シャワーを浴びる前から低く垂れ込めていた雲が自らを抱えきれずに大きな雨粒を落とし始めたのは、
ちょうどバスルームから出たときだった。
一面に水滴が打ちつけられる大きな窓越しに空を眺める。なんだか彼女みたいだ、と濡れた髪を拭きながら思った。
溜め込まれていく快楽を表に出すまいと耐えて、足掻いて。いつだって最後には暴発してしまう。
あの日から不安定な空模様が続いていた。乱れる白い肢体を遮って、たぶんもう絶命しているであろう、かつて仲間のように行動を共にした女性の顔が浮かぶ。雨のせいだ。
非情さにおいては比類のない集団に属しているのが不思議なほどひたむきさを持った女性だった。そのひたむきさ故に、ときにひどく酷薄になる彼女に心臓を握られることになったのだけれど。
飛行船の中で素性を明かし、空港で別れを告げた。雨の中、無言でボクを追い続けた全てを甘受したような暗くて深い瞳の光は、しばらく記憶から消えることはないだろう。
雨脚が強くなってきた。髪の水分を吸い込んだタオルを首にかけ、部屋の時計に目をやる。彼女がメールに気付いているなら、とっくにボクの手中で一対の宝石を見せていていい頃だった。
あれから何度か電話をしてみたけれど初めは繋がらず、次からは電源が切られていた。
むだに履歴を残すのもメッセージを吹き込むのも性に合わないから、最後にメールを入れて終わりにしてある。
明日にはこの街を離れる。陰惨な結果を残した裏社会のイベントが終わった今、彼女が名前を連ねる組織も本拠地に戻っていくのだろう。
彼女の生み出した大きな障害を取り除くために、動き始めなくてはならない。けれども次に彼女の姿を見るのがいつになるのか判らないことを思うと、手の届く距離にいるうちにボクの存在をあの身体に刻みつけたくなった。
来ないなら、それでも別に構わない。少し惜しい気もするけど、さっさとチェックアウトして探しモノを見つけに行くだけの話だ。
とはいえ、どうも落ち着かなくて。けっこう期待してたりするんだな、と苦笑が漏れた。
雨が上がってから部屋を出ることにしよう。なんて、もう少し待っていたいがためのこじつけ。
今までシャワーを浴びていたのも、チェックアウトのタイミングを少しでも遅らせるための口実。…なんかじゃない、と思いたい。
ミニバーを兼ねた冷蔵庫を開けてミネラルウォーターを取り出し、ぺットボトルから直に飲んだ。なんの味も、香りも持たない冷たい液体が喉を落ちていく。
と、来客を知らせる呼び鈴の音が部屋を渡った。このホテルの品格相応の澄んだ音だった。
濡れた唇の端を手の甲で軽くぬぐう。その唇が形を歪めていった。盗み読み趣味の人間がいなければ、この部屋を知ってるのはメールを見た彼女だけだ。
このボクを焦らすとは、なかなかやってくれる。無自覚なところがまた、いい。
「開いてるよ」
ボトルのふたを閉めながら、ドアに向けて声をかけた。逡巡の気配を漂わせて、ドアがゆっくりと開く。
その隙間から覗く深い青の民族衣装がなかなか部屋に足を踏み入れないのは、ボクがタオルで腰と首を覆っただけの姿でいるからだろう。
「入りなよ。別に初めて見るわけじゃないだろ?」
きっと満面の蔑みにぶつかるに違いない、と彼女の顔の高さに目をやってから気付く。
ボクのことなんて見ていなかった。いや、見てはいるけど焦点が合っていないという方が正確か。いつもの彼女じゃない。
落ち窪んで一回り大きくなった目の下には青黒い影が張りつき、漂白したような不自然な肌の白さはまるで未完成の陶磁人形のようだ。
でも、精彩を欠いた儚げな姿も踏みしだきたくなるほどの情欲を誘う。
その足元がふらついたように見えて、ドアの方へと動いた。
来る道すがら、今の雨に降られたらしい。上着の深い青がその色をさらに濃くしていた。濡れた髪の先から雫が落ちる。
「キミにしては珍しいね、こんなに遅れるなんて」
雨粒を弾く肌理の細かい手を取って、部屋に招じ入れた。罵声と共に振り払われるかと思っていたのに、拍子抜けだ。
彼女の足取りがずいぶんと重い。ふと思いついて、彼女の頭に手を置き自分の胸に引き寄せた。
