この地に最初に訪れたのは、今よりも八年もの昔だった。
幾ら数世代に一人の特殊な能力者が、このクルタの地にいたところで、幻影旅団の襲撃をおよそ防ぎきれるものではない。
だがあえてオレは、一気に攻め込む手段を選ばず、襲撃より一年早い単独での潜入を選んだ。
退屈していたのだ。
あの日も飛行場から一気に駆け抜け、あの分岐点で立ち止まった。
己の左方向から感ずる強い念の結界。
今まで感じたことのない、そのオーラに強く惹き付けられこの獣道に足を踏み入れた。
あの頃のオレも相当、強さには自信が有った。だが今の力には到底、及ばない。
若さゆえの過信。
己の能力も顧みずに、危うく命を落としかけた。
無論あの頃も今も、死など恐れてなどいなかったが。
傷付きながらも無数に張り巡らされた結界地獄から脱出し、
クルタの村里境にある川原に辿り着いたオレは、そこで一人の少女に出逢った。
クラピカだ。
未来を容易に彷彿させるような、美しさが有ったのは言うまでもない。
それにとっても可愛かった。
「やあ、こんにちは。キミ、クルタ族の子だよね?
ああ、ここに来る途中、怪我してね酷い姿だろう。でも怪しい者じゃないよ。安心して」
こちらを怪訝そうな表情を隠そうともせず見つめてくる、
髪の長いほっそりとした身体つきの少女に向かって出来るだけ柔らかい口調で話し掛けた。
幾らオレでもこの状態で、他のクルタ族の連中を呼ばれ、立ち向かわれでもしたら、梃摺るのは眼に見えて分かっている。
「貴様、外の世界からの侵入者だな。どうやって、ここに入ってきたのだ!?」
その姿に似合わぬ、大人びた口調。
呆気に取られる間もなく、襲い掛かってきた。こんな子供までも、武術の心得があるのか。
「ちょ、ちょっと待って。オレはクロロ。クロロ=ルシルフル。本当に怪しい者じゃないって」
クルタの血筋とはいえ、まだ小さな子供だ。
あっさりとその攻撃から身をかわし、腕に捕えた。
「何をするのだ!
離せ!!!」
「いいけど、もう襲い掛からないって、約束してくれる?」
「不可能だ、却下する!」
「残念。交渉決裂だね。ずっとこのままキミを離さないよ?」
柔らかく微笑んで、でもほんの少しだけ力を篭めて少女の細い腕を掴んだ。
深い海の底のような蒼色の瞳の縁取りが、仄かな緋色に変化する。
産まれて初めて見る、本物の緋の眼。
食入るように見つめた。
「クロロっ!」
過去への回想に浸ってていたオレの耳を劈くような叫び声。
あの男が、トラップに嵌ったらしい。
己の身は己で守れ、と言ったはずなのに。
仕方なしに、後ろに踵を返し、男を救い出した。
何のことはない、操作系念能力者が樹海の木々を利用しただけの簡単なトラップと、
対象者が近付いてきたら相手が息絶えるまで、念のオーラを飛ばし攻撃し続けるという放出系念能力者が作り出したトラップ。
どちらも半永久的に念の力が継続する、という点以外はたいした威力はないものだ。
「この程度で悲鳴を上げているようでは、到底この先を突破することは不可能だ。ここからならまだ間に合う。今すぐ引き返せ」
忌々しげに低く言った。
「嫌だ!今度からもっと注意する。だから俺も一緒に連れていってくれ。なあ、頼む」
「勝手にしろ」
這い蹲ったまま必死で言い募るこの男、レオリオの一種の執念にも似た懇願。
この男にとっても、またクラピカは大切な存在なのだろう。
仲間として。
否、おそらく、それ以上の理由で。
心臓を青白い炎が、遠慮なしに撫でまわすような不快な感触。
この獣道に張り巡らされた、無数の念のトラップをも弾き飛ばすような。
禍々しいオーラがオレの身体の周りを覆う。
ついてくるだけでもやっとの男には、辛い状態なはずだろう。
