「あぁっ!……、もう駄目だっ、…ヤメっ」
冷たい灰色のコンクリートの壁に、押さえつけられるように抱かれた。
もう嫌だと言っても、この男は聞く耳を貸さない。
本当にこの男は、私の許婚なのであろうか。
私は、この男を愛したというのであろうか?
この男は、私を愛しているというのだろうか?
意識を取り戻して以来、感じている男への不信感が日毎に募っていく。
覚えているのは、大地を揺るがし唸るような落雷の音。
地に叩きつけるような激しい雨。
そして、……
金属のすり合う優しい音色だけ……。
他には何も覚えてはいない。
生まれた場所も、家族も。
自分が何者かでさえも。
「もうダメっていうわりに、キミの此処はボクのものをしっかりくわえ込んで、離してくれないんだけどねぇ」
冷たい舌先を首筋に這わせながら、男は囁いた。
嫌だ。
嫌だ。
もう、嫌だ!
触れられるだけで身の毛が弥立つ。
「離せっ!」
「素直じゃない子は、キライだよ」
コンクリの壁に捻じ込まれる、と思うほど激しく揺さぶられた。
抗うことは許さない、といわんばかりに責め続けるヒソカ。
ただ受け入れることだけしか、クラピカには出来なかった。
二人のもとへ向かう途中で、この子を拾ったときは驚いたね。
何があったのか知らないけど、この子は記憶を失ってるみたいだ。
きっと今頃、クロロのやつ狂ったように、この子を探し回っているに違いない。
けど今は会わせてあげない。
キミたち二人には何の恨みもないんだけれどねえ。
それじゃ、面白くないんだよ。
だから作りものの記憶をこの子に植え付けてやったよ。
だってその方が、後々まで楽しめるだろう。
骨抜きになったクロロと戦っても、つまらないんだよ。
限界を超えた、最大限の力の状態で戦って殺す。
ああ、考えるだけでぞくぞくするねえ。
精々、それまで必死になって探し回ればいい。
それまでボクはこうして、この子と楽しませてもらうよ。
うん、合格。
なかなか良い身体してるよ。
クロロが夢中になるのもおかしくないよ。
記憶を失ってるくせに、生意気な態度は変らないけれど、それもまあいいよ。
「ほら、しっかり脚を開いて。そんなんじゃ辛いのはキミのほうだよ」
「くっ…!」
胸の先端を捻りあげてやった。
ちょっとくらい痛い目をみた方が、いいんだよ、こういう小生意気な小娘は。
なに、時間はたっぷり有る。ボクの言うことだけを素直に訊く、従順な人形になるまで仕込んであげるよ。
ああ、でも知れば知るほどいい身体だねえ。
ホントに。
このボクが、すっかり嵌っちゃったよ。
ハンター試験会場で初めて見た時は、
まだまだ青臭い子供だと思ったけど、これだけの短時間の間に随分と開花させられたものだよ。
そういえば、イルミのヤツもちょっと気に入ってたみたいだよ。
軍艦島からの脱出のとき、怪我を負ったこの子の手当てをしてあげてたからねえ。
金が絡まないと動かないイルミが、無償で助けてやったなんて、後にも先にもこの子くらいじゃないか?
「あぁっ…」
どうして。
どうして、私はこの男に抱かれているのだろう。
何故、いまもこうして息をしているのだろう。
もう嫌なのに。
知りたい。
自分が何処の誰であったのか。今までどうやって生きてきたのか。
身体中に残った小さな傷。いつ何処で、何の為に付けた傷なのか。
暗い部屋の中で見た、緋色に変った眼。私はいったい何者だったのであろう。
問い詰めても、この男は何一つ答えてはくれない。
…名前。
確かクラピカと一度だけ呼ばれた。それが、私の名なのか?
せめて知りたい。己の名くらいは…。
「はぁっ」
揺さぶり。
身体を二つに引裂かれそうな激しい揺さぶり。
こんなの知らない。
私の身体がこの感触もろとも、失われた記憶と一緒に忘れてしまっているだけだ、と男は言った。
けれど…
一つだけ知っている。
この男の感触を忘れた訳ではないのだ、ということを。
初めから、知らないものは知らないのだ!
