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マシマロ

〜 日本列島七曲り 〜

収録作品

『誘拐横丁』 『融合家族』 『陰悩録』 『奇ッ怪陋劣潜望鏡』 『郵性省』 『日本列島七曲り』
『桃太郎輪廻』  『わが名はイサミ』 『公害浦島覗機関』 『ふたりの秘書』 『テレビ譫妄症』


『 目的 』

次男坊

徹(とおる)はドアをノックしていた。ノックというのはドアの向こうにいる相手を呼び出すためのモーションであるから、相手が留守だとノックはいつまでも止まない。お隣さんが顔を出して「お隣は留守みたいですよ」と言ってくれた場合は別で、その時はノックも止む。

徹がノックをし続けているのは、相手が留守でかつお隣がいないからだった。ノックはすでに八万回を数えている。右拳の皮はとっくに擦り切れており、剥き出した肉が血を滴らせ、中指の付け根の骨は露出していた。スチール製のドアには、間違えてペンキを垂らしたような赤い筋が、胸の高さから地面にまで続いている。無論、徹にも痛覚があるので、それは肉体的に大変な苦痛であった。

何も拳でノックする必要はないんじゃないか、そう思った徹は視線を落としてはっとした。足は、四万回から五万回にかけてノックするのに、すでに使っていたのである。靴はつま先の部分が破け、露出した指先は痣と、爪が食い込んだことによる出血で見るも無残な有様だった。

愕然としながらも徹はノックを続けた。左拳は右拳よりかはましという程度で、骨が見えるのも時間の問題だった。いったん休養を取らせていただけに、痛みはかえって鮮明である。
「ちょっと、もし、あなた」声を掛けたのは巡回中の警察官だった。制帽のつばが影になっているため判然としないが、どことなく不健康そうな顔色である。がたいは良いのに覇気がなく感じるのも、おそらくその為だろう。
「ノックをしているんです」

どうせ聞かれるだろうと思い、徹は説明した。
「ほほう。ノック」警察官は感心したように頷き、「しかし夜も遅いですな」と要領を得ないことを言った。顎を撫でて空惚ける演技から見受けるに、意外と若いのかもしれない。
「夜分に訪問すると失礼ですか」徹はいくらかむっとして答えた。
「いやいや」と警察官が笑う。「まあ、約束が昼間だったのなら気を悪くする人もいる」
「じゃあ違います」徹は確信するように口もとをほころばせた。「約束は夜なんですから」

そうですか、それなら、と言いつつも警察官はその場を離れようとしなかった。それが彼の職務なのだろうと徹も半ば諦めている。

タバコを一本吸い終えて警察官が戻ってきた。といっても喫煙所は目と鼻の先にあるため、彼が徹の監視を怠ったわけではない。逆に言うと、喫煙所がそこになければ彼はタバコを吸わなかっただろう。真面目な人柄がみえるようである。
「この家には、たしか犬がいましたな」先ほどとは打って変わった気さくな調子で警察官は言った。
「そうでしたか」と徹は答えた。「お知り合いですか?」
「職業柄、そういうことはよく知っていてね」
「でもここの人がいま留守かどうかは知りませんよね」
「それは知らない」

徹はがっくりと項垂れた。留守が確定しないかぎりはノックを止めるわけにいかないからだ。そんな徹を見かねたのか、警察官はあるひらめきを口にした。
「もしかして、ここはキミの家なんじゃないのかな」
「というと?」徹は首を傾げた。
「キミがキミ自身を訪ねているとしたら、どうやったってキミは応対には出られない。キミは一度家の中にはいって、そして中からドアを開けなければいけないのだ。もちろんキミが家の中にはいればノックも止まるわけであり、キミはドアを開ける必要を感じないかも知れないが、それだといまノックしているキミの気持ちが収まらないだろう」
「では、どうすればいいんです」
「なんならその時だけ、ノックする役目を私が代わってもいい」

徹はなかなか面白い提案だと思った。が、すぐに顔色を曇らせ「鍵がないんです」と告白した。警察官は残念そうに、そうか、とだけ言った。

ノックは三十四万回に達しようとしていた。

留守が確定しない限りノックを止めるわけにはいかない徹と、徹が不審者でないことが確定しない限りその場を去れない警察官は、なす術もなく、耳障りなノックの音のなかに佇んでいた。

その時、ノックの衝撃に晒され続けていたドアが派手な音を立てて、倒れた。

二人は茫然と見つめ合い、ややあって自然な微笑をたたえた。ドアさえ開けば双方の目的は間もなく達成されるのである。徹は心の底から安堵し、一方、警察官は、これでもし徹が不審者であったなら器物損壊や住居不法侵入でも逮捕しようと冷静な一面をみせていた。

埃っぽい室内の中央にはミイラ化した死体が一体、横たわっていた。
「思い出した!」突然、警察官が叫んだ。「俺はこの人を知っている」
「僕だって! 僕の恋人なんです」徹も叫んだ。

すると警察官は一歩身を引いて、徹に問い掛けた。「本当にキミの恋人なのか?」

鋭い眼つきだった。徹は気圧されるように部屋の隅へと下がっていく。その途中、動物の骨を踏みつけて、徹は転んだ。
「俺はこの人から通報を受けて、ここに来たのだ」埃にまみれた徹を見下ろしながら警察官は言った。「ストーカーの被害を受けているからと」

徹の眼がおよいでいる。もう自白したようなものだと警察官は思った。
「通報を受けたのは、およそノック三十万回ほど前のことだ。当時の状況からすると、あの時キミは、すでに十万回ほどノックしていたように見えたが」

言い逃れはできないと諭すように、警察官は説明を続けた。徹は泣き崩れ、謝罪した。
「そのストーカーというのは、多分僕のことです」
「そうか」
「あのう」と徹は身を縮こまらせながら言った。「僕は殺人罪に問われるんでしょうか」
「餓死だからな」と警察官は言った。「本来なら責任は問えないのだが、今回の場合は因果関係が明らかだし、まったくのお咎めなしとはいかんだろう」
「そうですか」

徹の悔恨の深さが知れる、大粒の涙が床に落ちた。

しかし、その後の調べで徹には前科があることが判明し、禁固ノック五十万回という重い判決が下されることとなった。刑期中、徹は鼓膜を損傷した。音を失い、ノックをカウントすることもできなくなった。直接の原因ではないとされたが、徹が獄中自殺したのはそれから間もなくのことだった。