*クラに優しいヒソがダメな人、抵抗不足のクラがダメな人には勧めない


 肩先に慣れない重みを感じて目を覚ます。瞼を上げた先に見えたのは、自分のものではない手だった。軽く背中を丸め、身体の側面を下にして眠っていた私の肩が、その前腕の止り木になっている。
 背後から伝わる体温が、近い。また、この男の横で朝を迎えてようとしていた。今回は、あのときとは違う。あのときは、男に陥れられたも同然だった。だが、昨日は薄弱な意思に流されて、男の元を訪れた。こうなると半ば判っていながら、だ。
 胸に広がる自己嫌悪が、今なにをすべきか判断するための能力を麻痺させていた。あの日のように、男が目覚める前に部屋を出て行きたかったが、この腕を動かせば男は必ず気付く。
 左胸の脇に密着する自分の腕の内側に、鼓動の早さが伝わってくる。まだ夜は明けていない。早く帰らなくては。仲間のいる、彼のいる部屋へ。
「起きてるんだろ?」
 突然の声に、男の腕を乗せた肩が跳ねそうになった。いつから知っていたのだろう。

 それなりに高い場所にあるこの部屋のベッドに寝ていても、立ち並ぶ高層ビル群の航空障害灯の光がいくつか目に入る。空気中の埃が洗い流されて、その赤い輝きがクリアに見えた。昨日降り出した雨は、すっかり上がっているようだ。刷いたような白い雲が、まだ暗い空に高くたなびいていた。
 目を覚ましたらしい彼女が、肩に置かれたボクの腕の処遇に困っている。寝返りのふりをしてどかしてあげてもいいけど、彼女がこの腕をどう片付けるのか興味があるから、そのままにしておく。
 メールでの呼び出しに応じてボクの部屋にやってきた彼女は、急な雨に全身を濡らし、熱まで出して震えていた。帰してもよかったけど、本人にその気はなかったようで、ボクは彼女が望む「自傷行為」に付き合った。
 あんなことをした翌日だから、ボクと顔を合わせずに帰りたいに違いない。なのに、当の彼女は、なにかきっかけがないと動き出しそうになかった。きっと、肩の上の腕を動かしたら、思惑どおりには帰れないとでも思ってるんだろう。ずっと動けないのもなんだから、そっと声をかけた。
 彼女の肩に緊張が走るのが判る。動けないのか、動く気がないのか、固まったままだ。じゃあ、もう一声。
「帰らないのかい?」
 言い終わる前に、
「…言われなくても、そのつもりだ」
 と、緩やかに、肩を大きく前に倒した。居場所を失くしたボクの手が、その背中を伝ってシーツに滑り落ちる。荷重の消えた腕で、身体にかかるブランケットを静かに払い、彼女は身体を起こした。
 腰の向きを変えて、彼女がベッドの横から脚を降ろす。下着だけが残る、白い背中が綺麗だった。案の定、ボクの方を見ようともしない。背中を向けたまま、頭だけがゆっくり部屋を見渡すように巡っている。
 なにを探しているのかはすぐに判った。雨に濡れた服は、彼女が眠った後に、換気スイッチを入れっぱなしにした浴室に下げてある。見つけるまで、少し時間がかかるかもしれない。ボクがそんなことに気を回すような人間だなんて、彼女は絶対に思ってないだろうから。
 暗い部屋で、そんなふうに服も着ずに、いつまでも背中を見せていない方がいい。数時間前、彼女の口の中に吐き出しはしたけれど、あんな慈善事業的な流れで満足できるボクじゃない。
 あれから彼女を抱こうとしたのにそうしなかったのは、抜け殻みたいに無反応な身体を開いても楽しめないからだ。本気で拒んでいながら、快楽を求める身体に引き摺られて呑まれていく姿を、ボクの手で作りたい。
 どうしよう、かな。ボクの指の侵入を許さなかった、柔らかな亀裂の感触を思い出す。自分の意思でボクから遠去かろうとしている今、また同じように拒絶するだろうか。
 手を出さないことを条件に、彼女をこの部屋に引き留めた。でも、まっすぐに凛然と伸びてはいても、薄くて頼りなげな背中を眺めていると。けっこう、迷う。こんな気分になるなら、無理にでも昨日のうちに帰してしまえばよかった。

 この部屋に来て、男のなすがままに脱ぎ去った服は、床に散乱しているはずだった。ここから見える範囲で目を走らせたが、探し当てることができない。クローゼットの中にでも放り込まれているのだろうか。
「探しもの?」
 背中に張りつく視線が、言葉を発した。判っていて訊いているのが知れる。振り返らずに訊き返した。
「…どこだ?」
「バスルーム」
 意外なことに、すぐに返答があった。思わず、耳を疑う。先程から気にはなっていた。今の男の声には、いつも私を苛つかせる揶揄の響きがない。この男には似つかわしくない、倦怠の漂う口調だった。
「判った」
 なぜバスルームなどに、と訝しみながらベッドを降りる。下着だけの姿で男の前にいるのは心許ない。だが、これまでの経験で体得していた。それが態度に滲めば、却って自分の身を危うくする。ここには、私しかいない。男の存在を意識から追い出し、バスルームへ向かうために足を踏み出した。
 突如、後ろから腰を抱えられたのは、二歩目が床に届く直前だった。ベッドに引き戻されたかと思うと、背中に男の胸が触れ、視界を天井が横切った。身体が反転して止まったときには、伏臥する私の上に男が覆い被さっていた。
 両肘が外に向いた腕の手首が、大きな掌でシーツに押しつけられる。男の体重がまともにかかり、跳ね除けることさえできない。胸が、苦しい。

