向日葵



向日葵

 一定の旋律に揺れる電車内。僕は小刻みに肩を震わせられながら、頬杖を突いて流れ往く景色に視界を奪われていた。
 嫌になる程どこまでも広がる、殺風景な田舎の風景。深緑一色に染まった山々に、誰が管理しているかも分からない田畑。それでも――この景色は僕にとって特別なものだ。
 ふと視線を落とすと、掌には小さな向日葵の花が一つ。僕がこの電車に乗っている事も知らず、向日葵畑で戯れているであろう少女が送ってきた物。
 僕の姪に当たる、小夏という名の少女。歳の離れた姉さんの子供で、僕とは幼馴染のような関係だ。それでも僕が幾つか年上で、彼女は“お兄ちゃん”と呼んで腕を抱いてくるのだ。
 その向日葵と一緒に送られてきた、純白の手紙。僕との再会を願う内容が、拙い文章で――それでも、健気に書かれている。
 逢いたい。彼女の思いが、その一文字一文字から浮かび上がってくるようだった。理由は分からないが、去年手紙を出さなかった後悔が滲んでいるようにすら思う。
 その去年を除けば彼女が向日葵と手紙を僕に送るのは、もはや毎年恒例の行事と化していた。互いに幼いながらも知り合い、野山を笑い合いながら駆け回ったあの頃。だが、時の流れは残酷とはよく言ったものだ。僕の学業の多忙さと言えば、席の暖まる暇も無い。彼女も彼女で僕とは暫く会えない理由が出来、僕と彼女の交流はそこで途絶えたと思っていた。
「あーん! 達哉、あたしのひまわり返してよー!」
 見ると、電車に揺られているにも関わらず、少年少女が通路を我が物顔で走り回っている。
 いや……男の子と女の子と表現する方が正しいか。幼稚園生か、小学校低学年か。その程度の子供達が電車の通路を駆け回っている。
 女の子に追い掛け回される男の子。彼は振り返りながらも、女の子を馬鹿にしたように舌を出す……所謂、“あかんべー”というヤツだ。その一連の喧騒は物騒がしいと言うより、かつての郷愁を思い起こさせるものだった。
 僕はこんな意地の悪いことはしないが、それでもこの光景は小夏を彷彿とせざるを得ない。あの頃の小夏は今よりずっとお転婆で……僕は駆け回る彼女を追い掛けるので精一杯だった。だけど、それでも彼女と一緒に居たいと思ったのは――そうか、僕も彼女に惹かれているんだ。
 あの頃の彼女の右手にも、きっと握られていたと思う。男の子がその手に持つ、向日葵の花が。
「可愛いお花ね」
「え……?」
 二十代後半だろうか、花束を抱えた綺麗な女性がそこに佇んでいた。
 絹の如く艶のある、栗色の長髪。そして紅色に塗られた唇は、“大人の女性”と形容するには充分な色香が放たれていた。
「隣、良い?」
 その問いに、僕は快く二つ返事をした。
 僻地へ直行するこの電車に乗る物好きは少なく、案の定周りの席は空いている。しかし、彼女も何かの縁を感じたのだろう。
 そして……今頃になって彼女の言葉の行方に気付く。彼女が微笑んだのは男の子が持っていたそれではなく、僕の――小夏の向日葵だ。
「あなたの花束も綺麗ですよ」
 言うと、女性は頬を赤らめて嬉しそうに「ありがとう」と微笑んだ。
 彼女が清楚に腰を下ろすと、その腕に抱かれた香気がふわりと鼻腔を撫でる。気付けば女性の視線はその花束に落とされていて、潤った花唇がゆっくりと開かれた。
「これ、婚約者の彼から貰ったの」
 思わず笑みの零れる甘く馨しい百合の香り。まるで彼女自身を表すような、上品な淡い桃色を纏っている。まさにこの女性の為に存在する花だ……と言うのは、この花を選んだ婚約者の人を褒め過ぎだろうか。
「一緒に婚約指輪もね。彼ったら、ずっとそんな素振り見せなかったのに……」
 結婚とは、本当に素晴らしい事なのだろう。
 僕につくづくそう思わせる至福に満ちた笑顔が、僕の目の前で咲き誇る。彼女の薬指には――彼から贈られたであろう婚約指輪。女性はそれを愛おしそうに眺め、そして呟く。
「だから今、私はとても幸せ……」
 人が見せるこれ程幸せそうな表情を、僕は見た事が無かった。寧ろ人はこんなにも幸せを表現することが出来るのかと、舌を巻いてしまうくらいだ。