けれど賢明に追いつこう、と喰らいついてくる。
それが無性に感に障った。
この道に潜入してから、四十五分というところだろうか。
次第に強まる結界の威力は、一層オレたちの侵入を拒む。黙々と後ろを、ついてきているはずの男の気配が消えた。
「レオリオ?」
立ち止り、後ろを振り返るも男の姿はない。何処かの穴にでも落ちたか。
不本意ながらも、男の姿を探し回ったが結局見つけることは出来なかった。
仕方なしに、一人先を急ぐ。
しばらく進むと、水の匂いが鼻を掠めた。
五感を高め、匂いのする方向に耳を澄ませる。微かな川の流れ。水流の音が聴こえた。
あの日、クラピカと初めて出逢ったあの川原。
激しい胸の動悸に呼吸があがる。
緊張で咽喉が張り付きそうだった。
最後の結界を突破し、クラピカとの最初の出逢いの地であるあの川原に向かった。
まるで人の気配を感じない川原を一通り見回ったあと、クルタ族の集落跡地へ向かう。
旅団の襲撃以降、人気のない村里は誰も手を入れるものもおらず、荒れ放題に荒れていた。
足を踏み入れると同時に感じたクラピカの気配。
だがこれはきっと以前に、クラピカがこの地を訪れた時の名残りだろう。
それほど微かなものだった。
「ここにも、キミはいないんだね」
暫く時間を掛け集落の跡地を一つ残らず見回り、クラピカはここには来てはいなかったのだということを知った。
身体中のすべての力が抜け落ち前にくずおれる。独り呟き、幼い頃のクラピカの影を追った。
「お前は何をしに、この地に訪れたのだ?」
腕に捕われた姿勢で、緋の眼の少女が気丈にも問うてきた。
普通、このくらいの女の子なら、こんな状態になれば怖がって泣き出すものなのに。
不思議な子供。
それが二番目にこの少女から受けた印象。
「何故、私の問いに答えぬ」
「…、あ、ごめん。ちょっとその眼に見惚れちゃった」
自分の双眼が、緋色に変わっていたことに言われるまで気付かなかったのか、
少女は咄嗟に自由の許されている方の手で両眼を覆い隠した。
「隠さないで見せて? 綺麗な色」
覆った白くて小さな手をそっと剥した。
けれど少女は固く瞼を閉ざして、その色を頑なに見せようとはしない。
「どうして、見せてくれないの?
人に見られるのは嫌?」
あまくささやき、見せて欲しいと願うも少女は、首を小さく左右に振ることでしかこたえてはくれない。
焦れて、髪と同じ金色の睫毛を啄み、唇でくすぐってやると、少女は大きく二、三度瞬きをし、紅い双眼をゆっくりと開いた。
ああ、本当に何て綺麗な色なんだろう。
「どうして、どうしてお前はこの眼を見たがる。やはりお前も他の外界の連中と同じに、緋の眼を抉りに来たのだろう」
少女が何か言っていたが初めて見る緋の眼に、暫くは口も利けずにいた。
それだけこの色に魅せられていた。
「私の声が聞えないのか!?」
「あ、うん。大丈夫、ちゃんと聞いてるから」
「ならば何故、答えようとしない」
「うん、だからオレはただ、ここに偶然迷い込んだだけで、眼を抉るとかそういうのはないから」
今はまだ、その時期じゃない。
というより、この少女そのものに興味が沸いた。
でもそれは、口には出さないでおいた。もちろん態度にも。
「ねえ、キミの名前は?」
腕に捕えていた少女の身体を解放し、目線の高さを合わせて問い掛けた。
小さい子には、特に女性には大人になってからも、こうした方が良いって前に聞いたことがある。
初めは警戒心剥き出しで、野良猫のように爪と牙を武器に歯向かってきていた少女の身体を取り巻いていた、
きつい雰囲気が徐々に消えていくのがわかる。
もう一度、ゆっくりと問い掛けた。
「ねえ、教えて?」
「…、カ」
「ん? 何て言ったの?」
「…ピカ、…クラピカ」
