Nameless Bar >  マシマロ > 無音演劇

マシマロ

〜 フェミニズム殺人事件 〜


『 無音演劇 』

次男坊

たとえばそこに消火器があるが、やはりどこか不自然なのである。消火器というのは突然の出火に備えるものであるから当然すぐ手に取れる処に置いてあるべきで、赤い色をしているのも目立つようにという工夫であろう。しかし妙なことに、その消火器は布を被せてあるわけでもないのに余り目立たない。咄嗟のとき周囲を見渡して……八番目くらいにチェックするのではないか、というような微妙な処に置いてある。

あるいは消火器の位置が正確で、部屋の方のバランスが狂
「火事よおおおおお」

突然、外から叫ぶ声が聞こえた。「お向かいが火事ヨおおおお」

近所に阿呆が住んでいるというのはあまり気分の良いものではない。お向かいのお向かいはお前だろうが。お前以外にとって、出火元はお向かいではない。

普通の人はそんな阿呆のたわ言にいちいち慌てたりしないからいいのだが、皆がみなそうではないというのは残念ながらその通りなのだ。多くの場合、火事に巻き込まれるのは阿呆だと相場が決まっている。そして阿呆だから、阿呆のたわ言にもむやみやたらと反応し、無用なことに頭を悩ませたりしながら気付くと逃げ遅れていたりするのだ。こうして阿呆どうし足の引っ張り合いをしているのを見ると、淘汰というのは避けられないものなのだなとしみじみ思う。

それでもやはり人死にが出なければいいものだと外に出てみると、近隣住人のひとりが咄嗟に持ってきたと思しき消火器を手持ち無沙汰に提げていたので、なんだかもう本当にがっかりした。

阿呆が「お向かい」と言ったのを聞いていなかったのだろうか。お向かいが火事に気づくくらいなら、消火器などまさに焼け石に水ではないか。しかしなるほど、阿呆な面構えをしている。「自分が持ってきた消火器」がどうすれば役に立つのか、いまなお考えているらしい。二階から出火したと思われる火は、すでに屋根の高さに達していた。

火の様子がおかしい。教育テレビの人形劇で使われるようなまるで布みたいな火だ。もしくは焼肉屋にあるペラペラの牛タン。延焼しているのは確かだから「おふざけ」じゃないことは分かっている。だが、やはりどこか不自然である。

しかし燃えている。あそこで泣いているのが住人だろう。

少し離れたところに女がいた。黒髪のロング。決して美人ではないが――なんだろう、雰囲気がある。近づいて声を掛けた。
「ヘイ」
「えっ?」

女はびくりとして肩をすくませた。ヘイ、などと声を掛けたから驚いたんだろう。言わないよ、ふつう、ヘイとは。早々に彼女の雰囲気に飲まれてしまった。

その時、彼女の眼球がぐらりと揺らぐのを見た。そのまま毀れてしまいそうな大袈裟な眼球の動き。――動揺。
「あ」
「え?」
「これ、アンタがやったの?」

俯く彼女が小便くさい汗をかいていたので、これはもう本物だと確信した。そろそろ消防車が到着する頃だ。いくら阿呆揃いでも、いまだに誰も通報してないなんてことは――おれは電話を持ってないんだ。

部屋に入るなり彼女は眼を瞠って、「なに、この部屋、変」と言った。

やはり不自然なのは部屋の方だったのか。おれは落胆した。個人的な感覚の問題ですまないとなれば、おれはこれからこの部屋を理解しなければならなかった。理解の外にある不自然な事柄を理解する作業、それは片手間でできることなのか、まったく予想すらままならない。
「歪んでる」彼女は言った。
「そ、欠陥住宅。ビー玉転がす?」

彼女はかぶりを振り、おれを見上げ、凝視っとみつめて、兄弟姉妹に向けるような笑みをふっと浮かべた。そして民謡じみた調のとり方で言った。
「わたしびぃだまころがさないよ」

捉えようによっては媚を売っているようでもあった。無理もない、自分が放火犯であることがばれたのだ。しかし動機を問いただそうという気は起きなかった。

そういえば、さっき彼女が部屋の中を見たときにも思ったのだが、じつは彼女は眼が大きい。ほのかな微笑をたたえていて、いつもどことなく眠たそうにしているから見過ごしそうになったが、それは明らかに美人の要素となり得る眼だった。ただ、眼の大きい女が特別好きというわけでもないので、それが分かったところで彼女を好きになったりはしない。

しかし、だ。眼の大きい人には是非とも訊いておきたいことがあった。
「ここの消火器の位置だけど」おれは先ほどの疑問を口にした。「置き場所がおかしいと思わない?」
「うん」彼女は即答した。「おかしい。変よ。どこがと訊かれても困るけど」
「たとえば、そうだな」おれは洗い物のたまったキッチンを指さす。「あの場所で出火があったとして消火器をさがすわけだけど、なぜか消火器が見つからない。何番目にさがした場所で消火器は見つかると思う?」

彼女はしばらく思案していた。質問の意図を探っているのか、素直に質問に対する回答を用意してくれているのか、それは判らない。昆虫のように首をクリクリ振りながら彼女は部屋を検分した。