 結婚をすれば、僕もこんな喜色満面を誰かに見せる事が出来るだろうか――。
「あ、ごめんなさい。一人で惚気ちゃって」
「いえ、僕も幸福な気持ちになります。とても、幸せそうで……」
 彼女自身も、そしてそんな幸せそうな彼女と結婚出来る婚約者の彼も、素直に羨ましいと思った。
 結婚か。だけど僕が教会の壇上で誰かと口付けを交わす場面なんて、到底想像すら出来ない。僕はまだまだ子供――そういう訳だろう。
「私、この駅で降りなきゃ……彼が待ってるから」
 電車の奏でる走行音の旋律が止む。彼女はそこへ座ったように行儀良く席を立つと、僕に小さく頭を下げた。
「それじゃあ、さようなら」
「さようなら。お幸せに」
 百合の残り香は、いつまでも僕の鼻奥に残って愉しませる。
 去り際の彼女の笑みは、僕までその幸せを分けて貰えるようだった。

 小夏の待つ駅まで、後二つ。彼女に近付けば近付く程、その笑顔がより鮮明に――僕の脳裏に映し出されていく。
 一昨年の夏も、誰もが茹蛸と化すような酷い猛暑だった。高層ビルが立ち並ぶ摩天楼の一角と比べれば、確かに茹だる暑さではないが……それでも僻地とはいえ炎暑には変わりない。だけど僕の記憶の中で、小夏と居た時間はどれも笑顔に満ち満ちていた。
 不思議だった。彼女と一緒に向日葵畑を駆け抜けていると、纏わり付いていた気怠さが綺麗に抜けていた。小夏が笑っていたから――僕も自然と笑みが零れた。容赦無く照り付ける陽光など弾いてしまうような、そんな笑顔だったから。
「おっと……っ!」
 ふと、我に返る。すると一杯の花束を抱えた老人が、覚束無い足取りでよろよろと僕を横切ろうとしていた。
 彼にとってそれは余程大切な物なのだろう。先の女性が嬉しそうに抱いていた花束の、一体何倍あるだろう。それでも老人は額に脂汗を滴らせながら、懸命にそれを掴んで離さない。
 だが無情にも、客が乗った事を確認したドアは無機質に閉められる。その時点で、未だ老人は手摺にすら掴まっていない状態だった。
「危ない!」
 咄嗟だった。電車の発進と同時に倒れ込みそうになった彼を、僕は花束と一緒に抱き留めた。幾許かの花弁は散ってしまったが、幸いその華美を失うまでには至らなかった。
「す、すまんな……」
 僕が恐る恐る隣に彼を座らせると、老人は搾り出すように礼を述べた。
 白の顎髭を蓄えた、絵に描いたような御老人。眉毛も彼の視界を覆うように生え切り、これも律義に全て白髪と化している。
 しかし僕は、加齢に依るそれとは違う“窶れ”を感じていた。
「いえ……あの、大丈夫ですか?」
「うむ、大事無い。それより、花束を守ってくれて有難うな」
「大切な人への贈り物ですか?」
「ああ……とても大切な人にな」
 老人は言いながら、儚げに微笑んだ。僕にはその意味を勘ぐることは出来なかったが、老人は自ら静かに語り始めた。
「婆さんが病室で待っておる。もう目も開かず、口も利けんが……それでも、な」
「危険な状態なんですか……」
「なぁに、婆さんの事じゃ。そこまで心配はしておらんよ」
 老人は「だからお主も心配するな」と、呵々大笑を上げた。僕の背中が真赤な熱を帯びたのは、その時に老人から痛い程背中をばしばしと叩かれたからだ。
「明日には笑って……儂を蹴飛ばしてくるじゃろう。こんな気障な真似して、とな……」
 尻窄んでいく老人の語気。空白の砌の中、徐々に鼓膜に響く走行音が強くなっていく。
「分かっておった……婆さんは、昔から身体が弱かった。寧ろ、よくここまで……」
 ただ、何も言えなかった。僕の思考は真っ白に染まり、そして彼の言葉だけがぐるぐると渦を巻く。僕は老人の表情も直視出来ず、真一文字に結ばれた彼の口元だけをちらりと見遣り……それを避けるように、すぐ視線を自身の膝元へ落とした。
 心配していない訳が無い。悲観をしていない訳が無い。だが回復を待つ側が為せるのは、希望を捨てない事。それは、分かっている筈なのに――
「そうじゃ……そうに違いない……」
 ぴたりと、電車が何事も無かったようにその駅に止まる。
