上着を着るだけですぐにも外出できる状態でシャワールームから戻った私を見て、頬杖をついた彼が苛ついた様子でその頬を指先で叩いている。
「こんなときまでシャワー浴びた後にすっかり着込んでるってのはどういうわけだ?」
いったいどんな姿を拝めると思っていたのだろうか。笑い出しそうになるのを堪え、ソファに座る彼を見下ろした。
「習慣だ。誰がいようとシャワーを浴びた後にタオル一枚でうろつくのと同じでな」
「タオルがあるだけましだと思え」
私の言葉と同じ出で立ちの彼は、不貞腐れた声で間髪入れずに返してくる。受験番号が隣り合っていたせいだろう。試験中はよく同室になった。その度に、彼の浴後の姿を巡って口論になったものだ。それも恐らく、今日で終わる。
誘ったのは、彼。珍しく意思表示を曖昧にしたままここまで来てしまったのは、私。ククルーマウンテンの麓の町で、まだあどけなさの目立つ少年たちと別れた後のことだ。お互いに目的地への出発を一日延ばして。
彼の座る席と角を挟んだところに座るため二脚のソファの間を抜けようとしたとき、立ち上がった彼に進む先を塞がれた。
「なかよく並んで思い出話、って気分じゃねぇんだが」
やけに真剣な顔をまともに見上げてしまった私は、思わず視線を下へ逃がす。抱き寄せられても、その視線を上げることはできなかった。曖昧ではあっても、こうなることが判っていて彼の申し出を受け入れた。たとえようのない感情の小石を胸の奥に押し隠しながら。なのに、まだ踏ん切りをつけられずにいる。
彼の手がシャツの裾を掴み、引き上げようとしていた。このまま任せてしまえばいいのだろうか。判らない。
「…自分で脱ぐ」
結局、その手を取ってぞんざいな印象を与えない力で退けた。肩と踵の方向を変えて背中を向ける。子供ではあるまいし、服を脱ぐのに相手の手を借りるなど。と思ってはみたものの、一般的にはどうするものなのだろう。自分の判断が正しいのかどうか、心許ない。
首を少し後ろに回して彼の様子を見ると、一応気を使っているのか落ち着かない素振りで極力こちらを見ないようにしている。シャツを脱いでから、次になにを脱ぐべきか決められなくなった。さらに肌を出すには、無慈悲なほどに明るい部屋。
「灯りを、消してくれないか」
自分でも聞き取るのが難しいほどの声で告げる。背後に意識を向けるが、答えはない。もっと声を大きくしてもう一度言わなくては、と息を吸い込んだとき、彼が黙って動く気配がした。かちっと音がして、仄かな闇が訪れる。震える深呼吸をひとつして、決意が鈍らないうちに一枚ずつ服を取った。下着くらいはつけていた方がいいのか、と迷う。が、自分で脱ぐ、と言ったのだからと、全てを取り払うことにした。
灯りを落としたついでだろう。彼がベッドに座って寂然と俯いていた。まだ私の方へ目をやるのを避けていることが窺え、胸が苦しくなる。それでも裸体を晒すことは躊躇われ、私は彼の背後に回ってベッドに潜り込んだ。なにか声をかけようしたが、かけるべき言葉が見つからなくて彼の背中にそっと触れた。思い詰めたような顔が振り返る。
「お前…なんてツラしてんだよ? 泣きそうになってんぞ?」
「誰がだ?」
そんな顔はしていない、つもりだが。それ以上言うと、和らいだ空気がまた元に戻ってしまいそうな気がして口を噤んだ。彼も同じことを考えたらしく、なにも言わずに身体を横たえた。思い出したように、私の頭越しに手を伸ばす。オレンジ色の光が眼に刺さった。突然の眩しさに腕で眼を覆い、片手でブランケットを押さえて横に身を転がした。
「消せと言っただろう」
つい、語気が荒くなった。台無しだ。自分に腹が立つ。
「この先半年以上も会えねぇ女を初めて抱くのに、顔も身体も見ずにやれってのはひどすぎやしねぇか?」
