「どうしたんだい? そんなに浮かない顔をして。
 せっかくキミが気に入ると思って、オペラに連れて行ってあげたのに」
赤い髪の男が囁いた。
髪を指に絡ませては、ばらばらに髪が滑り落ちていく感触を楽しんでいる。
小さく頭を振り、拒絶の意を表した。

思い出そうとしていたのだ。オペラ座の化粧室で感じた不思議な既視感……。
あたたかいくちびるの感触。
激しい動悸に胸が締め付けられる。
同時に頭の中で煩いほどに鳴り響く警告音。

ココ二 イテハ イケナイ ハヤク ココカラ ニゲダサナケレバ


天を切り裂くような落雷の音。肌を貫くような、激しい雨の感触。
何かを思い出そうと、必死にもがくたびに脳裏に浮かび上がり記憶を阻む。

そうではない!
私が知りたいのは、そこではない! 邪魔をするな!!!

「私に触れるな!」

パーン。と乾いた音が耳を刺す。
男の口端から流れ落ちた紅い血液が床に落ちきる前に、意識を手放したのは男が私の頬を張った為だった。

もう何も感じない。
頬の痛みも。胸の苦しみも。
ただ、あの腕だけが。あの感触だけが。酷く懐かしく、恋しい……。


この子のさっきの様子……。もしかしたら、記憶を取り戻そうとしているのかもしれない。
生意気な小娘だよ。念の力もないくせに。
あの男を、ヨークシンに呼び戻すか…。

「ああ、キャットかい? ボクだよ。ヒソカ。
 折り入ってキミに頼みたいことがあるんだけれどねえ。もちろん聞いてくれるよねえ?」

込み上げる笑みを噛殺し、用件だけを手短に告げると携帯電話の電源を切った。


ヒソカからの依頼は半年に一度、有ればいいほう。
前回の依頼は、約一年前だった。
ハンター試験を受ける、という噂を耳にしてからは初めてのコンタクト。
報酬は悪くはない。今までは二つ返事で引受けていた。けど今度の依頼は、少し寝覚めが悪い。

廃墟で出会った若い男、クロロ=ルシルフル。
あの男と戦う為に、ヨークシンで記憶を失った少女を餌に誘き寄せたいという。
あの少女のことをほんの少し話しただけで、
限界まで追い詰められ血に飢え乾ききっていた、男の表情が変わったのが判った。
余程大切な存在なのだろう。

今まで、依頼は確実にこなしてきた。
たっぷり報酬さえ頂けたら、文句はない……。
翌朝、クロロ=ルシルフルともう一人の男が、
朝一番の飛行船に乗り込んだ、という情報を確認し、飛行場へと向かった。
偶然を装うつもりはない。
これは、あたしが引受けた依頼。必ず成功させてみせる。



「あんた、クロロ=ルシルフルだったよね?」
ゲートを抜け出てきたところで、声を掛けると黒い瞳で凝視し、様子を伺ってきた。
以前よりも幾らかやつれて見える。必死で少女を探し回っていたのだろうか。
「ああ、あの時の女。…キャット……か」
「幻影旅団の団長さんに、名前を覚えていて貰えたなんて光栄だね。
それより、あんたを探していたところだったんだよ。例の金色の髪の子のことでね」
男の顔色で、たいした収穫もなくヨークシンへ戻ってきた、ということはすぐに判った。
縋るような眼。震えた声で、先を促してくる。
「あの後、クラピカに会ったの!? それとも、居場所か何かが判ったとか!?」
「勿体振らずに教えてくれよ!」
一つ呼吸を置き、クロロの背後にいる男の姿を見遣る。
調べによれば、この男は確かレオリオ。あの少女と同時期にハンター試験を受けている。ヒソカとも同期になる。
およそプロのハンターとは思えない、まるで隙だらな男。
この男もまた、クロロ=ルシルフルと同じ、あの少女に想いを寄せているのだろうか。
問い詰めるような強い口調で押し迫ってきた。


厚手のカーテンの隙間から、一条の光が差し込む。
頬にあたった外光に目覚めた。
あれから、気を失ったまま寝室に運ばれたのだろう。
身体のあちこちに、身に覚えのない新たな疵や痣が出来ている。
恐らく、昨晩もまた、無意識の中であの男に弄ばれたのだろう。
もう…慣れ切ってしまっているのだ。
「痛っ…」
手首に付いた紐の痕から僅かな出血。
何もこんなにきつく絞め付けずとも、逃げはしないのに……。

何故だか、訳もなく涙が溢れてくる。
痛みの所為ではない。
懐かしい子供の頃の夢をみた所為でもない。
記憶を失い、己が何処の誰とも判らぬままだというのに。
夢の中の出来事に想いを馳せるなどという、愚かな私ではない……。

夢の中の私は、蒼い民族衣装を纏い広い花の絨毯の上を駈回っていた。
とても楽しげに……。
誰かが私の名を呼び、振り返って。満面の笑みを浮かべて……その声の主の腕に飛び込んでいった。
とても耳触りのよい、……声。
あの腕の持ち主と同じ、私のすべてを包み込むような抱擁。
あれは、誰であったのであろう……。

だが、今の私にはどうでもよいことだ。
こうして記憶を失い、ヒソカに日毎夜毎、玩具の様に扱われ。私は穢れている。
喩え、記憶を取り戻したところで、私に何が出来るというのだ?
何もない…。


「眼が覚めたのかい。…おや、また泣いていたのかい?
まあ、イイ。今日は何をして、退屈凌ぎをしようかねえ……」
寝室のドアの淵に寄り掛かり、男が冷たく笑った。
どうやら、この赤い髪の男は他人の心情などどうでもいいらしい。
当然、と言えば当然なのだろう。
でなければ、生きた人間を玩具のように扱う真似はしまい。
「好きにすればよい…」
精気のない声が聞こえた。
これは、私の声…?

