さな雑音混じりのラジオDJの声が妙な焦燥感を煽る。
クラピカは女子トイレの鏡の前に立っていた。
先刻レオリオが差し出して来たこのベーチタクルホテルの受付嬢の制服に袖を通している。
トイレの入り口前では、レオリオがラジオを手に、クラピカの着替えを待っていた。
「もう少し、音を上げてくれ。」
クラピカの、いつもよりも堅い声にレオリオは無言で音量を上げた。
DJが時刻を知らせる。クラピカは細く息を吐いて緊張をほぐそうと努めた。
確実に迫る作戦の時刻に高鳴る鼓動が抑えられない。
この作戦は、クラピカの呼吸と冷静さに全て掛かっている。
この身にゴンとキルアの命も背負っているのだと思うと、ボタンを止める手が震えた。
と、レオリオがトイレの中に入ってきた。
「レオリオ、入るな。怪しまれる。」
「だってお前遅ぇ。」
「誰か来たら…。」
「誰も来やしねーよ。それより…。」
レオリオは、クラピカの顎をあげさせた。
「口紅、外してるぞ。」
レオリオはクラピカの口の端から少し出た紅を苦笑しながら指で拭った。
「今までこんな服装をした事など、ましてや化粧などした事がなかったからな。やり方など…。」
「演技も完璧、変装も完璧にしなきゃ、騙せないだろ。」
レオリオは指先の赤い紅をこすり合わせた。ただぬるりと伸びただけの赤は、血のようにも見えた。
クラピカの口の端の紅。血。
不吉な、とレオリオは頭からその考えを消し去った。
クラピカは長い茶髪(ウイッグ)を、後ろでゴムで束ねている。
こうして見れば、完璧な受付嬢だ。
ただ違うのは、決意に堅く結ばれた血の気の引いた白い口元と、顰められた眉、張りつめた瞳。
そんなに気を高ぶらせていたら、例え変装が完璧だとしても旅団に気づかれてしまう。
「あのな、受付嬢はそんな人を殺しそうな顔はしねぇよ。接客は笑顔が命だからな。」
「…そうだな。」
クラピカはそう言うが、顔は困ったように鏡越しのレオリオを見上げた。
この状況で笑顔など、例え偽りの笑顔だとしても作るのは案外正直なクラピカには酷だろうな、とレオリオは思う。
だけれど。
あの2人を取り戻す。作戦を成功させるにはそんな甘い事は言っていられないのだ。
ドラッグストアで急いで買った安物の口紅のキャップをパチンと閉めてゴミ箱に投げ捨てた。
ゴミ箱には何も入っていなかったのか、底に叩き付けられる鈍い音が響く。
ピンと張りつめた空気の静寂の空間で、それは痛い程に響いた。
「クラピカ。」
レオリオは向き直ると、クラピカの肩を掴み、引き寄せた。
「レオリオ…?」
「ー…いいから。」
レオリオは、クラピカの唇を奪った。驚きにクラピカの瞳が大きく見開かれる。
「ちょ、レオ…」
「暫く…」
黙ってろ。
その言葉は言えなかった。ただ、深く貪る。
クラピカの体は、レオリオによって洗面台に乗り上がる。鏡に背中を押し付けられ、首筋にひんやりとした
寒気が走る。レオリオの舌がクラピカの歯列をなぞり、上顎の裏を舐め上げた。
軽く身震いする。状況も手伝って興奮していたクラピカの心臓はドクドクと鳴る。
「はっ…。」
苦しさに息継ぎをする。それでもレオリオは、口づけをやめない。
クラピカはレオリオを押し戻そうとしたが、ふと目を開けた時、眼前のレオリオの眼を閉じた顔を見て
思いとどまった。
このまま時が止まればいいのに。失敗すれば、もうこうして肌を触れ合わせる事がないかもしれない。
そう思うと、拒めなかった。無性にレオリオの体温が愛しく、手放したくはなく、切ない。
レオリオの掻き抱く手がクラピカのスカートの中に忍び込む。
温かくて滑らかな太腿に手を這わせ、やがて下着のあたりをまさぐる。
「つぅ…。」
敏感な部位に触れてクラピカの肩が跳ねた。
人が来るかもしれない、いやこんな事をしている場合じゃない、そんな気持ちと極度の緊張と
普段しない女性らしい恰好とで色々な興奮と不安が入り交じり、たまらなくなる。
「ダメだ、レオリオ、この…馬鹿者!」
クラピカがようやくレオリオの頭を小突き、その腹をハイヒールのつま先で軽く押す。
赤面して、呆れたような微笑がクラピカの顔にあった。
レオリオはその顔を見て笑った。いてて…と多少大げさに腹をさすった。
その時、ラジオのDJが時間を告げた。
「時間だ。」
クラピカは洗面台から腰をずらしてすとんと降りると、レオリオにそう告げた。
レオリオはクラピカの顔をちらりと見たが、もうその顔には不自然な表情はなかった。
「もしもよぉ、旅団を見て感情が爆発しそうになったらさっきの事でも思い出すといいぜ。」
「あほか。」
「緊張もほぐれるってもんよ。」
「お前の大根演技でも見ればな。」
「バカ、俺はちゃんとやるぜ。」
いつものクラピカの調子に戻っている事にレオリオは安堵を覚えた。
憎まれ口を叩いて、微笑むクラピカ。
しかしすぐに不安に駆られる。相手は5年も憎み続けた旅団。何がどう作用するか見当がつかなかった。
「大丈夫だ。ありがとう。」
クラピカの綺麗な笑みを見ながら、その肩幅の狭い背中を見送った。
中年の男性の接客をしつつ、クラピカは正面ドアが開いたのを横目で確認した。
一瞬、体が硬直する。
目の端で、団長と思われるオールバックの漆黒の男がこちらを見たのが分かったからだ。
男は警戒するようにあたりを見回して、一人一人の顔を認めているようだった。
体中の細胞が、一気に熱くなるのを感じた。
(ダメだ…)
「どうした、キミ。具合が悪いのか?」
接客していた目の前の中年男性の声に、顔を上げた。
「…いいえ。」
取り繕う笑顔。中年男性の顔の横、遠くにレオリオが目に映った。
レオリオはこちらを見ない。一切見ずに新聞紙に目を通していた。
「…。」
クラピカの頭が彼を見た事で急速に冷えていった。
そうだ、この作戦は、私の呼吸と冷静さに掛かっている。
視界にレオリオとゴンとキルアと蜘蛛が完全に収まると、クラピカはそっと息を吐いた。
end.