深い色合いの重厚な木製のドアをノックする。
「入れ」
部屋の中から低い声が返ってきた。
「失礼します」
ドアを開けて、芸のない型どおりの挨拶をする。光沢のあるガウンを着崩した雇用主が革張りのパーソナルチェアにくつろいでいた。私の足許から顔までを一通り眺めた後で、手にしていたタンブラーをテーブルに置く。部屋の隅に佇むスタンドタイプのルームライトの光を受けて、繊細なカットを施されたそれが小さな光を散らした。
目顔で促された私は、少し視線を外す。そして、表情を動かさずにゆっくりと上着を取った。それは、相手が観賞するための動作。以前、雇用主がいいと言うまで何度も服を脱ぐ過程を繰り返させられた。手早く脱ぐのは色気がないのだそうだ。そんなものを私に期待してどうするのだろうと常々思うのだが、要望には概ね従うようにしている。踊りながら脱げなどと言われるよりは多分にましではあった。護衛団を任されるところまで取り入って以降、目立った進展もない今、さらに近づく手段はそのくらいしか思いつかない。
馬鹿らしいなどと思っていることは露ほどにも表さず、相手の求めるとおり密やかに見せつけるような動きで服を脱いでいく。欲を前面に押し出したものでもない代わりに、命じておきながらあてがわれた余興を眺めるような雇用主の視線。不快ではあるものの、こちらが割り切ってさえいればその境地には至らない。
上体を倒しながら時間をかけて最後の一枚を膝まで下げ、やはり時間をかけて片足ずつ抜いていった。手に残ったものをここまで脱いだ服同様、傍らのソファの座面に落とし、身体を雇用主に向けた。また下から視線が這い登ってくる。これでも随分慣れたつもりだが、裸体を視線で舐められるような感覚にはまだ身体が震えた。
「後ろを向け」
椅子から立ち上がりながら雇用主は指示し、私に近づく。言われるままに身体を返すと、
「背中で掌を合わせろ」
次の命令が下った。両腕の肘先を背中に回して指の先端をつけ、掌底までを密着させる。手の甲の筋が張った。右手の鎖が、背中に冷たい。合わせた手の小指側が背骨を押して、自然と胸を突き出す姿勢になる。背後から雇用主の手が現れ、乳房の片方を掴んでこねた。その中心で乳首が練られる。たったそれだけのことで、性器の奥が熱を孕んだ。
「吸いつくようだな」
肌に対する賛辞と受け取っていいのだろうが、別段嬉しくもなかった。どんな肌を持っていようと、それは私のせいではない。滑らかな肌触りのガウンが時折背面に触れる。ポケットの中を探っているらしい雇用主は、やがて合成樹脂でできた黒く平らな棒のようなものを私の顔の前にかざした。ケーブルタイだった。
「どうするか判るか?」
指先に挟んだ全長15cmほどのケーブルタイを小さくしならせて、私の耳の近くで問う。考えなくても答えは予想できたが、私は小首を傾げて返答をごまかす。その様子が不安そうに見えたのだろうか。乳房を弄び続けていた手を離し、髪を撫でる。雇用主にとって、私はこういった所作で落ち着せることのできる人間らしい。まるで飼われた猫のような扱い。その猫の欲しがっているものがマタタビ程度のものだと思ってくれているのなら好都合だ。
髪に唇が押しつけられる。生温かく湿ったそれが肩口まで下降してくる間に、肩甲骨のほぼ中央で合掌した親指の付け根がケーブルタイで固定された。こんな簡単なことで、どう動かしても掌を離すことができなくなる。判ってはいるが、それでも上目遣いで雇用主を窺い、少々身体を捩って困惑してみせた。満足げな表情を見た直後、ぴしゃりと尻を打たれる。
「寝室だ」
