『 協奏曲 』

次男坊


■ 第一楽章 ■

まだ僕らがランニング・シャツを普段着にしていた頃、陽射しや木陰、とめどなく流れ出る汗やそれを冷やす心地よい風は、すべて生活の大切な一部だった。新設の近代的な校舎の外観には、幼いながらに優越感みたいなものを感じていて、どんなに嫌いな教師にも最低限の身内意識くらいは持っていて、季節の移ろいには動物並みの感性で反応した。 僕らは無垢だった。

さようなら、また逢う日まで。二度と逢うことのないその日まで。

夏になると、僕らには遠足があった。春のレクリエーションとも秋の写生会とも趣の違った、むせ返るような夏草の香りで僕らは全身を満たした。遠足=楽しいというのは、僕らがまっさきに覚えたかった公式なんだ。

とはいえ正直な話、遠足の思い出というものを僕はあまり鮮明には記憶していない。目的もなく遊び惚けるだけだから、時間ばかりが過ぎてしまい具体的な出来事が記憶に残りにくかったというのも当然あるだろう。ただ、僕の場合はそれに加えて、より鮮烈な記憶がその上に覆い被さってしまったから、というのが本当だった。

それは遠足の帰り道でのこと。水筒の中身はとっくに空で、外はまだまだ蒸し暑かった。学校の蛇口で補給してくればよかったな、と僕は後悔する。疲れて帰る家路は、どうしてこんなに長いんだろう。一息つこうと、僕は畦道の途中で立ち止まった。

振り返ると、オコちゃんは随分遠くにいた。陽炎がそう見せていただけのことだったろうか。
「カエルでもいたァ?」

僕は声を張りあげる。畦道で僕らの興味を惹くものといったらカエルくらいのものだ。オコちゃんは返事をしなかった。道ばたに荷物を下ろしたまま、じっと立ち尽くしている。それは、いつものオコちゃんのキオツケだった。右肩が下がって心なしだるそうな、いつも先生に注意されるオコちゃんのキオツケ。橇代わりに使ったダンボールが、テントみたいにオコちゃんのリュックにかぶさっていた。

酷く暑い日だったと思う。

せっつく僕の言葉は、結局聞き入れられなかった。あんまり何度も呼んだものだから、落ち着いた汗がまた粒になって噴出してきた。手の甲で汗を拭うと、空が見えた。午後三時の太陽は大きく、まだ熱かった。オコちゃんのずっと向こうで燦燦としている。じりじりと太陽に焼かれているうちに、僕の感情は昂っていった。もうオコちゃんのわがままは無視して、先に帰ってやろうかしらと、そんな風に思った。実際、僕はそうすることにしたんだ。そうすれば、きっとすぐに追いかけてくるさ。僕はリュックを背負いなおした。

しかし、追いかけてくる気配は一向にしなかった。それどころか、はっきりと遠くなっていく感覚を不思議と僕は背中で感じていた。オコちゃんはいったいどうしたのだ。しびれを切らして、僕はうしろを振り返った。

オコちゃん笑ってた。太陽を背負って陰影を濃くした顔は、教科書に載っていた埴輪にそっくりだった。口は裂けそうなくらいににんまりと横に開かれていた。それから眼が、毀れんばかりに見開かれて……すでに毀れていたのだろうか……埴輪に見えたのはそのせいか……子供はあんなふうには笑わない。

僕はその場から逃げ出した。とにかく眼が怖かったんだ。どこを見ているか判らないウロのような眼をしていたのに、差し迫るようなものが確かにあった。何で笑っていたんだ。何か可笑しい事あった? 僕の顔に何か付いていた?

少しだけ走るのを中断した。僕はわりかし人の目を気にする奴で、オコちゃんがついてこない原因が自分にあったのだとしたら、とそんな心配が頭をよぎったんだ。もし僕が嫌われていたのなら、もし僕が笑われていたのなら、僕は理由を突き止めて、それを今後改善していかなければならなかったんだ。ただ、そんな思いも振り返ってみるほどではなかった。それよりも恐怖の方が勝っていたんだろう。走って、走って、汗みずくになった。それから息切れする思考の狭間で、「オコちゃんは暑さで頭が変になったんだ」と結論する。何しろ炎天下だった。それから僕は、

――おかしいな、と考える。

オコちゃんはちっとも汗を掻いてなかったじゃないか。あんなに暑かったのに、健康な子供が汗を掻かないなんてこと、あるのかな。僕は日中のオコちゃんの様子に思いを馳せる。その姿は汗と戯れていたか、健康な子供だったか。……思い出せなかった。

もしかして、と僕はとうとう思い至る。

あの時すでにオコちゃんは死んでいたんじゃないのかな?

だって、そうでしょ? 僕は、水浴びしたみたいに汗を掻いていた。これならいっそ本当に水浴びしてしまいたいと思っていたくらいなんだから。

僕らの学校の裏手には川が流れていて、夏の間はよく仲間とそこに集っていた。その日も、もし川に寄り道していたなら、遊び足りなかった数人と会っていたかもしれない。ヤンやベーやガラなんかが、きっと居たに違いない。

みんな泳ぎの達者な連中だ。背泳ぎでも平泳ぎでも、どうやって泳げば速度が出るものか、やっぱり僕らは動物みたいに知っていたんだ。年に一度の遠泳の授業だって、僕らにしてみればほとんど遊んでいるのと変わらない。

よく晴れた日の遠泳は、最高のイベントだったんだ。

誰が一番早く行けるか。そんな楽しい腕比べも当然のように行われた。といっても、僕自身はそういう競い合いにはそれほど熱心な方ではなく、その日もオコちゃんと二人でのんびり海を満喫するつもりでいた。行きしなのバスの中でそんな約束を交わしていた。

しかし、約束はあっという間に反故にされてしまう。周囲の熱気に気持ちが昂ったのだろうか、オコちゃんは僕を置き去りにクロールでぐんぐん先に行ってしまったんだ。遠くに見える折り返し地点のブイに向けてまっしぐらに。とてもじゃないが、平泳ぎでクロールについていくのは無理だ。

おかしいな、と僕はふと思う。だって遠泳の授業では、クロールが禁止されていたじゃないか。クロールの動きはとても目立つし、もしオコちゃんがそうしていたなら、担任の……何と言ったかな……ナントカという先生が監督船の上から注意していた筈だ。海の上でゆうゆうとボートに揺られながら、そのナントカという先生は「しかあり泳げえ」としきりに檄を飛ばしていた。口には出さなかったけれど、僕は、先生は役得だなあ、と思っていた。なぜなら、当時僕らの学校では、女子でも下半身のみの水着の着用が義務付けられていたからだ。平泳ぎだから見えるのは背中ばかりかもしれないけど、それでも想像の余地は十分にあると思うんだ。僕は何度か、足が攣ったことにしてボートに乗せてもらおうかしら、と考えた。最高学年になるとボートに救助される男子が増えると聞く。競争なんて今さら馬鹿らしいと斜に構えているものとばかり考えていたが、どうやらそれは間違いで、本当に体調を崩した女子が救助されるのをボートの上で待っているというから驚きだ。最高学年ともなれば体つきもふくよかになっているだろうし、それを思いながら僕はまたよろよろとボートの方へ近づいていってしまうのだった。先生がじろりと僕を睨みつける。見透かしたように、口もとには微笑を湛えている。教師というのはスゴイ。その時僕は、そんな漠然とした想いを抱いた。

ところで、オコちゃんはどうしてあんなに速く泳げたのかしら。同じ平泳ぎでそんなに差が出るものだろうか。……でも結局追いつけなかったんだから、オコちゃん速かったんだなあ……最後まで追いつけなかったものなあ……

最後まで、追いつけなかったものなあ……

オコちゃんは本当に最後まで泳ぎきったのだろうか。あの日、十等までは表彰されて、記念のノートや鉛筆が貰えた筈だった。自慢しいのオコちゃん。僕はそれを見せてもらった記憶がない。あんなに速かったオコちゃんが入選できなかったってのは、ちょっと腑に落ちないね。

だから僕はこう考える。オコちゃんは途中棄権したんじゃないか、と。だってあんなに速く泳いだら、普通は疲れてしまって、場合によっては死んでしまうもの。監督船はいくつかあったし、その中のどれかに救助を求めたのかもしれない。僕は監督船に拾い上げられた人を気にしながら泳いでいた。でもその中にオコちゃんはいただろうか。僕が見たのは、あれは確か女子の誰かで……そう、いつも鼻血に困っていたクラスメートだった。彼女は片親で、僕は彼女とは口をきいたことがなかった。担任の名前を忘れるくらいだから、彼女の名前も当然憶えていない。

その日、僕はひとりで帰宅した。海の匂いを嗅ぎすぎたせいで、とても疲れていた。でも、ひとりで帰ったことはよく憶えている。登下校はいつもオコちゃんと一緒だったからだ。オコちゃんはどうして一緒に帰らなかった。

そして僕ははっとする。

僕は一度だけ、海でオコちゃんを見かけたのではなかったか。あの時僕は、海面に顔を浸けたままぷかぷかと、海草になったつもりで海を漂流する遊びを独りでやっていた。オコちゃんは海の中にいた。真っ暗な海の中へ、オコちゃんが沈んでいく……キラキラと輝く海面に手を伸ばして……もがいて……右足だけが麻痺したように動かない……攣ってしまったのだ……その、真っ直ぐに伸ばされた手は、グウとパアを繰り返し、まるで僕に助けを求めているようにも感じられて……オコちゃんの身体が深くて暗い海のそこへ没していく……もう下半身はその中へ飲まれてしまった……手を伸ばしたが届かなかった……そして僕は息が苦しくなって、顔を上げる……
(どうして忘れていたんだろう。大きく息を吸った弾みで記憶が飛んでしまったのか。呼吸と記憶は関係するというから、それが本当なのかもしれない。)

海の上では担任のナントカという教師が、「しかあり泳げえ」と檄を飛ばしていた。僕は、何だ、おまえ偉そうに、と不満に思った。 オコちゃんは海に沈んでしまった。深い海のそこで、やがて腐り、魚に啄ばまれる。そんな時、血はいつ流れ出すのかな。死体に瘡蓋は出来ないだろうから、流れ始めた血はきっと止まらない。全ての血が流れ出てしまうと、それは皺くちゃの老人みたいに縮んでしまうだろう。戻ってきても、もう誰もオコちゃんだとは気付かない。オコちゃんも自分だとは名乗らない。

その夜、夢を見た。

まるで別人となったオコちゃんが、素知らぬ顔で僕らの中に混じって遊んでいる夢だ。僕以外は誰も疑問に思っていないらしかった。オコちゃんは時々僕を見た。バラしたらただじゃ置かないぞ、と脅迫していた。

僕はその偽者のオコちゃんと一緒に下校する。オコちゃんは杖をついていた。腰が曲がって酷く歩きにくそうだ。僕はいつもよりずっとゆっくりに歩いた。本物のオコちゃんは何処に行ってしまったんだろう。僕は沈み行く夕陽の中にその面影をさがす。

