周囲を護衛団の古株メンバーが取り囲む車へと、リーダーが一人の少女を誘導する。物々しい光景とは裏腹に、少女の表情に緊張感はない。そう扱われることが日常化しているせいだろう。「ボス」と紹介されたその少女とリーダーを後部座席に乗せた車のドアが閉まると、古株メンバーたちも予め決められた車へと乗り込んでいく。動き出した総勢五台にわたる車列は、そうしてリンゴーン空港を後にした。
空港と市街を結ぶ道路の両脇には砂漠が広がる。ヒッチハイクでもするつもりなのだろうか。アスファルトから少し外れた砂地を数人のグループが歩いている。バックパッカーにしては身軽だ、という印象を持った他は特に気に留まるところもなく、彼らは車窓を流れていった。その先にもいくつかのバックパッカーたちのグループを見かけたが、その誰もが同乗を求めるために挙げかけた手を気まずそうに下ろして目を逸らし、砂埃に霞んで遠退いた。
市街へと続くまっすぐな一本道を走り抜け、市内中心部にある高級ホテルに到着する。部外者を近づけるなというリーダーからの命により、車内いっぱいに詰まれた荷物を降ろすために歩み寄ってくるドアマンを制するのは、先頭車両の助手席にいる私の役割だった。従って、たかが数日の滞在だというのに引越しかと思うほどのボスの荷物を豪奢な部屋に運び入れるのは、ホテルのスタッフではなく我々護衛団の仕事ということになる。
レセプションでの記帳を終え、スタッフの案内を辞退して予約した部屋へ向かう。次に待っているのは、部屋のドアや窓を警戒しながらの荷解き作業。なにひとつ荷物を持たないまま、まるで以前から自分の部屋であったかのようにビロード張りのソファにくつろいだ様子で座ったボスは、その口から矢継ぎ早に細かな指示を飛ばす。従うメンバーはみな一様にげんなり顔だ。二人の侍女だけが涼しげな表情で黙々と小物の整理にあたっている。
と、掃射銃並みの勢いを持つ甲高い声を遮るように備え付けの電話が鳴り出した。荷解きの手を止めて、リーダーがそれに応じる。一方の話す声しか聞こえないが、どうやらチェックイン時に記入した書類に不備があったようだ。部屋まで該当の書類を持って上がるというレセプションの申し出を断ったリーダーは、手近にいた私に詳細を伝え、修正してくるように命じた。これもホテルの従業員を装った不審者を用心してのことだろう。
再入室のための合図の取り決めを交わしてからレセプションのあるロビー階へと降りる。カウンターで部屋の番号を告げると、すぐに件の書類が差し出された。不備は護衛団メンバーの一人の旅券番号の数字の単純な書き違いで、部屋で頭に入れてきた数字を記入し直すだけのことだった。用件を済ませた私は荷解きの輪に再び加わるため、エレベーターへと足を向けた。それも仕事の内だと判ってはいても、まだ山ほどの荷物が手付かずで残っているかもしれないと思うと、正直うんざりする。
広いロビーを横切り、非常階段に繋がる扉を横に見たとき、目の前に小さな影が現れた。それを人間の手だと認識したときには後ろから抱え込まれ、口を塞がれていた。背後には少なからず注意を払っていたはずだった。それでも、触れられる寸前まで判らなかった。熟練された"絶"。
腰と一緒に押さえられた片腕は、肘から先しか自由が利かない。その肘先を上げ、顔の下半分を覆う掌の手首を握って引き剥がそうと試みたが、相手の力の方が上だった。脛を狙って何度か脚を後ろに蹴り出してみても、相手はその全てを軽くいなす。苛ついた。採用されてまもなく受けた、敵の姿を勝手に想像するな、などという教示のせいで、相手の目的さえ予測できない。近づく者すべてを敵とみなすより、敵となりうる者の範囲を広げて精査した方がよほど合理的なはずだが、自分の考えを強く進言して改善を図る価値のある職だとは思えなかった。