飼い猫の次は調教馬か。
「…はい」
返事をするや否や上腕を掴まれ、引き立てられるように寝室に押し込まれた。むだに広いベッドがパドックに見える。さっさとベッドに脚を開いて座りヘッドボードに背中を預けた雇用主は、また目顔で私に指示を与えた。脚の間に来い。口でしろ。
膝を使ってベッドに上がり、動かない腕の代わりに肩でバランスを取りながら相手の側へにじり寄った。顔を下げて、ガウンの腰紐を舌で絡め取る。歯を使って引っ張ると、それは容易くほどけた。同じく歯を使い、ガウンの胸を開く。私の考えている年齢ほどには衰えていない肌に唇を落としていく。半ば勃ち上がった性器が視界の下端に入った。あまつさえ、支えもなく自分の両腕を背負っているというのに、雇い主が私の頭の上に手を置く。一瞬崩れかけた体勢を、下肢に力を入れてなんとか保持した。気付けば、何度見ても馴染めない器官が目の前にあった。

唇を開き、炎天下に水場を訪れた獣のように舌を伸ばす。まだ固くなりきらないそれの裏をすくい上げて、舌先で弾ませた。続けるうちに、舌に跳ね返ってこなくなったそれは自立する。今度は舌を小さく動かして、根元からゆっくりと舐め上げる。くびれの周囲をなぞってから口を開き、顔を沈めた。
自分が晒している姿を頭に描いてみる。背中に両腕を回し、膝をついて首を上下に揺らすその姿は、醜猥な家禽のようだった。
…淫売。
頭の中に像を結んだ、羽も嘴も持たずただひたすら振り子のような動きを繰り返す家禽を、やはり頭の中で罵ってみる。
私と同じ顔がこちらを向いた。しとどに濡れた紅い唇が、やおら弧を作る。その凄艶な笑みにぞっとして、勝手に動き出した虚像を脳裏から葬った。
「休んでいいと言った覚えはないぞ?」
雇用主の声がして、釣り下がった乳房の先端を引っ張られた。閃光のような痛みに口に含んだものに歯を立ててしまいそうになる。乳首を挟んだ指先を擦り合わされ、腰の内側が疼く。尻が震えた。
「もう欲しくなったのか?」
頭の上から聞こえる声に好色な響きが混じっている。相手が望む答えは、大抵自分の言葉を肯定するものか、賛同するもの。そのために、私は深く咥えたまま物欲しそうに見えるであろう表情を作って雇用主を見上げる。微かな蔑みの覗く笑みが、私の対応が間違っていないことを示していた。
「見かけによらず好き者だな」
それはこちらの台詞だ、と喉の奥で呟く。その見かけがどうかは知らないが。どうせこの状態では言葉を出せない。
「ケツをオレに向けて脚を開け」
品のない下命。私を動かす合図のように、指先で乳首を弾いた。少し顔を顰めた後で、口の中のものに舌を這わせながら顔を離す。それから観賞に耐えうる動きで身体の向きを変え、指示された姿勢を取る。間を置かず、尻が鳴った。
「もっと高くだ。見せてみろ、欲しくて濡らしてるんだろう?」
打たれてひりつく尻を突き出す。体重を支える頬と肩にさらなる負荷がかかった。雇用主の言うとおり、まだ触れられていないその場所は一嬲りされた瞬間に溢れそうなほど潤っていた。然るべき箇所に触れられれば、大概は然るべき反応を起こす。身体がそう作られている以上、当然だろう。もちろん、そんなことを敢えて口にする気はない。だが、そう開き直れるようになっている自分に嫌気が差した。
体温を感じるほどの距離で襞が掻き分けられ、自分の粘液が出口を見つける。見せてみろ、は比喩ではなかった。両手の指を1本ずつ入れられているらしい性器が横に拡げられた。検査でもするような視線を強く感じる。細く長い息を中に吹きかけられ、私は小さく声を上げて腰を浮かせた。