抵抗されることもなく、鎖骨の少し下で額を受け止める。微熱を少し越えている感じがした。
「無理しなくていいのに。…それほどの男なんだと自惚れてしまいそうだ」
反応なし。薄ら寒い台詞を吐いた甲斐もなくて、少し拗ねたくなった。
首にかけたタオルで彼女の濡れ髪を拭いていると、その身体が時折震える。
彼女を抱えたまま背中を捩り、ライティングデスクに放り出してあったリモコンに手を伸ばす。室温を高めに設定して送信すると、モーターが静かに低く唸り始めた。
「呼び出しておいて言うのもなんだけど、部屋に戻って寝ていた方がいい」
「…がしんだ」
ボクの言葉の途中に割り入った、うつむいたままの小声を拾うことはできなかった。
「ん?」
聞き返すと、深く長い吐息がボクの胸を滑り落ち、低い声が繰り返した。たぶん同じ言葉を。
「パクノダが死んだ」
「…そう」
一瞬、意識の隅に雨の空港が差し込んで消えた。予想に違わない結果だな、と胸の内でつぶやく。
命の重さなんて知らない。考えたこともなければ、興味もない。
それでも腕の中で震える華奢な存在が告げた事実には、剥き出しの神経が乾いた風に晒されるような思いがした。
ボクがなにかに属さずにいるのは、自分にそんな感情が潜んでいることを自覚するのが煩わしいからなのかもしれない。
「なにか、言いたいことがあって呼んだのだろう?」
彼女の声で引き戻される。熱に浮かされた瞳が下からボクを見つめていた。その危うさが欲情を沸き立たせることを彼女は知っているだろうか。
不調を引きずってまで彼女がこの部屋を訪れた理由がなんとなく判った。前言は撤回した方がよさそうだ。このまま帰すなんてもったいない。
「クロロのことなら、特になにも」
とりあえず、そう答えておく。水脈を探し当てたように、いろいろなことが見えてきた。
離れていても、彼女は念をかけた者の生死を知ることができる。
それはたぶん、第三者の手によって念を解除された場合も同様。
これからボクが探しに行くモノの能力が、彼女の旅団殲滅の青写真にすでに織り込まれているとしたら。
ぞくりとする。なんて周到なんだ。まだ壊せない。唇の両端が吊り上がっていく。
「本音か?」
疑わしそうな表情でわずかに首を傾げた彼女の声に、笑う唇の角度を抑えた。穏やかな笑顔に見えるように。
「信じない?」
「…いや」
本音だよ。どうすればいいかはもう判ってるから。
ボクが狙っていた獲物だけど、その念能力を封じた実力は賞賛に値する。でも、今の彼女はボクの前に決定的な欠点をさらけ出していた。全身から滲み出る尋常じゃない疲労。ウヴォーのときの比ではない。
最後にこの言葉を突きつけて屠ったのは誰だったろう。
”容量のムダ使い”
もう、名前も顔も思い出せない。
どんな制約を条件にあれだけの力を手に入れたのかは知らないけれど、ひとり葬る度に跳ね返ってくる代償が大きくなっていくのは間違いないようだ。このペースで続けていけば、いずれはただの抜け殻になる。
仮に「もうやめなよ」と言えば、彼女はきっと「命を削ることよりも誇りを失うことの方が問題だ」と返すに違いない。自分だけが生き長らえてしまったことに、強引に意味を与えているから。
失われた彼女の血族は誰ひとりとして、最後に遺された命と引き替えの復讐なんか望んでない。そのくらいボクにだって判るのに。
「キミの知りたいことには答えた。下に車を呼んでおこう。支払いは、気にしなくていい」
うわべだけの言葉を撒いて、彼女の顔を覗き込む。虚ろな瞳が不安気な揺れを見せた。これで帰るくらいなら、ここには来てない、か。
彼女がうまく言い表せない心情にしっくりくる言葉を与えてやる。すでに彼女自身が見つけていたとしても、口にした途端に真摯な響きを失う言葉。
「贖罪、のつもりかな?」
表情と呼べるものも浮かんでいないのに、収縮した瞳は如実にボクに動揺を伝えた。当たりだ。彼女がここにいるのは、つまりそういうこと。
「それも、ボクの玩具を壊したこと対するものじゃない。動いている心臓を二度もつぶした呵責に、自分が耐えられなくなったから」