背後にいるのはかなりの使い手のように感じられる。片をつけようと思えばすぐにでも畳みかけられるのに、相手は口を塞ぐ以上のことをしない。非常階段の横という目立たない一角にいるとはいえ、ここは広く名の知れたホテルのロビーフロアだ。派手に動いて注目を集めるのは本意ではないらしい。こちらから仕掛けてみるか。まだ口を塞ぐ手に意識を向けているように思わせるため、相手の手首を握ったままで肘にオーラを集中させた。脇腹に狙いをつけて肘を打ち込もうとしたとき、
「やめてくれよ。キミ程度の相手でも、さすがに至近距離でやられたら肋の数本はいく」
笑いを押し殺したような聞き覚えのある声とともに、頭の上からその主の顔が覗いた。そちらへ眼だけを動かすと、すでに声から正体の知れた男と視線が合った。声を聞いた段階で寒気に震えた肌がさらにあわ立つ。それが隙になった。なにもできないまま、私は男が手早く開けた鉄扉の内側へと引きずり込まれた。敵の姿を勝手に想像するな、か。なるほど、この状況下なら頷ける。上下二手に分かれる非常階段を目の前に、扉の閉まる音を後ろに聞いた。
「…あれ? 紅くならないんだ?」
細められた男の眼が、頭越しに私の瞳を覗き込んだ。男の背中には数字の入った十二本足の蜘蛛が棲んでいる。瞳の色が変わらないはずはないだろう。ただ男が視認できないだけのことだ。それについて説明する気などないが、口を塞がれていては説明しようにも説明できない。男もそれに気付いたようだ。身を屈め、私の髪に顔を寄せる。
「キミは大声を出さない」
私の起こす行動を予知するような、あるいは私に暗示でもかけるかような口調。私の見える範囲にはないその口許は、きっと薄笑いを浮かべているのだろう。確かに怒鳴りつけたい気持ちはあったが、実行するつもりはなかった。マフィア絡みの使い手ならともかく、組織とは無関係の相手となれば任務上、余計な騒ぎを起こすわけにはいかない。それでも、読みを当てた優越感をこの男に与えるくらいなら、出せる限りの声量で叫んでその鼻を明かしてやろうかという気にもなる。

私を拘束していた男の両手がゆっくりと離れていく。結局、大声を出すことを選択しなかった私は、これ以上はないと言えるほどの不快感を込めた視線を伴わせて男を振り返った。だが、非難の目を受け止めた本人は痛くも痒くもないようだ。予想どおりの薄笑いを浮かべて肩をすくめると、背にした扉に体重を預けた。その顔の中央に拳を叩き込んでやりたい。
「暴れるキミを抑えるのは難しくないけど、声をなんとかするのは厄介だからね」
すでに険しくなっている自分の表情が、またその度合いを深めるのを感じる。頼みもしないのに先ほどから聞かされている私の力量への不躾な評価が煩わしかった。そう評されることに間違いがないところがさらに眉間のしわを深くさせる。事実、先ほども容易く動きを封じられた。その苛立ちも手伝って、
「今日は九月一日だったか?」
幾分ささくれた声が出た。日付の覚えがなくなるようなふやけた脳は持ち合わせていない。男にしても同じだろうが、皮肉のひとつでも言わなければ気が済まなかった。本来なら相手になどせず捨て置いて、自分のいるべき場所に戻るところだ。
「いや、まだ八月。せっかく会ったんだ、そう言わずに当日の待ち合わせ時間と場所でも決めようよ」
「それならメールで充分だろう」
「もしかして、歓迎されてない、かな?」
「当然だ。だいたい、なぜここが…」
「空港でキミを見かけたから、ちょっと追ってみた。けっこう神経遣ったよ、鉢合わせすると面倒な連中も歩いてたし。短時間とはいえ、見通しのいいところでキミにも彼らにも気付かれずに尾けるのは骨が折れる」
他人の行き先を探る他に神経と時間の使い道はなかったのか、と悪態を吐きかけてやめた。代わりに男の言葉を拾って訊き返す。