「綺麗なもんだな。最初はてっきり初物かと思ったが、オレの前に何本咥え込んだもんだか」
わざわざ聞かせるための独り言。判ってはいても、そこはひくついて雇用主の苦笑を誘う。
「もうこんなになってるぞ? 少し我慢できないのか? ほら、啼け」
「あ…!」
乱暴に指が突っ込まれた。内側から腹を押し下げるように壁を掻かれる。
「あ…っ、ああ…っ、あ…ん」
突き飛ばすかのような勢いで指を出し入れされ、余った手で尻を割られる。その中央に穿たれた穴に尖らせた舌先を差し込まれて、姿勢を保つのが辛くなった。肌に当たる口髭の感触が煩わしい。こんなところに興味を持つ人間に弄ばれる我が身を不運に思う。その行為に震えて腰をくねらせる自分の身体も褒められたものではないが。隣り合った器官を交互にしつこく掘り返されて崩れそうになると、
「勝手にイクんじゃない」
それこそ勝手な誤解をされて、また尻に平手が飛ぶ。私の中で指がぐるりと回転した。やはり内側から引っかけるようにして、雇用主は落ちかけた私の腰を持ち上げる。
雇用主の前では快楽に耐えるようなことはしない。快楽を拒んで行為を長引かせるより、適当に降伏してしまった方が楽なことを知っているからだ。ただし、溺れもしない。相手の要求に応じて支配欲を満たし、確率は低くとも娘の趣味のコネクションを寝物語に持ち出させることができるならそれでいい。
与えられる感覚に抗いもせず喘ぎつつも没頭できるほどのものではなくて、私は自分の立場を考える。

愛人がいるらしいが、私は見たことがない。一人と長いのか、無節操に四方八方に手を伸ばしているのかも知らない。漠然と思うのは、雇用主の愛人という肩書きを持つ者の誰もが、私のような扱いは受けていないだろうということだ。雇用主の娘が父親とその愛人を語るときの口調で判る。
父親の関心が自分の占いのみにしか向いていないことを、ほとんどのわがままが通る理由がそこにあることを理解している娘は、本来自分が享受すべき愛情がそういった形で奪われているのが我慢ならないのだ。もし、私のしていることを知っても、娘の感情は大して揺らがないに違いない。私は使役されている人間であり、恐らくは使役の目的に夜伽が加わっただけのことと認識されて終わる。
突如、上から頭を押さえつけられた。身体の中を這う指はすでに抜かれ、代わりに固くなった性器が尻に当たっている。横に視線を動かした先に雇用主の顔があった。
「いつまで一人でよがり続ける気だ?」
「…申し訳ありません」
のしかかられて、首や肩、膝が痛んだ。しおらしく詫びて、相手が身体を離すのを待つ。お互いに視線を固めたまま、しばらく動かなかった。折れたのは雇用主の方だった。もっとも、こちらが屈辱を呑むのが前提の譲歩だったが。
またも両手の指で性器を拡げられる。
「自分で入れろ」
「はい」
短く答えて、雇用主を受け入れるために腰を回した。尻に触れる熱くなったものを、開かれた器官に据える。腰を突き出すと、それは外気に晒された粘膜を掻き分けて私の中に誘い込まれた。奥まで入れてやれば気が済むのだろうとさらに尻を押しつけた途端、先端だけを残して引き抜かれた。
「そんなに欲しいか?」
後ろから訊かれた。命令に従っているだけだ、と溜息をつきそうになるのを堪える。
「はい」
返事と同時に何度目かの痛みが派手な音と共に尻に走った。肌の表面がじわじわと膨れ上がるような感覚が残る。
「機械を相手にしてるような気分にさせるな。…どうだ、欲しいのか?」
「欲しい…です」
