せっかくヨークシン・シティに来てるのに、こんなんじゃ欲しいものもゆっくり選べない。ただでさえ、気付いたら病院のベッドの上、なんていうムダな時間を過ごしちゃったのに。
あれから、なんだか身体の調子が変わった気がする。いいとか悪いとかじゃなくて、なんか変わった。たとえば、眠っている間に、あってもなくてもいいような臓器が消えちゃってた、とか。…ちょっと違うな。うまく言えない。とにかく、なんとなく。
あの人、どこに行っちゃったのかな。オークションに参加証が必要だなんて知らなくて、検問通れずに途方に暮れてたあたしの前に、突然運転手つきのクルマで現れた人。あの人の参加証で検問をパスして、セメタリービルに入ることができた。夜景がキレイなラウンジでお茶して、占ってあげて。別れ際に、また会う約束なんか切り出されたら…って考えちゃったくらい、いい感じだった。と、思ったんだけど。
目を覚ました後で、みんなにあの人の行方を聞いてみた。でも、あたしのために救急車を呼んでくれたらしいって又聞き情報以上のことは、誰も知らなかった。連絡先くらい、交換しとけばよかった。後悔しても、もう遅い。
それはさておき。いい加減あきらめて、別のところを探しに行こうよ、みんな。買い物くらい、自由にさせて欲しい。こうして逃げ隠れしてる時間もムダなんだってば。色とりどりのキャミがぶら下がった商品棚の陰にしゃがみ込んだまま、一生懸命あたしを捕まえようとしてる護衛の人たちに向かって、べぇっと舌を出した。まったくもう、どこから見てもマフィアです、みたいな顔した人たちに年中くっつかれてたら息がつまる。それに、ずっと守られてなきゃいけないほど子どもじゃない。と、いきなり、
「勝手に抜け出されては困ります」
頭の上から冷たい声が降ってきた。急のことに驚いて、びくっと肩が動く。おそるおそる顔を上げると、愛想のない目があたしを見下ろしていた。
「あ」
いつの間に。どこから近づいてきたんだろう。オークションハウスでの強盗騒ぎで死んじゃったっぽいダルツォルネさんの代わりに、護衛のリーダーになったあの子だった。名前、なんていったっけ? 年齢はあたしと同じか、少し下くらいだと思う。笑った顔を見たことないせいか、なんとなく怖いイメージがあって、ちょっと苦手。
キレイな顔してるから、会って間もない頃にそれをそのまま本人に伝えたことがある。ほめたつもりだったのに、なんだか複雑そうな表情をされて終わってしまった。どうやら男の子だったらしい。もったいないと思いながら、ヒマなときにアタマの中であの子の目元にアイラインを入れたり、唇にピンクのグロスを乗せたりして遊んでるのは内緒だ。
それにしても、堂々と女性下着売り場にまで入ってきて顔色一つ変えないなんて。かわいくない。通用するかどうか分かんないけど、相手は男の子だし、イチかバチかでとっておきの上目づかいと甘えた声を作ってみる。
「ここと化粧品だけちょーっと見たらすぐ戻るから、見逃して! ねっ!?」
「ダメです」
うわ、即答。でも、めげない。
「ちょっとだけって言ってるじゃん。ここ、ただのショッピングモールだよ? 人もいっぱいいるし、危なくなんかないでしょ!?」
「これが我々の仕事なんです。それに、人が多いから危険な場合もあります」
融通きかなすぎ。ほっぺをふくらませて、そっぽを向いた。きっとこういうのをケンもホロロっていうんだ。アタマにきた。後悔させてやる。立ち上がって大きく息を吸いこみ、いちばん近くにいた店員さんに声をかけた。
「すみませ〜ん! この子のブラのサイズ測ってあげてくださ〜い!」
ちらっと盗み見たあの子は、大きな目をもっと大きくして固まっている。
「な…っ!」
その声をわざと無視して、近づいてきた店員さんに早口で頼んだ。
「この子、おとなしめのしか持ってないから、すっごくセクシーに黒とか…ううん、姫系で何点かそろえてあげて!」
見た感じ、押しの強そうな人っぽいから、しばらくはこの子を引き留めといてくれるだろう。男のくせに照れもなく女性下着売り場にくるような子は、トラウマになるほど恥をかけばいい。早くも店員さんにいろいろ質問され始めてるその子に、
「じゃ、あたしバイト遅刻しちゃうから!」
おざなりに手を振りながら走り出した。
「お嬢様っ!」
後ろから声が聞こえたけど、振り返らない。やめてよ、わざわざバイトって言ってんのに「お嬢様」なんて呼ぶの。でも、まぁ「ボス」って言われなかっただけ、マシではあるけど。


エスカレーター、階段、エレベーターをこまごまと使い分けて、従業員用の出入り口からショッピングモールを出た。表通りを使ったらすぐに見つかっちゃいそうで、誰かが追いかけてきてないかと後ろを気にしながらビルとビルの間のせまい路地を小走りに進む。この路地を出たら、どっちに進めば行きたいショップに近づけるんだっけ。とりあえず左に曲がろう、と決めた矢先、中途半端に柔らかいものに頭からぶつかった。
「きゃ…っ」
驚いて一歩下がるのと同時に、
「どこ見て歩いてやがるんだっ!?」
男の人の声で怒鳴られた。
「ごめんなさ…」
顔を向けた先に、黒いスーツを着た、パパと同じ…パパの方が全然いいけど、そんな雰囲気のあるおじさんが三人、あたしの前に立ちふさがっていた。さっきまで誰もなかったのに、なんでまた、こんなせまいところに三人も集まっちゃってんのよ? という文句は、心の中だけにしておこう。
「お、ノストラードんとこの娘じゃねぇか?」
あたしの顔をじろじろと見た後でそう言った、デブ・ハゲ・チビと三拍子そろったおじさんには見覚えがある。ゼンジって呼ばれてた気がするけど、もしかしたらサンジだったかも。あたしのいるところではあんまり仕事の話をしないパパが、この人のことをなんとなく嫌ってることは知ってる。どこかにぶつけでもしたのか、鼻に大きなガーゼを貼りつけてて、なんかマヌケだ。
「へぇ、自分の娘の作文をシノギにしてるたぁ聞いてたが、このお嬢ちゃんがねぇ。なにしてんだい、こんなところで?」
三拍子の横にいたヒゲのおじさんが顔を近づけてきて、あたしはまた一歩下がる。作文じゃないし。ちょっと…いや、かなりイヤな感じ。逃げた方がよさそう。もう一歩下がろうとしたとき、おじさんたちの視線があたしを透かすように路地の奥に向かった。
「てめえ…」
三拍子の声につられて振り向く前に、腕が後ろに引っ張られて目の前が青くなった。キレイな青色をした、あんまりオシャレとは言えない服の背中。気付けば、下着売り場の店員さんに押しつけてきたはずのあの子にかばわれていた。あたしは青い服の生地をぎゅっと掴んで、その陰からそっとおじさんたちの様子をうかがう。そうしながら思った。けっこう広く見えていた背中は、この服のラインにごまかされていただけだったんだ、って。
「通れない。どいてくれ」
なにを考えてるのか分からない、抑えた声が、いつもにまして怖い。言われた三拍子の顔が歪んだ。と思ったら、ゆっくりと気持ち悪い笑顔へと変わっていく。このふたり、なんだか因縁あり?
「ホントに占い女のケツにひっついてんだなぁ、おい」
う、占い女って言った!? なに、その呼び方。むかつく。
「どいてくれと言っている」
三拍子の言葉なんか聞こえなかったように、青い背中がまた同じことを言った。そうそう、早くどいて。もう一度この子をまいて自由にショップめぐりしたいんだから。気持ちだけ加勢したとき、なにかもこもこしたものが突然あたしの足元をかすめた。見ると、大きなネズミが走り去っていくところだった。もこもこ…ウソでしょ!? あたし、ナマ足にサンダルなのにぃ!
「ひゃあああっ!」
あたしは悲鳴を上げて、その場で猛スピードの足踏みをした。…つもりだった。
「おっと」
あの子とは違う声に顔を上げると、昔からあるおじさん御用達整髪料…ワックスみたいな…なんだっけ? えっと、そう、ポマード。それで髪を後ろに流して固めたおじさんに両肩をつかまれていた。あたしのバカ。前に進んだら、足踏みっていわない。あわててあの子の方に逃げ帰ろうとした途端、ポマードの腕があたしの首にかかった。あの子が、こわばった顔に信じられないって表情を浮かべてあたしを見つめている。だよね、あたしも信じらんない。わざとじゃない、ってアピールも込めて、ポマードを振り返りながら大きな声を出した。
「離してよ!」
「自分から飛びこんできて、そりゃあないでしょ」
ポマードがバカにする調子で眉を下げた。いい年齢して、軽いしゃべり方。イラっとくる。あたしだって、さっきのがハムスターやモルモットなら逃げ出したりしない。
「来たくて来たんじゃないわよ! パパに言いつけてやるっ!」
その瞬間、黒スーツトリオが大きな口を開けて笑い出した。なんなのよ? 面白いことなんか、なにも言ってない。くやしさで顔が熱くなる。
「彼女を、こちらへ」
アタマの悪そうな爆笑なんかより全然静かな声だったのに、それははっきりとあたしの耳に届いた。トリオにもちゃんと聞こえてたようで、しつこい笑い声は口の前にシャッターを降ろされたみたいに止まった。
「あぁっ?」
あごを引いて、上げて。そんなもの一本もないくせに、三拍子が首を振って顔にかかる髪を払うような仕草であの子を威嚇する。
「ボディガードの分際で命令すんじゃねぇ」
別に命令はしてないと思うけど。それに、ボディガードなら当然のセリフでしょ、とも思う。でも、空気を読んで言葉にはしないことにした。せっかくの威嚇も、あの子にはまったく効果なしっぽいし。
「これが仕事だ」
あたしも聞かされたセリフであっさり言い返された後は、無言のにらみ合いになる。二人がそうしているうちに、ポマードがあたしの首ごと腕を後ろに引いた。喉がつまる。緩めようと足を後ろに踏み出す。また首が締まる。だから後ろへ。そんなふうにだんだんと引きずられて、路地の出口の方へ連れて行かれた。あの子との距離が開いていく。
それなりに人通りの多い道に続いてるはずだから、もう少ししたら大声を出してみよう。そう思ったとき、ポマードが口を開いた。
「なんか、時間かかりそうだわ。そっちの道、見張っててくんない? 他人事に首突っ込みたがる素人さんがいると困るから」
「分かった。お嬢ちゃんが変な気起こしたら、絞め落としちまえ」
見張りを頼まれたヒゲは、ぼそっと残してあたしたちの後ろへ回る。黙ってポマードに首を抱えられているしかないみたいだ。ふと気付くと、あたしの肩の上からポマードの視線がキャミワンピと胸元の間に落ちていた。
「なに見てんのよ?」
目だけで見上げて、にやついた視線をけん制する。かわいいと思ったから着てるんであって、そこからヘンなことを想像するおじさんに見せるために着てるんじゃない。
「んん? 最近の子ってのは、細っこいわりに発育がいいなぁ、ってね。おじさん、商売柄いろんな女の子見るから気になっちゃってさ」
「やめとけ、占い女に下手なマネして表沙汰になったらこっちがヤバい。それよりオレは、あいつに痛い目を見せてやらねぇと気が済まねぇんだ」
ポマードの声が聞こえてたらしい。あの子の様子を気にしながらこっちにやって来た三拍子が話をさえぎった。谷間をのぞくのをやめさせたことにだけは、お礼を言ってあげてもいい。
「あれぇ? お前の鼻へし折ったの、もしかしてあいつだったり?」
「なんだ、まだガキじゃねぇか」
あたしへの興味を失ったっぽいポマードがヒゲと顔を見合わせて笑うと、三拍子は顔を真っ赤にして怒鳴る。
「不意打ちじゃなけりゃあ、あんなガキ、オレの相手じゃねぇ!」
ふーん、鼻をどこかにぶつけてケガしたからガーゼつけてるわけじゃないんだ。ムキになってるあたりでもう、あの子との力の差を認めちゃってる気がするんだけど。っていうか、あの子、三拍子がこっちに来ちゃってから全然動かないし、しゃべらない。あたしが自分の首を心配してる間に、なにかあったみたいだ。早くなんとかして欲しいのに。