やっぱりオコちゃんは、海に沈んでしまったんだ、と僕は自答した。どうしてもそう思わずにいられないのは、オコちゃんのことに思いを馳せると、死んでしまった時の情景ばかりが甦ってくるからなんだ。

     *
「オコちゃんは、どうして何も言わずに死んでしまったんでしょうかね」

スツールに腰掛けた男が、呟いて首を傾げた。対面する小津は、糊の利いた白衣の襟を正してから「さあねえ」といって男から眼をそらす。そのまま診察室を何気なく見わたし、男には覚られぬようひそかに落胆した。かねてから診察室の広さが気になっていたのである。恩師のあとを継ぐかたちで開業したこの診療所であったが、そのことだけが小津の不満であった。自分の城とでも云うべき診察室に眼の届かない場所があると、そわそわして診療中に気が散ってしまう。ベッドとデスク、あとは患者と対面するだけのスペースがあればそれで十分の筈だった。もっと言えば、座ったままで全ての場所に手が届くのが理想だ。開放感があって良いではないかと助手は言うが、それで仕事に支障を来たすようでは本末転倒もいいところである。現に小津は、診察の最中にうわの空でそっぽを向いていることが多々あった。『余剰空間とそれに伴う精神的不安定感』というかつて書き上げた論文は、どこにも発表されぬまま今もデスクの引き出しに眠らせてあった。
「どうして何も言わずに……」

男が同じ質問を口にすると、小津は回転イスを軋ませてゆっくりと向き直った。
「オコちゃんは本当に死んだのか」
「これだけ死んで生きている人間なんていますか」
「そんなに何度も死なないよ」小津は簡潔に答える。
「これは記憶なんです。死んだ、というセンセーショナルな記憶が他の思い出にまで影響を及ぼすことだってあるでしょう? どうしても死んだと思いたい、裏を返せば、死んだという記憶が抜きん出て鮮明なんです。それは事実だからと考えるほかない」
「あまり論理的とは言い難いが……」小津は気遣うように表情を和らげた。「結局オコちゃんの死因は何だったんだい」
「それが判らないからわざわざ先生に訊きに来たんですよ。『死因』なんてのは、だって先生の専門分野でしょ」

小津が、左手の指先でデスクを叩いた。イラつきの兆候が出始めている。コッ、コッ、と鳴る指先を男は凝然っと見つめていた。太腿をつかむ手に若干力が入ったように見えた。痛々しいほどに深いところで切り揃えられた爪が乳白色に染まっていく。先端恐怖症の気があったかしら、と小津はふと思った。
「オコちゃんは不幸な死を遂げた」
「そうです」
「あなたの同級生だった」
「ええ」
「本名は?」

突然、男が身悶えた。一変して軟弱な、なで肩が目立つ態度をとる。
「それが思い出せないんです」と、男は媚びるように口もとを緩ませた。「おそらく周囲もオコちゃんと呼んでいたんでしょうね。もしかしたら、初めて会った時にはすでにそう呼ばれていて、わたしもそれに倣った、そういうことかもしれません。一度も、それ以外の呼び方はしたことがない、と」
「ん、まあ、そういうこともあるだろうね。それなら顔は思い出せるかい」
「問題ないでしょう」男は即答した。
「じゃあ卒業アルバムを見たらいい。本名もそれで判る」

ほっ、と仰け反って男は眼を丸くした。
「成程、考えもしなかったな。うん、確かにその通りだ。うん、いいね……実に、問題は解決したも……」

くぐもったセリフで、語尾は聞き取ることが出来なかった。小津は鼻で息をついて、今日の診断の終わりを告げようとした。すでに日は落ちかけて、店じまいにはちょうど良い頃合いだった。それに、酒が切れかけていた。喉が、虫の這うような乾きを覚えている。煙草をやめてからは、乾きに対応する術をなくしてほとほと困り果てていた。目の前の男の口角に溜まった唾液の泡が、小津にぬるいビールを連想させた。

顔をあげようとした矢先、それよりもすばやい動きで男が思い出す。――何を。オコちゃんは死んでしまったのだ、と男は言った。喜びを分かち合おうかというように、その素晴らしいひらめきを小津に知らせようとする。小津は露骨に不機嫌な顔をするだけで何も答えない。男は構わず続けた。
「だってオコちゃんは、卒業する前に死んだんですよ。アルバムには載りっこない!」

よく気が付いたものだな、と言って男は自画自賛をした。喉が痒かった。
「丸で囲ったりするだろう。ほら、全体撮影の日に休んだりすると。クラスメートなんだから、そういうことはなかったのか」
「そんな善意に満ちた学級だったかなあ」と言って、男はあけすけに笑った。まだ先ほどのひらめきの余韻に浸っていた。思いつくということが、至福なのだ。
「でも見てみましょう。一応、確かめてみることにしましょう」

それがいいよ、といって小津は手元のスイッチに手を伸ばした。
「次の方、どうぞ」

小津がマイクを通して待合室に呼びかけると、それを見ていた男ははっとして姿勢を正した。それから、「次が来ると、今は終わりだったな」と呪詛するように呟いた。すでに小津はカルテに向かっていた。男はそこに書き留められる判読不能な文字列に興味を示すも、引き寄せられるように扉の方へと歩いていった。足音がしないのは、男がスリッパを履かず靴下のまま来ていたからだった。おろしたてのように白い靴下。

しおり@

     *

待合室には数人の患者がそれぞれ離れて座っていた。年齢、身なりともに統一感はなかったが、ほぼ全員がそわそわと落ち着きなく視線を泳がせている。彼らは『次の方』に該当するのが誰なのか判断できずにいた。聞きまちがいを懸念してスピーカーを睨む者、異常に貧乏揺すりをする者、為すすべなく股間に手をやる者……

そのうちの一人が自分の考えについて囁きはじめると、それは他の者にも伝播した。すべてが個人的な呟きであり、相手を持たぬ会話であった。

そんな状況が三分も続くと、スピーカーから今度は音楽が流れてきた。イージー・リスニング風にアレンジされた蛍の光が、冒頭の短い小節をくりかえしている。
「おわりだ」と一人が叫ぶ。それを皮切りに待合室がにわかに騒がしくなった。方々で、「あちゃあ」という嘆きが漏れた。「せっかく来たのに時間切れだ」もちろんその裏には同じだけ安堵も含まれていた。もう次の方に立候補する必要はないのだ。外部からもたらされたやむを得ない中断。彼らはすっきりとした表情でぞろぞろと待合室を出てゆく。皆、自分が通る分だけの隙間を開けて扉を抜けていった。

がらんとした待合室には男が一人残っていた。名を中貫といい、今年四十を迎えたにしては幾分白髪が多いようである。斜めに差し込む西日を受けぬよう座り、窓の外の景色をしずかに眺めている。診療所はビルの四階にあるため、背の低い町を一望することができた。路地の一本に至るまで仔細に記憶された町並みではあったが、中貫は飽くことなく観察を続けた。たとえば工事が行われていれば、そこを重点的に。特別目新しい変化がない場合でも、公園などが突然閉鎖されたりしないかを注意深くチェックする。それは中貫の日課であった。集中しているため、背後に誰もいなくなったことには無頓着だった。また、自分の後頭部に十円ハゲがあることにも気付いた様子はない。診察時間が過ぎたことを告げに来る助手だけが、ハゲのことを知っていた。

いつものようにうんざりした様子で助手が待合室にやってくる。
「中貫さん、もう終わりだから」

普段ならそう告げて、追い出して、終りの筈だった。しかし今日は、いつもより不思議と景色が澄んで見える。事務処理に手間取り過ぎたらしい、と助手は考えた。時刻はすでに五時半を回っていた。

窓際に立っても、普段のように西日のまぶしさに目が眩むことはなかった。
「中貫さん、もう終わりだから」

助手は告げた。中貫は興味深そうに助手の顔を見上げ、けれど何も言わずに立ち上がると素直に待合室を出て行った。からん、と音がして助手がひとり残される。
「こんなちっぽけな町、はぁ、どうしょうもないでしょ」

助手は若者らしいぼやきを漏らした。密集した住宅地が眼下に広がっている。生活が透けて見える開けっ広げな路地裏、すれ違うたびに挨拶を求める習慣、堪らない笑い声、自転車、しち面倒な一方通行の看板、鉄階段……ほとほと愛想が尽きていた。

中貫が、建物や壁といった外観を観察していたのに対し、助手はそこに住む人々のことを思い浮かべる。それはひとえに助手の若さたる所以であったが、ただ今は、就業明けの疲労のせいもあって、その人々はどこか類型的で――助手自身は意識しておらず、また意識していたとしても別に構わないと思うだろうが――表情は乏しく、動作も単調だった。言ってみれば助手の率直なイメージにおける代表格たちが、いまその町には住んでいる。たとえば真っ先に想像されたのは、わが子を背負う女性であった。いかにも平成生まれの顔立ちをしているのに、なぜか古臭いどてらを着て昭和製のおんぶ紐を使っている。女性は四つ辻に立っていた。「オー、ヨチヨチ」「オー、ヨチヨチ」と、同じ言葉をひたすら連呼し、それに合わせて延々からだを左右に揺さぶり続けていた。赤子の方は、泣きやむか、泣き続けるかという狭間で、ウィヤア、という中途半端なぐずりを、やはり延々漏らし続ける。次には、サラリーマンが想像された。ネクタイをきちんと首まで締めて、颯爽と下町の路地を行く。彼はしがない営業マンで、ノルマが達成できてないことに焦燥と恐怖を抱きつつ夕刻の町を彷徨っていた。しかし彼はどこの家を訪問しようともせず、ましてや立ち止まろうとさえしなかった。勇気がないのではない。通行することが彼の役回りであるからだ。延々と彷徨い続けた。だから彼は、誰に対しても横顔だけを晒していた。

他にも大勢いた。むしろ無限に増殖するかのようにさえ思えた。しかし皆、似通っていた。ポートレートのような間延びした時空に幽閉された刹那の人々であった。助手は嫌悪を募らせる。実際、町なかに下りれば所構わず唾を吐いた。上空からもこうして思念の唾を吐いている。唾液にまみれた町。そこは初めからそんな有様だったのだろうか。もしかして助手自身が変わりさえすれば……こんな町だって……というところで助手はいつも思考を遮断した。明日のために書類を整理しておきたかった。今日と同じ座標平面上にある明日のため。

助手は窓際を離れようとした。が、ふと目を奪われる。イメージに特化し軟化した町に、一人だけ顔見知りの、つまり現実の者が紛れ込んでいた。先程まで診察を受けていた男だ。男はふらふらと危なっかしい足取りで、その中を行く。それがどうした、と助手は窓際を離れた。