機械で結構だ。胸の奥に灯る怒りを飲み込んで、言葉を絞り出した。黒いコンタクトレンズの内側で眼の色が変わっているのが判った。
「言えるじゃないか。いいだろう、くれてやる」
嘲けるような声がして、襞のひとつひとつを伸ばすように空洞が埋められていく。背中に回した上腕を掴まれ、腰から上が引き上げられた。ベッドから大きく浮いた胸が、自分の両手に押されて反り返った。尻に腰を叩きつけられて、不安定な上体が揺れる。
サイドテーブルに据え置かれた電話の子機が鳴ったのは、それから三度四度突き上げられたときだった。舌打ちをした雇用主の動きが止まる。腕を強く引かれ上体が垂直になったかと思うと、背後から抱え込まれて揺すられた。それから膝の裏に手がかかり、大きく脚を開かれる。その手が回り込むように私の肩を掴んで身体全体を引き下ろした。性器の奥に雇用主の先端が届き、上ずった声が漏れる。身体の揺れが落ち着いたときには、繋がったまま雇用主の胡坐の上に座る形になっていた。
荒げた息を整えることもなく、雇用主が電話を取る。
「取り込み中だ。電話は取り次ぐなと言っただろう」
内線らしい。受話器から言い訳をするような声がしたが、内容は聞き取れなかった。
「…なに?」
怒気を隠しもしなかった雇用主の声がトーンダウンする。
「判った、繋げ」
溜息混じりの言葉の後で、背中で合わせた手の上を強く突き飛ばされた。上体が前方に泳ぐ。身体に打ち込まれたくさびが抜け、私は無様にベッドに伏せることになった。現状に適した表情も作れないまま、首を動かして雇用主を振り返る。
「お前が作った29億Jの負債の話だ。もういい、出て行け」
送話口を手で押さえた雇用主が苛立った声で告げた。その件で申し開きをする気はない。括られた親指にオーラを集めて、くだらない遊びに使われたケーブルタイを引きちぎる。少し感覚の薄れている腕を使って起き上がり、ベッドを降りた。雇用主に向き直って深く頭を下げる。
寝室のドアを抜けるとき、やや滑舌の悪くなった声が取り次がれた電話に応じるのが聞こえ始めた。


隣接するリビングで服を身につけて、雇用主の部屋を後にした。コミュニティー主催のオークションで競り落とした緋の眼の法外な落札額。当初、すぐに精算されるものと思われていたそれは、雇用主の娘が占いの能力を失ったことで雲行きが怪しくなっていた。落札は請け負ったのは確かに私だが、上限は厭わないという指示を受けての結果である以上、文句を付けられる筋合いはない。
自室に戻り、シャワーを浴びる。雇用主に触れられた肌を、擦り剥けそうなほどに擦って泡を洗い流した。自分でも神経質すぎるかと思ってはいるが、そうでもしなければ気が治まらなかった。
片脚の踵を上げ、その付け根に手を這わせた。まだぬるつくそこは、自覚しないように気をつけていた自己嫌悪を揺り起こす。虚無感の他はなにも残さない色事の痕跡はさっさと消してしまいたい。
燻されているような感覚が身体の中に宿っていた。その原因を私は知っている。ただ認めたくないだけだ。認めたくない。中途半端に焚きつけられ、打ち捨てられたままの薄黒い欲望。
バスブースの冷たい壁にもたれ、片手で腰を抱く。徐々に掌を上へ滑らせると、胸の隆起に触れた。頭の中に後ろめたさが充満する。指の腹が隆起の頂点に到達し、小さな芽をゆっくりと薙ぎ倒した。その感覚は、女だけが持つ器官に直結する。太ももを強く合わせ、訪れた刺激に震えた。後ろめたさは急激に薄らぎ、頭の隅に追いやられる。
小さな波が去る寸前、消えそうな快感を増幅させようと脚の付け根に置いたままの指を奥に捻じ込みかけて醒めた。なにをしている?
