笛の音が止んだ瞬間、目の前に広がっていた穏やかな青い海原が消え去る。どれだけ目を凝らしても、ここはやっぱり壁や床のひび割れの目立つ殺風景な部屋でしかなかった。地獄耳のおチビちゃんの念能力によって延々と奏でられた美しい旋律は、今回の修羅場の中で神経を張りすぎて凝り固まったオレの身体の疲れをすっかり癒しはしたが、万能薬にはなり得なかった。この廃アパートのほとんどの部屋を漁って寄せ集めた枕やらクッションやらでなんとか形にしたマットに横たわるこいつの目蓋は、今も閉じられたままだ。
無事に人質交換を終えて空港からここに向かう車に乗り込んだこいつは、ドアを閉めるなり小さいけれどはっきりとした声で一言「すまなかった」と詫びた。流れる景色を眺める気もないくせに窓へと顔を向けたままじっと押し黙り続け、助手席には密度の違う空気が沈殿していった。その様子に誰もが声をかけることすらためらい、オレもまた一定間隔で反復するワイパー越しに滲むテールランプを睨むようにして運転に専念した。そして目的地が近づいた頃、無視できない心音の変化を感じたというおチビちゃんが後ろから助手席を覗き込んだときには、こいつは芯が砕けたようにぐったりと意識を失っていた。
曰く、その心音は「マイナス要素ばかりが集まって、チューニングもしないまま初見の交響曲を指揮者なしで合わせたような音」で、それ自体は「さまざまな葛藤をなんとか収束させようと努力している状態」だからそっとしておいたが、そのうち「交響曲を構成する要素がだんだんと抜け落ち、突然平坦なリズムだけ」になったとのことだ。人質コンビもシートの間から乗り出し、車内が騒がしくなる。そんな中、ハンドルから離した右手の掌で触れたこいつの頬がオレに伝えたのは、体温計の力を借りるまでもない高熱だった。
●
到着した廃アパートは、人質コンビ経由で知り合った贋作師とも古美術商ともつかない目利きのおっさんが手配した。居住者がいないにもかかわらず未だ水道や電気のラインが生きているという奇跡的な物件で、わざわざ外へ出なくても手持ちのパソコンで電脳ページをめくることができると知った人質コンビは寄せ集めマット作成の手伝いを済ませると、おチビちゃんとオレに後を任せて自分たちの場所と決めた部屋に引き上げていった。旅団の動向が気になるのだろう。
豪胆な性格の割に細かいところに気のつくおっさんは、こっちの事情を大して聞きもしないまま後方支援に回ってくれた。今回使った車から足がつかないようにと借用と返却を自分名義で請け負ったり、前日までオレたちが宿泊していた部屋からここへ荷物を移動させたりと、地味で面倒なことばかりを嫌な顔もせず手際よく片付け、さらに心憎いことには、飲用の水や食料など当面の隠遁生活に必要なものの他、退屈を見越して雑誌や小説本までをも豊富に買い揃えている。だが、
「誰かの体調が崩れることを前提にはしてなかったから、いろいろ買い足すものがありそうね」
と、おチビちゃんが言うとおり、病院に連れて行くこともままならないこいつをケアするための物品についてはかなりの不足があった。
「ちょっと行ってくるわ」
「あ、オレ行こうか?」
立ち上がったおチビちゃんにつられるように床から腰を浮かせたオレの動きは、次の言葉で止まる。
「こういうときは男の人じゃない方がいいと思うけど?」
示し合わせたわけでもないのに、オレたち二人の目は呼吸で胸が上下する以外は動きのない寝姿へと向いた。おチビちゃんの言わんとしていることはすぐに判った。お互いの視線が揃った偶然になんとなく微妙な空気を感じて目先を移せば、相手もまた偶然に同じところに目先を移している。頭に浮かんでいたことが似ていたらしい。壁に打たれた釘に下がったハンガー。そこに掛けられた鮮やかな青の民族服。その服に覆われていた身体がしなやかな曲線で作られていると知っていながら、わざわざ明言しない聡明さをおチビちゃんは持っていた。オレが理由を探る顔をしなかったことで暗黙のうちに認識の一致を得たようだ。
「ついでになにか欲しいものがあるなら、今のうちよ?」