西の空がたおやかな茜で溢れかえっている。風が夕餉の薫りを運んでくる。そんな慕情を秘めた折角のひと時を、男は俯きがちに歩いていた。呪文のように小声で呟いている。二つのことを同時に出来ない男は、考え事をしているといつも足元がおぼつかなかった。自分の影を踏んで歩けば真っ直ぐ歩けるとでも教えられたのだろうか。何度もクラクションで煽られ、その度に心の底から震え上がった。
「卒業アルバムがどうしたんだよ」

突然、声を掛けられた。男は目を瞬いて立ち止まる。
「なんだと」と精々気を張るのがやっとだった。

目の前には二人の男女がいて、男のほうはやたらと背が高い。ニタニタとしながら男を見下ろしている。男はもう一度繰り返した。
「卒業アルバムがどうしたんだよ」

長身の男は革ジャンを着ていた。男はかつて革ジャンに憧れていた頃のことを少しだけ思い出した。バイクとセットで記憶していることからも、その頃というのが学生時代であることを知る。自分はどんな想いでその憧憬を断ち切ったのであろうか、と男はまた考えた。革ジャンを所有したことも、二輪車の免許を取得したこともない。学生時代の自分は……。
「卒業アルバムが……」

三度同じ質問が投げ掛けられようとした。しかし長身の男は、その途中で言いよどむ。気弱だった男が、一変して不敵な笑みを浮かべていたからだ。
「誘導尋問なんだろ」と男は居丈高に言った。「同じ事を三度も聞いたら、そりゃそうさ、誰だって気付く。相手から情報の開示がない場合、それ以上の情報を握っていないと想定するのが常なんだぜ」

男は無限蝿を追い払うかのごとく、大袈裟に腕を振って相手を威嚇した。「さあ、道を開けてくれ」

二人はきょとんとして顔を見合わせた。それから示し合わせたように、ドッ、と笑いが溢れる。
「でもさ、でもさ」と、女の方が目じりの涙を拭い、はしゃいだ。「そんな風に言ったら、アルバムに秘密があることバレバレだよ」

女は「ああ、おかし」と言って腹を押さえている。笑うと目じりに皺が浮かんだ。男同様若い出で立ちをしているが、それなりに歳はいっているのかもしれない。口紅と同じ色をした扇情的な赤いミニスカートがちらちらと視界をよぎった。
「お前たち、一体誰なんだ!」

堪らず喚いた。
「誰だろうねえ」
「だから、誰なんだ!」

男は顔を真っ赤にし、二人は相変わらずニタニタしている。
「二度目だな」と長身の男が言った。
「誘導尋問かしら」
「まだ分からんさ。三度目が来たら……」長身の男はわざとらしく息を飲む。「きっと誘導尋問だ」
「来るかしら」
「来るさ。きっと来る」

楽しそうに喋る二人を、男は半ば茫然自失として見遣った。夕陽に照らされた二人は、正確な顔色が窺えなかった。影が伸び、頭の部分を女の方が踏んでいた。
「なんなんだ……」男は言う。気勢は完全に削がれていた。
「今のはどっちだ?」
「グレー」

グレー? グレーとは何だろうか。男は困惑した。二人の間だけに通じる暗号のようなものが、何故か今唐突に発せられたのである。途端に恐ろしくなった。いつも自分を脅かすあの不安に感覚的に酷似していて、居ても立ってもいられなくなった。

男は逃げ出した。一目散に走って逃げる。影をも追い越さんばかりだ。

男女はその場に留まって、走り去る男の後姿を見守っていた。
「おっさん元気いいな」
「あれだけぶつくさ言ってたら馬鹿でも聞こえるってのにね」
「でもたまに見たくなるな、卒業アルバムって。小学生くらいの時の、忘れかけた頃のものがいい」
「多分家にあるよ、出してみようか」

二人は何の前触れもなくキスをした。
「憶えているか? あのやたら足の速かった奴」

男は懐かしむように空を見上げた。
「オコちゃんだっけ? たしか死んじゃったんだよね」

それから二人はしばらく同級生だった頃の話に花を咲かせた。クラスメート数人の名前があがり、当時のお互いがお互いのことをどう見ていたかを話し、それから徐々に横道へ逸れ始めた二人の会話は、いつしか昨日の話、そして明日の話へと話題を変えていった。

二人は誓い合うみたいに、またキスをした。

   *

曲がり角が見たところによると、男は転がり込むように通りに飛び込んできた。異常に息を切らせており、元来た方角を執拗に気にしている。追っ手でもいるのかしら、と曲がり角は思った。男は今、電柱の影で壁に凭れながら胸に手を当てていた。曲がり角が聞いたところによると、男は「卒業アルバムの、秘密、まさか、そんなものが……」と切れ切れに吐き捨てた。男には何か心配事があるらしかった。なるほど、道理で、と曲がり角はひとり納得する。曲がり角が触れたところによると、男はジーンズの尻のポケットに鋭利なものを忍ばせていた。曲がり角はそれがナイフであることをいち早く察知していたし、またナイフを持ち歩くものが少数であることも経験からよく知っていたが、さて男は一体何と戦っているのだろう。曲がり角は想像をめぐらせる。

そして、悲しいのだな、と早々に結論した。

心がずきんと痛んだ。本当にやるせない感情だった。子供に石を投げつけられた方がどんなにましか。曲がり角は、雨の日に車に浴びせられた泥のしぶきを拭うこともできずに咀嚼している時、いつも悲しさを感じた。じゃりじゃりとする屈辱的な味。「ああ、無くならない物を食わされているのだ」と絶望的な気分になった。腐り始めのトマトのように、自己の内部に膿んだものが溜まっていくような気がした。鬱屈としたものが内から染み出て、自分はいつか斑模様になってしまうのではないか。そんなことを想像し、吐き気を催した。また、路面との境に密生する苔を参照してそれを心の色に喩えてみると、やはり同様に悲しくなった。見たまま切り出したままの、確固たる形を持った自分の中に、なぜそのような成分さえ定かでないものが混在しているのか。

死にたい。曲がり角は切に願った。しかしそんな自由は与えられていないのだと思い直すと、心ならずも寒気を覚えた。
「まさか家にまで……」男が呟いた。
(そうだ、奴らは家にだって来るぞ)
「しかし鍵が……」
(そんな玩具が何だ。糞を詰めて爆破してやる)
「あんな場所、リビングに侵入されたらすぐに見つかってしまう!」
(だから平和を過信するなと言うのだ。そうした者のじつに何割が、後に欺かれたんだったかな?)

男が駆け出してしまうと、曲がり角は再び孤独に暮れた。幾千回となく繰り返してきた出会いと別れ。いつでも衝撃的で、かわらず感傷的で、慣れることはなかった。短すぎる逢瀬は、いっそ恐怖と呼んでしまった方が明瞭だ。あの世とは逆方向に走り続けたって、結果的には変わらないのだから。

目の前の透明な空間に、圧倒的な質量を持った恐怖がいた。

しかし曲がり角は眩暈の中に必死に眼を凝らしている。斜向かいのふもとでひっそりと咲きほこる黄色い花が見たいのだ。みすぼらしいと貶められがちだが、人々が嬉しそうに抱えて歩くポインセチアなんかより余ほど健康的だと断言できる黄色い花。 やがては白く老い、どこか遠くへ行ってしまうだろう。

でも、いいじゃないか、と曲がり角は朗らかに言う。あんなにやさしく去っていくんだから。無論寂しくないといえば嘘にもなろう。ただ、曲がり角は花と約束をしていた。また来年の同じ時季にきっと咲いてくれるね、と。

ガシャン、ガシャーン。

黄色い花は毎年戻ってきてくれた。まったく同じ場所とはいかず、時には月を慕うようなもどかしい距離があいてしまうこともあったが、曲がり角はそれでも構わなかった。元より互いの干渉を前提にした関係ではないのだ。

黄色い花が好きだ。光であり、希望だった。別れのための出逢い。否、出逢いのための別れなのだ。

朝靄が晴れるように眩暈は解消されていく。曲がり角は花を見遣った。

そこには無残な姿で路面に散らばる花の姿があった。茎と花冠が分断されて、花弁は千切れ、葉が緑色の墨汁を滴らせて――花は死んでいる。死骸がかすかな風に震えていた。雨が降ればひとたまりもなく流されてしまうだろう。下水溝までは遠い、しかしそれから先はもっと長いのだ。屈辱の渦中で一体いつまで息を止めていられるかな。
「心的傾向!」曲がり角は絶叫した。心が捻じ切れてしまいそうだった。

しかし曲がり角には解らない。取り残されたはずなのに、孤独を感じないのはどういうわけか。一つ残ることが孤独というのではなかったのか。

もしかしたら、と曲がり角は考えた。自分というものをもはや自分は喪ってしまったのではないのか。自分がなければ、孤独にもなりようがない。
「だとしたら俺は何だ」
「俺は、蒸気だ。怒りに身をやつした熱き蒸気だ」

それから間もなくして、曲がり角は花の死因を知った。《圧死》である。何者かが花を蹂躙したのだ。潰されて染み出した汁が、ゲソ痕を残していた。

曲がり角は吼えた。そして町内に張り巡らされた壁という壁に連絡を取り、直ちに追跡を始めた。策敵には一秒もかからなかった。次の瞬間にはもう、男を発見していたのである。

しおりA

   *

クラス名簿にも集合写真にもオコちゃんの姿はなかった。ただ、当時の行事を記録したスナップ写真の数枚に、オコちゃんだと予想される人物をみつけていた。その人物を最も鮮明に写したものは、運動会の一場面を記録した写真であった。おそらく徒競走の結果であろう一着の旗を、右手にしかと握りしめ、左手でピースサインをしながら無邪気に笑う彼の姿。運動会は十月に行われたはずだが、体操服から伸びる手足はまだ夏の名残を感じさせる。ピンショットであるため判り難いが、彼はとても背が低かったのだと男は思い出していた。

   *

それなのにオコちゃんは、駆けっこではいつも一番。とにかく運動神経が抜群にいいのだ。運動会の人柱のてっぺんだってオコちゃんがやった。小柄で運動神経がいい人といったらそうなるのが当然なんだ。

てっぺんでピースしてみせると、直前にオコちゃんは話してくれた。オコちゃんの性格を知っている先生は、頼むから危険なことだけはするなと釘を刺していたけども、オコちゃんはまるで聞く耳を持たない。よっぽど自信があったのだろう。

一段また一段、するすると僕らを登っていった。

オコちゃんはてっぺんに到達する。そして起立し、ピースをした。観客が、わっ、と沸いた。僕らだってそうだ。よーし、よーし、と有りのままの興奮が声となった。

素晴らしい思い出。かけがえのない記憶。……それが、どうして卒業アルバムに載らなかったんだろう。徒競走の一着だって立派な記録には違いないけど、人柱のてっぺんは一人しかいない。小柄で運動神経がよく、人望もあってその上勇気のある者、その彼だけが人柱の最上段を任される。あれほどスナップに御あつらえ向きな場面もないじゃないか。