その指で機械的に性器にまとわりつく粘液を擦り落とした。シャワーの湯を止めてタオルに手を伸ばし、濡れた髪の水気をなおざりに飛ばす。熾き火を持て余した身体に苛立っていた。
バスローブを羽織り、浴室を出る。着替えることもせずに服の中から携帯を取った。昨夜受信したメールの内容は頭に入っていた。こちらからの連絡を待つ態度を決め込んでいる相手に電話を一本入れればいい。
ここで雇われる前、強引に私を組み伏せた男との惰性のように続く関係。男は気まぐれに私を抱くための連絡を寄越し、私はなぜか断りもせず、黙殺もせずにいる。
片手で数え切れる程度の呼び出し音の後、電話は繋がった。
「キミか。元気?」
そう訊かれたのを遮って一方的に用件を切り出す。
「今から40分ほどで行く。部屋に直接でいいな?」
相手の都合など、今はどうでもいい。相手がいつもしていることを、今回は私がしているだけだ。携帯の向こうで、急のことに思案しているような沈黙があった。
「…OK 間に合うように部屋に戻るよ」
その言葉を聞き終えてから、通話を切る。クローゼットから新しい衣類を出し、バスローブを脱いだ。


近くに来ている。一週間ほど滞在するから都合のいいときに。
と、いうのが男から受けたメールの概要だった。投宿しているのはこの街で最高級の部類に入るホテルの高層部。普段なにをしているのか知らないが、よくもこう毎回気後れするような場所を指定してくれるものだ。
ドアマンに頭を下げられ、ガラスの磨き込まれた大きな回転ドアを潜ろうとしたとき、長身の影が横についた。全く気配を感じさせずに近づいてくるのがこの男らしい。
「一週間はいるって伝えたのに、こんなに早く来てくれるとはね」
ふわりと肩を抱かれ、
「部屋の前で待たせることにならなくてよかった」
引き寄せられた。一瞬身体が固くなったが、構わず歩を進めてロビーに入る。
「今日は嫌がらないんだ?」
男も意外そうな表情で私の顔を見下ろす。こうして身体を寄せて歩く姿は、傍目にはどう映るのだろう。早足で歩いているつもりなのに、男は落ち着きのある足取りで私を肩に腕を回したまま耳のピアスを揺らして遊んでいる。
不意に男が立ち止まった。脇目もふらずまっすぐ歩き続けようとした私の身体は、男に抱えられた肩を残してわずかに前に進みかけ、引き戻される。
「エレベーターはこっち」
すぐに身体ごと方向転換させられた。自分が周りも見ず、なにも考えずに脚を動かしていたことに気付かされる。
「キミらしくない」
軽く笑って、数機のエレベーターが向かい合って並ぶホールに私を誘導した。このロビーフロアで扉を開けて待機しているガラス張りの箱に乗り込む。男は私の肩から腕を離し、その指で階数ボタンを押した。私の腰の上ほどの高さに取り付けられた金属の手すりに、男が半ば座るようにして寄りかかる頃、扉が閉ざされた。少し身体が浮くような感覚の後、ガラスの壁の外側がゆっくりと沈んでいった。
男の腕から解放された位置からは動かず、片手をガラスについた。通り過ぎては離れていく吹き抜けの各フロアを眺める。私の顔に、男の視線が張りついていた。相手にしなければ視線を外すだろうと思っていたが、その気はないらしい。根負けした。不機嫌をそのまま瞳に反映させて視線の元に顔を向けた瞬間、男は手すりを後ろ手に押しやって壁を離れた。その勢いで私の肘を掴んで引く。急に引っ張られてふらついた私は、また手すりに寄りかかり直した男の胸に肩を預ける姿勢になっていた。背中を包まれ、腰を強く抱き寄せられた。
側面四方のうち、扉を除く三方がガラスだ。そのうえ途中で扉が開きでもしたらどうする。抗議の眼差しで見上げると、男は唇の端を持ち上げた。常に余裕を持っている者だけに許された笑い方。