立ち上がったまま、背後から突き上げるだけの行為に飽きた男は、私の身体を反転させると冷たい床に一度座らせた。
拒むと、おもいきり敏感な箇所を引っ掛かれた。
あまりの痛みに、おもわず男の身体を突き飛ばしたけれど、無駄な抵抗に終わった。
どういうトリックなのかは知らないが、この男は自在に粘着性の有る物質を操ることが出来るらしい。
そのガムで両手首をきつく縛られ、吊るされた。
爪先が僅かに地に届くか届かぬかほどの位置で、必死にこの戒めから逃れようともがいた。
だがもがけばもがくほど、手首に戒めが食い込んでいく。
自由が利かないもどかしさで、気が狂いそうだった。
どれくらい抵抗していたのであろう。
ある時から、ぷっつりと抵抗することをやめた。
否、やめた訳ではない。もうその気力もないのだ。
疲れた、…。
音が聴こえる。
遠くから微かに鼓膜を撫でる音色。
いつか何処かで聴いた…。
「…熱い」
「アツイ?」
「眼。…私の眼」
手のひらで熱を持った眼を覆った。
ヒソカは、ゆっくりと覆い隠した私の手を引き剥し「ああ、クルタの緋…」何か途中まで言いかけやめた。
…クルタ?
それがこの眼に関係あるのだろうか。
思い出そうとすると、酷い頭痛に襲われた。
割れそうな痛みにもがいていると、ヒソカは何かの能力を使い、この痛みを鎮める。
ここのところ、頻繁に私を襲う激しい頭痛。
その度に痛みを鎮めるヒソカ。
この痛みも、もしかしたらこの男に関係があるのかもしれない。
引き金はいつも音だった。
金属のすり合う音。
シャラリ、シャラリ。
鎖のようなものがこすれ合う小さな音色。
その音が聴こえてくると、眼が反応するようだった。
―記憶
私の記憶を意図的に奪ったのはこの男?
まさか。
人間にそんなことが出来るはずもない。
けれど疑惑の念は収まることを知らない。膨れ上がるばかりだった。
ここに来て、三月もするとこの子はボクの手を煩わせることを殆どしなくなった。
そうなると、どうだろう。
急速にこの子への興味が、薄れていくみたいだ。
「そろそろ、潮時かもしれないねえ」
ただの可愛いお人形さんになった、この子と遊んでも面白くなくなってきたよ。
うん。そろそろクロロを誘き出してもいい頃だ。
さて、どうやって誘き寄せようか。
情報屋から聞いた話によると、見当違いもいいところ。
ルクソに向かったらしい。
本当に考えが甘いというか、なんというか…。
よくあれで旅団を束ねていられたものだよ。
まあ、だからこんな小娘にあっさり掴まって、戒めの鎖なんていうものを打ち込まれるはめになったんだろうけどねえ。
挙句に恋に落ちて、どうしようもない骨抜きにされて。
フン。
言いたいことは山ほどあるけど、ボクは強いクロロと戦えればそれでいい。
とにかく利用できるものは、何でも利用させてもらうだけ。
ショータイムはこれかからさ。
早く戻っておいで、このヨークシンへ。
ボクの元へ…。
あの朝、目覚めた時、既にクラピカの姿はなかった。
胸に刺した制約と誓約の鎖が、解除されていることは、すぐに気付いた。
残されたのは、二人を繋いでいた念樹の蔦と、首飾り。
そしてクラピカの、残り香だけ。
彼女が消えたシーツの上を幾度も撫で、抱きしめクラピカの香りを吸い込んだ。
微かな花の香り。
幾度も、頬をすり寄せ、もうここにはいない彼女の肌の温かさを求めた。
どうして、…。
どうして、オレを独りにするの。
ずっと一緒にいるって約束したのに。
最後の瞬間まで、一緒に罪を償えって言ったのに。
なんで、…置いていくの。
離れないって、一緒に誓ったのに。
…ずるいよ、クラピカ。
しばらくの間は、放心状態だった。
裏切られた、という強い焦燥に何人もの罪もない人々を殺めた。
けれど幾ら人を殺しても、この胸に空いた穴は消えてはくれない。
一層、惨めになっただけだった、…。
クラピカが、オレの前から消えて一週間目、オレは奇妙な女に出会った。
見たところ、コイツも念が多少使えそうだ。普通の人間を殺ってもこの憤りは消えない。
オレは自らこの女を密室に誘き寄せ、殺ることに決めた。退屈凌ぎには丁度いい。
右手から盗賊の極意を具現化するのは、クラピカと誓いを建てた日からは一度もない。
ずっしり、としたスキルハンターの重量感と同時に、出現した念魚インドアフィッシュ。
久々の獲物を前に、喜びを隠せないのか、オレの身体の周りに数回、身をすり寄せ纏わり付いてきた。
ああ、オレも嬉しいよ。呟き、念魚の顔を撫でた。
けれど今はもうない、胸に刺さった楔の跡が痛む。
もうクラピカはいない、オレを置いて何処かに消えてしまった、……。
制約と誓約の鎖と一緒に。
己自身に言聞かせ、抉るように胸を掴み、頭を左右に大きく振った。
「あんた、特質系の能力者?