掲載できない理由が何かあったのだとしたら、それはやっぱり、オコちゃんがてっぺんから落ちて死んでしまったからだ。オコちゃんはおよそ三メートルの高さから転落した。何回転して、身体のどこから落ちたのか、僕は知らないけれど、もし頭から落ちたのなら死んだとしても不思議はない。折れた首は、どっちを向いていたんだろうか。

と、それ以外ないという結論を導き出した後でも、僕の心にはもやもやが残った。

あの時、僕は人柱の構成員だった。だから直前の宣言だって聞くことができた。迷いなく踏み出されたオコちゃんの足。背中がその感触を覚えている。その迷いのなさに、僕は確信したんだ。オコちゃんはやってのける、と。

オコちゃんは死んだ。それは、道理に反する結果だったように思う。どうしてそんなことが起きた。他の誰かがバランスを崩したからだ。まず人柱が崩壊し、次いでてっぺんのオコちゃんが転落した。みんな必死だった。人柱を完成させることだけに集中していた。だけど僕は……、みんなが必死だったことを何故か知っている。誰かがバランスを崩したことも、それが原因でオコちゃんが転落したことも、何故か知っている。

バランスを崩したのが僕だからじゃないのか。みんなが必死であるのを良い事に、僕だけが気を抜いていたんじゃなかったのか。僕はみんなほど必死じゃなかったんだ。

「オコちゃんを殺したって?」

小津はたいして驚いたふうでもなく、淡白な口調で聞き返した。診療時間外の訪問であるせいか、色々と態度が露骨だった。後は自分がやるからと、助手は先に帰らせた。
「可能性が浮上した、と言った方がいいかもしれませんが。しかしただ、そのまま見過ごすことができないくらいには、重大なことです」

そう言って男は小鼻を膨らませた。「先生、お酒を飲んでいるんですか?」

小津は不機嫌そうな顔をして「医者が酒を飲んじゃ悪いかい」と答えた。「いいえ」男は首を振る。「その方が親しみが持てます」

小津はますますしかめっ面になった。
「お酒といえば、いま不思議な体験をしてきたんですよ」

小津は、そうかい、とだけ言った。
「自宅から診療所っていうのは、通い慣れた道ですよ。もちろん診療所から帰る時だって同じです。眼をつぶっていたって、まあ壁沿いにさえ行けばまず道は間違えないでしょうね」
「お得意様だから、時間外の訪問も構わないって?」
「ところがですよ! その道筋が変わっているんです。工事で迂回したとか、そういう間違いとはまったく別で、何というか根本的な

ところが違っていたんでしょうな。しいて言うなら……そう、一本道。いや、しいて言わなくても一本道だったか、ともかく他に行きようがないんです」
「キミは、世間話をしに来たのか?」
「違いますよ。でもほら、昔あったでしょう、チキチキ何とかっていう玩具、列車が止まらないように次のレールをどんどん継ぎ足していく奴が。感覚的にはあんな感じなんです」

男は少し悩むような仕草をした。どうすればあの状況がうまく伝えられるだろうか。あの時男は、卒業アルバムを眺めながら相変わらずおぼつかない足取りで診療所に向かっていて、オコちゃんと思しき少年について色々と思案をめぐらせていた。ふと気が付くと、男は見知らぬ場所に迷い込んでいた。曲がる道を間違えたのかもしれない、と初めはその程度にしか思わなかった。男はアルバムを閉じ、横道を覗きながら歩いた。しかしなかなか見知った道には出くわさなかった。

妙だな、と男は思う。気付かぬうちにあらぬ方向へ進んでいたにしても、せいぜい隣町までのことである。まったく見たこともない道というのは、普通には考えられないことだった。それに、ここが自分の町だという確信に近い感覚が男にはあった。というのも、遠目に見えるビルや鉄塔の位置関係にはどこもおかしなところがなかったのである。

いうなれば道だけが不自然だった。それに、と男は周囲を見回した。男の両側にはコンクリートの壁が立っていた。今の時代、高級住宅街でもなければ、壁にはさまれた道などそうはお目にかかれない。この壁は一体何と何を仕切っているというのか。これではまるで、道を作るために壁があるみたいで……

男は眼を疑った。細めた眼で見据える先、構造上先細るように見えるその最奥で、新たな道が伸び続けていた。いや、のびているのは壁か。

正気じゃない、と男は焦燥した。自身に向けてではなく、壁に対してそう言った。

「イタリア人形がね、壁の上で気取った風に腰掛けていたなら、私だって自分を疑うことができたんでしょうが」

恐ろしい体験の全てを込めるように、男は深く息を吐いた。
「イタリア人形とは何のことだい?」
「たとえばの話ですよ。願望とも言えますかね」

小津はイタリア人形のことをよく知らないらしく、これといった反応は示さなかった。たんに、イタリア人形が欲しいのかい、と聞いただけだった。
「そうですね。あの場に居てくれたらどんなに心強かったことか。本当に不思議でしたから。宇宙が拡がり続けているなんて言うでしょう? そのことが不意に浮かんできましたね」
「でも抜けられたんだろ」
「ええ、辛うじて、ね」
「キミの足は宇宙の拡散よりも速かったわけだ」

まさか、というように男はおどけてみせた。「それが出来たのは、まったくもって意思の力ですよ」
「うん?」
「だってあの時私はひとごろしの自覚を持ち始めたばかりだったんですよ。それを抱えたままあの場に留まるなんて、考えただけでも発狂しそうです。記憶というのは本来、伸縮性があったり質感が違ったりと可変的なものですけど、それは誰かに打ち明けられる環境にあって初めてそうあるものですよね。時効なんてものは形式的なものですから、他者があって成立するというのは当然なんですが、もっと個人的な感情――いわゆる良心の呵責という奴だって、現実的には個人の範疇で処理するとしたら相当困難だ。それなのに閉じ込められなんかしたら、どうします? 硬質なままの異物がですよ、消化されることなくずっと自分の中にいて……いや、それだけじゃない、人間が必滅のものである以上私にだって老いはありますし、異物の占める相対的な割合は増加する一方だとも考えられる、つまり感情の一端に常にそれが見え隠れしているような状態で一体どうして正気を維持できますでしょうか」
「ちょっと待った。いったんストップだ」小津は手をあげて、男の話を遮った。「インクの補充をしなきゃならん」
「インク、ですか」
「そうだよ。大事なことを書き漏らしでもしたら事だからな」

小津は赤のインク壺を手前に引き寄せると、ペン先をその中に沈めた。インクが徐々にのぼってくる。濃厚な赤は、この場で行われる限りにおいて当然採血の様子を想起させた。男は呆けたようにインク壺を眺めていた。現代人らしからぬ悠長な時間の用い方だ、と小津は思った。それからふと、男が携えたものに気が付く。
「なんだ、わざわざ持ってきたのか」

得意気な顔で差し出された卒業アルバムを小津は受け取り、まずはあてもなくページを捲った。男女の胸像写真が整然と並ぶ。ひとまわり大きく担任の写真、左に男子、右に女子。
「こういう構図も今だと色々問題なんだって?」

小津は男女が別の生き物として扱われていた当事のことを思い、あの頃はよかったと無難な結論を導いた。

「ただまあ、構成自体は昔も今も変わらんな」

小津はクラス毎の寄せ書きやら特集にはほとんど目をくれず、行事を記録したスナップ写真に目をやる。
「被写体になると、どうしてこんなに嬉しそうにするのか。目立ちたいというのが潜在的なものだとして、こういう欲求を何かに利用できないものかね」

饒舌だった。酒がそろそろ効きはじめている。
「たとえば社会的な役割にしてしまうとかね。応援する者される者というふうに対にして、ま一種のベーシックインカムだよ。応援されるものは被写体として成果を見てもらいたいがために仕事に励む。無論多くは応援する側になりたがるだろうが、むしろ資格を問われるのは応援する側というふうに変わっていくだろう。応援する者がされる者からラブコールを受け……何というか、夫婦関係とそう違わないようにも感じるが。まあいいじゃないか、女性も仕事をしたがっているようだし、それに関係次第では何も一緒に住む必要だってないんだ。もっといえば顔も本名だって。次世代のパートナー選びは、こんな感じで互いの充足を最優先にした契約ちっくなものが主流になると思うね」

思いつきで論を展開してしまうと、アルバムにはほとんど興味がなくなっていた。序章に瑕が散見された論文に立場上目を通さねばならぬ教授さながら、もはや一点の熱さえ眼には宿らない。右手が機械的にページを捲っていく。

――うん?

その刹那、宝石の粒がきらりと光ったように感じた。勢いで捲ってしまった分をあわてて戻して、小津は一枚の写真に見入った。 待ち伏せしていたかのように男は声を掛けた。
「そこです」

その時、小津の顔はヘラで塗りつけたように見事に歪んでしまっていた。紅潮しているように見えるのは酒のせいだろうか。生々しい眉間の皺にたじろいだ男は、次の句が継げなかった。けれど小津は男を睨めつけてはいない。じっとアルバムに視線を落としたまま、親指の腹で写真の少年を撫でていた。少年が捻じ切れてしまいそうなほど、次第に力が込められていく。
「何だ、これは……」
「オコちゃんです」

小津は男を睨んだ。少しばかり焦点がずれていた。
「おん?」
「事実です。ねえ先生、私は一体どうすればいいのでしょう。すでに時効をむかえ刑事責任は問われないにしても、ですが私の罪の意識は今まさに生じたばかりなのです。そもそも時間の経過と罪の意識は本当に因果関係があるんですか。ないですよ、そんなもの。だって時効と犯罪とでは管轄が違うんでしょう? あの反比例の曲線みたいな好都合に期待して時間をやり過ごせるほど、私は強くないんです。私は誰かに告白したい。そうして第三者の意見による客観的な罪の重さを考慮した上で、私自身が判決を下したいのです。それがたとえ民事上の時効より長い刑でも、私にはそれを受ける覚悟があります」

先生! 縋るように男が叫んだ時、小津の拳がデスクに振り下ろされた。廃棄の鉄材をハンマーで穿つように、やみくもで容赦ない打撃。二度、三度、と立て続けに振り下ろされる。筆さしが倒れ、インク壺からはペン先が飛び出した。
「キミの思惑など知ったことじゃないんだがね」

強い語調で挑発的な態度をとる小津に対して、男は口をぱくぱくさせるだけだった。突然の剣幕にショックを受けたらしい。軽い喘息を起こし、苦しそうに胸に手を当てた。小津は構わなかった。
「キミは四丁目で起きた一家殺人事件のことを言っているのか?」

男は無我夢中でかぶりを振った。本当に何のことだか分からなかったのだ。しかし小津は納得しない。「ふうん、そうかね」と気を静めたふりをしてから、また突然、今度は癇癪を起こしたように猛烈に床を踏み鳴らした。それは十回も続けられた。男は苦しそうに息を吸うばかりで、ほとんど吐くことができずに顔を蒼褪めさせている。やはり小津は構わなかった。
「どのくらい昔のことかも忘れたよ。しかし悲惨な事件だった。幸福な家庭が、一夜にして血の海……一家四人もいて、残らず無残な姿で……なんておぞましい記憶だろうか。町全体が葬式をしているみたいだった。国民の休日だったにも関わらずどの家庭も国旗の掲揚をしていなかった。あらぬ噂を囁くものさえいなかったのだ。何もかも残らず酷い目にあった。犬も殺された。コナーという、とても利口な大型犬だ」

