自分に必要とされる能力は手に入れた。あとは目的を果たすための基盤作りだ。
私が提示した条件を満たし、かつ経歴問わずで登録されていたのは三件。その最後に名を連ねていたのが人体収集家だった。その人物の求める品目を千耳会の人間が読み上げる。その内容に、吐気がするほどの嫌悪感が募った。
趣味など人それぞれだが、さすがにこれには言葉も出ない。それでも、私にとってはそこが重要な足がかりになるはずだ。地中に張った根を引きずり出すように、恐らく存在するであろう収集家同士の横の繋がりを探り、一網打尽にしてやる。
必ず奪還する。現存する全ての同胞の眼を。
▽
最寄り空港発の飛行船の空室状況のページをめくる。一日一便の直行便はすでに満室。しかも数日先までそれが続いていた。経由便もすでに離陸済みであったり、出発地に空室があっても経由地からが満室であったりと、都合のいい便がない。観光のトップシーズンなのだろうか。
条件を緩めて再検索すると、パドキアで三日弱ストップオーバーして現地へ向かうルートが見つかった。残室はわずか。面接の日時までには若干の余裕があるが、同じ時間を過ごすならここよりはなるべく目的地に近いところにいたい。
搭乗予約のページを開き入力を開始したとき、ポケットの中で携帯が震えた。取り出して通話ボタンを押し、耳へ持っていく。
「やあ」
その声だけで相手が確定した。事前に液晶画面を見なかったことを後悔する。
「なんだ?」
片手で予約の必要事項を入力しなくてはならなくなってしまった。急に勝手が変わって指がキーボードの上を彷徨う。
「今、どこにいるんだい?」
そんなことを訊いてどうする?と毒づく代わりに、千耳会から少し離れたこの街の名前を口にした。
「なにか用か?」
通話に気を取られて打ち損じた。つい、舌打ちが出る。相手にもそれが伝わったらしい。
「忙しいのかい?」
「少なくとも貴様とゆっくり話そうと思える状況ではないな」
再入力。それから…予約完了。チケット代の支払画面へと手順を進めた。
「じゃ、かけ直した方がいいかな」
「用件だけを手短に」
同じような項目をもう一度入力していく。
「会いたい」
携帯を取り落としそうになって慌てた。手短にも程がある。不用意にキーボードに手をついてしまい、入力欄に同じ文字が大量に並んだ。
「…聞いてる?」
と、男の声。
「ああ」
苛立ちが声に表れるのが自分でも判った。デリート。また再入力。
「居場所を知らせてくれれば、こっちから出向こうかなぁ、と思ってるんだけど」
「無理だな、これから移動だ。電話で済ませられないのか?」
ようやく支払手続き完了。ついでに口座の残高を確認しておこう。
「会ってキミの成長ぶりを見たいんだ」
残高は心許なかった。採用が決まるまで、無駄金は使えない。
「なんのために?」
「それ次第でキミに話せることがある」
その言葉で、初めて男との通話に意識を集めた。
「どこにいる?」
「天空闘技場」
耳慣れない場所だ。なんにせよ、タイミングが悪い。もう少し早く連絡を寄越せばこちらにも動きようがあったものを。それを男に言うのは筋違いか。男の口振りからすると用件は幻影旅団のことと見ていいだろう。予約の変更を考える。が、残された時間と金を考えるとそれも難しかった。
「どこだか知らないが、これからパドキアに飛ばなくてはならないんだ。九月一日までに都合がつくかどうかも判らない。今話せ」
気が急いた。携帯に向かって早口で言いながら天空闘技場の位置をめくろうとしたとき、意外な答えが返ってきた。
「へぇ、偶然だなぁ。パドキアから陸続きだよ、ボクがいるの。それほど近くはないけどね」
その言葉に思わず立ち上がる。椅子が床を擦る派手な音が響いた。携帯を通して聞こえたかもしれないこの音を、狼狽と悟られないよう祈る。
「…判った。到着次第すぐに向かう」
現在そこに部屋を持っているらしい男が笑いを抑えたような声で告げる四桁の番号を頭に叩き込む。ストップオーバーの期間内に経由地に戻って来られる場所なら近かろうが、遠かろうが関係なかった。
「何時でも構わない。待ってるよ」
携帯が通話終了後の耳障りな音を発し始めた。それを握り締める汗ばんだ手を下ろして考える。
成長ぶり? 念のことか? だとしたら。
当然そうだろうとは思っていたが、これで幻影旅団の連中も念使いであるという確証のようなものは得られた。男に会えば、ヤツらに少し近づける。椅子を引き戻し、改めて天空闘技場とやらの情報をめくる。そこはパドキア共和国を含む大陸の東部にあった。大陸のほぼ西端に位置するキルアの故郷とは真逆の方向だ。
今頃なにをしているのだろう。恐らくゴンと一緒にいるに違いない。修業の間は無我夢中であまり思い出すこともなかった。そして。なんともがさつで品性に欠ける印象のあった男。一緒にいるうちに、その内面にある人の好さや誠実さに気付いた。
目的地へのアクセス方法に目を通しながら思い出す。照明を落とした部屋。苦しくなるほどまっすぐな黒い瞳。穏やかな声。暖かい掌。肌に触れる無精髭と息遣い。身体の奥の鈍い痛み。全てが終わった後で愛想もなく身体を離した私に向けられた、怒っているようにも見えた表情。生々しいまでに脳裏に蘇らせることができる。離れてから数ヶ月経つというのに。
ディスプレイを初期画面に戻し、ライセンスカードを抜いた。そろそろ空港へ向かわなければ。席を立ち、外に出る。傾き始めた午後の太陽が眩しい。
▽
パドキアからは大陸を横断する列車を使った。主要中の主要駅にしか停車しないので、思ったほど時間はかからなかった。陽はとうに暮れて、車窓には景色らしい景色もない。次に光の洪水が現れれば、そこが天空闘技場のある街だ。
男と話をするまではなにも判らないというのに、頭の中ではさまざまな計算が組み立てられては空白を埋めきれずに崩れていく。考えても仕方のないことだが、多様な思考を巡らせるのは昔からの癖で止められない。男が蜘蛛に近しい存在であることは間違いない。問題はそれがどの程度かということだ。男を通して、わずかでも私の能力が相手に漏れ伝わるのはごめんだった。
