明日、また同じ時間に。そう言って廃墟を去った彼女が連絡してきたのは翌日の朝遅くだった。抜けられない仕事でも入ったか、協定の申し入れの辞退かと思えば、会う時間を早めたいとのこと。予定の変更に悪びれる口調でもなく、用件を告げた彼女の声には地を這うような重い響きがあった。一夜のうちになにがあったのかは、だいたい想像がつく。願わくば、ボクの思惑どおりにことの運ばんことを。
改められた約束よりもやや早い時刻、西日の差し込む廃墟の入り口から伸びた影は激しさを秘めた静かな殺気を孕んでいた。それがボクに向けられたものじゃないことは判ってる。
「ボクと組む気になったかい?」
近づいてくる気配に視線を向けることなく問うと、殺気はその場に立ち止まった。
「貴様が知っている団員の情報」
弾ける寸前まで引き絞られた鉄線のような声が返ってくる。続くはずの質問も判っていた。
「NO11は含まれているか?」
予想どおり。災難に見舞われたウボォーが血相を変えて「鎖野郎」を探しに飛び出していったと、昨夜この廃墟から戻った後で他のメンバーから聞いていたから。
「そう、だね。ウボォーを逃がしたらしいけど、再会できそうなのかな?」
寄りかかっていた壁を離れ、彼女の前へと進んだ。
「ウボォー?」
彼女は訝しげに首を小さく横に倒して聞き返す。全身から立ち昇る濃厚な死の香りが、陽炎のように彼女を包んで揺らいでいた。
「ウボォーギン。キミが情報をご所望のNO11の名前だよ」
「…そうか」
冷たく凍る顔つきが、複雑な表情を見せた。そんな当たり前のことに、初めて気付いたような顔をするなんて。彼女やボクに名前があるように、旅団のメンバーにだって名前くらいあるだろう。彼女が彼らをどう捉えているかは聞くまでもないし、言ったところで不快をあらわにするだけに違いない。でも、彼らは番号のみで互いを認識し、機械のように殺戮を繰り返すだけの一群じゃない。笑いもすれば怒りもする、人間の集まりだ。ボクはそれを間近で見ている。
「ヤツにならもう会った。罪を償わせる前に、ヤツが陰獣のひとりに流し込まれたものを排出するのを待つことになっている」
相手の体調回復を待つとは、彼女も随分と律儀なことだ。でなければ、それに乗じてボクからなにか聞き出すための時間稼ぎにしているだけか。
「ああ、ヒルかなにかを入れられて体内に卵を産みつけられたって誰かが言ってたな。具現化した掃除機でいろいろ吸い込める能力者はいるけど、生き物は対象外らしいから自力で出すしかないんだろうね」
一応は知っているメガネの彼女の能力を織り込んで、
「で、その前にボクに彼の能力を訊きに来たわけだ?」
揺らめく死の香りの中へ腕を伸ばした。指に触れた金色の髪は天使のそれのように柔らかで、ボクは一瞬、彼女の側に佇む死神の影を忘れた。先ほどわずかに覗かせたぐらつきは、もうどこにも見当たらない。これから戦闘に赴くとは思えない落ち着きをもって、彼女はされるがまま唇を開く。
「能力、というよりは、ヤツの筋力が旅団内でどの程度のものなのかが知りたい」
ほんの少し拍子抜けした後で合点がいった。突然釣り上げられるように攫われたという彼は、市街の喧騒から数km離れたところに広がる起伏の多い荒野で陰獣相手に大立ち回りを演じている途中だった。彼女がより高い場所からその戦闘ぶりを見たのなら、彼の能力自体はそれなりに把握しているだろう。
「どの程度? 最強だよ。腕力のみの勝負ではボクも勝てる気がしない」