小津の充血した眼が潤み、ややあってそれは粒となった。一度毀れるとその軌跡を伝って次々と涙がこぼれた。

あの日にも、多くの涙が流れた。流れた涙は母親の頬から顎を伝って、首に絡んだ犯人の腕に落ちた。雨の中をきた犯人は全身ずぶ濡れで、涙はずぶ濡れの中に散ってしまった。夕食後の団欒は悲鳴と嗚咽とでグチャグチャに乱され、状況をただしく理解しているものは、犯人も含めて皆無であった。

――わたしのことを言っちゃあいけませんよ。他人の口にのぼると、ほら、鳥肌が。怖ろしくってしょうがないんだ、この衝動が、俺の手に負えなくなっちまうのが。

――震えているって言ったね。だからもう馬鹿なことは止めろと。本当はこんなことを仕出かすような人間ではないんだと。だけどねえ旦那さん、期待を裏切るようで悪いんだが、これは抑圧から解放された反動みたいなものでして、俺の方としてはちっとも構わない程度のことなんですよ。

――奥さん、ちょっと静かにしたらどうだい。言葉ってのはさ、伝えるためにあるもんで、そう喧しく叫ばなくても、奥さんが嫌がっているのはもうとっくに伝わっているんだがね。きゃあああああ、きゃああああああ、ほら、不快だろ、だからもう止めなよ。

――鉈を握っているうちは衝動だって押さえられていたんだよ。生活のための、道具として、便利なもの、使用者はこっちなんだって。だけどこのナイフっていうのは、いったいどこの誰が考えたのかねえ。ちょっと他の目的が想像し易すぎるっていうか、この尖った先端がだよ、どこまで入っていくのかってふうにさ、誰だって考えたことがあるだろ? 木の机だとどうだ、とか、鉄は貫けるのか、とか。じゃあ白い咽喉だとどうなるんですか?

――だから、その悲鳴は誰に届くのかって。静かにしなよ。

――念仏ってのは嫌いじゃない。俺もソクラテスは読んだよ。

その夜、犯人は饒舌だった。だからコナーはその隙が生じる時を窺っていた。しかし形勢逆転を狙うには、まずコナーの首にすがりついた小さな飼い主に離れてもらう必要があった。コナーは優しく少年の頬を舐めた。びくりとした少年の身体の反応が直に伝わってくる。この時点では、まだ少年は泣いていなかった。事態の異常性、緊迫性ともに幼い少年にはまるで遠い出来事でしかなかった。体温だけが確かな感覚であり、しかしそれがため少年はいっそう強くコナーを抱きすくめるのだった。コナーを守りたい、そんな気持ちの表れであったろう。

結局それが起きたとき、コナーは少年を完全に引き剥がすことができぬまま行動を起こさねばならなかった。しかしそれでも十分な勝算があってのことだった。獣は人間よりも戦闘に長けている。一挙手一投足において人間はのろま過ぎるのだ。

コナーは吼えた。そして飛び出した。闖入者が声に気付いた時、すでにコナーはその距離を半分に詰めている。闖入者はその同時に起きた二つの突発的な事態に対処できず、ほんの一瞬ではあるが身を竦ませる。その一瞬は、コナーがナイフをかいくぐる間合いを詰めるための値千金の一瞬である。闖入者は獣の動作にはついていけない。振り下ろした腕はもはや止まらず、空を切る。空振りはさらに大きなタイムロスを生み出す。すべて計算通りだった。闖入者はコナーの影を見失っている。あとは盛大に喉笛を食いちぎってしまうだけ。

そうなる筈だった。コナーは吼えて、飛び出した。幸福な家族を守れるのはコナーしかいない。コナーにはそれが分かっていた。それゆえ、予想だにしないところから足を引っ張られた時、誰よりも動揺したのはコナーだったかもしれない。コナーはバランスを崩して転倒する。足を引っ張ったのは、少年だった。

少年は言う。あまりにも場違いな静かな声色、あまりにも場違いな悠長な口調で。
「ダメだよ、コナー。どこに行くの?」

激昂した犯人に蹴り飛ばされるその刹那、コナーは少年の顔を見た。とても怯えているようには見えない穏やかな顔で、口もとには微かな笑みさえ湛えられている。一体どこを見ているのか。コナーでもない犯人でもないどこか別の中空を、少年はうっとりと見つめていた。

コナーはからだが伸びたり縮んだりしたように感じた。さらに捩じれたようにも感じた時には、酸っぱい液で口内が溢れていた。声にならない。牙を剥き出し、コナーの顔が苦悶に歪む。

少年はここにきて初めて涙を流した。死、というものを想像するとき、少年の頭にまっさき浮かぶのはコナーの死であった。それは別にコナーに対して日頃から殺意を抱いていた為ではなく、コナーを飼うにあたって両親から告げられた「ペットというのは、死んでしまうものだからね」という言葉があったためである。生き物は死ぬという摂理を知る前のことで、少年の脳裏には「コナーは死ぬ」という限定的な前提のみが植えつけられていた。

コナーにはまだ体温があった。少年はそれが失われていくことを感覚で察知し、泣いた。壊れたように喚き、必死にコナーに覆い被さった。

父親が何か叫んだようだった。

コナーと少年の上に、影が重なる。影は右手を振りあげた。

濃厚な赤い液体が、木目に染み透りながら少しずつひろがっていった。空に浮かぶ雲ならば、多様なものの形が思い浮かぶのに、それはやはり血にしかみえなかった。
「カルテが染みてしまいますよ」男は指さした。

小津はわずかな瞳の動きでそれに答えたが、別段あわてた様子もなく深々と椅子に凭れた。男は「カルテが汚れると大変ですからね」と言い訳をするように立ち上がり、そばにあるティッシュを数枚撒いた。
「どうせ何も書いちゃいないんだよ」小津は眼を閉じたまま言った。「いまはただの紙に過ぎない。ティッシュでもカルテでもインクを吸うのは同じだ」

何も書かれていないカルテに、男は若干の不満を覚えた。しかし今の小津に何らかの進言をすることは憚られた。
「しかし初耳でした。四丁目なら私もよく知ってますが……」
「私でさえ当時は子供だったよ」小津はむくりと起き出し、手の甲でアルバムを叩く。「この子はオコちゃんではない」
「なぜです」
「いくら古いといっても決して忘れない記憶というものがある。この子を見間違うはずがないのだ。キミはどういうつもりでこれを持ってきたんだろう。これは、……この子こそが事件の被害者ではないか」

男は沈黙した。が、黙秘ではなかった。
「どこでこれを手に入れたんだ。これは私が卒業した時のものではないか!」
「私は、自分の家から持ってきました」
「ほう」小津は努めて冷静を装う。「まだ茶番を続けるかね」

小津は口もとを引きつらせて笑うと、アルバムのあるページを迷いなく開いてみせた。生徒の胸像写真が整然と並んでいる。
「キミは目が見えるか」
「ええ」
「では、これは誰だね」

男は差し出されたアルバムを受け取った。「これは、小津……これは先生ですね。若かりし頃の、だけど面影がある……」
「キミと同級だった記憶はないのだがね」

男はふたたび黙した。そして始めから一人ずつ、写真を指でさしていく。担任、男子女子、全ての名前を読み上げていく。読みにくい名前にあたると中断したが、そんな時は小津が読み方を教えた。

最後の一人を読みあげるまで、男は名前以外のことを一言も発しなかった。あの少年は、結局例のスナップ写真の他には見つからなかった。せめてこの一枚だけでも、そんなふうに当時誰かが考えたのだろう。

卒業アルバムは音もなく閉じられた。
「私はいませんね」
「そうだろうね」
「私は、どこでしょう」

さあね、と小津は目の前の男をじっと見据えながら、呆れまじりに呟いた。

しおりB

     * 

風が強い。海が近くにあるらしかった。しかし今のところ現在地を特定するようなものとは遭遇できていない。どんなものでもいいのだ。ガラパゴスの生態系だろうがサグラダ・ファミリアだろうが、そこまで大それたものでなくともリアス式海岸や高山植物など何らかの位置情報が示されるものなら、なんでも。とはいえ、所在地を特定するよりさきに、私自身を特定する必要があることは疑わない。なぜなら、身元の分からない者の所在地を特定するのは非常に困難だからである。

ためしに昨日、道の真ん中にハンカチを捨ててきた。運がよければ拾得物として警察署に届出があるだろう。しかし、それが何になるというのだ。どんな理由から、持ち主の判らないハンカチを警察犬は嗅いでくれるだろうか。抜き打ちの家宅捜索におびえて、有りもしない証拠の隠滅を図っていたあの頃と同じ。可能性で語られる次元の問題ですらない。

しかし、だからといって何もしないというわけにはいかなかった。

私は固有名詞を求めて、人気のない街なかを彷徨い続けた。ショーウィンドウからは一切の商品が消えていた。売り物がない店には、当然店主の姿もない。
「誰かいますか」
「誰もいないようです」

店先で自問自答をしながら、私は手掛かりを探して回る。足は、本能的に風上を向いた。
「ここに座っても構いませんか」
「どうぞ、ちょうど空いているようですので」

街なかでも私は同じように小石を投じ続けた。誰かが声を掛けてくれるのを待つという消極的な方法ではあったが、気休めくらいにはなった。独り言とは本来そういうものだ。世の中にはびこる不可解な事物から身を守るまじないのようなもので、不安の解消には少なからずノ効果を示す。
「それがどうして、他人の独り言を気味悪がるのでしょう」
「どれだけ偉いつもりなのかは知らないが」

風が強くなった。風上を目指しているから、と納得しかけて、勘違いに気付いた。風は気圧の低い方へ吹くのだから、低気圧の中心、

つまり風下を目指すべきだったのかもしれない。無意識とはいえ、中心とは正反対の途方もない方向へ歩いてきたことになる。 >br>「大体、風速は気圧の程度に拠るものだったはずでは。風下、あるいは風上に近づいたからといって」
「何が言いたい」
「待て。もう少しで整理が付く」
「焦るな、迷うぞ」
「原因が知りたい。もう少しこのまま歩いてみよう」

私は耳を澄ませた。たしかに風は、先ほどよりも強くなっていた。

強風。歩きながら、私はその言葉を反芻した。人が一生を顧みる上で、風にまつわる記憶は大体いくつくらい残るものだろうか。今のところ、私はそれをひとつだけ持っていた。当時、私は人里離れた山腹の小屋に長期滞在中で、あれは滞在から二ヶ月ほどたった頃だったと記憶している。残暑、といっても何分山奥のことなので、明け方は冷えるし私はすでに薄手の羽毛布団を使用していた。最初の眠りに落ちるまでは布団を頭まで被るのが私の癖だった。都会とは違い夜は本当にとっぷりと暮れるので、そのように耳を塞ぐ必要はなかったのだが、癖は癖なのでその日も私は同じようにして布団に潜り込んだ。