黒スーツトリオの会話がイヤでも耳に入ってくる。
「お前んとこの箱、ちょっと貸せ。この業界から足を洗いたくなるような目をみせてやる」
「別にいいけど。汚さないならね」
「エゲツねぇこと考えるなぁ、お前も」
三拍子がポマードに提案した話に、ヒゲがうんざりしている。それでも、路地の出口にちらちら目をやるのは忘れていない。
「自分だって好きでしょ、エゲツないこと。…あー、オレオレ。ちょっとクルマ回せ。駅の裏っ側にゼンジ立たせとくからさ、拾ってナビってもらいな」
ポマードがヒゲに苦笑しながらケータイを出して、誰かに連絡し始めた。三拍子が目を剥く。
「あぁ? なんでオレだよ?」
「オレんとこでなんかしようってんだから、少しは働きなよ。どうせタダで使う気だろ、安いもんじゃない」
「ちっ、分かったよ。駅の裏な」
あたしが通ってきて、あの子が追いかけてきた路地の入り口が駅の裏の方向になるらしい。舌打ちして歩き出した三拍子があの子へと向かっていく。トリオのひとりが欠けた。ポマードを振り切ってあの子のところへ戻るなら、三拍子がこの路地を抜けた後だ。あたしに危害を加える気はなくて、鼻を折られた仕返しのために利用しようとしてるだけ。そう伝えれば、あの子はあたしを気にせずに黒スーツトリオと話をつけることができる。あたしはそのスキに逃げ出してお買い物。うん、一石二鳥じゃない。
よし、三拍子が消えたら決行だ、と心の中で気合を入れたとき、ポマードがあたしの首に回した腕に、軽く力を入れた。
「聞いてた話があっちに分かるようなマネはしないでね。狙いはあっちみたいだからお嬢様には手を出さないと思うけどさ、向こうにそれを知られちゃったら、こうして預かってる意味がなくなっちゃうでしょ」
にっこり笑って、釘を刺す。見透かされてた。ヒゲが続ける。
「どの程度ケンカ慣れしてんのか知らねぇが、こうして狭い裏道でお前さんを盾にしてる間はあのガキも動けねぇみてぇだからな」
三バカトリオだと思ってたけど、それなりにアタマを働かせてたらしい。あたしの護衛をしている人たちは銃を持ってない。ナイフくらいなら持ってるかもしれないけど、相手が遠いと役に立たないってことくらい、あたしでも分かる。あの子の右手にからんでいる鎖が武器だとしても、人が横に二人並んで通るのがやっとのこの路地じゃ確かに使えなそうだった。
こんな人たちの言うことなんか無視して、大きな声で今までの会話を暴露すればよかったのかもしれない。あたしになにかしたことが表沙汰になったら、困るのは黒スーツトリオなんだし。でも、怖くてできなかった。ポマードの腕はいつでもあたしの首を絞められる状態にある。それだけで、この場にへたり込んでしまいそうだったから。それに、護衛のリーダーをしてるあの子なら、あたしがなにもしなくてもうまく切り抜けられるはずだっていう甘えもあった。
あの子とすれ違うとき、三拍子はその耳に大きな丸い顔を寄せてなにか言った。ロクなことじゃないのは、簡単に想像がつく。あたしが見てなかったときにあの子が手も足も出せなくなるようなことを言うか、したか。きっと、そのダメ押しっぽいことだ。あの子は全然表情を変えないから、それがどんなことなのかさっぱり分からない。
三拍子が通り過ぎた後で、あの子は服の中からケータイを取り出した。ヒゲとポマードに緊張が走る。だけど、あの子がどこかの番号を呼び出すような操作をして耳に当て、話し始めた内容を聞くと、安心したように緊張を解いた。
「…私だ。…ああ、一緒にいる。無事だが、ちょっと面倒に巻き込まれた。少し遅くなると思う。ああ、問題ない」
どうやら護衛団の誰かと話してたらしい。でも、この状況、問題ないってことはないんじゃないかな。ううっ、あたしのショッピング計画…。
「帰還の事前報告か? 余裕だな、え?」
ヒゲが挑発する。さっきはマズいところに電話されるんじゃないかって思ってたに違いないのに。もちろん、あの子は動じない。ヒゲ、空回り。声には出さずにつぶやきながら、ほんの少しだけ首を回してポマードの後ろに立つヒゲをうかがうと、その目が異様にぎらぎらしていた。なに、この目つき。すっごくイヤ。


長く待たされた気もするし、たいして待たされなかった気もする。
「お、来た来た」
ヒゲの声にポマードがあたしの首ごと振り返った。いかにもな黒い大きな車が、路地の向こうの歩道ぎりぎりに寄せられている。運転席には、やせこけたネズミみたいな顔をした若い男の人が、似合わない黒のスーツを着て乗っていた。今日のアンラッキーアイテムはネズミ。絶対、そう。
ネズミ顔の横からはみ出す三拍子の大きい顔が、こっちを見た。視線をあの子がいる方向へ伸ばして、にやりと笑う。
「さて、行きますか」
ポマードの腕があたしの首を車の方へ持っていく。行きますか、じゃない。誘拐だから、これ。思わず足を踏ん張ったけど、ムダだった。ポマードはあたしが呼吸できるかどうかなんて気にもしないで、どんどん進む。そのうち腕にかみついてやろうと思ってたのに、スキなんか全然ないうえに、なかよしカップルにみせかけた密着っぷりで、結局あたしはポマードに抱えられて車に引っ張りこまれた。
「ほら、お前さんもだよ」
ヒゲがあごを使って、例のイヤな目つきであの子を呼ぶ。素直にしたがってこっちに歩いてくる顔は、不機嫌そうではあったけど、落ち着きはらっていた。黙ってあたしの隣に座る。と、急に窮屈になった。あの子を追いやるようにしてヒゲが乗り込んできている。ちょっと待った。後ろの席に四人って。
「…定員オーバー」
あの子はともかく、これ以上ポマードにくっつくのは気持ち悪い。イヤミったらしく聞こえるように、でも黒スーツトリオを逆上させない程度に小さく言ってやる。左右のドアに張りつくポマードとヒゲが小ばかにした笑い声を立てた。
「気にすんな、たいした距離じゃねぇ。それなりに握らせてあるから、オークション開催中は警察もオレらにうるさいこと言わねぇよ」
ヒゲが勝ち誇ったように言うのと同時に、クルマは動き始めた。
「申し訳ありません」
まっすぐ前に顔を向けていたあの子が、ほんの少し顔をうつむけて低くささやく。謝らないで。自覚してるから。なにかあってからでは遅いって、あなたはちゃんと忠告してくれてた。いちばん大きな原因を作ったのはあたしだ。
行きがかり上、こうなったからかもしれないし、バレて困るようなところには行かないのかもしれない。こういうときの定番アイテム、目隠しは出てこなかった。それでも、明らかににぎやかな街の中心からは離れていく。入り組んだ道を何度も曲がった。走るにつれて、立ち並ぶビルの見た目はどんどん薄汚れたものになる。
ヒゲが言ったとおり、目的地まではたいした距離じゃなかったようだ。クルマの中でかかっていたラジオ番組が少し古めの曲を二、三曲流し終えたところで、景色が動かなくなった。横付けされた車の窓の外に見えるのは…やっぱり薄汚れたビルだった。
「お二人様ご到着、っと」
ポマードが間延びした口調で言って車のドアを開ける。そのまま普通に降りるから、あたしはまた首を持っていかれて車から引きずり出された。あの子とヒゲは反対側から降りたらしい。ポマードがドアを閉めるのとは別に、ドアを開閉する音がした。それに重なって三拍子が鈍い動きでクルマを降りる。
目の前のビルを見上げて数える。五階建て。一階は階段と一台分の車庫だけだ。それぞれの階の窓には、カラーテープを貼って作ったへたくそな字で「エンジェル映像企画」だとか「人材派遣ビーナス」だとか、安っぽくて怪しさ全開の会社名が書いてある。商売柄、いろんな女の子を見る、って言ってたポマードの仕事を連想するのに、アタマを使う必要はなかった。
あたし、どうなっちゃうんだろ。あの子はなにもできなくなっちゃってるみたいだし。…泣きたい。と、思ったとき、首にからまっていたポマードの腕が離れた。
「はい、五階まで階段上がってって。このビル、エレベーターないから」
後ろにぴったりとついたポマードに背中を押されてビルの中へ足を一歩踏み入れた。これって帰れるチャンス!? 方向転換して、ポマードをかわして、走って。あたしが逃げれば、あの子も自由に動ける。あの子が動けるようになれば、黒スーツ軍団なんて。まずは方向転換だ。くるりと身体を半回転させた瞬間、
「あ、やっぱ逃げる?」
ポマードの声がして足が地面から浮いた。さっきまで首にかかっていた腕が、お腹をすくい上げるようにしてあたしの身体を持ち上げていた。お腹だけに体重がかかって息がつまる。
「離してあげたのは、階段せまくて急だから先に上ってね、って意味。逃げようとする子はみんなここがチャンスだと思うみたいでさ、逃げられる方も慣れちゃったよ」
なんて話を、ポマードの肩にかつぎ上げられた状態で聞いた。悪かったわね、十人並みの逃げ方しか思いつかなくて。階段を何段か上がったところであたしを降ろしたポマードは、
「分かったら、さっさと進んでくださいな」
犬でも追い払うようなしぐさで上に行け、って合図をした。仕方なく、足を順番に踏み出して階段を消化することにする。踊り場で折り返すときに下を見てみると、全員がアリの行列みたいにあたしの後ろをついてきていた。ポマードの後ろにあの子、ヒゲ、ネズミ、三拍子。デブはすぐバテるから、いちばん後ろじゃないとカッコつかないんだ、きっと。
黒スーツにはさまれた青い服がイヤでも目を引く。姿勢からしてガラの悪い黒スーツ軍団の中で背筋を伸ばして進むあの子は、アクション映画かなんかで悪徳刑務所に入れられた無実の囚人のようだった。
さびついた「5」のプレートが埋めこまれた階まで来て、ようやく足を休めることができた。ひざががくがくする。身体を動かすのは得意じゃない。階段の手すりにつかまって大きく息をするあたしの肩をポマードが、
「おっつかっれさん」
ぽんっと叩いてから、ひとつだけあるドアの横についた、電卓みたいな機械にいくつか数字を打ち込む。他の階のドアには、こんなのなかった気がする。ボロいビルなのに、ここだけやけにしっかりしてるのが気味悪い。
ぴっ、ていう音の後でドアが開けられた。ポマードに腕を引っ張られて中に入る。がらんとした部屋。真っ先に目に飛び込んできたのは、床の真ん中に広く敷かれた毛足の長い真っ赤なフェイクファーのラグだった。濃くて華やかなその赤が、今回のオークションでパパがプレゼントしてくれた「緋の眼」を思い出させる。初めて自分で参加しようと思って楽しみにしてたオークションだったのに、そんなときに限っていろいろ騒ぎが起こった。預かっててくれてたスクワラさんは殺されちゃったみたいで、せっかくゲットした「緋の眼」は結局どっかにいってしまった。レア物だったんだけどな。ま、そのうちまた出品されるだろうから、気長に待っていよう。
真っ赤なラグよりも、もっと違和感たっぷりのものがある。どうやって運びこんだんだか、部屋の奥には猛獣が飼えるんじゃないかと思うような大きな檻が置かれていた。あたしのものさしで見たとこ、だいたい百五十センチ四方、高さは二メートル近くありそうだ。そんな檻と真っ赤なラグの組み合わせに、身近にあってはいけないいやらしさを感じる。
「沈める前の女を預かって、売り物になるまでこの部屋でしつけてやるわけ」
ポマードは言いながら、あたしの背中を押して奥へと連れていく。このビルの窓に貼られた「映像企画」やら「人材派遣」やらへは、そういうことに抵抗のない子がおこづかい稼ぎに軽い気持ちで来るんだと思ってた。想像していたよりもヘビーな実態と、そんなところに連れてこられてしまったあたし。最悪だ。
檻の前で来て、ポマードがその扉を開けた。あ、イヤな予感。
「たまにどうしようもなく暴れるのがいるんだよね。そういうときは…こっち」
なにを言われてるのか分からないまま、肩を強く突かれた。あたしはつんのめるようにして大きな檻の中に追いやられる。なんで? あたしがいつ暴れた!?
