魔王の花嫁・1



こつこつという規則正しい靴音が、深夜のイルハザール王宮内に響く。
見張りの兵士たちに片手を上げて挨拶をしながら、第二王子リトレスは早くも郷愁にも似た想いが胸に満ちるのを感じていた。
三日後に彼は、隣国ラズウェイの第一王女の夫となり国を離れることが決まっている。
長く衝突を繰り返していた二国の和平の証として、女王とし即位する彼女を終生補佐する役目を担うのだ。
同時にラズウェイの第二王女もイルハザールに嫁ぎ、リトレスの兄の花嫁となる。
そうして二国の血は混じり合い、固い絆で結ばれる。
出口の見えない小競り合いで無為に国民を傷付けることはもうなくなる。
それにそうなればきっと………きっと兄も、変わってくれるだろう。
そう思いながらリトレスは、母親譲りの優しい作りの顔立ちに似合わぬ憂いを振り払う。
とはいえ微量の緊張を意識しながら、彼は言われた通りに兄の私室の前に立ち扉を叩いた。
「兄上、私です」
「リトか。待っていた、入れ」
深みのある響きの良い声が、いつものように優しく彼を呼ぶ。
扉を開けて中に進んだリトレスを、近寄ってきた四つ年上の兄は笑顔で出迎えてくれた。
イルハザール第一王子ギルファス。
青みを帯びて見えるほどの見事な黒髪をした、立派な体格の背の高い若者である。
整って男らしい精悍な顔立ちは、勇猛さで知られた父王の若い頃にそっくりだ。
ただし今の父を見て、若い頃の武勲を想像するのは難しいだろう。
ラズウェイとの何十回目かの戦いの最中、足を負傷して以来彼は変わったと側近たちは口を揃える。
杖なくしては一人で立ち歩けなくなった王は、戦う力はもちろんのこと精神の頑強さまで失ってしまったと言うのだ。
最もこの点はリトレスの意見とは違う。
幼い頃から聡明だが穏やかで、争いを好まない性格の彼である。
父王がラズウェイとの融和政策を取ったこと、賞賛こそすれ腰抜けなどと言うつもりは毛頭ない。
しかし兄のギルファスは、ラズウェイとの融和政策に真っ向から反対し続けてきた。
おまけに父と兄はもう一つ、どうしても意見が一致しないことがあった。
「……リト? どうした?」
部屋へ招き入れられ、軽く抱き寄せられて親愛を示す口付けを両頬にされる。
それ自体はイルハザールでは当たり前のことだ。
だがギルファスが弟に行うそれは、いつも不自然すぎるほどに長い。
今夜も口付けを終えた後、なおも体を離そうとしない。
どころかその指先は、リトレスの肩先当りまで伸びた暖かな茶色の髪をもてあそび耳たぶにまで触れてくる。
背筋をぞくりと走った嫌悪感を悟られないよう、努めてそっと押し返すと兄は少し不満そうな声を出した。
「…………いえ、あの、もうこのような時間ですし、兄上も用事があって私を呼ばれたのでしょうし……」
「何だ、何を他人行儀な。たった二人の兄弟ではないか」
うつむきながら小さな声でそう言うリトレスを、だがギルファスは意外にあっさりと解放した。
先日は同じ状況で腰の辺りを執拗にまさぐられたことを考えれば僥倖だろう。
しかし続けてギルファスはこう言った。
「リト、さあ、こっちへ」
幼い頃と同じ愛称で弟を呼んだギルファスは、葡萄酒の用意がされた卓へと手招きをしてくる。
ためらいながらも一つの椅子へとリトレスが腰を落ち着けると、彼は当たり前のようにすぐ隣に腰掛けてきた。
「あ、兄上、いくら兄弟とはいえども、兄上はこの国の王となる方…………上座に……」
「二人きりの部屋の中で、そのような無粋なことは言うな。ましてお前がここにいられるのは、後たった三日しかないのだぞ」
そう言うとギルファスは、弟以外の人間にはめったに見せない優しい笑顔でにこりと笑った。
特に父に向けて、彼がこのような笑顔を作ったことなどここ数年あっただろうか。
顔立ちのみならず、気性も若い頃の父にそっくりな兄。
長年の敵国から花嫁を迎えよという王の勅命を、ギルファスは当初悪い冗談として笑い飛ばしたと聞いている。
しかしそれが冗談ごとなどではないと知り、あまつさえ弟をその敵国へやるという話を聞いた彼は危うく話をしに来た文官を斬りつけかけたとか。
ギルファスの側近が止めに入り事なきを得たが、兄がそういった反応を示すであろうことはリトレスも半ば予測していた。
ラズウェイ侵攻に向けての準備を、独断で着々と行っていた兄。
それを知った父王に彼が幽閉されかけた時、必死になっておやめ下さいと父に嘆願したことは記憶に新しい。


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