左腕を抱く右手の甲を眺める。中指と小指を動かすと、鎖が鳴った。対蜘蛛に関して肝心なのは、この二本の鎖だ。特に"律する小指の鎖"。
この能力は私のイメージの中で訓練し尽くされた猟犬。主人は能力者たる私ではなく、私の定めた制約と誓約。私法に背いたのが私自身であっても、予め下されていた命令に忠実に従い、訂正の余地もなく瞬時に命を奪う。
飛行船の中から今に至るまでいろいろと考えあぐねた末、私は鎖を具現化するのをやめた。男と蜘蛛の距離を判断できるまで、男の前で鎖は使わない。
窓の外では、点在する程度だった光が増え始め、華やかな街並みが遠くに見えるようになっていた。
▼
彼女がボクの部屋を訪れたのは深夜といっていい時間だった。ドアを閉め用心深げに部屋を見渡した後でも、その場から動こうともせずにボクを強い眼差しで見つめている。
重苦しい被服も相まって、その静謐な佇まいは見ようによっては聖堂を厳かに護る若き聖職者。
「そんなに警戒しなくてもいいじゃないか」
そう声をかけたけど、どうやら信用に足りないらしい。当然といえば当然だ。元々他人に信用されるような資質は持ってない。
それにしても、しばらく見ないうちに随分と美味しそうに育った。以前から隙を窺わせないタイプだったけど、さらに密度の濃い空気が彼女を取り巻いている。いかにも隙なし、と思わせてしまうところが難点か。その気の張り具合がボクからすれば初々しくて、ちょっと微笑ましい。
「話を聞かせてもらおう」
もう少し肩の力を抜いてもいいのに。そんなんじゃ、ボクの話を聞いた直後には血管が切れてしまう。
「そんなところにいられたら、できる話もできないよ。もっとこっちに来たら?」
ボクの座るソファからローテーブルを挟んだ席を勧めたけれど、無言のうちに流された。いざというときに動けない姿勢にはなる気はない、というわけだ。
今日のボクは機嫌がいい。彼女がここに来ることを決めた後、かわいいおもちゃから戦闘日の指定があった。ただでさえ昂ぶっているのに、この態度。ボクが抑えられなくなったら、どうするつもりなんだろう。
フロアのエレベーターを降りてボクの部屋まで来ることができた段階で、彼女がすでに最低ラインはクリアしていると知れた。大したものだ。いい師に巡り会えたらしい。
「疲れてるんだ。さっさと話せ」
確かに疲れが透けて見える。彼女のことだから電話で話した後すぐに移動を開始し、仮眠も取らずに頭の中であらゆる事態を演算しながらここに辿りついたに違いない。
「泊まっていっても構わないけど。時間も時間だし」
「そんな冗談を聞きに来たとでも思っているのか?」
すげない切り返し。あながち冗談でもないんだけどな。お茶でも入れてゆっくりと、とはいかないようだ。
「せっかちだな、キミは」
来てくれないなら、こっちから。席を立って彼女に近づく。彼女の肩と膝がわずかに沈んで、身構えるのが判った。
たった一言。短いセンテンスを聞かせてやればいい。
「NO4なんだ、ボク」
一瞬にして、見開かれた目の中心が紅く染まった。ああ、これが緋の眼。身体が内側から震える。
見惚れるほどの時間はもらえなかった。立ち上るオーラが目を見張るほどに増大したかと思うと、残像を置いて彼女はボクの前から消えていた。
▽
男の言葉を聞いた瞬間、部屋の色彩が赤みを帯びた。とっさに”束縛する中指の鎖”を発動させようとして、思い留まる。まだ判断を下すときではない。だが、この距離は危険。一度横に振ってから、男の後ろへ跳んだ。背中を見せないように、宙で身体を捻る。
NO4? なんの? 訊き返すまでもない。私に係わるものでそんな番号が個人に振られるような集団はひとつしかない。
「速いね」
着地と共に男が顔だけで振り返って言った。中空で視線が合う。同じ言葉をそのまま返してやりたい。
「右手で、なにかするつもりだった?」
そこまで見ていたか。やはり油断ならない相手だ。
「貴様は…」
絞り出した声の先が続かない。訊きたいことがありすぎる。男がこちらに向き直った。
「だから、NO4。そう毛を逆立てるなよ。キミを呼んだのは個人的な親切心だ」
「親切心、だと?」
血が沸騰しそうになっていた。一民族を滅亡に追いやった人間がなにを言っている? …落ち着け。この男から情報を引き出さなければならない。
「自分でも判ってるだろ? そう簡単に太刀打ちできるような相手じゃないってことくらい」
それでもやるのだ。口にしたら、この男は笑うだろうか。
「もしかしたら、役に立てるかも」
「蜘蛛を、裏切るのか?」
まさか。ヤツらの結束の固さは折り紙つきだ。男の考えが読めない。
「それを話すのは九月一日。話、ちゃんと聞いてた? ボクはキミの成長ぶりを見て、言うべきことを言った。それだけだ」
口先でならなんとでも言える。必要なのは事実を明証できるもの。乾ききって張りつく喉から、切要な問いを声にした。
「…貴様が蜘蛛である証は?」
「疑り深いなぁ」
呆れたような表情で髪を掻き上げて、男は胸元に手をやり服を脱ぎ去った。上半身があらわになる。
こんな最中でも、男の肉体を美しいと思った。
▼
文字どおり眼の色を変えたのと同時に右手の手首がしなり、彼女の中指がわずかに浮いた。すぐに全ての指を握り締めてボクから離れたけど、あれにはなにが仕掛けてあったのだろう。
ボクの正体を掴めないまま奥の手を出すような真似はしなかった。妥当な判断だ。見せて欲しかったけど、あれだけのオーラを持っていることが判っただけでもよしとしよう。彼女が隠した能力。この状態で発動するものならば、使えるかもしれない。…使えなきゃ困る。
うってつけに、蜘蛛の証を見せろなんて言ってきた。もっと煽ってやれる。運がよければ、あれがなんなのか見ることができそうだ。