だらりと全身の力が抜け、焦点の合わない眼。
すべてが無駄に思えた。
力でもって、抵抗することも。記憶を取り戻そうとすることも。
何もかもが…。
この冷酷な男の前では、すべてが無なのだ。

私は何も感じない。
もう、泣くこともない。
ただ、操り人形のように……。
この男の成すがままに。

ささやかな、抵抗?
そう…これが唯一、私に出来る小さな抵抗。


手のひらで胸を覆い今はもう消えてしまった二人を繋ぐ楔を惜しむ。
制約と誓約の誓いは永久のもの。
誰にも消せない…。



クロロとレオリオがヨークシンに戻ってからはキャットからの連絡を待つだけでなく、
自分たちの足でもクラピカの行方を追った。
この巨大な眠らない街の何処かに必ず彼女がいるいと信じて。
拠点は以前、旅団がアジトとして使っていた廃屋を選んだ。
クラピカと過ごした部屋には戻る気はしなかった。
レオリオを連れて、あの部屋に帰ることをクロロが拒否したのだ。
邪悪なオーラを感じたのは、何の手掛かりもないまま無駄に時間が過ぎていくのに焦りを感じ始めたときだった。

「また感じるな…」
「だが、まだ遠すぎる」
精神を研ぎ澄まし、凝を駆使し練の出所を探る。
あすらかに、こちらを意識し、威嚇するようなオーラの存在が日毎に近づいてくるのはクロロだけではなく、
レオリオもまた気付いていた。
「クラピカに関係があるのか?」
「…恐らく。もしかしたら。いや、間違いなくオレに恨みを持つ。
若しくは、オレと戦いたがっている人間がクラピカを拉致したと考えて間違いないだろう」
血が滲むほどに噛み締められたくちびるが戦慄いた。
強い憤りと焦燥がクロロを蝕む。
追い討ちを掛けるように、
「お前なんかと関わったせいだ! お前のせいで、あいつはしなくてもいい苦労をガキの頃からしてるんだ!」
と、レオリオは言い募り押し迫る。
まだ小さな子供だったクラピカに近づき、彼女を騙しクルタ族を襲って緋の眼を抉り出したのは本当だ。
それどころか、数年後に復習を遂げにやってきたクラピカを自分のものにさえした。
責められても何も言い返すことは出来ない。
もし、クラピカが拉致されたとしたならば、その責任はすべてクロロにあるのだから。

「何とか言えよ!」
レオリオの生身の拳がクロロの右頬を掠り、細い赤い線を引く。
されるがままに男の怒りを受けた。
それで許されるはずもないが、クロロ自身がそうされることを望んでいた。



「…あなたは?」
天空競技場のペントハウスから新しい住居に連れ出されたのは、あのオペラの晩から数日ほど過ぎた頃だった。
何処でも良かった。あの男から少しでも離れていられるのなら。誰でも良かった。自分を連れていってくれるなら。
「ああ、あたしは、キャット。以前、あんたに会ったことがあるんだけど…。覚えてなさそうだね?」
「……すまない」
短い謝罪の言葉を口にすると、女の顔が歪んだ。
実際、記憶を失い何も覚えてはいないのだが。
自分にとって、大切な人を忘れてしまったかと罪悪感に駆られた…。
「いいって。そんな顔しなさんな」
その内、思い出せるよ、と励ますと女は部屋をあとにした。
ペントハウスよりも落ち着けるのは、ヒソカが傍にいないためだろうか。
それとも、この部屋の雰囲気のせいだろうか。
狭くもなく広くもない空間は淡い色合いの壁紙で統一され、壁に掛かったマリアの慈悲深き肖像が痛みを和らげる。
耳に届く、水泡の立ちのぼる音は熱帯魚の水槽から聞こえてくるのだろうか。
チリン、チリン、と耳を掠めるこの鈴の音。
空気が僅かに揺らめき体温を伝えた。

ミャー

「猫?」


まだ子供なのだろうか。全身を覆う黒い体毛は柔らかく艶がある。
額と手足に靴下を履かせたような白い模様が愛らしかった。
「おいで…」
身体の位置をずらし仔猫に向かって手を差し伸べた。潤んだ双眼。フルフルと喜びに膨らんだ柔らかな体毛。
グルグルと喉を鳴らし、近づくと右の手でクラピカの指先を押しそれから小さな舌でぺロぺロと舐め親愛を示す。
「おまえ、お腹がすいているのではないか?」
引き戻したクラピカの指先を追いかけて、仔猫もついてきた。
「ああ、判ったから。今すぐに、おまえの食事を用意してやろう」
まだ、気だるさは残っていたが、クラピカはベットから立ち上がってこの小さな友人のためにキッチンへ向かったが、
チリンチリンと鈴を鳴らし、自分のあとを懸命についてくる仔猫を抱き上げ頬を寄せた。
「少しの間も一人ではいられないのか?」
自然とクラピカのくちびるから笑みが零れる。ヒソカに拾われてからは、初めてのことだった。
おまえによく似たやつを私は知っている…。
理由は解らないが、何故だかそう思うのだよ。