「組織の上層部にもファンがいるようなお嬢様をキズモノにしたのがバレたら大事だから、代わりにあのガキで遊ぶんだってさ」
突き飛ばされてよろけてたスキに扉が閉まり、やたら頑丈そうな南京錠がかけられた。
「ちょっとぉ! どういうことよ、これぇ!? 出しなさいよっ!」
扉の鉄格子をつかんで力いっぱいゆする。鉄の棒と南京錠がぶつかり合ってハデな音を立てた。当たり前なんだろうけど、扉が壊れたりするなんてことはなかった。三拍子とヒゲがこっちを見てにやにや笑ってる。ねぇ、助けてよ。あの子に目で訴えるけど、微妙に視線が合わない。あたしのことなんか忘れちゃってるように見えて不安になる。
「おーい、お嬢様が観覧拒否しないように見とけ」
ポマードが声をかけると、影の薄かったネズミ顔が覇気のない声で返事をして檻に近づいてきた。しまりのない口から大きな前歯がななめに飛び出してて、見れば見るほどネズミそっくりだ。どうしてマフィアになんか入っちゃってるだろうってくらい気が弱そう。たぶんこの人、ずっと下っ端で終わる。
「ここ、特別観覧席。オレは商売にならないから乗り気じゃないんだけど、オトシマエつけたいっておじさんがいてさ、あのガキがどうなるかよーく見てろって。それから、こいつはテンパると見境なくなっちゃうんで、気をつけて」
あたしになにかしたのがバレたら、自分たちが困るんじゃなかったっけ? そんな人をここに置いていかないでよ。しばらくネズミ顔とポマードを見比べてたけど、三拍子がなにやらあの子にかみついている声が気になって、ラグの上に立つ二人に目を向ける。
「ノストラードの野郎、ボディガードに念使いってのを集めてるらしいな? てめぇもそのクチか?」
三拍子の質問を、あの子は気持ちいいくらいに無視した。相手にされなかったせいで一瞬沸騰しかけた三拍子は、それをごまかすように鼻を鳴らした。
「まぁ、なんでもいい。さっきも言ったが、占い女を無事に連れて帰りてぇなら、おとなしく付き合えや」
やっぱり、そういうことか。あたしの安全と引き替えに反撃を封じこめて、あの子に仕返しするんだ。でも、そんなに単純なものでもないような気がしたのは、
「先ほどの条件をひるがえさないならば、な」
と、返したあの子の言葉だった。あたしの安全の他に、なにかある。
「あぁ?」
あの子の冷静さに比例して、三拍子の機嫌は悪くなるらしい。いちいちそのワンパターンな聞き返し方をしないと相手の言葉を理解できないのかと思った瞬間、三拍子の腕が上がった。ぱん、と乾いた音が大きく響いて、あの子の頭がぐらつく。タメが長くて、あたしでも避けられそうな平手だった。なのに、避けるそぶりも見せなかった。あの子が三拍子の言うことを信用してるはずはない。それでも従うしかないと判断した。あたしに矛先が向かないように。いったいどんな条件を出されたんだろう。あの子にそんな弱みがあるとは思えない。
平手の勢いに逆らわなかったから頭はゆれたけど、あの子の身体の位置はそのままだった。ハデな音のわりにはたいしたダメージじゃなかった、ってことだ。それが分かったのか、三拍子はなんの抵抗もしないで立っているだけのお腹の真ん中を、今度はでっぷりとした全身に勢いをつけてグーで殴りつけた。
あの子の身体がそこを中心に折れ曲がり、さらさらの金髪が三拍子の目の高さにまで落ちた。あの子を殴った手が、キレイな髪を掴んで下へ引っ張る。短い足でも届くようになった小さな顔のあごが、三拍子のひざで蹴り上げられる。上を向いたあの子の口から赤いつばが飛んだ。きっと、顔に三拍子の平手を受けたときに口の中を切ってたんだと思う。ひざと腰が抜けて、あの子は床にくずれた。
「やめてよ! その子が本気になったら、あんたなんか一生寝たきり生活にできるんだから!」
ホントにあの子にそんなことができるのかは知らない。でも、言わないと気が済まない。あの子は、あたしがいるからやり返せないだけなんだ。にぎりしめた鉄格子を思いっきりゆらした。やっぱり、がたがた音がするだけだ。さっきも同じことをして、どうにもならないことは分かってるのに、どうにもできないことがイヤでまた鉄格子にあたる。響き続ける金属の音が耳ざわりだったらしく、あの子の髪をつかんだまま繰り返し蹴りつける三拍子は、その足を止めた。
「静かにしてろや。こいつの鼻、折ってやってもいいんだぜ?」
こっちを見た悪意満面の笑顔に寒気がした。鉄格子をゆらす腕の力が抜ける。ここで言うことを聞かなかったら、ホントにやりそうな目をしていた。
「お前が静かにしてないと、後でオレが兄貴に怒られるんだよぉ」
ネズミ顔が思い出したようにスーツのポケットからナイフを取り出した。ちょ、ちょっと! そんなもの持ってるなんて聞いてない。おどおどした手つきがかえって怖いし! 声も出ないほどにひるんでしまった。三拍子の仲間で兄貴分のポマードに怒られるかもしれないって心配がネズミのストレスになって、その積み重ねで見境がなくなる状態につながるらしい。こういうタイプの人に刺されるなんて、絶対イヤ。あたしにはなにもしないって何度も聞いてたけど、だんだん怪しくなってきた。にぎった手の内側を鉄の棒がすべっていく。自分の足で立ち続ける気力がない。檻の中、あたしはへなへなと座り込んだ。
檻から視線を外した三拍子が、つかんでいた金色の髪を今度は後ろへ引っ張る。振り抜くようにして手を離すと、あの子の身体が真っ赤なラグの上にあお向けに倒れた。横幅の広い身体があたしに背中を向けて、その細い首の下あたりに馬乗りになった。デブとは思えない素早さだった。反撃を警戒してか、座った姿勢であの子の両手首をそれぞれ土足で踏みつけている。
「とりあえずはこのくらいにしといてやるよ。おい、引っぺがせ」
体重であの子の上半身を押さえこんだ三拍子の一言が、あたしを凍りつかせた。引っぺがす、っていうのは、つまりそういうことだ。男の子相手に、なにをしようっていうんだろう。それまでぼけっと突っ立っていたヒゲが動いた。嬉々とした様子であの子の服に手をかける。一瞬、あの子の足がヒゲを蹴る準備をするように動いたけど、実際に蹴るところまではいかなかった。無事に連れて帰りたいなら、おとなしく付き合え。そんなありきたりの脅しのせいだ。
あの子はただ、されるがままになった。当然、脱がされるためにわざわざ身体を動かすような協力もしない。丈の長い、スカートに似た青い服が、乱暴にはぎ取られる。まるで、よくできたマネキンの要らなくなった服を二人がかりで処分してるみたいだった。
手を伸ばせば、ぎりぎり届きそうな距離。鉄格子とネズミ顔のナイフさえなければ、形勢逆転のきっかけくらいは作ってあげられるかもしれないのに、なにもできない。あの子のプライドのために、顔をそむけておくことさえも。
「たっぷりしごいてやるからよ、お嬢ちゃんの見てる前でぶちまけちまいな」
は? このヒゲ、今なんて言った!? やめてやめてやめて! そんなことしないで! 男の子の身体に興味がないわけじゃないけど、今まで生きてきて一度も見たことがないものを、こんな状況で強制的に見せられるなんてありえない! あのぎらぎらした目つきと、ポマードが言ってた「エゲツないこと」の意味が分かって、全身に鳥肌が立った。空気のかたまりが胃の中からのどまで上がってくる感じがする。生理的にムリ。
ホントに吐きそうな感覚にうつむくと、鉄格子の間からネズミ顔の持ったナイフが入ってきた。外側に折った足のひざをくっつけて、お尻でぺったり座ってるあたしの顔の高さに合わせてしゃがみ込んでいる。見てればいいんでしょ、見てれば。顔の角度は変えずに、目だけをラグの上に移す。足首で裾を絞った白のパンツが、腰からめくられているところだった。どうしよう。男の子と付き合ったこともないのに、初めて見るのが自分の警護をしてる、ちょっと苦手な子のって…。
心の準備、心の準備。呪文のようにアタマの中で繰り返していると、いきなりヒゲが裏返った声で叫んだ。
「なんだぁ!? 女じゃねぇかよ、こいつ!」
あたしは思わず鉄格子に顔を押しつける。女の子!? あの子が? ウソだぁ! ヒゲの身体が邪魔で、全然見えない。
「おいおい、もう老眼鏡が必要なわけ? どう見たらこいつが男に見えんのよ? どきなって。気に入らなねぇなら代わってやる」
「萎えるぜ、まったく」
にやけた顔で隣に立ったポマードに場所をゆずり、ヒゲはそうぼやいた。納得いかない様子で三拍子にも話を振る。
「あんたはどっちだと思ってたよ?」
「どっちだって関係ねぇ。オレはこいつが二度とふざけたマネしねぇように身体に覚えさせてやりてぇだけだ。…やせガマンかよ、しらけたツラしやがって」
イヤな音が響いて、あたしは首をすくめた。三拍子がまたあの子を殴ったらしい。ちょっとだけ気が晴れる。殴られたことに、じゃなくて、三拍子の言葉を聞く限り、その期待どおりにはなってないってことに。スーツがはちきれそうな背中に隠れてて、あの子がどんな顔をしてるか分からなかったから、心配だった。しらけた顔してるって聞いて、少しは安心できた…けど。それも、ヒゲと代わったポマードがそこで立てひざをつくまでだった。
「ケツに突っ込むんなら、男も女も変わんねぇんじゃねぇの? …へぇ、リアルブロンドじゃない。もったいないなぁ、ボディガードなんて。いい商品になりそうなんだけどなぁ」
ぺらぺらとしゃべりながら、途中までめくり降ろされたままだったあの子の服を、手なれた感じであっという間に足から引き抜いた。両足の靴が飛ぶ。片方のひざをくずして、ポマードはその上にあの子のお尻を乗せた。
「ほら、見せてやんなよ、お嬢様…にっ!」
あの子のひざの裏を持ち上げて、思いっきり開いた。自分の観察力がヒゲと同じレベルだと認めるのは悔しいけど、勝手に男の子だと思ってたあたしは、ついそこに注目してしまう。ナイフを持ったネズミ顔がいるから、っていうのは建前だ。見ちゃ悪いとは思ってる。でも、意地悪のつもりで女性下着売り場においてきた子が男の子じゃないって聞かされたら、見ない方がおかしい。
ポマードが両手の指を使って、髪と同じ金色の毛が縁取る溝をこれ見よがしに広げている。ほぼ左右対称のその場所は、ぱっくり開いて血がにじむ寸前の、真新しい傷口に似ていた。わ…、ホントに女の子だ。ちょっと前まで当然あるだろうと思ってたものはどこにもない。それだけ確認して、目をそらした。その途端、
「ダメだろぉ、ちゃんと見てないとぉ」
ナイフをちらつかせたネズミ顔に脅された。小さな目があたしとポマードの間を落ち着きなく行き来してるのが、やっぱりネズミっぽい。うっとうしいけど、ナイフは怖い。しかも、さっきに比べてナイフを持つ手が堂に入ってる。仕方なく視線を戻すと、ポマードが指の先であの子の足の間の溝を上下になでつけているところだった。小刻みに震える、白くてすらっと長い足。その白にラグの赤がほんのり映っている。…意外。こんなキレイな足してたんだ。女の子だったことだけでも絶句モノなのに、今日はびっくりが多すぎる。
「あんま濡れないねぇ」
ポマードの舌打ちが聞こえた。自分の思うような反応がないのが気に入らないらしい。当たり前じゃん。あんたなんかに感じるはずないでしょ。バカみたい。
「こっちの方が手っ取り早いか。なぁ、ちったぁ手伝えよ。そっちの足、頼むわ」
開いたあの子の両足の、自分から遠い方の足を手放し、ポマードがヒゲに声をかける。すでにあの子への関心を失っているヒゲは、つまらなそうなふたつ返事をしてあの子の身体を回り込んだ。ポマードの向かい側に立つと、解放されたばかりの白い足のひざの辺りをまたぎ、自分のかかとを引っかけて、ぐいっと手前に寄せる。もう一方の足をポマードが抱えなおす。あたしはさっきよりもはっきりとあの子の両足の真ん中を見せつけられることになった。
もう一度ポマードが人差し指と薬指を使って溝のふちを両側からめくる。生々しいツヤを持つ、赤味がかったピンク色が広がった。あの子を開くポマードの二本の指が上へと滑る。溝の始まりまで動いて止まり、その内側にあるヒダにかかる。真ん中で余っていた中指が曲がって、狙いを定めた。やだ、そこって…!