 また儂を蹴飛ばしてくる。こんな気障な真似をしてと言いながら。
 老人はそう呪文の如く呟き続けながら、徐に席を立った。
 彼の持つ花束の花弁達が、緩やかに舞う。それは老人の轍を踏んでいくように、ゆっくりと、一枚ずつ……通路に横たわっていった。

 ◇ ◇ ◇

 電車の発進を告げる緩やかな走行音を背に受け、僕の衣服が強く靡いた。僕は終点へ急ぐ電車を見送り、駅名を掲げる煤けた看板に目を映した。
 閑散とした無人駅。僻地が続くこの一帯でも、特に乗客から見放された寂しい駅。耳朶を騒がせるのは精々蝉の大合唱と、背後を過ぎ去る走行音。だがこの駅を通る電車の本数も、一日で指折り数えられる程度だ。
 少し歩を進めると、砂利が転がる音が蝉の合唱に混じる。一昨年から掃除すら満足に為されていない事を物語るそれに、僕は思わず微苦笑を漏らす。確かに乗客が降りる事など滅多に無い駅だが――この体たらくも人が降りない原因とは、ひしひしと感じた。
「お兄ちゃん!」
 突如、鈴の鳴るような声が響いてくる。ホームの向こう側、麦わら帽子を深く被った彼女が、さも元気そうに手を振っていた。……いや、振り回していた。
 何故――とは思ったが、やはり快活な彼女の様を見ると胸の痞えが下りる自分が居た。その姿に、一昨年の夏に駆け抜けたあの向日葵畑が、まるで昨日の事の如く思い出される。向日葵の大群の隙間を走り抜ける……たったそれだけなのに、僕にとってそれは幸福の二文字をありありと示す記憶だ。きっと、それだけ小夏との夏は僕にとって――。
 ――と、物思いに耽っている間にも、小夏はレールを飛び越してこちらに駆け寄ってきていた。
「お兄ちゃん、いらっしゃい!」
「小夏……どうして?」
 僕に触れられる位置まで辿り着いたかと思うと、即座に僕の腕へ抱き付く小夏。微塵も変わらない人懐っこさに、僕は我知らず彼女の頭をぐしゃぐしゃと撫で回した。
「電話があったの。お兄ちゃんがもうすぐ来るって!」
 その言葉に、僕は思わず苦笑を噛み殺した。
 そんなお節介を焼くのは、恐らく僕の母親を除いて誰一人居ないだろう。
「そっか……待たせてごめんな。それじゃ、行こうか」
「うん!」
 向かう先は勿論、あの向日葵畑。僕と小夏の想い出の場所だ。
 駅から向日葵畑まで、そう距離は無い。この緑生い茂る山道を抜ければ、眼前には目一杯の黄色だ。
 僕と小夏が再会し、そして一番最初に共に過ごす場所。僕と小夏を見守っていたのは、いつもあの向日葵達だった。それを誰よりも知る小夏は、急く感情を隠そうともしない。僕の手を引っ張って、滴る汗を拭いながら――満開の向日葵畑へと突き進んでいく。
 僕はこの光景を知っている。ずっとずっと、幼い頃から。純白のワンピースを泥だらけにしながら、彼女は僕の手を引く。そして僕は辿り着いた。彼女の笑顔の先にその場所があったから……僕もその場所が、大好きになった。
「はい……到着」
 山道の新緑など嘘のような、眩い程の黄色の行列。綺麗に咲き誇る向日葵達が僕を歓迎してくれた。
 天道に照らされた、煌びやかな向日葵。申し訳程度のそよ風を受けて微かに揺れ……それは何故か、僕に挨拶をしているように見えた。
「今年も沢山咲いたな」
「うん、向日葵さんもお兄ちゃんを待ってたんだよ!」
 どこまでも広がる向日葵畑――それが、彼女の夢だった。
 咲き誇る向日葵畑を駆け回るのが、彼女の夢だった。
 だから、ずっとこの場所に向日葵畑があるのは――
「さぁ、走ろう!」
 その台詞が、僕らが駆け出す合図だった。
 僕らの追いかけっこが始まる。
 僕らだけの、追いかけっこが始まる。
 どこまでもどこまでも、あの男の子と女の子のように。



「あーつーいー」
 嫌と言う程走り疲れた僕らは、猛暑を避けるように彼女の家へ転がり込んだ。
 山奥にひっそりと佇む、小奇麗なコテージ。寂れた無人駅からは到底想像出来ない、管理に行き届いた本格的な木造家屋。無論空調設備も整っており、僕がお邪魔する頃には既に冷房はガンガンに効いていた。本来は別荘として機能させる筈だったらしいが、今や小夏お気に入りの本邸と化している。