溜息をつきながら、彼は頭を掻いた。起伏に乏しい身体に失望されたくなかった。反論しようとして言葉に詰まる。彼のそういう心理が判らないでもない。ただ、彼が理想としているであろう女性の身体と自分の体つきは絶望的にかけ離れているに違いないと思うと、居たたまれなくなるのだ。ブランケットにくるまり猫のように丸まって考えた末、私はベッドライトのスイッチを手で探った。光量調節のつまみを思い切り絞って、眼を凝らせば相手の顔が見える程度の明るさにする。
「これでいいか?」
「これじゃあ、さっきと変わんねぇ」
彼がつまみを逆に捻る。先ほどよりはましだが、私にとっては明るすぎる光が戻った。
「それはこちらの台詞だ」
「そんなに見せんのイヤなのかよ?」
「見られる方の身にもなってみろ」
お互い頭上に片手を挙げ、指先だけの小競り合いを続ける。異常な明滅を繰り返すこの部屋は、外から眺めれば陳腐な怪談のひとつでも生み出しそうだ。
なんとなく妥協点が見えてきた頃、突然風が巻き上がり身体に冷たい空気が流れた。
「いい加減にしようぜ、もう」
捲り上げたブランケットを手に、彼が私を見下ろしていた。身体を隠すことも忘れてその顔に見入る。目に遊びがなかった。怒らせてしまっただろうか。
「なにを気にしてんだか知らねぇけどな、オレはお前ならなんでもいいんだって」
私はまた言葉に詰まる。今まで彼を相手にした舌戦で負けたことなどないのに。今さらのように裸の身体を縮め直して彼から目を離した。そんなふうに言われたのはこれが初めてで、これまでそんなことを言われるであろう可能性すら浮かんだことがなかった。一瞬、頭の中で彼の言葉を分解し、意味を取り違えていないか確認したくらいだ。
ふと、彼の視線が気になった。ベッドの上で膝立ちになって見下ろされると、自分の無防備さに不安になる。全身を眺められるよりは側で顔をつき合わせている方が落ち着くから、
「もう少し、近くに来てくれないか」
狭めた肩に首を埋めたまま、ちらりと彼を見やって言ってみた。一瞬の間を置いて破顔しかけた彼は、わずかに複雑そうな表情になる。
「お前…急にそういう誘い方すんなよ」
そういう意味で言ったわけではなかったのだが。ゆっくりと滑り込むように彼が顔の位置を合わせて隣に横たわり、うずくまる必要のなくなった私もやはりゆっくりと身体を伸ばす。それを見計らっていたらしいタイミングで、背中が反り返るほどに強く抱きしめられた。途端に彼のミスリードなどどうでもよくなった。
唇に温かな感触が触れたかと思うと、口の中に濡れた舌が入ってきた。驚いて顔を離そうとしたが、頭の後ろに回った彼の手がそれを許さない。
「ん…っ」
苦しい。ただ唇を合わせるだけではないのか。自分の持っていた認識が剥がれていく。舌に舌を絡められ、鼻で呼吸せざるを得なくなった。そこへきて、大きな掌が乳房を掴む。彼の掌が余っているのは見るまでもなく、私であればなんでもいいなどと殊勝なことを言った彼も、できればそこにはさらなる質量があった方がいいと思っているに違いなかった。
「ん、ふ…ぅ」
彼の指先が乳房の頂点の突起を押さえて円を描くように撫でると、自分でも聞いたことのない声が鼻を抜けた。出てしまった声は取り戻せない。彼が心得たと言わんばかりに小さく突出したところを柔らかく摘み上げた。また声が溢れる。と、脚の間に彼の手が潜り込み上へと滑った。慌ててその手を太ももで挟んで止める。手指で触るようなところではないはずだ。
「あ…ちょっと待…っ」
彼の舌を振りほどき、その顔を見た。彼も私を見返す。が、それはほんのわずかな時間だった。
「聞こえね」