こうして流れを変えずに話を続けるあたり、やっぱり賢い。お前、いい仲間に会えたな、と口の中で呟いて結局立ち上がったオレは、
「いや、特にない。任せるわ。尾行、気をつけろな」
子供みたいな背丈のレディを送り出すために部屋のドアを開けた。念の刃を刺された旅団の女が生命と引き換えに「鎖野郎」の情報を明かした可能性は打ち消せない。空港からこの部屋に辿り着く間に怪しい気配を察知するヤツはいなかったが、だからといって安心とは言い切れなかった。
「あら、ありがと」
おチビちゃんは、開けられたドアに対する礼を述べて柔らかく笑い、
「大丈夫。不審な足音や心音には敏感なの」
指揮棒を振るようにひらひらと片手の人差し指を揺らしながらドアを抜けた。通路を進んでいく小さな後姿を見送ってからドアを閉め、部屋の中を振り返ったとき、視界に影が差した。あまりにも予想外で、あごと肩が同時にびくりと引ける。それが何者なのかは考えるまでもないのに、心臓が跳ねた。驚きをストレートに表してしまった自分が気恥ずかしい。深夜、自分しかいないと思い込んだ部屋でエロ動画に集中する背後にこいつが立っていることに気付いたら、オレは間違いなく今と同じ反応をする。
ようやくおチビちゃんの笛が功を奏したかと思ったが、顔から表情が消えているところを見るとどうやら違うらしい。焦点が合っているようで合っていなかった。たぶん、意識もはっきりしていない。
「眠ってたんじゃねぇのかよ? 休んでろって。ふらついてるぜ?」
激しい動揺なんかなかった、ということにして優しく問いかけた途端、そのふらついていた身体が大きく揺れ、オレの胸へと倒れ込んできた。
「おい、大丈夫か…って、うわっ!」
落ちかけた腰にとっさに手を回したものの、急のことで支えきれずによろけて身体が翻る。気がつけば相手を壁に押しつけるような体勢になっていた。
「悪ぃ、大丈夫か?」
オウムみたいに同じ台詞を繰り返す。答えは返ってこなかった。その代わり。浮くように持ち上がった腕が伸びて、顔の両脇を白い手が過ぎた。手首が肩に乗り、細い腕の重みが伝わる。なだらかに下るまっすぐな腕の根元で、肩に挟まれた小さな顔がオレを見上げていた。寄せられた眉の下の潤んだ瞳が今にも涙を落としそうに見える。熱のせいとはいえ至近距離でそんな顔をされてしまったオレは、生唾を呑んでただ固まるしかない。
「…会いたかった」
消え入りそうな声が、確かにそう言った。そんな冗談、今まで一度だってこいつから聞いた覚えがない。それほどに、こいつの口から出る「会いたかった」は効く。だからこれは、自惚れ抜きでこいつの本音…だと思っていいと思う。問題はその本音をこいつが正気で吐くわけがない、ってことだ。素直に喜んで「オレもだ」なんて抱きしめる気にはなれなかった。目の前にある見事なまでの据え膳に手をつければ、もれなく自己嫌悪という名の腹痛に襲われるのは必至だから。
「な…に言ってんだ、お前?」
そうするのが一番いいような気がして笑ってはみたが、どう考えてもうまく笑えちゃいない。恐らく、こいつの高熱は限界以上の念能力を使った反動が主な原因だろう。そんな状態で錯雑とした意識の中から飛び出した直球すぎる言葉をどう扱えばいい。沈黙が怖くて、オレは半端な笑顔のまま努めて明るく言葉を続ける。
「…さっきからずっと一緒にいたじゃねぇかよ」
そんな意味じゃないことくらい判ってる。でも、ここで鈍感なふりをしなけりゃ確実に流される。ただでさえ休養が必要だってのに、半分眠ってるも同然の無防備極まりない今のこいつになにかしようなんて、そんなこと。
「寝てろ。ちゃんと側にいるから、な?」
普段のこいつからは絶対に現れない積極性をなだめるためにそう諭した瞬間、触れれば壊れてしまいそうだった顔つきが一変し、ひどく剣呑な色を帯びてオレを捕らえた。
「嘘は、嫌いだ」
一言ずつはっきりと区切られて飛んできた声に、思わず怯む。こいつは酔ってもこんな絡み方をするんだろうか。
「いや、別に嘘なんか…」