 つくづく我慢の利かない性格だ、と自分で思う。樹から落ちずに熟すと見込んだ青い果実が育つのは、うずうずしながらも一応は待っていられるのに。
 勿体ぶらずに服の在処を教えたときに彼女が見せた、勘繰るような一瞬の躊躇と、ボクに付け入る機会を与えまいとする余り、逆に不自然な円滑さでベッドを離れる動きに、つい試してみたくなってしまった。
 まるでボクがいないかのように振舞う彼女を捕まえるのは簡単だった。引き寄せた身体を抱えてベッドを横転しただけで、呆気なくボクとシーツの間に挟まれる。
 即座に罵られるに違いないという予想は、見事に外れた。ボクの下から這い出そうとはしてるけど、それはなんとも力なくて、彼女がまだ昨日の状態から脱しきれていないことを窺わせた。
 乱れた髪が、枕に半分埋まった横顔にかかっている。その隙間から覗く目は、狼狽えたように視線を細かくさまよわせていた。
 彼女の耳許に顔を近づけて、囁く。
「ボクが、このままキミを帰すとでも?」
 なんて、嘘だ。彼女がボクを撥ねつけてくれたら、そのまま帰して構わない。それでもそう言ってしまうのは、きっと断れない彼女の、困惑する顔を見たくなったから。そして、結局ボクと寝るという選択を下す瞬間に酔いたいから。
 狼狽の消えない瞳が、かなりの時間をかけてようやくこちらに向けられた。彼女に限って、そんなことあり得ないはずなんだけど。その顔は、ボクの心変わりをまったく疑ってなかったかのように見えた。
「…昨夜は、なにもしないと言った」
 彼女の反論は、やけに歯切れが悪い。言ってることは正しいのに、なぜか自信を持てずにいるらしい。ボクを見つめる視線が、だんだんと逸れていく。
 世界中の至るところに転がってる民俗話が頭に浮かぶ。窮地を救われた動物が、その恩に報いようと身を削る、とか。あるいは弱みを握られて留まらざるを得なくなる、とか。
 その手の伝承を踏襲するように、彼女もボクに借りを返さずには帰れない、なんて考えてるんだろうか。もっとも、ボクには彼女を助けた覚えはないし、今だって脅してるつもりはない。
 なにもせずに朝まで添い寝だなんて、大した意味もない気まぐれが、器用な優しさに見えたというのなら、そこは訂正しないでおこう。義理を感じるのも、負い目を感じるのも彼女の勝手だ。
 昨日の彼女の不安定さを利用して、普段ならきっと激しく暴れて抵抗するに違いないようなことをさせた。ボク自身も、どちらかというと面白みがないと思う、唇や舌での愛撫。口の中に出されたものなんか吐き捨ててしまえばいいのに、おそらくは飼い主の躾に従ってすべて飲み込んだ。
「ボクの言葉を信じるとはね。それに、日付はとっくに変わってるよ?」
 逃げる視線を追って、子供でも使わなそうな屁理屈を重ねると、彼女は肩に頬がつくほどに俯いた。どうせ思いつきやしないのに、うまく逃げ出すための言い訳を探している。思いついたところで、今の調子じゃボクに押し切られるに決まってるだろう。
「手荒な真似はしない。今日だけ、だけど」
 キミがあまりに弱ってるから、と言いかけた口は、閉じることにした。

 背中にのしかかった男の膝が、私の脚の間に滑り込んでくる。この嘘つきめ。なにもしないと言ったではないか。心の中で毒づいた。それを強く口に出せなかったのは、無視することもできた、男からのメールに頼ってこの部屋へ足を運んでしまった自分の無恥ゆえだ。
 必ず潰すと強く誓い、念能力を封じるところまで追いつめた蛛の頭を潰せなかった。…違う。それでは齟齬がある。殺さなかったのは、自分の意思だ。そこに至るまでにふたつの生命を屠ったというのに、怨恨も憎悪も晴れはしなかった。残ったのは、生命が散る瞬間を伝える鎖の感覚と、底の見えない虚無。
 命がけで私を止めてくれた、仲間と呼べる者たちの思いを裏切れなかった。蜘蛛を成す者たちが、己の仲間を悼み、頭を守るために生命を投げ出す姿を目の当たりにして心が揺らいだ。言い逃れはいくらでもできる。私はただ、二度と仲間を失いたくなかったのだ。
 念能力の使用及び、蜘蛛のメンバーとの接触。それらを禁ずることを制約に蜘蛛の頭の心臓に楔を打ち込み、隔絶された断崖に放擲した。死にも等しい、依り処となるものを奪われる苦しみを与えるために。だが、あの男はそれで苦しんだだろうか。
 幾度殴りつけても波立つことのなかった、あの男の眼の光。常に死を受け入れ、享受していると確言された心音。復讐が無意味な相手を追い続けていたのだと、悟った。
「なにか言いなよ」 
 先程から一方通行の言葉を重ねている男の唇が耳朶に触れた。背筋に震えが走る。嫌悪の震え、ではなかった。そのことに気付いて、自分で驚く。
 あの日、離陸直前の飛行船に強引に乗り込んだ男は、かねてから蜘蛛の頭を狩りたいと望んでいた。それでも念願を果たすことなく目的地の断崖を立ち去ったのは、男が相手に求める価値を、私が無効化していたからだ。
 長引く高熱が落ち着き、ホテルの名称と部屋番号だけが記された、男からのメールを見たとき、この男なら私を立ち上がれなくなるほどに傷め、壊廃させてくれるのではないかと思った。自棄に駆られるまま、その性器を口に含み、流し込まれたものを飲み下した後で、男は間違いなく私の身体に苛烈な制裁を加えるのだろうと思った。そして、私はそれを切望していた。
 逆鱗に触れられても激昂しない龍になど用はない。にもかかわらず、一夜越えた今、私を罰しようという意図も感じさせない男にこうして組み敷かれていることが、それほど嫌ではないばかりか、心地よい、とは。
 ほとんど言葉を返さない私に業を煮やしたらしい男が、ようやく遅すぎる悪意を見せた。
「あの日、彼が横にいたね。もう寝たのかい、彼と?」
 弾かれたように、男の顔を仰ぐ。その悪意は、胸に鈍い痛みをもたらす針だった。
 空港を離れる車の中で、少しだけと目を閉じただけのつもりが、気付けば朽ちかけた部屋に横たえられていた。
 眠りの中で、仕事仲間の声も聞いたような気もするが、目覚めたときに私を看ていたのは、彼ひとりだった。私に背を向けてドアの側に佇むその姿を見た瞬間、心の奥に押し留めていたものが急激に膨らんで、制御できなくなった。
 彼はおそらく、私が均衡を失った意識の中で求めたのだと思ったに違いなかった。だが、実際はそうではない。時折記憶が曖昧なところがありはするものの、意識は概ねはっきりしていた。
 遥か昔のようにも思える数ヶ月前に、彼と過ごした一夜だけが、多幸感の内に他人に身体を開くことのできた時間だった。その後、繰り返し私を辱め、貪り、蹂躙したのは、この男ばかりではない。穢された、などという浅薄な悲愴に満ちた感傷に浸る気もない。しかしそれは、私自身のみに焦点を当ててのことだ。
 幾度となく男たちに無遠慮な欲を注がれたこの身体を再び彼に任せるには、やはり私は穢れすぎていた。熱に浮かされたふりでもしなければ、彼に触れることさえ叶わなかった。そんな芝居を演じてまで彼に添おうとする自分が、ひどく滑稽だった。