ポマードの中指の先がその一点を押さえつけたのと、あたしが息を飲んだのは、ほとんど同時だった。あの子のお尻がラグから勢いよくはね上がる。声は聞こえなかった。
普通の子と違うところがあっても、あたしは若くて健全な女の子だ。年齢なりの興味と欲求がある。特定の相手がいるに越したことはないけど、解消するのに相手はいらない。ひとりで自由に外出することもできないあたしにそんな相手がいたためしなんかないから、欲求ばかりがふくらむ。だから、たまに下着の上から触ってなだめる。お腹の下の方がきゅうっと縮むような感覚に、恥ずかしさとやましさと、長続きはしないけど確かな満足感を得る。この程度はみんなしてるはずだ。…たぶん。
溝にそって何度も指を往復させるだけで充分だった。直接触るのは抵抗がある。指を中に入れるのはもっと抵抗がある。溝のはじっこにある小さな点にはできれば触りたくない。
そんなところがあるなんて知らなかったころ、勢いあまった指でそこに触れてしまったことがあった。身体に静電気が溜まってると気付かずにドアノブをにぎろうとしたときの、一瞬のしびれ。その何倍もの衝撃があった。さっきのあの子みたいに腰が跳ねて、足がぴんと突っ張った。で、そのままふくらはぎがつった。強制終了。
気持ちよくなんかなかった。ぴりぴりした痛みしか感じないうえに、足がつっておしまい。それからは、欲求の解消についてくるいろんな感覚に、妙な緊張が加わることになった。二度と触りたくないと思ってるのに、やっぱり勢いあまった指がやらかしてしまうときがあるからだ。
胸の辺りに三拍子の体重を受け、両手首を踏まれたまま、ヒゲとポマードに大きく片足ずつ開かれているあの子は、ひざを合わせることもできずにただ一点だけを責められ続けている。浮き上がったお尻は震えっぱなしで、たまに激しくびくついた。力の入ったつま先が、反り返るほどに伸びたり、苦しそうに曲がったりする。あの子の顔は相変わらず見えないし、声も聞こえてこない。大丈夫、なんだろうか。あんなふうにずっとしつこくされたら、あたしはきっとおかしくなってしまう。
「いいザマだなぁ、おい。…なんだ、てめえ。その目つきは? 媚びた喘ぎ声のひとつでも上げてみやがれ」
あの子を笑う三拍子の声が耳に入る。相手にされなかったのか、途中から脅すような口調に変わった。それさえもムダで、結局最後は殴ったようだ。ポマードはポマードで、
「あー、もうぐっちょぐちょだ。何回か軽くイッてたもんなぁ。さっきは不感症かと思って心配しちゃったよ」
いつの間にか、二本の指をあの子の中に根元まで埋めこみ、前後に動かしている。無遠慮にあの子の身体を出入りする指が、濡れて光っていた。イクってどんなだろう。もしかしたら年下かもしれないあの子が、あたしの知らない感覚を知ってるってことに、悔しいような羨ましいような気持ちになった。もし、あの人と連絡を取り合うことができて、その…オトナのお付き合いなんかしちゃったら。あの人となら、そんな感覚を味わってみてもいい…かも。
部屋に響く、半開きの口でガムを噛むような音を聞かされながら軽い妄想をしているうちに、おへその裏のちょっと下あたりから、生ぬるい水が漏れるような感じがきた。あたし…濡れてる。強引に何度もイカされて、それを他人の前でわざわざ言葉にされるあの子を見て、興奮してる。
ムリヤリされてるところを見られてなんともない子なんて、絶対いないはずだ。反応が薄い、と三拍子をイラつかせてるあの子だって、付け入られるスキを見せないようにガマンしてるだけだと思う。あの子は後悔してるに違いない。あたしのことなんか追いかけるんじゃなかった、って。それどころか、あたしの警護って仕事そのものがイヤになっちゃってるかもしれない。
あたしにしても、見てろと言われたからって、無神経にじっと凝視したりはできない。最初のうちは気が回らなかったけど、視線のごまかし方が分かってきていた。ナイフを突きつけられてるから、顔だけは黒スーツトリオが群がるあの子に向けておくけど、目のやり場は適当だ。前髪で死角を作って、部屋全体を眺めたり、床や自分の手元に落としたり。でも、ちょっとした物音や黒スーツたちの声がすると、思わずそっちへ目線をやってしまう。
「痛がらないってことは、それなりに手垢がついてるってことだよなぁ。お堅そうだけど、やることはやってんだ?」
 ポマードがあの子から抜いた指をじっと見つめてから、手首を何回か振った。手を洗った後みたいに、指先から小さなしずくが飛ぶ。ただの水よりも重そうな、ねばり気のあるしずく。指で乱暴に中をかき回されて、あんなにあふれさせて。自分の指を入れる勇気もないあたしには、それはなんだかすごいことのように思えた。それよりも、なによりも。経験済みなんだ、あの子。カレがいるか、いたことがあるんだ。
女の子みたいな顔だとは思ってたけど、女の子だとは思ってなかったから、うまく想像できない。恋をして、相手のちょっとした一言や仕草に喜んだり、悲しんだりしちゃうあの子。裸で、カレと抱き合うあの子。いつも怒ってるような顔は恋愛そのものを拒絶してるみたいに見えるけど、好きな人の前では無防備に笑ったりするんだろうな。
 せっかく現実逃避してたのに、三拍子の声に邪魔された。
「ガキのくせにいっぱしに咥えこんでんのか、あぁ? どうやってかわいがってくれんだ、ノストラードの野郎はよぉ?」
最後のセリフで、腕の産毛がぞわっと逆立った。アタマがすっと冷える。なにも考えられないほど真っ白なのに、勝手に口から言葉が出た。
「ちょっと、なにいい加減なこと言ってんのよ!? パパがそんなことするわけないでしょ!?」
あたしの勢いに驚いたらしいネズミが顔をのけぞらせたのが視界の隅に映った。パパにはいつも外に女がいる。この街に来る前だって、どっかの女と旅行中だった。そのうえ、警護の子にまで? しかも、あたしとあんまり変わらない年齢だ。そんな話、冗談でも聞きたくない。
 ゆっくりと三拍子が振り返って、あたしを見た。さっき以上に悪意満面の笑顔。その口が開く。
「おっと、そこに娘がいたんだっけか。悪かったな、最近、オヤジさんが見てくれのいいガキを連れて歩いてんのを見ちまったもんでよ」
 護衛団のリーダーだもん、パパの近くにいて当たり前じゃない。ダルツォルネさんだってそうだった。このデブ・ハゲ・チビの三拍子は、わざとパパとあの子がそういう関係に聞こえるような言い方をしてるだけだ。だけど。言葉に影響されてしまう。あの子が笑顔を見せる相手が、パパだったら?
「パパは…そんなこと…」
 言い返したあたしの声はひとり言みたいに小さくて、震えていた。自分が怒ってるのははっきり分かるけど、誰に怒ってるのかがはっきりしない。
あの子に? パパに? それとも、ホントかどうかも分からないのに、三拍子なんかの言葉で浮き足立っちゃってる自分に?
パパがちょっかいを出す相手はイヤな女じゃなきゃいけない。あたしが顔を知ってる女だろうが、知らない女だろうが関係なく。パパのちょっかいに応じて誘いに乗れば、その時点で無条件にイヤな女になる。たいていは、二十歳をいくつも過ぎた厚化粧のおばさんで、アタマがよくない代わりにどうすれば男の人を自分に惹きつけられるかを知り尽くしているタイプの女。あれ? あの子にはなにひとつ当てはまらない。
じゃあ、仮に。仮にパパがあの子にちょっかい出してたとして。あの子がそれに応じたとして。イヤな女、かな。…愛想が悪すぎて苦手だけど、別にイヤじゃない。そのまえに「オンナ」って響きが似合わない気がする。
「そろそろ、どいてくんないかな。いい感じにほぐれてきてんのに、あんたが乗っかってちゃ、オレが乗っかれねぇ。けっこう手が出てたみたいだけど、顔変わっちゃってないだろうね?」
 今度はポマードの声に邪魔された。さっきと違って、考えてもイラつくだけのことを考えてたから、かえってよかったかもしれない。
「知るか。殴りたくなるようなツラしてんだよ、このガキが。こんだけいじくられて啼きもしねぇ」
「分かってないなぁ、声押し殺して耐えてるのがいいんだよ。あんたが邪魔で、こいつのそういう顔、見らんなかったじゃん」
ポマードの話を聞く気はないらしく、三拍子はなにも言わずに立ち上がった。足の下にあの子の手首を敷いたまま。細い指先が、急な重みに耐えるように曲がる。そこに追い討ちをかけるように、三拍子は華奢な手首を片方ずつ体重をかけて二度三度と踏みにじった。大きな黒い靴が動くたび、あの子の手首がヘンな方向にねじれる。
 この人、自分が体重計に乗ったときの数字を知ってるんだろうか? 手首の骨、折れちゃう。止めなきゃ。
本気でそう思ってるのに、声を出せない。さっきのあたしの大声でひるんだネズミ顔のナイフは構え直されていて、無視するには近すぎる。でも、あたしが止めなきゃ、あの子の両手が。
胸の中で、ぎゅっと縮んだ心臓がばくばくしているのが分かる。苦しいのは、あたしの心が頼りない勇気をしぼり出そうとしてるから。パパのことで怒鳴ったときの勢いは使い切ってしまった。
止めなきゃ。手首が折れるのに比べたら、鉄格子越しに切りつけられてできる傷なんて、たいしたことないかもしれないじゃない。止めなくちゃ。大きく息を吸いこむ。
「折らないでよ?」
 ポマードが迷惑そうに言ったのは、ようやくしぼり出された勇気が声になる直前だった。よく言った、ポマード! と思えたのは、一瞬だけ。
「どうしても折りたいなら、オレが終わった後にして」
 続いた言葉に、ドン引きする。最っ低…。
「けっ」
 吐き捨てるような声を出した三拍子は、最後にもう一度あの子の手首をぐりっと踏んでその場を離れた。この汚いビルがポマードの縄張りだから仕方なく、って感じが丸分かりの態度だ。小さなため息をついて、ポマードがあの子の顔の方へ身を乗り出す。
「あ、よかった。ちょっと腫れてるとこもあるけど、大丈夫そうだね。ボコられて顔がデカくなっちゃったら楽しくないもんなぁ」
 あたしのいるところからは、あの子の顔は見えない。ポマードの言う「大丈夫そう」がどの程度なのかは分からないけど、血まみれだったり、腫れ上がって目がふさがったりって状態ではないみたいだ。ひとまず安心。
「さて、と。そろそろいただきましょうかね」
 ポマードがひざをついたまま腰を上げた。お腹の辺りで片手を動かしているのが見えて、あたしは自分のことみたいに緊張する。ああ、どうしよう。あの子が…お、おか…犯されちゃう。
ベルトを外すのに集中してたらしいポマードの、もう一方の手に抱えられていたあの子の足が、するりと逃げた。次の段階に移る気配を察して、とっさに閉じようとしたに違いないその足のひざを、ヒゲの革靴の先が蹴り広げる。
「さんざんヨダレ垂らしといて、今更なにもったいぶってんだ。お嬢ちゃんにじっくり見てもらうんだろ? 恥ずかしいザマさらして壊れちまえよ」
「どうも。もう離れていいわ」
 手元に戻ってきたあの子の片足を受け止めてヒゲに言うと、ポマードはその足をまたいで二本の長い足の間に陣取った。ヒゲは興味なさそうにあの子のひざ裏を引っかけていたかかとをどかし、タバコに火をつける。イヤな臭いが漂ってきて、あたしは顔をしかめた。パパもそうだけど、煙なんか吸いこんでなにが楽しいんだろう。
 ふと、誰もあの子の身体を押さえつけてないことに気付く。なのに、あの子は動かない。気絶してるとかじゃないはずだ。ちょっと前に足を閉じようとしたのを見た。やっぱり、あたしを無傷で連れ戻すことを考えてるんだ。あたしのせいだ。初めて本気でそう思った。もちろん、危機感ゼロだったわけじゃない。だけど、心のどこかでなんとかなると思ってた。殴られてても、服を脱がされて触られてても、いざとなったらあの子は黒スーツ軍団を簡単に叩きのめして、あたしはショッピングの続きに行けるんだって思ってた。
 もういいよ。もういいから。あたしのことなんか気にしないで、やり返しちゃって! …と言い出すことは、どうしてもできなかった。ナイフを突きつけられてることも怖いけど、それ以上に怖いのは、そんなことを言って黒スーツトリオに「じゃあ、代われ」的な展開になっちゃうことだ。あの子と同じことされて、どこまでもつ? もつも、もたないもない。ムリ。絶対ムリ。聞こえのいいことを言ってしまった後の覚悟が、あたしには絶望的に足りない。
「お嬢様は」
 ポマードがあたしを振り返った。一方の手はまだお腹の辺りで動いている。あたしは目だけでポマードの顔を見た。ロクでもないことを言うのが分かりきってる顔。もう一方の手であの子の足首をつかんで高く持ち上げながら、ポマードは続けた。
「これ、見たことある?」
 上半身をこっちの方にひねりながら腰を浮かせる。なにを見せられるのか予想できていたのに、視界に入ったそれに反応してしまった。檻の中で後ずさるあたしをナイフの先で追いかけるでもなく、ネズミ顔が下品な顔つきで笑う。ポマードは降ろしたファスナーの間から飛び出しているものを、ネコのしっぽでもいじるようになでていた。
それがそういうふうになることは知ってる。とはいえ、実物を見るのは初めてだから、それが標準なのか標準外なのかも判らない。でも、なんだかすごく…長い気がする。木の枝みたいなヘンな生き物が人間に寄生してるみたいで、気持ち悪い。
「見慣れてない、か。けっこう自信あんだけど、サンプル不足じゃ分かんないよね」
 だ、だからなによ? 自慢話? そんなこと、誰も聞いてない。
「見せびらかしてねぇで、さっさとそいつでこのガキの腹ん中ぐちゃぐちゃにえぐってやれ」
 じれったげに割って入った三拍子に、ポマードはうるさそうに答える。とりあえず、この場は助かった。根本的にはなにも変わってないけど。
「言われなくてもそうするって。じゃ、じっくり見学してお勉強してってね」
あたしの不安やおびえを逆なでするようなセリフで笑いかけてから身体の向きを直し、ポマードはあの子のもう片方の足首をつかんで、同じ高さに持ち上げた。ほとんど垂直にされたひざ下に、上からポマードの体重がかかる。重みで曲がったひざが、あの子の身体の両脇にくっついた。腰を上げて、のしかかるような姿勢になったポマードの足の間から、あの子の溝の割れ目と、おへそみたいなお尻の穴が見えた。それから、だんだんとあの子に近づいていく、例の寄生生物の先も。
 その瞬間を見たくなくて、目をつぶって肩をすくめる。同時に鉄格子が鳴った。がんがんがんがんがんがんっ!
