着信音が読書を妨げた。メールだ。きっとろくな連絡ではない。
ペーパーバックを膝の上に伏せ、携帯を取り出した。液晶画面に浮かぶ発信人の名前を見て、予感が的中したことを知る。
「遊びに来ないか?」
短いメッセージの後に時間と場所。最後には、単純な構造だというのにすぐに誰だか判ってしまう顔文字がついている。
どうしてこう、時間があるときに限ってあんな男からこんな連絡が入るのだろう。まるで私の予定を完全に掴んでいるかのようだ。
ボスとその父親は明日まで不在。ボディガードには見るからにボディガード然とした者をつけるとの意向で、私は外されている。
受信画面を消して時刻を確認すると、指定された時間まで一時間と少ししかない。つまり「すぐに来い」ということだ。
聞く者などいないが、大きく溜息をついてみる。
けっして命令する文面ではないというのに。
なぜ、読みかけのページに栞を挟んで立ち上がってしまうのか。
適当な理由をつけて断ればいい。或いは、着信に気付かなかったことにすればいい。
自分が、判らない。もう一度、溜息をつく。
なぜ、部屋を出る間際に鏡の前に立ち止まって、髪に乱れがないか確かめてしまうのだろうか。
メールにあったホテルのラウンジに着くと、男はすでにカウンター席にいた。
奥まった席にもかかわらず、その長身ゆえかひどく目立つ。
私の気配にはとうに気付いているだろうに振り返ることすらしないのが腹立たしい。
男の背後まで歩みを進めると、透明な液体の入ったグラスが見えた。
「飲んでいるのか?」
こちらから声を掛けるのも不愉快だが、そうしなければいつまで突っ立っていればいいのか判らなくなる。
私に背中を向けたまま、長い指がグラスの縁を持ち上げて軽く揺らした。
「水だよ」
氷が涼しげな音を立てる。名前だけは知っているミネラルウォーターの深い緑色の壜が、男の腕の向こうに置かれていた。特に返す言葉も見つからず、沈黙が落ちる。居心地が悪い。
男の肩がわずかに動いて、笑っているらしいことに気付いた。相変わらずこちらを見ようともしないが、どんな顔をしているのか当てることはできる。
この男は私の反応を窺って、いちいち笑うのだ。鼻先や口許で。
「座ったら?」
グラスを置くのとは反対の手で、男が隣のスツールを引く。戸惑いを悟られるのは癪なので、ことさら無愛想な動きでさっさと腰を下ろした。
私の肩の横で、また男の肩が少し動いた。視界の隅で男の横顔を探る。案の定、薄い唇の端が吊り上がっていた。
「なにがおかしい?」
男に顔を向けると、まともに視線がぶつかり思わずたじろぐ。
「いつもボクの予想を裏切らない行動をするよね、キミは」
手の甲で頬を支えて低い位置から私の顔を見上げる男は、そう言って目を細めた。
「勘がいいようでなによりだ」
頭のひとつでも撫でてきそうな表情に苛立ち、早々に目を逸らした。
子供やペットに向けるようなその眼差しが気に入らない。
自分の思いどおりに動く、とも言い換えられる自信に満ちた言葉も気に入らない。
私はそんなに単純なのだろうか、と心の中で自問していると、それを遮るように目の前に細身のストローの入ったグラスが置かれた。螺旋状に剥かれたオレンジピールが三分の二ほど、グラスの中の琥珀色に沈んで揺れている。
「頼んでいないが」
カウンターの内側のバーテンダーを見上げて言った。
「お連れ様がお見えになったらお出しするように承っておりましたので」
業務用以上の好意的な笑顔が返ってきた。横に座る男に目をやると、
「うん、ありがと」
などと受け答えている。
「ごゆっくりどうぞ」
私とはいえば、一礼して接客を終えるバーテンダーの後姿を見送ることしかできなかった。
男に対してなにか文句でも言ってやろうかと思ったが、バーテンダーの笑顔を見てしまってはそうもいかない。
「飲まないのかい? 美味しいよ?」
グラスを目で指して男が訊いた。
「アルコールは結構だ」
答えた途端、また笑う。
「じゃ、香りだけでも」
あごで促されて、渋々グラスを手に取った。そして、男が笑う理由を知る。
アルコールなどではない。ベルガモットの香り。紅茶だ。
「楽しいか?」
勝手にグラスの中身を決め付けたのは確かに自分だが、どうもからかわれた気がしてならない。
「まあね。キミは予想を裏切らないから」
結局はからかわれた、ということだ。つくづく癇に障る。
「暇なヤツだな」
グラスの縁に引っかかったオレンジピールの首を睨みながらストローに唇を付けた。口の中に柑橘に似た豊かな香りが広がる。
悔しいが、美味しい。
「口に合ったようでなにより」
気が緩んだところに降ってきた男の言葉にこめかみが引き攣った。
先ほど私が使った表現をわざわざ利用されたことが原因なのか、またも見透かされたことが原因なのか、もはや判然としなかった。
自分を落ち着かせるために、大きな息をひとつ吐く。ここで感情を表に出せば、男のペースから抜け出せなくなる。
子供じみた怒りを押さえ込むと、自嘲気味の笑いが漏れた。そう、来るべきではなかったのだ。男からの連絡に強要や脅迫があったことなどないのだから。
「選択を誤ったらしい。久しぶりの余暇が無駄になる」
カウンターに手をついて、スツールを男とは反対側に向けた。
そこから滑り降り、妥当と思われる額の紙幣を置いてラウンジを出る。…はずだった。
カウンターに置いた手を動かすことができない。冷たい指先が、私の肘の上を掴んでいた。
私を取り巻く空気が唐突に張り詰める。痛みを感じるような力ではない。けれども、それほど力が入っていないのは指先だけだった。