そういえば、最近会った子も、一時的にそうなる体質の子だったよ」
女の言葉に、顔を上げた。
特質系の子。クラピカのことかも知れない。
「お前が会った、その特出系の子って、もの凄く美人で金髪の緋の眼になる子?」
「人に物を尋ねるのに、随分と偉そうだね、あんた」
「殺されたくなかったら、黙って質問に答えろよ」
膨れ上がった、オーラに反応した念魚が女の腕に喰らいつこうとした瞬間、スキルハンターを閉じた。
間一髪のところで、女の腕は難を逃れたが、念魚の鋭利な歯牙が掠ったのだろう、少し肉がこそげ落ちていた。
「へえ、面白い念能力だね。肉を削り取られたっていうのに、痛みも血もでない。何ていう能力?」
「密室遊魚、インドアフィッシュ」
「ふうん、教えてくれたお礼に、あんたの質問に答えてあげるよ。そうだよ、緋の眼になる子だったよ。もう、これで良いだろう?」
女は腕に受けたダメージを、自己治癒しながらも淡々と問いに答え、元いた場所に戻ろうと歩を進めた。
「待って、もう少し聞かせて!」
女の肩を掴み、こちらを向かせ、言い募る。
激しい動悸に呼吸が上がった。
「あんた、キモイ。それに、そのウザイ、オーラいい加減、消してくれない。あんたと戦うつもりははなからないんだ」
口調は、マチに似ている。だが雰囲気は、どちらかというと、若い頃のパクに似ている。
少し陰のあるような、…。
どんな念能力者なのか。見たところ、強化系の能力者?
だが、今はクラピカのことの方が先だ。捨てられ、置いていかれたのだと、荒れ狂った感情は、この女の一言で、跡形もなく消えていた。
「これでいい?」
身体全体を包み込んだオーラを消し去り、出来る限り柔らかい口調でいった。
今はこの、眼の前の女だけが唯一のクラピカへの手掛かりだ。機嫌を損ねる訳にはいかない。
「ああ、だいぶウザイ雰囲気が消えたね。すっきりしたよ」
この女、用が済んだら、絶対殺す!
「お前が会った子はクラピカに間違いない。いつ何処で会ったのか詳しく聞かせて」
「あたしは、お前なんて名前じゃない。カタリナって立派な名があるんだよ」
「…、カタリナ。もう一度、問う。いつ何処でクラピカに会ったのか教えて欲しい」
膨れ上がりそうなオーラ−を押さえ、一言一句ゆっくりと言葉を口にした。女の表情が変わる。
「ああ、キャットでいいよ。呼びにくいだろう?あんたにとって、そのクラピカ?
緋の眼になる子はよっぽど大切な子なんだね。
いいよ、教えてあげるから、あたしの後についてきな」
誘い込んだ密室から抜け出ると、夏のヨークシン特有の熱風と強い太陽の日差しが、視界を歪ませる。
この時期は、密集して立ち並ぶビルの空調機器から出る熱風が行き場をなくし、空気を淀ませ体感温度が気温の数倍に跳ね上がる。
子供や、身体の弱いやつ、ホームレスなんかは暑さでやられて病院送りか死しかない。
世界一の大都会といわれているのに、街の現状は激しい貧富の差がこんなところでも分かる。
ストリートの合間に転がる、ホームレスを横目にしながら女の後を追った。
ハーレム地区125番地から、ミッドタウンにまで一気に駆け抜け、さらに先へ。
普通の人間の足なら、一時間は掛かるところをほんの数分。だがその数分間は異様に長く感じられた。
「ここだよ」
女の指し示したところ。ペンシルヴァニア・ステーション。
ヨークシンから、出発する列車の集る巨大ステーション。
すると、クラピカはヨークシンにはもういないのか。
「列車に乗るところを見たの?」
「ああ、そうだよ。けど、…」
「けど、なに?」
「歩くのもやっとな感じだった。見たところ、何らかの制約を掛けて、念を強化させているんだと思うけど、
…ヒートオーバー寸前だったよ。
何をしたのか知らないけど、自分の能力以上に念を使いすぎたんだ」
「歩くのもやっとなのに、クラピカは列車に乗ったの?