 ナイフの刃が、二本の鉄格子の間で激しく往復した音だった。飛び上がるようにして顔を上げると、ポマードと目が合った。目をそむけてたあたしをとがめるためにネズミ顔が立てた音に振り向いたらしい。
「ほらぁ、最初に言ったでしょ、気をつけてって。危ないよ、ホント」
 そう言って笑ってから、
「見える? 先だけ入ってんの。一気に突っこもうと思ったけど、よそ見してたみたいだから、よく見えるようにゆっくり入れるね」
あの子の身体に、少しずつ突き刺していく。それに引きずられるように、溝の周りが内側に巻きこまれる。ぷっくりとした膨らみが中へと追いやられてつぶれ、最後には皮膚が突っ張った状態になった。あ…やめて、それ、確実に痛い。声にもならない願いが届くわけもなく、
「あー、あんなに濡れてたのにすっかり乾いちゃったなぁ。そんなに醒めないでよ。ま、こういう引っかかる感じも気持ちいいけどさ」
ポマードの腰が動き出した。小さく横に振れるような、ヘンな動き。なに、あれ? まゆをひそめたとき、ポマードにつかまれていたあの子の足が、びくんと踊った。真っ白な身体の中心に半分くらい埋まった赤茶けたものが、その上の方にくいくいとこすりつけられている。あの子の身体がなかなか受け入れないから、また強制的にあの感覚を与えて、受け入れられる状態にする気だ。
ポマードから逃げるように、真っ赤なラグに敷かれた身体のお尻や背中が左右にくねる。足全体に力が入ってるらしく、ポマードは肩や腕をいからせてそれを押さつける。
「ここまで入っちゃってるんだから、あきらめなってば。ほら、分かるでしょ? 滑りがよくなってきた」
あの子の中に巻きこまれていたところが、少し元に戻っていた。中途半端に突き刺さっているものが奥へと進んでいくのがはっきり見える。
「やっぱ一気にいこっか、な…っと」
突然、ポマードが勢いよく床を転がり、あの子が上に乗っかる形になった。身体の位置を入れ替えたときにかなり角度が変わったせいで、さっきまではポマードの後姿とあの子の足しか見えなかったのが、ほとんど真横に近いけど、足元から見上げるような感じで見せられている。ポマードの胸の上にうつぶせたあの子が、肩で息をしながら露骨にイヤな顔をして身体を起こした直後、
「へばってんじゃねぇぞ」
三拍子がその髪をつかんだ。そこだけを支えに上半身がまっすぐになるように引っ張り上げて、ポマードとお腹とももの境目にあの子が座る姿勢に持っていく。
「おぉ、いいねぇ、これ。奥まで届いて当たってるよ」
あの子を乗せたままひざを立て、ポマードが腰を浮かせると、あの子の身体も持ち上がる。ぶるっと震えてのけぞった横顔がゆがんだ。髪をつかんでいた三拍子の手が離れて、今度はあの子の両腕を取り、細い腕のひじ先を頭の上で互い違いに合わせて重ねる。
「おら、てめえで動いてよがってみろ」
まとめたひじ先の、それぞれ手首とひじの近くをいっぺんにわしづかみにし、お茶の味に無頓着な人がカップの中のティーバッグを忙しく泳がせるように、手荒く上下にゆすった。三拍子があの子の腰を下に落とすタイミングで、ポマードが腰を突き上げる。そのたびに、あの子は薄く開いた唇の内側で歯が強く噛みしめて、目尻をひきつらせる。でも、まばたき以外は目を閉じない。あたしがあの子の表情を確認できなかったときも、きっとそうだったんだろう。
目を閉じたら、感覚に酔ってしまう。あたしが自分でするときがそうだから分かる。この子は、すごく強い心を持ってるんだと思った。負けないで。あたし、なにもできないけど、勝手なこと言える立場じゃないけど、だけど。こんな卑怯な人たちになんか負けて欲しくない。
「もういいよなぁ?」
 あの子の顔を面白そうにながめながら動いていたポマードが、目線を外して息をついた。飽きたようにラグにお尻を下ろす。終わ…った? あの子が音を上げないから、どうでもよくなったんだ。緊張しきって上がり気味になっていたあたしの肩から、どっと力が抜ける。
「フィルター焦げそうだぜ? 一服し終わったんなら、これ脱がしちゃってよ」
 えっ!? と、ポマードの目線を追ったら、短くなったタバコを苦々しげに床に投げ捨てるヒゲに行き着いた。室内でポイ捨て!? と、心の中でツッコんでから もう一度ポマードに目を戻せば、
「いくらなんでも、これじゃあ雰囲気ってもんが。ねぇ?」
その手があの子の青い上着の裾をつまんでひらひらさせている。人質取られて無抵抗になるしかない女の子をおもちゃにして、そのうえ雰囲気? まともじゃないとは思い知らされてたけど、腐りすぎてる。
「そこにいるんだから、ゼンジにやらせりゃいいだろ」
まだ火を残して煙を上げているタバコを踏み消して、ヒゲが他人事みたいに答えた。
「見て分かれ。オレはこのガキの腕、押えてんだろうがよ」
「お嬢ちゃん脅しつけて、自分から脱ぐようにさせろよ。そのために檻ん中に押しこんでネズ公つけてんじゃねぇのか?」
 そう言いながらも、ヒゲはあの子に近づいていく。ネズミそっくりだと思ってるのはあたしだけじゃなかったらしい。思わずネズミ顔を見やると、ばっちり視線がぶつかった。同時にナイフが素早く突き出され、顔のすぐそばで止まる。
「…ケガしたくなかったらぁ、なにも言わずにあっちを見てろぉ」
 本人、気にしてるんだ…。ゆるみかけてた口元を引きしめて、ぎくしゃくとした動きで言われたとおりにする。今度ネズミ顔を刺激するようなことが起こったら、ホントに刺されちゃうかもしれない。
ちょっと目を離している間に、ヒゲはあの子の上着の前を開いていた。下に着ている白いシャツも大きくめくり上げられて、カーキ色のハーフタンクが見えた。こんな状況なのに、つい余計なところに注目してしまう。ハーフタンク、かぁ。
ぱっと見たとこ、ストレッチ強めのサポート素材。肩ストラップ細め。ショッピングモールの下着売り場では男の子だと思ってたこともあって、なんにも考えずに「おとなしめのしか持ってない子」設定にしちゃったけど、まさかホントにここまでシンプルだったとは。スポブラですらない。
ヒゲにめくり上げられたシャツを三拍子が引っ張り、上着ごとあの子の頭と腕から抜いて部屋の隅に放り投げた。ポマードがタンクの真ん中をつかみ、勢いよく上にずらす。透き通るような色をした胸が、型から外されたばかりのミルクプリンみたいに、ぷるんと震えてむき出しになった。唖然とする。なんなの、この人たち。お互いをこき下ろす内容でしか会話してないのに、こんな連携プレーだけはあっという間に成立なんて。
プリン型は小さめだったってことで、と脳内フォローするのも微妙なくらいに遠慮がちなサイズの胸にポマードの手が伸びる。たぶん無意識に、あの子は身体をひねってそれを避けようとした。途端に、がっ、と鈍い音がした。三拍子の靴があの子のこめかみの辺りを蹴りつけた音だった。
「おとなしく付き合え、って言わなかったか。あぁ? 黙って串刺しになってろ。そうすりゃ、占い女はサラで返してやるからよ」
 ウソつき。上層部の偉いおじいちゃんたちが怖いから、あたしにはなにもできないってだけじゃん。
「おっぱいの発育がいいのはお嬢様だけかぁ。しっかり食わしてもらってる?」
ポマード、超失礼。それじゃ、ウチの食事が悪いみたいじゃないの。…確かにあたしの方が大きいけど、あたしだってスイカやメロン並みってわけじゃない。それ以前に、食べ物はそれほど関係ないと思う。
あの子の胸を無造作につかんで、確かめるように何度かもんだ後、ポマードはその先をつまみ上げた。あの子の横顔がひきつって、背中が反り返る。
「こういう強情な子のおっぱいをさ、ピンポイントで虐めながら、手加減なしで下からガンガン突いたら、どうなっちゃうのかね?」
つまんだ指先をひねりながら、ポマードがあの子の身体を繰り返し下から突き上げる度に、あの子は歯を食いしばって苦しそうな息を吐いた。
「なーに、ガマンしてんの? もういいじゃん、お嬢様にアソコの中まで見られちゃってるんだし。気持ちいいんでしょ? 乳首つねるたんびに締めつけてくれるもんねぇ?」
「もう、あの野郎のファミリーにゃいられねぇやな。おら、いい加減、声出せ!」
 三拍子が、あの子の頭の上でつかんだ腕を下に向けて押しつける。上からの圧力をかわそうと、あの子は身体を大きくうねらせた。ガマンしてるのは、苦しいとか、痛いとか、そういうのじゃ…ないんだ。
「声出させりゃ気が済むわけ?」
「あぁ? いいから、早いとこ堕とせってんだよ。てめえはそれでメシ喰ってんだろうが」
 呆れたような口調でポマードに聞かれて、三拍子はあの子の両腕を叩きつけるように離した。それだけでは治まらずに、乱れた金色の頭の後ろを思いっ切り平手で打つ。その勢いで、あの子の上半身がポマードの胸に倒れこんだ。
「お言葉ですがねぇ、ウチに連れてこられちゃうような子とはタイプが違いすぎますよ、こいつは」
 落ちてきた身体を受け止めたポマードが、苦情を受けた押し売りセールスマンみたいな敬語で返す。またあからさまにイヤな顔をして起き上がろうとするあの子の背中を抱きしめて、三拍子に叩かれたところを手の平でなでた。当然の反応で、あの子は頭を振ってポマードの手を避ける。
「ま、どうしても声聞きたいっておっしゃるなら、方法がなくもないですけどね」
 ポマードが目配せすると、ヒゲが大げさなため息をついた。
ここでヒゲ? なんのために? と、思うやいなや、ポマードは腰を浮かせてあの子のお尻を持ち上げた。触らなくてもすべすべしてるのが分かるような丸いお尻へと滑った両手が、そこを左右に開く。あの子が弾かれたように振り返る。
「急にケツの穴開かれて焦ったか? かわいいとこもあるんだな」
 あの子の視線の先で、ヒゲが口元を歪ませた。笑った、らしい。…なんとなく、話が見えてしまった。でも、そこは違う。どう考えても、そういうことをするところじゃない。
「ほら、ここだけ見てりゃ男も女も一緒だろ? さすがにケツにまで手垢はついちゃいねぇみたいだし、どうよ?」
「お前の顔見ながら女のケツに突っこめってか?」
「そのとおりだけど、オレ、お前の相手にはなれねぇわ」
「オレもお前は趣味じゃねぇ。ま、最初は男に見えてたし、わりといいケツしてるし、後ろからハメんならいけなくもねぇ…かな」
ポマードとヒゲの間で、気持ち悪い会話が、気持ち悪い軽さで進む。しかも、どうやらその気になっちゃったっぽいヒゲが、スーツの下を脱ごうとしている。さすがに、あの子の表情に動揺が走った。
 それに気付いた三拍子が、あの子の顔の近くにしゃがんだ。頭を低くして、あの子にぼそぼそと話しかけてるけど、全然聞き取れない。だけど、あたしのこと以外で、あの子を動けなくするほどの「条件」を、また持ち出したんだと直感した。
「へっ、前に突っ込まれたまんまケツ掘られんのを見られる方がマシってか。いつまで持ちこたえられんのか見ものだぜ」
 三拍子の声が、あたしに聞こえる大きさになったかと思ったら、内容はこんなだ。やっぱり、分からない。あの子をそこまで縛りつける「条件」って、いったいなに?