抗わないのをいいことに、さらに距離を縮めてみた。足を踏み出しながら髪を弄ぶ手をその頭の後ろに回して引き寄せると、彼女の上体は呆気ないほど容易くボクの胸へ収まった。
「判った。旅団最強かつ強化系…都合がいい」
頭をボクの胸に抱えられているせいで、独り言のようなその言葉はくぐもって聞こえる。

「勝算あり、かい? 彼の"超破壊拳"の直撃を避ければなんとかなるかもね」
「抱くのか?」
顔を俯けて細く滑らかな髪に唇をつけた刹那、抑揚のない声がボクに当たって滑り落ちた。
「…抱かれたい?」
手の甲を彼女のあごの下に差し入れ、顔を上げさせて訊く。強い光をたたえつつもどこか倦んだような瞳が、ボクを見つめ返した。
「それが情報提供の条件ならば、私の意思は関係ないのだろう?」
自分自身の身体をただの容器みたいに言う。確かに、時間が許すなら彼女が望もうが望むまいが軽く遊んでおく算段でいたし、前科もあるけど。そんなふうに言われたら。なんだか今の彼女に深く触れることが禁忌に思えてしまう。穢されざるもの。そう感じた自分を糊塗するように笑った。
「冷たいね。戻って来るんだろ? 仮にキミが死ぬとして」
存外に饒舌になっているのが、我ながら滑稽な気がしなくもない。それでもボクは言葉を繋げ、彼女の腰を引き寄せる。
「最後の相手がボクでいいのかい?」
「どうだっていい」
投げやりな調子で言い放った後で、彼女は視線を下に流した。
「貴様がどうしようと、死ぬなら結局は貴様が最後だ」
仮定の死を口にしてはいても、死ぬ気なんてさらさらないように見える。その自信はどこから来るんだろう。念能力を身につけた彼女がボクの前に現れた夜を思い出す。一度は発動させかけた能力を隠し通し、素地のみのなりふり構わない抵抗の末、発動させれば回避できたかもしれない恥辱に呑まれていった。
「あれから会ってないんだ、あの彼には?」
視線を外した瞳が、微かに揺れ動く。つかの間の沈黙の後、
「答える義理はないな」
表情を変えることなくボクのつまらない勘繰りを受け流した。感情をどこかに置いてきてしまったような彼女が物足りなくて、ちょっと怒らせてみたかっただけなのに。その冷静さの内側に包まれたものに戦慄を覚える。ボクが触れているのは、凍てつく殺意だけを詰め込んだ人型だった。
幻影旅団には、経験浅な能力者が生半可な覚悟で対峙できるメンバーなんて一人としていない。どこの誰が無謀に挑んで死体になろうと、ボクの知ったことじゃない。でも、と改めて腕の中の彼女を見る。整った顔に華やかな笑みを咲かせて多くの人に囲まれているのが自然な年頃のはずだ。その細い肩に背負った過去が、彼女を無邪気な時代を忘れた大人のようにしてしまっている。
蜘蛛への復讐は彼女の悲願で、ボクは自分の戦闘趣味のためにそれを利用する。彼女が蜘蛛の脚を折っていくのをほくそ笑みながら眺め、首尾よく頭を引き離すことができれば、それを横から掠め取るのは簡単。そうする気で彼女を放し飼いにしているんじゃなかったか。組み立てた数々の歯車がようやく回り始めた今、どうして抱き寄せたこの身体を離せずにいるんだろう。
「いつまでこうしていればいいんだ?」
乾いた声に耳朶を打たれて、ボクはぼやけかけていた焦点を戻す。
「私は時間を持て余しているわけではない」
緋の眼を隠すための細工でもしているのか、本来の色とは違う黒い瞳がボクを見上げていた。その気でいるなら早く済ませろ、と言外に仄かな苛立ちを匂わせて。笑える。軽佻浮薄に言葉を返すつもりが、なにひとつ適当な台詞が浮かんでこない。