ついてねぇよ、と最後まで言うことはできなかった。言い訳の途中で開いたままになっていた唇の間に押し込まれた熱い舌。その直前に鈍い音を立ててぶつかり合った歯に軽い痺れが残る。眠ったらオレがいなくなるかもしれない、なんてこいつが考えていたのかと思うと、窒息するまで抱き締めたくなってしまう。
一人寝のベッドの中でなら何度かこいつに迫られたことがある。実のところ、その何度かは片手や両手じゃ数え切れないし、さらに白状すればベッドの中だけじゃない。だが、現実になってしまったこの状況は突然すぎて、受け止める余裕なんか爪の先ほども生まれなかった。舌を通して熱を伝染されたかのように顔が火照る。
「ちょ…っ、待て待て待て待てっ!」
引き剥がすように顔を背けながら、不謹慎とは思いつつも心底安心していた。まったく慣れの感じられない勢いだけのキスからは、他の男の影は微塵も窺えない。これが妙にうまいキスだったら、落ち込めるところまで落ち込んで立ち直れなくなる。
低めの声で繰り出す偉そうな口調にその判断材料を見出すことはほぼ不可能。身長はけっこうあるし、民族の誇りを前面に押し出した直線的な服のせいで判りにくいが、女と知ってよくよく見ればこいつの顔はかなり美形の部類に入る。情けない話、会えずにいた半年の間ずっとオレの知らない誰かに言い寄られたりしてるんじゃないかと気が気じゃなかった。
いったいどんな山奥にいるんだと首を捻るほど携帯はつながらず、ようやくメールのやり取りができるようになったのは、たぶん今の仕事が決まった頃なんだと想像するしかない。それにしたってオレからの送信が圧倒的で、たまに返信があったかと思えば仕事の内容にすら触れないような短く素っ気ないものばかりだった。やっと会えたら会えたで数時間も経たないうちに修羅場が出来上がり、その結果がこれだ。
「いいから寝てろって。怒るぞ?」
熱気の立ち昇る身体が自分の腰に触れないよう斜めに抱きかかえ、寄せ集めマットに再び寝せるため、背中で勢いをつけて壁を離れる。抱きつかれたときから、脚の間に下がってるものは男として正直で正常な反応をしていた。…大丈夫。これでもまだ、理性は保てている。
ロープに追い詰められたボクサー並みの状況からはなんとか逃れられた。だが、正面から腰を押しつけるような変質者じみた抱え方を避けたことが仇になった。重心がずれてバランスが崩れる。こいつを下敷きにするわけにはいかない。とっさに身体を入れ替えた瞬間、相手の全体重を受け止める形になり、マットの上にまともに倒れた。
重ねの薄い部分を通して硬い床に頭をしたたか打ちつけたうえ、背中にも同様の衝撃。さらに人ひとりの重みが胸にかかり、息が詰まった。のしかかってきた相手が自力で身体を支える気配を察したオレは、食いしばった歯の間から息を吸い込む。
「い…ってぇ…。お前、大丈夫だったか?」
大丈夫という言葉を確認に使うのは今日、何度目だ。衝撃を覚悟したときから閉じていた目をゆっくり開くと、視界いっぱいに熱に染まった顔があった。バカみたいにぽかんと口を開けて、その整った顔に見入る。まさか、こいつに押し倒される日が来ようとは。
なにかを言いかけている唇が、少し歪んだように見えた。
「…汚らわしくて抱く気にもなれないか?」
予想もしなかった一言を放った口許が自嘲を含んで微かに笑っていた。そのくせ、虚ろな瞳には痛ましい光がある。冷水を浴びせられたように心臓が締めつけられた。汚らわしい、だと? 報復行為の中で他人の生命を握りつぶしたことか。誇りを持って挑んだことの結果だろう。それを汚らわしいなんて言うな。怒鳴りつけてやりたい衝動を懸命に抑え込む。
「それが…?」
ようやく出した声が震えた。曲がりなりにも人間の生命を扱う仕事を志している。どんな人間だろうと生命は等しく尊い、なんて百も承知だ。
「それがどうしたなんて言わねぇよ。でもな、それでオレが変わるとでも思ってんのか、お前は?」
ガキの頃からのダチに比べりゃ長い付き合いじゃない。それでもオレなりに相手の背景を咀嚼し、納得したうえで向き合ってるつもりだ。そうじゃなきゃ、暗殺一家の一員として育ったあいつとつるんでいられるはずないだろうが。こいつにオレがその程度のヤツだと思われたことが、たまらなく悲しい。