 少なからず心の支えになっているはずの彼について言及した瞬間、おとなしく組み伏せられていた彼女がボクを振り返った。動揺に強張ったその顔に歪みが生じ始める。両端の下がった眉の間に浅く縦皺が刻まれ、見開かれた目の周囲が細かく痙攣したかと思うと、すぐに口許へ伝染していった。
 たぶん、泣く。下の瞼が涙を浮かび上がらせる前に、大きく息を吸い込みかけた彼女の震える唇を重ね、舌を差し入れた。こんな表情で泣く彼女なんか見たくない。どうせ泣くなら、ボクに玩弄されることへの憤懣や、思うように抵抗できない自分の不甲斐なさに苛立って泣いてくれないと。
 口腔に侵入したボクの舌を、彼女はさり気なく避けた。唇を一度離してから、掴んでいた手首の片方を背中側に引く。大した力は使ってないのに、腰から上が簡単に捻れる。身体を胸の下を通して潜らせて、引っ張った勢いで伸ばされた細い腕をまたベッドに押しつけた。
「手荒な真似はしないとは言ったけど、キミに合わせるとは言ってない」
 彼女の顔を真上から見下ろす。まったく、なんて表情してるんだ。これじゃあ、まるっきり…。ただの女の子だ。興醒めする。
 と、思った矢先、やられた。眼差しが変化していく。気圧されたようにボクを見つめ返すだけだった弱々しい目が、苦しげに寄せられた眉の下で、すっと細められた。彼女はゆっくりと瞳を横へ逃がす。
 大切に抱えていかなくてはいけないものを、一時的にどこか見えない場所に隠そうとしている。ごまかし切れない後ろめたさを滲ませた瞳。逆説的に共犯をそそのかすには絶好の隙だった。
「…抵抗するなとも言ってないから、イヤならいつもみたいに暴れてくれて構わないよ」
 随分な言い草だと、自分を笑う。おとなしすぎると調子が狂うから、ちょっとは逆らって欲しい、なんて言えるわけがない。
 でも、檻から逃げようともしない手負いの獣に面白みを見出せない、というのは本当だ。だから、さっき確実に傷をつけたところを突ついてみる。
「それとも、目でも閉じてあの彼だと思ってみるかい?」
 わずかに開いていた唇が強く結ばれた。彼女はさらに眉を寄せ、瞬きにしては長い時間をかけて目を伏せる。同じだけの時間を使って開かれた瞼から現れた瞳が、その中心にボクの顔を映していた。厚い水の膜が張った小さな黒い鏡の中の笑みに、自分で見慣れた歪なゆとりがないことに、少し驚く。
「…今は」
 これまでほとんど口を利かなかった彼女が、不意に言葉を紡いだ。単調な声には、昨日みたいな贖罪もどきの気配も、自暴自棄な投げやり感もなかった。なにを言い出すのかと、心の中で少しだけ身構える。続く言葉が、彼女の最終的な意思決定だ。
 そして、彼女が導いた決断がボクの鼓膜を打った。
「彼の話をするな」
 全身が総毛立つ。彼女がボクの獲物の能力を奪ったことを追及する気がないことは、昨日の時点で伝えてある。今のボクらの間に、蜘蛛を巡る取引はない。彼女の組織内での立場を逆手に取った圧力をかけられる期間も過ぎた。
 なんの枷にも捕らわれてない、素地のままの彼女が、口先だけでもあの彼を切り離すなんて信じられない。彼と、なにがあった? 一瞬、彼女の保護者みたいなことを考えかけて、打ち消す。そんなこと、ボクには関係ないじゃないか。
 もう一度口づけても、拒みはしないだろう。わずかに濡れた瞳に吸い込まれるように、顔を近づける。と、お互いの薄い皮膚が触れ合った刹那、微かな痺れを頭の奥に感じた。同時に、思わず顔を引いてしまった。
 柔らかな静電気のような感覚。彼女を抱こうとするとき、いつもそれはあった。ボクに弄ばれる彼女が見せる反応が面白くて、いちいち気にしてなかっただけだ。
 同じ感覚が彼女にもあったらしい。至近距離でボクを見る目が戸惑っていた。きっとボクも、似たような表情になっている。
 このまま、彼女を抱いたらどうなる?

 まただ。これまでは抗うことに精一杯で、取り立てて意識する余裕のなかった感覚。それがいつもより強く感じられて、首を竦めた。触れたばかりの唇が離れ、私は男を凝視する。不可解そうな顔が私の目を見返していた。
 男に抱かれるとき、必ずと言っていいほど訪れる、この電流めいた小さな衝撃が厭わしかった。決まって内臓が収縮したまま元に戻らなくなるような絶頂に追いやられ、解放された後も、楔の抜かれた空洞がいつまでも疼きを訴える。
 男にも、そんな覚えがあるのだろうか。目で問いかけようとした途端、視界がぼやけた。顔を下げた男の舌先が私の閉じた唇を割っていた。貪るような性急さはなく、緩慢に追迫して楽しむ様子もない。
 浮かんだ疑問が急に瑣末なことのように思えて、私は軽く噛み合せていた歯を開き、男を口腔に迎え入れる。舌が絡め取られる。上半身だけを仰向けに捻られた不自然な体勢で口を塞がれ、息苦しさを感じた頃、男の舌は歯列の裏を這い始めた。
 身体の奥に潜む魔の蟲が蠢き出す。現金なものだ。傀儡同然だった昨夜は、性器に触れられてさえ沈黙を守り通していたというのに。
 上体を返されたときから手首を押さえていた男の掌が下着の胸に移り、乳房を柔らかく握りながら撫でた。五本の指に様々な方向から幾度も薙ぎ倒される胸の先端は、確かな快楽を腰の内部へと伝える。やがて、下着が捲り上げられた。刺激を与えられて敏感になっている先端をその裾で擦られ、私は小さく呻く。
 私の声を拾った男の指の腹が、固くなった頂点を押さえて回る。時折、力を入れずに爪を立ててくる。思わず腰を浮かすと、脚の間にある男の膝に性器が当たった。この膝のせいで、捩れた上体に下肢の向きを揃えることができない。
 下着の生地が、ぬめった抵抗をもって性器の表面を滑るのが判った。恥ずかしくなるほどに濡れている。男にも、それは伝わっていたようだ。そこに強く押しつらけた膝が、亀裂をなぞるように動かされる。
「昨夜は、全然反応しなかったくせにね」
 私の唇から舌を抜いて、そう笑う。その腕から逃れられずに、身体だけが行為に適した状態になっていく私を嘲弄するのが常だった男の、残忍さのない、軽やかな笑い方。だが、その軽やかさも声だけで、表情にはやはり倦怠があった。
 既視感のある表情だった。思った瞬間、半年前の夜が脳裏を駆けた。あのときの彼が見せた表情だ。互いの意思が一致したうえで身体を添い合わせ、行き着く先は決まっているのに、私の扱いに困っているような、降ろせない重荷を持て余しているような顔。
 これまで、触れられていないところなどないのではないかと思えるほどに私の身体を探って面白がっていたこの男が、今更なぜ私の扱いに困る。玩具や道具でありこそすれ、落とさないよう抱え込まなければならない存在ではあるまい。男がなにを考えて私を抱こうとしているのかが判らない。