何で、止めてくれなかったんだよ!?」
この女のせいではないのだ。
だが分かってはいても、言わずにはいられなかった。
強く握った女の肩の骨が軋みをあげる。このまま力を加えたら、砕けてしまうだろう。
それも分かっていた。
けれど押さえが利かないのだ。
苦痛に歪んだ女の唇が、僅かに開いた。
「ま、待ってよ! あんた、さっきから空回りしすぎ!!! あたしは、ちゃんと引きとめた。そして、治療もしたんだからね」
女の言葉に、殺気が掻き消される。
ああ、クラピカ。
「治療はしたって、どの程度回復させたの?」
「とりあえず、消耗した体力と掠り傷は殆ど回復させた。けど、…」
またか。
「いいから、先を聞かせてよ」
「記憶喪失みたいだった。名前を聞いても、覚えていなかったんだ」
「…、記憶が、なかった、の?」
視界が暗転する。膝に力が入らず、大きく体勢を崩し前にくずおれた。眼の前にいる女の声が、遠くで聞えていた。
「遠くを見つめて、何が見えるんだい?」
「…、何も」
背後から纏わり付いてくる、男の腕を振り解き短く答えた。
嘘ではない。実際、何も見てはいなかったのだから。
「ここからの眺め、最高に素敵だろう?
夜になれば、もっと綺麗だ。きっとキミも気に入るよ」
「ああ、…」
確かに、ここから見える、外の眺めは美しい。
夜になれば、その美しさも増すことだろう。
「相変わらず、つれないねえ。せっかく、あの暗く狭苦しい空間から、ここに移ってきたのに」
「何処であろうと、結局することは同じだ。違うか?」
ムードがない、と男は苦笑いを洩らした。
分かっていないのは、お前の方だ。そんなものを、必要としないのが私たちの関係だというのに。
「ほら、これに着替えて。せっかくの夜だからねえ、二人で食事に出掛けよう」
男の姿が隠れて見えなくなるほど、高く積み上げられた幾つもの大小の箱。
どうせ中身は見なくても分かっている。
派手なドレスとバックにお揃いの靴。
ああ、それとアクセサリーが数点。
どれもみなこの男の趣味で見立てられたものばかり。
そんなもので着飾ったところで、この私に似合うわけがないのに。飽きもせず男は私を飾り立て続ける。
「そんな顔して、またボクのプレゼントが気に入らないのかい?」
「似合わない」
低く返した。
「そんなことはないと思うよ。あの汚れた蒼い衣装よりは、よっぽどイイ」
わざとのような大きな溜息。男はゆっくりと視線を、それへと向けた。視線の先にあるもの。
私が発見された時に身に纏っていた衣装。
何度クリーニングに出しても、汚れは落ちなかったらしい。
捨てろと幾度も言われたが、それだけは頑なに拒否した。
クラピカが突然、オレの前から姿を消して三ヶ月。
依然として彼女の行方は掴めないままだ。
ヨークシンで、退屈凌ぎに攻撃を仕掛けた念能力者の話によれば、クラピカは体力を消耗し、記憶を失っていたらしい。
その女が飲み物を調達する為に、ほんの僅かな間、クラピカの側から離れた隙にクラピカの姿は消えていたという。
長距離列車の集合ターミナルにいた、ということはもう既にクラピカはヨークシンにはいない。
そう判断したオレは、クラピカが行きそうな場所を一つ残らず尋ねて周ることにした。
まずはあの三人。
ハンター試験で知り合ったという、クラピカの三人の友人のもとへ向かったが、
ヨークシンでの旅団との戦いのあとは一度もクラピカには会っていなかったらしい。
医者になる、と喚いていた男に逆にクラピカの行方を問質された。
男の話によると、他の二人はクラピカと別れたあとすぐに、グリードアイランドという念能力者専用のゲームを攻略する為に、そのゲームの中。
仮想現実世界にいるらしい。
まだクラピカが傍にいた頃、連絡を取り合っていた旅団員たちからグリードアイランドのことは聞いていた。