「鉢合わせすると面倒な連中?」
「そう。今日集合って伝言を受けててね。黙ってすっぽかしたら制裁かも、なんて物騒なことをちらつかせる子がいたもんで、とりあえず顔だけ出してから戻ってきた。運がよければキミに会えるかもしれないと思って。どうやら運がよかったらしい」
制裁がどうこう、というところだけ男は心底面倒臭そうな、それでいて楽しそうな表情になった。話の後半はあやふやにしか聞こえてこない。血がざわつくのが判る。暴走してしまいそうな感情を制御するために、深く呼吸した。ゆっくりと言葉を押し出す。
「つまり、蜘蛛はすでにこの街に?」
「勢揃いだよ」
男の話の流れからすると、空港からここに来るまでの間に幻影旅団のメンバーとニアミスしていたことになる。一体どこで? 見通しのいいところに限ったとしても、車窓を過ぎていった人影はそれを特定できるほどの数ではなかった。
「…ヤツらはどこにいる?」
「訊いてどうする気? 前情報もなしに飛び込んで、生きて帰れるとでも?」
「死ぬ気などない」
私の一言にわざとらしく瞠目した後で、男は苦笑を見せる。
「ボクが教えなくても、いずれメンバーの誰かと会うことになるのに」
「そう断言する根拠は?」
失われていく冷静さを自覚していた。自分の声が険を増してきている。
「根拠というより、確率の問題。それにしても、キミがマフィアの護衛だなんてね。随分な仕事を選んだものだと思ったけど、非合法のオークションに潜り込むには最適だ」
差し障りのない雑談めかしてはいるが、どことなく不自然な運びになんらかの示唆を感じた。暗闇に散る火花のような閃きが頭の隅を照らす。私とヤツらの狙いどころに重複する部分がある、という直感だ。ヤツらがマフィアの仕切る地下競売に一枚噛んでいる、もしくはこれから接触しようとしている? 小さな火花が照らし出すことができたのはそこまでだった。消えかけの光を追って手を伸ばしたところで、
「時間、作ってもらえるかな」
男の声に邪魔をされた。もう少しでなにかが繋がりそうだったのに、あっという間に埋もれてしまった。
「仕事中だ。時間は当日作る」
やり場のない焦燥感を持て余し、捨て鉢な気分になった。さらに詳しい情報があるのならすぐにでも欲しい。そんな本音を組織内での私の立場が妨げる。二兎は追えない。
「今がいいんだ」
男が言ったとき、服の中で携帯が鳴った。戻りが遅いことを咎めるための連絡に違いない。眉を軽く上げて通話を促す男から目を逸らして携帯を取り出し、液晶画面に視線を落とした私は、弾かれたように視線を戻した。男が自分の顔の前で人差し指を上に向けて伸ばしている。その指先では当人のものと思しき携帯がディスプレイを発光させながら、微妙なバランスを保って揺れていた。私の手の中で耳障りな電子音を垂れ流しているのは、まさにその携帯からの着信だった。

ふざけた真似を。即座に終了ボタンを押し、強制的に受信を切断して男を睨み上げる。瞬間、携帯が私の手を擦り抜けて男の手中に収まった。油断した。おそらく、あの接着剤じみた能力の仕業だ。
「勝手な行動が許されるポジションじゃないんだろ? 上の人間がNOと言ったら諦めてあげるよ」
こともなげに言う男のそれぞれの手に操られて、二つの携帯が奇妙な動きを見せる。垂直に立てた人差し指の頂点でくるくると回転し始める男の携帯。もう一方の手から水平に伸びた人差し指の先では、私の携帯がテグスで吊られた振り子のように左右に踊っていた。
「返せ」
言いながら"凝"で男の手許を見ると、水平な指と私の携帯の間に紐状に伸びたオーラが確認できた。回転している方は念能力とは無縁の手遊びだった。苦々しい思いで自分の携帯を取り返すタイミングを計っているところに、男がオーラをまとった手を差し出した。反射的にそこからぶら下がる携帯を掴み取る。同時に、携帯を取り戻した手が男の大きな掌に吸い寄せられた。策に嵌まったことを知った私は、男の手を解こうと力を入れて自分の腕を大きく振る。だが、携帯ごと甲側から握られた手の重さが変わることはなかった。
