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マシマロ

〜 わが良き狼 〜

収録作品

『地獄図日本海因果』 『夜の政治と経済』 『わが家の戦士』 『若衆胸算用』
『団欒の危機』 『走る男』 『下の世界』 『わが良き狼』


『 兄妹父母 』

次男坊

カオルコの家にケンイチが帰ってきた。玄関で脱いだスニーカーを揃え、リビングのドアを開けながら「ただいま」と言う。ケンイチはカオルコの息子だった。カオルコがほっそりとした美人なのに対して、ケンイチはこども力士のように肥っている。何も知らなければ二人が親子だなどとは誰も気付かなかった。

しかし、二人はよく似ていた。

玄関でドアチャイムが鳴った。二人は同時に玄関の方を見た。
「きっとマサオだね」と二人は同時に言う。二人は似ているのである。
「ただいま」と言って入ってきたのは、父のマサオだった。やっぱりそうだった、と二人は心の中で思った。それから時同じくして、もう帰ってきた、と心の中で毒づいた。

出迎えの言葉がなかったので、マサオはもう一度「ただいま」と言った。ただし、二度目は声には出さなかった。二人が自分を軽んじ、疎んじていることをマサオは何となく察していたからだった。二人が普段から大体おんなじようなことを考えていることは知っていたので、どちらか一方の内心を探れば、それはもう一方の内心を知ることにもなる。マサオは、二倍の確信でもって、自分に対する決して良くない評判を感じていた。

カオルコが夕飯の仕度を始めると、ケンイチは宿題をやりに部屋へ向かった。
「何か用?」

ケンイチが部屋へ入るなり、妹のノドカが冷たく言い放った。
「ぼくだよ」とケンイチは言った。
「なんだ、お兄ちゃんか。夕飯の仕度もしないで何しに来たのかと思っちゃったよ」

カオルコとケンイチはよく似ていた。ノドカが生まれた時には既にそうで、ノドカには二人の区別が付けられなかった。茂みしかないケンイチ、竿を持つカオルコ。学校に通うケンイチ、掃除機を新調したカオルコ。扶養家族のケンイチ、公共料金を無料の意味だと勘違いしているカオルコ。浮気をするカオルコ、浮気をするケンイチ(カオルコとケンイチが浮気をしているとは考えていない)。ノドカはケンイチの母乳を飲んで育った。ケンイチを信頼しているのはそのためであろう。逆に育児放棄をしたカオルコのことは、この世の何よりも嫌っていた。

父親ならまだしも、母親を憎んだって良い事は一つもない。それは疑いようもないことであろう。しかしノドカの場合は、その分ケンイチを愛していたのである意味ではバランスが取れていた。

そのバランスがどうやら崩れ始めていた。

原因はノドカの初潮であった。初潮そのものというよりは、もはやこれは思春期の範疇なのかも知れぬが、それ自体はどちらでも構わない。あえて言い直すなら「ノドカが初潮を迎えた頃」そのバランスが崩れ始めた、となるのだが、原因を初潮と断定しておいた方が複雑に入り組んだその後の変化を説明するのに良い。

なぜなら、初潮はケンイチには絶対に見られてはいけないものだったからだ。すでに起きたこととしてなら、赤飯を炊こうが何をしようが気持ちの整理はつくのだが、それが起きたことをそのまま報告しに行く相手だけは、どうしてもカオルコでなければならなかったのだ。これについては別にノドカに限ったことではないだろうし、その点ではノドカも普通に成長したのだと言うことができよう。

その日、汚れた下着を袋に隠したノドカは、カオルコのもとへ行った。事情を説明し、下着を汚したことを謝罪し、優しくなだめられ、全ては何の問題もなく過ぎたかと思われたその時、ノドカの中に稲妻のような激しい疑念が生じたのだった。

本当にカオルコなのかよ



書斎でマサオは煙草をふかしていた。立ち昇る紫煙をぼんやり眺めながらマサオは呟いた。
「カオルコに似てるなあ」

別に似てはいなかった。けむりがカオルコに似ているはずはないのである。単に、そのフレーズが思いついたから、そのまま口にしただけのこと。マサオにはそういうところがあった。

別にノドカはそれがきっかけでケンイチへの信頼を失くしたりはしなかった。仮にあの時のカオルコがケンイチで、ケンイチも予想だにしない告白をされその時は正体を明かせなかったのだとしても、それでケンイチを恨むのはどう考えても筋違いなのだから。つまり、赤飯と言うワンクッションがなかったとはいえ、ケンイチに知られたことが一生の心の傷になるということはなかった。むしろ信頼しているケンイチならばこそ、その恥ずかしさも乗り越えられた筈である。

問題はつまり逆のケースだった。ノドカが危惧したのは、カオルコの成りすましの方だったのである。それ以来、どんなに楽しく会話をしていても、「もしこれがカオルコだったら……」という疑念が、ノドカの心中に常にまとわりついた。

カオルコとケンイチはよく似ていた。だからこそ、ノドカの悩みも深かった。

三つの球体は、ノドカの三人に対する想いを表していた。カオルコのは黒、ケンイチのは青、マサオのは白、といった風に、それぞれは大きさも色も以前となんら変わっていない。それなのにほんの少しバランスが崩れただけで、ノドカはケンイチに対して心が開けなくなってしまった。ノドカの話は何となく打ち明けたところのない、当たり障りのないつまらない話が増えた。ケンイチがそれを批難するようなことはなかったが、ノドカ自身に自覚があるため、ノドカはしばしば自己嫌悪に陥って、時には夕飯がのどを通らなくなることさえあった。

カオルコはほっそりとした美人で、ケンイチはこども力士のように肥っている。

ノドカは近所の人に、「お母さんに似てきたね」といわれるのが苦痛で堪らなかった。お兄ちゃんそっくり、そう言われたくて暴飲暴食に走ろうとしても、いつも度が過ぎて吐いてしまうのだった。

カオルコは食べ過ぎで吐いてしまうノドカを心配して、ノドカの茶碗にはいつもすこし少なめに飯をよそった。ノドカは最近、ますますカオルコに似てきた。
「ご飯よ」とカオルコがリビングから皆を呼んだ。

吸い始めた煙草を吸ってしまってから書斎を出るため、マサオが食卓に着くのは大体最後だった。仕度が整うタイミングを何となく察してしまうケンイチが最初で、その次がノドカである。
「またマサオが最後なの」といつものように二人が言う。

ノドカは思うのだ。

カオルコとケンイチ。食事のとき、いつもどちらかが居ないのは何故だろう、と。