ついでに愚痴をこぼしてもいいはずだ。
「…ボクが知ってる限りの団員の能力を教えた目的なんか、忘れてただろ?」
また瞳が揺れた。壊したい。壊れるぎりぎりのところまで追い詰めてみようか。
「パクノダは死んだんじゃない。キミが、殺したんだ」
ぴくり、と細い肩が震える。
「この手で」
鎖に飾られた冷たい手を握って、その繊細な指の最も細い一本に軽く歯を立てた。ぴくり。指が痙攣する。
乾燥してところどころ薄い表皮の浮いた彼女の唇が、なにか言おうとして動いた。構わず続ける。
「大切な仲間の命を危険に晒してまでね。仕事仲間は…」
「…やめてくれ」
低い声が、それでもはっきりとボクの言葉を遮った。でも、やめない。
「何人残ってる?」
熱の悪寒だけではない震え。潤んだ目も、たぶん熱のせいだけじゃない。
切り立った崖の先端に落ちた瀕死の小鳥を、つま先で徐々に蹴り転がしていく。どこまで持ち堪えてくれるだろう。
「少しは話をしたんだろう? ウヴォーやパク、他の団員とも」
小さな頭を再び胸に抱いて、まだ重く湿っている金色の髪を指で梳く。
「彼ら、自分を守るために仲間を売るような烏合の衆だったかい?」
「やめてくれ…」
もう一度言った声に、懇願の響きが薄く滲んでいた。
復讐を実行するために彼女が会得した能力を全て知ってるわけじゃないけれど、それは緻密にして恐らくほぼ完璧。そんな能力を作り出す頭脳とそれを使いこなす技量、計画を続行していくだけの怨望を持ちながら、ここで致命的な弱さを見せるはめになった理由はただひとつ。
仲間に恵まれてしまったから。
大方、ボクのお気に入りのあの子の影響で憎むべき相手の有する仲間意識に触れた結果、自分のしていることにわずかならぬ迷いを感じて打ち消せなくなってしまったんだろう。
対象者の抱える思いや背景に目を向けるような人間に、殺しは向かない。自分のために後先考えずに動いてくれる仲間がいる人間なら、なおさら。
手持ち無沙汰に梳き続けていた髪を掴んで、顔を上げさせた。先ほどと変わらず瞳が落ち着きなく揺れているだけで、やはり表情はなかった。
つまらない。力尽きかけた小鳥が羽をばたつかせるところを見たかったのに。もう少し、と柔らかな羽毛につま先を押し込む。
「個人の復讐のために仲間を巻き込んだキミを、誰も責めたりしない。だから、ボクのところに来たんだろ?」
ボクは今回の件を知ってはいるけど、深く係わり過ぎてもいない人間だから。ようやく彼女の焦点がボクの目に定まった。崖から蹴り落とされないように羽を動かす気になったらしい。
温まった空気に曇る窓を見る。外はぼんやりとしか見えないけれどガラスが細かく叩かれる音はまだ続いていた。
このまま飛び去られてしまうのも面白くないから、両手の上に拾い上げてみる。
「帰りたくないなら、雨が止むまでここにいなよ。なんなら、キミの贖罪に付き合ってあげてもいい」
こんなことで利害が一致するのは初めてかもしれない。崩してやりたい相手が、崩して欲しいと全霊で訴えている。もっとも、言葉で問いかけたらそれこそ全霊をかけて否定するんだろうけど。
実を言うと、それほど気乗りはしていなかった。警戒して身構えているのを手練手管で幻惑し、力尽くで組み伏せるからこそ楽しいわけで。触れれば落ちるようなものに手を伸ばして受け止めたところで、充足感の欠片も得られない。
なんて思いながらも手を伸ばそうとするのは、今までこんな彼女を見たことがなかったからだった。それに、少し腹を立ててもいた。
「なにがあったのかは、パクノダからだいたい聞いてる」
髪から手を離すと、頭がぐらりと後ろに傾いた。瞳は辛うじてボクの顔を映している。生地の厚い上着に手をかけて開き、その肩から落とした。
「知らなかったよ、けっこう自分勝手なんだね。話を聞いた限り、目的のためなら仲間を見殺しにすることすら厭わない、って行動だ」
でも、ちゃんと判ってる。蜘蛛が絡むと彼女の冷静さはどこかに消え去ってしまうこと。