トンボが首を傾げると、世界には謎がひとつ生じるという。

幼い頃はそんなことも信じていた。
「九番目くらい?」彼女は答えた。

おれは反射的に彼女の眼を覗き込んだ。「なんで?」
「え、なんでって言われても」
「おれはさっき八番目だと思ったんだ」

へえ、と彼女は眼を丸くした。本当に驚いているらしかった。おれだって、この偶然とは言い難い出来事に驚いている。
「おれの見る場所のほかにアンタは一箇所どこかを見た。それがどこか、いま分かる? 分かるならぜひ教えて欲しい。それはこの部屋がどんな状況にあるのかを解き明かすヒントになるのかもしれない」

おれは一体なにが知りたいのだろう。しかし彼女は律儀に相手をしてくれた。口に手を当て、凝然として、しばらくもの思いに耽る。

彼女はふっと顔を上げた。眼を細めてにっこりと笑い、おれのことを指さしたのだった。
「あなたを見てました」

 

それから二分ほどの間にあったことはあえて話さないことにする。

今、彼女は床に横ざまになって座り、頬を押さえて泣いていた。涙はとどまることを知らず、カーペットに大きなシミをつくった。彼女はしゃくりあげながら、こんな告白をした。
「夏というのは、どこか大きな工場で炉を燃やしているから暑いのだと聞かされていました。もちろんそれは、小学校に上がるよりももっと前の話ですが、最近になってふいにそのことが思い出されるようになりました。夏は暑いですし、本当は毎年思い出したかったのかもしれません。放火――」
「夏というのは、どこか大きな工場で炉を燃やしているから暑いのだと聞かされていました。もちろんそれは、小学校に上がるよりももっと前の話ですが、最近になってふいにそのことが思い出されるようになりました。夏は暑いですし、本当は毎年思い出したかったのかもしれません。放火――」
「どこかの大きな工場で炉を燃やすと夏になります。もちろん小学校に上がる前から決まっていたことです。最近になって工場が経営危機に陥っていることを聞きました。『このままでは、夏!』夏は暑いですし、本当は毎年思い出したかったのかもしれません。放火――」
「消火器というのは冬の風物詩に登録されていますか? 夏に火を消すは自殺行為です。温暖化も嘘です。もっと燃やしなさい。小学校に上がる前にそう聞かされたのです。小学校の避難訓練で、一度、消火器の使い方をレクチャーされました。『夏め! 夏め! にっくき夏め!』あたしには一方的な思想を押し付けられているようにしか思えませんでした。小学校では現在でもそういった押し付けがあるといいますから」
「そろそろ帰ってもいいですか?」

彼女は落ち着いた口調でそう言うと、深々と頭を下げた。引き止める理由もないので手を振って送り出そうとすると、彼女は何かに気付いたらしくしばらくそれを見ていた。
「これ、金魚鉢」
「ああ、金魚だよ。残った一匹が大きくなってさ。って、あれか? 水も夏の敵だって言いたい?」
「ううん、違くて」また彼女の表情がぱっと明るくなった。「ほら、ビー玉。水槽の下にいっぱい」

彼女の言わんとすることが判らず、おれは黙っていた。彼女は鉢を覗き込みながら、時おり思い出し笑いをするみたいに口もとをほころばせている。

ねえ、とこちらを振り返る仕草はなれなれしいにもほどがあったが、不思議と嫌な気分はしなかった。
「やっぱしビー玉転がしてってもいい?」
「ああ、いいよ」

というが早いか彼女はむんずと躊躇なく鉢に手を突っ込んだ。金魚を掴むつもりでは? と危惧するも金魚は無事で、彼女は三つばかりのビー玉を嬉しそうにおれに見せた。
「じゃあやるね」

ビー玉が三つ。等間隔に並べられたまま、ぴくりともしない。
「そろそろ帰ります」

とくに気落ちした様子は見られなかった。カーペットの上だから、転がるなんてはじめから思っちゃいなかったんだろう。
「新聞、来てますよ」彼女は玄関前で新聞受けを勝手に開け、新聞を取り出した。「ここに置いておきますね」

彼女は手を振って、おれもそれに応えた。

ひとが帰ると、ぽっかりと穴が開く。おれはそれを知っている。

彼女の姿がドアの向こうに消えてしまうのを確認して、おれは玄関へ急いだ。案の定、ドアスコープには彼女の姿が映っていた。後頭部を見せたまま、じっと佇んで動かない。

彼女はきっと放火する。おれには確信があった。

やがて何かが投函される音がして、黒い煙が新聞受けの隙間からもうもうと溢れ出してきた。

もちろんこれは彼女の「おふざけ」である。放っておいても、大火事になるようなことはまずあるまい。黒い煙ははやくもその勢いを失いはじめていた。

しかしせっかくだから――消火器か、金魚鉢か、正しいほうをじっくりと選んだらいい。新聞受けが煤だらけになっても、明日の新聞が読みにくくなくなるだけだ。新聞なんてものは、そのくらいがちょうどいいんだから。