 いつの間にか、ズボンとパンツをひざまで下ろしたヒゲがあの子の後ろに立っていた。ポマードに持ち上げられ、突き出すようにさせられてるあの子のお尻を、背中を屈めてなでる。同時に細い腰が跳ねた。
「お前さんのをしごいて楽しみたかったんだが、ついてないんじゃ仕方ねぇよな。代わりにオレのをしごいてくれよ、ここで」
 と、浮き上がったお尻の真ん中に中指を押しつけられ、あの子は腰を前へ逃がす。間を置かずに、また腰が跳ねた。今度は腰から上がぴんと伸びる。痙攣の波があの子の全身を抜けるのが、見た目にも分かるほどだった。
「あーあ、自爆だ。ケツに突っ込まれた指から逃げたら、こっちの奥の奥にずっぽりヒットしちゃったねぇ」
 ポマードがあの子を笑う。笑うリズムで突き上げられて、あの子の身体がうねって揺れた。ポマードの指が食いこんだお尻の高さに合わせて、ヒゲが両ひざをついた。あの子の背中を乱暴に押して前に倒す。ポマードがお尻から手を離したのを引き継ぐように、その丸みを強くつかむ。それからヒゲは、変な角度で上向きになったものを、さっき中指で触ったのと同じところに強く押し当てた。
「う…ぐ…ぁっ」
あの子の口から、うめき声が上がる。初めて聞いた。今までは、なにをされてもそんな声は出さなかった。それだけで、あの子が受けている痛みの度合いが分かる。倒された上半身を支える腕が、激しく震えていた。三拍子に何度も踏まれた手首だって、まだ痛いはずだ。
力の入った動きで小幅に腰を打ちつけるヒゲは、
「災難だよなぁ、お前さんも」
同情するようなことを言ってるくせに、やめる様子もない。ホントに入れる気なんだ…。と寒気を感じたとき、またお腹の内側から生ぬるい水のかたまりが抜けて、下着を汚した。…なにやってんだろ、あたし。自己嫌悪。
間単に入るものじゃないらしく、ヒゲがもどかしそうに腰に勢いをつけながら、クギを打ちこむように同じ動作を繰り返す。その度に上がる、あの子の痛そうな、というより、痛みに耐えるようなうめき声に、
「それなりに痛みにゃ強かったみてぇだが、さすがにケツの穴はなぁ?」
 三拍子の満足そうな言葉が重なった。酔っぱらってるわけでもないのに、大きな顔はハゲた頭まで赤くなっている。みんなそろって気持ち悪い。ほとんど全裸にされたあの子が男の人ふたりにはさまれて、痛みと恥ずかしさの限界に追いやられる姿を見て、喜んでるんだ。自分の下着の中の状態を考えるとエラそうなことは言えないけど、少なくともあたしのは、三拍子と同じ種類の興奮なんかじゃないって言い切れる。
「こりゃ、きっついな、おい」
ヒゲが腰の動きを止めた。あきらめた、かな? よかった。入るわけないじゃない、あんなとこ。
…なんて、甘かった。ほっとして気が抜けるのを見計らったかのように、ヒゲはいきなりあの子の両ひじの上をつかんだ。腕を取られて、薄い背中が弓なりにしなる。その体勢でいちばん負担がかかる場所は。
「い…っぎ…ぃ…っ」
痛みに耐えるあの子を声を無視して、そのまま力いっぱい自分の身体に引きつけた。まるで、捕まえた鳥の翼を力ずくでねじ折ろうとしてるみたいだ。
「ぅああああああっ!」
あの子が出したとは思えない叫び声が部屋の中に響く。あの子のお尻とヒゲの腰はぴったりくっついて、ヒゲのがすっかりあの子に入っちゃってることをイヤでも認めさせた。見えないけど、そこは間違いなく裂けてる。
「おぉ、すっげぇ! ぎっちぎち! 出ちゃうかも!」
 ポマードのはしゃいだ声が聞こえた。自分の両眉の間が、ぴくっと引きつるのを感じる。よくもそんなことを、そんな声で。
「出すな、バカぁっ!」
そう怒鳴ったのが自分だと気付くまで、ちょっと時間がかかった。なにか言わなきゃ、とか考えるとなにも言えないわりに、一気に沸点に迫るようなことがあれば、意識する間もなく口が開いてしまう。
我に返らせたのは、すぐ横で聞こえた、
「おぅっふ…」
 という情けない声と、なにかの金属が床を打つ音だった。反射的にそこへ手を伸ばし、音の主をつかむ。絶対、離さない。絶対に。持ち主の体温が移ってヘンなあったかさが柄に残るナイフを、座りこんだ自分のお尻の下に隠した。
「あっ!? あーっ!」
ナイフを持っていたはずの手と、ポケットの中にあるもう一方の手を交互に見比べながら、ネズミ顔があわてふためいている。右手でおざなりにあたしにナイフを向けながら、左手をズボンのポケットに入れてせっせと動かしてたことは、少し前から知っていた。っていうか、視線をあの子に固定したまま、はぁはぁ言ってる段階で終わってるでしょ。バレてないとでも思ってたんだろうか。
パパのことで大声出したときも意表を突かれたみたいだったけど、今回のはそれ以上だったらしい。なにしろ、兄貴分から仰せつかった役割を半分ほったらかして自分の世界に入りこんでたわけだから。しかも、あたしの声にびっくりした拍子に暴発。さらにマヌケなことに、ナイフを取り落としてくれちゃうオマケつき。神様に感謝の祈りをささげたくなるほどの偶然なのに…コントかっての、まったく。
「お、お前ぇ、オレの得物、どこやったぁ? 持ってんだろぉ!? 返せよぉ!」
 ポマードに自分の大失敗を知られるのが怖いのか、ネズミ顔は声をひそめてあたしを恫喝する。
「なんで? やだよ」
高飛車な口調で拒否してやった。テンパると見境がなくなる、とかなんとか言われたけど、ナイフがなくなってしまえば、ネズミ顔はただの下っ端でしかない。檻の中にいた方が安全なくらいだ。
「ああっ、ちくしょおっ。言うなよぉ。アニキには言うなよぉ。絶対に言うなよぉ」
 ウザい。ネズミ顔の小声、ウザい。黙らないとポマードに言うよ、って言ってやろうかと思ったころ、
「オレに聞かれちゃマズいのは、パンツの中で発射しちゃったこと? それとも、お嬢様におもちゃを取られちゃったこと?」
当のポマードの顔がこっちを向いた。ネズミ顔が硬直する。あたしが叫んだときには視線すら動かさなかったポマードは、ああ見えても周りにしっかり注意を払ってるっぽい。
「現物は見たことなくても、中で出したらヤバいのは知ってんだ? 賢いねぇ。ばっちりデキちゃったら、どうしようか」
 あの子の胸の先を指でこね回しながら、ポマードがあたしの顔をうかがった。とっさに口から出かけた、パパに言いつけてやる、を飲みこむ。ここに連れて来られる前にそれを言って大笑いされたから。そうなると、なにも言えなくなって、ただポマードをにらむことしかできない。檻のすぐ外では、頭を下げてるつもりなのか、ネズミ顔があごを何度も突き出すようにして、すんません、すんません、と繰り返している。
「うるさい、バカネズミ!」
 八つ当たりだって分かってるけど、他にあたるところがない。ネズミ顔がまた硬直した。途端にポマードが声を上げて笑い出す。
「うっわー、そのまんまだ。…どうでもいいけどさぁ」
 笑い声を引きずったまま、ポマードは三拍子に話を振った。ネズミ顔は、どうでもいいってレベルで扱われる存在らしい。一生懸命に謝ってるのもスルーされてたし。ちょっとかわいそうになった。
「あんたは見てるだけでいいの?」
 今度はあたしが硬直だ。ネズミ顔なんかを哀れんでる場合じゃない。今以上にイヤな方向へ流れようとしてる。
「ここ、余ってるよ」
 あの子の胸から離れた指が、その開いた唇の間に差しこまれた。ヒゲが自分本位に腰を動かしているせいでずっと続いていた低いうめきが、ぐっ、という声を最後に止まる。余ってるって、まさか、そこにもなにかしようっていうんじゃ…。
「あ? あぁ? 冗談じゃねぇ、こんなガキ」
 自分に声がかかるとは思ってなかったようで、三拍子は腰が引けたような反応をした。
「またまたぁ。そのわりには、ずいぶん立派なテント設営してんじゃない。ガキ、ガキ言うけど、ここまで若いのに抜かせる機会なんて、オレでもそうはないよ?」
 そう言って、ポマードはあの子の口の中で指を回す。それを押し出そうとする舌が、ちらりとのぞいた。ヒゲにつかまれた両腕が後ろに引っ張られてて手を使えないから、そうするしかないってだけで、あの子にそんなつもりはないんだろうけど…ポマードの指にからんだ舌の動きがちょっといやらしくて、どきっとしてしまう。
「だから、オレはこのガキに痛い目を…」
 まだ腰が引けてる様子の三拍子の言葉を、
「ムリ強いすんな。食いちぎられんのが怖いんだろうよ」
 ヒゲがさえぎる。あたしは思わず、ひざの上で両手をぎゅっとにぎりしめた。なんでそこでそうやってけしかけるようなことを言うかな、このヒゲは!?