その力が自分にまで及ぶ可能性は充分にあったというのに、念能力で弄ぶ携帯の陰に張られた網を見抜けなかった。慎重を欠いたことを後悔する間もなく重ねられた手が引かれ、またも男に背中から抱えられる体勢になった。
「私用の時間の都合がつくかどうか、訊くだけ訊いてみてくれないか? つまらない小細工はなしでね」
「離れろ。貴様が念を解けば済むことだ」
言いながら男の腕から逃れようとさまざまな方向へ身体を捩るが、携帯を握る右手はもちろんのこと、抱えられた身体を引き剥がすことすらできない。しばらく足掻くうちに、私の抗いなどものともしなかった男が不意にその腕に力を込めた。
「一度くらいは大目に見てもらえるのかい、無断で職務放棄っていうのは?」
身体の動きを止められた私の耳許で、今までよりもわずかに低くなった声がそう囁く。自分の肩越しに男を振り返ると、優位を確信している笑みが間近にあった。この男は、なにをすれば相手が折れざるを得なくなるのかを瞬時に弾き出すことに長けている。私に向けて男が弾き出したそれは、高い即効性を持ち、一族の誇りを守るためにしまい込んだ私自身の自尊心の殻にひびを入れるような陰湿さをも兼ね備えていた。
「脅しのつもりか?」
「そう聞こえた?」
「他に取りようがない」
欠片ほども思い入れを感じない組織だが、どんな汚れ仕事に手を染めることになろうとも留まり続けなければならなかった。任務外の不始末などで除名されては同胞の眼の行方を辿れなくなってしまう。現時点では、私が人体蒐集家のネットワークを探る糸口はここしかないのだ。
「ひどいな、交渉のつもりだったのに」
男は私を抱えたまま、大仰に傷ついたような顔をしてみせる。まったく以って白々しい。取り合う気も起きず、私は男に向けていた目を携帯へと移した。自分の手に絡みつく男の指が目障りなことこのうえない。舌打ちや溜息の類を噛み殺し、すでに登録してあるリーダーの番号を呼び出した。通話ボタンにかけた指を沈める。
探信音を発し始めた携帯を耳へと運ぶと、男の顔が私の頬と肩の間に入り込んできた。今この姿を他人に見られたら十中八九、間柄を誤解される。頬に感じる男の体温から逃れたくて、可能な範囲で首を反らした。
「寄るな」
「小細工はなし、って言ったろ? 話の内容、聞かせてもらうよ」
そう返した言葉とはなんの脈絡もなく、男は私を抱える腕の先を上着の裾から忍び込ませてきた。掴み上げるようにシャツの上から乳房をなぞられ、ぞわりと身の毛がよだつ。いまさら気付いた。蜘蛛の話をするために時間を作らされているわけではないと。自分の鈍さに呆れ果てる。
「やめ…っ」
言い切らないうちに探信音が途切れ、
「遅い。なにをしている?」
リーダーの苛ついた声が耳に飛び込んできた。
「すみません。偶然知人に会…って」
私が話し始めた途端、男が乳房の頂点に爪を立てた。その指が動き出して、声が上ずりそうになる。息を殺していないと堪えられない。あまりの鬱陶しさに膝を上げ、男のつま先に靴の踵を打ち下ろす。すんでのところで躱された。ますます鬱陶しい。
「…今から時間を取れるか聞…かれてい…るのですが」
そこまで言ったところで受話口から小さな溜息が聞こえた。
「一時間程度で戻れ」
数秒の沈黙に続いて届いたのは、予想から大きく離れた答えだった。一分以内に戻れ、の聞き間違いとさえ思った。大声で叱責されることを考えて携帯を耳から離す準備までしていた私は、背中に張りついた男の身体が笑いで揺れるのを感じながら辛うじて言葉を繋ぐ。