 上あごの裏側を荒らされながら、あるいは身体の奥を突かれながら乳房の頂点を嬲られることに、彼女は弱い。自分じゃ気付いてないんだろうけど、密着したボクの膝に合わせて腰が揺らめいている。
 大抵は、意思に反して震える身体を抑えようと苦心する顔や、ただでさえ狭い彼女の中がボクの指や性器を締めつける力でそれを知る。控えめとはいえ、こうして自分から快楽を得ようと動く彼女を見るのは初めてだった。
 今は彼の話をするな、なんて台詞を吐くのは、自分の心を占める彼の領域の広さを白状するようなものだ。彼との間にあったなにかを忘れられるなら、誰に抱かれても構わないのかもしれない。少なくとも彼女は今回、それに適した相手をボク以外に見つけることができなかった。
 耳の後ろから首筋へと舌を這わせた後で、指先で練っていた突起を口に含む。同時に上がった声には、刺激に耐えようとするいつもの気負いが感じられない。なるほどね。頭の中で、拗ねた溜息をついた。彼と寝るときは、こういう声を出すわけか。
 なんとなく、不満。舌で優しく転がしていたところを吸って、強めに歯を立ててやる。またもや素直な声で啼かれて、少し気が腐った。でも、まぁ、こだわっても仕方ない。
 傷みやすい果実の薄皮を剥がすように、彼女の下着の腰に指をかけて脚の方へずらすと、彼女は身体をくねらせて、尻を浮かせた。素直すぎてつまらない。そう思ってたはずなのに、今までにない振る舞いが却って新鮮で、その先を見たくなる。
 彼女に被せていた身体を起こした。ボクの膝が障害になってろくに動かせない片脚を持ち上げて肩に担ぎ、白い太腿を胸の前で抱える。これで彼女は両腕の自由だ。だけど、その自由は、ボクに押さえられていたときの形のまま、シーツの上に放ったらかしにされている。
 可能とあらば、一方だけででもありったけの力を使って抵抗してきた細い腕がボクを退けるために振るわれることもなければ、求めるために差し伸べられることもなかった。
 まだ尻の丸みの麓に引っかかっている下着を、太腿へと滑らせる。彼女の脚を取り巻く布の輪が膝まで達したとき、掲げられたその膝が、ゆっくりと曲げられた。ボクはそれを妨げないよう、抱える腕の力を緩める。
 膝の角度が深くなる。手の動きを止めて、稀少な蝶の羽化を見守るように屈曲していく白い脚を、ただ眺めていた。生地がふくらはぎを伝い、くるぶしに差しかかる。彼女の足首が緩やかに回った。つま先から抜けて弾かれた輪が、その片割れの残るもう一方の太腿に小さくまとまる。
 辛うじて腕の中にある脚の先端をそっと両手ですくい上げ、軽く唇を当てた。冷たい足が、ぴくりと跳ねる。それだけだった。蹴りのひとつでも見舞ってくれれば、こんな乱調、すぐに抜け出せるのに。
 気が変わったら、いつでも逃げていい。その時間を与えるつもりで、脚の根元へ向けて殊更丁寧に唇を繰り返し落としていく。

 男の唇が、舌が、脚を遡ってくる。肌を吸われ、啄まれる度、唐突に重力が消えるような浮遊感に晒された。これが続けば、いずれ私は私に似た別のものに占拠されてしまう。
 身体を起こして、私はどうかしていたのだ、と男を押しやり、この場を離れたかった。動くなら、今を逃してはいけない。だが、一方で、それができないことも判っていた。
 すでに膝は男の肩越しに折れて、そこから先を背中に預けた格好だ。内腿にかかる吐息が、もう脚とは言えないところにまで届いてくる。微かな風を受けて、その場所が冷たくなった。触れられていることに対する生理的な反応ではない。身体の奥が、この男を待っている。
 足の先からゆっくりと、けれども間断なく落とされてきた口づけが、不意に止まった。瞬間、頭をよぎった、なぜ、という言葉に続くものに気付いて血の気が引く。

 なぜ、止める?

 男が動きを止めた理由を知りたかったのではない。それは、止めるな、という強い欲求によるものだった。猛烈な恥ずかしさが湧き上がる。私は、自分の意思を蔑ろにする自分の身体を嘆かわしく思い、憤っていたのではなかったか。
 帰ろう。この部屋で目を覚ましたときは、迷いもなくそうするはずだったのだ。恥じ入る必要はない。つまらない錯覚に呑まれそうになっただけだ。
 使い道すら忘れていた腕を動かし、掌をシーツにつけた。起き上がるために、肘を支えに肩を上げかけたそのとき、突然背中が反り返った。鼻にかかった高い声を皮切りに、喉から上ずった喘ぎが次々と溢れる。
 性器の亀裂を割って、温かく濡れた舌先が音を立てていた。内側の襞が捲られ、陰核が舌に弾かれる。一際耳障りな声を上げてしまった後で、反り切った首を恐る恐る戻した。信じられない思いで、開かれた脚の間にある男の頭に目を向ける。
 視線に気付いたらしい男が、目だけで私を見た。唇を離し、顔を上げる。連れ帰れない、衰弱した仔猫でも見るような表情をしていた。その中で、濡れた口許が動いた。
「…遅いよ。もう待たない」
 突き放す口調に僅かに混じった溜息が、私を咎めている。なにを咎められ、なにを待たれていたのか判らないまま、性器が指で大きく左右に掻き分けられた。私に言葉を返す間も与えず、男はどことなく憮然として見える顔をまた脚の間に埋めた。
 口にすべき言葉を思いついたわけでもないのにただ開いただけの唇からは、自分のものとは認めたくないような声が吐き出される。両肘で上体の重みを支えるのが辛くなり始めた。もう、起き上がって男を退けようという気にはなれなかった。
 身体の両脇に立てた肘の幅を外側へと滑らせて広げ、力を抜く。背中にシーツの感触を得て息をついたのも束の間、男の指が数本、一気に根元まで突き入れられた。
 深くまで届いた指の先が、粘膜の壁を責め立てる。強く吸われる陰核の裏を擦るように指の付け根が押しつけられ、私は耐えられずに身体を丸めた。横向きに縮めた姿勢の中で、片脚だけが男に腿から持ち上げられている。
 男の肩の上で揺れる、折れた枝のようなその脚が、快楽の波を捉える度に大きく震えた。