団員たちは、海からの経路でグリードアイランドへの潜入を果たしたが、ゲーム製作者の一人に発見され即座に弾き飛ばされたといっていた。
喩、記憶を取り戻したとしても、弱ったクラピカにはグリードアイランドへの潜入は不可能だ、と判断し最後の望みを掛けて、ルクソへ向かうことにした。
「お前、いつまで後を付いてくるつもりだ?」
「そんなの、クラピカが見付かるまでに決まってるじゃねえか」
「お前がいると、足手まといだ」
「迷惑は掛けねえ」
とうに迷惑が掛かっていることに気付かないのか。それとも分かっていて言っているのか。
クラピカの友人でなければ、即殺しているところだ。
「ならもっとペースを上げろ。この調子でのんびり走っていたら、ルクソまで何日掛かるか知れないぞ」
「分かってるって。だからこうして全力で走ってるんだろう」
この男。確か名前はレオリオ、といったか?
男の自宅から、一番近い飛行場までのおよそ、80キロを全力で走り抜けた。
こいつが、とんでもない田舎に住んでいる所為で、クラピカの故郷、ルクソ近くに降りる飛行船は三日に一本。
午後五時発の飛行船を逃したら、あと三日ここで足止めを喰らうことになる。
それは避けたい。
幾度も男のいる後ろを、振り返りながら煽った。
「もう無理だ。お前にオレの後を付いてこれる訳がない。いい加減もう帰れ」
「嫌なこった!」
念もまだまともに修得しきっていない男に、オレの後を付いてくることは到底不可能なこと。
苛立つ感情を抑え、嫌がる男を背に乗せ走り抜けた。
「あぶねえあぶねえ。もう少しで唯一の飛行船に乗り遅れるところだったぜ」
一体誰の所為で、こんなに焦ったと思っているんだ。
心の中で、舌打ちした。
「ここからルクソ近くの飛行場まで丸一日。そこから先の交通手段はない。到着したら目的地まで走るぞ。今は充分に休養しておけ」
「分かってるって。今度はお前に迷惑掛けねえよ」
男は少し照れくさそうに返しながらも、小さく礼を言った。
有難う、と。
人に礼を言われることなんて、いつ以来だろう。
何故か悪い気はしなかった。
それに一人でクラピカを探すより、こんな奴でもいないよりは役に立つかもしれない。
「もういいから、今は眠っておけ」
狭い飛行船の客室に備え付けられた、簡易ベットに潜り込み、シーツを被り背中合わせに呟いた。
クラピカがオレのもとから消えて以来、初めて誰かと一日を共にした。
あれ以来、殆ど必要以外、誰とも口をきいてはいない。
勿論、眠る時だって一人だ。
クラピカ、…。
今、キミがオレの傍にいないことを一層、強く実感しているよ。
キミの肌の温かさが、キミの髪の匂いがこんなにも恋しい。
キミがオレの名を呼ぶとき。
キミがオレに向かって微笑むとき。
オレの胸はいつも高鳴り、心踊るような幸福感に包まれていた。
いつも思うんだ。
夜空に星が輝く理由は、ただ一つ。
キミだけの為に輝いているんじゃないかって。
今は逢えないキミの上にも、この星が輝いていることを。
オレの代わりに、夜空にきらめくこの星がキミを守っていてくれることを祈る。
クラピカ、…。愛してる。
「おい、もうすぐ飛行船が着陸する。いい加減起きろ」
着陸寸前まで眠っている、まったく緊張感のない男の簡易ベットを蹴り上げ、叩き起こしてやった。
勢いよく床の上に転がり落ちた、というのにまだ目覚めないこの男の神経の図太さになかば呆れ果てもしたが、
構わず一人で朝食を取りに向かう。
食事抜きで辛い思いをするのはあいつだ。
だが途中またへばられて、後ろに背負う羽目になるのも面白くない。
仕方なしに、二人分のパンとコーヒー。数種類のフルーツを取り、客室に戻る。
客室に戻ると男は、床に転げ落ちた状態のまま間の抜けた顔でこちらを見つめていた。