私の言葉を途中で断って短く言い、すぐに胸許に顔を埋める。聞こえていないわけがないだろう。なんだ、この流れは? もう一方の乳房の先端を軽く吸われ、腰が浮く。瞬間、太ももに挟まれた手が強引に角度を変えて這い上がり、脚が合流する部分に触れた。
「や…っ」
身体を捩った私の肩を、彼がベッドに押さえつける。こんな体勢になってまで逃げを打とうとする私に対する、微かな苛立ちが見えた。
「慣らさずに突っ込まれてぇなら、それでもいいけどよ」
突き放すように言った後で、彼はばつが悪そうに私の顔から目を逸らした。彼も緊張しているのだと、そのときになって初めて気付いた。慣らすだの慣らさないだのという言葉が具体的にどういうことなのかは判らないが、慣らした方がいいらしいということだけは判る。
「…悪かった。もう、大丈夫だ」
こちらも目を合わせる勇気がなく、肩を押さえ込んだ手を辿って彼の首に両手を回した。ゆっくりと自分の方へ引き寄せる。
「いや、オレも…すまねぇ。初めて、なんだよな、お前」
私の顔と肩の間に顔を入れた溜息交じりの彼の声が耳に吸い込まれた。通常とはまるで速度の違う鼓動を感じる。それは自分のものなのか、彼のものなのか。
「どうしたらいい?」
彼の硬い髪の間に指を梳き入れて訊いてみた。少し身体を起こした彼がまじまじと私を見る。
「どうしたらって…。そうだな、焦らすのやめてくれりゃ、もうそれで充分」
やっと彼が笑った。私がいつそんな真似をした、などとはもう言い返さない。そのつもりはなくても、彼にそう感じさせてしまったのはやはり私だ。
「逃げんなよ?」
念を押すように言った彼の指が私の脚を撫でて、今度こそその奥に触れた。さっと全身の産毛が逆立ち、腰が引ける。
「逃げんなってば」
鋭く囁かれて、身体が強張った。一度動きを止めた指がそれを確認してから、割れた箇所をなぞる。下から、上へ。差し込まれた指先が繰り返す度に深くなる。そこから私の気を逸らすように脇腹にキスを落としていた彼がふと顔を上げた。
「すげぇキツいのな。ちゃんと入るか心配になってきた」
ところどころ引っかかるようだった指の動きは、いつの間にか抵抗を失って湿った音さえ出している。私の中を探る指の数が増えて、その先に不安を覚えた。これだけでも無理に押し拡げられている感があるのに、太ももに当たっている彼の性器は。
だんだんと呑み込まれていく指が、突如鈍い痛みをもたらした。微かに浸透してきていた不快でもない感覚が一瞬にして遠退く。
「…つっ」
舌打ちに似た声を上げて、投げ出すように開いていた脚を強く合わせた。
「あ、悪ぃ。」
彼はすぐに指を抜き、所在なさげな目を私に向ける。面倒な相手だと思われただろうか。痛みを殺せずに声を出してしまったことを後悔する。
「ちょっと、焦ってた。ごめんな」
謝らないで欲しい。俯く彼の背中を抱いて、笑ってみせた。うまく笑えていたかどうか、自信はない。
「平気、だ。そういうものなのだろう?」
もう少し気の利いたことが言えればいいのに、こんな言葉しか浮かばなかった。
「…続けていい」
背中に回した腕に力を込めて促す。彼が黙って目を伏せるから、私はなんとかしたくてシーツの上に膝下を滑らせて片脚を折る。低く這う姿勢になっている彼の、ベッドから少し浮いた腹の下にその脚を潜らせた。
「続けていいんだ」
彼の腰の真下に来るように身体をずらしてもう一度言った私を見て、彼は深く長い息をついた。そうやって意思を固めるかのようだった。停滞していた空気が動き始める。行為を中断して少しばかり時間の過ぎた私の内側は、一時の高まりを鎮めていた。彼の指が再びその場所をすくって、私の身体はまた潤み出す。申し訳程度だという自覚のある胸に大きな掌と舌先の愛撫を受けると、皮膚が内側から浮くような感覚に背中が反り返った。この身体のどこにこれだけの水分があったのかと思うほどに濡れていた。
