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マシマロ

〜 七瀬ふたたび 〜

目次

『邂逅』 『邪悪の視線』 『七瀬 時をのぼる』 『ヘニーデ姫』 『七瀬 森を走る』


『 ライトラベル 』

次男坊

どうしてか廊下があまり好きじゃない。

特に仲が良くもない連中と教室から出るたびに顔を合わせて、悪い時には他愛もないと称する双方にとって全く利益のない会話を交わさないといけないのが面倒なんだと思う。

その点教室は、気の合う奴らもいるし、この季節は全開にした窓から吹き込む風が心地いいし、今の一番後ろの席は落ち着くし、隣の席の加奈はもう午後の授業が始まるってのに未だにシャンプーのいい匂いがするしで良い事のほうが多く思いつく。

もちろん「教室が好き」なんて優等生じみた感想は、仲間内では冷笑を浴びせられるだけだから公言はしないけど。

教室に戻った俺は、特に誰とも眼を合わさないで静かに自分の席に着き、昼食後の満腹感と午後の陽気に誘われたフリをしながらごく自然に机に突っ伏し、そしてすでに着席しているだろう加奈の良い香りで人知れず鼻腔を満たしつつ本当の睡魔に襲われるのを待つんだ。

そんな風に我ながら呆れるほどの情けないシミュレーションをし、されど恐らくそれがその通りになることをいくらか確信して教室の扉を開けると、まったく拍子抜けすることにそこに加奈の姿はなかった。というか、加奈だけじゃなく、教室には誰もいなかった。
「あれ、移動教室だったっけ」

黒板の横の時間割表に目をやると次の時間は国語になっている。当然のことながら、いまだかつて国語が移動教室だったためしはない。多目的室でモジモジ君でもやるってのか? そんな授業なら是非とも受けたいところだが、残念ながらあの堅物教師に限ってそんな可能性は微塵もない。

いや、俺は何を考えているんだろう。なぜ誰もいないんだ。

その時、ふと妙なことに気が付いた。今の今まで騒がしかった廊下がしんと静まり返っている。放課後の、ひぐらしの声をBGMにしたくなるような静けさとは明らかに何かが違っていた。初夏といえどもかしましいアブラゼミの大合唱が現にいま聞こえているのだ。周囲の物音が消えてなお、それはジンジン、ジンジンと圧倒的なリアルさでもって延々響き渡っている。

俺は廊下に飛び出した。そして愕然とした。実際に目にすると、分かっていたことでもやはり驚かずにはいられなかった。誰もいねえ。

誰もいなくても、時間が来ればチャイムはなるのだということを俺はこのとき知った。午後の授業の始業を告げるチャイム。今現在、この場所で、いったい俺に何を始めろというのか。

教室に戻りグラウンドを眺めると、体育の授業は行われておらず、避難訓練というたった今思いついたばかりの可能性もあえなく否定された。グラウンドの向こうの民家に人影があるのか、ここからでは判断できなかった。

俺は冷静になろうと自分の席に着いた。こんな時でも自分の席を選ぶというのが不思議に感じられた。どうせ誰もいないんだから、教卓についたり、加奈の席に座ってみたり、いろいろあるだろうに。しかし俺は、心のどこかで悪戯という可能性を否定できずにいるんだろう。あえて加奈の席に座っているところをクラスメイトの誰かに見られたらなんてこと考えてしまうのだ。

西岡徳間ならそんなことは気にしないだろうなと思った。好きな娘の椅子に座るどころか椅子を舐めまわしたりだってできそうだ。もっともそれを冗談としてやってのけるタイプのキャラだというのはクラスに浸透しているし、どん引きされるようなことにはならない。うらやましいかぎりだ。こんなに考えても、まだ俺にはそれができないんだから。

逆に俺と同じ行動をとると予想されるのは、クラス一の根暗キャラ、山根だ。せめてあいつよりは大胆な行動をとりたいものだ。
「山根だったら、いつまでこの状況に耐えられるかな?」

俺はなにげなく呟いたんだ。本当に山根に対抗意識を持っているわけじゃないし、山根に対抗意識を持たれるのだってなんか嫌だ。

それなのに、なんでそこに山根がいるんだろう……。
「加地くん?」

山根は分厚い眼鏡のレンズ越しに、目を真ん丸くして俺のほうを見ていた。
「お、おまえ、何でそこにいるんだよ!」
「ぼ、ぼく、ぼくよく分からなくて……」
「はあ?」
「教室にいたら、誰もいなくって、それで、気付いたら加地くんがいて……」
「だからいつからそこにいたんだよ」

さっきの独り言を聞かれて、山根に興味があるなんて思われるのはごめんだった。
「ず、ずっといたよ」

ちっ。
「いたんなら声くらいかけろよ」

なぜか山根は泣きそうになっていた。すこし口調が強すぎたのかもしれない。
「だって誰もいなかったから……でも今は加地くんがいて……どうすればいいのか、ぼく、わからなくって……」

とうとう泣いてしまった。だけど、俺だってどうすればいいのかなんて分からない。それより、山根の存在に気付くべきだったのは俺のほうだったんじゃないだろうか。なぜなら俺は最後列で、山根は最前列に座っているんだから。
「なあ山根。お前いつからそこに座ってたって?」

山根は小学生みたいにしゃくりあげながら、昼休みの間じゅうずっと本を読んでいたと言った。

山根を出現させたのは俺なんじゃないだろうか。そんな閃きが落雷のように俺の脳裏をよぎった。
「徳間とか見てないか?」

俺は山根に訊ねながらも、西岡の席のほうを見ていた。俺の推測どおりだとすれば、そこに西岡が現れるはずなのだ。しかし西岡は現れなかった。
「西岡くん?」

山根が静かに言った。なぜか俺のほうを見ていない。廊下の側の後のドアのほうを見ている。
「よう、加持か」

そこには西岡がいた。「なんだお前ら二人だけか」

西岡の落ち着き払った態度は少し気になったが、そんなことはどうでもいいのだ。俺に名前を呼ばれたものがこの教室に現れる、それはどうやら間違いない。
「ああ。俺たちだけだ」

俺は自信たっぷりに西岡を見遣った。それからぞんざいな態度で加奈の椅子を足蹴にしながら、
「隣の加奈もいないな。みんなどこに行っちまったんだ」

今にも溢れ出しそうな歓喜の感情を表情に出さないようにするのが大変だった。
「よう、加奈」と西岡が言った。
「あ、西岡だ。今振り」
「おお、今振り」

奇妙な会話だった。西岡には別に付き合っている娘がいるとはいえ、二人だけで通じるような会話は聞いていて気持ちのいいものではない。
「お前ら、何の話をしてるんだ? 今振りってどういうことだよ」

えっ? とこちらを向いた加奈が、俺たちの前から忽然と姿を消したのはその時だった。