なかなか寝付けなかった。普段と様子が違うことに気付くまで、どのくらい時間がかかっただろうか。また私はどのくらい布団の中で眼を開けていただろうか。虫の声は、それがどんなに盛んでも、心地よい反復である。やわらかな耳鳴りは、しみこむように身体を充たしていく。私は布団の中で自分の息遣いに眠りを妨げられながら、今夜はそれが聞こえないのだということを知った。

不安で不快な静寂だった。私は布団から頭を出す。壁も天井もない暗闇の中で、私はぽつねんとした感覚に陥る。風が吹いたのはその時だった。

初めは大きな唸りのようだった。それが段々と近づくにつれ、杉林をかき鳴らすはっきりした音へと変わっていった。私は、おかしい、と思った。明らかに遠くで起きているはずなのに、音が大きすぎるのだ。虫が静かだからだろうか。それとも暗闇の中にいるせいで距離感がくるっているのだろうか。様々な憶測をめぐらせる間にも風は迫ってきていて、その何倍もの速度で音が膨張していった。

突然、小屋が揺れた。大波に晒されたかのように、破壊的な音を伴って小屋が底から揺らされた。思わず悲鳴を上げた。今のは風か?  と半信半疑でいるうちに、次の風がやって来て、また小屋を揺らした。

その後、轟風は断続的に吹き続けた。小屋をかこむように生えている白樺がたわみ、枝がしきりに屋根を叩いていた。幹が折れても何ら不思議はなかった。そうなれば屋根は潰されてしまうだろう。しかし、それよりも何より、私は風そのものが怖かった。ズドン、ズドンと目に見えるかのような衝撃だった。自然現象だという理解がありながら、何故この小屋を目掛けて吹いてくるのだ、という矛盾した感覚が私の中には平行してあった。うずくまり、ふたたび布団をかぶった。

はやく電気をつけるべきだったと今ならば思う。確固たる質量を持った風が迫ってくる、そしてその終着点として小屋がある、その予測された一連の恐怖は暗闇の中でこそ倍加したのだと思う。暗闇の中では、目と耳が同じ役割を果たすのだということを、私はその夜はじめて実感した。

それからどのように眠ったのかは忘れてしまった。風が雲を吹き飛ばしたらしく、翌朝は嘘のように晴れた。折れた枝がそこかしこに散らばっていた。

どうということもない。

この記憶を振り返ると、いつも同じ感想に至った。実際、そう何度も思い出すほど危機に瀕したわけでもない。最後に晴れなければ、また違った残り方をしただろうか。

風上を目指しながら、私は状況を持て余し始めていた。

石畳敷の広場に出ると、見慣れないオブジェに遭遇した。それは巨大な振り子で、全長は十五メートルほどもありそうだった。ゆるいカーブを描く支柱からワイヤーが伸びていて、その先端にある鉄球が地上すれすれのところを通過していった。

これは時計だろうか。実際にその緩慢な動きを見ていると、風の音と聞き間違えたことが不思議に感じられた。

それにしてもなんて寂しい処だろう。誰もいないのに時計だけが動き続けている。市であるにしろ町であるにしろ、おそらく財政が破綻したのだろう。これだけ大掛かりなものを廃墟に残しておくのは、もったいないという気がした。都市開発の先駆として? 止まらない人口流出の最後の歯止めとして? どちらにしても結果は伴わなかったようだ。住人は去った。

私もこの場を去らなければならなかった。誰からも忘れられた場所に所在地を求めるわけには行かないのだ。

広場の出口に足を向けると、背後で風が鳴った。私は振り返った。振り子が揺れている。地下から電源を引いているのだろう。振り子はいつも同じ振れ幅で揺れた。私はまた背を向けた。すると風が鳴った。後ろ髪を引かれたように感じる。何か大事なことを見落としているように感じてしまう。鳴る。鳴る。鳴る。無機物に対して共感、同情することがどんなに欺瞞的なことであるか私はよく分かっているつもりだった。それなのに、ここを離れられないのは何故だろう。

私は近づきすぎないよう注意しながら、振り子の周囲をまわってみた。支柱の裏側にプレートが立てられていた。
《永遠》と刻銘されていた。署名や日付はなく、ただこの構造物の名称のみが記されている。なるほど、それでか、と私は何となく思った。そもそも私は、永遠という概念について懐疑的だった。誰が確かめたというのか。永遠よりも無限なもの以外にそれができるものはないと。ましてやそれを人間が産み出すなど言語道断であると。

結局私は、振り子が止まるところを見たかったのだ。あるいは、止まらないことを確認したかった。治りかけの瘡蓋を剥がしてしまったあの頃の興奮と後悔が甦ってくる。外気に触れてはじくじくと痛む擦過傷に私は性的な興奮を覚えていた。思わず膿が出てくると、虫の体液を想起した。

私はしばらくこの場に留まることにし、随分と素直な気持ちになって風の音に耳を傾けていた。永遠は止まらなかった。しかし、次は止まるかもしれないという極僅かな不安を内包していた。何かに似ているとは思っていたが、どうも安らぎに似ているらしい。自然と嬉しさが込み上げてきた。

私はマジックで《永遠》に×をつけてから、新たに《母》と書き記した。いまここに、巨大な振り子は《母》と命名された。誰もいないのだから咎められる心配もない。

膝の間に顔をうずめ、(このまま老いてしまうのもいい)と贅沢な妄想に耽った。

閉じた眼の奥で、私は動かなくなった母を想像することができた。腰を曲げてぽつねんと佇み、静かで、力なく垂れ下がった鋼鉄の球はそよとも動かない。その時は私も、生きながらにして苔に覆われ、自らもまた苔となっているだろう。恣意的な感情の一切を排して、均一な求心力によって奔放な意思を纏った私もまた、思念の球になる。

私は自分が綿毛のように宙に浮くのを感じた。そこには本物の風があり、私の全身をいとも容易くさらっていった。どんなに耳を澄ませても、風には音なんかなかった。静かで、なんて心地いい。
「ああ、そうか」

私は全身で思う。生きたくないから、耳があるんだ。目があり、口がある。全ては、気を紛らすために必要だったのだ。煩雑な世の事情から解放され、私は薄くのばされていった。のばされて、のばされて、のばされ過ぎていることにも気付かなかった。

私はシャボン玉になっていたのだった。極薄の膜に虹彩を映して空に舞うシャボン玉。極上の気分に浸れば、人はシャボン玉にもなれるのだ。空だって飛べるし、軽くなった身体には煩わしいもの一つ背負っていない。しかし私は、シャボン玉としては不完全だったのだろう。ほんの僅かなしこりが残っていたせいで、薄い膜となった私の身体は、ぱちん、と破けてしまった。

落下する間、私は母の声を聞いた。懐かしいとは感じなかった。正直、うっとうしいとさえ思った。夢心地でいるところを邪魔されて、反射的に腹が立ったのかもしれない。目覚まし時計を壁に投げつけるように、私は耳をふさいだ。

しかし、この《母》こそがしこりであったことを私は重々承知している。巨大な振り子に私は母性を感じていた。だからこそ、そのように命名した。本当は、あの時すでに気付いていたのだ。私が、母から生み出され、母こそが私を特定するその人だということを。

私は真っ先に母をさがすべきだったのだ。たとえ母が私を拒絶しても――それは残念なことに違いないが――当初の目的が果たされるなら、それはそれで構わなかった。
「さて、どうしようか」私は思案した。

私の居場所を特定するためには私自身を特定する必要があった。私自身を特定するためには母の居場所を特定する必要があった。それには、まず母を特定しなければならなかった。
「どうすればいい」私は自問した。母が誰か分からなかった。懐かしんだはずの母との思い出が、改めて振り返ると何もなかった。母との思い出を持たない私は、本当に母を持つのであろうか。まさか木の虚から生まれたということはあるまい。私は母から生まれたのだ。では、どうして。思い出はどこにいった。
「私は、孤児だったのか?」

不吉な想像は、思いのほか私を打ちのめした。茫然としてあたりを見回すと、そこにはだだっ広い草原が広がっていた。むせ返るような草いきれで、貧血気味だった私は、たちまち眩暈を起こしそうになる。

虫が鳴いていた。

イーン。イーン。

夏草の陰の私からは見えないところで、虫たちは同時に羽を鳴らした。私は虫とでは種類が違うので視認までは出来なかったが、どこかに指揮棒を振る者がいるらしかった。指揮棒に合わせて虫が大合唱をする。

イーン。イーン。

自然の音色とはいえ、これだけ同時にやられると風情も糞もない。うるさい。繁殖のためにそれこそ死に物狂いで鳴くのだから、第三者が聞いてうるさいと感じるのも当然といえばそうなのかもしれないが、それにしても工夫が足りないのではないか。いや、工夫ができないから虫なのか。

虫は鳴きやむのも同時だった。指揮棒が振り上げられると鳴き、体力の限界までそれを続け、そして止む。個体差というものがまるで感じられなかった。体力差と限定してもいいかもしれない。タイミングをずらそうとする狡猾な奴や、一秒でも長く息を持たせる優れた個、そういうきわものはやはり排斥されるのだろうか。

イーン。イーン。

だとしたら退屈だった。退屈であることが、永遠に近づくための唯一の方法であるとの仮説を立ててみたが、もっともらしいことを言った気がするだけで結論は出なかった。

イーン。イーン。

イーン。イーン。

しばらくすると雨が降り始めた。私は逃げも隠れもしない。ここは広すぎたし、一時しのぎをするにしても東屋一つ見当たらない。それに、涙を洗い流すのにも調度よかった。雨が背中を、つぅ、と垂れた。大袈裟で、無慈悲だ。でたらめに鍵盤を叩いて、気付けば虫の声を掻き消してしまっていた。

だららら、と一瞬、雨が旋律を奏でた気がして、私ははっと空を見上げた。大粒の雨が顔面に降り注ぐ。そんなつもりはない、雨はそう言っていた。それからもっと無慈悲に降り続けた。濡れた衣服が肌にはりついて、体温が奪われていく。雨音に何らかの規則性でも発見できれば気もまぎれるのだろうが、広大な大地を前にそんな試みはあまりに無謀だった。夏草でさえ強すぎる雨脚にしなだれてしまっていた。

靴先が何かを蹴った。見ると、小さな虫の死骸だった。腹を抱えてひっくり返っている。

注意してみると、死骸はいたるところに転がっていた。あれだけ見つからなかったものが、こうも簡単に見えるようになるものか。私は驚くと同時に、得体の知れない恐ろしいものを感じた。