 意図的に作った隙、充分すぎる猶予を、彼女はものの見事に潰してくれた。こんなぎりぎりになって、ようやく自分の取るべき行動を思い出すなんて。ボクが勝手に決めた制限時間だ。ボクの都合で勝手に切り上げても、構いやしないだろう。
 寒さを堪えるかのように蹲った彼女は、これまでボクに聞かせたことのない声を出したのを後悔しているのか、握り締めた指の背を噛んで、懸命に息を殺していた。もう一方の手は、穴が開くんじゃないかと思うほど強くシーツを掴んでいる。彼女のやることなすこと全てが、いちいちボクのツボを刺激するから、困る。
 彼女の中から溢れて指を濡らすものが、微かな酸味を帯び始めていた。何度か軽い絶頂を味わっているのは、指に絡みつく内壁の痙攣具合からも読み取れる。そろそろ、この手の快楽に身体が焦れてるに違いない。
 こっちだって昨夜から我慢してたんだ。いい加減、ボクの方が報われたっていい。指先を曲げ、粘膜を掻き出すようにしながらゆっくりと引き抜く。しっかりと押さえていた脚を内側に倒して閉じてやると、彼女の潤んだ横目がボクを見た。
 指の背中を唇に当てたたままで向けられる、縋るような視線には、本人の自覚がない分、相当な破壊力がある。そんな顔しなくても、ここでやめたりしない。さっき、そういう意味のことを言って聞かせたはずだ。
 彼女の横顔を挟んだ位置に両手をつき、腰を落として重心を移動させる。蕩けた裂け目に性器の先端が入ると、彼女が肩を竦めて息を呑んだ。その拍子に髪が揺れて目許を隠す。
 ボクを素直に受け入れる彼女の顔を見ていたい。反射的に、シーツを握る彼女の手首に丸く浮いた骨の辺りを掴んで、軽く捻った。唇の端が苦しげに歪み、細い指がシーツを手離す。それを確認してから手首を強く引き、彼女の胸を開いた。手首を持ち替えて、上から押さえつける。少し前と、似たような体勢。
 彼女の怯えた表情にぶつかって、これは手荒な部類に入ったかな、と自省する。でも、キミの相手は頭の中の彼じゃない。ボクと寝る以上、辛い姿勢を強いられることは、多少なりとも覚悟してくれないと。
 本当は身体の絡ませ方なんて、どうだってよかった。ただ、あの優しそうな彼は、彼女を大切に扱いすぎて、無茶な真似をしようなんて考えつきもしないだろうと思っただけだ。
 触れてはいけないと仰せの対象だし、敢えて言葉にすれば、彼女はきっと自分にブレーキをかけてしまう。だから、口には出さない。

 キミの身体、あの彼じゃもう手に負えなくなってるだろうね

 言わない代わりに、一息に彼女の身体を貫く。怯えて大きく開いていた目がさらに大きくなり、ボクを見据えた。全身を硬直させて、空いてる片手でボクの肩を掴む。その手が懸命にボクを押し戻そうとしていた。心構えもできないうちに訪れた快楽に迎合しきれず、とっさに排除に動いたってところか。
 差し当たってなんの魂胆もないボクが、こんな反応で退くわけがない。片腕で体重を支え、肩にかかる華奢な手首を取る。力で負けるはずもなく簡単に外れた手は、彼女の顔の横に押し留めた。
 掌の中で、手首が生きた魚のように跳ねる。見開いた目は、まだボクをまっすぐに捉えていた。呼吸が異常に浅い。だからか。やけに締めつけがきつい。気持いいけど、ちょっとまずいな。奥に突き上げた腰はそのまま、彼女の耳に顔を寄せる。

 腰の奥深くに男の性器が打ち当てられた瞬間、身体の芯に強い衝撃が走った。そこから血流が逆巻き、手足が末端から徐々に失われていくような、この男と交わったときだけ起こる得体の知れない焦燥感。
 急斜面の岩場に放られた、歪な小石と同じだ。地面に触れたが最後、踊るように弾け飛びながら落ちていくしかない。否応なく身を削られて、やがて残るのは、終わりの見えない抜き差しの擦過に収縮し、快楽を取り込もうとする性器の感覚だけだった。
 この男を相手に、自分がそこまで浅ましい生き物に成り下がっていくことが許せなかった。仲間との、半年を経た再会前のたかが数日。その程度の時間の中で何度蹂躙されようと、自分は変わりはしない。あの日私は、それを確かめたかったのだと思う。
 彼の腕の中でなら、事実を忘れることはできなくても、記憶を薄めることはできる。この男に植えつけられた快楽を刈り尽くし、雇用主に塗り込まれた屈辱を洗い流し、純然とした悦びで満たしてくれるのは彼しかいないと信じた。
 そして、高熱の力を借りて、彼を誘った。私の体調を気遣ってのことだろう。気の毒になるほど及び腰になっていた彼だったが、私が自分を卑しめるような言葉を使い、脅しじみた下手な駆け引きを仕掛けると、怒ったような顔をしてついに折れた。
 思わず口にしてしまった卑下は、実際の懸念でもあったけれども、彼がその懸念の出処を完全に誤解したことに安堵を覚えた。嘘を吐いたわけではない。誤解を正せば必ず生まれる溝を回避しただけだ。いつの間にか、私は狡猾さを身につけていた。
 初めて肌を重ねたときと同じ、優しさと、温かさと、少しの強引さ。そこには微塵の計算もなかった。彼と一体化する悦びに胸が踊った。
 快楽は、もちろんあった。だが、触れられているのに、伝わってくる感覚がなぜか鈍い。身体中の神経を研ぎ澄まし、彼の全てを感じようとしたが、うまくはいかなかった。透明なゲル状の膜に全身を覆われているかのようで、歯痒さだけが募っていった。
 わずか数日の間にこの身体が浴びた様々な玩弄を、彼は知らない。どこになにをされれば反応してしまうのか、どう動けばそれから逃げられるのかは、その数日のうちに私の身体に強く刻み込まれていた。彼に対しては、逆のことをするだけでいいのだ。
 できるものか。その遍歴は知らないが、女に不慣れではないはずの彼だ。実行した途端、私の身に起こった異変を悟られるのが怖かった。せめて、いずれ彼が放つであろうものを私の中に留めておきたいと、その腰にしっかりと脚を絡ませ、しがみつくのが精一杯だった。
 こんなはずではなかった。もっと乱暴でいい。物のように扱って構わない。慎みもなく、そう言えばよかったのだろうか。そんなことを口走った結果、彼に軽蔑の目を向けられたら、私はもう二度と、その隣に立てなくなる。
 もどかしい快楽から、身体が崩壊しそうなあの感覚を誘発しようとするのは、逃げ水を追うのに似ていた。そう遠くはないところにある絶頂に、手が届くことはなかった。
 以前、男が残した言葉の棘が甦り、胸を刺した。