「いえ、断れないわけでは…」
「そういう偶然は大事にしろ。次はいつ会えるか判らんぞ? とりあえず荷物は片付いたが、こっちはまだ全員ボスと同じ部屋にいる。心配するな、お前一人いなくても不都合はない」
「しかし…!」
絶望的な結論を残し、通話は途絶えた。電波に乗り損ねた私の最後の声は、虚しく通話口に消える。室内にいるならば、新人が小一時間抜けたところで大した問題にはならないのだろう。そもそもが新規採用の四人で前任者一人分の計算だった。なによりも意外なのは、その人情味あふれる寛容な判断だ。こういうときこそ「近づく者すべてが敵だ」という台詞を使うべきではないのか。

「なかなか理解のある人だね」
呆然とする私を男の声が正気づかせる。いつの間にか上着の中の手は這い回るのをやめ、腰の辺りで静止していた。それでも触れられていることに変わりはなく、私は改めて身を捩る。やはり、というのも癪だが、男の腕からは逃れられなかった。
「ところでキミ、操作系?」
私の抵抗など気にもせずそう訊いた男は、携帯を握る手を支配する側の指先に鎖の一本を絡め、矯めつ眇めつ眺めている。迂闊だった。いや、時機に恵まれなかったとすべきか。最初に男が現れたのが正面からであれば、具現化を解いておけたのに。いずれ能力を知られるときがくるだろうが、今はまだ早い。だいいち、この男は蜘蛛だ。信用に値するか否かすら固まらない。
「変化系に見えるか?」
私の投げやりな言葉を受け、
「そこ、笑うところかい? …ああ、そうか」
訝るような顔で訊き返した男は、ふと納得したような面持ちになって何度か軽くうなずいた。
「具現化系って線があったね。前に会ったときは鎖なんてなかったけど、それでもキミはこの手でなにかしようとしてた」
脳裏に再生されかけた、思い出したくもない一夜を振り払う。鎖を消す機会に見放された私の右手を基に、ここまで推測を構築する男が忌々しい。推測でなければ、すでに見破っていながら敢えて言わずにいるだけか。私の鎖は"凝"にかかれば実体としてのごまかしは利かなくなる代物だ。眩暈を感じて眉間を指先で押さえた私は、つかのま目を閉じた。この男と話していると、なにを確定事項として処理していけばいいのか判らなくなる。
まぶたを上げようとした刹那、両膝の裏に衝撃を受けた。その唐突さに驚き、どうやら蹴られたらしいと覚ったときには、支えを失った腰が沈んでいた。もう立て直せない。その場に膝をついた直後、だめ押しのように階下に向けて背中を強く突かれた。男に掴まれた右手だけを残して、膝から上が重力に引き込まれる。
眼前に迫り来る下り階段は、薄闇から戻したばかりの視覚に広く深い洞窟の竪穴に息づく鍾乳石群を錯覚させた。心の準備もないまま、急速に頭の位置が足よりも低くなる恐怖に心臓が収縮する。
転倒に際しては、誰もが顔や頭を守るため無意識に手を下へ向けて突き出す。例外に洩れず伸ばした私の左手は数段下の角に叩きつけられた。体重を受け止めきれずにもう一段滑り落ち、掌底から手首にかけて鈍い痺れが巡る。最上段の角らしきところに打ち当たった下腹が痛む。それと同時に右の手首と腕の付け根にまた別の、引き抜かれるような痛みが走った。
「今みたいなときには使わないんだ、その鎖?」
上から落とされた声の元を振り仰いだ。掴んでいる私の手を引っ張り上げるでもなく、薄笑いさえ浮かべて男はただ突っ立っている。悔しいが、このままでは自力で立ち上がることができない。吊られたこの右腕を男がどう扱うかによって、対処法が変わってくるからだ。男が手を離した結果、階下へ転落するのは構わない。そのくらいで怪我をするほど愚鈍ではない。危惧しているのは、そのとき必ず生まれる隙に男がなにか仕掛けてくる可能性だった。護衛の任を解かれるような損傷を受けないと言い切れるか。私は、この男を信頼していない。