「ぷはーっ」
 小夏は瞬く間にキンキンに冷えた麦茶を飲み干すと、ソファーにぐでーっと倒れ込む。テーブルに置かれた、氷の塊だけが残るコップ。今し方までそこに麦茶が入っていた事実に疑念が生じるまでの、凄まじい迅速振りだった。
「小夏、お母さんは?」
「うん……病院に行ってる」
「そっか……」
「でも嬉しいの。今日は、お兄ちゃんと二人きりだから」
 小夏は先までのお疲れモードは何だったのか、突然僕に飛び付いてにんまりとしたり顔を浮かべる。 
 小夏も色気付いたか、いつの間にやら可愛い事を言うようになった。……寧ろ、誘惑なのだろうかこれは。
「良い子だな、小夏は」
 彼女の頭を優しく撫でると、小夏はえへへと朗らかに微笑んだ。
 混り気の無い、黒無垢の髪。撫でたそこからふわりと柔らかな香りが醸されるが、彼女は香水を振り撒ける程大人びてはいない。意識もせずに使ったであろう、洗髪剤の匂いだ。
 それに感化されたか、しなやかで細身の彼女の髪を僕は導かれるように何度も撫でる。小夏は僕に肩を預け、気持ち良さそうに目を閉じる。――冷房に冷やされた彼女の汗水が、僕の掌にまで伝わってきた。
『だから今、私はとても幸せ……』
 ふと、女性の台詞が頭を過った。
 誰の声だろう。だけど、誰も答えない。
 それでも、僕の脳裏でその台詞を返す声が聞こえた。
 “……本当に、そうだろうか。”
「――お兄ちゃん?」
「あ……いや、何でもない」
 何を疑う事があるのだろうか。
 今の僕は、こんなにも幸せなのに。
 何を、疑う事があるのだろうか。



「ここから見る向日葵も綺麗だな」
 小夏の私室に案内されて、僕はそう第一声を紡いだ。
 大きな窓だ。ベッドで寝転がりながらでも、外の絶景――それは勿論、向日葵畑の事だ――を一望出来る作りになっている。壁を貫く気勢で木霊する蝉の鳴き声や、柔らかに差し込む日輪の光が夏を演出している。……昨今は柔らかと言うには語弊がある、余りにも強過ぎる陽光ではあるが。
「うん。……でもね、もう見飽きちゃった」
 小夏はベッドに腰掛けながら、拗ねたような声を出す。
「ここから一人で見る景色は……もう良いの」
 小夏の儚げな眼差しが、窓外に広がる向日葵畑を捉えていた。笑顔が駆け回っていたあの時間が、彼方に霞んでいく。同じ景色を見ている筈なのに、何故小夏はこんな哀しい表情をするのだろう。
「だからこれからは、お兄ちゃんと一緒の思い出を作りたい」
「小夏……」
 胸が疼いた。抑えていた記憶が、僕を嘲笑うように蘇る。
 何故小夏は、この景色に飽きたのか――。
 大好きな向日葵の景色に、何故飽きてしまったのか――。
 ずっと“独り”だったのは、何故なのか――。
 瞳を閉じるとそこには、昼にも関わらずベッドに入った小夏が……儚げな表情で向日葵畑を見つめていた。
「お兄ちゃん……?」
 小夏の、驚いたような声。
 僕は覚えず、小夏を抱き締めていた。強く――二度と離さないように。
 身体が勝手に動いて、歯止めが利かなかった。そうしなければ、彼女がどこかへすり抜けてしまう気がして。
「お兄ちゃん……わたしね、お兄ちゃんが好きだよ」
「小夏……小夏、僕も――っ!」
 小夏の顔が、望遠鏡を覗くように大きく見えた。口元が暖かく包まれ、僕は二の句を告げる事が出来ない。
 小夏が……小夏が、僕の口を塞いだ。
「私の、初めてだよ」
 徐に僕から離れると、小夏はそう言ってむず痒そうに微笑んだ。
 僕は爆発しそうな感情の中で、上手く言葉を紡ぐことが出来ない。ただ僕は、もう一度抱き締める。好きだ、好きだと、まっさらな彼女への思いを打ち明けながら。
「ねぇ……お兄ちゃん。わたし、お兄ちゃんと一緒になりたい……」
「え……?」
 少し距離を置いて、僕は彼女の表情を――瞳を確かめた。それは、冗談を言っているような眼差しには……到底見えなかった。
 僕は小夏が好きだ。出来れば、ずっと一緒に居たい。これまで一緒に居られなかったあの時間を、取り戻す為に――。
「ずっとずっと……悩んでた。わたしの幸せの為だけに、お兄ちゃんを巻き込んで良いのかって……でも、わたしは……!!」