 どんなに惹かれ合っていても、身体の相性が抜群だとは限らないからね

 その男に、また不自然に捻じ曲がった姿勢を取らされ、腿の裏と尻に腰を叩きつけられていた。自分本位にむやみに突くだけなら、まだいい。雇用主のときのように、醒めた頭でいられる。
 見えない場所に刻印を附するかのように、男は一回ごとに奥まで押し込み、私が洩らす声や顔の歪みを確認してから、抜ける寸前まで引き、再び突き入れる。私の顔を上から眺める表情が、私には判らないなにかを危ぶんでいる。視線は全く逸らされなかった。
 …この顔。どこか少しでも彼に似ていれば、それを自分への言い訳にできただろうか。このどうしようもなく鮮烈で抗いようのない快楽が、彼からもたらされるものだったら、あれほど惨めな思いをすることはなかった。今のように、拒絶らしい拒絶もしないまま、彼との溝に疼く身体に男を受け入れることも。
 詮ない考えを無意味に巡らせているうちに、気付いた。私が男を見つめているから、男は目を逸らさないのだ。苦しい。気付いた瞬間、手足の自由を奪われて水底深く引きずり込まれていくような息苦しさに襲われた。
 私を見下ろしていた男が眉を寄せる。その顔が降りてきて、視界が男の肌の色に霞んだ。吐息が耳にかかる。
「なにも考えなくていい」
 微かな緊迫を伴った声が、
「ゆっくり息をして」
 泣き出した子供でも宥めるようなものに変わったかと思うと、開いた唇が私の唇に隙間なく重ね合わされた。互いの口腔がひとつの空間になる。舌は、入ってこなかった。
 過度に呼吸をし過ぎていたらしい。言われたとおりに呼吸を調整すると、男は時折、唇をずらして酸素不足を補う。
 男が危惧していたのはこれだったのか。放っておいてくれればいいものを。気遣われている自分が哀れになる。息をする度に、唇の角度を変えられる度に、奥まで詰め込まれた男の性器が粘膜を抉り、程なく私を快楽の頂点へ押し上げた。

 腰に密着した彼女の尻が、激しく痙攣した。顔が近すぎて彼女の視界に入らないのをいいことに、やめてくれよ、と顔を顰める。ただでさえ、搾り出されるんじゃないかと思うくらいに締め上げられていたところだ。こんな状況じゃ射精すに射精せない。
 一応は、コントロールできる範囲。鎮まるまでは落ち着かないけど、これ以上彼女を追いつめる気分にはなれなかった。それに、解消できなかった欲求なら、これから行く予定のところで発散することもできる。その世界の性質上、中にいる人間を狩っても構わないだろう。目的のモノを探し当てて、然るべき相手に教える。それさえ済めば、他にすることもないし。
 彼女の呼吸もだいぶ安定してきた。貸しってことにしておこう。うまく事が運んだら、彼女にも経過を伝えて煽るつもりでいる。徹底的に責め立てて楽しむのは、そのときでいい。
 なんのために呼んだんだか。集中した血液を冷ますために、自分に呆れてみる。唇を横へ滑らせ、彼女の耳の辺りを軽く啄んだ。蠢き続ける粘膜の中から引き抜くと、早々に身体を起こして背中を向けた。
 なにもしない、なんて言いながら結局抱いた。いつもなら、欠片ほどの罪悪感も持たずに絶頂を迎えた身体に劣情を注ぐのに、どうやらボクにあの彼を重ねていたらしい彼女にそれするのは、なぜか躊躇われた。
 このうえ彼女の顔なんか見たら、珍しく無理した意味がなくなる。それでもちらりと視界に入った彼女は、鎖骨の下まで捲り上げられた下着を直しもせず、繭の中に閉じ篭るように、捻れた身体を丸めようとしていた。
 ボクの前に現れる彼女は、いつでもなにか負のものに満たされていて、ボクの入り込む余地がない。受け入れられないと判っているからこそ、気ままに彼女を弄ぶことができた。恒常的に充分な空き容量にもかかわらず、ボクがなにひとつ手元に置かないのは、自分が飽きっぽい性分だと知っているからだ。
 壊れてしまえば捨てるだけだから、遊んだあとのことは考慮しない。壊すまでの過程が面白いから、賢しげな計算と強引さを併用して手に入れる。大抵のことはそうやって叶えてきた。手段なんて選ばない。
 彼女にいて欲しい。昨夜はたぶん、本気だった。一夜明ければ、そんなことを考えたことすら忘れてると思ってたはずが、まだ離れるのが惜しい。背後の彼女をどうしたかったのかも判らないくせに。
 息を殺して潜むような彼女の気配を感じながら、ただぼんやりとベッドの上に座っていた。頭の中に、真っ白な短毛の猫がいる。締め出されたわけでもないのに、居るべき場所に戻ろうとしない猫。
 けしてボクに寄り添うことはなく、毛の一本一本に警戒を滲ませ、それでもボクの側にいる。抱き上げて柔らかな毛を撫でても、喉を鳴らしたりはしない。食事を与え、行き届いた手入れを施してなお、よそよそしさの消えないその猫を連れて、ボクは日常を過ごす。そんな日々は、悪くない。
 だけど、その日常の数カ月後を思い浮かべることはできなかった。ある日突然、猫は行方をくらまし、ボクはそれを始めから知っていたかのように苦笑いをして先へ進む。行方をくらますのは、あるいはボクかもしれなかった。
 不意に、後ろからスプリングの沈む小さな揺れが伝わってきた。背中に強い視線が刺さっている。その視線と、ボクの名前を呼ぶ張り詰めた声に振り向くと、真っ白な猫と目が合った。
 ボクが最後に目の端で捉えた姿勢から、彼女はベッドについた両手をまっすぐ伸ばし、起こした上半身を支えていた。
「どういうことだ?」
 渇いた声だった。さらりとした乾きじゃない。ひどく執着していたものを見失い、たった今、長らく水の一滴も飲んでいなかったことを思い出したような、そんな渇きに聞こえた。
 昨日の夕方から一緒にいるのに、今頃気付いたのか。発熱と過労で観察力が低下していたとしか思えない。
 なにを指しての問いかは、すぐに判ったけど、ボクからは持ち出さない。彼女の策略に堕ちた彼と対峙したときに、背中から追い出した蜘蛛。まさか彼女が彼を「ただの人」にしてしまっていたとは、予想もしていなかった。
「ボクは、奇術師だよ?」
 そう言って歪ませたつもりの口許はたぶん、それほど不遜には見えてない気がした。