「なにをする気だ?」
感情の波を見透かされないよう声を抑える。私の能力を知るために突き飛ばしたわけではあるまい。その先に、間違いなく他の目的がある。
「訊くなよ、そんなこと」
男の靴の先が、腰にまとった私の外着を大きく捲った。抗議する間も与えられず、例の能力で腰を浮き上げさせられた。屈辱的な姿勢に目許が引き攣る。掴んだ手を放さずにゆっくりと床に膝を落とした男は突如、私の下肢の衣類をすべて引き下ろした。予感が的中した瞬間、沸点に達した怒りに言葉もなく男を睨む。が、その視線は冷たく凪いだ瞳に吸い込まれていった。
「ずっと欲情してたんだ。彼らがこの街にいることを約束の日以前に教えた対価を受け取る権利はあると思うけど?」
持ち上げた口の端に欲望を滲ませた男は、私の眼を見つめたまま性器の亀裂を指でなぞる。この行為へと続く刺激を事前に与えられていた身体は、あっけなく男の指先を受け入れた。そこから伝わる感覚に退けられて、私は男を睨み続けることができなくなる。
「触るな…」
「どうして?」
亀裂の内側に沈めた指を緩慢に抜き差しする男は、本気で疑問に思っているような訊き方をする。
「対…価の求めどころ…が、間違…っている」
「間違ってる? こんなに欲しがってるのに?」
その言葉で、指を抜こうと狼狽え惑う腰の動きさえもが男の目を楽しませていることに思い当たった。男は続ける。
「他にボクを満足させられるものなんか持ってたっけ?」
胸の中でなにかが弾けた。本当だ。なにも持っていない。切り札になり得るカードなど一枚もない。なにも持っていないことが強みだと思っていた。なにも持っていないことを利用する相手がいるということを知らなかったわけではないのに。唇がわずかに痙攣し、自分が笑い出しそうになっているのだと気付く。

唇を引き結んで、口許の震えを抑え込んだ。あの夜が戻ってくる。強制的に植えつけられる形容し難い感覚にまた全身を苛まれるのを覚悟した私は、感情を遮断した。それを妨害するかのように男が問う。
「彼はベッドでしかしないのかい? 後ろからされたことがないわけじゃないだろ?」
少しだけ強引だった彼との、少しだけ甘やかだった時間が胸をよぎった。彼は、貴様のような異常性欲者とは違う。厚い壁を築いた心の中で罵ってやる。無音の罵声が伝わるはずもない。だが、男は私の沈黙に答えを見出したようだった。
「…いいね、そういうの。めちゃくちゃにしたくなる」
そう言った男を無表情に見やると、薄い唇の描く弧が深くなっていた。濡れた性器から指を引き抜いた男は自分の服を軽く乱し、その手で私の腰を強く掴む。身を竦ませる間もなく、凶暴で圧倒的な質量を持った男の性器が腹の奥に押し込まれた。男の形に拡げられた器官の最も深いところを先端に打ち当てられて、私は短く呻く。頭の芯にまで届く余波を防ぐ術はなかった。波紋を残したまま内壁が外側へと引きずられ、再び詰め入れられる。
くれてやる。身体など、所詮はただ血や骨肉を詰め込んだだけの皮袋だ。やがて朽ちゆくものならば、穢れることに意味はない。胸の内でそう嘯くそばから本音が染み出して零れる。
彼 で な け れ ば、 嫌 だ。
焚きつけられたように手先を掴まれた右腕を乱暴に振り回した。どうせ離れはしないと判ってはいても、芥子粒ほどの僥倖が訪れて男の能力を擦り抜けられるかもしれないという淡い期待があったのだろう。
腕を動かしていられたのは、ほんの短い時間だけだった。激しい痛みとともに上腕の筋が妙な方向に引っ張られ、上半身が浮き上がる。喉から濁った悲鳴が絞り出され、四方を囲むコンクリートに反響した。
「諦めが悪いな。お互い、楽しまないと」
