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マシマロ

〜 農協 月へ行く 〜

収録作品

『農協 月へ行く』 『日本以外全部沈没』 『経理課長の放送』 『信仰性遅感症』 『自殺悲願』 『ホルモン』 『村井長庵』


『 工場ボレロ 』

次男坊

scene1

鉄。ガラクタ。コンベア。音。

人。死んだ眼。始業、無情、刑務所。

吉岡登志男には野望があり、それを成し遂げるために日々地道な努力を続けていた。町工場は朝九時の始業とともにコンベアを稼動させ、昼休憩の一時間を除いて決して止まることがない。実際には機械トラブルなどで数分間作業が中断することはあるのだが、その間も別の場所で仕事をさせられるので町工場という象徴的な存在が止まることはない。登志男はもう二年もそのことに苦しんでいた。
「機械が機嫌を損ねる程度の中断じゃ駄目だろうぜ」登志男は心の中でそう呟きながら静かにコンベアのベルトに爪を立てた。「いつかこのベルトをぶっちぎってやる」登志男の親指の爪は、指の曲形には沿わずに、四角く角を尖らせてあった。

scene2

昼。いいとも。ラーメン。湯。

列。ぬけさく。誰も口をきかず。

タモリ以下数人の冗談に声を出して笑う者たちは、笑わない者たちに白い目で見られた。タモリ以下数人の冗談に声を出して笑わない者たちは、笑う者たちのタバコを煙たがっていた。タモリ以下数人の冗談に声を出して笑う者たちは、タモリ以下数人の冗談に声を出して笑わない者たちよりテレビの近くにいて声を出して笑い、タモリ以下数人の冗談に声を出して笑わない者たちは、タモリ以下数人の冗談に声を出して笑う者たちよりテレビの遠くにいてその声さえも煩わしいと日々不満を募らせていた。
「お前ら、仲良くしろ」と工場長は言うが、その工場長が派閥を作って現場主任と敵対関係にあることを皆知っていて、「お前ら、仲良くしろ」という工場長その人だけが知らないのだった。そんな人間の言葉に従う者はなく、しかし工場長はその責任が現場主任にあると思っていた。

scene3

眼。のぞき見。ものまね。視。

列。棒立ち。汝の隣人を愛せ。

金子継春(つぐはる)はベテランの作業員で目をつぶっていても作業をこなせるレベルの熟練者だった。とはいえ実際に目をつぶっていたら現場主任の罵声が飛ぶ。継春は妄想に耽ったり何かを観察したりしながら時間をやり過ごしていた。近頃は隣で作業する登志男の癖にめっぽう夢中である。コンベアのベルトに爪を立てる癖がいつ頃からいかなる過程を経て身についたのか。そのような意味の無い癖の起源に想いを馳せるのが、言ってしまえば継春の癖だった。
「教えてやろうか、やるまいか」継春は嬉しくて笑ってしまうのを必死に堪えつつ、手元では確実な作業を進めている。「いやいや、やるまい。教えてしまって癖を気にするようになっては元も子もない」勃起した陰茎をベルトに立てたらどんな顔をするか、そんな継春の妄想をコンベアの振動がさらに助長した。

scene4

運。ことわり。あきらめ。鬱。

地。磐石。己、閉ざす前途。

生産性。現場主任が嫌いな言葉の筆頭だった。「何かといえば生産性。他に言葉を知らないんじゃなかろうか」現場主任は周りに誰もいないことを確認してから毒づいた。工場長から厭味を添えて渡された出荷予定数を示したデータ表は、今日も無理難題を吹っ掛けてくる。自分の至らなさがこの結果を招いているという自覚はあるにせよ、具体的な解決策は依然として浮かばなかった。「また生産性だ」現場主任は上下の板ばさみにほとほと疲れてしまってデスクに頭を落とした。「口を開けば生産性。句読を切れば生産性。文字に書き表せば『キミは現在の生産性についてどう考えているのか生産性お客様に迷惑をかけているという自覚が生産性足りていないんじゃないのか生産性生産性生産性わざわざ数字に出しているのは生産性を維持するためなんだけど生産性裏を返せば生産性そうでもしないとキミが仕事をしてくれないからなんだよ生産性』ってな具合だ。あいつの下につかなければならないなんて、俺はまったくついてない。しかしここ十年というもの好転のこの字も見えてこない。ああ生産性俺はこのまま生産性死ぬまで同じだ生産性賛成の反対も生産性」