彼女の仲間もそれを知ったうえで彼女を信じ、手伝った。そして、当の本人はそこに底の見えない罪悪感を持っている。
手探りで上着と同じ素材でできたスカートのようなものを外した。本当に面倒な服だ。
「実際、ボクの前でも何度か殺されかけてたし。あの子たちもそうだけど、キミも運がいいよね」
ボクがその一人の首筋にカードの縁を滑らせたことは黙っておこう。あれは立場上、仕方なかった。
「もし、キミの軽率が原因で彼らが命を落としていたら…」
言葉を切って様子を窺ってみる。抵抗の気配がないので、シャツの裾に手をかけた。
片手を彼女の脇に差し入れ、両腕を上げるように目で命じる。強い酒に酔わされたような顔で、彼女は従った。動きの緩やかさがもどかしい。
待っていられずに差し入れていた手を抜き、ふたつの手首を捕まえて持ち上げた。シャツの裾を一気に捲ってから手首を離し、その手で彼女の頭を上から押さえつける。そのまま下に向けて力任せに押した。
「ボクはキミを殺してた」
これも、本音。
呆気なく膝と腰を折って床に落ちた彼女を上から眺め下ろして、腕に残ったシャツを抜き取る。彼女がまた緩やかな動きで顔を上げた。どんな顔でボクを見るのか楽しみだ。
視線が絡まる。…残念。顔色ひとつ変わってない。そうか、殺すのかって顔をしてる。
乱れた髪と、ボクの顔を透かしてその向こうを見ているような目は、まるで白痴。
綺麗な顔をしているだけに、それすら様になっていてイヤになる。ちょっと小突けば眼に光が戻ると思ったけど、見込み違いだったようだ。
今、目の前にある少女の形をしたモノは、ボクにとってはもうゴミ同然。黙って抱きしめてやれば、大した時間もかけずに自分のものになってしまいそうだった。そんな彼女は要らない。
だから、ボクは。彼女が再び息を吹き返しはしないかと躍起になる。
温まった部屋が息苦しい。もう充分だろうと空調の電源を切った。身を屈めて彼女の腰に手を回し、もう一方を尻の下に差し込む。立ち上がる力を利用して、その身体を肩に担いだ。いつもより重く感じるのは気のせいだろうか。
ついでに腰に手をかけ、下着に包まれた尻と長い脚を露出させる。足首に生地が引っかかった。何度か揺さぶるように引っ張ると、足首を抜けた拍子に飾り気のない靴が音も立てずに床に転がり落ちた。
部屋の奥まで彼女を運び、ベッドに座る。開いた脚の間にその身体を降ろして押し込んだ。
顔が死んでるから、脚に生首を挟んでいるような気分になる。
「身体、貸してあげるよ。その背徳感で罪を贖った気になれるならね」
その言葉に生首の眼がボクを見上げた。一歩踏み込むことに躊躇している顔。感情らしきものが見て取れたことに安心する。
なんだ。くどくどと演説なんかしないで、最初からこうしてればよかった。
「あ、ボクが動くなんて思わないでくれよ?」
くしゃ、と彼女の髪を握って笑いかけてから、後ろ手でベッドに体重を預けた。
見返りもなく、意にもそぐわない相手に快楽を与えたくらいで罪滅ぼしになんかなるわけないだろう。贖罪という行為は往々にして寄付や奉仕活動に転化されるけど、ボクにはただの自己満足にしか見えない。
そんなことで罪が消えるなら…考えるだけむだだ。
しなやかな手が、腰に巻いたタオルをそっと解く。血液が集まり始めた部分に視線を落とした後で、躊躇を深めた目がボクを窺った。軽くあごを上げて先を促してやった瞬間、視線を逸らされた。
指先がボクの根元をそっと包んで、親指だけがその裏側を擦り上げる。乾きかけた彼女の髪が脚の間をくすぐったかと思うと、暖かく湿った舌が親指の動きを追って滑った。時折小さな痛みをもたらすのは、かさついた唇。
臨戦態勢が整う前の状態で触れられるときの感覚が好きだ。息を深く吸い込みながら、高い天井を仰ぎ見る。目を閉じて下から上へと繰り返される刺激を味わい、時間をかけて呼気を細く吐き出した。すっかり勃ち上がっている。
それの裏に走る筋に四本の指が軽く密着するように握り直されて、人差し指から順番に柔らかな力が加えられた。彼女は何度も優しく撫で上げ、快楽を搾る。もう一方の手が睾丸をすくい上げて、滑らかに転がした。