不気味なほど穏やかな声音が、逆らう気力を萎えさせた。荒くなった自分の呼吸音が耳に煩わしい。獲物が動かなくなったと知るや、男は背中で捻り上げた私の腕を戻しもせず、行為を再開した。欲に固まったその器官で粘膜を抉っては掻き出し、否応なく快楽を擦り込んでくる。
接触することすら回避したい相手に、こんな場所で、こんな体勢で、必要な部位のみを露出させられて結合を強いられる恥辱に蝕まれながら、手にしていたはずの携帯はどこへいったのだろう、とぼんやり考える。腕の痛みに震える手は全ての指を歪ませて宙を握っていた。男に突き落とされたときか。逃れようと腕を振り回したときか。それとも、こうして腕を捻られたときだろうか。
そうしている間も、男の性器は私の身体の奥を容赦なく穿ち責める。腰を叩きつけられる衝撃で肺から押し出される空気は、喉許で聞きたくもない喘ぎに変わった。抑えようとしても叶わない。突かれる度に抗い難い悦楽が蓄積されていく。侵食され、追い詰められる。
「イキそうなのかい? 今のキミ、すごくイイよ?」
鼓膜に滑り込む、吐息まじりの男の声。言われていることが理解できない。自分の身体がどうなろうとしているのかも、男が私のなにを「いい」としているのかも。周囲に満ち溢れているはずの空気が足りなくて、私はただ懸命に息を吸い込もうとしていた。だが、どんなに吸い込んでも、身体の中に我が物顔で居座る快楽はすぐにそれを外に追いやってしまう。
腰を掴んでいた男の手が肌を這い上がり、下着を捲り上げて乳房を覆った。二本の指がその頂点を摘んで転がす。乳房の皮膚の裏を線虫が蠢くような怖気と、性器のごく浅い部分で膨らみ続ける尿意にも似たもどかしさが一瞬にして混ざり合い、爆ぜた。
「ひ…ぃうぁああっ」
喉を競り上がって溢れた一際大きな声に自分で驚くより早く、男の掌が開いた唇を押しつぶした。その直前に、締め上げられていた右腕が自由を取り戻したが、いまさらどうしようもない。歯が折れるのではないかと思うほどの力で私の口を塞ぐ男は、胸の突起を嬲る手を休めずに言い放つ。
「ダメじゃないか、そんな大きな声出しちゃ」
声を上げることで解放されるはずのものが行き場を失い、身体の中で暴れ狂った。出口を封じられてもなお、くぐもった声がかすかに洩れる。内側から動かされるように激しく身を捩った。それでも沈静するどころかさらに増幅された快楽は、とうとう私の忍耐を越えた。脊髄を直接撫でられたかのように背筋が伸び、首が反り返った。腰の辺りから沸き上がった震えが頭の先へと抜ける。同時に身体中の力が失せていくのを感じた。
そのまま眼を閉じて眠ってしまいたくなる。と、口許と左の乳房が大きな掌の中でひしゃげ、自重に任せて落ちかけた頭や上体が強引に元の姿勢に戻された。
「しっかりしてくれよ? 悪いけど、ボクはまだ終わってないんだ」
そしてまた、私は揺さぶられる。ここまで体力を消耗するようなことは、なにもしていないはずだ。こんなにも疲弊しているのに、摘み上げられた突起と擦られ続ける下腹の裏は、その感覚を鮮明に脳に伝える。もう、小刻みに震えるこの身体を自分のものだと断じる自信がない。

男の動きが早くなる。私の尻に激しく腰を打ちつける音は、男が息を詰めて強く送り出したのを最後に止まった。震え続ける自分の腰の内側で男の性器が脈打つように小さく跳ねているのが判った。男は溜め込んでいた息を唇の間から吐き出し、私の耳許の髪を揺らす。
「すごいね、まだナカが痙攣してる」
私の中に留めたまま男は私を抱え、膝立ちの姿勢から最上段に座り直した。男の両腿を跨ぐように座らされた私はすぐさま立ち上がろうとしたが、脚がいうことを利かなかった。だらしなく開いた膝を合わせることもできずに崩れ、背中で男の肩に寄りかかる形になる。臍のやや下、その裏に宿った疼きがいつまで経っても治まらない。身体が重い。紗がかかったように霞む頭が、ある可能性に考え当たった。男を振り返る。その動作が自分で思うよりも緩慢で腹立たしい。視界に入った男の顔が、誤って口づけてしまいそうなほどの距離にあったことも。