 この男に抱かれた後は、ひどい体力の消耗を感じる。今もまた、抗い難い疲労にまどろみかけていた。と、重みを増す瞼の縁が違和感を捕らえた。逃さぬように、瞼を押し上げる。間違いない。
 眠りに落ちる寸前の私を引き留めたのは、顔に寄せた自分の膝の向こうにある、男の背中だった。思わず身体を起こし、口にした男の名が、喉に絡まって掠れる。
 かつて男に呼ばれたあの部屋で、赤く染まった視界の中に確かにそれはいた。数字の染め抜かれた、十二本脚の。
 動揺を抑えるのも忘れて投げかけた問いに、男は答えにもならない答えを返してくる。口許に浮いた中途半端な笑みは、私を出し抜いたしたり顔でもなく、愚問と言わんばかりの呆れ顔でもなかった。
 幾度も脚を割られ、その奥をいいように掻き回された。だが、あの忌まわしい蟲の棲む背中を、そういえばあれ以来見ていない。いや。実際は、蜘蛛の頭と男を残して断崖を離れた飛行船の窓から半身の服を脱ぎ捨てた男の姿を見てはいた。
 そのとき見えたのは仇敵の黒いコートの背中だけで、飛行船が男の裸の背中が見える位置に達したときには、断崖の人影がどんな表情をしているのかも判別できない高度にあった。男が掲げた腕の先から、なにか白い布切れが風に流れたのを目にしたが、私の記憶に焼きついた男の背中の証は、そんなものに描いてごまかせる類のものではあり得ない。
 あれが男の持つ、念能力のひとつだとしたら。それでも、並の力量ではその精巧さや質感を保つのは不可能だ。そこに力を注ぐメリットはどこにある。
 突然、ベッドが大きく縦に揺れた。身体が跳ね、めまぐるしく働く思考は呆気なく吹き飛ばされた。仰向けに寝転がった男の顔が、ベッドに立てた手のすぐ近くで私を見上げている。
「結論は出たかい?」
 今度こそ、したり顔と呆れ顔が同居した笑みがそこにあった。結論どころではない。剥き出しの乳房のほぼ真下で男が笑っているのに気付き、私は捲り上げられたままだった下着を手早く下ろした。
「そんなことしなくていいよ。もう、見慣れた」
 男の唇の両端が今にも吹き出しそうに緩むのを見て、まだ不充分だったことを知る。内心の狼狽は男に読まれているだろうが、あからさまに慌てふためくよりはいい。何気ないふうを装ってブランケットを手繰り寄せ、腰から下の素肌を覆った。
「…どんな仕掛けを使った?」
 努めて落ち着きを取り繕っているのが、自分でも判るほどだ。男には、私の様子がさぞ面白く映るのだろう。鼻で軽い笑い声を立て、
「教えない」 
 肝心なことは、混ぜ返すような一言で片付けた。直後、よからぬことを思いついたように目を細め、再び口を開く。
「…ボクの質問に答えたら、教えてあげるよ」
 先程まで鳴りを潜めていた酷薄な光が、その目に宿っていた。

 なんだ、やっぱり見えてなかったのか。睨むようにして蜘蛛の去った背中を見つめていた、さっきの彼女の反応もうなずける。
 以前、あの疑似餌に引っかかってくれたときの彼女は、憎悪に満ちた壮絶な殺気を全身に漲らせながらも、貴重な情報源を前に、見ていてかわいそうに思えるほど激しく葛藤していた。もっとも、ボクは楽しませてもらったけど。
 いよいよ彼と差しで闘れると思って一部だけ披露した"薄っぺらな嘘"は、彼女への演出でもあった。嘘つきのちょっとした罪滅ぼし、みたいなもの。
 残念、見逃したならそれまでだ。次にその気になるまで、種明かしは二度としない。知られたところで痛くもならない"伸縮自在の愛"とはわけが違う。キミだって、隠してる能力があるだろ?
 でも、条件付きでその気になってもいい。存在したはずの証の行方を思案する最中、突然距離を縮められて焦ったくせに、冷静な顔を作って肌を隠したキミが、けっこうかわいかったから。
 ボクの満足する答えを出すことが、その気になる条件。
「もし…さ、ボクがクロロを殺したら、キミはどうする?」
 瞬間、彼女の顔色が変わった。ボクらの間に漂っていた、共犯者同士の親密さに近しくも異なる特殊な空気が、立ちどころに薄れていく。ほんの数秒だけ、彼女は受け止めたボクの視線を押し返す眼をした。そこに見えた挑むような光が不意に消え、繋がっていた視線は投げ捨てられた。
「…別に」
 溜息交じりの声が、らしくない答えを告げる。あまりにらしくなさ過ぎて、緊迫した沈黙の内に高揚していたものが急激に冷えるのを感じた。失望。
 そう結しかけて間違いに気付いた。失望じゃない。くだらない賭けを仕掛けてしまったことへの後悔だ。ボクが待っていたのは、閉じ込められた豪炎みたいな眼で横奪を断じる答えだけだった。
 成り行きを傍観していたボクは、知っていた。彼の心臓にようやく突き立てた牙を、彼女がどんな思いで折り、それを残したまま引き下がったのか。密閉された炎が燃え続けられるはずはない。
 自分の蒔いた種で生命を危険にさらされた仲間を取り戻すために、絶えず憎しみをくべて育て上げてきた炎を封じるしかなかった。蜘蛛の脚たちもまた、目的を同じくして動いているという事実に揺らぎながら。
「…答えじゃないね、それ」
 呟いたボクの声が、独り言のように小さく響き、溶けていった。ボクから外したままの彼女の視線は、部屋の窓に流れている。その姿が、元の場所に戻りたがって外を眺めている迷い猫に見えた。ガラスの向こうでは、晴れた空が白く明るみ始めていた。