 小夏は僕へ倒れ込むように、胸の中に飛び込んで来る。
 彼女の嗚咽が――僕の鼓膜へ突き刺さる。何度も何度も肩を震わせながら、彼女の思いが洪水の如く流れ出す。
 去年の夏、彼女が僕に手紙を送らなかった理由。何故今頃になって気付いてしまったのだろう。彼女は悩んでいた。そして、耐えていた。それでも、彼女の願いは――。
「お兄ちゃん、私をお嫁さんにして……?」
「だけど、小夏……」
「……嫌、だよね、やっぱり。ごめんなさい、忘れて……」
「嫌なもんかっ!!」
「お兄……ちゃん……」
 僕は再び彼女を抱き締めていた。一度でも躊躇してしまった自分を、許せなかった。
 嫌なんかじゃない。彼女の一番大切な人に、僕なんかがなって良いのかって――。
 ……そうじゃないのかも知れない。僕自身が、彼女を受け止め切れるのか、分からなくて――。

 人生の中で最も強く耳朶に響いた、ベッドの軋み。無造作にベッドに横たわった彼女を僕は直視出来ず、脂汗ばかり垂らして目を泳がせた。
 勢いに任せて押し倒してしまったが……次の行為など思考に入れて行動出来ている訳も無い。ただ挙動不審の極みを晒すばかりで、僕は顔から火を噴き出させるしかない。
 一方で――耳たぶまで顔中真赤になり、可愛らしく紅葉を散らした小夏。だが寝転がった反動でワンピースがはだけ、僕は目のやり場を失ってしまう。
 小夏は幼馴染として……妹のような存在と認識していた。なのにこんなに綺麗で……艶っぽい、なんて――。
「ご、ごめん……どうすればいいか、分かんなくて……」
「わ、わたしも、分かんない……から……」
 僕は不甲斐無さに苛まれ、この場から脱兎の如く逃げ出したい衝動に駆られてしまう。
 無邪気で竹をかち割った性格の小夏が、今は硝子の様に繊細だ。僕はそんな小夏を壊してしまうのではないか――。
「だい、じょうぶ……」
 か細い声が、それでも確かに強く響いた。
「小夏は……小夏は、お兄ちゃんの、もの……だから……」
 誘われるようにゆっくりと、その花唇に自分の唇を押し当てた。
 僕から始めた、初めての口付け。目を瞑る小夏が肉薄し、小夏の匂いが僕の顔面を包み込み……とにかく、脳が破裂でもしそうだった。思考が滅茶苦茶になって、挙句熱暴走を起こすのではという危惧さえある。
 だけど、戸惑っているのは僕だけじゃない。小夏も視線をどこに置けば良いか分からず、戸惑いという戸惑いを隠し切れない。
 ……恥ずかしいけど、それ以上に物凄い破壊力だ、キス……。
「……良いの? 僕で」
「お兄ちゃんが、良い……」
 僕らは思わず笑い合う。想い合っていたのに嫌になる程擦れ違い続けて、なのに簡単にキスまでして、何だか可笑しかった。
 緊張が解れた僕は、意を決して彼女の胸へ服越しに優しく指を滑らせる。申し訳程度の二つの小さな膨らみ。お世辞にも、大きいとは言えない。だけどそれは柔らかで、僕は指頭で何度も軽く突いた。
「あっ……」
 小夏の肩が強張る。それでも、僕は彼女を弄る手を止めることが出来ない。小夏は悩ましげに視線を逸らし、何をされるか分からない恐怖と闘っているようだった。
「ん……っ」
「怖い?」
「……ううん、ちょっと……びっくりしただけ」
 小夏は既に、覚悟を決めているようだった。
 彼女は僕と関係を断つ事も考えた。僕を巻き込んでしまう事を悩み、恐れ……去年は手紙を出さなかった。仮に彼女に僕へ連絡出来ない理由が出来たとしても、それは母親から告げられている筈の事だった。
「お兄ちゃん……去年は、ごめんなさい。わたし、お兄ちゃんとこうなることが夢だったけれど……」
「もう良い……小夏の事、何も言わなくても分かるよ」
 小夏は目尻に綺麗な涙を溜めて、笑顔を見せた。それはきっと、哀しみの涙ではないのだと思う。
 僕は彼女を慰めるように、もう一度その可憐な唇を塞いだ。
「はぅ……っ!」
 僕は服に腕を潜り込ませ、直接彼女の胸を愉しむ。小突起は既に固く尖り、僕は彼女の反応を見ながらそれを転がしていく。
「ひぃ……ぁ、あぅっ……」