「気にするのかい、人目とか?」
「貴様は気にしなそうだ」
吐き捨てるように答えた。
「相手は選ぶよ」
そう言った男が首を傾けて私の目線に顔の高さを合わせる。突然に質を変えた柔らかな笑顔が、私の瞳を捉えて静止した。今まで見たことのない種類の笑みにたじろぐ。やがて切れ長の目の中心が、すっと私の唇に流れた。男の意図を理解すると同時に、私は背中を伸ばし軽くあごを上げて唇を開いた。自分から。こんなことをするのは今日だけだ。身体の芯に残された火種に欲をくべて、許しを請いたくなるほどに灼かれたかった。
私の一連の動きに、男は虚をつかれたようだった。私に向けた笑顔が一瞬消える。それでも一度瞬きをした後にはまたいつもの温度の低い笑いを目許に取り戻していた。
舌をちらつかせて男の唇を舐め、目を閉じる。注がれるように侵入してきた舌を軽く噛み、そっと吸う。誘い込まれた男の舌先が口蓋をくまなく撫でた。頭の奥が痺れ、腰の内部が熱く潤うのが判った。この男の舌で口腔を蹂躙されると、立っているのが辛くなる。男もそれは承知していて、私の膝の震えを察知すると、腰を抱く腕にさらに力を入れた。

金属の鍵盤を叩くような音が箱の停止を知らせ、床が微かに足元を押し上げた。まだ中層階のはずだ。慌てて身体を離そうとしたが、抱え込まれる力の方が強かった。男が素早く唇の間から舌を抜いて囁く。
「動揺しない。そのまま続けて」
反論する間も与えられず、再び唇を塞がれた。扉が開く。薄くまぶたを上げて、横目で外の様子を窺う。階下へ降りるつもりが誤って上昇ボタンも押してしまったのだろうか。ルームサービスのボーイが使用済みの食器をワゴンに片付けて待機しているところだった。私たちの姿を見て凍りついている。
私の口の中に舌を這わせながら、男が首の角度を変えた。箱の外のボーイに視線を動かした男の目が細くなる。肩を抱く手が離れて私の顔の横に来たかと思うと、その指がひらひらと揺れた。ボーイの困惑ぶりは見なくても判る。ほどなく、気まずい空気を遮断するように扉は閉まった。もっとも、その空気を作り出している張本人は気まずさなど感じていないようだが。
「…趣味が悪い」
男から顔を離して非難の目を向ける。
「結局付き合ったくせに」
ボーイに見せた薄笑いを消しもせず、男は眉を上げた。
「顔を見られたくなかっただけだ」
「やっぱり、気にするんだ?」
「気にしない方がおかしい」
この手のモラルに無頓着な男。だからといって下品なわけではない。時折うまく隠した深い知性が顔を覗かせたりもする。…だから、なんだ?
自分が男にそんな評価を下していることが無性に腹立たしくなって、ガラスの外側に目を逸らした。もうロビーフロアの床は欠片ほども見えない。縦に連なる吹き抜け各階の手すりはなにかの目盛りのようで、満たされた液体の中を上昇する気泡に閉じ込められているような錯覚を起こさせた。
「キミ、さ」
浮遊しかけた意識を男の声が引き戻した。見上げると、先ほど一時的に笑みを消したときと同じ顔をしている。途切れた言葉の続きを促そうとしたとき、優しい金属の音色と共に箱の動きが止まった。今度は目的の階らしい。もたれかかった手すりから腰を浮かせた男はその表情を変えず、私の身体を半分だけ自分から引き剥がした。そうされて、ようやく私はこの透き通る密室でずっと男の胸の中にいたことを思い出す。男がなにを言おうとしたのか判らないまま、また肩を抱かれてエレベーターを降りた。