服を脱いで、ゆっくりと背中を向けた。彼女の関心を引きつけるための極上の疑似餌。十二本の脚を広げた蜘蛛とそこに浮き上がる数字に、鳥肌の立つような殺気が集中していた。
好奇心に勝つことができなくて、少しだけ首を動かす。横目で窺うと、今にも飛びかかって来そうな姿勢でその衝動と戦っている様が視野に入った。
かわいそうに。仇敵と誤認した相手を目前にしながら、攻撃できずに耐えている。ボクと同じように、相手の利用価値を推し量っている。そんな表情しないで欲しい。こっちが耐えられなくなる。
「納得してくれたかい?」
いつまでもまがい物の証を見せておくのは酷というものだろう。身体の向きを変えて、笑顔を作った。それで和んでくれるわけもなく、相変わらず威嚇する猫みたいな様相でボクを睨んでいる。
「なにを企んでいる?」
押し殺した声で訊いた彼女のオーラが徐々に勢いを消していく。そうすることに相当の努力を費やしているようだった。やっぱり手の内は見せてくれないんだな。
「さあ、なんだろうね。なんにしても、話す気はない。今回はキミに会って自分が蜘蛛の一員だって言いたかっただけだから。それよりさ」
どうもボクには堪え性というものが欠けているらしい。彼女を見ていると、違う形で力量の差を見せつけてやりたくなる。ボクが悪いのか、彼女が悪いのかは判らない。
「数日後に楽しみ甲斐のある試合を控えてるんだ」
相手の名前を出したらどうなるだろう。言ったところで組まれた試合は変わらないから、どうでもいいか。
ボクが片足を前に出すと、彼女は半歩退いた。同じ磁極で向き合った磁石みたいだ。だからといって、背中を見せた途端に抱きついてきたりはしないんだろうけど。
右腕を左に伸ばし、肘に左腕の肘先をかける。左手を自分の方へ引き寄せて首を横に倒すと、首筋から肩、上腕に快い感覚が走った。ちょっと前に完全に千切れた両腕。旅団の彼女の素晴らしい腕前のお陰で、もうなんの違和感もなく動く。反応は芳しくないけど、あの子をからかうのもけっこう楽しかったりする。
「少し身体を動かしたいんだけど、付き合ってくれないかな」
▽
部屋の空気が変わった。なによりも、男の目が違う。私にしか聞こえない警鐘が鳴り始めた。なにを訊いてもあの調子なら長居は無用だ。男の言うとおり、九月一日に仕切り直せばいいだけのこと。
「これ以上、貴様に付き合う義理はない」
男から視線を外さずにドアまでの距離を測る。障害物はない。一気に跳ぶことは可能だが、男のすぐ横を抜けなくてはならなかった。
また一歩、男が私に近づく。後退るとふくらはぎに一人掛けのソファが当たった。その後ろにはローテーブル。なんとかなる、かもしれない。
脚でソファの角を探って避け、ローテーブルにぶつかるまで下がる。男の顔から目を離さず退くうちに、男の望みに気付いてしまった。自分が女であることを後悔したくなるような光がそこにあった。相手がこの男でなければ、気付いたとしても黙殺できる色の光。
脳が打ち鳴らす警鐘が激しくなる。早くこの部屋を出たい。
膝の裏、少し上にテーブルの存在を確認する。男からはソファの陰になって私の脚の動きは見えないはずだ。膝を折って、靴の裏を天板の中央と思われる場所に潜らせた。何度か足首を動かし、慎重に重量を予測する。利き脚は下手をすると動きを読まれる位置にある。その脚を使うことはできないが、値の張りそうな木製のテーブルは今の私が扱えない重さではなさそうだ。
男の足が進んだ。同時に天板の裏を高く後ろ蹴にする。私の肩ほどまで浮き上がったそれの下を軽く身を屈めてくぐり、落ちてきたところを男に向かって押し投げた。木の塊が肉にぶつかる音。続いて、床に落ちる音。男の反応は見ずに、ただドアに向かって跳んだ。ドアノブに手を伸ばす。男の性格からして、部屋を出さえすれば追っては来ないだろう。逃げ切れる。
そう思った矢先、小さく薄い影が顔の横を過ぎた。耳の脇の髪が切れて散る。反射的にノブを掴みかけた手を引っ込め、身体を反転させてドアに低く背をつけた。かっ、という乾いた音に視線を流すと、ノブのすぐ上にカードが刺さっていた。
「キミも、けっこう楽しませてくれるね」
忍び笑いを洩らしながら、男がゆっくりこちらに向かってくる。その眼に射すくめられた。周囲に使えそうなものはなにもない。蜘蛛の証を見たせいで、瞳の色を落ち着けることができなかった。頭がくらくらする。
ぴったりとドアに背中を貼り付けて座り込んだまま、もう動けない。
▼
妙なところへ後退していくとは思ったけど、こういうことだったとは。頭の回る子だ。スピードも格段に向上している。それに予想外の脚力。強化系、だろうか。…そんな感じじゃない。緋の眼が関係しているのか。
あの体勢でローテーブルを蹴り上げるとは思わなかった。ガードはしたけれど、受け流し損ねてテーブルの角で左目の下が切れた。
差しでの勝負が前提条件なら、旅団相手でも団長以外の誰かには痛手を負わせることができるかもしれない。やっぱり使える。
逃げられると読んでいたらしい。それを断ち切ってやったときの顔がなんともそそる。服の襟元を掴んでむりやり立ち上がらせると、微かな怯えの浮いた顔が苦しげに歪んだ。喉を締めるかせを外そうとする華奢な両手が、ボクの手首に爪を立てて震えていた。
それにしても。…どうやって脱がすんだ、これ? ドアに突き立てられたカードを抜いて、しばし考える。
「とりあえず、帰るときに困らないようにはしとくよ」
そう言って、浅い呼吸を繰り返す唇を塞いだ。カードを持った手を服の中に潜り込ませる。温かく滑らかな肌に腕が触れた瞬間、彼女の身体がびくんと踊った。
みぞおちの窪みに沿って進み、下着を探り当てる。カードを立てて生地の内側から裾を軽く裂いた。もう一方の手に敵意のこもった爪が強く食い込む。唇を離してそこに目をやると、何ヶ所か皮膚が破れて血が滲んでいた。薄い笑いが出る。
彼女の顔を見た。怯えているくせに、眼の光だけは鋭い。そう、これくらいじゃないと張り合いがない。