 一度箍が外れた僕の欲情は、留まる事を知らなかった。これ程の内に劣情が眠っていたか恐ろしくなったが、僕の理性は確然と彼女を見据えている。自身を想い続けてくれた小夏を、僕は絶対に傷付けない。
 だが小夏は膨れ上がるどんな感情より、押し寄せる羞恥の波で一杯になっていた。怯んだ小動物のように縮こまり、一心に僕の愛撫に耐えている。
「わたしのおっぱい、小さくてごめんね……」
 小夏の癖に、身体の事で悩んでいたか。一丁前の色気に意地悪したくなり、僕は小さく微笑むだけでワンピースを捲り上げる。
 可愛らしい桃色の突起。僕は小夏が顔を覆って羞恥に耐える仕草など見ない振りし、誘われるまま強く吸い上げる。
「はぐぅぅうう……!」
 僕は興奮が抑え切れず、彼女の股間を下着越しに弄り始める。小夏の喘ぎが一層強くなったが、僕はその手を止めるつもりは無い。
「い、いやっ、お兄ちゃ……っ!」
 彼女の両の恥部を同時に弄られ、覚えず僕の頭に手を乗せる。だがそれは離れて欲しいという意思表示と言うには、余りに小さな力だった。
「はぁ……んぁっ、お兄……ちゃん……ふぁあっ!」
 僕の気が済むまで愛撫すると、小夏は頬を紅潮させながら荒い吐息を漏らす。それが妙に艶めかしくて、僕は急く思いを抑えられないまま彼女の下着に手を掛ける。
 男とは情けないものだ。小夏の恥ずかしい部分をもっと見たくて、既に僕はただその衝動だけに突き動かされていた。
「小夏……っ、小夏のここ、見たい……」
「……良いよ、お兄ちゃんなら……」
 小夏は観念したように言うと、自ら腰を浮かせて脱衣を手伝う。そして軽く股を開き、彼女の処女を表す聖域が露となっていった。
 割れ目と言うに相応しいあどけない陰部。陰毛は生え揃っておらず、気持ち程度の産毛が意地らしく散らされているのみだ。
「恥ずかしい……お兄ちゃん……」
「小夏、凄く綺麗だ……」
 その言葉を聞いて、小夏は赤面を隠すようにまた掌で顔を覆う。僕はそれを余所にその膨らみに手を掛け、膣孔が見えるように容赦無く拡げていく。陰核、陰唇、尿道口、膣孔――その全てを、舐めるように観察する。
「お兄ちゃんの、変態……」
「小夏が好きだから、見たいんだよ」
「んひゃぁっ!?」
 僕は彼女の股間に顔を埋め、欲望を吐き出すように恥部を舐め回す。傍から見ればそれはまさしく野獣の如くだろうが、姿形に気を遣える程僕は冷静ではなかった。
「そんな……んはぁっ、そんなとこ汚いよぉ……っ!」
 小夏の言葉には応えず、僕は無言を貫いて舌を蠢かせていく。態度とは裏腹に膣孔からは徐々に愛液が漏れ出し、僕はそれを舐め取る事に執心する。
 小夏に汚い場所なんてあるもんか。そう、態度で表現したつもりだ。
「あっ……あっ、あぁぁっ……んぁああっ――!」
 僕は乳首にも手を伸ばし、彼女の興奮を促していく。小夏は頻りに身体をびくびくと震わせ、絶頂の階段を駆け上がっているようだった。
 ――曲がり形にも、アダルトビデオで学習していて良かったと素直に思う。
「お兄ちゃ……んっ、わ、わたし……何か、変、だよぉ……!」
 小夏は身体を駆け抜ける奇妙な感覚を、どのように感じているだろう。小夏が自慰の経験も無く、絶頂や快楽を感じる事すら未経験だとしたら……恐らく変と表現するには小さ過ぎる。それでも僕は小夏に快感に溺れているのが嬉しくて、懸命にしたと指とを動かし続けた。
「なにか……出……っ、んぐぅぅうううううっ!!」
 小夏は声を噛み殺しながら、一際大きく体を痙攣させ――虚空を見つめながら絶頂に達した。……と、思う。
 仮にそうだとして、小夏を絶頂させたという事実は僕に不可思議なまでの幸福感を齎した。――どちらかと言うと、これは征服感と言うのだろうか。
「じゃあ、挿れるよ。小夏」
「……うん」
 普段の彼女からは想像出来ないくらい乱れ、艶めかしい溜息をつく小夏。勿論、彼女のそんな痴態に逸物が怒張していない訳が無い。
 僕は彼女を思いに応える為、恥を忍びながら逸物を取り出す。だが同時に……僕はこの行為の意味を今一度脳裏に蘇らせた。