彼が動きを止めて身体を離す。先に進む気配に我知らず身体が萎縮した。彼の両腕に膝の裏をすくわれる。そうして持ち上げ、開いた脚を引っかけて彼はシーツに腕を立てた。他人に見せるにはひどく体裁の悪い姿。だから灯りを消して欲しかったんだ、と今さら言っても始まらない愚痴を胸に留める。
「…好きだ」
私の眼をまっすぐに見下ろして、重い荷物を下ろすような声が告げた。出会いは最悪。私の成り立ちの根源を貶める言葉に激昂して、売られたけんかを買ったのはどのくらい前だったろう。わずかな年齢差に敬称を求める気持ちは今もって完全に理解できていないが、重要項になる事柄は人それぞれでそこを慮ることも必要なのだということを学んだ。とんだ単細胞だと思ったが、それだけではないと判ったのは数々の苦難をともに乗り越えたから。表にこそ出せるものではないが、いつしかもっと彼を知りたいと思うようになっていた。
全てを失って以来、女として扱われることを望んだことはない。実際どうとでも取れる外見のせいか、それについて誰かに言及されたこともなかった。本人を前にジェンダーを問うような粗忽者もいないだろうが。自分ならなんでもいいという彼の言葉は、まとっていることさえ忘れていた鎧の隙間に小さな風を送り込んでいた。
「好きだ」
もう一度言われて、私は柔らかく彼の頭を抱く。その言葉で身体の温度が少し上がった気がした。
「判ってる」
そう返したのを機に、彼は腰を押し進める。が、先ほど指を入れられて痛みを感じた場所に至ると私が身をすくめてしまう。条件反射のようなものだが、また彼が表情を曇らせるのを見たくなかった。こちらを気にする必要はない、と伝えるための多少ましな言い回しを考える。私がなにか思いつくよりも、彼が口を開く方が早かった。
「我慢してくれな。一気に入れた方が辛くないし、こうすりゃ少しは…」
両腕で支えていた身体を片腕に切り替えられて、私の片脚がベッドに落ちた。同時に鋭い刺激に襲われる。彼の指が、繋がったところからわずかに離れた箇所に触れていた。身体がそこから崩壊しそうで、少し怖い。
言葉どおり、彼が一息に私を貫いた。
「ふ…ぁあっ」
呻きと共に脚が硬直する。身体の奥を無理にこじ開けられるような痛み。先ほどから絶え間なく同じ場所を撫でつけて腰の震えを誘発する彼の指先も、その痛みを相殺するにはまだ足りなかった。呼吸もままならず、濁った水面に口を覗かせた魚になるしかない。
「大丈夫か?」
彼に訊かれ、バネ仕掛けの人形のように首を縦に振った。私の中に深く埋めた彼は、繊細な粘膜に触れる指以外は動かさずにいる。その様子はどことなく苦しそうで、私は申し訳ない気持ちになる。
「あんまり締めつけんなよ。出ちまう」
なにもしていないが、とりあえずまた頷くことにした。どうやら痛みが峠を越えたらしいことに気付いて彼の顔を窺うのと、
「ダメだわ。オレ、もう耐えらんね」
彼が嘆くように天井を仰いだのはほぼ同時だった。
「動くぞ?」
尋ねるような口調で言っておきながら了承しか認めないような物言いに反感は湧かない。自分の余裕がなくなるまで私を待っていたことは充分すぎるほど判っていた。意味を持たせて瞬きをすると、彼は安堵の笑みを見せて腰を引いた。身体の中身を引きずり出している、と言われれば信じてしまいそうな感覚。それが過ぎれば、また中身を詰め戻される感覚がやってくる。やがてそこに微かながらも快楽めいた波を感じ始めた。自分のものとは思えないような声を意味もなく上げながら、それに心身を委ねようとして蹉跌する。今だけは忘れていようと意識の隅に追いやっていたものに目を向けてしまった。