「諦めの悪い子だ」
意趣返しに一気に下着を切り裂き、紅い眼を見つめたまま親指と薬指を使って小さな乳首を摘み上げてやる。
「ん…っ!」
喉に引っかかるような声。身体が大きく跳ね、細い肩が捩れて暴れた。形のいい眉の間には深い縦皺が刻まれている。彼女の爪がさらに力を増して皮膚を抉る。こういうのは地味に痛い。失策、だったかな。
双眸の美しい緋を眺めていたいのを適当に切り上げて、今度はシャツの首元から裾に向かってカードを滑らせる。生地の裂ける掠れた笛の音のような音を聞きながら、薄いシャツを分断した。
織りを成していた糸の最後の一本を断った後で、襟元の手の痛みの元を片方だけ掴んで捻り、少しずつその角度を深くする。荒い息の間に呻き声。タネも仕掛けもなく、もう片方の手もボクの腕から剥がれた。いくつもの小さな三日月をそこに残して。
▽
平常時に瞳の色を変え、また元に戻す術は会得した。だが、激情に染まった眼を抑えることができるほど熟練はされていない。結局のところ、冷静さを保っていられるかどうかが要であり、男の言葉と背中に焚きつけられた私はそれを忘れたのだ。
捻られた手首が痛む。陰湿な男だ。わずかずつ力を加え、こちらの痛みを楽しんでいる。適当なところで手を離すと踏んでいたが、そんな様子もなかった。
右手、だった。その意図に思い当たって寒気を覚える。純粋に楽しんでいるわけではない。男は、私が能力を発動させるのを待っていた。
力で勝てる気はしない。緋の眼を利用するのも、後の反動を考えると得策ではない。なにより、それが私の能力の発動条件であるという確信を持たれるのは避けたかった。
今以上の痛みを覚悟して、不自然な形になっている手首を男の腕ごと自分の方に寄せた。予想どおりの痛みに耐え、相手との間を作る。その場で片脚を後ろに引いて上体だけを横に倒し、残した脚を軸に回転する。手首のねじれを直しながら背中を反らせて男の腕の下を抜けた。
お互いに目線は外さなかった。男の顔の真下を通過するとき、その唇が横に広がるのが見えて血の気が引いた。私の動きを見越したうえで泳がせている。手首を戻したらそこから腕を取って男の身体を投げてやろうと考えていたが、余計なことはしない方がよさそうだ。男に向き合い、掴まれた右手を払うと、その手は簡単にほどけた。
このまま部屋から出ることはできるだろうか。震える手を後ろに回し、ドアノブにかける。その動きを追って、男の手が重なった。それ以上、ノブを掴んだ手を動かすことができない。底光りする冷たい眼が細められる。私が投げつけたローテーブルで切ったらしい目の下の傷の血が、乾きかけていた。
「帰るなよ」
細かな傷のついたもう一方の腕が伸びて、ドアがロックされた。そのまま背中に腕を回され、引き寄せられる。背けた顔の頬に男の胸が触れた。背中の手が上着の合わせ目を探り当て、開いていく。両肩に男の手が置かれ、腕へと滑った。服が一斉に役割を失って足許に小高い山を作る。素肌に感じる室温に私は身をすくめた。
手が腰に下りてくる。弾かれたように男の胸を両手で突き、自分の肩を抱いて肌を覆った。逃げる場所などもうどこにもないのに、それでも男の顔を視界に入れたまま逃げ道を探していた。男が腕を交差させ、私の手首を掴む。血の流れが止まりそうなほどに握り締められて、退路を探る気概は消えた。ただ漫然と男の顔を見る。自分に分があることを熟知している顔をしていた。
「意味のないことは、しなくていい」
肩を抱く掌が引き剥がされた。押し留めようとする抗いが功を奏することもなく、胸から腕が離れる。顔が熱くなった。怒りが込み上げる。この男にこんな姿にされる理由が判らない。
この男は、蜘蛛だ。触れられているだけで皮膚がただれるような屈辱。だが、さらなる情報を自力で得るには残された時間が少なすぎる。ヨークシン・シティで開催されるオークションにヤツらが現れる可能性の高さを考えると、この男を切るわけにはいかないのだ。
「手を離せ」
「離したらまた隠すだろ?」
掴まれた手首が、今度は下に向かって捻じ曲げられ始めた。玩弄するように手首を押し下げる男に懸命に逆らう。力が逃げないように、あごを肩につけ上腕で脇を締めた。細かく震える肘先の裏に、血管が青く浮き上がっている。だんだんと肘の角度が大きくなり、やがてそれも見えなくなった。
重力の関係上不利であることを大幅に差し引いても、私の負けは明らかだった。
▼
部屋の明かりを受けて白く光る肌に、目を奪われる。形はいいけれど若干主張に乏しい乳房は、すぐに持ち主の腕にかばわれてしまった。
どうせボクに見られるんだから、隠すこともないだろうに。そんな趣旨のことを言って、彼女の手首を掴み腕を開く。どうやらそれが気に障ったらしい。目の縁を赤くしてその腕を元に戻そうとする。意地の悪いボクは、力の方向を変えて彼女の怒りに油を注いでみる。
判っていてもなお、むだなことをする姿は嫌いじゃない。けっこうな力でボクの手を押し戻そうとするから、ちょっとだけ付き合ってやる気になった。時間をかけて揺るがない劣位を認めさせた方が、後々扱いやすい。肩から指先までを震わせる彼女が辛そうに顔を顰めるのを見下ろした。その様子は絶頂を必死に拒絶しているようにも見えて、性器の根元を疼かせた。
伸びきった彼女の腕は疲弊して勢いを失っていく。それでもまだ諦めきれないのか、時折ボクの手の中で思い出したように手首を跳ね上げていたけれど、そのうちそれすらも叶わなくなった。
「もう終わりってことで、いいかな?」
肩に埋められた彼女の顔を覗いて訊いてみる。怒気と憎悪がないまぜになった瞳が、鋭利な刃物のように切っ先をボクに向けた。ひどい嫌われようだ、と嘆きかけて自分が今、蜘蛛の一員を騙っていることを思い出す。とはいっても、実際に蜘蛛の一員ということになってるわけだから、別に嘘じゃない。