 この先の扉を開いてしまえば、僕な二度として引き返せない。それは許されない裏切りの行為だから。だから全てを……受け入れなければならない。
 彼女と――彼女の運命も、全て。
「うぅ……うぐ……、うぇえ……っ!」
「小夏……?」
 小夏が、泣いていた。
 常に笑顔の似合う小夏。太陽の様に微笑む朗らかな小夏。それが宛も赤ん坊の様に、わんわんと泣きじゃくっていた。
「お兄ちゃん……わがまま言ってごめんなさい、わたし……っ」
 それが痛みや羞恥で湧き起こる感情でない事は、即座に解った。
 小夏も感付いてしまったんだ。僕の愚かしくも僅かな躊躇に。小夏の小さな向日葵を手にした瞬間から、僕にも覚悟はあった筈なのに――。
「わがままじゃない……僕も、小夏が好きだ」
 僕は心中で小夏に謝りながら、指頭で彼女の涙を拭き取った。そして求められるが儘に、僕らは再び口付けを交わす。
 僕はまた自惚れていた。一番苦しんでいるのは誰だ。一番悩んでいるのは誰だ。その為に僕は彼女を受け入れ、彼女も僕を受け入れるのに。
「小夏、もう……迷わないから」
 そう優しく微笑むと、小夏もにっこりと笑った。
 これは小夏の願いであり――僕の願いだ。
「くぅ……あぁっ――……っ!」
 めりめりと、痛々しい音が響いてきそうだ。僕の亀頭は無慈悲に彼女の膣を押し広げ、目的を果たす為我が物顔で侵入していく。
 何故憐みの感情が生まれるのか――。行動を起こしているのは僕なのに、逸物と僕の感情が切り離されてしまったようだった。
「そのまま……奥、までぇ……!」
 小夏は僕が行為をやめると言い出す前に、僕の身体をがっちりと抱いて離さない。
 これが小夏の決意だった。彼女の罪の意識は、その痛みすら物ともさせていないのかも知れない。
「入っ……た……」
 不得要領というものだ。根元まで逸物は突き刺さったが、それも遮二無二。性交という行為がこれで正しいのかすら判断出来ない。
 ただ明瞭に感じるのは、蠢く彼女の膣壁が僕の逸物……異物を押し出そうとしているという事実だけだ。
「大丈夫、小夏……?」
「平気……だからっ……!」
「小夏……」
 眉間に皺寄せ、甲斐甲斐しい言葉を口にする小夏。しかし耐え難い激痛のうねりは、確実に小夏へ牙を剥く。
 結合部から垂れ流れる彼女の無垢を表した破瓜血。小夏ほど目鼻立ちが整った女の子なら、きっと僕より頼り甲斐があって、彼女に相応しい男性が迎えに来る。けれど彼女の純潔は僕に穢され――二度と戻る事は無い。
「お願いっ! ……絶対、抜いたりしないで。小夏は、お兄ちゃんの、お嫁さんになるん……だからぁ……っ!!」
 紅涙を散らして叫ぶ小夏。彼女の覚悟を悟った僕は無言で腰を引き、そしてまた打ち付ける。
 小夏は嗚咽を抑えながら、必死に異物感を堪えていた。ただ僕の為に。僕のお嫁さんになる為に。小夏は健気に、全てを受け入れようとしている。
「はぁ……く……ぁ……!!」
 ただ小夏が愛おしくて、僕の欲情は暴走を開始する。
 狂ったように腰を打ち付け、小夏の悲鳴にも似た喘ぎすら糧に抽送を激しくしていく。訳の分からず本能に身を任せ、彼女の秘部を無情に壊していく。
「くぁっ……んぁっ、嬉しいよぉ……お兄ちゃん……っ! もっと、もっとぉ……!!」
 小夏の疼痛が、簡単に快感に変わる筈も無い。
 小夏は嘘をついている。一度も僕に嘘をついたことが無い小夏が、嘘をついている。僕はまた深く彼女を抱き締めて、言葉は紡がぬままその想いに応える事しか出来なかった。
「んぁあっ、はぁっ……うぅっ、あぅ……っ!」
 小夏の小さな爪が、僕の背中に突き立てられる。だがその程度、痒みとすら思わなかった。
 出来るならば、時が許すまで小夏と繋がって居たい。好きだと叫んでも、口付けを交わしても――僕の想いなんて伝え切れていない。僕は小夏をこんなにも愛しているのに、どうしてそれを表現する手段はこの世に存在しないんだろう。
「お兄ちゃん……お兄ちゃんっ……、わたし……わた、しぃっ……!!」
 だが不甲斐無くも、僕の限界は近かった。初めての性交に、僕の逸物も射精感を留める事が出来ない。それはきっと、その相手が僕の想い人だから。