「クラピカ? クラピカかあ。素敵な名前だね。クラピカ。響きも含まれた意味も綺麗」
「意味?」
「うん、クラピカのピカは、Picture、Pikt〜で、絵のように美しい人。イメージ、具現化されたもの。でもクラの由来は?」
「知らん」
「あ、〜そう。知らないんじゃしょうがないね」
「名前には意味があるのか?」
「うん、そうだよ。普通は聖書の中に出てくる人の名前を文字って付けるんだ。
クラ、Curar、ポルトガル語? じゃあ、to cure、癒す。魂を救う、悪癖を正し矯正するかな?」
「悪事を正し、病める人を救う美しい人か?」
「そうだね。そういうことになる」
クラピカは、幾度か口の中で言葉の意味を反芻すると、しかめ顔で小さく首を傾げた。
なんだろう、何か変なこと言ったのかな。
「気に障るようなこと言ったかな? もしそうなら、謝るけど?」
「いや、もうよい。ただそのような軽口は、平気で口にしないでもらいたい」
「軽口?」
「う、美しいとか、なんとかのことだ!」
見るからに、まだあどけない子供特有の柔らかそうな頬が仄かに紅く色付いていく。
小さな獣に引掻かれないよう、すこしだけ警戒し躊躇いがちにその頬に触れ
「どうして? どうして美しい人に対して美しいって言ったらいけないの?」と、訊いた。
「とにかく、私はそう言われることに慣れてはいないのだ。二度と口にしないでもらいたい」
「う〜ん。なんだかよく分からないけど、キミが嫌なら、なるべくもう言わないよ?」
「なるべく?」
「うん、なるべく。でも気をつけてないと言っちゃうかも」
勝手にするがいい、とクラピカはそっぽを向いてしまった。
おもしろい子供。
三番目に受けた印象だった。
一番初めの印象は、やっぱり綺麗な子供だったけれど。
綺麗な子供。不思議な子供。おもしろい子供。
この短時間の間にクラピカから受けた印象は、オレをこの地に留まらせるのに充分な口実だった。
もうすこしここで、この緋の眼の子供と戯れてもよさそうだ。
計画を変更し、暫くここで暮らすことにした。
「ねえ、オレの怪我が治るまででいいから、ここにいちゃ駄目? それとも、他の皆にオレのこと知らせる?」
先程よりももっと低い位置から、クラピカを見上げた。
躊躇うような、困惑の表情は、子供のものとは思えないくらい美しかった。
暫くその顔に見惚れていると、小さくクラピカが呟いた。
「…、しないか?」
「え?」
「本当に、クルタの人々の眼を狙っているのではないのだな? 眼を抉ったりはしないか?」
可能な限りの微笑で、誓えるよ、と約束した。
キミの眼だけはね、という言葉は当然のみこんだけれど。
「ここ?」
「そうだ、ここならクルタのものは誰も近付かない。お前は今日から、怪我が完治するまでの間、ここで暮らすのだ」
連れていかれたのは、川原をずいぶんと下流に下ったところにある、天然の鍾乳洞の中に人工的に作られた小部屋だった。
人工的な作りとはいえ、かなり昔に作られたのだろう。今となっては、値段の付けようがない古い美術品。
否、これはもう遺跡といっても過言ではない、古代クルタの遺産が所狭しと集められていた。
そして確かにここなら、誰も近付くことはないだろう。迷い込んだら最後。まるで迷宮のような作りだった。
盗賊から、宝を守る為というより緋の眼を守る為に身を隠す場所として作られたのだろうか。
「私が指定した範囲以外は、絶対に足を踏み入れてはならない。よいな?」
「どうして?
誰かに見付かるから?」
「それはない、ここには最初に言ったように誰も近付こうとはしない。
ここは私たちの遠い先祖が作ったと言い伝えられる、魔の迷宮、ラビリントスなのだ。
約束を守らなければ、お前は魔獣に喰われる」
魔獣?