ボクへの好意なんてまるでないのは疑いようもなかった。それでもボクがフェイクを背負っていなければ、ここまで鮮烈な負の感情に触れることはなかっただろう。彼女の強い憎しみを受ける人間の中でもとりわけ深く激しい怨嗟の的になっている男を、ボクは少しだけ羨望した。彼はボクの獲物。彼女には渡せない。
彼女は狩りの邪魔になる盾をできるだけ多く取り払ってくれれば、それでいい。
▽
手首を握る男の指が掌を這って、私の指に絡みついた。骨を砕かれるのではないかと思うほどの握力。肩から手の甲までをドアに押しつけたうえで、男は私に身体を寄せた。煮えたぎるような嫌悪を込めた牽制の目は、人を食ったような薄笑いの前に効果を失くした。口付けようとするのを大きく顔を振って拒むと、男は軽い笑い声を立てて唇を横へずらした。首筋がついばまれ、そこを中心に寒気の波紋が広がる。
男の頭が下がっていく。突然両手が自由になったかと思うと、残っていた服が下着と共に引き下ろされた。男を止めようと手を動かすが、ぎりぎりまで酷使した腕と先ほどまで締め上げられていた手首や指は、大した役には立たなかった。
情けなくなるほど弱々しい力で男の腕に手をかけたとき、乳房の頂点を舌で弾かれた。すでに足首に絡みつくだけのものになった衣類と、私の腰を抱えて尻を撫で回す手、調子づいて先端を転がす舌。ろくに動きもしない腕でどこからどう対処すればいいのか判らず、混乱する。棒立ちになったまま、がくがくと腰を震わせる他なにもできない。
突然、性器の溝を撫で上げられた。そんなことをされたことよりも、そこが男の指を滑らせるような状態になっていることに驚愕する。また男が同じように指を動かし、今度は小さな芽を柔らかく押した。
「ひぅ…っ!」
身体を駆け上る痺れ。触れられた場所に滞留する余韻。耐えられずに膝を折った。信じられない。この男の行為が、あのときと同じ感覚をもたらすとは。
「このくらいで崩れられても困るんだけど」
床に落ちかけた身体は男に抱き止められた。男に見られるのが嫌で、顔は上げなかった。まだ力の入らない腕で男を突き放そうとしたが、その前に尻の下に手が入り身体を持ち上げられる。逃れるために身を捩ると、それ以上の力で抱え直された。移動しているのか、身体が揺れる。進む方向に向けた目が、広いベッドを認識した。
「降ろせ!」
なりふり構わず身体を動かして叫んだ。男が聞き入れるとも思えないが、そうせずにはいられない。
「いいよ」
鼻白むほどあっさりと答えて、男は私の身体を放り出した。全ての支えを失い、手足の先が急激に冷える感覚に捕らわれる。背中から落ちたくはない。そう長くはない滞空時間の中で身体を反転させ、掌を下に向けた。
やはり、というべきか、落ちた先はベッドだった。不本意ではあっても、上手くバランスを取れないまま床に激突するよりはましな落ちどころだと言えるだろう。
スプリングで弾むのを利用して身体を翻したのと、男が覆い被さってくるのはほぼ同時だった。正面から猛禽に襲われた獲物はこういう光景を見るのかもしれない。などと思うのもそこそこに、男の顔めがけて脚を振り上げた。
▼
ベッドに投げ捨てられてもまだ、背中を見せるのは危ないと感じるらしい。ここまで追い込まれたらいい加減諦めるものだよ、と助言のひとつでも与えてやりたくなる。どうせ言っても判らないだろうからと実力行使に出た途端、彼女の脚がまっすぐに伸びてきた。やっぱり助言は必要だろうか。
寸分の狂いもなくボクの鼻柱を狙って飛んできた足を外側に向けて払った。都合がいいから、開いた脚の間に身体を割り込ませる。この期に及んでも弧を描かせて腕を振るってくるのがなんとも健気だ。しかも、平手なんかじゃなくて拳。でも、それでこれからしようとしていることを止めようなんて気にはなれない。むしろ、すっかり煽られた。
その手を掴み、ついでにもう片方も。抵抗されたところで、そう感じるほどの力じゃない。大きく横に彼女の腕を広げてベッドに貼り付けてやる。便利なボクの”伸縮自在の愛”。
どうやら助言するよりも、直接身体に教えてやった方がいいようだ。キミは、ボクには勝てない、と。
なおも背中を反らせてボクを排除しようとする彼女から、そっと手を離した。それでも腕が動かないことに、彼女が目立たない程度の焦燥を見せている。ボクらがベッドの上にいる以上、どう足掻いてもシーツの乱れをひどくするだけなのに。また蹴りを飛ばされるのも面倒で、彼女の太ももを開きその上に膝を置くことにした。
「なにをしたんだ?」
脚を根元から大きく開かれたことに一瞬息を呑んだ彼女は、それでも装った冷静を保って訊く。質問の対象になっている腕の方はというと、やはり目立たないように活路を見出すための報われない努力を続けていた。
「キミと違って、ボクは自分の能力を隠す気がないんでね」
そう言って、彼女の右手を見やった。そんなつもりはなかったけど、嫌味に聞こえたかもしれない。
「随分苦労してるみたいだけど、ボクがその気にならなきゃどうにもならないよ」
上気した顔にますます朱が差す。明るい部屋でこんな格好を間近で眺められた挙句に自分の密やかな行動を指摘されたら、確かにいい気はしないだろう。
「一応、訊いておこうかな」
まともに答えを返してくるとは思えないけど。
「こんなふうにされるのは初めてかい?」
彼女の視線がボクの目を避けて左肩へ流れる。彼女は右利き。その目の動きが、成熟途上の身体を開いた男がいることを認めた。こんなふう、が彼女になにを思い起こさせたのかは知らないけど、それはたぶん、合意の行為。ボクのような強引さを発揮して、返り討ちに遭わない相手が彼女の周囲にいるとは思えないから。
「たとえば、医者志望の彼とか、さ」
彼女の耳に顔を近づけて当てずっぽうと言えなくもないことを囁くと、その背中がうねって頭が跳ね上がった。四肢の自由が利かないとこういう手に出るのか。前髪をなびかせて迫った額をわざわざ紙一重で避けて、言葉ではない答えを得る。
「じゃ、特に責任を感じることもないね」