scene5

起。スタート。はしっこ。一。

A。オンリー。愛と自慰と類似。

始業と同時にコンベアを起動させるのは水田マリオの仕事だった。もちろん起動させた後終業までぼうっと突っ立っていたら叱られてしまうので、皆と同じように分担された仕事をこなしている。皆よりもスイッチを押す分余計な仕事をしているとも言える。別に責任を負える立場にいるわけではなく、ただ何となく始業時に列の端にいることが多かっただけである。今では誰もがマリオのことを起動係と呼んだ。はしっこを好む性格ゆえ不平を口には出さないが、マリオはこのことを気に病んでいた。起動以外にも自分は仕事をしているのだ、と少なからずの自負がある。
「はしっこのようではしっこでない。それがコンベアの宇宙」マリオはいつの日かそのことに気付いた。しかし立ち位置としてははしっこだった。ベテランの金子がいつも吉岡のことを観察しているという下品な噂を聞いたとき、マリオは疎外感のようなものを感じた。「自分は誰かを観察することはできても、誰かに視姦されることがない」皆が同じ方向を向くのはルールである。別の方向を向くのは禁忌である。それが工場というものである。

scene6

痕。爪あと。いたずら。跡。

道。ひとすじ。確かなる手ごたえ。

吉岡登志男は欣喜雀躍した。コンベアのベルトに、ようやくにして白い筋が浮かび上がってきた。登志男が懸命につけた傷に違いなかった。「雨だれ石を穿つというのだ」登志男はうだつのあがらなかった己を顧みて、思わず涙しそうになった。ますますやる気が出てきて、その日の夜はいつもより丹念に爪を尖らせた。新しい爪やすりを買おうかと考えたほどだ。

明らかに笑いを堪えている登志男を見て、金子もほほえんだ。「俺にはわからない秘密の成果が達成されたのだ。横断歩道の一色だけを踏み続けるような、極めて無駄な成果が」そうとも知らずに登志男は報われることの喜びを噛み締めている。目的はただ一つ。工場を停止させてやりたいその一心だった。コンベアのベルトが切れてしまえば、あるいは臨時の休日が貰えるかもしれない。登志男は有給などを望んでいるわけではない。ただ褒美としての休日を渇望していた。人間らしい生活を送りたかった。

scene7

女。キャバクラ。ホステス。雌。

雄。イチモツ。力、鍛えた体。

桜木祐一は常に女のことを考えていた。常に悶々とした感情を抱えているため、仕事が終わる頃になるとどうしようもなく我慢ができなくなった。AVはむしろ嫌いで、生身の女が好きだった。仕事で無機物を扱っている反動なのかもしれない。祐一は弟を連れ添って、夜な夜な歓楽街へと繰り出した。貯蓄というものをいまだかつてしたことがない。日頃の筋トレの成果をタンクトップから露出させて女に声をかける姿は自信に満ち溢れていた。
「女を喰らうのが何より好きだ」と祐一は目当ての女に直接投げかけた。それからお決まりの、「上腕部を叩いてみろ」というポーズを取った。女が腕を叩きその硬さに感心すると、「下の方は……」と必ず下ネタに走った。相手もプロの女だから、そんな類の話には調子よく話を合わせてくれる。祐一は楽しくなって、余計に酒を飲み、豪傑のお手本のような「ガハハハ」という笑い声で場を仕切った。財布には千円札が数枚あるばかりで、払いを終えればそれもほとんどなくなった。近頃、借金をはじめたという噂もあった。

scene8

弟。いいなり。血縁。体。

戒。つぐない。身の程を知るもの。

桜木祐二は祐一の弟である。兄と同じ職場に勤め、兄に連れられるまま夜も同行を務めた。しかし性格は大人しい方だった。祐二は兄祐一のことなら誰よりも知っていると自負していた。褒められると喜ぶのはどこの筋肉かも知っていて、兄がトイレに行って席を外している間、ホステスの一人にそこを褒めるようにと耳打ちしたりもする。そんなわけで、ホステスには祐二のほうが人気があった。しかしそういう態度をみせるホステスにはあえて冷たい反応をかえすなど、徹底して兄のサポートにまわっていた。それほどまでに献身的に兄をたてるのには、自分の方が先に女を知ったこと対する負い目があったからだった。また素人相手には兄はからきし駄目で、実は素人童貞であるという事実を、決して他言しまいと心に戒めるためでもあった。