たったそれだけの理由で、クルタ族の連中はここに近付くことを恐れているというのか?
こんな小さな子供が、平気で足を踏み入れているというのに。
「なんだか分からないけど、とにかくキミの言う通りにする。安全なところにいさえすれば平気なんでしょう?」
「そういうことだ」
やっぱり、この子は可愛い。
今どき魔獣に恐れをなすなんて、常人くらいなものなのに。あんまりクラピカが真剣だから、言うことを聞いてあげることにした。
ここは本当に、穏やかなところだ。
まるで時間の流れが止まってしまっているのではないか、と思える程のんびりとした空気が流れている。
初めの二〜三日は、こういう暮らしもたまには良いものだ、と思ったがすぐに飽きた。
オレが今もこうして、ここにいる理由はクラピカだ。
「もう食事は済ませたのか?」
「うん、もう食べたよ。クラピカは?」
「私も、済ませてからここへ来た。怪我の具合はどうなのだ?」
「うーん。多分、もう二〜三週間ってところかな?」
あれからクラピカは、殆ど毎日のように、ここへやって来る。
本人は、オレを監視しているつもりらしいけど、そんなことはどうでもいい。
怪我の方も、念を使えば一瞬で完治させることは可能だが、自然に任せていた。
クラピカに会うという、口実の為だけに。
「ところで、キミは魔獣を見たことあるの?」
クラピカが退屈しのぎに、と持ってきた数冊の本を殆ど読み終えてしまったオレは、思い出したかのように魔獣について訊ねてみた。
本当に魔獣が存在するなら、見てみたい。
「姿を見たものは、誰もいない。言い伝えによれば、姿を見たものは即座に魔獣に喰い殺されてしまうからだ。
だが、幼い時に魔獣の声を一度だけ聞いたことがある」
「へえ、どんな声だったの?
やっぱり、ガオーっていうの?」
「とても悲しそうな泣き声だった」
「悲しそう?」
「ああ、…。言い伝えの魔獣は半身は人間、半身は獣の姿をしているそうだ。
きっと何か深い訳があって、そのような姿になってしまったのだろう」
キミの方が悲しそうだ。
そう言いかけてやめた。もっとその顔が見てみたいと思ったから。代わりに、金糸のサラサラの長い髪を指先で梳いた。
この子は、子供扱いをされるのを嫌う。けれどこれだけは好きみたいだ。
おとなしく、髪を梳かれて、気持ちよさそうな顔を見せてくれる。ときにはそのまま、眠ってしまうことさえ。
ねえ、クラピカ。
キミが眠っている間、オレが何をしているか知ってる?
きっとそのことを知ったら、もうキミはオレには会いに来てはくれなくなる。
ダカラ、マダナイショダヨ。
「どうかした?」
「何か聴こえる。…、ほら、お前にも聴こえるだろう?」
うつらうつらしていたクラピカが、ゆっくりと起き上がり耳をすませる。
オレには何も聴こえないのに、この子には聴こえているみたいだ。オレにはない、特殊な力があるのだろうか。
「オレには何も聴こえないよ。どんな音が聴こえるの?」
「まるで謳っているよだ。悲しい声、…」
「魔獣の歌声?
どんな?」
クラピカが、音と共鳴するように口遊む歌。
魔獣の声は聴こえてはこなかったが、その悲しくも透明な旋律に何故か胸を衝かれた。
「どうしたのだ、お前らしくもない。そのような顔をして」
「キミの歌声が綺麗だからかな。なんだか胸に迫ったみたい」
まだ子供の、でも繊細でしなやかな手が頬をなでた。
幾度も頬を上下する指先が心地いい。そのまま眼を閉じて、キスを誘った。
どのくらい眼を閉じて待ったのだろう。
多分、ほんの数秒間。頬の上に落とされた、躊躇いがちにすこし震えたキス。
そのままクラピカの後頭部に、手を添え髪を梳いた。
残念。
本当は、キミの方からオレの唇にキスしてくれるのを、期待していたのに。
片手でクラピカを抱き寄せ、向かい合うように膝の上に乗せ
「誰かとキスしたことある?」と訊くと、視線を逸らせ、小さな声で、両親以外とはない、と呟いた。
「頬っぺたもないの?」
長い金色の髪を耳に掛けて、そのまま耳の後ろから頬の線をなぞり、顎を掬った。
小さな身震いと仄かな緋色に縁取られた瞳。怒らせたのかな。それとも、すこし感じた?