責任。心にもないくせに、ボクも立派な単語を使ったものだ。柔らかすぎる枕に彼女の頭が沈んだところで、太ももを押さえる役割を膝から肘に引き継ぐ。彼女が肩に踵の乱れ打ちを浴びせてくるけど、きっと長くは続かない。
相手をベッドに落ち着けてからすることがいきなりこれもないだろう、と自分に説教しながらすぐ側にある淡い色の恥毛に口を寄せた。頭上からいろいろと聞こえてくる罵声は遠い方がいいに決まってる。その尖った罵声も、めくれ上がった陰核に舌先をつけた刹那に小さな叫びに変わった。
セックスそのものの快楽なんて、たかが知れている。生理としては、抜くのに問題がなければ細かいことにこだわる必要はない。そんなことより楽しいのは、狙った相手の身体の弱点をじっくり探り出して焦らし責め立て、その場限りであっても完膚なきまでに自分の支配下に置くこと。
彼女みたいに経験薄なうえ誰かに心を残しているような相手なら、さらに。ボクに抱かれた事実に後ろめたさを引きずり続けるなら、なおのこと面白い。
濡れた襞を丁寧になぞって割り、指を進入させた。どこに触れてもびくびくと震え、閉じようと懸命な脚の付け根が浮き上がる。
少し進めるごとに指を曲げ、微妙に角度を変えながら確認していく。彼女は先ほど高い声で啼いたきり、乱れた呼吸音と堪えた呻きしか聞かせてくれていない。どこまで我慢できるやら、と口許を緩めたとき、
「ぅ…ああっ!」
突然、いななくような声が上がった。腰が大きく暴れて、指が締めつけられる。…ここね、了解。
▽
自分では敢えて見る気にはならない器官が、男の目に晒されていた。男の舌が、指が、我が物顔で性器を開く。可能な限りの抵抗の結果がこれで、非難すべきは男の異常なまでの手癖の悪さだと断言していい。なのに、どうして自分がひどい不徳を犯しているような気分になってしまうのだろう。
たった一度だけ経験した感覚が身体の中に潜り込み、そのときと同じように腰が跳ねた。反応するべき相手を選別することもできない自分の身体にうんざりする。男の指先がなにかを探すように動き、肉壁の内側を掻いた。しつこいくらいに同じことを繰り返しながら這い上がってくる。全身の毛穴が浮き立つような感触に声を上げまいと耐えていたところに、強烈な波が襲ってきた。
声を抑えることはできなかった。力任せに拡げられた脚が閉じられるわけもなく、他に置きどころもなくて男の肩につま先をめり込ませるようにして波が去るのを待つ。
一体なにをされたのかと頭を起こして男を見ると、心底楽しげな眼がこちらを窺っていた。やめろ、と言うために息を吸い込んだ途端、同じ場所に指が強く押しつけられた。
「ひ…ぃぅっ」
喉が奇妙な音を立て、再び跳ね上がった腰から全身に震えが行き渡る。もう一度男の顔を睨もうなどという気は起こらなかった。
「心配しなくていいよ。程度の差はあるけど、大抵の女性は似たような反応をする」
上からものを言うような口調が脚の間から聞こえている間にも、身体中が性器になってしまったかのような感覚が不定期に送られてくる。
やめろ、やめろ、と繰り返しているつもりが、耳を塞ぎたくなるほどの喘ぎ声になっていた。戸惑いながらも身体を預けたあの男の胸の下では、こんな声は出なかったというのに。
怖い、などとは口が裂けても言えない。だが、自分の身体が意思に関係なくどうにかなってしまいそうな感覚はただの恐怖でしかなかった。この男の前では当然のこと、どこの誰にであろうとそんな感情を言葉にしようとは思わない。ましてや、いいように身体を弄ばれているこの状況で。
頭の中が白くなりかけた頃、のたうち回りたくなるような刺激は止められた。男の肩につま先を立たせて支えていた腰が、静かに落ちていく。左胸の内側がどくどくと脈打っていた。口を開いたまま肺に空気を送り込む。唇と舌が、乾いていた。
突き入れられたままの指は、私が落ち着くのを待っていたようだった。今度は一気に奥を抉って、私の呼吸を止めさせる。根元まで埋め込まれた指の先端がごく狭い範囲で私の器官を打診した。
唐突に、身体が仰け反った。次はなんなのだ、と叫び出したいのを歯を噛み締めて堪えると、また男の肩につま先を食い込ませる形になる。なにを思ったか、男が一方の肩を引いたらしい。片脚が滑って宙に浮く。
「んっあああああっ!」
一瞬力が抜けて、声が解放された。浮いた脚が激しく痙攣する。男の指先がその場所を押しながら小さく撫で回している。もう、嫌だ。こんなわけの判らない感覚に踊らされるのは嫌だ。身体が、蒸発してしまう。
不意に指が抜けて、腰と脚がベッドに弾んだ。休む間もなくその脚を開かれ、再度顔を埋められる。尻の下が冷たい。自分の性器から溢れたものが原因だとは思いたくなかった。男が濡れた音を立てながらそれを舐め、吸い取っているのが判っても。あの男も、行為を重ねていけばこんなことをしただろうか。
「イイね、キミ」
男の声がして、物思いが途切れた。ぬめるように光る口の周りを指の背で拭いながら、男が私を見下ろしていた。眼の奥に狂喜が見えた。
「ここまで濡れてくれるなんて男冥利に尽きる。身体、合うかもよ?」
陶然とした笑いを口許にたたえ、私の腰をすくって持ち上げる。視線を動かすと、男の反り返った性器が目に入った。身体が強張る。なにも言えず、ただ首を左右に動かした。身体が合うも合わないもあるものか。一目で私の許容を超えるのが判るようなものを中に入れようとする男の気が知れない。同時に、受け入れなくては終わらないのだということも悟っていた。
自分の性器に手を添えて、男が私の入り口に狙いを定める。裂けそうなほどに肉を押し開き、粘膜の襞をじわじわと拡げて男はそれを私の身体に呑み込ませていく。そんなことで侵食してくるものを追い出せるはずもないのに、頭を振って唇を噛んだ。
「声は殺さなくていい。ボクしかいないんだから」
貴様なんかに聞かれるのが嫌なんだ。そう怒鳴って男を払い退け、服を着てこの部屋を後にできたら。