男の部屋はフロアの最も奥まったところにあった。一定間隔に並んでいたドアがここだけ大きく離されているところを見ると、この角部屋の面積は他と比較して広く取ってあるのだろう。淀みない仕草で男がカードキーを差し込む。開いたドアを片手で押さえ、肩に置いた手を静かに押し出して私を部屋に入れた。部屋に足を踏み入れたその場所から動かない私をドアの閉まる音と同時に追い越し、ベッドに腰を下ろした男は開いた脚の間に腕を落として両手の指を組む。
「で?」
と、微かに骨の鳴る音を立てて首を回し、ついでのように私を見上げた。男の冷たく冴えた眼が、燻り続けていた熾き火に小さな風を送り込んだ。身体の中に火の粉が舞い、私はそれを振り払えずに黙って男に歩み寄る。胸を開いた上着を肩から落としながら男の手を避けて脚の間に片膝をつくと、スプリングが軋んでマットが沈んだ。腕を交差させてシャツの裾を掴み、捲り上げて脱ぐ。腕に絡まるシャツを頭の後ろで抜くのももどかしく、男の唇の隙間に舌先をこじ入れた。
「キミにしてはすごい芸当だ」
笑いの混じった声で呟いて、男は私の舌を絡め取る。私が自分の腰に指をかけ下着ごと服を押し下げると、男も着衣を崩し始めた。ぴちゃぴちゃと淫猥な水音を散らし、お互いに邪魔なものを取り去っていく。鍛え上げられた筋肉を覆うものがなにもなくなるのを待ち、鋭角に切れ込んだその腰を太ももで挟むようにして膝立ちになった。男の肩に手をつき、徐々に押し倒す。透明な糸を引いて二人の唇が離れた。
「お手柔らかに」
男は肘で身体を支えながら、私の体重を受けてゆっくりとベッドに仰臥する。肩に置いていた手を滑らせ、なだらかに盛り上がる胸筋を掌全体で撫で下ろした。掌が小さな突起に触れる。男は頭を持ち上げて唇に苦笑を浮かべてみせた。私はその表情を一瞥するに留める。割れた腹筋を辿り、屹立した性器を柔らかく握り込んだ。男の吐息が聞こえる。腰を浮かせて、男の性器を逆手に握り直す。もう一方の手の指で自分の性器を開き、先端を導いた。

キスだけ、だったからだろうか。自分で思っていたほどには濡れていなかった。脚の間のその奥に、引き攣れるような感覚。一気に沈むこともできなくて、自分の指で押し拡げたまま大きく腰を回した。少しずつ、男の性器が私の身体を割る。わずかなぬかるみを擁したその場所に、杭を打ち入れるようにしてまた腰を上げ慎重に真上から落とす。再び腰を回し、ようやく男の全てを包括した。ぴったりと収まったそれに内側の壁を目一杯に引き伸ばされて、苦しい。薄く唇を開け、深く息を吐き出した。男は頭の下で組んだ腕を枕に、私の動きを面白そうに見上げている。受身に徹する気でいるようだ。
上体は動かさず、緩やかに腰だけを前後に揺らした。男を含んで開ききった性器をその引き締まった腹に擦りつけると、陰核から鋭い快感が伝わった。焚きつけの欲望に、火が回り始める。身体が悦んでいた。こんなときだけ現れて私を混乱させる、実体のない魔物。
どこに刺激を与えれば昇り詰められるのかは判っている。何度も何度も泣き叫ばされ、拒むことも許されずにそれは私の身体に叩き込まれた。他でもないこの男に。
胸を反らし、天を向いた自分の踵に手を乗せる。風を孕んだ帆のような姿勢で、敏感な場所に男を押し当てた。私の中でしなる器官は締め上げられて脈打ち、私はそのささやかな振動を味わう。呻きとも喘ぎともつかない声が零れた。巻き上げるように、煽るように腰をうねらせる。湿った摩擦を繰り返す度に膨れ上がる快楽は、すぐに私を夢中にさせた。
求めていたものに手が届きそうになる。もう少し。だから、もっと。今日だけ。
塵ほどに残っていた理性を弾き飛ばし、水音を響かせて密着した部分を一段と強く揺り動かしたとき、
「これってさ」