歪んでいた口許が融けるように形を戻すのと同時に、瞳に居座っていた直視するのが苦しくなるほどの鈍い光が消えていく。すっかり表情を失くした後で、こいつはまた泣きそうな顔になった。
まともな状態だったら、あんなふうにオレを試すような台詞を吐きはしないはずだ。心の奥深くしまい込んで、きっと二度とオレに触れない。そのまともじゃない精神状態を逆手に取って、オレもこいつを試すような台詞を返したんだと今になって気付いた。
こいつが不安そうな顔をするのを見たことはない。ましてや泣き言なんか。挑発とも取れるあの台詞に乗せられた後での頼りなげな眼差しは、完璧なカウンターブロウ。治まりかけていた正直で正常な欲望が、再び首をもたげ始めていた。腕を挙げて、白い袖に包まれた華奢な肩を掴む。マットに立てた片肘を支えに上半身を大きく捻ると、オレに覆いかぶさっていた身体は簡単にオレの胸の下に敷かれた。
たった一度、この身体を抱いて過ごした夜がある。それでなにも変わらなかったとはもちろん言わないが、劇的な変化もありはしなかった。まるで疚しい夢から醒めた後のように、翌朝のオレたちは奇妙なよそよそしさで滞りがちな会話を交わし、淡々と荷物をまとめた。お互いに離れ難く思っていると感じているのに、言葉にした方が負けだとでも言わんばかりにそれを口にするのを避けながら、二人の分岐点となる街の玄関口に立ち、そして。明日もまた会えるかのような気軽さで別れた。その目の奥だけは絶対に覗かない視線で顔を見つめ合い、どことなく不自然な笑みを作って。
一度寝たくらいで自分のものになったと思うほど青くはない。達観しているように見えて実はかなり青いところの多いこいつの心根に甘えて縛りつける気もない。それでも、こいつが弱っているときにはいちばん側にいてやりたいと望むのは図々しいだろうか。
「熱、長引いても知らねぇぞ」
あたかも相手に非があるかのような物言いは、当然こいつの顔を見て出せるもんじゃない。オレは顔を少しだけ逸らして視線を逃がす。なんのことはない。我慢しきれない後ろめたさを棚に上げて、無防備な相手に責任転嫁したいだけだ。こんなことに体力を使わせていい状態かどうかは考えなくたって判る。言い訳に過ぎない問いを自分にぶつけてみる。こいつを相手にここまで来て、やめられる男なんているのか。ああ、オレはダメな男かもしれない。
すでに出ている答えに勢いをつけるように乱暴にシャツを捲り上げると、ささやかな胸の白い膨らみが目に飛び込んできた。つい凝視してしまうのは、本能。オレがマットの材料を探して他の部屋をうろついていたときにでも、おチビちゃんが下着を外しておいたんだろう。身体を圧迫しないように、との配慮を裏切ったことが、今更ながらの罪悪感を引き寄せた。何ヶ月も前に灯りを絞った部屋で見た均整の取れた身体は、そのときに比べてずいぶんと痩せてしまった気がする。やっぱり、ちゃんと回復するのを待って…。
そんな心の動きを遮るように、いきなりしがみつかれた。それも、耳許で吐息交じりに名前を囁かれるオマケつきで。罪悪感を招いた薄い身体はもう視界にない。押し当てられる火照った肌とオレの名前を再び呼んだ声の甘さに、脆弱な理性は吹き消された。
しがみつかれたまま、細い腰に手をかけて下半身を覆う服を下着と一緒に引き剥がす。脚をくねらせ擦り合わせながら相手がそれを脱ぎ去るのを待つのも惜しく、太ももの間を探って強く指を握り込む。そこに触れるには力加減が足りなかったかと後悔しかけた指先は、濡れた粘膜の中に難なく沈んだ。
「は…ぁ…」
小さな熱い息が耳にかかり、オレの指を包んだ腰が跳ね上がる。もっと、躍らせてやりたい。その一心で潜り込ませた指を乱暴にならない程度に激しく動かす。
「ん…っ、あ…っあぁ…」
控えめな声が心地いい。弾む腰と一緒に蠢く太ももが痛いほどに張り詰めたナニに何度も当たり、急かされているような思いに駆られる。ぬめる指を抜いて、ベルトを手始めに自分の腰回りを緩めた。時間をかけて堪能したいところだが、買出しに出かけたおチビちゃんがそのうち戻ってくることも頭に入れておかなきゃならない。オレの背中を抱く腕の手首を取って解き、上半身を起こして密着していた熱い身体を離した。