まだ生きているものもあった。羽化したてのような緩慢な動作で、必死に夏草によじのぼっていた。しかしそれも、夏草の先端に宿した躯に雨のつぶてを受けると、たちまち死んでしまった。至るところで、コツン、コツンと虫たちが撲殺されていた。場所によっては、死骸で小さな山ができていた。獏とした思いが私の胸をついた。こんなものが今まで生きていて、そのうえ繁殖に励んでいたというのか。気付けば私は、原初的な疑問に回帰していた。精神的に不安定だったのだ。

土が完全にぬかるんでしまってからは、雨音がやわらかくなった。バタバタバタと、まるで私を幻想世界へと誘おうとするかのようだった。実際に私は、いくらかの眠気を覚えた。辺り一帯が飽和に達しようとしているみたいだ。息苦しかった。大水はともかく、雨そのものに溺死させられた者の記録はあるのだろうか。

そうはなりたくない一心で、私は歩くことにした。どちらに行こうか決めかねていると、足元に小さな流れができていることに気付いた。流れは死骸を運んでいた。木船を海辺へ搬送する古代人のミニチュアがたしかこんな風だった。

私は無意識のうちに流れに沿っていた。風も水も低い方に流れるのだと気付いた頃には、流れはほとんど死骸に埋め尽くされていた。死骸の向かう先、という不吉な連想はそれほど私を萎縮させなかった。上流よりも下流の方が人も文明も集まりやすいというのは、歴史が示している。それに、行き着く先が一つでも確実にあったほうが、方途を失っている私には心強かった。

ぬかるみは深く、足を取られやすくなっていた。死骸を踏まないよう注意して歩いた。ここにきても死骸の数は増え続けていた。流れが大きくなるにつれて、流される死骸も増えていく。前方の茂みの中へ流れが進んでいったので、それに続いた。

突然、ふっと心臓が浮き上がるような感覚に襲われた。

私は落ちていた。声を出す余裕もなかった。

視界が一切きかない暗闇の中、私は落ち続けた。正確には滑っていた。傾斜角は定かでないが相当急な坂を。ただ、落ちているのと感覚的には大差なかった。辛うじて背中に触れる面があったから滑っていることが判っただけだ。

壁面がぬめっている。水苔だろうか。だとするとここが流れの行き着く低地であったのかもしれない。死骸も一緒だろうか。それにしても落ちている。シャボン玉であった時の心地よさとは雲泥の差で、酷い。意識が上方に飛ばされそうになるのを必死に耐えて、丹田には常に気を入れて、拳をかたく握り……とにかく落ち着いて呼吸がしたいのに、それができない。

私は犬のように短く呼吸を継いだ。それで窒息だけはなんとか避けられていた。それにしてもここは……。私は前方に手を伸ばした。手の平は空を掻き、私はバランスを崩した。身体が横滑りになり、頭が下になりそうになるのを何とかこらえていた。

狭い竪穴とばかり思っていたが……違うのかもしれない。しかし光が届かない以上、向かい側にも壁はあるはずである。私はもう一度、手を伸ばした。不自然な体勢に筋肉が怯えていた。

指先に、何かが触れた。
「あ」

私は落ちていた。完全に頭が下になってしまった。しかし、そんなことよりも、私は大事なことに気付こうとしていた。

――この筒は、産道だ。

産道を抜けた自らの記憶を持つ者はいない。私もそれは同じだった。しかし私は、後にそれを擬似的に記憶したのではなかったか。知識という経験。子宮に宿りし生命が、出生の瞬間には産道を通ること。産道が暗いという推測に対して、私は反証があったのを見たことがない。それに、先ほど指先が覚えた感触、この生々しい肉の感触を、私は確かに知っていたのだ。この匂いだって……。もっとも私がそれを知ったのは、成人して間もなくのことであるから、今、この出生の瞬間に肉の記憶を持ち合わせているというのは不自然である。しかし私は、この順不同の生い立ちを拒絶しようという気にはならなかった。

私には母との思い出がない。だから今、ようやくにして生まれ、母との思い出を紡ぎ始めるのだとしたら……。私は興奮している。背徳的な感情もいくらかは混ざっているだろう。将来はマザコンと呼ばれるようになるかもしれない。

自然と力が抜けていた。頭から降下する恐怖も、もうなかった。なぜならこの体勢は、母体の負担を軽減させるものだからだ。もちろん私は一度生まれているし、この出産が無事に済むことも知ってはいる。自分の身の安全だけを考えるなら逆子であろうと、腹を食い破ろうと関係は無いのだが、何より母との思い出をつむぐことが最優先事項なのだから、双方に対して万全を期すべきだ。

冷静だった。進行方向に輝く一点が現れた時も、静かな気持ちでいられた。眼を閉じて、その時を待とう。今ならまた、シャボン玉になれそうな気がする。

ふと前人生のことが脳裏によぎった。シャボン玉になりたくて仕方なかったあの頃。味気ない一生。何のために、なぜ、何が、常に理由を求めていた。あてもなく彷徨うことでしか正当性を主張できなかった。唾棄すべき人生。こんな風に顧みるのは、突然こんな形で幕を閉じることになった前人生を憐れんでのことか?
「馬鹿をいうな!」私は叫んだ。

心底唾棄すべき人生だ。だから、本当に良かった。本当に……。

嬉しさのあまり涙があふれた。涙は頬を伝わり、口角から染み込み、舌へいたった。しょっぱい。歓喜とは、こんなにもしょっぱいものだったのだ。なんと現実的で確かな味だろう。私はふたたび歓喜に打ち震えた。

思わず眼を開けると、前方の光はまだ遠くにあった。それならもう少し待とう、と私は特に考えもなく眼を閉じた。だが、これが不味かったのだと私は後に知る。あの歓喜のうちにさっさと生まれてしまうべきだったのだ。ここに生じた余剰の時間を、私は生涯悔やむことになるだろう。

あれ? と私は疑問に思う。

臍に手をやると、そこには管が繋がっていた。私はじきに生まれる。

だが、私は本当に過去を断ち切って生まれ変わるのだろうか。この出産が白紙化(リセット)を意味するものならば、私は喜んでそれを迎えよう。しかし、もしそうでなかったら。かつての人生を牽引したままで、これが単に出生時の記憶を追体験するだけのものだったら。
「もう一度やる? 唾棄すべき人生を?」

口に出して、戦慄した。そんなことは断じてあってはならないことだ。あの糞っ垂れた人生がさらに日常(マンネリ)化して、そのうえ

恥も外聞も二乗されて? 精神が常に研磨機にかけられているようなものではないか。肉体の衰えに対して、それでは余りに速すぎる。そんな生まれながらにして不幸な人生が許さるべきとでも思っているのか。

光が大きくなっていた。
「だって不幸になるよ」

逃げようとする私を、臍の緒ががっちりとつなぎとめていた。光はなおも拡がりつつあった。これが闇夜にぽつねんと灯る侘しい外灯であったなら、どんなに救われたことか。それは毅然とした輝きをみずから発していた。

白一色の世界が眼前にひろがる。眼がくらむ。
「なぜ光をこれ見よがしに印象付けようとするのか!」「光でもって前途を暗示するのはやめろ!」「そんなもの、まやかしだったじゃないか!」「嫌だ」「嫌だ」「嫌だ嫌だ」「俺は嫌だ」「不幸は嫌だ」「嫌なんだ」「嫌だ嫌だ」「俺は嫌だ」「俺は嫌だ」「俺は嫌だ」

思惑めいた光景を前にして、がむしゃらに身体をつっぱった。遠かったはずの向かい側の壁が、いつの間にか鼻先まで迫っていた。「ひっ」と思わず悲鳴が漏れた。逃がさない、そう言っているのだ。もがけばもがくほど身体が滑りやすくなった。だが、諦めたくない。かつての不幸が現実であったことを、まだ疑わせて欲しい。

まばゆいばかりの白一色に包まれる……

善人たれ、と脅迫された気がした……

光が人を白痴にする……

オレは、いやだ。

蛍光灯があかるく照らすとある産婦人科の一室で、赤ん坊がうぶごえをあげた。

男の子だった。

なにかをうったえるような執拗なさけびに、しろいせかいはただのひとつも返事をかえさなかった。彼は首をかしげた。どうして伝わらないんだろう。

ありとあらゆるものが白かったのだ。手順もなにもない、きっかけさえもつかめないまま、願いはすべて世界にとけていってしまった。打とうが押そうがなにもなく、ちいさな彼はすぐにつかれてしまう。そんな日々が毎日つづくために、彼はとうとうあきらめねばならなかった。

ただ不思議なことに、諦めてしまってからは白いものが存外優しいものであると感じるようになった。白いものは、しばらくたっても不幸の兆しをつきつけてこなかったのである。頭のすみで警鐘がなっていた。

それから彼は、白いものが優しいばかりでなく、時にやわらかで、時においしいと感じるようになった。白いものはいつも温もりとセットで現れる。ああ、なんだ、返事はしてくれないけど、にこにこしたいい奴じゃないか、そんなふうに考えようとすると、また警鐘が鳴った。

それから彼は、ある異変にきがついた。白かったいまが、一変して黒くなることがあった。しばらく継続する黒いものを、なぜかわからぬが怖いと思った。その代わり白いものが戻ってきた時には、こころの底から安堵が生じ、よかった、本当によかった、と涙がこぼれるほどだった。警鐘は鳴らなかった。

そして彼は、白いものが大好きになった。

あれこれ考えることをやめた。疑わしい眼つきをめっきりみせなくなった。この頃には、すでに様々なものが見えるようになっていたが、それら一つひとつには別段興味も湧かなくなっていた。やわらかな毛布に包まれて眠りをむさぼることが、好きだ。枕の上のネームプレートには、当初『小津 **** ちゃん』と記入があった。それがいつの日か『小津 こうたろう ちゃん』と書き換えられたことにも、まるで関心がない。ミルクがおいしいのだ。

それでも一つだけ、彼には気になることがあった。どうして自分には誰も会いに来ないのだろう。彼の周りには同じベッドが数台ならべられ、そこには同じなりをした乳幼児が複数いたのだが、彼らには決まった誰かが会いに来ていた。口に含んだ乳房――他の何よりも白くて温かでやわらかなそれ――を彼はうらやましそうに眺める。無論、彼にだって世話をしてくれるものはいた。しかし、そうではないのだ。その誰かというのは、たとえ身に付けるものが違っても、たとえ態度が違っても、その誰かだということが判る誰かなのだ。彼の世話をするものは、同じ服装をしているにもかかわらず、いつも別人であるかのような寒々しさを感じさせた。窓越しに手を振るものたちにしても、彼に向かうものが来たためしはない。妙だなとは思ったが、何が妙なのかはいまいち分からなかった。

彼は哺乳瓶を愛した。白くて、温かくて、やわらかい。応答がないことは未だもどかしかったが、もっとも信頼に値することは確かなようだ。無機物に対する一方的な愛はこうして芽生えた。