突如、冷めた声を連れて男が身体を起こした。仰け反った身体がさらに後ろへ倒れる。ベッドの端で狂ったように腰を振り乱していた私を支えるものはなにもなく、床に手をつこうとしたところで脇に腕を回した男に背後から肩を抱え込まれた。
「要はボクの身体を使ったマスターベーションってヤツかい?」
露骨な言葉で身体の熱が急速に下がった。どんな顔をしたらいいのか思いつかず、呆然と男の顔を見る。そうなのかもしれない。口の中に男の舌を誘い入れ、いやらしく男の性器を咥えた腰を振り立てたのは、残り火の後始末をしたかったから。だが、誰でもよかったわけではない。
貪欲に溜め込んだ破裂寸前の淫らな感覚が、行き場を失って腰の奥で荒れている。浮ついた尻が痙攣した。手に余るもどかしさに蠢く腰は、男に力で封じられる。
「あ…、い…やだ…」
指の間から抜けていく快楽の砂を掻き集めるように身体を捩った。
「ボクもけっこうよかったし、キミの気が済むならそれもいいかなぁ、と思ったんだけどね。気が変わった」
肩を掴む手が重みを増し、男が腰を引く。その動きで、次にどんな感覚に襲われるか察しがついた。
「や…やめ…」
その感覚を拒否したいのか切望しているのか判らないまま、肩を強く引き下げられ、性器を深く貫かれた。目の裏に火花が散る。
「ぃ…ああああっ!」
快楽で膨らみきった風船になおも快楽を送り込まれ、視界が歪む。
「雇い主にイカせてもらえなかったとか、途中で放り出されたとか、そんなとこだろ?」
固く尖った乳首を舌ですくって言い、緩やかな動きに切り替えた男が眼だけで私を見上げた。見透かされている。否定しかけて諦めた。エレベーターの中で男が言いかけていたのは、きっと同じようなことだったのだろう。もしかすると、私が電話をした時点ですでになにかを感じ取っていたのかもしれない。めったに見せない柔らかな笑顔と、毎回わたしを苛つかせる笑みを不意に消した真顔が脳裏を横切った。
判っていたなら、黙っていつものように徹底的に嬲り尽くし、果てた身体を無関心に見下ろして欲しかった。身体の奥深くに達しながらなおもその奥を抉る穏やかな揺さぶりの中で、目前に逃した絶頂の後姿を眺める私はただ惨めになるばかりだった。
張り詰めて出口を探す欲求を微弱な波で焦らし続ける男が、唐突に私の背中を抱きすくめた。息が止まった。
「ボクにイカせて欲しいってキミがその口で頼んだら、今日のことは全部忘れてあげるよ」
肩に乗せられた男の顔は、私の視野を越えて表情を見せない。

「だから、ボクがこの街にいる間にまたおいで」
限界の近づいた身体を抑え込む理性はすでに手放している。葛藤と呼べるものなど一瞬たりともなかった。この男が忘れると言うなら、二度とそれを持ち出すことはない。そう確信できた。耳朶に触れる男の冷たい耳に唇を寄せて、その縁に舌を這わせた。自分の言葉を使って男の鼓膜に掠れた声を吹き込む。それをも忘れることが条件だから。私の言葉を聞き終えた後で男が洩らした小さく軽やかな笑い声は、けっして不愉快なものではなかった。
「本当にイイね、キミって子は」
交わった身体を易々と持ち上げて、男はベッドの中央に私を組み敷く。唇が首筋に落ち、胸許へと流れる。先端を甘噛みされ、その歯の裏で男の舌が優しく跳ねる。日付が変わる頃にはなかったことになる情事だから、今は抵抗の必要もない。私は素直に声を上げた。拡げた脚の間で男がしなやかに躍動する。こんな抱き方もできるのか、と蕩けかけた頭が感嘆していた。私を高みへと押し上げる男に惑溺する。私が望む以上の淫楽に意識が薄らいだ。
やがて迎える終息は、身体を離せば忘却するしかないと決められた、今日だけの儚い現実。