「お前が初めてだ。もう良いだろう?」
ゆっくりと息を吐き出し、すこしだけ早口でクラピカは答えるとオレの腕から身を離そうとした。
ダメだよ。キミはまだここにいないと。
抱き寄せ、耳もとに息を吹き込むようにささやいた。
キミが知らないだけで、もう何度も唇を重ね合っているんだよ。キミの唇は柔らかくて、とってもあまくて。
でもね、キミもオレとのキスがスキみたいだよ。
キミは眠っているはずなのに、キスしてあげるとちゃんと反応するんだ。
初めはすこし苦しそうにしてるけど、離れようとするとイカナイデ、ってオレの舌と唇を追いかけてくるんだ。
だからね、最初よりもっと長くて深いキスをしてあげるんだ。
キミの身体がそうして、クロロって言うから。
くず折れた身体を起こし、引き摺るようにあの二人の場所に向かった。
クラピカがこの地にいないことは、判っている。だが何か手掛かりくらいは掴めるのではないかと思った。
ひんやりとした、鍾乳洞を進むと、吹き抜ける一筋の風に乗って血の匂いが鼻を掠めた。
恐らく、結界で逸れたあの男のものだろう。ここにはオレたち以外に誰もいないのだから。
暫く、あの秘密の部屋で男を待つことにした。
あの男も念能力者の端くれなら、ここに辿り着くことくらいは可能だろう。
朽ちかけた木製の椅子に腰を降ろし、スキルハンターを具現化させた。
クラピカの以前の雇用主の娘から奪った、未来を占う力。
ヨークシンで占った時には、はっきりとした未来は読めずにいた。だが今なら、読めるかもしれない。
ふと視界に入った、古びた人形。
子供の頃、クラピカが大切にしていたものだ。一族を象徴する青い衣装を身に纏わせた。
産まれたばかりの赤ん坊の健康と幸福を願い、一族の大巫女が祈りを篭めて一針一針その子供に似せて仕上げていく。
そっと手に取り、人形の絡んだ髪を梳いた。
「これをお前にやろう」
「人形? キミにそっくりだ」
「ああ、大巫女が私に似せて作ったものだからな。
災いが自身に降り掛からぬように、クルタの地に産まれたものは、皆このような人形を与えられるのだ」
等身大とまではいかないが、わりと大きな人形。身代わりの術でも掛けてあるのだろうか。
「大切な人形なんでしょ。どうして、オレに?」
クラピカと人形を、片膝ずつに抱き、問い掛けた。
少しの沈黙。
暫くして、目元を薄っすら、と赤らめたクラピカがゆっくりと「お前が一人で寂しくないように」と小さな声で呟いた。
可愛い。
この子は本当に、もの凄く可愛い。
そんな理由で、大切な身代わり人形をオレに差し出そうだなんて。
「優しいね、クラピカ。でもオレは大人だから一人でいても寂しくないよ。キミもこうして毎日逢いに来てくれてるしね」
「逢いに来ているのではない! お前がここから抜け出さず、おとなしくしているか確かめに来ているのだ!」
照れてるのかな。一層、頬まで真っ赤にして、噛みつくように言った。
「うん、そうだったね。キミは村の人にオレが見付からないか。オレが村まで行ったりしないか、監視してるんだよね?」
「そうだ!」
ムキになって言い募るクラピカは、やっぱり年相応の小さな女の子で、ああ、もう本当に。
あまいメープルシロップを頭から掛けて、食べてしまいたいくらいに可愛いかった。
だから、柔らかそうな頬っぺを、かぷり、とあまく噛んで、じゃれあうままに隙を付いて唇にキスしてやった。
柔らかな唇に触れたと同時に感じた引裂くような痛み。