小さな唇が先端を覆い、割れた部分に舌先が侵入する。やけに熱く感じるのは、彼女の体温のせい。唇の内側がくびれに吸い付いて軽くボクを締め付ける。
うまいな、と素直に感心する。けれど、愉楽の陰から後悔が顔を覗かせてもいた。
自分が主導権を握って自由に快感を得ていたいし、自分の小手先の行為に溺れていく姿を見るのが楽しいから、今までこんなことはさせなかった。
当然考えが及んでいてもよさそうなのに、彼女を跪かせて初めて気付く。今、彼女がボクに与えているのは全てボクじゃない誰かに仕込まれたもの。
刺激がボクの好みと微妙にずれる度にそれを痛感する。彼女がその誰かを相手にどんな癖をつけられているのか、身をもって知らされていた。
このまま奪い去ってやろうか。彼女に触れていると、たまに抑え難い衝動に駆られることがある。殺意に似たそれをなんとか飲み込むことができるのは、彼女の向こう側にいるのが取るに足りない相手だと判っているからだ。
張り出しているところを唇で持ち上げた彼女が口腔内をさらに減圧したことで、湧いたばかりの衝動は立ち消えた。眉間が寄り、目尻が引き攣る。
割れ目を探る舌が退く。ちゅ、と音がして先走りが吸い出された。
陰茎を握る手が離れ、これで一段落かと高をくくった瞬間、根元まで咥え込まれた。熱い。先端が彼女の喉の壁にぶつかって押しつけられ、ボクは小さく呻いた。
それには構わず、彼女は口蓋と舌でぴったりとボクを挟む。舌の先が立ち上がり、裏をゆっくり往復する。
続いて彼女の頭が上下し始めた。彼女の唇のすぐ下に、親指と人差し指で作られた輪が添えられる。規則も読めない動きをする唇と舌。時折歯が掠るのは、たぶん故意。唇の運動と反目し、また寄せられる指との質の異なる触感に晒されて、知らずの内に性器が脈打つように跳ねた。
とんだ誤算だ。彼女に快楽を与えないようにボクからは一切触れず、慣れないことをさせて生殺しにしてやろうと思ってたのに。そのうえ、見なくてもいい嫉妬まで見てしまった。この分だと、あまり長く持ちそうにない。
彼女が首から上をしならせるようにして、頭の動きを早めた。舌を全体に絡ませながら、何度も強く吸い上げてくる。彼女の薄い掌の中で睾丸が踊っていた。
いくらなんでも、これ以上は無理だ。
いきなり喉の奥に出して苦しませるほど無作法じゃない。揺れる金色の髪を見下ろして限界を告げるために彼女の名前を呼ぶと、奥までボクを受け入れたまま、醒めた眼が斜めにボクの視線を捉えた。
熱を持った身体と濃厚な行為とは裏腹の冷たく澄んだ瞳に軽く戦慄し、睾丸が収縮する。自分の意思ではどうにもできない欲求を止められたのはそのときだった。口腔の圧を解いた彼女が、ボクを見つめたまま指で陰茎と睾丸の境目を指で押さえたのだ。
冗談だろ。すぐさま彼女の首に手をかけて握り潰してやりたくなった。
けれども、それは一瞬で。そうなる前に彼女は指を離し、顔を伏せてボクを吸い上げていた。先端を炙られるような感覚をやり過ごし、遠慮なく彼女の口の中に放つ。ボクみたいな真似するなよ、と声もなくボヤきながら。
…彼女に寸止めを食らわされるとは、思いもよらなかった。
ボクを包み込んで閉ざされた唇の向こうで、彼女の舌が裏側の縫線をなぞる。粗方出し終えて、腰が震えた。咥えたまま強めに唇を締めた彼女が顔を上げると、熱い口腔から性器が抜けた。外気が心地いい。
少しあごを持ち上げて、また彼女が斜めにボクを見据える。白い喉が静かに上下した。半開きの唇の端から白濁が溢れ、筋を描いて零れる。
それを追うように赤い舌が伸びて、唇の横をちろりと舐め取った。途切れた流れの先を彼女の指が拭い去る。口許に運ばれた指に付着したものは舌で片付けられた。
変わらぬ無表情ながら、ボクから逸らす気もなさそうな彼女の眼の底に挑発めいたものが沈んでいた。気付いてすくい取ってやらなければ、ひっそりと消えてしまいそうなほどの。視線を受け止めながら、ボクは初めて対峙した人間を見るように彼女を眺める。