「私の身体に、なにかしたか?」
「なにかってクスリ、とか? 別になにも。そんなの使っても面白くないし」
言葉を濁して探った可能性を言い当ててから鼻先で笑い飛ばし、男はあっさりと否定した。
「前に言わなかったっけ、ボクらは身体が合うって。そうじゃなきゃ、覚えたばかりのキミが簡単にイクわけがない」
私の下腹に触れた男の手が、まだ中にある自分の性器を握るように肌に指を沈めた。途端にその場所が熱くなり、小さな悲鳴を上げた私の身体は勝手にびくつく。なにかの間違いだ。それは、身体がこの男に屈服したことを意味する。いや、屈服ですらない。私の意思に背き、よりにもよってこの男に懐いたのだ。
「他の相手とはどうだったかなんて訊かないよ。どんなに惹かれ合っていても、身体の相性が抜群だとは限らないからね」
男の「他の相手」という言葉に、反射的に利き腕が上がる。それが誰を指すのかは明らかだった。肩の高さに掲げた肘を支点に、握った拳の裏を後ろに振り抜く。直後に響いた打擲音と手の甲に受けた質感が、狙いを外したことを知らせた。
「まともに食らったら痛そうだけど、殴るために使う鎖でもなさそうだ」
顔面を直撃するはずだった拳は、男の手に受け止められていた。その手がじりじりと私の拳を押し返し、やがてあごの下に入って止まる。男の手を通して自分で自分の顔を上向けさせられた。近づいてくる切れ長の目の輪郭があやふやになったかと思うと、唇に薄い皮膚が触れ、口腔が男の舌に占拠される。舌を絡め取られる息苦しさはわずかな時間で、男はすぐに顔を離した。頭の後ろに感じた軽い痺れが消えていく。
「もう一度したいのかい? ボクを入れたまま、こんな煽るような真似して」
口角の片側だけを上げた不遜な笑みで繰り出した言葉に、反発する意気を殺がれた。激昂しているのに言葉にも行動にも表せない。完全に遊ばれているという無力感だけが残った。
「ボクは構わないけど、そろそろ時間切れかな。あれでも一応、手加減したつもりだったんだ。キミは仕事中だし。…それに」
男がつかのま言葉を淀ませる。
「あんな乱れ方するとは思わなかったしね。ボクを殴ろうとするくらいだから、もう動けるんだろ?」
余裕に満ちた声は、羽毛の山の上から捻じ伏せるような追い討ちだった。私はその顔を一瞥し、黙って男の手を振り払う。まだ全身が休息を要求していたが、構わず膝の力だけを使って立ち上がる。ここで背後の身体を支えにすることは、自尊心が許さない。
脚の間から男の性器が抜けるとき、わずかに体内の温度を奪われる感覚に襲われた。乱された着衣を元に戻しながら、最上段までの段差を一跨ぎにして男の後ろに回る。と、服の中でメールの着信音が響いた。いつの間にか手放してしまった携帯が都合よくこんなところに収まるはずもない。この男か。少しだけ首を回して、まだ座ったままの後姿を見下ろした。
「当日の時間と場所。メールで充分だと言ったのはキミだよ」
その気配を察知したらしい男は小さくこちらを振り返り、自分の携帯を私の方へとかざしてみせた。男の眼を見たくはなかった。視線がぶつかり合う前に私は非常扉のノブを引き、そこに生まれた隙間へと身を滑り込ませる。
「目を通して不都合があるようだったら、連絡してくれればいい」
男の言葉の最後は、扉の閉まる音に重なって立ち消えた。
この手が蜘蛛に届きかけている。忘れるところだった。なぜ、失われた多くの生命の上に自分が生かされているのかを。
扉の向こうの男に差し出すことでヤツらの命脈を断ち、同胞の遺恨を晴らすための道が拓けるというのなら、穢れのない身体などいらない。