触れると指先に薄っすらと血が滲んでいた。おもいきり頬を引掻かれた。
「ああ、…忘れてたね。キミと初めて逢った日のこと。そういえば、いきなり襲い掛かってきたっけ、…」
すっかり飼い馴らした、と思っていたんけど、……。
まだ可愛い飼い猫にはなりきれてはいなかったみたいだね。
「…すまない、……痛むか? だが、私はお前を傷つけたこと以外では謝ることは出来ない」
それだけいうと、クラピカは鍾乳洞の奥へと走り去っていった。
「迷子になるよ?」
苦笑いを浮べ、ゆっくりとクラピカの後を追った。
幾つもの狭い回路を抜けると、眼の前に美しい地底湖が広がった。
クラピカの気配。きっとこの地底湖の何処かにいるはず。
「何処にいるの? もうかくれんぼは終わりにしよう?」
あまい声で呼びかけても応えようとしないクラピカに焦れ、円を使い気配を探った。
あんな小さな子に念を使う羽目になるなんて思ってもいなかった。
それだけクルタ族という奴らは気の抜けない相手だっということだろうか。
「クラピカ?」
地底湖の片隅で、蹲るように全身ずぶ濡れで倒れていたクラピカを見つけたのは、円を使って五分後のことだった。
何があったのだろう。
抱き上げると同時に感じた酷い熱。つい先程まで、あんなに元気だったというのに。
まるで何か大きな力を始めて使ったかのような、……。
「つらい? クラピカ、…。こんなに全身ずぶ濡れで、いったい、どうしたっていうの?」
薄っすらと眼を開けたクラピカに、何があったか問い掛けてみたが、なんでもない、と力なく首を振るだけだった。
「ごめんね、濡れたままだと熱が引かないから。服、脱がせるよ」
ぐったり、としたクラピカの衣装を、すべて脱がせると毛布に包んだ。
それでもクラピカの身体の震えはおさまらず、小さく震えていた。
可哀相に。寒いんだね。怒らないでくれるよね?
耳もとで囁き、自分も服を脱ぎ捨てると肌を合わせた。
「ヤっ、…」
こんなに震えるほど凍えているのに、身を固くしてオレから逃れようと必死でもがいている。
どうしてこんな時まで、そんな風なのかな?
「大丈夫、何もしないから。この方が、早く熱も下がるし、温かいんだよ?」
濡れて濃い金色になった、髪を撫で微笑んだ。
安心したのか。それとも熱で身体の自由が利かないのか。おとなしくクラピカは瞼を閉ざし、やがて小さな寝息をたてた。
どれくらい髪を背を撫で続けたのだろう。
青褪めて震えていた小さな身体は、いつものような透き通るような白さと、淡い薔薇色を浮かべたような肌の輝きが戻ってきた。
「もう大丈夫だね」
呟き、まだ眠っているクラピカのもうすっかり乾いて輝く金糸の髪をそっと梳き、上唇をゆるく吸いあげた。
「ぁ、…」
髪に感じた指先が滑る感触。酷く懐かしく。優しい。
身体が小さく震えた。
「どうかしたのかい? そんな色っぽい声なんか出したりして」
静寂に包まれた空間を気遣うような密やかな声が、耳もとを濡らす。
「ここでしたくなった?」
固く眼を閉じ首を振った。
男が意地の悪い笑みを浮べ、遠慮なしに膝から下腹部までをなぞりあげてくる。「やめろっ」押し殺した声。
ここはあのペントハウスではない。震える手で、蠢く男の手の動きを制した。
「なんだ。誰かに見て欲しいんじゃなかったの? てっきりそうだと思ったんだけどねえ」
「違うっ!」
胸元まで這い上がってきた手を跳ね除け、短く言った。
「何処に行くのさ、まだ舞台は終わってないよ」