「誰がそんなこと言った? えぇ?」
 ほらぁ! 思ったとおりじゃん。負けず嫌いって感じするもん、三拍子。図星を突かれて、うろたえて、うろたえてるのを隠すために、すごんでみせるとか。あたしにも読めちゃうくらい、感情の変化が思いっきり表に出てる。
「怖気づいてるんじゃあ、しょうがないね。その鼻のお礼参りに、こいつの口に出してそのまま飲ませたりすんのも面白いと思ったんだけど」
 三拍子の顔の真ん中にくっついてるガーゼを視線で指して、ポマードがさらにあおった。ああっ、もうっ! なにしてくれてんのよっ!? お尻の下に敷いたネズミ顔のナイフを、ポマード目がけて投げつけてやりたくなる。
 挑発に乗せられて、ほっぺたや、あごの周りにダブついたお肉を震わせる三拍子は、自分のジャケットの裾から手をもぐらせた。
「ガキ相手に怖気づくかよ。おい、そいつの口、開けさせとけ」
 この手のしぐさを見るのも、もう三回目。そうやって引きずり出したものを、翼を広げた鳥の剥製みたいな姿勢にさせたあの子の中に埋めこみ、腰を往復させてこする。鼻の骨を折られたって話の三拍子はともかく、他の二人はあの子とはまったくの初対面だっていうのに、どうしてためらいもなくこんなマネができるんだろう。
 三拍子はベルトを外したズボンが落ちないように手で押えながら、口にポマードの指を入れられたあの子の前に立った。
「てめえの置かれた立場考えてみりゃ、噛みつこうにも噛みつけねぇよなぁ。しゃぶるのはお手のもんだろ、ん?」
ヒゲとポマードにヘンなスイッチを押されて、やけに強気になってる。上気した顔に浮かんだいびつな笑いは、殴る蹴るで楽しんでいたときよりも生き生きしていた。金色の頭を両側からがっしりつかんで持ち上げると、三拍子は腰を反らせ、こじ開けられたあの子の唇をそこに押しつけた。ポマードが避けるように指を抜く。
ぎゃ〜〜〜〜〜っ! い、入れたっ! なにやってんのよ、デブ!ハゲ!チビ! ホントにそんなことするなんて! 汚い!汚い!汚いっ! ヒゲがあの子にのしかかったときもかなりの衝撃だったけど、ビジュアル的にこっちの方が許せない。
三拍子の手の中で、金色の髪が暴れて、のどのつまる音が鳴った。三拍子が目を閉じて、長い息をついた。それから舌打ちをして、あの子を見下ろす。
「おい、咥えただけで済むと思ってんじゃねぇだろうな? 犬っころみたいに舐め回せってんだよ。 それとも、萎びたモノじゃねぇとやる気がわかねぇか?」
「すげぇな。使える穴が全部埋まっちまった」
 自分も当事者だっていうのに、ヒゲは相変わらず他人事みたいなものの言い方をした。そのヒゲとポマードが交互に腰を突き出し、白くて細い身体がゆらされるのを利用して、三拍子がぶよぶよのお腹の下にあるものを小さな顔の口の奥へ送りこむ。代わり映えのしない動きの連続は、人間を部品にした機械か装置みたいだ。
「タフだよねぇ、精神的に。いつマジイキしてもおかしくないくらいビクビクさせてんのにさぁ」
 あの子がぎりぎり限界のところまで追いつめられてるのが、ポマードのセリフから読み取れる。
ひどすぎて見てられない。でも、この部屋で動いているものはラグの上で複雑に重なる四つの身体しかなくて、見ないようにしようと思ってもそれが視界の隅に飛びこんできて、結局はチラ見してしまう。ネズミ顔はいろんな理由でうなだれちゃってて、あたしがあの子を見てなくても文句を言う気力もなくなってるようだった。
自分が気持ちよくなることに集中したくなったのか、黒スーツトリオは誰もしゃべらなくなっていた。それぞれの荒い息づかいと、あの子が苦しむ声だけが耳に入ってくる。檻の中でただ座りこんでるしかないあたしは、なんだか取り残さたような気分になった。そのうち、ちゃんと見てなきゃいけないかも、って思い始めた。取り残されるとかなんとかじゃなくて、なんかの拍子に自分に回ってきませんようにとか、早くやり過ごしたい的な態度で目をそむけているのが、すごくズルいことで、逃げてるみたいな気がした。
ありえない扱いを受けてる。それでも、あの子が汚れたようには見えなかった。絶対に壊せないものを、黒スーツトリオが躍起になって壊そうとムダな努力をしてるようにすら見えた。
いつまで続けるつもりなんだろう。暴発したネズミ顔は問題外にしても、一回のエッチにかかる時間がどのくらいなのか、見当もつかない。いちばん最初にあの子に手を出したポマードはまだ動いている。っていうか、ポマードが動きを止めるってことは、そういうことだから…ある意味、ずっと動いててもらわないと困る。あれ、なんか違う。ずっと動いてられても困る。いや、でも…。
アタマの中に無限スパイラルが生まれそうになったとき、
「おい、こら」
 と、声がした。あたしが言われたのかと思って声の方にピントを合わせると、下を向いた三拍子があの子の目線を上げさせようと、つかんだ頭をゆすっていた。あの子は興味なさそうな目をしているだけで、三拍子の顔を見ようとはしない。まぁ、見たくもないだろうけど。
「あの目はどうしたよ?」
 は? 目が、なに? 意味分かんない。
「見せてみろよ、あの目をよぉっ!」
 三拍子がまた同じことを言う。その瞬間、無関心だったあの子の目に、強い光が差した。冷たくて、鋭い光。三拍子は気付いてない。こういうの、殺気っていうんじゃ…。あの子の変化に気付かないまま、三拍子はさらに調子に乗って口を開く。
「オレに胆きったときのあの…」
三拍子の言葉は、途中から悲鳴に変わった。その場を飛びのき、床にうずくまる。あの子はそれにはかまわず、ずっと後ろに引っ張られていた腕を一瞬にして振りほどき、ラグの上に手の平をついて自分の身体を支えた。力のバランスが崩れて、ヒゲの上半身が前へかたむく。まっすぐ伸ばして体重を支えていたひじをぐぐっと曲げたあの子は、ラグから両足のひざ下を浮き上がらせた。そのつま先が、背中に覆い被さってくるヒゲのお腹に向けられる。と、押さえつけられていたバネが弾けるように、あの子の全身が伸び、ヒゲのみぞおちにつま先が吸いこまれた。
声を上げるヒマもなく、ヒゲはエビみたいに背中を丸めた姿勢になる。がら空きになったヒゲのあごの下が、今度はあの子の足の裏で蹴り上げられた。のけぞったヒゲの身体が宙を飛ぶ。あたしの視界を横切るヒゲの両足の付け根から、白っぽく濁った水みたいなものが勢いよく噴き出すのを見てしまった。今の…アレだよね。ううっ、記憶消したい。
ヒゲが壁にぶつかったらしい音がした。怖いもの見たさで様子をうかがうと、壁に寄りかかるようにして座りこんだ姿勢のヒゲは、白目をむいて痙攣している。ズボンとパンツが中途半端に脱げて丸出しになったさっきの水鉄砲に、真っ赤な血がついているのが見えて、あわてて目を離す。
ラグの上では、ひざ立ちになったあの子が、指を組んだ両手を高い位置からポマードの顔の中心に思いっきり振り下ろしたところだった。三拍子やヒゲになにが起こったか理解しきれてなかったらしいポマードは、たぶん状況を把握しきれないまま撃沈したに違いない。それくらい、あの子は早かった。誰にも抵抗する余裕を与えずに、流れるような動きで大人の男の人を三人もやっつけた。あんな状況から、あっという間に。
そういえば、あの子は護衛団のリーダーなんだった。あたしとあんまり変わらない年齢のはずの女の子を、すごく年上に感じた。精度の高い占いの力があたしにあると分かったときから、あたしの側には護衛の人たちがいるのが当たり前になっていた。でも、護衛のみんなが実力行使であたしを守るところを見たことはない。とはいっても、あたしが気付かなかっただけで、かなり危なかったときがあったみたいだけど。
護衛団のメンバーの中では、たぶんあの子がいちばん若い。しかも、つい最近ウチに来たばっかだ。それでも、ダルツォルネさんに代わってリーダーになった。当然、かも。あたしは目の前で起こった出来事に素直に感心していた。
それぞれ変態チックに下半身を露出して床や壁際に倒れる黒スーツトリオの中央で、真っ白な身体がゆらりと立ち上がる。その姿は、汚い泥の中に落とされた種から吹き出した芽のようで、あたしはずいぶん前に読んだ、どこかの国の伝承物語に出てくる花の妖精を思い出した。アルラウネ。
あの子の意外にくびれた細い腰がまっすぐに伸びる前に、赤いラグが床を離れて浮いた。全然動かなくなったポマードの身体が、死体みたいにフェイクファーを転がって床に落ちる。視界に広がった強烈な赤が、白い肩にかかって裸の身体を隠した。お尻の間から太ももの内側にまで伝う血の筋がちらりと目に入ったけど、すぐにラグに覆われて見えなくなった。
背中を縮めて両手を足の間に挟んだ三拍子が、意味のない叫び声を上げ続けながら、まだ床を転げ回っている。あの子は足音も立てずに三拍子に近づいていき、汗ばんだ大きな顔の前で止まった。思いがけず汚らしいものを見た、って顔をして、床につばを吐く。三拍子のものらしい血の混じったつばだった。普段なら鳥肌立つほど大嫌いなその行為だけど、今あの子がする分には責める気にならない。あの子がさっきまで口の中に入れられていたもののことを考えると、何度この場でうがい薬を使って口をゆすいでも足りないくらいだ。
 顔のすぐそばに立ったあの子を、三拍子が見上げる。
「てめえ…やりやがったな…。てめえのひみ…っ!」
三拍子の恨み言は、
「おとなしくさせておきたいのなら、自分の出した条件を忘れるな」
あの子の静かに響く声にかき消され、突然のぐしゃっ、て音を最後に止まってしまった。食事中に魚やお肉を丸ごと床に落としちゃったときみたいな音。あの子のかかとが三拍子の顔面にめりこんでいた。うわぁ…、容赦ない。折れた鼻、治りかけてたのかもしれないのに…。
なんてことは、あの子にとってはどうでもいいことらしく、冷め切った目で三拍子の様子を見ている。ぴくりとも動かない。それを確認してから、ようやくあの子が檻の方へ歩いてきた。
 やった! やっと、ここから出してもらえる! あたしは鉄格子に手をかけてあの子に笑いかけた…けど。肩透かし。あの子が立ち止まったのはあろうことか、ネズミ顔の前だった。小鼻をひくひくさせながら、ネズミ顔がおびえた表情で上目づかいにあの子を見る。こんな表情までネズミそっくり。
「死んではいない。救急車でも呼んでやれ。携帯は持っているか?」
 え? なに言ってるの? いいじゃん、あんな人たちに救急車なんて。あの子がネズミ顔に向けた思いがけない言葉に、あたしもその顔を見上げた。目の周りが、口元が腫れている。唇の横に、乾いて変色した血がこびりついている。髪に隠れて見えないところにも、きっといくつも傷がついてるに違いない。
聞かれたことをちゃんと理解したのか、ただの条件反射なのか、ネズミ顔は必要以上に繰り返し首を縦に振っている。
「早く」
少しいらついてるようにも聞こえる口調であの子に言われて、ネズミ顔はおたおたとジャケットの裏ポケットに手をやった。何度も取り落としそうになりながらケータイを取り出す。救急の番号を押すだけなのに、緊張してあわてているせいでやり直してばかりだ。なんとか最後の数字を押し終えた後、しばらくして回線がつながると、震えた声でつっかえつっかえこの場所と今の状況を伝え始めた。バカなんだろうけど、底なしのバカってわけでもないみたいで、あたしやあの子のことについてはなにも言わなかった。
通話を切ったネズミ顔が、あの子を不安そうにうかがう。あの子はそんなネズミ顔には目もくれず、ケータイを取り上げて、その手で握りつぶした。ネズミ顔があごを落として固まった。もちろん、あたしも。無表情にケータイ壊すのも怖いけど、もっと怖いのはその壊し方だ。…握力、強すぎ。
「行け。ドアは開けたままでいい」
 目で部屋の出口を指したあの子の声に、ネズミ顔は立ち上がった。うまく立てずに足をもつれさせて転び、ほとんど四つんばいみたいな姿勢で部屋を出て行く。あの子に言われたとおり、ドアはちゃんと開けてった。というより、ドアの開け閉めを気にする時間も惜しいって感じだった。ドアの外、階段の方で大きなものが転げ落ちたような音がした。ネズミ顔、パンツ汚れたままだけど、気持ち悪くないのかな、とつまらないことを考えてしまう。
「少し、時間をください」
 気付くと、あたしの真正面にあの子がいた。不謹慎だけど、鎖がない方の肩に無造作に引っかけたラグを身体に巻きつけた姿が、妙に色っぽい。赤も似合うね、なんて言える雰囲気じゃないから、つい、
「えっ…と、大丈…夫?」
バカみたいな質問をしてしまった。あんなことされた後なのに、大丈夫?とか聞いてるあたしって。それも、いまさら。
「ええ」
すぐに、決まりきった答えが返ってくる。大丈夫じゃない、なんて言うわけがなかった。この子の仕事はあたしを守ることだ。いろんな意味で、強い子なんだな。傷やアザが目立っても、やっぱりキレイな顔をじっと見つめていると、黒い瞳があたしの目を捕まえた。親指から一本の鎖を引き出しながら、あたしをまっすぐ見つめている。
「目を閉じていてくれませんか」
怒ってはいないけど、言うとおりにしなきゃいけないと思わせる声だった。
「あ、ごめん!…なさい」
素直に謝って、目は閉じずに檻の中で身体全体の向きを変える。太ももの内側に、けっこうな量の血が見えたのを思い出した。身体の汚れをなんとかして、服を着る時間が必要で、それを見られたくない、ってことだよね。気がきかなくて、ごめん。
 あの子の気配を背中に感じながら、声がかかるのを待つ。でも、なかなか声はかからなかった。もしかして、置き去りにされた? と弱気になったとき、突然檻がゆれた。めきめきっと鉄格子がきしむ音がする。それに続いて、ばきんっ、とか、がきんっ、みたいな大きな金属音。
びっくりして振り返ると、目の前にぽっかりと鉄格子が消えている場所ができていた。んーと、ここには檻の扉があって、ムダに頑丈そうな南京錠が…って。ちょ…っ! その扉、なんであなたが持ってるの!?