彼と二人になったそのとき、ひっそりと胸の中に生まれた小さな石。それを罪悪感という名に置き換えてもいい。裸の身体を揺り動かされる度に、石は大きく重くなる。
私の全ては、私を遺した一族のために。私自身がクルタ族そのものでなくてはならなかった。今の私は個人の感情に溺れて現を抜かしている。この身体に流れる血の根源を全て絶やされて、ただ独り死に損なった自分がこんなことをしていていいはずがない。彼の想いを知って、似たものが自分の中にもあると気付いたとき、つかの間私は個であってもいいのかもしれないと思った。だが、やはり。これは背信。そして彼もまた、これ以上私のような人間に関わらず、その資質を生かした優秀な医師になるべきなのだ。
彼に名前を呼ばれて、私は抱えきれなくなった石を手放した。石は腹の上に落ち、その重みを受ける寸前に体温を持った生き血に変わる。目の前が赤い。ああ、あのときと同じだ。
「あー、あの、あれだ、持ってたこたぁ持ってたけど、気持ちよすぎて間に合わなかった。こんなとこに出す気は…」
幾分間の抜けた声が、慌てた弁明をしていた。茫漠とした頭を持ち上げて血まみれの腹に視線をやる。…違う。私の見知った血は、こんな色ではない。赤く色づいて見えるのは眼のせいだ。
「悪かった、謝る。許してくれ」
早口で詫びながら、無造作にベッドの端に置いていたタオルを使い彼が私の腹の上のものを拭う。
「構わない。気にするな」
自分の予想以上に暗く冷やかな声が出た。彼の手をそっと払って身体を起こすと、彼が弾かれたように私との距離を作る。胸を掠めた後悔に気付かないふりをして、眼を動かさずに彼を見た。私の態度に戸惑うのも当然で、一切の表情が消えていた。
それ以上彼に意識を向けないようにしてベッドを抜け、服に手を伸ばす。身体の奥にはまだ鈍く軋む違和感があった。
「なぁ」
呼びかけには答えず、突き刺さる視線もそのままに頭からシャツを被る。袖を通したところで、
「なぁ」
次の声が私のすぐ真後ろで聞こえて身体がバランスを崩した。心臓が跳ねる。背中が彼の胸に引きつけられ、肩に両腕が回っていた。
「離してくれ」
感情もなく放ったはずの言葉が震える。
「離すかよ。…お前さ、あんまいろいろと抑えんな。もうちょっと自分のこと考えてやれよ」
「知った口を…」
穏やかな声が身体に沁み込むのを止めたいと思った。乾ききった布が水を吸い込まないわけはないのに。愛想の欠片もない幕切れを喫してもなお、彼は私を理解しようとしている。
「知らねぇけど言うんだよ。生き残ったのがお前じゃなくて別の誰かだったら、そいつに今のお前みたいになって欲しいか、って話だ」
なにも言えなくなった。想像するまでもなかった。彼の言うとおりだ。それでも、私は進まなくてはならない。ここまで築いたものをふいにすることはできないのだ。
「…ありがとう」
ようやくそれを喉から絞り出した。
「だが、決めたことなんだ」
苦心して出した言葉の続きの方が流暢なのが、我ながら可愛げがない。
「おい。オレの話、聞いてたか?」
爆発する一歩手前の苛立ったような声は、毎度舌戦を繰り広げるときのそれだった。普段の自分を取り戻した彼に、心から安心する。私もいつものように彼の言うことを適当に聞き流した。そのうえで終結宣言を出す。彼との舌戦で負けたことはないのだ。
「少しだけでいい。このまま…」
肩から胸の前に下がる彼の手を掴み、自分の身体に押しつける。渋々負けを認めたかのように、彼の腕が力を増して私を包んだ。首筋に触れる無精髭が肌のざわめきを誘う。素直に伝えることはできないが、彼の胸の下でぎこちなく喘いでいるときの私の半分は間違いなく、幸せだった。