強くあろうと気を張っているのがよく判るから、いつか脆さを露呈させるとは思っていた。けれど、まさか他の誰でもなくボクの前でこんなひねくれた脆さを見せるなんて。
もたれかかれば当たり前のように支えてくれる仲間がいながら、けっして自分からは寄りかかろうとしない損な性分。どう頑張っても素直になりきれない彼女が束の間でも気を紛らわせることができるように今は側にいよう、なんて思うのは傲慢に過ぎるだろうか。
興味を失ったようにボクから目線を離した彼女は、幼い子供のように乾いた唇に浮き上がった薄皮を爪に引っかけて遊んでいた。その様子を見ていると、先ほどの行為すら他意のない遊びの一環に思える。
ボクが要求すれば、今の彼女はどんなことにでも応じてしまいそうな気がした。たとえそれが、彼女の生命に係わることでも。
なにをさせてもこんなふうに淡々とこなされては埒が明かない。
「赦された気にはなれたかい?」
飽きもせずにひび割れた唇を弾いている彼女の手首を掴んで立ち上がった。彼女を連れてベッドを離れる。
突然引きずられてバランスを崩しても、表情は動かない。優しく扱おうかと迷って、やめた。素直になりきれないのはボクも同じだ。
ただし、ボクは彼女よりずっと巧妙にそれを隠すことができるけど。
手首を思い切り引き、彼女の身体を放り出した。されるがまま舞うように床を渡った彼女の背中が窓に叩きつけられる。衝撃で頭が揺らいでぶつかり、鈍い音を立てた。それなりの痛みがあっただろうに、彼女はわずかに顔を歪めただけだった。
大股に歩を進めて間合いを詰める。肩に手をかけて後ろを向かせ窓に押しつけると、彼女は力なくガラスに手をついた。彼女の触れたところだけ、曇った窓が結露を解く。
「判ったろ? 贖罪に救いなんてない。特に、キミみたいな子にはね」
結果、もっと犠牲を払わなければ赦されないんじゃないかと思い込んで、深みに嵌まっていく。そこにセックスが絡めば、誰にでも簡単に想像できる転落コースだ。
「もう一度、ボクが確かめさせてやろうか?」
薄い肩にあごを乗せて囁き、下着の中に手を這わせた。逃げ場を探すように窓の表面で曲げられた彼女の指が微細な水滴を集めて、いくつもの小さな流れをガラスに伝わせる。
柔らかな恥毛を撫でながら進めた指先が予想外の反応に遭遇した。ぴったりと閉じた性器が、元からそんな機能は持ち合わせていないかのようにボクの指を拒んだのだ。見当違いだったとしても、彼女にとっては気休めの贖罪ではなかったということか。
少なからず、ボクと寝るために来たものとばかり思っていた。なんだかんだいっても、ボクが触れればとりあえず身体だけは陥落するのが常だったし。
どんな行動に出るか判らない人影を崖の先端に認めて小鳥はわざわざ落ちに来た。餌や怪我の手当ての施しがあるか、突つき回された挙句踏み潰されるか、彼女の中では一種の賭けのようなものだったのだろう。
どちらにしても自暴自棄になっていたのだ。
挑発のように見えたものは、不器用でプライドの高い彼女がなんとか表現することのできた甘えだったのかもしれない。
判りにくいけど、けっこう素直じゃないか。身体に拒否されたことに対するちょっとした落胆を苦笑混じりに揉み消して、湿りもしなかった指を彼女の脚の間から退散させた。
窓に張りつく彼女の指の隙間から窓の外に目をやる。弱まってはいるけれど、雨はまだ止みそうにない。予定していた早めのチェックアウトがなんだか面倒になってきた。
こんな日は、ボクでも人恋しくなるらしい。気まぐれにいつもより多めに本音を見せてみる。
「今日はキミになにもしないと約束したら」
彼女の肩にあごを預けたまま言って、片腕の肘先で窓の曇りを大きくぬぐった。濡れて夜に呑まれかけた街が人工的な光に彩られ始めている。腕を振って水気を払ってから、まだ熱っぽい身体を抱いた。
「明日の朝までボクとこの部屋にいようなんて気には、なったりしないかな?」
彼女の顔が軽くボクの方に向けられた。判ったのはそれだけ。
二人の顔を不鮮明に滲ませて映す暗い窓は、彼女の表情までは見せてくれなかった。