しばらくぶりに警鐘が鳴った。しかし以前とは何かが違う。まるで新品の鐘を叩いたような深みのない音色だった。

ある日、彼のもとに世話をするものが来た。いつものように哺乳瓶を口に含ませて、下半身を乾かし、優しいことばを掛けては帰っていく。それでいい。それがいいんだ。込みあげてくる感情に対して、このとき彼は素直だった。自分と敵対するものが自分の中から生じるというひねた考えは、まだない。彼は眠った。夢を見るには素材が不足していたが、それに近いものを目覚めの間際に見ることはある。大抵の場合、それはきらきらと輝くかけらだった。目が覚めると彼は泣いた。手の中にあったきらきらが突然消えてしまうからだ。蛍光灯も白くて光っていたが、全然違う、と思った。

その日、彼が夢から覚めたのは夜更けのことだった。風の凪いだ静かな夜で、五感をいたずらに刺激するようなものは皆無といっていいほど姿をみせなかった。ただ、とても暗かった。あまりのギャップに彼はきょとんとし、泣くことさえもできなかった。彼は瞳を動かして、その不可思議な夜の世界に見入っている。「何の意味があるんだ」というのが、夜に対してもった最初の感想だった。夜の中には、計器が発する青白い光がいくつか浮かび上がっていた。彼のそばにもそれはある。手を伸ばしてみるも、すんでのところで届かない。彼は何度か試してから、それを諦めた。ひと際明るい光に気づいたのはその時だった。

他とは違ってそれは動いていた。彼の視線は、当然釘付けになる。

何かがいた。

反射と角度の具合で時おり浮かび上がるその姿は、どうも見覚えがあるような気がしてならない。しばらくして、彼は「あ!」と身をのけぞらせた。それは世話をするものがいつも身に着けている白衣であったのだ。闇に紛れて、何をしているのだろうか。彼はいっそう強い注意を向けた。

そこには他に、彼ではない別の乳幼児がいた。彼はペンライトの光が哺乳瓶のプラスチック部分に反射したのを見て、それに気付いた。闇に紛れて、何をしているのか。
「うおん」

ペンライトの光が彼に向けられた。

それから彼は泣いた。色んな感情がごちゃ混ぜ過ぎて、何が起きているのかは誰にも分からなかった。とめどなく溢れる涙、感情、喚き声、自己自身……それぞれが独立して拡散していく様を、彼は自分の中のちっぽけな核のようなものの中から覗いていた。  失敗にはきっかけがあるんだな、と彼は無自覚的に学習していた。

それから彼の態度は目にみえて悪くなった。心境の変化が起こった背景には、世話をする者への不信感があった。厳密には、特別なひと以外に対する不信感というべきだろうか。特別なひと以外は皆、同一人物である。そんなふうに考えるようになった。実際、見舞いに来る客たちの顔は正直見分けがつかなかったし、いくらか顔をおぼえた看護士たちにしても、ベッドの番号がいくつであろうと同じように接してくるのだから、特に別人として認識する必要はなかった。

むしろ、高慢ちきに徹することで、相手がいつまで同じ態度を続けられるか観察するのが楽しくさえあった。彼はよく、さりげない振りを装って相手の頬をつねりあげた。時には力任せに髪を引っ張ったりもした。ぶちぶち、と鈍い破裂音がする。すると彼は冷たく突き放されたのだった。

なぜそんなことをするのかって? そうしたかったから、と言うほかあるまい。自分の中から生じた欲望を疑う理由は彼にはなかった。それに、髪をちぎったら相手の手が硬く冷たくなったという見事な因果関係は、彼を恍惚とした気分に浸らせてくれた。ああ楽しい。彼は飽くことなく悪さを繰り返すようになった。構うことはない。本当は傲慢でありたいくせに、素知らぬふりをしているような連中だ。欠陥を補うかのように、白衣をまとって、今日も懺悔の最中だ。

それから彼は、夜に対しての耐性をつけた。黒い世界は、慣れてしまえば何のことはない、安定した世界だった。気に病むことを気に病む必要がなかった。彼はなぜ夜を怖れていたのかを思い出せなかったが、夜を好きになった理由なら簡単だと思った。ひとりになれる。他の乳幼児や、いやらしい者たちを見ずにすむ。誰も見えない、誰もいない、ひとりの世界だからこそ、夜は自分だけに会いに来てくれる。彼はそう考えた。

彼は孤児になった。誰からも遠い場所にいて、愛の受け皿は常にその底をさらしていた。《幸太郎》と幸福を名に冠するわりには、大概にして不幸だった。

ある日、自分の不幸を指折り数えていた時のこと、ふいに疑問が生じた。
「どうして不幸が数えられるんだ」彼は戸惑った。

可算であるところの不幸は……つまり状態をさしてはいない? 彼はこれまで、不幸は継続性のあるものとばかり考えていた。しかしそれでは辻褄が合わないのだ。不幸は数えられる。それは不幸が出来事だからではなかったか。
「不幸な出来事……不幸は出来事……」彼は呟き、辺りを見回した。今現在、不幸が起きている様子はなかった。
「今は不幸ではない」彼は恐る恐る断じてみた。

しおりC

   *

穏やかな昼下がりだった。陽射しも風もやわらかで温かい。遥か彼方でヒバリが弧を描いていて、歯切れよい囀りが聞こえる。

僕たちも、外からみればあんなふうに輝いていたのだろう。夕陽に追いつかれるまではあらゆる自由が保障されていて、その不文律が

僕らをいっそう溌溂とさせるんだ。何しろ、山でも谷でもそこに地面がある限り僕らは存分に跳ね回ったし、生命感溢れる土を踏めば

二倍も三倍も高く飛ぶことができたんだ。

そのさらに一段高いところを跳ぶオコちゃん。子供であることは、オコちゃんの無限の活力源だった。

みんなオコちゃんを尊敬していた。身体能力もさることながら、リーダーシップを執らせてもその素養は伺い知れた。反発する奴らも中にはいたけど、みんな負けを覚悟で向かっていったんじゃないかなあ。すがすがしいほどの圧倒的な差だった。羨むことはあっても、それが妬みにならなかったのは不思議でも何でもなくて、すべて納得ずくで僕らはオコちゃんの後を追いかけていたんだと思う。

これが単なる身内びいきじゃないことは、先生方でさえも彼には一目置いていたことで証明されるだろう。最高学年に進級した時の話だけど、自主性を重んじるはずの小学校で、オコちゃんは先生方からの推薦を受けて生徒会長に選任されたんだ。学校創設以来、初めてのことだと担任は教壇の上から僕らに話した。とても誇らしげで、まるで僕らの仲間みたいなはしゃぎようだった。もちろんオコちゃんは期待の大きさに怯んでしまうようなたまではない。期待以上にやってのけた。オコちゃん擁する僕らのクラスは何においてもいつだって一番素晴らしかったと思う。

中でも印象的なのは、やっぱり卒業生代表の挨拶だったろうか。答辞を読みあげるオコちゃんの快活な発声は、本当に、本当に素晴らしいものだった。リハーサルの際、マイクのスイッチを切るよう急遽段取りが変更されたくらいだもの。

自信に満ち溢れた後姿を、僕は昨日のことのように思い浮かべることができた。

あのオコちゃんは、一体どのオコちゃんだったんだろうか。死んでしまったオコちゃん。卒業式に出席できるはずなんかないのに。

だけど、こんなに鮮明に焼きついているんだもの、あれは本当にあったことなんだろうなあ。だからきっと、オコちゃんが死んでしまったのは、小学生としての最後の日、卒業式を終えたその帰りのことだったにちがいない。 オコちゃんは、車に轢かれて死んだ。車を運転したのは、顔も思い出せないくらい特徴のない人だった。そもそも誰が運転していたかというのはあまり関係ない。だってオコちゃんは……。

まったく理解しがたい出来事だった。あの答辞がどんなに素晴らしいものだったかを、拙い言葉をもどかしく思いながらも僕らが懸命に話している時のことだった。先頭を歩いていたオコちゃんが、ふいに立ち止まり僕らのほうを振り返った。くたくたになったカバンと上履き、それに貰ったばかりの卒業証書を、ぽんと僕らの前に放り投げた。また何か始めるつもりだな、と僕らがわくわくし始めたその次の瞬間、オコちゃんは助走をつけずに路上に身を投げたしたのだ。ほとんどバンパーと平行した状態で、オコちゃんは車と衝突した。 即死だったという。

オコちゃんが笑っていたかどうか。それを忘れてしまったことが、今でも悔やまれる。

    *

「やっぱりオコちゃんは笑っていたんじゃないかなあ。それが一番彼らしいですから」

男はすっきりとした顔で、そう言った。

小津は相変わらず男の話には興味がないらしかった。おもむろにマイクを引き寄せ、
「次の方、どうぞ」と言った。

心外だ、というように男は小津を睨んだ。
「不満かい? オコちゃんは死んでしまったが、笑顔でいてくれたならそれでいい。キミがそう結論しているなら、この話はもうそれでいいじゃないか」

小津はもう一度マイクに向かった。
「次の方、どうぞ」

男がにやにやしている。
「次の方、どうぞ」
「先生、何をしているんです?」
「あー、次の方、次の方、どうぞ」
「だから誰も来ませんってば。診察時間はとっくに過ぎているんだから」
「それなら、キミも帰りなさい!」

男はひょうきんな身振りで、怯えた振りをした。
「ほら、かっとしない。次なんていないんだから、別にいいでしょ。もっと話を聞いてくださいよ」男が笑う。「ねえ、お父さん」

小津はぎょっとしたように目を瞬いた。「なんだって?」
「同じ苗字なんでね、妙だなとは思っていたんですよ」
「苗字なんて……別に珍しくも何ともないじゃないか」
「ええ、そうでしょうとも。だけど、私に名前をくれたのはお父さんなんでしょ。今では結構、気に入ってたりするんですよ」

ごりごりごり、と不快な音が続いた、小津が、力任せに頭を掻き毟っていた。
「アルバムには、いたじゃないか。私が。……キミは、これをどこで手に入れたのだ」
「どこでと言われましても、ねえ」男はスラックスに付着したフケを丁寧に払いながら言う。
「自宅から持ってきましたよ。私の自宅であり、先生の自宅でもあるあの家から」
「私の家は……」
「どこにあるですって?」
「私の家は……キミに教える必要などない」
「いや、言ってくださいよ」

さあ、と急かされた時、小津の瞳は八の字を描くように揺れていた。

それから震える手で、恐々床を指差した。
「ここって……診療所?」

男ははじけるように笑った。

ゴボ、ガボボ、ゴボと奇妙な音が聞こえた。
「先生、溺れているんですか」

定まらない視線を天井のほうに向けて、小津が唾液で溺れている。そのままの姿勢で、小津はデスクの上をまさぐった。慣れない左手にペンを握り、カルテに何かを書き付けていた。
『チョウさん』と酷い字で書かれている。
「誰だよ」男は嬉しそうに、また笑った。「どこにもいなかったじゃないか」

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