男が私の腕を引いて、半ば落ちかけていた腰がスツールに戻される。
「それは、キミの時間を無駄にしなければ問題ないって意味かな?」
その低い声からは、今までの口調の軽さが失われていた。
男の顔を見る気にはなれなかった。その指先から伝わる、理屈抜きの欲望を認識しただけで充分だ。
おとなしく身体の向きを戻すと、男の指は離れた。男に引き留められたことに内心安堵している自分に気付き、慄然とする。
「…帰らないんだ?」
低いトーンのままで発せられた男の言葉に急激な喉の渇きを覚え、グラスを取って中身を吸い込んだ。
「振り切ろうと思えばできただろ?」
どくん、と心臓が鳴る。そのとおりだった。確かに力を込められてはいたが、強靭というには至らない程度の力だった。
私はきっと立ち去れなかったのではなく、立ち去らなかったのだ。
男の問いを肯定するほど愚かではない。かといって否定する材料を見つけることもできなかった。
ことごとく自分を読み取られることに、もう怒りどころか苛立ちすら湧かない。あるのは重くのしかかるような敗北感だけだった。
虚勢と判っていながら、グラスを置いてこう答える。
「少し黙ってろ」
その瞬間、私の周囲に漂っていた緊迫した空気が解けた。
薄い笑いを浮かべた男がグラスを口に運ぶのを目の端に捉え、男の手中を脱することのできない自分の不甲斐なさに失望する。
男はそれきり、本当に口を開かなくなった。
つまらない虚勢など張らなければよかった。沈黙に胸を締め付けられたまま、できることも他になくグラスの中身だけが目減りしていく。
いつまでこうしていればいい?
なにもせずにじっとしていることを苦にしたことはない。そんなときはその先に必ず目的があるから。
だが、今は…。
グラスはとうに空になり、オレンジの螺旋とストローだけが所在なげに取り残されている。
バーテンダーに次のグラスを促されたら動揺しきった反応をするのは明白だった。そういう時間帯なのか忙しそうに立ち回っている彼に気付かれぬよう、その死角にグラスを移す。
いよいよなにもできなくなった頃、男が静かに立ち上がった。不意のことに驚いて、肩が一瞬跳ね上がってしまう。その肩に柔らかく手が置かれた。
「少し時間をあげるよ。五分だけエレベーターホールにいる」
思いのほか穏やかな声に背中がざわついた。肩から手を離すついでのように私の髪を軽く指で払った男の気配が遠ざかる。
気配が完全にラウンジから消えると同時に、呼吸器官が酸素を求めて大きく動いた。沈黙の間、自分がずっと息を潜めていたことに気付く。
鼓動が早い。今さらのように、全身があわ立った。
グラスをあおろうとして、すでに中身など残っていないことを思い出した。
「ご気分でも?」
声をかけられて顔を上げる。節度をわきまえた距離からバーテンダーがこちらを窺っていた。
「気がつかなくて申し訳ありません。なにかお作りしましょうか?」
とグラスを見やる彼に、首を横に振った。
「…いや、もう失礼する」
支払いを済ませようと動いたのを止められる。
「お連れの方にいただいております」
舌打ちしそうになるのをなんとか堪えた。どこまでも不愉快な男だ。
「判った。ありがとう」
「お気をつけて。またお越しください」
笑顔を作るのは得意ではない。あくまでも好意的な接客態度であり続けた彼の気分を害さないような表情を、私は返せただろうか。
早く自分の部屋に戻って、中断された読書を続けよう。けっして無防備でいられる場所ではないが、公私混同も甚だしい雇用主がいない分、落ち着くことができる。
が、ラウンジを出てエントランスへ向かう一歩を踏み出した途端、私の決意は脆くも挫かれてしまった。
先ほどの忌々しい沈黙と同じ空気が背中に纏わりつく。次の一歩が踏み出せない。
中途半端に片足を前に投げ出したまま立ち止まり、再び踊り出した心臓をなだめるために深い呼吸を試みる。
…だめだ。
渇いた喉にむりやり唾液を流し込み、踵を返した。
ふと、一瞬の閃光に似た疑問が脳裡を掠める。
この空気を生んでいるのは、言い訳のように形だけ抗ってみる自分自身なのではないか、と。
ありえない。それでも、身体は進んでいく。
今この状況で、男に押しつけられた五分間という時間が長いのか短いのか判らない。
男の気配が濃厚になった。
エレベーターホールへと続く角まで辿り着き、床だけを見つめ続けた目を少しだけ上げると男の姿があった。私を待つ様子でもなく、壁にもたれてただその場に立っている。
男の顔がこちらを向いた。私の存在を認めた、というふうに眉が軽く上がっただけで微動だにしない。
噛み締めた奥歯が軋んだ音を立てた。ことさら強く床を蹴りつけながら男に近づく。
運の悪いことに、絶妙のタイミングで最も男に近いエレベーターの扉が開いた。
降りてくる客をやり過ごして男が当然のように乗り込もうとするのを追い抜き、無人になった鉄の箱に身を投じた。
男はまた口許だけで笑っているに違いない。
空間が閉ざされ、上昇していくのと時を同じくして、美しい筋肉のついた腕が腰に回った。
熱い泉が湧くような感覚が身体の芯に走る。急に訪れた女の器官の収縮に膝を合わせ、思わずよろけた。
腰を引き寄せる力に負けた私の耳に男が声を植えつける。
「案外、早かったね」
絶望的なまでにはっきりと、この先の光景を頭に浮かべることができる。
答えの知れた問いを無意味に自分にぶつけながらこの男の前に肌を晒し、私は脚を開くのだろう。