漸く、起きたらしい。
「朝食だ。今の内にしかり腹に入れておけ」
「わりいな、起してくれたらちゃんと自分で飯くらい取りに行ったのに」
「オレはお前を蹴り飛ばして起したのだが、…」
「そうなんか? ちっとも気付かなかった。寝惚けて床で爆睡してたんだとばっか思ってたぜ」
朝食をすべて食べ終え、シャワーを浴び、身支度をすっかり整え終わる頃には、飛行船は着陸態勢に入っていた。
およそ三十分程で、鄙びた飛行場の滑走路に到着。
ここから丸一日走り抜ければ、クラピカの故郷ルクソ。
クルタの村里跡地に着く。
逸る心を押さえ、まずは必要最低限の食料と水。寒さ対策の厚手のコートを二人分購入した。
真夏のヨークシンとは正反対に位置するルクソ地方は、今は真冬の極寒の季節なのだ。
「こんなもんで良いか?」
「ああ、必要な物はすべて揃えた。ここから一気にクルタの村里へ向かう」
言うと同時にルクソへ、クラピカの元へと駆け抜けた。
「こんなこと聞いちゃマズイのかもしんねえけど、何だってクラピカはお前の元から消えちまったんだよ?」
ぴたりとオレの横に離れずに付いてくる男が、気まずそうに問うてきた。
「判らん」
そんなの、こっちが聞きたいくらいだ。
そう答えたオレの声の刺々しさに、男は一瞬にして顔色を変え走る速度を落とした。
というより、恐怖に引き攣りペースが落ちたのだろう。
だが気を取り直したのか、またすぐにぴったりと横に喰らい付いてきた。
無言のまま駆け抜けること、二十時間。
途中、一時間程の休息を取ったにもかかわらず、ルクソとの境に予想よりも早く到着した。
「おい、ここで止まれ」
「なんだよ、こんなところで急に立ち止まったりなんかして」
両手を膝につき、息を上げている男を横目に、昔見付けたクルタへの近道を指で指し示した。
「ここからは、あの獣道を通っていく。運が良ければ、お前でも通ることが可能だ。だが悪ければ死ぬ。どうする?」
「死ぬって、何か罠でも仕掛けてあるのかよ?」
「念だ。念のトラップがいたるところに仕掛けてある」
「それ以外に行く道は?」
「このまま真っ直ぐ走っていけば、もう十時間もすれば着く」
「その獣道からだと、どのくらいで着くんだ?」
「一時間だ。オレはここを抜けて行く。自信がないなら、このまま十時間掛けて、後から追いつけばいい」
男はしばらく思案すると、意を決したように立ち上がった。
自分も一緒に、獣道を進むのだと。
もしかしたら、己の命が危ういかもしれないというのに。
友情とはこんなにも熱いものなのだろうか。
仲間とは、そこまでして助けるべき存在なのだろうか。
それとも他の何かが、この男を突き動かしているというのだろうか。
ほんの刹那の間だが、無数の思いが脳裏を掠めた。
「判った。だが何があってもオレは手助けしない。自分の身は自分で守れ。それでもいいならついてこい」
「望むところだぜ」
意を決して、獣道を進む。
全身に纏わりつくような、生温かい不快なオーラがオレたちを外界に押しやろうと吹き荒れる。
弾き飛ばされないように、大地を踏みしめ一歩一歩前へ前進した。
外界との一切の接触を拒み続けた、クルタ族がよってたかって強化した念の結界は常人や並みの念能力者に突破することは不可能だ。
それだけ外部との接触を嫌い、長い年月、血族のみで交わり続け、純血種だけを産み出し後世に繋いできた。
一族を守る為だけに。
緋の眼という特種で、もっとも貴重な宝珠を持ったばかりに。
クルタ族には数世代に一人の確率で産まれた強い念能力者がいたという。
その者たちの役目は、強固な結界を作り侵入者を排除すること。
その為だけに産まれ、死んでいった。
クラピカも、その数奇な運命の糸に弄ばれた一人だった。
故に、ただ一人あの襲撃から、生き残ることが出来たのだ。