彼女の身体を弄ぶのは、この目論見の途中で生まれたいわば副産物。自分の性格はよく判ってる。彼女を止めようなんて一瞬でも思ったのは、ただの気まぐれだ。ボクがなにかに本気になることなんかあり得ない。
瞬きついでに視線を落とすと、重なったボクらの長い影が輪郭を曖昧にして夕闇に溶けかけていた。彼女がここを訪れてから、ずいぶんと時間が経ったらしい。華奢な身体に回した腕を解き、自分の肩の高さに両手を挙げる。自覚の遅れた気まぐれを追い払うように小さく息をついた。
「やめとくよ。今のキミはボクを楽しませてくれそうにない。もしキミを抱いて、それが最後になったら寝覚めが悪いしね」
その言葉に安堵の表情を見せるでもなく、彼女の右手がボクの胸に置かれる。ゆっくりと押しやるようにして彼女はボクから離れ、身体を反転させた。ボクを退けたしなやかな白い手は、まだ届くところにある。無意識に腕を伸ばしていた。彼女がそのまま消えてしまいそうな気がしたから。
冷たい鎖が指先に触れて、彼女が緩やかに振り向いた。思いがけず目が合い、少し動揺する。中途半端に浮いた腕は、重みに任せて下ろすしかなかった。自分の粗忽さに呆れる。引き止めたところで、言うべきことなんてなにもない。
関心なさげにその腕の動きを一瞥した彼女の目が、再びボクの顔に留まった。なんでもない、と伝えるために唇の端を持ち上げて軽く首を振ったのを彼女は見ていただろうか。振り返ったときと同じように顔の向きを戻した後姿が遠去かっていく。

凛としたまっすぐな背中が視界を抜けた頃、埃っぽく澱んだ室内に充満していた殺気はようやく薄らいだ。この場所にいる間、ボクの腕の中にいてさえも片時も弱まることのなかった、息苦しくなるほどに暗い覚悟。
足許に散らばるガラス片のひとつを意味もなくつま先で蹴り転がしてから、夕暮れの名残の失せた路地に出た。彼女の気配がまだ紫煙のように漂っている。この張り詰めた殺気を辿るのに苦労することはないけど、距離の取り方を誤ればすぐに覚られてしまうに違いない。湧くがままに放出される凄烈な気配は、同時に研ぎ澄まされた非常線でもある。
別に彼女の身を案じてその後を追ってるわけじゃない。彼女に寄り添う死神があの二人のどちらを道連れに選ぶのかが気になるだけだ。過剰な期待はしてないけど、多少は当てにしてるから。言い訳が必要な相手なんていないのに、頭の中で繰り返している。今日のボクはどうかしてるのかもしれない。
迷いのない足取りで滑るように進んでいく彼女の姿を小さく捕らえ続けるうちに、寂寞とした荒野が見えてきた。ここまで来れば、高低差を使っていくらでも観覧場所を選択できる。進路をずらし、隆起した大地の陰に回った。後は高みから彼女の相手を見つけ出して二人の交点に先回りするのみ。
ほどなく見つけた特等席から荒涼とした地肌を俯瞰するうちに、星空の底で互いの隔たりを縮める人影を認めた。空気が重く凝縮していくのが判る。冷たい手に心臓を撫でられるような感覚に身震いをやり過ごす。端の浮いた唇の歪みを抑えられない。
何事か言葉を交わしているらしい二人の間を、砂埃を巻き上げながら風が抜けた。どちらの声もまるで聞こえない。たとえ聞こえたにしても彼らの話に興味はないし、どうせ内容は噛み合いもしない不毛なものだろう。案の定、会話は決裂したようだ。こだわりのない純粋な力比べへの歓喜と、蓄積されて密度を高めた怨恨が、オーラに形を変えて膨れ上がる。駒は動き始めた。
あの冷たく繊細な鎖が蜘蛛の最も強靭な脚を捻じ切るなんて確信もないくせに、ボクは待っている。天使の顔をした死神が再びこの腕に戻るときを。