その心臓に"律する小指の鎖"を打ちこみ、仲間の情報を吐き出させることができたら。
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先端を押し込んだだけで温かな粘膜が絡みついてくる。あれほど一心不乱に抵抗していたのが嘘のように、彼女の身体は快楽を求めていた。すごいおもちゃを見つけてしまったかもしれない。
口径が小さいのは判った。気になるのは奥行き。ボクを全部収めることはできるだろうか。心情の方はさておき、彼女の身体の意外と嫌いでもなさそうな反応に当てられて、思いのまま突き壊してやりたくなっているのをなんとか我慢する。無茶に嬲って痛がらせることはない。
使い捨てでいいとも思っていたけど、蜘蛛を餌にして首輪をつけずに放し飼いにするのも悪くない。他人を寄せつけない空気を従えているから、大した期待もせずに力尽くで引き寄せてみれば。こんなにも外見や内面を裏切った快楽への弱さを見せる子は初めてだ。
少し浅めに入れたところで、先刻探り当てた場所を性器の首を使って擦り上げてやる。彼女の中は面白いように収縮しボクを引き込もうとするけど、本人は頭のある方向へ腰を引いて逃れようと必死。逃げたってヘッドボードに追い詰められるのが関の山だし、そもそも腕が動かなくちゃ逃げようがないだろう。
声を出してもいいんだと言ってるのに、噛み切るつもりなのかと思うくらい唇に歯を立てている。そんなことをするから声を上げるまで同じところを責めたくなるんじゃないか。
彼女の腹部を引っかけるように、心持ち腰を上げた。それだけで彼女の顔が歪む。その姿勢で、何度か腰を送り出した。
「んんぅ…んっ、ん…ふ…っ」
髪を振り乱し、背中を捩じらせ、それでも喉に声を押し留め続ける。辛さを堪えるのが趣味なのかと勘ぐってしまう。もう一押し。浮き上がって震える白い腹部を隔て、ちょうどボクの性器が当たっているところを掌底で押さえつけた。
「うぁ…っ」
一度口を開いて声を漏らしたら、後戻りできない。敏感な部分を内側と外側から挟みつけたまま、細かい動きで突き上げた。
「あ…ああっ!ああああっ!ぅあああっ!」
指一本で遊んでいたときよりも上ずった声で啼くのを聞き、ここまで手間をかけさせられたボクは溜飲を下げる。彼女の感覚を思いどおりに操ったのはいいけれど、中途半端な律動を続けていたこっちは物足りない。今の場所に見切りをつけて、さらに奥へ捻じ込んだ。
最奥の少し手前、先ほど指で触れたやや固く弾力ある部分を探す。いきなり打ちつけても痛みを与えるだけかもしれないから、見当をつけたところを壊れ物を掘り起こすように腰を進める。見つけた。先端がぶつかり、甘い痺れがくる。その感覚をもたらすしこりを軽く押し退けて、静かに動いた。
「あ、あ…んぅ…あっ!ああっ」
当てる度に彼女の身体が小さく跳ね上がる。前の場所よりも控えめな声。指で探ったときは感覚に驚いて声を上げただけなのかもしれない。突けば誰でもよがるような場所じゃないけど、感触は悪くなかった。回数を積めば、狂おしいほどに乱れてくれるような気がする。
もっとそこを責めて確かめてみたいけど、こっちも危なくなってきたから、この先は自分の快楽のため。さっきまで激しく反応を見せていた箇所を意識しつつ、好き勝手に彼女の身体を荒らす。試しに根元まで押し込んでみれば、切ない啼き声を上げてしっかり受け入れた。少し窮屈な感じがいい。
断続的に響くほとんど悲鳴に近い彼女の声を他人事のように聞きながら、柔らかな肉が性器を圧迫し蠕動して奥から締めつけてくるのを楽しむ。身体が合うかも、と思ったのは間違いじゃなかった。彼女の身体はボクの嗜好向き。もっと言うなら、その気質も。
気付けば彼女の声は途絶え、腰が時折震えるだけになっていた。そろそろ潮時、かな。一際強く突き立てて、抑えていたものを彼女の中に放った。乱れた息を整える合間に彼女の様子を窺う。薄い胸を大きく上下させている以外は動きがない。調子に乗りすぎただろうか。
絡みつく肉襞から性器を引きずり出し、彼女の開いた腕の下に手をついて身を乗り出す。標高の低い乳房の間に玉の汗。あごを上げて横を向いた顔は目を閉じている。濡れた長い睫毛と鼻梁に流れる半渇きの細い道筋に、涙の痕跡を認めた。快楽に翻弄されて泣いたわけじゃない。腕の自由を奪われた状態で下肢を割られ、折りたたまれてその奥を掻き回されたのが、よほど悔しかったに違いない。おまけに、彼女にとって今のボクは蜘蛛だ。
頬にかかった金糸を指で払うと、彼女の目が薄く開いて琥珀のような瞳がボクの方に動いた。そこからなにが起こるでもなく、まぶたがゆっくりと落ちる。
そうなるだけで強い力を生み出し、反動として急激に体力を消耗しそうな紅い眼。ボクが蜘蛛の話をしてから、つい先ほどまで彼女の瞳がずっとその色を維持していたことを思い出した。
相手を失神させるほどの手腕がある、なんて陋劣な錯覚はない。単純に疲れて眠ってしまっただけだ。子供にするようなことじゃないことをして追い込んだくせに、子供みたいな寝顔だ、と小さく笑った。
彼女がたった一人で蜘蛛を壊滅させられるとは到底思えなかった。容易に想像がついてしまうのは、ぼろ切れのようになって息絶えていく姿の方。彼らと渡り合うための経験が不足しているのはもちろん、個人を形成する根本的な性質が違いすぎる。
貼りつけていた"伸縮自在の愛"を解いて、華奢な腕をその身体の上に重ねた。ベッドの中央に横たわる彼女を少し押しやって自分の場所を作り、そっと隣に身体を伸ばす。なんとなく思いついて、彼女の頭の下に腕を差し入れてみた。鬱陶しげにボクの腕の上で頭を振って、彼女の身体がこちらを向く。起きたのかと思ったけれど、ただの寝返りだった。
転がり込んできた身体からふわりと少女を感じさせる香りが立ち上る。少し迷った後で、その背中を腕で包んだ。眠っている間に抱きしめるくらいは構わないだろ?