祐二は自分の勤める工場が好きだった。兄が嫌いだというので、表面上はつまらない職場だというようにしていたが、何の能力もない自分にはこのくらいがあっていると思っていた。それに祐二は兄が好きだった。兄がというより自分にできないことをやってのける人物は皆好きだった。相手の顔色を窺わず、欲望に素直に生きる兄は素晴らしいとさえ思った。一度ホステスに兄の腋臭を注意するよう言われたが、もし兄がそれを気にして清汗スプレーなどを使うようになっては困ると思い、断った。気付きもしないで強欲に振舞う兄が祐二は好きなのだ。

scene9

名。ストレス。お便所。人。

命。いいなり。されど恨み深し。

山根くんは胃腸が弱く、だいたい顔色が悪かった。朝昼晩と胃腸薬を服用するが、水の味がどうしても好きになれず、しかし薬を飲むには水を飲む必要もあり、薬を飲むたびに別のストレスを感じてしまうという可哀相な人だった。性格はむろん根暗で、気の合う仲間もいない。「山根くん」というのも本名ではなく、アニメキャラから取って付けられた不名誉なあだ名であった。勤務中に頻繁にトイレに駆け込むので、当初はそのためにラインが止まることが何度かあった。

対策はすぐに取られた。むろん別の人員を雇うはずもないので、とばっちりを受けたのは隣で作業をしていたホモ男だった。ホモ男というのも山根くん同様、不名誉なあだ名を付けられた一人である。彼も自己主張ができない性格で、食堂では一人で飯を食うことが多い。ホモ男は山根くんがトイレに行っている間、二人分の作業をしなければならなかった。山根くんは毎回きちんと謝るものの、ホモ男はいつも迷惑そうに小さな舌打ちをした。類は友を、という意味で二人は同調しやすい位置にいたのに、二人の仲は進展せず、やはり一人で飯を食うことが多かった。

scene10

田。るいとも。総称。3。

他。けん制。俺が俺が俺が。

起動係こと水田マリオ以下、起動スイッチから近い順に亀田、吉田と並ぶ「3田トリオ」は、仲が良さそうに見えた。三人とも酒が飲めず、タバコをやらないこともあり、行動範囲が似通っていたためである。しかし本人たちは余りそうは考えていなかった。行動を共にすることが多いのは確かだが、三人ともがこの中では自分が一番優れていると考えていた。能力にも外見にもさほどの差がないためかえって競争意識が芽生えやすかったと言えるだろう。
「お前はそういうが、俺なんかは……」共通する口癖が、また今日も飛び交う。会話はかみ合わないが、誰もそんなことを気にしてはいない。自分の話をできれば良いのだ。当然、給料も他の二人よりは多く貰えるべきであり、それぞれが工場長のもとへ昇給を求めて直談判に行き、それぞれが同じだけ工場長の心証を悪くしただけですごすごと引き下がり、そしてそれぞれが直談判に言ったことを秘密にしながら、また今日も相手を貶める策略を練っていた。

scene11

夜。ささやき。コンベア。音。

人。しかばね。ガタン…ゴトン…ガタン……

工場は休まない。少人数の夜勤組みが機械を相手に吐息でささやく。
「……」「……」「……」

夜勤組みは、絶えず何かを囁いている。

しかし悲鳴は、機械の音に飲み込まれてしまう。

絶えず囁いているはずなのに。

scene12

音。スタート。マニュアル。品。

傷。きっかけ。溶けて消える宇宙。

登志男が刻んだ爪痕は日ごとに白さを際立たせ始めた。水田マリオはいち早く異変に気づき、隣にいる亀田に話した。話を聞いた亀田は、同じように吉田に話した。「どこかで機械の一部が引っかかってるんじゃ」「大変だよ」「工場長に報告しよう」「現場主任が先じゃないか」「誰が報告するんだ?」

三人とも、ポイント稼ぎがしたくて名乗りを上げた。ちょっとした諍いが起き、それをうるさいと感じたホモ男は何気なく舌打ちをした。山根くんがまた少し傷ついた。

scene13

音。コラール。ハイボール。金。

酔。ジンジャー。らろりるろられろ。

給料日が近づくと、欲望の高まりに反比例しながら、祐一の財布の中身は寂しくなっていった。毎月のことなので祐二もその辺りはよく承知しており、金を下ろしておくのを忘れない。しかし安月給の二人のこと、夜の街に繰り出すには心もとない限りだった。二人は仕方なく工場長と山根くんを誘って安い居酒屋で飲むことにした。工場長を酔わせてその手の店に連れて行ってもらおうと祐一は目論んでいた。