「小夏……っ、もうっ……!!」
「お兄ちゃん、良いよ……お願い、お兄ちゃん……!!」
 何度も僕を呼び続ける小夏。僕は彼女を懸命に抱き締めながら、精を放つ為に一層腰を振り乱す。
 僕の視界には小夏しか見えなくて。僕の世界には小夏しか存在しなくて。僕の人生には、小夏しか必要なくて。
「ひぁぁあああああああっ!!」
 部屋に木霊した嬌声の中、僕は堰を切ったように溢れ出す欲望を吐き出していった。震える小夏の身体を抱えながら、最後の一滴までを彼女の子宮へ注ぎ込む。
 もう、躊躇は無い。これが僕の覚悟の証だった。それに途中で抜くなんて、きっと小夏が許してくれる筈も無い。
「はぁ……っ、はぁあ……」
 僕は小夏の傍に倒れ込み、ベッドへ身体を預ける。
 疲れた――満身創痍だ。身体中が脂汗と冷や汗とで塗り固められ、濡れていない箇所など無いのではと思った。それでも僕の身体を巡っていたのは、迸る勢いの充足感ばかりだった。
 やっと小夏を手に入れたと……そう思った。
「ありがとう……お兄ちゃん」
 耳元で囁かれる、小夏の可愛らしい鈴の鳴る声。見れば小夏はこちらに向き直り、満面の笑みを僕に贈ってくれていた。
 なんて幸せそうな笑顔なんだろう。人が見せる事の出来る、最高の喜色満面。
 そうだ……僕は、この笑顔を見た事がある――。
「わたし、とっても幸せだよ……」
『だから今、私はとても幸せ……』

 僕は守らなければならない。
 守り通さなければならない。愛する人を、最後まで。

 ◇ ◇ ◇

 斜陽の煌めく夕暮れ時。向日葵畑の黄色が、段々と橙色に染まっていく。
 僕は海原を一望出来る丘から地平線を眺めていた。――無論、小夏も一緒だ。
 神妙な面持ちで、表情を変える地平線に目を映す小夏。割り切れない葛藤と後悔が、まだその表情で物語られているように思えた。
 大丈夫。僕の中で、誰かが語気を強める。大丈夫。もう一度。大丈夫。
「大丈夫」
 その言葉を紡いだのは、小夏だった。見る物を癒す優しい微笑を浮かべながら、小さく首を傾ける。
「お兄ちゃんと、一緒だもんね」
 小夏の温もり。繋ぎ合わせた掌で感じられる、彼女の生の証。
 僕はこの夕陽が地平線へ沈む度、この温もりを確かめなければならない。彼女の思い出に、僕を刻まなければならない。――いや、そうじゃないんだ。僕も彼女の中に僕が在って欲しいと、願っているんだ。
 例えどんな困難が待ち受けていようと、僕が彼女の人生行路を歩く脚となる。ずっとずっと、僕という脚が壊れるまで。
『そうじゃ……そうに違いない……』
 突如、脳裏から浮き彫りとなる老人の声。
 それでも僕は、首を大きく横に振ってそれを振り払った。
「小夏、ずっと……大切にするから」
「うん」
 格好良い台詞を並べても、まるで自身に言い諭しているような言葉に思えた。
 不安が無いなんて、そんな虚勢を張ったって小夏は感付いてしまう。不安で良いんだ。不安だからこそ、僕らは同じ道を選んだんだ。
「小夏と会えなかった時期も……全部これから埋めるから」
「うん……」
 小夏が孤独を過ごした時期が再び彼女を蝕んだとしても、次は必ず僕が傍に居る。もう二度と、彼女に孤独など感じさせはしない。彼女の記憶の中に僕が在って、その僕と手を繋いでいる小夏が――笑っていられるように。
「ねぇ、お兄ちゃん……」
「また……次の夏も、一緒に向日葵畑見てくれる……?」
「ああ。……約束だ」
 約束。僕らはそう、指切りした。
 微笑む小夏。彼女を揺れ動かしていた憂慮は弾け飛び、僕はそっと小夏を抱き寄せる。小夏もまた僕に擦り寄り、彼女の眼差しは暮れ往く地平線へと向かう。
 地平線を見据える彼女の瞳は、強い意志の宿ったそれだった。

 僕は彼女を護りながら、ふとポケットに入れていた彼女の小さな向日葵を見る。
 彼女が手紙と共にくれた向日葵。僕と小夏を、再び巡り逢わせてくれた向日葵。
 それは夕闇の風に揺られ、向日葵の花弁はまた一枚――儚く散ったのだった。

2012年 8月 03日

瓦落多