目を覚ました彼女はたぶん、黙ってこの部屋を出て行く。そして、ボクはきっとそれに気付き、それでも眠ったふりを続ける。
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薄暗い部屋で目を開ける。締め切ったカーテンのわずかな隙間から漏れる光に色はない。朝、なのだろう。いつ掛けられたものか、薄地の柔らかなブランケットが裸の身体を覆っていた。
長く眼の色を戻せずにいたせいだろうか。少し頭が痛い。痛む場所に手をやろうと肘をあげたとき、人肌に触れた。見なくてもそれが誰なのか判っていたのに、つい顔を向けてしまった。左目の下に小さな傷を頂いた青痣。それでも間近に見る男の顔は思いのほか端整で、視線を外すことを数秒だけ忘失する。さすがに眠っていてまで口許に薄ら笑いを張りつけているわけではないらしい。
顔を見ればすぐにでも男を殺してやりたくなるか、部屋から一目散に逃げ出したくなるかのどちらかだろうと思っていたが、自分でも訝りたくなるほどに冷静だった。感情の一部が麻痺している気さえした。
時計を見たくて身体を起こす。そんなものはなかったと気付いたのは、部屋を半分ほど見渡した頃だった。昨夜の時点で確認済みだったのを忘れていた。あったところで、この薄闇の中では時刻を読めなかったかもしれない。
男を起こさないよう、静かにベッドを降りた。なぜ、そんな気を回す必要があるのかと、少し笑いたくなる。ドアの方に散乱しているはずの服を目で探すが、見当たらない。下向きの視点で首を巡らせると、ソファの背もたれにまとめて掛けてあるのが目に入った。背もたれのすぐ下には、揃えられた靴。衣類がしわにならないように、全て軽く整えてあることに驚く。それでいて、横倒しになったローテーブルはそのまま放置されていた。
服を取りに行こうと足を踏み出した途端、性器の中から生温かいものが零れた。ぞくりとして足が止まる。太ももの内側を伝う、昨夜の名残。思い出しそうになって、頭を振った。
ソファから服を拾い上げがてら、バスルームへ入る。洗面台に置かれたティッシュボックスから一枚引き抜いて、今はもう冷たい白濁を拭った。丸めた柔らかな紙くずを備え付けのゴミ箱に捨てかけてやめる。シャワーを浴びたかったが、この部屋では論外だ。ここで一夜を過ごした痕跡など残したくない。
下着をつける途中で、改めてその胸部が完全に裂かれているのを見た。使いものにならない。似たような有様になっているシャツはなんとかなりそうだ。開かないようにウエストで留め、上着を羽織ってしまえばいい。帰るときに困らないようにする、と言った男の言葉は本当だった。
正面の鏡に目線を投げる。こちらを見返してくる自分は、ひどく疲れて陰鬱な暗い眼をしていた。なんのためにこの部屋に来たのだろう。男が蜘蛛だと知った以外に得られたものはない。重要だと思われることは九月一日まで先延ばし。散々に身体を貪られた挙句、朝になるまで男の横で正体もなく眠るとは。
バスルームを出て、男の眠るベッドをなんとはなしに眺める。寝返りでも打ったらしく、男はこちらに背中を向けていた。すぐに目を逸らす。その広い背中に棲みついた蜘蛛に見入ったら、きっとこの部屋を後にすることができなくなる。目を伏せて踵を返し、ロックを解除してドアを開けた。昨夜、あれほど望んでも開けることができなかったのが不思議なほどに簡単なことだった。
エレベーターを待つ間に携帯を取り出す。あの男の声を聞きたかった。登録してある名前を画面に呼び、通話ボタンに指をかける。ぼんやりと光る画面に浮かんだその名前を見ているうちに文字が霞んできた。ボタンの上の指が震える。声を聞いてどうしようというのだ。それで一体なにが変わる?
指をずらして終了ボタンを押した。頭の中で照れ笑いを見せる男の顔を吹き消して考える。この先、誰と寝ることになろうが、することに大差はない。所詮は粘膜の擦り合いだ。目に見えてなにかが削れていくわけではない。こんなことで傷を負ったつもりになって沈むのは、馬鹿げた陶酔。
そう思い込めるようになるまで、何度でも自分に言い聞かせてやる。携帯をしまいながら、鬱陶しく歪む視界を袖口で拭って清算した。つまらないことを気にしてなどいられない。すべきことは、山ほどある。
鉄の扉が開く。箱の中では、嫌がらせのように先客が立ち塞がっていた。そういえば、ここはこの手の不穏な気を放つ人間が集まる場所だった。だが、そんなことは私には関係ない。
こちらに向けて凄んだ睨みを利かせたらしい先客は、目が合った瞬間に幽鬼にでも出くわしたかのようなたじろいだ表情を見せて、私に進路を譲った。