「化粧室だ、すぐに戻る」
「ああ、そう」
二人掛けの貴賓席を抜け出し、控えの間を抜け、大理石で出来た廊下を走り抜けた。
一つ目の角を曲がり、重厚なシャンデリアの下がった螺旋階段を降り、一般客が立ち入れない化粧室に滑り込み、
眼の前の飾り枠のついた大鏡に手のひらを合わせ、頬を寄せ乱れた呼気を整えた。
氷のように冷ややかな感触が心地よい。
そのまま眼を閉じ、鏡の中のもう一人の自分と同化しようと試みた。
染まっているのだろうか。
あの色に。
眼が燃えるように熱かった。
誰かに柔らかく髪を梳かれ抱きしめられた気がした。ついで唇に濡れた感触。口付けを落とされたような。
「誰、…?」
私を抱きしめるこの腕は。この温もりは誰のもの。
狂おしい程に、胸締めつけら昂ぶっていくのが判る。姿を見せて欲しい。せめて、声だけでもいいから、……。
ここには誰もいない。私独りきり。判ってはいたが、口にせずにはいられなかった。
何故こんなにも、感情が昂ぶるのか。何故、そんな風に私を優しく抱きしめるのか。
ただ、初めての気がしなかった。気のせいなどとは思えなかった。
「…お前に、…逢いたい……。姿を、見せてはくれぬか?」
誰もいない独りきりのこの部屋で小さく呟いた。答えてくれる者など誰もいやしないというのに。
熱を持った目頭から一筋の涙が零れ落ちた。
ヒソカに拾われ、今日までの間に幾度も胸の中で涙を流した。けれど、本当に泣いたことなどなかったというのに。
「どうして、姿を見せてくれぬのだ? こんなにも優しく私を抱きしめてくれるのに、…。
私が嫌いか? 顔も見たくはない程か?」
間取りの広く取られた、化粧室の中に虚しく響く声。掻き消すように、聞えてくる観客達の喝采。
舞台が終わったのだ。もう、戻らなければ。
ヒソカの元へ、……。
頬を濡らした涙を拭い、一度大きく息を吐き出し大鏡に映る己の姿に手を沿え口付けた。
柔らかなあまい唇の感触を感じた。
傍にいてくれたんだね。離れていても、オレを求めていてくれたんだね。
クラピカ、…。
もう大丈夫だから。
キミは何も心配しないでいい。すぐに見付けてあげるから。だから安心して待っていてね。
身代わり人形を抱きしめ、唇を寄せ口付けを落とし、人形の耳もとで囁いた。
離れているクラピカにこの声が届くように。
「お前の傷が完治したら、すぐにでもヨークシンに戻る」
念の結界で逸れた男とふたたび合流したのは、あの二人だけの場所から数キロほど行った所だった。
そこで見付けた、不思議な泉。
クラピカから話だけは聞いていた。
どんな病や怪我もその水の持つ力で癒すという。
古来からの言伝えだといっていたが、まさか実在するとは思わなかった。
この水をすこし持って帰れないだろうか。
クラピカに逢ったとき、この水を飲ませてあげたい。きっと喜ぶと思うんだ。
小さな硝子容器に、泉の水を汲みコートのポケットに忍ばせた。
あの男に気付かれたら、きっと笑うに違いないから。
「もう今日のヨークシン行きの飛行船は終わっちまったらしい。明日一番の飛行船は六時半だ。
とりあえず今日の所は、この辺のホテルにでも泊まって夜を明かすしかなさそうだな」
「そうか、…仕方がないな……」
すまない、と詫びる男の背中越しに映る、飛び立ったばかりの飛行船をぼんやりとした眼差しで見送った。
もう少し。あと五分早く到着していたら。
一分一秒でも早く、クラピカのもとに飛んでいけたら。空を飛ぶ能力があればいいのに。