 初めてその姿を見たときから警戒していた。この男には、近づくべきではないと。本能的にそう感じていたにもかかわらず、蜘蛛を知る者を追わずにはいられなかった。
 いずれは屈服してしまうのではないかという畏れを抱きながら、わずかばかりの情報と引き換えに、価値などないはずの誇りを奪われる。昨日。そして今。これまでと似たような行為の後に、奪われたものはなにもない。私は、なにを得た。
 報復と弔悼という名の、私を支える太く頑強な蔓のひとつを断ち切ると決めた。その私から、男はどんな言葉を引き出したかったのだろう。男が投げ入れた小石は、そんな私が心の底に沈めた澱を徒に舞い上がらせた。
 あの男を殺したら、私が貴様を殺す、とでも言わせたかったのなら。生憎だが、見え透いた誘導に失言を洩らすほど、浅い気持ちで蔓を断つ決意をしたわけではない。どうにでもすればいい。どうしてもあの男と闘いたければ、精々、鎖の制約を解く方法を探して奔走することだ。
 巣穴を飛び出す兎を待つような目をした男から逸らした視線のやり場もなくて、窓の外へ顔を向けた。雨の上がった空に、暗雲の影はない。巻き上げられた仄黒い泥土を再び沈殿させるための砕心を和らげるような空だった。夜明けが近い。私の姿がないことに、誰も気付いてなければいいのだが。
 問いかけに返した私の言葉を、答えではないと言ったきり、沈黙していた男が、
「シャワーを勧めたいとこだけど」
 声と共に身体を起こした。男の髪が鼻先を掠め、私の視線はまたその背中の空白に吸い寄せられる。やはり、証の形跡はどこにもない。
「鼻の利く子がいるだろうから、やめとくよ」
 そのままベッドを離れる男には、もう蜘蛛の証について語る気はないらしい。私の顔を一瞥することなく、バスルームと思しきドアを開いた。
 男の姿が消えたのを認め、私は腰にかけていたブランケットを捲った。男の目がないうちに、片方の太腿に残ったままになっている下着を直しておきたかった。
 膝の少し上に絡みついた、布で作った髪留めのようなそれは、男が剥ぎ取ったのではなく、自ら脚を抜いたのだと思い出す。…血迷ったものだ。
 下着に手をかけるのを見計らったかのように、
「忘れてた」
 まだ閉められていないドアの陰から、男が顔を出した。とっさにブランケットを引き被ってから、その瞬間を見られていないことを祈る。
「せっかく乾いたのに、また濡れると困る」
 ベッドを離れたときと同じ姿で現れた男の手には、木製のハンガーに掛けられた私の服があった。その服の青に目を引かれ、見る気のないものまで視野に捉えてしまった私は、不自然さを気取られぬように、ゆっくりと男の顔へと目線を上げる。
 なんの頓着もない顔で薄く笑い、男は私の服を柔らかくこちらへ投げて寄越した。受け取るために手を伸ばしたりなどしない。夜明け前の空に似た青が、視界の底に広がる。
「そこで待ってなよ。ボクの気が変わればだけど、背中の蜘蛛の行方を話してもいい」
 男の唇の端が、ゆっくりと持ち上がった。

 くだらない賭けを後悔したばかりだというのに、また同じことをしてしまった。どうせ負けるに違いない賭けは、全く勝ちの見えないものでもない。心の中だけの嘯きにしても、その気になるまで種明かしは二度としないとは、よく言った。その気になったわけじゃないけど、撒餌に使おうとするのが早過ぎる。
 シャワーなんか、部屋を出る彼女を見送った後でもよかった。自分でも否みきれない本音の一角が、彼女に待っていて欲しいと望んでいる。たぶん、叶いはしないだろう。ボクの企みを感知して警戒するのは得意な彼女だけど、それ以外の心の動きには、呆れるほど関心を持っていない。
 熱く勢いのある水流を身体に受けながら、考える。彼女の全身から立ち上る湯の香り、悪くすれば泡の香料と、ボクの匂い。彼女がシャワーを使おうが使うまいが、あの子ならきっと簡単に嗅ぎ取ることができる。恐らくは忍ぶように戻る彼女とあの子との接触が、なるべく時間をおいてからであればいいんだけど。
 軽く汗を流す程度に留めて、手探りで新しいタオルを取る。濡れた髪の水気を無造作に飛ばしつつ、バスルームを抜けた。賭けの結果を見るにはいい頃だ。
 楽しみを少しでも先延ばしにしようと床に落としていた視線を、そっと進めてみる。乱れたシーツの端が目に入る。額にかかって半端に視界を遮るタオルをずらし、顔の角度を上げた。
 失笑が零れる。その笑みを見るはずの猫は、青い服を攫ってすでに部屋から消えていた。誰もいないベッドが、やけに広い。
 懐きもしない猫を側に置きたいだなんて、一瞬だけとはいえ、随分と現実味のないことに思い捕らわれたもんだ。側にいなくたって、欲しくなったらいつでも組み伏せられる。それよりも、今は彼の心臓に刺さる、鎖の制約を解除するための探しモノ。
 やっぱり独りがいい。タオルをナイトテーブルに放り投げ、頭からベッドの真ん中に倒れ込んだ。寝返りを打って、天井を仰ぐ。朝が来たら、動くとしよう。
 蜘蛛がいた背中に、彼女の残した体温が滲みる。