「…いい、よな?」
それは相手に同意を求める言葉か。それとも、まだ意識の片隅に残る罪悪感を追い払うための独り言か。どっちにしたって止められないことだけは確かだった。オレがぞんざいに乱したせいで腕や脚にまとわりついていた衣服は、とっくのとうに本人が脱ぎ散らしている。もしかしたら返ってきたかもしれない答えも聞かず、両ももの裏に手を回して持ち上げるように一気に押し開いた。
膝立ちの脚を大きく開いて腰の位置を下げ、自分の大腿に肌理の細かい尻を乗せる。割られた下半身を浮き上げさせられ、背中と肩で自重を支えるこいつの姿態に、心の中で身悶えした。肋骨に縁取られて窪む鳩尾の曲線。わずかながらも隆起した胸と色づいた頂点。小高い、と表現するには微妙に足りないそのふたつの丘の向こうから、眇められた眼がオレを見上げてくる。ヤバい、エロすぎる。据え膳平らげた後の自己嫌悪? くそぉ、上等だ。
ももを掴んだ手の親指でさっきまで掻き回していた器官の入り口を左右に拡げ、目を閉じて腰を突き出す。少しだけ入ったナニの先が、こいつの内側の圧に軽く押し戻された。当然のようにその力に逆らって埋め込むと、とろけた内壁の温度が異常に高い。熱、出してるんだよな、こいつ。追い出しきれない罪悪感に改めて胸を刺されても、もう戻れない。
無造作に投げ出されていた華奢な両腕の肘の辺りを拾い上げ、力を込めて自分の身体に引きつけた。大腿の上に乗せた尻朶が滑り、深く繋がる。
「ふ…ぁあああ…っ」
絞り出すような声を上げ、全身を震わせてオレを締めつけるこいつが愛しかった。二の腕に挟まれて浅い谷間を作る小さな胸は、オレの好みをずいぶんと外したサイズだが、それがこいつなら落胆の種にもならない。繰り返し突き上げる腰に打ちつけるように何度も何度も白い腕を引っ張る。その度に洩れる、押し殺した喘ぎに酔う。オレに掴まれた肘の先で、そこだけ独立した生物みたいにうごめく繊細な指がオレの脇腹に爪を立てた。
「声、もっと聞かせてくれよ」
思ったことが知らずのうちに口から出る。啜り泣きにも似た声がそれに応え、快感を増幅させた。久しぶりに聞く艶っぽい声が、身体の内側からタマを引っ張られるような感覚を連れてきた。半年前に抱いたときは、初めてこいつに触れる事実そのものに興奮してぎりぎり外出しの失態を晒した。こいつの身体にその手の変調をきたすような無責任な真似は二度としない。なら最初から付けときゃいいんだが、それはまぁ、その…あれだ。
握り締めていた肘をそっと離し、間を持たせるために小ぶりな胸の頂点に片手の指を這わせる。びくんと背中が反り、掠れた悲鳴が上がった。腰の低い位置で中途半端に引っかかってるだけの服の尻ポケットの財布には、半年以上前から出番もなく入れっぱなしになっているものがある。手探りでポケットの位置を探り、
「待ってろ、すぐ付けるから」
小声で言って腰を引こうとした瞬間、拡げられるがままになっていた長い脚が、白い大蛇さながらオレに絡みついてきた。
「こ…のままでいい…」
乱れた息の間に早口で返された言葉に凍りつく。なんの冗談だ。このままでいいわけがない。
「ふざけんなよ、こんなときに」
見下ろしたこいつの眼は間違いなく本気だった。その顔で、そんな表情するな。こいつの身体の周期をオレは知らない。最後まで続けることでこいつの未来が大きく変わるのが怖かった。変わることで復讐に終止符が打たれる可能性は大いにあるだろう。それもありか、と一瞬は思った。身も心もすり減らして私刑を繰り返す姿を見るのは辛い。だが、こんなふうにやめさせたいんじゃない。
続けられない。なのに、身体を離そうと腰を引けば動きを追われ、これ以上は引けないからと振り落としにかかれば対抗するようにオレの背中で組んだ脚を締め上げてくる。いい加減にしてくれないと出ちまう。
「このままでいいと言ってるんだ」
「無茶言うな、落ち着け!」
どう足掻いても離しようがない状況に焦り、つい強くなってしまったオレの声は、
「いいからっ!」