「な、なにしたの?」
 思わず聞くと、青い服をきっちりと身に着けたあの子は、なんてことなさそうな顔をして、
「その気になれば、ボスにもできることです」
 そう答える。
「え、ムリムリ、そんなの」
あたしは顔の前で小さく手を振って笑った。それができるなら、ナイフの刃におびえながら閉じこめられたりしないし。あの子は持っていた扉を支え直した後で、なにかを試すような表情をした。
「占いをなさるときの集中力を、わたしの手元を見ることに使ってください」
「あ、はい」
 神妙に返事をして、言われたとおりにする。あたしにもできるってことは、なんかコツみたいなものがあるのかもしれない。意識して、意識して。占うときみたいに。と、あの子が両手に一本ずつにぎっていた鉄格子の棒が、いきなり真ん中に向かってぐにゃりと曲がった。あの子は軽く力を入れただけって感じだったのに。だから、なにをすればそんなふうに曲げられるの!?
見えたでしょう、とあの子の目が聞いている。さっきと違ってかなり真剣な顔だったから、適当に答えることはできなかった。真剣な…顔? あれ? あの子の顔から傷やアザが消えてる。あたしが後ろ向いてる間に…? 念能力ってやつ、かな? 聞いてみたかったけど、今はそんな空気じゃない。
「あなたが、素手で鉄の棒を曲げたっていうのは見えたけど…」
「それだけ、ですか?」
「それだけだよ。他になにか見えなきゃダメなの?」
 ホントにそれしか見えなかったあたしは気持ちが引けてしまう。あの子の目の中に、当惑を隠そうとする努力を見つけてしまったから。ウソをつけばよかったのかもしれない。でも、なにが見えたのか聞かれちゃったら答えられない。
「…分かりました。けっこうです」
 小さく息をついて、あの子が話を終わらせようとする。いやいや、全然「けっこうです」って顔じゃなかったよ。一瞬だったけど、ものすごく大変なことみたいな顔してた。やだもう、気になるじゃん。あたしは食い下がってみる。
「ねぇ、なにが見えればよかったの?」
「帰りましょう。みんな心配してます」
見事に聞こえなかったことにされて、鎖に飾られた白い手が目の前に差し出された。この子、今、みんな心配してます、って言い切った。心配してると思います、でも、心配してるはずです、でもなくて。もしかして、気を使われてる? 自分がいちばん大変だったのに、なんでこの子は。自分の意思とは無関係に口の周りの筋肉が痙攣して、唇が横に広がった。泣きかけてるな、あたし。
泣いてる場合じゃない。救急車が来ちゃったら、あたしたちが面倒なことになる。床に手をついて腰を上げた。ひざを伸ばして…。ひざ、を…?
…ウソっ!? これ以上、身体が持ち上がらないんですけどぉ!? 腕に力を入れて、もう一度ひざに言うことを聞かせようとするけど、やっぱりどうにもできない。黒スーツトリオにからまれたときからずっと緊張しきってたせいで、ここへきてどっと脱力しちゃったらしい。時間ないし、ここは正直に白状しとこう。
「ごめん…。立てない…」
まったく、情けない。立てなくなるような目に遭わされたのはこの子の方じゃん。二重に泣きそうになりながら、あの子の顔を見上げた。その口元がちょとだけ柔らかくなったように見えたのは気のせいだろうか。すぐに背中を向けてかがみこんじゃったから、はっきりとは分からなかった。
あたしを守ってくれた青い背中の両側から腕が伸びる。えっと…おんぶ? うん、どう見てもおんぶだ。自分で歩いてください、って冷たく言われるのかと思ってたから、ちょっと焦ってしまう。
長い袖からのぞく、鎖が巻きついた右の手首に、紫がかった鎖模様のタトゥみたいなアザが残ってるのが見えた。たぶん、三拍子に踏みつけられたときのだ。顔はキレイに戻ってるのに。本物の鎖の陰になってて気付かなかったのかもしれない。
 見つめていたあの子の手首があたしを呼ぶように動いた。そうだった、早くここを出なきゃ。そろそろと這って、あの子の肩につかまった途端、身体が宙に浮いた。何年ぶりだろ、おんぶなんて。
 お尻の下に、あの子の手が回る。と、急に恥ずかしくなった。あたしの下着、べとべとなんだった。この子がいいように身体をおもちゃにされるの見せられて、どうしようもなく濡らしてた。それなのに、おんぶなんかしてもらっちゃったりして。ひざ上ワンピだし、バレたらどうしよう。絶対、軽蔑される。ネズミ顔のこと、あんまバカにできない。
「あっ!」
ネズミ顔で思い出した。
「ナイフ!」
 救急の人が来てこの部屋を見たら、警察呼んじゃうかも。あたし、ばっちり触っちゃった。と、あの子があたしをおんぶしたまま、背中をひねった。片方の手があたしのお尻を離れて、檻の方へ向けられる。薬指から鎖が伸び、その先端がナイフの柄を引っかけてこっちへ弾き飛ばした。
 長い鎖が手元に戻るのと同時に、ナイフがあの子の手の中に収まった。すごい! 手品みたい。
「他に忘れ物はありませんか?」
「う、うん、なにもない」
 あの子はあたしを両手で背負い直して、歩き始めた。開け放されたドアを抜け、狭くて急な階段を下る。走るようなスピード。ゆれはほとんど感じないけど、一階に着くころには目が回りそうになっていた。
 長くてもほんの二、三数時間のことだったのに、久しぶりに外の空気を吸ったような気がする。空はすっかり夕方の色だ。遠くから救急車のサイレンが聞こえる。あの子はそれを避けるように、音とは逆の方向に足を進めた。
 三拍子に言われてから、もやもやしてしょうがないことがある。聞きにくい。すごく聞きにくいけど、聞いておかないとこの先、二人の顔を見るたびに気持ちが落ち着かなくなる。深呼吸して、切り出した。
「あ、あのさっ! パパのことなんだけど!」
 歩きながら顔だけで振り向いたあの子の目が丸くなって、すぐに細められた。髪と髪が触れ合うほどの近さで、その目は微笑んでるようにも、計算してるようにも見えた。うん、聞きたいことは伝わってる。
「仕事以上のことは、なにも」
 それだけ言って、あの子は顔の向きを戻した。ウソじゃなさそう。別に、そういう関係だって答えを覚悟してたわけじゃないけど、拍子抜けした。ヘンなこと聞いて、まともな答えが返ってきて、ちょっと気まずくなった。一人じゃないのになにもしゃべらずにいるのって、苦手だ。気まずいついでに、知りたいことは聞いちゃおう。もう、ショッピングなんて気分にはなれないし。
「ねぇ。やめちゃう? あたしのボディガード」
「いえ、それはありません」
「ホントに? よかったぁ。そういえばさぁ、あれ、なんだったの? ゼンジって人だっけ? あの人が言ってた、条件、みたいの。目がなんとかっていうのと関係あ…」
「わたしの内面にかかわることですので、お答えできません」
わっ、ばっさり切られた。まだしゃべってる途中だったのにぃ。沈黙。かなり…気まずい。地雷、踏んじゃったかな。なんか、盛り上がる話題は…。これなんかどうよ!?
「え…っと、今日のお礼にっていうか、お詫びにっていうか分かんないけど、帰ったらあなたを占ってあげる!」
あの子が交互に足を出す一定のリズムが軽く乱れて止まった。その背中で小さく弾んでいたあたしの身体のリズムも乱れて、あわててしがみつく。占い、興味なしかぁ。足が止まるほどのNGネタでもないと思うんだけどな。
「…百発百中らしいからさ、あたしの占い!」
必死に自分をフォロー。ふと、あの人のことが頭に浮かんだ。あの人を占った四行詩に、悪いことは書かれてなかっただろうか。あたしは占いの結果は見ないことにしてる。もう一度会えたら、直接言えるのに。よくないことが書かれてたら、うまく読み取ってそれを避ければいいんだよって。
立ち止まったあの子は、あたしのお尻から片手を外した。降ろされちゃうのかと思ったけど、そうじゃなかった。少し顔を横に向けたあの子の視線を追うと、古びたビルとビルの隙間に行き当たった。せまいその場所に、いろんなゴミがぎっしりとつめこまれている。変わったモノでも捨ててあった? 人間の耳とか指ならちょっと見てみたい。
あの子の手が、なにかをゴミの山へと放る。檻の中から持ち出した、ネズミ顔のナイフ。銀色の刃が夕日を反射してきらめき、ガラクタの奥へと消えた。あ、そういうこと。持って帰ってもしょうがないし、目立つところには捨てられないもんね。
占いの話を立ち消えにしたまま、あたしたちは大通りに出てタクシーを捕まえ、ホテルにたどり着いた。組織の会合とかで、パパがでかけてたのはラッキーだった。戻るなり、部屋で待機していたみんなの質問攻めにさらされたあの子は、電話で連絡したとおりだ、と言っただけで、後はなにを聞かれても答えなかった。
あの子じゃラチが明かないと判断したのか、今度はこっちに質問がばしばし飛んできた。あたしはえへへ、と笑って答える。
「ちょっと面倒に巻きこまれて、少し遅くなったってだけのことだよ。無事に帰ってきたんだから、問題ないでしょ?」

テーブルの上に積まれた紙の束。その一枚一枚に、あたしのじゃない字でいろんな人の名前や生年月日が書いてある。今月分、ずいぶん溜まっちゃったな。愛用のボールペンを親指の背中でくるくる回しながら、ため息をついた。その小さな風で、いちばん上の紙のはじっこが軽くめくれる。
 ヨークシン・シティから屋敷に戻って何日も経つけど、あたしとあの子の間にはあの日のことを感じさせる空気はまったく生まれなかった。まるで、自分だけが悪い夢を見てたんじゃないかって思ってしまうくらいに。あの子の顔には相変わらず愛想ってものがなくて、必要のない会話には全然乗ってこない。
 もう一回トライしてダメだったら、今日はもうやめよう。…何回トライしてもムリって気もするけど。
あのときは、あの子になにを試されてるのか全然分からなかった。でも、今ならなんとなく分かる。あの子はたぶん、それで気付いた。
あたしの中から消えてしまった"天使の自動筆記"。