ウイスキーのボトルを入れた。酒がほとんど飲めない山根くんは、自分がいくら払わされるのを非常に心配している。そのうちに工場長指揮の下、工場のマーチが歌われた。「山根はどうして歌わないんら?」ろれつの回らない口調で工場長は山根くんを叱咤した。山根くんはビックリして、思わず目の前のハイボールを飲み干した。「らろりるろられろ」

scene14

傷。マンネリ。間違い。傷。

傷。クレーム。エラー増産中。

金子継春も爪痕に気づいた。ただ、まさか登志男が付けたものだとは夢にも思わず、もともとあった傷をたんに登志男がなぞっているだけだと勘違いした。線がついていれば、誰だってなぞってみたくなる。そう考えると、登志男の癖をひどく退屈なものだと感じるようになった。金子はもはや何に対するやる気も失い、小さなミスを連発した。

次の日も、その次の日も金子はミスをし続けた。「こんな工場潰れたって構わない」次第にわざとミスをするようにもなった。ミスに気づいていたのはホモ男だけだった。山根くんがどんどん傷ついた。

scene15

職。リストラ。金欠。血。

汗。呆然。もう駄目だよおしまいだよ。


「粗悪な製品の混入が続出している。このままでは注文がなくなり、工場は潰れる」工場長は笑いながら告白した。「少なくとも傾く」

祐一は焦った。「こんな状態の人に奢ってもらえるはずがない」膨らみつつある欲望があった。祐二も焦った。「金が尽きればさすがの兄貴も大人しくせざるを得ない」退屈な兄など死んでも見たくなかった。山根くんも焦った。「リストラ最有力候補は僕だ」シマリス最有力は僕候補だ。
「僕あ、シマリスにも劣るンだすゲ!」山根くんは叫び、吐血した。

scene16

欠。コンベア。スタート。時。

因。舌打ち。身の回りの宇宙。

山根くんが欠勤したにも関わらず、ラインは通常の速度で運転された。山根くんのことなど誰も気にしていない。それよりも会社が危ないという工場長の一言によく分からないなりに衝撃を受けていた。ただ一人、ホモ男がいつも以上に迷惑そうな顔をしていた。しかしホモ男は山根くんを恨んでいるわけではない。ホモ男が恨んでいるのは、目の前にある状況そのだけであった。作業と己は常に一対一の関係にあり、他の者が干渉する余地など初めからなかったのだ。山根くんが抜けるから作業が増えるのではない。作業は増えたのだ。思考はそこから始まって、その状況をホモ男は恨んだ。

scene17

手。コンベア。トキメキ。目。

再。スタート。さあみんなで頑張ろう。

登志男ははっとした。自分が馬鹿らしくなったのである。工場を停止させて何になるのか。「いくら休日がもらえたって、それが終わりなき休日であれば喜ばしいことなど何もない」コンベアには登志男のつけた爪痕が残っていたが、まだベルトに裂け目が入るまでには至っていない。登志男は心を入れ替えた。どんなつまらない仕事だろうと、遣り甲斐を見つけるのは自分自身なのだ。己を鼓舞したその時、登志男は金子のミスに気がついた。
「金子さん。ここ違ってますよ」金子は驚いた。年下にミスを指摘されたからではない。「まさか俺が他人から観察されていたなんて」思いも寄らないことだった。その瞬間から、金子はあらゆる視線を感じるようになった。ミスを皆に知られるのが恥ずかしくなり、すぐに作業工程を守るようになった。

ラインの奥ではホモ男の舌打ちが少しだけ減り、工場の工場らしい無機質な音がいつまでも響き渡った。

scene18

天に まします 我らの 父よ

嗚呼 願わくは 皆を崇めさせたまえ

その日、現場主任は工場長の嫌がらせを受け、昼と夜の連勤を命じられていた。工場が潰れたらお前が責任を取れとまで言われて、ハラワタが煮えくり返っていた。現場主任は自暴自棄になり、作業日誌をアラビア語で書き始めた。むろんアラビア語はデタラメだ。見ているうちに眠気に誘われ、とうとう机に突っ伏してすやすやと寝入ってしまった。

夜勤組は今日も囁いている。機械の音はそれを飲み込んだ。それはいつものことだったが、今日はなぜか監督が見回りに来なかった。現場主任は寝ていた。そのうちに作業員の一人が寝てしまい。別の一人も寝てしまった。機械は止まらない。それが機械であり、工場であるからだ。とある機械が煙を吹き、連絡している別の機械が爆発した。工場はついに止まった。

翌日、部品は別の工場に発注された。

今日は昨日より舌打ちがたくさん聞こえる。変わったことといえば、それくらいだ。