と、さらに強い声に制された。
「…全部、消してくれ」
繋げられた言葉はもう力を失っていて、縋りつくような響きさえあった。消すって、なにを。と訝しんだのが一瞬なら、そのなにかに思い当たって戸惑ったのも一瞬だった。そうして辿り着いた結論は、もしかしたらオレの勘違いなのかもしれないが。それでもいい。
倫理だとか人道だとかの正論抜きで、こいつのしたことを評価できる人々はもうどこにもいない。誇りをかけた報復は、彼らに礼讃されることも弾劾されることもなく、ただ私怨で人間の生命をつぶした事実だけが残される。殺しに対する免罪符なんか存在しない。本当はそれを知っているこいつは、そのうち生じてくるズレに気付かないふりをして、これは正当な行為だと自分に言い聞かせながら血を浴び続ける覚悟でいる。そうしなければ、折れてしまうから。
決して事実が消えることはないと承知のうえでなお、自らをして汚らわしいと言わしめた返り血の記憶を一時的にでも消したくてオレを求めた。そう思っていいだろうか。焦れて迷う心の針が振り切れた。
掴んだ肘を強く引き寄せ、白い身体を強引に起こす。しなりながら立ち上がる上半身に引き摺られるように細いあごが浮いた。つんと上を向いた形のいい胸が目の前に現れる。その間に顔を埋め、熱を放つ背中を力いっぱい抱き締めた。自由になった腕に頭を抱き返されて、頬が柔らかな胸に密着する。上気した肌の仄かに甘い香り。
少し高いところにある顔を見上げると、綻んだ唇があった。吐息に誘われる。首を伸ばして自分の唇を押し当て、口の中に舌を捻じ入れた。奪うように舌を絡め、追い立てるように腰を送る。
限界はたちどころにやってきた。背中を這い上がる切なさを伴った痺れに、絡めた舌の動きが止まる。眩暈のするような快感が熱いぬかるみの中に抜けていった。舌を触れ合わせたまま、大きく身体を震わせたのがオレなのか、こいつなのか判らない。
「嫌いに…ならないで欲しい…」
唇を離した後でオレの肩越しに俯いた顔が小さく告げた声は、全てを出し切って腑抜けた頭に滑り込んで漂った。時間が止まったような沈黙の中で、こいつの言葉を反芻する。気が緩んだ瞬間にしおらしいこと言いやがって。
「…なるかよ」
毒づくように呟いた。こいつはいつもそうだ。自分の言いたいことだけ言って、こっちの話、それも肝心なところはろくに聞きやしない。今だってオレの肩を枕に、荒くて浅いが規則正しい呼吸を繰り返して骨が抜けたように脱力している。背中を抱いた手で軽く叩いて名前を呼んでみるが、なんの反応もなかった。この要領のよさは天然か。場合によっちゃ、目を覚ましたときには今までしてたことも忘れちまってるのかもしれない。
「…なろったって、なれねっつの」
淡い色の乱れ髪が重石のように乗った肩に向かって、また聞こえよがしに呟く。だが、戻ってくるのは寝息だけだった。…聞こえてりゃいいのに。
そろそろ、おチビちゃんが戻ってもおかしくない頃だ。あの地獄耳で心音を拾うことのできる範囲はどのくらいだろう。少なくともこの部屋に近づいてからじゃ完全アウトに違いない。心音から感情まで読み取れるらしいその聴力をごまかせるとは思えないが、何事もなかったように振舞えるようにはしておきたかった。なりは小っこくてもガキじゃないおチビちゃんは、空気を把握した最善の選択を態度で示してくれる…はずだ。
抱きしめた身体をそっとマットに下ろして横たえた。傍らに放り出されていた服を意識のない肢体に着せ直し、片手で軽く髪を梳いてやってから足許から肩口までを大判のリンネルで覆う。自分の服の乱れを戻しながら見下ろした綺麗な寝顔には、初めて見るような穏やかさがあった。
熱が下がって落ち着けば、きっとまた会えない日々が始まる。どうしようもなく好きで、その想いを持て余してるのはオレの方だけだと思っていた。もう、いい。一族の無念を晴らすために極限まで抑え込んだ個人の感情の奥で、こいつがオレを支えとして頼っていると判ったから。こいつ自身が納得のいく目的の果たし方をするまで、過去と折り合いがついたという実感を持てるようになるまで、オレはいつまででも待っていられる。